奈良教育大学学術リポジトリNEAR
近世前期の酒造政策と奈良酒
著者 大谷 哲也
雑誌名 高円史学
巻 15
ページ 15‑33
発行年 1999‑10‑01
その他のタイトル The Sake Brewing Policy in the Early Kinsei Period and "Narazake"
URL http://hdl.handle.net/10105/8755
近世前期の酒造政策と奈良酒
は じ め に
大 谷 哲 也
近世における酒造業は︑諸産業の中でも特に幕藩領主によって厳しく統制をうける産業であったといえる︒それは酒造業
が幕藩領主にとって貢組米の販売先として重要であったためであり︑また酒造業の動向が米価の重要な決定要因となったた
めである︒米価は領主財政に大きく影響するものであり︑飯米の消費に次いで多くの米高を消費する米穀加工業である酒造
業を幕藩領主が掌握し︑酒造統制を行うことによって酒造米高を調整してゆくことは︑幕藩領主が米価を適切に調節するに
あたり︑米の需要増減のための重要な施策であった︒
︵
1 ︶
こうした近世酒造業についての研究は柚木撃氏の諸研究をはじめとした多くの研究がある︒それによると近世酒造業の展
開は大きく二つにわけて考えることができる︒すなわち近世前期の幕藩体制確立期に展開する酒造業と︑近世中後期からの
幕藩体制解体期に展開する酒造業とである︒近世前期の酒造業は都市部において専業化した酒造業者によって営まれたもの
で︑酒造業は領主米の商品化を機軸として主に上方諸都市に於いて急速に発展し︑元禄の頃までには都市部の特権的酒造業
−15−
者による繁栄がみられた︒これに対して近世中後期の酒造業は︑農民的経済の発展と農村工業の展開によって農村で営まれ
はじめた酒造業であり︑この在方酒造業者の台頭は享保期以降に始まり︑文化文政期には特に江戸積酒造業において灘など
に代表される在方酒造業者の繁栄があった︒こうした近世酒造業の展開は研究史においてはそれぞれの酒造地ごとに幕府の
酒造政策との関連を中心に述べられている︒そうした幕藩領主による酒造統制の展開の中で︑これまでの研究史では近世中
後期以降の江戸積酒造地の新興在方酒造業者についての研究は多くみられが︑近世前期の酒造統制については史料が少ない
こともあって十分な研究が行われているとは言い難い状況と患われる︒
以上の研究状況の把握に立って本論では︑まず近世前期における酒造政策の特質について考察する︒特に当時の酒造業の
中心である上方酒造地においての幕府の酒造政策実施に際しての地域性について考察した上で︑そうした酒造政策の地域性
の根拠についても考えてゆく︒また幕府が酒造政策を実施する際に酒造統制の基本とするため酒造米高を株高として指定し
た酒造株を設定するが︑これには広く一般酒造家に認められた一般の酒造株とは別に特定の者に与えられる﹁由緒株﹂とい
うものがあり︑この﹁由緒株﹂の成立についても考えてゆきたい︒
ー16−−
第早 近世前期の酒造統制
近世の酒造統制は基本的に酒造株に表示された株高に応じて実施される︒この酒造株がはじめて制定されたのはハ五七
︵ 2
︶
︵明暦三︶年の事とされている︒その酒造株設定以前の一六三四︵寛永十一︶年において幕府は初めて酒造制限を行ってい
る︒これは前年における各地の災害・凶作のため米価が急騰したことから︑幕府が酒造米高を制限するために出したもので︑
その法令は特に在々における酒造を禁止した上で︑
二去年昔年︑在々処々料作損亡之慮︑真上材木山出等付而︑米金費之間︑酒作之儀︑京都︑大坂︑奈良︑堺其外名酒之
︵ 3
︶
所々二至迄︑昔年来年ハ︑例年之半分可作之︑並新規之酒屋︑一切可令停止之︑︵略︶
