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小 樽 経 済 史 一 明 治 時代 一

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一 明 治 時代 一

倉 田 稔

は じめ

1明 治維 新 まで 2明 治 時代

1明 治前 半 2明 治後 半

本 書 は,小 樽1)経 済 史 で あ る 。 も ち ろ ん,経 済 は 他 の側 面 と絡 み合 う の で, 社 会,政 治,文 化 に も触 れ る こ とに な る。

1明 治維 新 ま で

太 古,小 樽 は 海 底 に あ っ た。 昔 は ア イ ヌ 入 だ け の土 地 だ っ た。

1600年 こ ろ,福 山 の 人,八 木 勘 右 衛 門が 漁 業(鯨 漁)に き た。1660年 こ ろ, 西 川 伝 右 衛 門 が 高 島 ・祝 津 を 開 い た1a)。夏 に福 山=松 前 か ら船 で 和 人 が や っ て

きて,ア イ ヌ と交 易 し,帰 っ て い っ た 。

1)小 樽 の 人 はOtaruのtaに ア ク セ ン トを つ け る 。 1a)須 藤 正 敏 『ヲ シ ョ ロ 場 所 を め ぐる 人 々 』 静 山社 。

〔17〕

(2)

小 樽 の ア イ ヌ 人 は シ ャ ク シ ャ イ ンの 乱(1669年)2)に 呼 応 した 。18世紀 初 め に, 氏 家 が場 所(=藩 に よ る交 易 所)の 持 主 だ っ た 時,オ タル ナ イ の ア イ ヌ 人 が 乱

をお こ し た。

小 樽 は 北 前 船 の 寄 港 地 で もあ っ た 。 ロ シ ァ の 軍 艦 が 来 て小 樽 を調 査 した 。 18世 紀 初 め,近 江 商 人 が 場 所(=漁 場)を 持 ち,ア イ ヌ 人 に漁 を させ た 。1710 年 こ ろ,岡 田弥 三右 衛 門が オ タ ル ナ イ を開 い た 。 場 所 請 負 人 は,岡 田 弥 三 右 衛 門,高 島 は西 川 伝 右 衛 門 で あ っ た。 小 樽 は氏 家,高 島 は蠣 崎 が 運 上 金 で 生 活 し た 。

18世 紀 な か ご ろ,鯨 小 屋 が2,3百 戸 建 っ た 。2000人 の 人 が 浜 を糧 と した 。 二 八 倉 が 建 っ た。 二 割 を運 上 屋 が 取 っ た か ら,そ う言 うの で あ る。

1807(文 化4)年,近 藤 重 蔵 が 小 樽 地 方 を調 査 した 。1808年,井 上 貫 流 が 高 島 を ま も っ た 。 手 宮 へ 道 路 が 開 い た。19世 紀 初 め,高 島 に ア イ ヌ人 が380人 住 ん で い た 。 明 治 の初 め に も市 内 に ア イ ヌ 人 は30人 ほ ど住 ん で い た。

明 治 維 新 が1868年 に行 な わ れ るが,そ れ ま で北 海 道 は,松 前 藩 が 江 戸 幕 府 の 命 を受 け て 北 海 道 を支 配 して い た。そ こ は,蝦 夷,つ ま り ア イ ヌ の 国 で あ っ た 。 小 樽 は,オ タ ル ナ イ(砂 と川)と い うア イ ヌ語 に 由 来 す る 。 現 市 内 の稲 穂(イ ナ ウ),色 内(イ ル オ ナ イ),手 宮(テ ン ム ンヤ),高 島(タ カ シ ュ マ)な ど の 地 名 も,ア イ ヌ語 か ら来 た。

幕 府 は1865(慶 応 元)年 に,オ タ ル ナ イ 場 所 を村 並 に した 。 市 街 地 が で きは じめ,「穂 足 内村 」に な っ た 。山 田兵 衛 が 名 主 に 選 ば れ た 。同年,小 樽 大 火 が あ っ た 。 小 樽 の 港 は南 東 を向 い て い る。 幕 府 の 役 所 が オ タ ル ナ イ役 所 と して お か れ た 。 明 治 元 年 に は そ の 焼 打 ち事 件 が 起 きて い る3)。 オ タ ル ナ イ騒 動 で あ る。

19世 紀 末 に,ヨ ー ロ ッパ 列 強 は帝 国 主 義 政 策 を と り,世 界 を植 民 地 化 して い た 。 イ ギ リス と フ ラ ンス は,日 本 に影 響 力 を持 と う と して画 策 し て い た 。 フ ラ ンス は ナ ポ レ オ ン3世 の 時 代 で あ り,イ ギ リス は ヴ ィ ク トリア 女 王 とそ の 自 由

2)奥 山 亮 『補 稿 ア イ ヌ 衰 亡 史 』 み や ま書 房1979年

3)長 谷 川 伸 三 「明 治 維 新 と小 樽 内 騒 動 」(『北 海 道 の研 究 』 第4巻 清 文 堂 昭 和57 年)。

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貿 易 的 帝 国主 義 の 時 代 で あ っ た。 イ ギ リス は 中 国 支 配 が 急 務 で あ っ て,日 本 を 帝 国 主 義 支 配 す る余 裕 が ま だ な か っ た 。ア メ リ カ は,日 本 を開 国 させ た 国 だ が, イ ギ リス ほ ど まだ 支 配 意欲 が な か っ た 。 ヨー ロ ッパ 資 本 主 義 諸 国 は,中 国,日 本,朝 鮮 を,資 本 主 義 の市 場 に し よ う と して い た 。こ の 旧 帝 国 主 義 的 進 出 に よ っ て,ヨ ー ロ ッパ に は ブ ル ジ ョア ジ ー が 成 長 した 。

1796年 に,ブ ロー トン指 揮 の 英 船 が 虻 田(北 海 道)に 来 た 。1837年 に,ア メ リ カ船 モ リ ソ ン号 が 日本 人 漂 流 民 を乗 せ,通 商 を も と め て 浦 賀 に入 港 し た。 だ が,幕 府 は これ を 追 い 返 した 。1840年 に は,オ ラ ン ダ 国 王 が 開 国 を薦 め た し, フ ラ ン ス の 軍 艦 が琉 球 に きた 。1845年 に は イ ギ リス の 軍 艦 が 長 崎 に,1846年 ア メ リ カ の 軍 艦 が 浦 賀 に きた 。 これ 以 来,英,仏,米,露 の 軍 艦 が,頻 繁 にや っ て きた 。

琉 球 に寄 っ た ペ リー が,1853年 に浦 賀 に来 て,翌1854年 に 日米 和 親 条 約 を結 ん だ 。そ の 内容 の 一 つ は,下 田 と函(箱)館 の 開港 で あ っ た 。そ の 後,英 ・仏 ・ 蘭 ・露 の諸 国 も 同様 の 条 約 を 結 ん だ。1858年 に は 日本 は,ア メ リ カ と 日米 修 好 通 商 条 約 を,そ して そ の後,英 ・仏 ・蘭 ・露 と も同 様 の不 平 等 条 約 を結 ん だ4)。

ヨー ロ ッパ で は,ド イ ツが フ ラ ンス に勝 ち,ド イ ツ帝 国が 成 立 し,1871年 に歴 史 初 め て の ドイ ツ 統 一 国 家 が で きた 。 オ ー ス トリ ア=ハ ン ガ リー 帝 国 と と も

に,こ れ ら中 進 国 は,帝 国主 義 的 進 出 は まだ で きな か っ た。

徳 川 幕 府 は 国 内 を 治 め る こ との み を考 え,世 界 の 中 で 日本 を どの よ う にす る か を考 え て い な か っ た 。 そ こ で ア メ リ カ の 黒 船 の 来 航 に よ っ て,幕 府 は虚 をつ か れ た の だ っ た 。そ の 後,徳 川 幕 府 は もろ くも壊 れ る 。一 方,天 皇,公 家 側 は, 徳 川 幕 府 以 上 に 政 治 や 世 界 を知 らな か っ た 。 老 中 阿 部 正 広 が 国事 を天 皇 に 聞 い た こ とが,天 皇 制 の 登 場 に道 を 開 い た 。

弘 化4(1847)年 に,南 部 藩(岩 手 県)で 百 姓 一 揆 が 起 き た 。 安 家 村 の俊 作 (1810‑1873)は そ の 時 の指 導 者 の1人 で あ る。彼 は,同 志 と と もに 流 罪 に な っ た 。 つ い で 嘉 永6(1853)年,近 世 百 姓 一i揆史 上 最 大 の 闘 い とさ れ る南 部 二 閉

