と五四の議論性文学及び散文
著者 王 風
雑誌名 金沢大学中国語学中国文学教室紀要
巻 10
ページ 31‑55
発行年 2007‑12‑25
URL http://hdl.handle.net/2297/7651
「自由書」から「随感録」まで
― 晩清刊行物の評論と五四の議論性文学及び散文 ―
王 風 [関 泉子 訳]
中国の新聞や雑誌における言論は、論説という文体について言えば、最 初から存在していたと言える。早期に教会を背景とした刊行物、例えば『東 西洋考毎月統記伝』は、現在では三十九冊目にすることができるが、「論」
あるいは「論・叙語」というタイトルがすでに十二編存在している。(1) 同光年間、その書物の量がおびただしい『万国公報』では、各種の論説が 至る所に見られる。しかも宣教師達の漢文の修養はさほど高くなかったと はいえ、彼らの周囲に集まった中国人はその影響を受けたため、伝統的な 古文に比べると文体の上ではすでに少なからぬ変化があったのである。た だしこの種の論説は依然としていわゆる「正論」に値するもので、道理に は乏しく、当時の具体的な事件に焦点を合わせて論じるという、強烈な同 時代性を備えてはいなかった。
新聞にいたっては、『申報』を例に挙げると、最も早い時期の論説は全 て、『纏足説』『汽船論』『時命論』『西洋人の電信、保険、競売を論ずる』
『悪しき因縁を論ずる』『東洋男女の同浴を論じる』といった類の文章で、
(2)状況は大体同じである。つまり、中国早期の刊行
物による言論は、時事に相伴って生じるという特性を備えておらず、ニュ ースとは距離を置いたもので、ニュース特有の速報性は論説の中には存在 していない。この時期の論説はただ新聞や雑誌に載った文章というだけで、
新聞雑誌としての文ではないのである。
同時代では二人の重要な人物を挙げることが可能である。それは王韜と 鄭観応である。梁啓超よりも一世代早い新聞論説家となり、「申報」の創
刊にやや遅れ、1874年より王韜が香港にて『循環日報』を主筆担当し、
日々紙面上に政論を発表した。これらの論説はのちに彼が自分自身で編ん だ『弢園文録外編』の主要な内容となった。「外編と称したのは、その中 で洋務についての言及が多いため、詩文集の中に入れることを欲しなかっ たからである」。(3)
詩文集に入らないため「外編」としてまとめたそうだが、王韜が「歴年 貯めてきた原稿に若干整理を加えたものを取った」結果として、却って『文 録外編』には強烈な著述色彩が現れた。しかも新聞に無秩序に掲載されて いるようでいて、実は事前の計画にそって発表されていたのではないかと も思われる。掲載の順序を見ると、第一巻は「原道」「原学」「原人」「原 才」「原士」「変法上」「変法中」「変法下」「重民上」「重民中」「重民下」
……と続き、もし文章の具体的な内容を読まなければ、危うく桐城派の文 集ではないかと疑ってしまうだろう。二巻は「洋務上」「洋務下」から「官 を設ける西洋諸国・上」「官を設ける西洋諸国・下」「遣使」「有能な人物 を用いる」まで、三巻は「領事を設ける」「伝教上」「伝教下」「水師を鍛 錬する」「電線を設立する」「戦艦を製造する」「鉄路を建設する」「超過権 利を除外する」等等、そのタイトルから題材に時代の色彩を見て取ること ができる。やはりこのように整然と系統だっているからには、初めから成 算があったはずである。六巻からは大体「論」「説」「議」「序」「跋」「書」
「伝」という順序で編纂されており、当時の古文家の詩文集の体裁とほぼ 類似している。しかし王韜は「前後の編成順序は未だ道理に適っていない」、
と残念に思っていたようで、(4)意識して自ら行おうにも、どのようにすれ ば周到にできたかわからなかったのである。
鄭観応の状況も大体同じであった。しかも彼は王韜のように新聞社にお いて主筆の責務を負っているわけでもなかったので、「時局の困難を目撃 すると……綱目が広く巨大なので、順を追って体裁の良いことを書いた。
ただ簡略に挙げるのみで、語彙も詳しくないことは自ら認識していた。数 編が積み重なって書箱に蓄えられていったが、いたずらに自ら研究するも ので、敢えて論撰家を気取ることもなかった。しかし友が読むにつけこれ
を持ち去り、新聞社へと種種雑多に投げ出したのだ」(5)としている。これ だけではなく、「友人が持っていって新聞社に渡した」(6)ことによって、
「文人の心が良からぬものとなる」結果を招いた、と述べるのを読むと、
彼は新聞に載せるために文章を書いたのではないことが見て取れる。この
「論撰」は『循環日報』などの新聞に掲載されたが、ただいずれ詩文集と なる内容を繰り上げて公開したにすぎない。これらの文章を集めて出来上 がった『易言』と『盛世危言』の方では、事前に厳密なプランがあったこ とを反映している。『盛世危言』もまた「道器」(ⅰ)を先頭に置き、各標 題は紙幅の関係で「上」「下」あるいは「一」「二」「三」「四」と区分けさ れているのを除くと、全てが二文字の題目で整っている。内容は「西学」
「議院」「日報」「禁煙」「伝教」「販奴」「国債」「商戦」「保険」「銀行」「間 諜」などの時事問題に及んでいるが、しかし同時期の似たような文集、例 えば馮桂芬の『校邠廬抗議』と類似したものだ。つまり、王韜や鄭観応の 文章はいくらか新鮮な息吹が感じられるものの、依然として「著作の文」
であり、当時たまたま新聞や雑誌という新興のメディアがあったため、著 作としてまとめる前に、新聞上にも掲載するという過程を一段階加えたに 過ぎないのである。