と記しており︑米価調節の観点から二分の一造りの酒造制限令が出されている︒ここで注目すべきはその条文中に京都・大
坂・奈良・堺など︑当時︑上方において急速に発展している有力な酒造地を特に指すことで酒造制限の意図の貫徹を図って
いる事である︒同様の制限令は飢饉のあった一六四二︵軍氷十九︶年九月にも出されているが︑この際にも︑
︵
−
︶
江戸︑京︑大坂︑堺︑奈良︑其外各酒之分︑又ハ諸国ヨリ往返之道筋所々城地︑市之立候所︑入居多町ハ︑去年之半分
として︑同様に有力な酒造地を特に指すことによって一層の酒造制限の貫徹を図っているのである︒
このように当時の酒造政策には有力な酒造地での酒造制限を徹底する︑といった地域性を持たすことで酒造政策の目的で
ある米価調節の意図の貫徹が図られている︒さらに酒造株が設定された一六五八︵万治元︶年から同三年までの三年間に渡っ
︵ 5
︶
て連年出された二分の一造り令の際にも︑その法令中には特に江戸・京都・大坂・奈良・堺など当時︑名酒の生産地とされ
た有力酒造地域を指しており︑このことからも幕府が酒造政策の意図貫徹を図っていることがわかる︒
ー17−
次に酒造統制が行われたのはハ六六︵寛文六︶年である︒この時は株改めと同時に二分の一造り令が出され︑この時に
︑.ト︑
も﹁江戸︑京都︑大坂︑堺之津井名酒之所々其外於諸国在々所々﹂として特定の酒造地を指している︒しかし︑この減醸令
︵ 7
︶
の条文では奈良の名が除かれている︒この年の奈良についてはハ九九︵元禄十二︶年の﹃惣酒屋口上書﹄によると︑
一︑此度酒造之義︑是迄之五分一被為仰付謹承知候︑然れは先年︑御当地の御奉行土屋忠治郎様御代三十四年以前寛文六
年午之年二世上米高値二付︑諸国共造酒半分二被為仰付候︑然共南都之義は御赦免被為仰付古来之通不和替造酒仕候︑
︵ 略 ︶
とあり︑この年の奈良への二分の一造り令の通用は免除されたようである︒
同様にこの時期から︑いわゆる﹁名酒﹂の生産地に対しては︑酒造制限令の実施に際して減醸令などが免除︑あるいは緩
︵ 8
︶
和されるという事例が見られる︒まず一六七〇︵寛文十︶年に四分の一造り令が出された時には同じ奈良に対して︑
南都之義は御赦免被為仰付古来の通造酒仕ル如此前々も諸国は造酒之義段々御触御座候へ共︑南都之義は古来の通毎度御
︵ 9
︶
赦 免
被 為
仰 付
候 ︑
︵ 略
︶
︵ 1
0 ︶
として︑この減醸令を免除したようである︒翌寛文十一年に八分の一造り令が出された際には伊丹では当時︑酒屋数四十八
︑ ︶
軒で酒造高四万石であったものが八分の一造り令によって醸造高が五千石となり︑単純に考えて一軒あたりの酒造高はわず
かに百石余となってしまう︒そのため伊丹では︑これでは渡世できぬとして京都所司代へと増石を嘆願している︒その際の
﹃減石令の節 増石嘆願書﹄によると︑次のようにある︒
一︑伊丹之義ハ無隠名所二而︑江戸様御繁昌従︑従往古酒家相続仕︑家数四十八軒四万石ノ株ヲ以凡十万石余も酒造仕侯
所︑先年酒御法度之節八ケ一二減少可仕旨被仰出候二付︑右四万石ノ八ケ一ハ親五千石工而四十八軒ノ酒屋一軒二百
−18−
石斗りこ相当り候へハ︑渡世可仕様無御座及潟命二可中段︑なけかしき次第二奉存︑四十八人ノ酒屋共京都へ罷上り︑
其時之御諸司板倉内膳正枝へ右之段々御訴訟中上候へハ︑色々御吟味成被為下僕上︑伊丹洒之義ハ南都同様之名酒申
義被為聞召届候由二而︑世間ハ酒造減少之節︑下地四万石ノ酒株八万石二成被為下︑右之八ケ一酒造可仕旨被為仰付︑
酒家相続仕難有奉存候︑尤伊丹造り高八万石と申義ハ︑御公義御順見様方御通り之節毎度御尋二付︑石数書付指上候
御 事
︑ ︵
略 ︶