4)『 日本 歴 史 』 中,新 日本 出 版 社 。

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伊(に へ い)一 揆 で,俊 作 は 釈 放 され た 。 彼 の 方 針 で こ れ らの 一揆 が 闘 わ れ た の で あ っ た 。 そ の後,俊 作 は 北 海 道 に 渡 り,役 人 と して函 館 戦 争 に従 軍 し,戦 後,開 拓 に従 事 した 。 そ して 姓 を菊 池 と し,小 樽 に住 み,死 ん だ 。 龍 徳 寺(真 栄1丁 目)に 葬 られ た5)。

2明 治 時 代

1明 治 前 半

明 治 維 新 は,主 に 南 西 日本 の 下 級 武 士 団 の 反 乱 で あ っ た。 これ は ブ ル ジ ョア 民 主 主 義 革 命 を考 え て い な か っ た 。 日本 に は政 治 的 市 民 は育 っ て い な か った 。

そ し て天 皇 制 が 復 活 した 。

1868年 の 明 治 維 新 の年 に,榎 本 武 楊6)ら 旧幕 脱 走 軍 が,蝦 夷 島(=北 海 道) を 占拠 した 。 榎 本 隊 は,函 館 で,ほ ん の 短 い 間,日 本 最 初 の 共和 国 を作 っ た 。 入 札(つ ま り投 票)で 指 導 者 を選 ん だ の で あ る。 榎 本 は オ ラ ン ダ留 学 で 選 挙 を 知 っ て い た 。1869年,明 治 維 新 の 翌 年5月 に,榎 本 軍 は 降伏 した 。 こ う して 北 海 道 で は 明 治 維 新 は遅 れ た。

明 治 元(1868)年 の 箱 館 戦 争 で,旧 幕 府 敗 走 軍 の 彰 義 隊 士 らが 小 樽 に 来 て, 本 陣 を龍 徳 寺 に,ま た 正 法 寺 に も分 屯 した 。 彼 らは 翌 明 治2(1869)年 に 降 伏

した 。 新 撰 組 の 永 倉 新 八 は,明 治10(1877)年 こ ろ小 樽 に来 て,名 を変 え,明 治15(1882)年 か ら小 樽 を離 れ,32(1899)年 に小 樽 に戻 り,大 正4(1915) 年 に死 ん だ 。

明 治 維 新 で,蝦 夷 地 改 め 北 海 道 と な っ た 。 北 海 道 は 政 府 直 轄 の 開 拓 地 と され た 。 オ タ ル ナ イ は小 樽 に な っ た 。1869年9月 に江 戸 改 め 東 京 とな り,東 京 が 首 都 に な り,版 籍 奉 還 が な さ れ た 。 大 名 は華 族 に な っ た 。

この 日本 の 統 一 国家 は,ヨ ー ロ ッパ の真 似 を し よ う と し た。 す ぐさ ま朝 鮮 侵

5)茶 谷 十 六 安 家 村 俊 作 』 民 衆 社1980年 6)加 茂ee‑一 『榎 本 武 揚 』 中 央 公 論 社 。

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略 を くわ だ て よ う と した 。 一 方,旧 大 名=旧 藩 主 は県 知 事 に な っ た 。 だ が そ の 後 の廃 藩 置 県 に よ り辞 め させ られ た 。 岩 倉 見 視,大 久 保 利 通 らは,欧 米 を視 察 後7),ブ ル ジ ョア 革 命 を経 験 し た イ ギ リス や フ ラ ンス で は な く,ド イ ツ を模 範 と した 。

北 海 道 は,初 め 本 州 の植 民 地 で あ っ て,そ の後,半 ば植 民 地 とな っ た 。 同 時 に,北 海 道 の 拓 殖 の 歴 史 は ア イ ヌ人 へ の 侵 略 の歴 史 で もあ っ た 。た だ し小 樽 は, 北 海 道 の 中 で は相 対 的 に ア イ ヌ 人 が 少 な か っ た 。

北 海 道 で は,江 戸 時 代 の松 前 藩 に代 わ っ て,新 政 府 に よ り開 拓 使 が,明 治2 (1869)年 か ら15(1882)年 ま で お か れ た 。樺 太 開拓 使 が お か れ た 明 治3(1870) 年 か ら明 治4(1871)年 ま で は,そ れ は 北 海 道 開拓 使 と言 わ れ た 。 開拓 使 設 置 以 前 は,北 海 道 行 政 を箱 館 府 が 行 な っ た 。 こ れ は省 と 同格 だ っ た 。 だ が そ の 内 実 が 伴 うの は,明 治4(1871)年 か らで あ る。 初 代 長 官 は鍋 島 直 正 だ っ た が, 実 務 を始 め る 前 に辞 任 し た。 東 久 世 通 禧 が 長 官 と して 明 治2(1869)年 に北 海 道 に向 か っ た 。 同年,島 義 勇 判 官 が 銭 函 の 開 拓 仮 役 所 に着 任 した 。 島 は,道 4つ あ る うち の1つ,手 宮 海 官 所 を設 置 した 。 彼 は場 所 請 負 制 度 を廃 止 した 。 海 官 所 の仕 事 は,移 出 入 税,停 泊 税,船 税 を徴 収 す る こ と な ど だ っ た 。こ れ は, 明 治3(1870)年 に 海 関 所,明 治8(1875)年 に船 改 所,と 改 称 さ れ た 。 海 関 所 は,明 治4(1871)年 に小 樽 の 信 香(の ぶ か)に 常 夜 灯 を た て た 。 そ れ は高

さ8mの 燈 台8)で あ っ た。1870年 に小 樽 は町 並 に な っ た。

箱(函)館 は 南 に あ るの で,島 判 官 が札 幌 に ゆ き,市 街 地 と庁 舎 の 建 設 を始 め た が,予 算 が か か りす ぎ て 長 官 と対 立 し,罷 免 され た 。 代 わ っ て 岩 村 判 官 の も とで 札 幌 が 建 設 され た 。 こ う して 明 治4(1871)年 に,政 府 は 札 幌 に 開 拓 使 庁 を お い た 。 つ ま り函 館 か ら移 っ た の で あ る。 小 樽 の 市 街 地 は,勝 納(か つ な い)川 あ た りに 自然 と形 成 され た 。 開拓 使 が,明 治4(1871)年,小 樽 の港 町 ・ 堺 町 の あ た りで 道 路 整 備 を小 樽 商 人 に命 じた 。

7)英 語 訳"lwakuraEmbassy"あ り 。

8)こ れ は 今,メ ル ヘ ン 交 差 点 に 再 現 さ れ て い る 。

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1872(明 治5)年,政 府 は,北 海 道 に官 営 工 場 を多 数 建 設 し た。 小 樽 で は小 樽 郵 便 局 が 開 設 さ れ た 。1872年,小 樽 の 港 に石 の埠 頭 が で きた 。 同年,小 樽 の ア イ ヌ男 女 学 生 を 一 五 人 東 京 で 勉 強 させ た 。

黒 田清 隆 は,薩 摩 出 身 で あ り,彼 は 明 治3年 に 開 拓 使 次 官 ・樺 太 専 任 に な っ た 。 だ が ロ シ ア との 国 力 の差 を痛 感 し,以 後 急 速 に樺 太 放 棄,北 海 道 開 拓 優 先 策 に 傾 い た 。 彼 は 明 治4(1871)年 に 渡 米 し,開 拓 指 導 者 を求 め,ホ ー レス ・ ケ プ ロ ン ら を招 い た 。 明 治5(1872)年,ケ プ ロ ンの 提 言 をい れ て 開 拓 使10年 計 画 を定 め た 。1874(明 治7)年 に,黒 田 清 隆 は 開 拓 使 長 官 に な っ た 。 彼 は屯 田 兵 制 度 を創 設 した 。 樺 太 問題 解 決 の た め,榎 本 武揚 を ロ シ ア に派 遣 し,明 治 8(1875)年 に,樺 太 ・千 島 交 換 条 約 の 締 結 を し た。榎 本 武 揚 は 幕 臣 だ っ た が, 新 政 府 に乗 り換 え て,北 海 道 開拓 使 や駐 露 特 命 全 権 大 使 な ど政 府 高 官 の 階 段 を あ が っ て い っ た 。1875(明 治8)年,樺 太 ・千 島交i換条 約 で,榎 本 は ロ シ ア に 対 して,ア イ ヌ 人 の住 ん で い る所 はす べ て 日本 帝 国 の 領 土 だ と し た 。 明 治 政 府 の対 ア イ ヌ 人 政 策 は,刑 罰 を伴 って,ア イ ヌ の 権 利 を奪 っ た 。

榎 本 武 揚 は,小 樽 に も農 園 や 貸 し地 を 沢 山 もっ た 。 彼 は小 樽 で 宅 地 造 成 を し た 。 開 拓 使 が廃 止 さ れ,新 官 吏 た ち は官 有 物 の 払 い 下 げ を 受 け,そ れ を も とに 商 売 を始 め,威 張 っ た 。

明 治7(1874)年,小 樽 ・札 幌 問 の電 信 線 が 完 成 し た。手 宮,小 樽,銭 函 に, 教 育 所 が 設 置 さ れ た 。

大 久 保 利 通 は,明 治7(1874)年 に 台 湾 侵 略 を 強行 した 。 そ して償 金 を奪 っ て 引 き揚 げ た 。 政 府 は ま た 明 治8(1875)年 に江 華 島 事 件 を お こ した 。 そ の見 返 りと して朝 鮮 政 府 は 日本 と不 平 等 条 約 を結 ば され た 。

国 内 で は,華 族,上 級 士 族 が,地 主,資 本 家 に な っ て い っ た 。 維 新 政 府 に資 金 を貸 した 豪 商 が 政 府 と結 び付 き,財 閥 に な っ て い っ た。 北 海 道 の土 地 は,皇 室,華 族,特 権 商 人 に 払 い 下 げ られ た 。 開 拓 使 も後 期 に な っ て 官 営 企 業 を払 い 下 げ る政 策 を と り始 め た 。 藩 閥 ・政 商 が め ぼ しい物 件 を狙 っ て 暗 躍 して い た。

自由 党 は は じめ,民 主 主 義 的 で は な か っ た が,農 民 と結 び付 い て徐 々 に 自 由 主 義 的 に な っ た。 中 江 兆 民 が塾 を 開 い た 。 大 隅 重 信 は,国 会 開 設 をす る 必 要 が

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あ る と思 い,自 分 の新 聞 で こ う書 か せ た。 政 府 が 総 額1400万 円 あ ま りを投 資 し た 北 海 道 開拓 使 の官 営 事 業 を,わ ず か39万 円(無 利 息,30年 払 い)で,薩 摩 出 身 の 政 商 らに 払 い 下 げ よ う と して い る,と 。 自 由党 の 運 動 を壊 そ う と して,政 府 は 一 時,官 有 物 払 い 下 げ を と りや め,国 会 開 設 を発 表 し た。

1878(明 治11年),ジ ョ ン ・ミル ン は 手 宮 の 洞 窟 を調 べ た。1880年,開 拓 使 の役 人 が,そ の 資 料 を収 集 した 。

1879(明 治12)年 に,幌 内炭 山 が 開 坑 した 。 こ こ で 良 質 の 石 炭 が 出 る こ とが 判 っ た か らで あ る。1880年,は じめ て 汽 車 が 走 っ た 。 手 宮 桟 橋 が で きた 。1880

(明 治13)年,函 館 ・小 樽 間 定 期 航 路 が で きた 。1883年 に小 樽 の 日和 山(ひ りや ま)灯 台 が 開 設 さ れ た 。 手 宮(小 樽)・ 札 幌 問 に鉄 道 が 開通 した 。

1880(明 治13)年,開 拓 使 布 達 条 例 に よ り官 製 の 小 樽 相 場 会 が 開 設 され た 。 小 樽 船 改 所 の下 で,平 均 相 場 価 格 を提 示 した 。 これ は 明 治18(1885)年 に廃 止 さ れ た が,そ の 後,小 樽 商 人 が 自主 組 織 をつ く り始 め た 。 明 治16(1883)年 興 商 会 が で き,そ れ が 明 治21(1888)年 に協 同 談 話 会 とな り,明 治22(1889) 年 に農 工 商 会,明 治23(1890)年 に小 樽 共 商 会 と な っ た 。 明 治17(1884)年 同 業 組 合 準 則 が 交付 さ れ た 。そ れ に よ る 同業 組 合 は,道 内48,函 館15,小 樽9, で あ っ た 。

陸 商 ・高橋 直 治 は,海 産 商 ・板 谷 宮 吉,金 子 元 三 郎 ら と,明 治27(1894)年 に,小 樽 米 穀 ・肥 料 取 引 所 を営 業 した 。 明 治28年 に小 樽 米 穀 外 五 品 目取 引 所 と 改 称 した 。

1881(明 治14)年,前 述 の 開拓 使 官 有 物 払 い 下 げ 事 件 が起 き た。こ れ らが きっ か けで,1882(明 治15)年 に開 拓 使 が 廃 止 さ れ た 。 時 の 長 官 は黒 田 だ っ た 。 幌 内 鉄 道 が全 通 し,そ れ に よ り石 尿 を運 べ る こ とに な っ た。

1886(明 治19)年,北 海 道 庁 が 設 置 され た。 道庁 長 官 に は 岩 村 通 俊 が な り, そ の 後,北 垣 国道 が な っ た 。 北 海 道 土 地 払 い 下 げ規 則 が 公 布 され た。 北 海 道 で は,天 皇 家,皇 族,華 族,旧 大 名 が,よ い 土 地 を奪 っ たが,そ の 後,資 産 家 が 土 地 を入 手 した。 そ の た め,ア イ ヌ 人 は 辺 境 へ 追 い や られ た 。 そ して,こ れ ら の 土 地 を 開拓 し,あ るい は耕 作 す る た め に,農 民 が 必 要 に な り,本 州 か ら農 民

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を呼 び込 む こ とに な る。

1889年,大 日本 帝 国憲 法 が 発 布 され た 。これ は近 代 的 憲 法 の名 に値 い しな か っ た 。 幌 内炭 山 と鉄 道 は,北 海 道 炭 砿 鉄 道 会 社 へ 払 い 下 げ られ た 。1889年,小 港 は特 別 輸 出 港 とな っ た 。1891年,小 樽 で 「北 門新 報 」 が 創 刊 され た。1891年 丸 井 今 井 呉 服 店 が 支 店 を 出 した 。

明 治 期 に お け る小 樽 の 経 済 的発 展 は,い くつ か の転 機 に よっ て 特 徴 づ け られ る 。

1つ は,1880(明 治13)年 の 手 宮 ・札 幌 間 鉄 道 の 開 通 。 2つ は,1880(明 治13)年 の 三 井 銀 行 小 樽 出 張 店 の 設 置 。 3つ は,1885(明 治18)年 の 日本 郵 船 小 樽 支 店 の 開 設 。

4つ は,ユ889(明 治22)年 の 官 営 鉄 道 の 北 海 道 炭 鉱 鉄 道 へ の 払 い 下 げ,で あ る 。

これ らに は,国 の経 済 政 策 と中 央 資 本 の 進 出 とが か らみ あ っ て い る。

一 方,小 樽 で は地 場 産 業 が 伸 張 した。 まず 鯨 業 の 漁 場 資 本 家 が 登 場 した 。 つ い で,明 治 中期 に は海 陸 物 産 商 が 台 頭 した 。 こ う して小 樽 で は,国 家 経 済 政 策

と中 央 資 本 の 進 出,お よび 地 場 産 業 の伸 張 の2つ の軸 で,経 済 が発 展 す る 。 小 樽 の 経 済 発 展 の 一 つ の 転 機 と な っ た の は,鉄 道 で あ り,手 宮 ・札 幌 問 鉄 道 の 開 通 で あ る 。 鉄 道 が,1872(明 治5)年 に,新 橋 ・横 浜,明 治11(1878)年 に,神 戸 ・京 都,そ して 明 治13(1880)年 に,日 本 で3番 目に早 く,手 宮(小 樽)・ 札 幌 間 に敷 か れ た 。 こ の鉄 道 の 目的 は,明 治6(1873)年 発 見 の 幌 内 炭 田 の石 炭 運 送 で あ っ た 。

鉄 道 は ジ ョセ ブ ・ユ ー リー ・ク ロ フ ォ ー ドが 設 計 ・指揮 した。 ク ロ フ ォー ド は,1842年,米 国 ペ ンシ ル ヴ ェ ニ ア 州 に生 ま れ た 。ペ ン シル ヴ ェ ニ ア 大 学 と フ ィ ラ デ ル フ ィ ア の 工 学 院 で 土 木 の専 門 教 育 を うけ た 。 卒 業 後,コ ー ル ビ炭 鉱 や ミ ドル ボ ー ル ド炭 鉱 に炭 鉱 技 師 と して,ま た 連 邦 陸 軍 の 土 木 技 師 に も な っ た 。 南 北 戦 争 で は北 軍 大 尉 と して 土 塁 を築 い た 。 終 戦 後,ペ ン シ ル ヴ ェ ニ ア鉄 道 な ど の鉄 道 測 量 技 師,建 築 監 督 とな っ た 。1869(明 治2)年,ク ロ フ ォー ドは ア メ リカ 大 陸 鉄 道 の 完 成 を した 。1878(明 治11)年12月,ク ロ フ ォ ー ドは来 日 し,「到