それによれば︑所司代は伊丹が奈良と同様に名酒の生産地であることを特に考慮し︑伊丹のもともとの株高が四万石のとこ
ろを︑その倍の八万石に改めた上で︑その八分の一造りということで︑一万石の酒造を行うことを許しており本来は八分の
一造りの酒造制限であるが伊丹に対しては事実上︑四分の一造りへの緩和となっている︒また同年︑奈良に対しても︑
元来南都ハ名酒にて御座候故為御用捨二十七年以前寛文十一亥年に諸国造酒減少被為仰付候節も南都斗りは御赦免被為成
︵
1 2
︶
被 下
候 ︑
︵ 略
︶
と︑奈良が名酒の生産地であることを理由に八分の一造り令の適用を免除しており︑さらに一六七二︵寛文十二︶年に出さ
︑ ‖︶
れた同じ八分の一造り令でも奈良では﹁於諸国新酒造申儀︑御法度被仰出候得共︑南都にては︑冬造之新酒御赦免被成造り
︵ 1
. −
︶
中に付而﹂と︑この時の減醸令通用も免除となっている︒またこの時期︑西宮においても一部の酒造家に酒造制限の緩和が
︵ 1
5 ︶
行われていたようである︒西宮の一七〇〇︵明和元︶年﹃酒株人別帳﹄から一六六六︵寛文六︶年とハ七九︵延宝七︶年
時点のそれぞれの酒造家の株高を比較・整理した表1によると︑西宮では一般には八分の一造りであった延宝七年において︑
一部の酒造家では四分の一造りが行われていることがわかる︒これはこの時期︑西宮においても一般の酒造家とは区別して︑
特権的に酒造制限の緩和が許される酒造家が存在したと言えるだろう︒
ー19一
表1 寛文6年,延宝7年西宮酒造業者・株高
酒 造 株 所 持 者 寛文 6 年 延宝 7 年御
減 醸 率 酒 造 抹 所 持 者 寛 文 6 年 延宝 7 年御 減 醸 率
( ◎ 印 = 四 分 の − 造 り) 株 高 ( 石) 改株 ( 石) (◎ 印 = 四 分 の 一 造 り) 株 高 ( 石 ) 改株 ( 石)
雑 古 屋 八郎 右 衛 門 5 0 0 6 2 5 0 1 2 5 小 阿 見 善 衛 門 5 10 6 3 7 5 0 1 2 5
◎ 雑 古 屋 太 右 衛 門 JJ Jl 雑 古 屋 五 郎 衛 門
50 0 1 25 0 2 5 ◎ 小 阿 見 善 右 衛 門 3 0 0 75 0 . 2 5 3 4 0 4 2 5 0 1 2 5 筒 屋 八郎 右 衛 門 5 0 0 6 2 . 5 0 1 2 5
6 0 7 5 0 1 2 5 ◎ 〝 3 5 8 7 5 0 . 2 5
4 7 0 5 8 7 5 0 . 1 2 5 ◎ 千 足 利 兵 衛 2 4 0 6 0 0 . 2 5 雑 古 屋 勘 十 郎 2 5 0 3 1 2 5 0 . 1 2 5 ◎ 千 足 助 右 衛 門 13 2 3 3 0 2 5
◎ 雑 喉 屋 源 兵 衛 18 5 4 6 2 5 0 2 5 ◎ 当会 吉衛 門 1 3 0 3 3 75 約 0 25 推 古 最 新 十 郎 17 0 2 1 0 2 5 約 1 2 4 当舎 吉 右衛 門 7 0 8 7 5 0 1 2 5 雑 古 屋 善 五 郎 15 0 18 7 5 0 1 2 5 尼 崎鯛 や伊 左 衛 門 5 0 0 6 2 . 5 0 1 2 5
◎ さ こ屋 久 左 衛 門 15 0 1 8 7 5 0 2 5 鮒 屋 五 郎 左 衛 門 3 5 0 4 3 7 5 0 1 2 5 雑 古屋 市 郎 衛 門 1 2 7 5 2 7 5 約 0 2 2 三砂 屋 善 吉 3 0 0 3 7 5 0 1 2 5 雑 古屋 久左 衛 門 1 2 0 3 7 5 0 1 2 5 ◎ 平 内 太 郎 衛 門 2 5 0 6 2 5 0 2 5
◎ 雑 古 屋 能 次 郎 1 0 0 2 5 0 . 2 5 乙馬 屋 庄 衛 門 2 5 0