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着 の 日か ら三 年 間,北 海 道 の炭 山 を連 絡 す る鉄 道,な ら び に車 道 建 設 兼 土 木 顧 問 」 と な る 。 ク ロ フ ォー ドは,1879(明 治12)年2月 に札 幌 に 来 た 。3月 か ら 調 査 を 開始 し,幌 内 か ら札 幌 をへ て 小 樽 に 鉄 道 を敷 くの が 最 も良 い と結 論 づ け た 。難 所 は 熊 碓 ・銭 函 問(現 ・小 樽)の 絶 壁 で あ っ た 。6月,開 拓 使 は ク ロ フ ォー ドを技 師 長 に任 命 し,彼 は半 年 で札 樽 馬 車 道 を 開通 させ た。 つ い で ア メ リ カへ 戻 り,鉄 道 資材 や 機i関車 を購 入 した 。1880(明 治13)年11月28日,手 宮 ・札 幌 問 の 鉄 道 が 開通 し た。 弁 慶 号 が 時 速20キ ロ で 走 っ た。 北 海 道 で初 め て の 鉄 道 で あ っ た 。 そ の 後,札 幌 ・幌 内 間鉄 道 も 開通 し,1881(明 治14)年11月,幌 内 炭 鉱 か ら小 樽 へ 石 炭 が 運 ば れ た。 この 年,ク ロ フ ォ ー ドは ア メ リカ へ 帰 国 した 。 彼 は本 国 で も鉄 道 開発 に腕 を振 る っ た 。 彼 は 大 正13(1924)年 に 亡 くな っ た 。 い ま も残 る機 関 車 「大 勝 号 」 は,手 宮 で 作 られ た も の で,「 勝 」 は,戦 争 に 勝 つ とい う意 味 で あ る 。 鉄 道 敷 設 の 難 所 は,張 碓 とそ の トン ネ ル だ っ た。 若 竹 トンネ ル は,第1,2,3が あ り,第3号 が 山 の 中 を通 っ た。 そ の 工 事 は1880

(明 治13)年1月8日 に 始 ま り,11月28日 の 運 転 開始 式 に 間 に合 った 。 手 宮 一 札 幌 問 鉄 道 が 開 通 した 。

手 宮 線、は,そ の 後,北 海 道 炭 砿 鉄 道 会 社 に な っ た。 明 治32(1899)年10月 創 業 総 会 を 開 き,高 橋 直 治,金 子 元 三 郎 らが 株 主 に な った 。 函 館 か ら小 樽 まで だ っ た 。 手 宮 線 と は 関係 な か っ た 。 明 治37(1904)年10月 に全 線 開 通 した北 海 道 鉄 道 会 社 線 に な っ た 。 炭 鉱 鉄 道 は,明 治39(1906)年10月,北 海 道 鉄 道 は 明 治42年(1909)年5月 に,国 有 に な っ た。

鉄 道 は,明 治24(1891)年,上 野 ・青 森 問 が,明 治37(1904)年9月,函 館 ・ 小 樽 間 が 完 成 され て い た 。 そ の後,小 樽,こ の 町 は,明 治 に入 っ て か ら 〈官 製 都 市 〉と し て誕 生 し発 展 した 点 で は,北 海 道 随 一 とい え る … 。そ の 発 展 の礎 は, 早 く も1880(明 治13)年 に建 設 され た 幌 内 一札 幌 一手 宮(小 樽)を 結 ぶ 鉄 道 に あ っ た 。 地 下 資 源 の 乏 しい 新 政 府 に と っ て,幌 内 炭 鉱 か ら産 出 さ れ る良 質 の石 炭 は,ま さ に虎 の 子 財 産 と もい うべ き もの で,そ の積 み 出 し港 と して 小 樽 が 選 ば れ た … 。 こ の 鉄 道 は,東 京 一横 浜 間,京 都 一大 阪 一神 戸 間 に つ ぐ全 国 で 三 番 目の もの で あ り,北 辺 の 難 工 事 に 莫 大 な 国 費 と囚 人 を含 む 労 働 力 を投 入 した 政

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府 の 意 気 ご み の ほ どが うか が え る9)。

鉄 道 の 開通 まで は,輸 送 は船 だ っ た 。 そ れ が,東 京 ・函 館 ・小 樽 をつ な い で い た 。 開 拓 使 附 属 汽 船 を1873(明 治6)年 ころ か ら冬 以外 に月1回 て い ど通 わ せ,ま た 樺 太,千 島 方 面 と連 絡 して い た 。 樺 太,函 館,東 京,根 室 へ の 定 期 航 路 は,1873(明 治6)年 に 開 か れ た。1875(明 治8)年 の,小 樽 へ の 入 港 船 は, 555隻 だ っ た が,1880(明 治13)年 に は5358隻 と な り,大 正13(1924)年 の 入 港 船 は 全 国 第5位 と な っ た 。

函 館 は 北 海 道 の 玄 関 港 だ っ た 。 三 菱i会社 は,1880(明 治13)年9月 か ら,函 館 ・小 樽 定 期 航 路 を始 め た 。小 樽 か ら札 幌 へ は,石 狩 川 を利 用 し て運 ん で い た。

逓 信 省 は 明 治20年11月,定 期 航 路 を命 じ,年 額88万 円 を 日本 郵 船 に下 付 し た。

日本 郵 船 は 日本 最 大 の 海 運 会 社 で,三 菱 系 で あ っ た 。明 治21(1888)年 に小 樽 ・ 増 毛 問 に 月5回 運 行 す る た め,年 額1500円 を郵 船 に出 した 。 明 治18(1885)年 以 降,日 本 郵 船 は,多 い 年 は10数 隻 で 年 間130‑187回 も運 行 し,明 治32(1899) 年9隻 で130回,月13‑17回 で あ っ た。 こ の 年 で 定 期 航 路 保 護 期 限 が 満 了 した 。 東 廻 り神 戸 ・小 樽 線 が あ っ た 。 明 治25(1892)年,神 戸 ・横 浜 ・函 館 航 路 と, 神 戸 ・下 関 ・新 潟 航 路 が,小 樽 まで 延 長 され た。 明 治38(1905)年,日 本 郵 船

は 北 海 道 統 括 支 店 を小 樽 に設 置 す る こ とに 決 め た 。

移 出入額

函館 福 山(松 前) 江 差 寿都 小樽

明 治8年 (1875年)

1676 927 1115 716

明 治10年 (1877年)

1675 667 767 300 1650

明 治12年 (1879年)

4843 1177 1574 804 2153

明 治14年 (1881年)

11336 1131 1960 884

?

9)夏 堀 正 元 「彼 を 育 て た 町 一 小 樽 」(小 林 多 喜 二 全 集 月 報3,第3巻 付,1982年 9月)1ペ ー ジ。

(11)

小 樽 の 明 治20(1887)年 の移 出 入 額 は,149万 円,全 道 の12.2%で あ っ た が, 明 治30(1897)年 に は3864万 円 で,全 道 の48.8%と な り,北 海 道 随 一 の 港 に な っ

た10)。

小 樽 の 市 心 の 大 地 主 は初 め,榎 本 武 揚,北 垣 国道(第4代 道 庁 長 官)で あ っ た 。 鉄 道 は 当初 の 計 画 が 変 更 さ れ た 。 つ ま り市 の はず れ を通 る よ う に な っ た の で あ り,そ れ は 大 地 主 の 土 地 の そ ば で あ っ た 。 そ れ を 田 中 正 造 が 国 会 で暴 露 し た 。

北 垣 国 道 は,四 代 目の道 庁 長 官 で,小 樽 の築 港 の建 設 や,小 樽 ・函 館 間 の 鉄 道 敷 設 に 尽 力 した 。 嵐 山 に銅 像 が 建 っ た こ とが あ る。

明 治 政 府 は,条 約 改 正 案 に反 対 した 民 権 派 を皇 居 三 里 外 に3年 間 追 放 した 。 明 治20(1887)年12月 の そ の 保 安 条 例 で,武 内 綱,大 江 卓,岡 野 知 荘,林 有 造 らが,東 京 か ら追 放 され た 。 自 由党 員 が 避 難 して き て,小 樽 海 岸 の埋 め 立 て に よ る土 地 造 成 を始 め た 。3万8千 坪 を分 譲 した 。

現 ・長 橋 な え ぼ 公 園 は,明 治26(1893)年,小 樽 苗 圃(び ょ うぼ)と して 開 設 され た 。 そ の後,小 樽 近 郊 の 国有 林 に,植 林 事 業 の た め に,苗 木 を供 給 す る と と も に,そ の 敷 地 内 に,見 本 と して 植 林 した 。本 州 の代 表 的 な樹種 を は じめ, 外 国 樹 種 見 本 林 も加 え られ,道 内 で は 特 殊 な地 位 を しめ た 。