1 8 0 1 1 8 5
4 5
約 0 0 5
0 25 雑 古 屋 吾 次 郎 5 0 6 2 5 0 1 2 5 ◎大 坂 天 満
真 宜 九 右 衛 門 2 5 9 8 3 2 4 7 5 0 1 2 5 鹿 島 清 兵衛
/ J 1 8 0 2 5 5 約 0 14 小 寺 勘 重 郎 1 5 0 1 8 7 5 0 12 5
/ J 1 8 0 2 5 5 約 0 14 ◎亦 野 善 兵 衛 1 5 0 3 7 5 0 2 5
真 宜 九 右 衛 門 ワ 5 0 6 2 5 0 1 2 5 ◎ 中川 長 二郎 1 4 0 3 5 0 25
真 宜 喜 右 衛 門 2 0 2 5 0 1 2 5 時 友 松 田 嘉兵 衛 1 4 0 1 7 約 0 12
小 網 中 惣 兵 衛 8 0 0 1 0 0 1 2 5 真 多 屋 治 兵 衛 1 4 0 1 7 5 0 1 25
小 網 中 源 兵 衛 11 小 網 中 利 兵衛
6 5 0 8 1 25 0 12 5 ◎ 十 文 字 屋 太 兵 衛 1 3 5 3 3 7 5 0 2 5 3 0 0 3 7 5 0 . 12 5 ◎ 住 吉 村 喜 四郎 13 4 5 3 3 6 2 5 0 2 5
7 0 8 75 0 12 5 常 念 平 衡 門 1 3 0 1 6 2 5 0 12 5
◎ 加 茂 崖 権 兵衛 6 0 1 5 0 2 5 上 田屋 武 兵 衛 1 2 5 1 5 6 2 5 0 12 5
加 茂 屋 善兵 衛 1 0 0 15 5 0 15 5 ◎ 紹 屋 利 右 衛 門 1 0 0 2 5 0 2 5
加 茂 や 権 八 6 0 7 5 0 12 5 ◎ 奈 良 崖 太 郎 衛 門 9 5 2 3 7 5 0 2 5
辰 与 惣 左 衛 門 6 5 0 8 1 2 5 0 1 2 5 ◎ 小 橋 源 太 郎 8 0 2 0 0 2 5
辰 与 十郎 4 1 6 5 2 0 12 5 善 茂 治 左 衛 門 6 5 8 12 5 0 1 2 5
さか 屋 利 兵 衛 1 0 2 0 1 2 7 5 0 12 5 ◎ 格 屋 武 兵 衛 6 5 16 2 5 0 2 5
さが 屋 弥 兵 衛 2 0 0 2 5 0 12 5 又 野 善 兵 衛 4 0 5 0 1 2 5
このように寛文・延宝期にかけ
て一般には減醸規制の強化が行わ
れている中︑奈良・伊丹・西宮な
ど特定の酒造地においては減醸規
制自体の免除・緩和という政策が
行われるという状況が見られる︒
一六九七︵元禄十︶年に三度目
の株改めが行われたが︑これはそ
れまでの二度の株改めがいずれも
一六五七︵明暦三︶年の酒造株高
の確認であったのに対して︑この
時の株改めは幕府が米価調節に加
え︑さらに酒運上金の賦課を目的
として新たに酒造業を掌捜したも
︵ 1
6 ︶
の で
あ っ
た ︒
こ れ
に よ
っ て
一 六
九 七
︵元禄十︶年から一七〇九︵宝永
六︶年までの十二年間︑酒造家に
ー20−
対して五割の酒運上金が義務づけられた︒この際︑伊丹においては株高六万石に対してその運上金を上納したのでは商売が
できない︑として京都所司代に対し特に用捨を願い出たところ︑一六九七︵元禄十︶年と翌十一年に六万石の株高に対して
株高約一万石相当についてのみ運上金で許されている︒さらに元禄十二年以降は五分の一造りゆえ︑その約一万石の五分の
一ということで約二千石の株高での運上金で許されているが︑実際には﹁内々二而ハ﹂と六万石の酒造を行っており︑伊丹
では事実上︑運上金が約六分の一に許されていたようである︒
︵ 1
7 ︶
また︑五分の一造り令の出されたハ九九︵元禄十二︶年︑奈良ではこれまでの減醸令の際にも﹁南都之儀ハ余国と達︑
︵ 1 8
︶
︵ 1 g
︶
︵ 2 0
︶
酒・布に而渡世仕﹂であるため﹁南都之義は格別と御座候而︑願之通二而﹂として度々﹁御赦免被為仰付古来の通造酒仕ル﹂
となっていた︒そのためこの時も︑
二御当地之義は惣酒屋謹少の義こて御座候へ共︑他国之大酒屋二三人造り中程之酒株を奈良惣酒屋中として造り申す義
︵ 2
1 ︶
に御座候得者わすかに成義こて御座候所其内を五ケ一造酒仕りては酒屋渡世可仕様無御座候迷惑至極仕り︵略︶
として奈良奉行所に減額令の免除を願い出ている︒その趣旨を奈良奉行妻木彦右衛門が京都所司代を通じて老中に伺ったと
︵ 2
2 ︶
ころ︑﹁南都造酒之儀︑外之場所とは違い候間︑去年造高之内三分二造之︑三分一は無用可付候﹂として︑奈良では五分の
一造り令のところを三分の二造りに緩和している︒
︵ 2
3 ︶
一七〇〇︵元禄十三︶年に﹁去々寅年造高之員数半分之積可造之候﹂とした二分の一造り令の際にも︑奈良では﹁於南都︑
︵ 2
4 ︶
当辰年酒造米之儀︑去々寅之年造米員数之通造候様二可被申付候﹂として︑酒造制限のなかった元禄十一年の酒造量のまま
造ることを許している︒またその翌元禄十四年に五分の一造り令が出された際にも︑﹁外とハ達︑南都酒商売候所二候条︑
︵ 2
5 ︶
去ル寅之年造高之三分一造申様被仰渡二付﹂として︑奈良は三分の一造りを行うことが許されている︒さらに一七〇二︵元
−21−
禄十五︶年から連年出されている五分の一造りの酒造制限令では︑その法令において︑条文中に︑
︵ 2
6 ︶
一︑古来より人も存︑造酒計家業二仕来る候所々は︑以書付御勘定所え相伺候上︑丑年酒造米高三分一之積可造之事
とある︒これは中世後期から近世前期にかけての︑いわゆる﹁名酒﹂とされる高級酒を作り出す由緒ある酒造地に対して︑
他の酒造地は五分の一造りのところ︑三分の一造りへと酒造制限を緩和することが条文中に明記されている︒
同様の条文は一七〇八︵宝永五︶年までの聞︑連年出された五分の一造りの酒造制限令に明記されている︒この条文に対
︵ 2
7 ︶
して西宮では一七〇二︵元禄十五︶年に﹁此ヶ条ハ南都・鴻池・伊丹杯之義二候︑外之場所之義こてハ無之由﹂とした上で︑
元禄十五午七月御触之節五分一被仰付︑古来より酒斗之所々ハ三分一可造旨御触有之二付︑国々御奉行所・御代官方・御
地頭方御心人工寄り御吟味方連中候︑酒斗造者ハ三分一外二商売も致候者ハ五分一と恩召も有之︑又ハ酒造り申者ハ外之
商売致候方不罷成候様二御覚へ之御方も有之︑国々諸々こて連中候︑池田・伊丹・浅田ノ下・尼ノ下・森・坂部・七松・
︵ 2
8 ︶
西武庫・□□・加茂・久々知御地頭様方其詮議もなく候︑︵略︶
と︑一般の酒造地には五分の一造りを行う中これら池田・伊丹・鴻池などの酒造地に対してはその条文通りに三分の一造り
が通用されていることがわかる︒また同じ元禄十五年︑奈良では奈良惣酒屋一同が三分の二造りを願い出たが︑
去丑年酒造高三分一造之︑寒造之外新酒御停止被仰出候処︑石高三ケ二井新酒造申度之旨願侯へとも︑l先不相叶候処追
︵ 2
9 ︶
而当年被仰出候︑三ケ一石高之内を以寒前二造懸ケ申度之旨︑段々相願候二付︑︵略︶
と︑これは叶わなかった︒そこで改めて三分の一造りを願い出たところ︑﹁然処同廿一日御窺二罷出侯二付達御耳︑仰出候
︵ 3
0 ︶
ハ江戸酒や五人御赦免之旨申来候﹂と五人の奈良﹁江戸酒屋﹂に対しての三分の一造りが許されている︒
このように十七世紀を通しての幕府の酒造政策は︑その当初の目的が米価調節の貫徹であり︑元禄〜宝永期には酒運上金
ー22…