2明 治 後 半

1893年 に 日本 銀 行 派 出 所 が 開 設 さ れ た 。1895年 に農 商 務 大 臣 榎 本 武 揚 よ り, 小 樽 商 業 会 議 所 設 立 の 許 可 を得 て,1896年 に小 樽 商 業 会 議 所 が 設 置 され た 。 北 海 道 は経 済 的 に は 内 地 並 に な って い な い と して,所 得 税 が免 除 され て い た 。 そ の た め,な か なか で き なか っ た 。 小 樽 商 業 会 議 所 の 議 員 が 選挙 され た 。 初 代 会 頭 は 山 田吉 兵 衛 だ っ た 。 彼 は,松 前 藩 の 城 下 町福 山 に生 ま れ,松 村 家 の 出 で あ る 。小 樽 に きて,小 樽 の 名 家 山 田兵 蔵 の 養 子 に な っ た 。 若 く して 家 督 を相 続 し た 。 市 街 か ら手 宮 へ の 海 岸 道 路 を 自費 で 建 設 した 。

10)統 計 は,『 小 樽 市 史 』 を 見 よ。

(12)

1894年 に小 樽 で 電 灯 が つ い た 。

明 治 政 府 の 富 国 強 兵 政 策 に よ り,日 清 戦 争(1894年)が 起 こ され,日 本 で は 産 業 革 命 が この こ ろ成 立 した 。 この 戦 争 を き っか け に して,日 本 は台 湾 を 占 領 し,帝 国 主 義 的 に な り始 め て い た 。 そ して 治 安 警 察 法 が1900年 にす で に 公 布 さ れ て い た。

日清 戦 争 は,朝 鮮 支 配 を め ぐ る,清 国(=中 国)と 日本 の戦 争 で あ る 。 前 年 1894年6月 の 東 学 党 の 乱 を鎮 圧 す る た め に,韓 国政 府 が 清 政 府 に出 兵 を依 頼 し た 。 そ れ で 日本 も 出 兵 し た。 この 戦 争 は結 局,日 本 が 清 か ら賠 償 金 を獲 得 した こ とで 終 っ た 。 日清 戦 争 は,小 樽 に刺 激 を与 え た。 まず,和 船 か ら汽 船 へ 転 換 し,寄 港 汽 船 が 激 増 した 。 明治 政 府 はす で に1873年 に 徴 兵 令 を しい た。 さ し あ た っ て,政 府 は,北 海 道 だ け,徴 兵 制 の適 用 を 除外 した 。 だ が そ の 後,1896年 に,後 志 な ど4地 方 に徴 兵 令 が 施 行 さ れ た 。1897年 に,全 道 に徴 兵 令 が 施 行 さ れ た 。日清 戦 争 を体 験 した か らで あ る。政 府 は,日 清 戦 争 後 の 軍 備 拡 張 の た め, 営 業 税 を新 設 した 。 日清 戦 争 の 賠 償 金 で 日本 の 資 本 主 義 は伸 張 した 。

1897年,小 樽 築 港 第1期 工 事 が 起 工 さ れ た 。

1899年,北 海 道 旧土 人 保 護 法 が 公 布 され た 。 小 樽 に 区 制 が 施 行 さ れ た 。 小 樽 港 が 国 際 貿 易 港 に指 定 され た。 拓 銀 法 が 作 られ た。 明 治 政 府 の北 海 道 内 陸 部 開 拓 計 画 は,ア イ ヌ人 の 生 活 基 盤 の す べ て を奪 っ た(小 川 隆 吉)。

1900年,拓 銀 が 営 業 を開 始 した 。 市 内 電 話 が 開通 し,札 幌 に も通 じた 。1901 年,第 一 回 北 海 道 会 が 開 か れ た 。1902年,道 は じめ て の 総 選 挙 が 行 わ れ た 。

鉄 道 も,明 治24(1891)年,上 野 ・青 森 間が,明 治37(1904)年9月,函 館 ・ 小 樽 間が 完 成 され た 。

小 樽 経 済 の 景 気 は,全 道 比5%を 切 る 昭和10年(1935)代 まで 好 調 だ っ た 。 明 治32(1899)年10月 に は人 ロ は,函 館,83285人,小 樽65777人,札 幌38874 人 で あ っ た 。

翌1904年 に 日露 戦 争 が 行 な わ れ た。緒 戦 の勝 利 で 日本 中 で 提 灯 行 列 が 続 い た 。 区 民 が 軍 に 毛 布 千 枚 を さ し出 した 。 人 々 は好 戦 的 とな っ た。 国 債 が 応 募 させ ら

(13)

れ,物 価 は あ が り,消 費 の 緊 縮 政 策 が と られ た 。 地 租 が 重 くな り,農 民 は い っ そ う勤 勉 に働 か ね ば な らな か っ た。

日露 戦 争(1904‑05年)の 頃,日 本 で は重 工 業 が 伸 び て い た 。 三 井 は 室 蘭 に 日本 製 鋼 所 を こ の1907年 に 設 立 した。 日露 両 国代 表 の 国境 劃 定 会 議 が,小 樽 の 日本 郵 船 株 式 会 社 小 樽 支 店 で 明 治39年 に行 な わ れ た 。 こ の 戦 争 に よ っ て 日本 は 南 樺 太 を ロ シ ア か ら割 譲 し,朝 鮮 の支 配 権 を ロ シア か ら奪 っ た 。

日露 戦 争 後 に樺 太(サ ハ リ ン)の 開発 が 始 ま っ た 。1905年6月 ポ ー ッマ ス 講 話 会 議 に先 だ っ て,日 本 は,あ わ よ くば樺 太 全 土 を手 に入 れ よ う と,樺 太 上 陸 作 戦 を 開始 し た11)。

1904年,函 館 本 線 が つ い た 。 日露 戦 争 で,1904年 に札 幌 ・小 樽 問 に 軍 用 道 路 が で きた。 これ が 現 在 は 国道 五 号 で あ る 。

1910年 に 日本 は,す で に支 配 して い た朝 鮮 を併 合 した 。

小 樽 商 人 に次 の 人 々 が い る 。

船 木 忠 郎 は,小 樽 内 村 の 年 寄,大 年 寄 を し た。 小 樽 と高 島 両 郡 の戸 長 を長 く 務 め た 。 明 治 五(1872)年,信 香 の 家 に初 め て郵 便 局 を 開 い た 。

渡 辺 兵 四郎 は,山 田 兵 蔵 に秋 田 か ら連 れ て こ られ た 。 明治13(1880)年,山 田家 総 代 理 人 に な っ た 。 明 治45(1912)年,5代 目の 小 樽 区 長 に な っ た 。

富 山 県 の販 売 商 ・寿 原 外 吉 が,1881(明 治14)年,小 樽 金 曇 町大 火 を きい て, 有 幌 海 岸 に 店 を 開 い た 。 明 治28(1895)年,身 内 で 固 め た共 同 経 営 を始 め た 。 弟 ・重 太 郎 は,東 京 高 商1期 生 で あ っ た 。

藤 山 要 吉 は,廻 船 問屋 か ら海 運 業 に進 出 し,小 樽 と稚 内 間 の 航 路 を作 っ た 。 漁 場 を も ち,樺 太 の 日本 海 側 の多 くを も っ た 。留 萌 線 を 開 業 した。藤 山 要 吉 は, 小 樽 ・北 見 問 に通 商 路 を開 き,汽 船 で 下 関,神 戸,ウ ラ ジ オ ス トッ ク,ニ コ ラ

エ フ ス ク な ど に海 運 を は じめ た 。 北 樺 太 で ニ シ ン を と った 。 沖 あ げ 機 械 を 発 明 し,倉 庫,鉄 工 業,農 業 を い とな ん だ。 公 会 堂,手 宮 の 納 骨 堂 を,市 に 寄付 し

11)[琴 坂 守 尚]『ガ イ ドブ ッ ク 小 林 多 喜 二 と小 樽 』新 日本 出 版1994年8ペ ー ジ 。

(14)

た 。 藤 山要 吉 は,1911(明 治44)年,皇 太 子(後 の大 正 天 皇)宿 泊所 と して屋 敷 をた て,小 樽 区 に寄 付 した。 い まの 市 民 会 館 の場 所 に つ く り,そ の 後 移 転 し た 。今 の 公 会 堂 で あ る 。 明 治37(1904)年,旅 順 港 閉鎖 作 戦 で,板 谷,藤 山 が 儲 け た 。 藤 山 は地 主 に な り,農 場 を経 営 した 。 板 谷 もそ う だ。

沼 田 喜 三 郎 は 小 樽 共 成 を作 っ た 。

石 橋 彦 三 郎 は,滋 賀 県 人 で あ り,大 阪 の 阿 部 幸 の 店 で,四 天 王 と まで な っ た 。 一 入 才 で 六 万 円 を もっ て 山 形 へ 米 を買 い に きた。 明 治 七 年,小 樽 へ 来 て,兄 の 店 を継 ぎ,呉 服 業,海 産 問 屋 もや る 。 北 海 道 の 大 豆,大 麦 に見 込 み を付 け,醤 油 を作 ろ う と し,醤 油 王 と な っ た 。

金 子 元 三 郎 は,1891年,小 樽 で 北 門 新 報 を発 行 し,第 一 代 小 樽 区 長 に な り, 国 会 議 員 に もな る。

板 谷 宮 吉(1857‑)は,新 潟 生 ま れ,漁 網 商 の4男 で,金 子 元 右 衛 門(元 三 郎 の父)を た よ っ て,福 山 へ きた。 そ の後,小 樽 へ くる 。荒 物 雑 貨 商 店 を 開 く。

手 広 く商 売 した 。 精 米,醤 油,海 運,倉 庫 業 で あ る持 ち 船 が,日 清 ・日露 戦 争 で 軍 用 船 に な り,膨 大 な補 償 金 が入 っ た 。 英 国 製 大 型 船 を6隻 もっ た 。 そ して 南 洋 に で た 。 明 治45(1912)年,板 谷 商 船 とな った 。 大 連 に板 谷 商 行,樺 太 銀 行 を作 り,全 国 に土 地 を か っ た。 日本10大 大 船 主 の1つ に 数 え られ た 。

鉄 道 は,1874年 に小 樽 ・札 幌 が 開 通 し,1892年 に室 蘭 まで 伸 び,1898年 に 旭 川 ま で 通 じ,1911年 に北 見 ま で達 した 。

1906年,鉄 道 国有 法 で,北 炭 の 鉄 道 ・函 樽 鉄 道 が 買 収 さ れ た 。

小 樽 が 東 洋 一 で あ る の は,築 港 機 関 庫 で あ る 。 こ こ で は30両 が 修 理 で,昭 和 初 年 に は こ の機 関 庫 に60両 が あ っ た 。(琴 坂)

小 樽 で 明 治30(1897)5月,北 防 波 堤 工 事 が,手 宮 側 か ら,道 庁 予 算 が つ い て 始 ま っ た 。 明 治41(1908)年 に完 成 し,221万 円使 っ た。 そ の 後,築 港 側 か

ら南 防 波 堤 工 事 が 始 ま る 。

築 港 駅 東 側 の 若 竹 貯 木 場 は面 積21ヘ ク タ ー ル,道 内最 大 の 水 面 貯 木 場 で あ っ た 。

小 林 多 喜 二 の伯 父 の店 は,帝 国 陸 軍 御 用 達 の パ ン屋 で,軍 隊 相 手 に儲 け た 。

(15)

1895(明 治28)年,小 樽 商 工 会 議 所 が創 立 さ れ た 。 北 海 道 は 経 済 的 に は 内 地 並 に な っ て い な い と し て,所 得 税 が 免 除 され て い た 。 そ の た め,な か な か で き なか っ た 。

そ の議 員 が 選 挙 され た。 初 代 会 頭 は 山 田 吉 兵 衛 だ っ た 。 彼 は,松 前 藩 の 城 下 町 福 山 に 生 まれ,松 村 家 の 出 で あ る。 小 樽 に きて,小 樽 の名 家 山 田兵 蔵 の 養 子 に な っ た 。 若 く して家 督 を相 続 した。 市 街 か ら手 宮 へ の 海 岸 道 路 を 自 費 で 建 設 した 。

政 府 は,日 清 戦 争 後 の 軍 備 拡 張 の た め,営 業 税 を新 設 した 。 小 樽 の新 聞 の 歴 史 は,こ うで あ る。

山 田吉 兵 衛 は,札 幌 で 週 間 『小 樽 新 聞』 を 明治20(1887)年1月 に 出 した 。 これ は 明 治20(1887)年8月 に 『北 海 道 毎 日新 聞』 と な り,日 刊 と な っ た 。

北 門新 報 』,『 北 海 時 事 』 が あ り,明 治34(1901)年,3社 合 同 した 『北 海 タイ ム ス』 に な っ た 。 こ れ は 『北 海 道 新 聞 』 の前 身 で あ る。

小 樽 初 の新 聞 は,金 子 元 三 郎 の 『北 門新 報 』 で あ る。 明治24(1891)年4月 に 作 っ た 。 彼 は 中江 兆 民 を 主筆 に迎 え,憲 政 思 想 の 普 及 に務 め た 。 元 三 郎 の 父 は,漁 場 の 経 営 者 で,明 治17(1884)年 に小 樽 に移 っ た 。 子 ・元 三 郎 は,鯨 漁 だ け で な く,海 運,鉱 業,銀 行,農 場 を 経 営 した。 園 田 道 長 官 の女 婿 に な っ た 。 また 初 代 小 樽 区 長 に な っ た。 明 治37(1904)年 か ら衆 議 院議 員 で あ っ た 。

札 幌 か ら きた 『北 海 民灯 』が 明治27(1894)年11月 に 『小 樽 新 聞』 に な っ た 。 金 子 元 三 郎 が 『北 門 新 報 』 を明 治25(1892)年5月 に札 幌 に 移 転 した 。 そ の 後,『 北 辰 日報 』 『新 北 門』 が 出 るが,廃 刊 と な っ た 。 明 治27(1894)年 に 『 樽 新 聞』 が 上 田重 良 に よ っ て作 られ た。 上 田重 良 は,東 京 専 門 学 校 出 で あ る。

明 治26(1893)年5月 に札 幌 で 『北 海 民 燈 』 が 出 た が,そ れ を上 田 が買 い,『 小 樽 新 聞』 と した もの で あ る 。 な お,明 治27年 に 『小 樽 商 業 新 報 』 が 出 た 。 明 治

35(1902)年 か ら36(1903)年 に は,小 樽 で は続 々新 聞 が 出 た 。『小 樽 日報 』 つ ま り石 川 啄 木 が 勤 め た新 聞 で あ る,『 小 樽 公 論』 『北 海 朝 報 』 『北 政 日報 』

北 海 道 新 聞 』 『北 民 』 『小 樽 毎 日新 聞』 で あ る。 しか し,こ れ らは倒 れた。例 え ば,『小 樽 日報 』 は半 年 で 廃 刊 した 。一 方,『 北 海 道 毎 日新 聞』 『北 門新 報 』 『

(16)

海 時 事 』 が 合 同 して,札 幌 に 『北 海 タイ ム ス』 が 作 ら れ た 。 こ れ と,『 函 館 毎 日新 聞 』,『小 樽 新 聞』 が 道 三 大 新 聞 とな っ た 。 民 政 党 系 の 『小 樽 新 聞』 に対 抗 して,政 友 会 系 の 『北 門 日報 』 が 小 樽 で作 られ た こ と も あ る 。

東 京 か らの 郵 便 は 汽 車 ・汽 船 に よ る1日1便 だ っ た 。 小 樽 郵 便 電 信 局 の 電 信 扱 い 数 は 多 か っ た。 全 国700局 の う ち,第6位 で,発 信 は7位,電 信 料 は11位

で あ っ た。

小 樽 商 業 会 議 所 は,火 事 で 引 越 しを し,明 治40(1907)年 に改 築 され た 。現 ・ 水 道 局 の場 所 に移 っ た 。 こ こへ 石 川 啄 木 が,10月9日,新 築 落 成 式 に,小 樽 新

聞 の 代 表 と して 出席 した 。

小 樽 は 「仕 込 み 制 」 だ っ た 。 そ れ は,漁 場 の親 方 が 商 人 か ら事 業 前 に 資 材 一 切 の 融 通 を う け,代 わ りに産 物 はす べ て 一 括 委 託 販 売 して,製 品 の 売 却 後,生

産 した 。

1904年,日 露 戦 争 が 起 こ さ れ た 。 朝 鮮 ・満 州 を め ぐる ロ シ ア と 日本 の 戦 争 で あ り,こ れ は 帝 国 主 義 戦 争 で あ っ た 。1904年2月8日,仁 川 沖,旅 順 港 を,日 本 が 奇 襲 して,始 ま っ た 。 北 海 道 か らは 第7師 団 が 出 征 した 。 この 年,北 海 道 鉄 道 函 館 ・小 樽 問全 線 が 開 通 した 。1905年 に函 館 本 線 が 全 通 した 。

1905年 に 日露 戦 争 が 終 っ た 。 こ の 間 ロ シ アで は,第1次 ブ ル ジ ョア 革命 が 行 な わ れ た 。 「血 の 日曜 日」 事 件 が 革 命 の 発 端 で あ り,ロ シ ア全 国 に ソ ヴ ィエ ト が作 られ た 。 こ れ は鎮 圧 さ れ た が,そ の た め,ロ シ アで は戦 争 ど こ ろ で は な く な っ た 。 こ う し て 日露 は休 戦 した 。 休 戦 条 約 は ポ ー ツマ ス で調 印 され た 。 日本 に 南 サ ハ リ ンが 割 譲 され る こ と に な っ た 。 日露 両 国代 表 の 国境 劃 定 会 議 が,小 樽 の 日本 郵 船 株 式 会 社 小 樽 支 店 で,明 治39(1906)年 に行 な わ れ た 。 この建 物