賦課をその目的に加えたものの︑そうした酒造政策の実施に際しては︑特定の酒造地に対しての免除・緩和の政策が行われ
る︑といった地域性を見ることができる︒その中でも特に奈良については一七〇三︵元禄一六︶年以降は史料的には確認で
きないものの︑同様の五分の一造りの酒造制限令が一七〇八︵宝永五︶年まで連年出されていることから︑その頃までは酒
造統制の免除・緩和の政策が行われたものと思われる︒このような政策が寛文期以降︑宝永期まで一貫して行われているの
は奈良だけであると言え︑注目される︒そこで次にこうした奈良での地域性の特質について考えてゆく︒
第二章 酒造統制の地域性の特質
先に述べたように幕府酒造統制は︑その実施に際して特定の酒造地での制限令免除・緩和といった政策がとられている︒
︵ 3
1 ︶
特に奈良に対しての事例は多く︑また伊丹などの他の酒造地でも﹁南都同様之名酒申義被為聞召届候由二而﹂などとして免
除・緩和を願い出ていることから︑寛文期以降の制限令免除・緩和の政策は奈良を中心に行われていると言えるだろう︒
この奈良の酒造業は中世以来の僧坊酒に始まり︑いわゆる﹁諸白づくり﹂といわれる酒造技術の確立と︑大桶など酒造容
器の大型化などを行うことで︑早くから近世的な酒造技術の基礎を確立した酒造地だといえる︒この奈良酒造業については
︵ 3
2 ︶
﹃町代和田藤左衛門諸事控﹄に﹁申坊飛騨守御時︑五萬石酒造り出ス︑五萬石工付米七萬石トヤラン入用之由﹂とあり︑す
でに慶長年間の頃には七万石の酒造米を用いて五万石程の酒造高があったようで︑また一六九五︵元禄8︶年に刊行された
︵ 3
3 ︶
﹃本朝食鑑﹄には︑﹁和州南都造酒第一トナス︑而シテ摂州之伊丹︑鴻池︑池田︑富田之二次グ﹂とあるなど︑近世初期にお
いての酒造業では先進的・指導的な立場にあったと恩われる︒この奈良酒は﹁南都諸白﹂などと呼ばれ︑天下第一等酒とし
ー23−
︵34︶
ての名声を博して天正の頃には京都を中心に送られ︑貴顕の間で贈答などに用いられていたようである︒
こうした奈良酒造業の繁栄の中︑ハ一四︵慶長十九︶年の大坂冬の陣を前にして二条城を発した家康が奈良に駐泊した
際や大坂の冬夏両陣を通して︑奈良の酒造家は徳川方の陣中に御膳酒を献上したようあり︑その後も将軍家の御酒御用にも
応えていたようである︒
江戸は江戸開幕以来︑幕藩体制の確立とともに︑徳川将軍の城下町としての整備が進み︑参勤交代制によって江戸で居住
する諸大名や家臣団︑さらにそれを支える諸商人や職人の集住からの急激な人口増加から一大消費都市となっていた︒この
江戸においては将軍家や諸大名などの間で消費される高級酒の需要は年々増大していったものと思われる︒しかし将軍家を
はじめ︑領主階級に納入する酒については並の酒屋ではなく︑品質・格式ともに信頼のおけるのもである必要があったと思
︵ 3
5 ︶
われる︒これに対して近世初期の江戸での御用酒屋は当初︑三河以来の伊勢屋作兵衛・松屋理兵衛などがあったが︑彼等小
規模な地酒屋だけでは︑急速に増加する江戸の領主階級からの酒需要に対応しきれるものではなかったと思われる︒そのた
め当時︑日本有数の生産量であり︑天下第一等の酒と評価されていた奈良酒が取り上げれらたのであろう︒
すなわち︑奈良酒屋の中には菊屋治左衛門などのように江戸での出店である江戸酒屋を設けたり︑また正法院︵奈良屋︶
︵ 3
6 ︶
八左衛門・糸屋忠助のように江戸に拠点を移すなどして表2にあるように︑奈良﹁江戸酒屋﹂は日本橋界隈呉服町のあたり
に十三軒が集住していた︒おそらく元和・寛永期の早い時期から江戸への下り酒を行っていたと思われ︑年々増加する江戸
での領主階級の高級酒需要に対応していったのであろう︒
そしてハ二八︵寛永五︶年五月︑まず菊屋治左衛門が老中稲葉丹後守から正式に御本丸御用酒屋を仰せ付けられ︑さら
に翌々年の寛永七年三月に正法院八左衛門も若年寄堀田加賀守から御本丸御用酒屋に任命され若年寄支配の御賄所御用酒屋
−24−
表2 天和3年奈良「江戸酒屋」一覧
奈 良 「 江戸酒屋 」 7工戸の住所 奈良の住所 松庵八左衛 門 元呉服町 之前 ′ J、西町
菊足長左衛門 付
け 南大工町−丁 目
椿井町
加賀屋又三郎 高天 市町
井筒屋九郎兵衛 今 小路町
菊庵治左衛門 同町 南側 中筋町
泉 屋 彦 六 南大工町河岸広小路角 上三条町 泉尾四郎兵衛 ひ もの町一丁 日
JJ JJ 中橋の河岸
下三条町
岩井九右衛門 鵠町
井戸屋理右衛門 上三条 町
金屋 善兵衛 元輿 寺町
讃岐屋兵助 南鍋町北側鍋嶋殿橋際 中院町 糸 屋 忠 助 桧物町河岸
奈 良屋 八左衛 門
( 正法院)
南大工町
『享保年間町代和田藤左衛門諸事控』(『藤田文庫』所収)に拠る
︵37︶
として将軍家の御膳酒上納を勤めることとなった︒そうした将軍家御膳
酒を供給する奈良酒屋の本拠である奈良に対しては御膳酒上納に差し支
えのないように幕府の特別の保護が加えられることになったと思われ︑
先に述べたような減醸規制の免除・緩和といった政策がとられたものと
思われる︒また︑そうした寛文期以降の減醸規制の免除・緩和政策の他
に も
一︑寛永十一甲成年︑大献院様御上洛之時︑奈良ハ酒晒名物の品に候 ︑
問以後迄捨り為不申︑御城米御貸披遊候
米六千七百石ヨリ四千八百石迄年々不同寛文四甲成年町中ヨリ御
︵ 3
8 ︶
願奉中上︑御城米御倍シ不被遊候
と奈良に対しては︑ハ六六︵寛文六︶年からの減額規制の免除・緩和
政策がとられる以前のハ三四︵寛永十一︶年から一六六四︵寛文四︶
−25−
年の三十年間にわたって︑千石単位で領主米の貸し付けを行って酒造米の確保を保証してきたようである︒ただ︑奈良の酒
造業は十七世紀末までにはすでに衰退しているようで︑先にも述べたように慶長年間の頃には五万石程の酒造高があったよ
︵ 3
9 ︶
うではあるが︑ハ六〇︵万治三︶年の時点では﹁酒株惣合壷万六千百拾四石二斗五升﹂とあり︑さらにハ九七︵元禄十︶
︵ 4
0 ︶
年の﹃惣酒屋口上書﹄には︑﹁古の酒株は奈良中は萱万五︑六千石程御座候間︑酒屋百拾軒余御座候得共︑ぜんぜんト減少
仕︑只今は酒屋六拾軒程に罷成︑酒もわずかに六千石余奈良ては造り不申侯﹂と︑その衰退の様子が伺える︒さらに正徳年
間以降の自由営業期からは幕末までは停滞を続けるのである︒
﹃享保年間町代和田藤左衛門諸事控﹄によると一六八三︵天和三︶年の時点で十三軒の奈良﹁江戸酒屋﹂が挙げられてお
り︑さらに﹁御本丸江差上申奈良酒屋﹂として︑
江戸槍物町河岸 糸屋忠助
同 呉服町河岸 松屋八右衛門
同 南大工町 奈良屋八左衛門
同 菊屋治左衛門
︵
4 1
︶
右四人奈良酒屋差上ケ申候︑外二江戸地酒屋両人御座候 是ハ南都酒ハ売不申候
と記されており︑右の四名の奈良酒屋が江戸城への酒上納・調達を勤めていることがわかる︒これら奈良﹁江戸酒屋﹂が将
軍家御酒御用をはじめ︑領主階級の酒需要に対応していったものと思われる︒
右の事実は領主階級が消費する高級酒の需要を満たすため︑市場を媒介しない形で直接︑酒を必要物資として領主のもと
に上納又は調達させる目的で︑高級酒の生産量を確保してゆく政策であろう︒それゆえ酒造統制政策においても一般には米
価調節の貫徹をはかるべく減醸令を強化する一方で︑その実施に際しては領主需要のための高級酒を生産する特定の酒造地