は,明 治39(1906)年 に 建 造 さ れ た,英 国風 ル ネ ッサ ン ス 様 式 で あ る12)。 日 露 戦 争 の 結 果,日 本 は 南 樺 太 を領 有 し,小 樽 の 商 圏 が 拡 大 して い っ た。 道 内 ・ 樺 太 の 生 産 物 は,船 ・車[=荷 車]に よ り,小 樽 港 に 集積 さ れ,こ こか ら本 州 ・ 外 国 へ 積 み 出 さ れ,ま た 道 内 ・樺 太 で の消 費 品 ・化 学 原 料 が,本 州 ・外 国 か ら

12)日 本 郵 船 は,こ の 建 物 を市 に売 却(1955年)し,1956年,市 立 博 物 館 と な っ た 。

(17)

入 っ て きた 。 こ れ ら取 引 の 大 部 分 は小 樽 商 人 の 手 で 行 な わ れ た 。 樺 太 へ の 移 入 品 の 半 分,樺 太 か らの 移 出 品 の3分 の1は 小 樽 港 を通 っ た 。 こ う して,三 井 物 産 と,神 戸 の 曲辰(か ね た つ)鈴 木 商 店 は,小 樽 に 出 張 所 を置 い た ほ どで あ る。

明 治32(1899)年 に は小 樽 は 開 港 場 に 昇 格 した。

「明 治25年(1892年) ,北 海 道 長 官 に な っ た北 垣 国 道 も,西 海 岸 道 央 部 に位 す る小 樽〔港 の 将 来 性 を 認 め,[明 治]26年(1893年)夏,内 相 井 上 馨 の 来 樽 と 相 ま っ て,築 港 工 事 の 基 礎 調 査 を した 。 そ の結 果,良 好 な見 通 し を得 た の で, 29年(1895)の 国会 に十 ケ年 継 続 事 業 費21万8千 余 円 が協 賛 さ れ,(明 治)30年

(1897)4月 か ら第 一 防 波 堤 工 事 に着 手 した 。」13)。小 樽 は 天 然 の 良 港 と言 わ れ る が,実 際 は湾 形 が 広 す ぎる た め に,強 風 に見 舞 わ れ る と,船 舶 を転 覆 ・大 破 され る こ とが あ っ た 。こ れ を防 波 堤 に よ っ て 阻 止 で きる よ う に な る の で あ っ た 。

小 樽 で は,第 一 期 に引 き続 い て,第 二 期 の 港 湾 防波 堤 の工 事 が 行 わ れ た 。1908 (明 治41)年 に北 防 波 堤 が 完 成 し,1921(大 正10)年 に南 防波 堤 が 完 成 した 。 小 樽 港 の 第 二 期 築 港 工 事,つ ま り南 防 波堤 工 事 が 始 ま っ た。 先 ず,2万6千 の埋 め 立 て 工 事 が 若 竹 町 の海 岸 一 帯 に わ た っ て着 手 され た。 土建 業 者 が 前 面 の 山 を切 り崩 し爆 破 し,と ころ どこ ろ に棒 頭 が つ く監 獄 部 屋 式 の土 工 部 屋 が 立 ち, こ こ に多 数 の 土 工 が 流 れ 込 ん だ 。 埋 め 立 て が 進 む に つ れ て,若 竹 町 も急 速 に変 わ っ て きた 。 道 路 が 開 か れ,宅 地 が ひ ろ が り,商 人 も流 れ 込 み,水 産 学 校 が 建 ち,築 港 駅 も竣 工 した14)。

1907年,樺 太 庁 が 設 立 さ れ た 。

1908年,青 函 連 絡 船 が 開始 した 。 北 海 道 国 有 未 開 地 処 分 法 が 改 正 さ れ た 。

小 樽 の 銀 行 の 歴 史 を 記 して お こ う。

第 四 十 四銀 行 が 明 治11(1878)年8月 で,小=樽 で1番 早 い。 明 治12(1879) 年,第 四十 四 国 立 銀 行 は,小 樽 に支 店 を お い た。 同行 は,明 治15(1882)年 第 三 国 立 銀 行 に合 併 した 。 第六 十 七 国 立 銀 行 が,小 樽 支 店 を設 置 した。

13)越 崎 宗 一 郷 土 史 的 自 叙 伝 』 昭和53年19ペ ー ジ 。 14)手 塚 英 孝 小 林 多 喜 二 』 新 日本 出 版 社,上

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小 樽〔で は,明 治12(1879)年 に,三 井 銀 行,第 四 十 四銀 行,第 六 十 七 銀 行 が 支 店 を お い た とい う説 が あ る 。 だ が 三 井 銀 行 の小 樽 出 張 所 は,明 治13(1880) 年4月 開 設 で あ る 。 第 三 国 立 銀 行 は,明 治16(1883)年 に 函 館 山 田銀 行 に営 業 を譲 渡 した 。 明 治16(1883)年2月,函 館 山 田銀 行 の 支 店 が 開 設 さ れ た 。 だが

1,2年 で 引 き揚 げ られ た 。

明 治17(1884)年 に第 三 十 三 銀 行 が 出 張 所 を 開 き,明 治23(1890)年 に引 き 上 げ た 。

明 治22(1889)年 田 中銀 行 が,小 樽 支 店 を設 置 した 。 明 治26(1893)年 日本 銀 行 が,小 樽 派 出 所 を設 置 し た。

明 治28(1895)年 小 樽 貯 蓄 銀 行 が 設 立 され た。

明 治29(1896)年 日本 商 業 銀 行 小 樽 支 店 が 設 置 され た。

明 治30(1897)年 余 市 銀 行 が,本 店 を小 樽 に移 し,小 樽 銀 行 と改 称 した 。 明 治32(1899)年 北 海 道 拓 殖 銀 行 が 設 立 許 可 され た 。 小 樽 区 制 が 実 施 され

た 。 第 十 二 銀 行 小 樽 支 店 が 設 置 され た。

明 治33(1900)年,北 海 道 拓 殖 銀 行 が 営 業 を 開始 した 。

北 海 道 の拓 殖 事 業 を す す め る た め に,政 府 と民 間 が 協 力 し て,北 海 道 拓 殖 銀 行 法 が 可 決 さ れ た 。 設 立 委 員 は, 政 府 関係 者,東 京 を 中 心 と した 実 業 家,道 内 の 実 業 家,

地 主,か らな っ て い た 。低 利 資金 の 金 融 機i関と して,1900 年 に北 海 道 拓 殖 銀 行(以 下,拓 銀 と略 す)が 創 立 さ れ た

の だ っ た。 拓 銀 は,北 海 道 と樺 太 の 半 植 民 地 的 開発 の た め に設 立 され た 半 官 半 民 の 特 殊 銀 行 で あ っ た 。 初 め,資 本 金 が300万 円 で,株 式 総 数6万 株,う ち,2万 株 は 政 府 が 買 い,皇 室 もす こ し払 い 込 ん だ 。 申 し込 み は15倍 に

も な っ た。

明 治34(1901)年 拓 銀小 樽 支 店 が 設 置 され た 。 中立(な か だ て)銀 行(本 小 樽)が 設 立 さ れ た 。

明 治39(1906)年 小 樽 銀 行 が,北 海 道 商 業 銀 行 を合 併 し,北 海 道 銀 行 と改

(19)

称 され た 。

明 治40(1907)年 第 四 十 七 銀 行 小 樽 支 店 が 設 置 さ れ た 。 稲 敷 商 業 銀 行(本 茨 城 県)が,8月,本 店 を小 樽 に移 す 。9月 に,本 店 を札 幌 へ 移 し,泰 北 銀 行 と改 称 した 。

明 治45(1912)年 中越 銀 行 小=樽支 店 が 設 置 され た 。

大 正3(1914)年 不 動 貯 蓄 銀 行 が,小 樽 に 出 張 所 を設 置 した 。泰 北 銀 行 が, 本 店 を札 幌 か ら小 樽 へ 移 転 した 。

大 正6(1917)年 農 産 物(え ん ど う ・は っ か ・で ん ぷ ん,な ど)価 格 が 暴 騰 した 。

大 正8(1919)年 中立 銀 行 が,小 樽 銀 行 と改 称 した。

大 正11(1922)年 小 樽 市 制 が 施 行 され た 。三 菱 銀 行 小 樽 支 店 が 設 置 さ れ た 。 昭 和3(1928)年(旧)北 海 道 銀 行 が,百 十 三 銀 行 を合 併 し た。