に対して︑減醸令を免除・緩和する政策が行われていったのであろう︒さらに奈良ばかりではなく︑他の酒造地に対しても
酒造制限の免除・緩和の政策がとられた事は︑﹁南都同様之名酒﹂と領主側からも高級酒生産地としての認識がなされてい
たからであったと思われる︒
こうして奈良酒屋は御賄所御用酒屋として︑表3にあるように︑近世を通じて将軍家御膳酒の上納を勤めたのである︒ま
−26−
江戸幕府の御用酒屋 表3
年 代 御 用 酒 屋 名
16 8 1 ( 天 和 元) 江 戸御 用 聞 町 人 ・御 酒 屋 伊 勢 屋 作 兵 衛
1 6 8 8 ( 貞 享 5 ) 〝 御 酒 屋 伊 勢 屋 作 兵 衛 1 7 3 2 ( 享 保 1 7 ) 御 賄 所 支 配 ・御 酒 屋 糸 屋 忠 助
JJ 菊 屋 治 左 衛 門
〝 正 法 院 八 左 衛 門
1 7 4 3 ( 寛 保 3 ) 〝 御 酒 屋 正 法 院 八 左 衛 門 11 菊 屋 治 左 衛 門 11 糸 屋 忠 助
1 7 5 0 ( 寛 延 3 ) 〝 御 酒 屋 菊屋 治左 衛 門
〝 正 法 院 八 左 衛 門
〝 糸 屋 忠 助
1 7 6 7 ( 明 和 4 ) 〝 御 酒 屋 正 法 院 八左 衛 門
〝 菊 慶 治 左衡 門 Jl 糸 屋 忠助
〝 伊 勢 屋 作 兵 衛
1 7 7 3 ( 安 永 2 ) JJ 御 酒 屋 正 法 院 八左 衛 門
〝 菊 屋 治左 衛 門 Jl 糸屋 忠助 JJ 伊 勢屋 弥 兵衛
1 7 9 1 ( 寛 政 3 ) 〝 御 膳 酒 所 正 法院 八左 衛 門
〝 菊 屋 治左 衡 門 御 酒 屋 高 嶋 弥兵 衛
11 木 津 屋 理 兵 衛
1 8 0 9 (文 化 6 ) JJ 御 膳 御 酒 屋 正 法 院 八 左 衛 門 Jl 菊 屋 治 左 衛 門 御 酒 屋 高 嶋 弥 兵 衛
JJ 木 津 屋 理 兵衛
加藤百一「下り諸白雑稿」(『酒史研究』第9号1999年)に拠る
たそれは同時に若年寄支配
の卸賄所御用酒屋として幕
藩体制の末端機構の中に組
み入れられていったことで
もある︒一六九七︵元禄十︶
年︑幕府は酒屋への運上金
賦課を目的とした三度目の
株改めを行った︒この洒運
上金は酒価を五割方値上げ
し︑その値上げ分を運上金
として徴収するものであっ
たが︑その際に次のように
ー27一
指 示 し て い る ︒
今度町中造酒屋共方より御運上出候筈被仰付候︑就夫御運上之儀御酒屋理兵衛︑八左衛門︑次左衛門︑忠助此四人取立申
候︑改候仕方者︑右四人之者より可申談候問︑少も違背仕間敷候品により︑四人之方より酒屋共呼可申候間︑左様に候は
︵
1 2
︶
ゞ早速罷越差圏を請可申侯︑但請酒屋之分は運上出し不申︑造酒屋計出し申候問︑此旨可相心得者也
それによれば︑木津屋利兵衛・正法院八左衛門・菊屋治左衛門・糸屋忠助ら四名の奈良酒屋などからなる御酒屋が﹁酒屋頭﹂
︵43︶
として派遣され︑﹁京・大坂・奈良・伏見・堺五ヶ所︑右支配人四人二被仰付侯﹂と︑彼等が上方の幕府直轄地に赴き︑酒
運上金取り立ての支配を行ったのである︒こうしたことから当時︑奈良酒屋が御酒屋として︑実際に幕藩制下の支配機構の
︵ 融︶
末端として機能し︑当時の上方における中心的酒造地の酒造支配を行っていたことがわかる︒
第三章 正法院・菊屋株の成立
幕府の酒造統制は酒造株に基づいて行われるが︑この酒造株には酒造業者一般に広く認められていた酒造株としての﹁一
般株﹂があるのに対して︑特定の人物を対象としてその由緒によって個人に対して特に許される﹁由緒株﹂というものがあ
り︑その性格上︑売買譲渡は禁じられ︑さらにこの由緒株は基本的には減醸規制の適用から除外され冥加運上金も免除され
︵▲5︶