昭和4(1929)年 小 樽 銀 行 が,北 海 道 商 工 銀 行 と改 称 した 。

明 治20(1887)年 に 第 二 十 銀 行,明 治22(1889)年 に 北 海 銀 行,明 治23(1898) 年 に 田 中 銀 行 が,支 店 を 開 い た 。だ が 三 井,田 中,二 十,北 海 しか 永 続 しな か っ た 。 第 二 十 銀 行 は,大 正 元(1912)年 に 第 一 銀 行 に 吸 収 合 併 され た 。 北 海 銀 行 は大 正2(1915)年,第 一 銀 行 に 営 業 を譲 渡 す る ま で 続 い た。 田 中銀 行 は 大 正 7(1918)年 に閉 鎖 した 。 そ の 後,明 治26(1893)年 に第 百 十 三 銀 行 の 支 店 が 開 か れ た 。 明 治30(1897)年 に 国 立 か ら株 式 会 社 に な り,昭 和3(1928)年, 北 海 道 銀 行 に合 併 さ れ た 。 明 治26(1893)年,日 本 銀 行 の 派 出所 が 開 か れ た 。 日銀 は,明 治27(1894)年 に は 出 張 所 とな り,明 治39(1906)年 に支 店 とな っ た 。 明 治28(1895)年 に,小 樽 貯 蓄 銀、行 が で きた 。 そ れ は 明 治34(1901)年 閉 店 した 。 明 治29(1893)年 に 日本 商 業 銀 行 の 支 店 が 置 か れ た。 日本 商 業 銀 行 は安 田系 で あ り,大 正12(1923)年 に安 田銀 行 と な っ た 。 そ の後 の 富 士 銀 行 で あ る。

屯 田銀 行 も,明 治27(1894)年 に小 樽 支 店 を置 い た 。 明 治31(1893)年 に は 本 店 を小 樽 に移 した 。 明 治33(1900)年 に北 海 道 商 業 銀 行 と改 称 した 。 明 治27 (1894)年,余 市 に 余 市 銀 行 が で き,明 治28年 に,小 樽 支 店 を置 き,明 治30(1897)

(20)

年 に,小 樽 に移 り,小 樽 銀 行 と改 称 した 。 そ して,元 ・屯 田銀 行 を改 称 した 北 海 道 商 業 銀 行 を 明 治37(1904)年 に合 併 し,北 海 道 銀 行 とな っ た 。 こ れ は 戦 前 の 北 海 道 銀 行 で あ り,昭 和19(1944)年 に拓 銀 へ 吸 収 合 併 され た 。 だ か ら現 在 の 北 海 道 銀 行 と は違 う。

十 二 銀 行 が 支 店 を 明 治32(1899)年 に 出 した 。 本 店 は富 山 で あ る。 後,北 銀 行 に合 併 され た。第 四 十 七 銀 行 が,明 治40(1906)年 に 小 樽 支 店 を 開 い た が, 十 二 銀 行 に合 併 さ れ た 。 中立 銀 行 が,明 治34(1901)年 に本 店 を小 樽 に して 設 立 され た。 大 正8(1919)年 に小 樽 銀 行 と改 称 し,昭 和5年,寿 都 銀 行 と合 併

し,北 海 道 商 工 銀 行 と改 称 し,そ の後,道 銀 に合 併 し た。

泰 北 銀 行 が 明 治33(1900)年 に札 幌 で 設 立 さ れ た 。 大 正3(1914)年 に小 樽 に 本 店 が 移 さ れ た(色 内2の2,後 に稲 穂 東7の11)。 北 海 道 殖 産 銀 行 小 樽 支 店 もあ っ た 。 大 正8(1919)年 にで きた銀 行 で あ っ た 。 大 正3(1914)年,樺 太 銀 行 は小 樽 支 店 を も っ たが,昭 和16(1941)年 に 拓 銀 が 合 併 した。昭 和16(1941) 年,泰 北,北 海 道 殖 産,北 海 道 商 工 銀 行 は,道 銀 に 吸 収 合 併 され た。

北 海 道 拓 殖 銀 行 は,明 治33(1900)年 に発 足 され,小 樽 支 店 は34(1901)年 に 設 置 さ れ た 。

明 治38(1905)年,北 海 道 貯 蓄 銀 行 が で き,翌39年 に小 樽 支 店 が 開 設 さ れ た 。 明 治41年 に休 業 とな っ た 。だ が 明 治42年 に 再 開 さ れ,拓 殖 貯 金 銀 行 と改 称 した 。 そ の 後 大 正11年 に,北 門 銀 行 と な っ た 。 そ れ は後 に拓 殖 銀 行 に 合 併 さ れ た 。

明 治40(1907)年 に,函 館 銀 行 小 樽 支 店 が 設 け られ,大 正11(1922)年 に函 館 百 十 三 銀 行 に合 併 され た。 中 越 銀 行 が,大 正 元 年 に支 店 を 出 し たが,後 に, 合 併 して北 陸 銀 行 に な っ た。 大 正6(1917)年 に不 動 貯 金 銀 行 支 店 が で き,後 に,協 和 銀 行 と な っ た 。 大 正11(1922)年 に は三 菱 銀 行 支 店 が 開 設 さ れ た 。 大 正4(1915)年 に 第 七 銀 行 小 樽 出 張 所 が あ っ た。 第 一 銀 行 が大 正 元 年 に,二 十 銀 行 を合 併 した 時,小 樽 に来 た 。 大 正 の 初 め,不 動 貯 金 銀 行 が 代 理 店 を 置 い て い た 。 大 正6(1917)年 に支 店 を置 い た 。 横 浜 正 金 銀 行 が 小 樽 出 張 所 を 大 正11

(1922)年 に 開設 した 。 そ れ が 大 正15(1916)年 に 支 店 に な っ た 。(越 崎) 明 治28(1895)年 に三 菱 銀 行 が 建 て られ た 。 小 樽 無 尽 会 社 は,後 に北 洋 銀 行

(21)

に な る。

函 館 に小 樽 が 追 い 付 き追 い 越 した の は,日 銀 の 設 置 と小 樽 高 商 の 開 学 で あ っ た。 明 治45(1912)年 に 日銀 の 建 物 が 完 成 した 。 日銀 は 明 治26年 に,札 幌,函 館,根 室,室 蘭 に4出 張 所,小 樽 に 派 出所 を 設 け た。 明 治30(1897)年 に小 樽

は 出 張所 に昇 格 した 。 明 治40(1907)年 に支 店 に な り,道 経 済 の 中 心 が 函 館 か ら小 樽 に移 っ た 。

国立 銀 行 は 実 際 は民 間銀 行 で あ っ た 。 明 治31(1898)年 ま で に す べ て の 国 立 銀 行 が 普 通 銀 行 に な っ た 。小 口 高 利 が は や っ た。銀 行 金 利 は 小 樽 で最 低2割 だ っ た 。 日清 戦 争 の賠 償 金 で 日銀 か ら銀 行 が 金 を借 り,商 人 に貸 し,利 ざや を かせ い だ。

小 樽 無 尽 会 社 は 寿 原 重 太 郎 が 作 っ た 。 後 に北 洋 相 互 に な り,そ の 後,北 洋 銀 行 に な っ た 。 明 治27(1894)年 に余 市 銀 行 が で き,明 治30(1897)年 に本 店 を 小 樽 に 移 して,小 樽 銀 行 と した 。 明 治39(1906)年 に北 海 道 商 業 銀 行 と合 併 し て,北 海 道 銀 行 に な っ た 。 戦 時 中 これ は拓 銀 に 合 併 さ れ た 。

小 樽 は 明 治20年 代 に,商 港 と して の 地 位 を確 立 して きた 。

小 樽 は,玉 葱,林 檎,の 農 産 物 輸 出 に力 を入 れ,全 国3位 の 輸 出港 に な っ た 。 20に 及 ぶ 銀 行 が小 樽 に集 ま った 。 建 築 は木 骨 石 造 建 築 で あ っ た。 木 骨(も っ こ つ)と は,建 物 の ホ ネ の 部 分 が 木 で で き て い る もの で あ る。 当 時 の小 樽 は ほ と

ん ど これ で あ っ た 。

明治32(1898)年,小 樽 は,函 館 につ い で,第2の 開港 場 に な っ た 。

鉄 道 と港 湾 整 備 の お か げ で 急 速 に発 展 した小 樽 で は,や が て官 と結 ん だ 商 人 た ち が 羽 振 りを きか せ,道 内 一 の経 済 都 市 と して 繁 栄 す る よ う に な った 。 大 金 持 が 続 出 し,明 治 後 期 に は,上 京 す る と吉 原 を借 り きっ て 豪 遊 し,東 京 の新 聞 に 「蝦 夷 の大 尽,吉 原 の 大 門 を 閉 つ る」 と まで 宣 伝 され た 回 船 問屋 が 現 れ … … た15)。

15)夏 堀 正 元 「彼 を 育 て た 町 一 小 樽 」(小 林 多 喜 二 全 集 月 報3, 9月)1‑2ペ ー ジ。

第3巻 付,1982年

参照

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