文章の具体的な作法は、あまり工夫を凝らしていないのが特徴である。
王韜は、「古文辞のやり方に従うと、茫漠としてよくわからず、敢えてそ の任は辞退せざるを得ない」(7)と述べ、鄭観応は自らを「言葉は浅はかで 乏しく、経典を根拠とする言葉も少ない」(8)と称している。この種の経世 の文は新しい観念を要とし、様々な新名詞を文中に挟み込むものであるた め、それは当時の古文家の好むところではない。しかし文章の形式からい うと、王韜や鄭観応は実際には旧式の規範を脱してはおらず、依然として 古今の条理を連ねたのちに、初めて己の意見を述べるのである。例えば『弢 園文録外編』中の「原人」は、「家を整え国を治め天下を平和にしたい、
それには一夫一婦制より始める」という意図をもって立ち上げた内容であ るから、まずは当時の新進気鋭の意見を述べるべきなのに、この文章は次 のような論述より始まるのである。
かつて読んだ伏羲の経典曰く:天地があって万物がある、万物があって 男女がある、男女があってのちに夫婦になる、夫婦ありてのちに親子があ る、親子があって後に君臣の上下がある、そして礼儀の振る舞いを知る。
大学の一編にて、始めに曰く、国を治め天下を平らかにするには必ず修身 して一家を治めることを根本とせねばならない。身をもって範を示し、誠 に平和な治世の発端を見るには必ず家を治めることより始めなければな らない。家を治めることを欲するならば、すなわち夫人にはただ一人の夫、
夫にはただ一人の夫人、いわゆる夫婦というのはこのようにして道が正さ れるのである。天の道は一陰にして一陽、人の道は一男にして一女、ゆえ に詩経は関雎より始まり、易経は乾坤を始まりとする、これはまず男女夫 婦間のことを先んじて述べることにより、幾度もその意を伝えるためなの だ。
これは典型的な策対(ⅱ)の方法である。続けて後世の社会の風潮が著 しく悪化し、災禍と動乱が経世されつつあることを述べる。それから「説 の考えは」「説に曰く」を用いて、反論者の論駁を設けると、引き続いて
「愚見によれば」として正面より立論を行っている。最後に、ある人が「妾 を囲って出産をさせ、一族の後を継がせようとしている」という難題を解 決するのである。(9)文章は全体として条理がこなれており、論述も緻密だ。
しかしその手法は紋切り型であって、手当たり次第に桐城派の祖である苞 同の名文を拾ってきては、以下のごとく文に挿入している。
孔子曰く:天地の性は人を貴しとする。董子曰く:人は天の命を受ける。
もとより群生とは超然として異なり、聖人賢人がこれを征するのではなけ れば、往来の人がこれを征するのである。往来の人が征するのでなければ、
愚直極まれる極悪人がこれを征するのである。何をもってして聖人賢人と するのか。人の子のためにその親の道を尽くし、人臣のためにその君主の 道を極めるものである。俗人と比べてみると、妻子に囚われその力を出し
尽くし、肉体的欲求をほしいままにしてその身を使い果たし、このような 一般の人は尭舜の効果を行うべきである…
意味の中心は、もし「人道に反していれば」、すなわちその本性を失い 鳥獣以下のものとなる、(10)ことを論証するものだ。これは確かに「聖人 賢人に代わって言を立てる」の古文版の文体である。このようないかなる 問題も解決しない、陳腐な意見は、もとより王韜や鄭観応も言及に値しな いとしている。しかし古文体の範式は拘束力が強く、古文による「文の統 一」が連なるにつれて、思わずそのペースに乗せられてしまう。『盛世危 言』「道器」の一文で、当時鄭観応は「博より約を返す」と主張している が、いわゆる「博」とは、「西洋人の従事する格致諸門」を指し、そこで 彼は「我が皇帝を敬い」「強さでもって覇を企て、覇でもって王たること を図り、四海を仁に帰し、万物はその所を得て、車軌や文字の統一の大事 業が実現すれば、国に難はない」、と述べるのである。このような見解が 冒頭から登場するようでは、先が思いやられるであろう。
「易・繫辞」曰く:「形而上のものは道といい、形而下のものを器とい う」 道は虚無より、一つの気を始め、のち大極へと凝固、太極は陰陽を 分かち、天は地の外を包み、地は天の中にある。陰の中に陽はあり、陽の 中に陰はある。いわゆる一陰一陽これを道という。これによって二は三を 生み、三は万物を生み、宇宙間の名、物、理、気は、全て列挙包括されな いものはない。したがって一は奇数で、二は偶数で、奇数偶数合い乗じて、
様々に錯綜し、陰陽は完全となって万物を備えている。(11)
このように天地開闢から始まって、しばらくして後に、今は西学を採用 すべきだという主張まで導く、このような優れた技は見慣れているとはい え、敬服に値するだろう。話を戻せば、古文を用いて「論説」を行うこの 一門の技術は、このような単調なものだけではないが、しかし本質は全く 変わらない。中国初代の新聞、雑誌の著述家として、王韜や鄭観応は歴史
的意義のある言論発表を行った。しかし、新聞雑誌の文に対する貢献を言 うならば、自分の「撰述」を主体的に、あるいは受身的に、刊行物の紙面 上に繰り上げて記載しただけにすぎない。
真の新聞論説の勃興は甲午戦争後である。当時、国勢はすでに衰え、康 有為、梁啓超、厳復を代表とする新しい世代の知識層が、自己の政見を実 現させるために決起した。とりわけ康や梁などは、挙人の身分を利用して 政治を動かし、権力中枢に影響を与えた。知識分子の勢力を組織だてた「公 車上書」から、実際に権力を獲得して「百日維新」を実行するに到るまで、
更には政変による海外への逃亡を経験し、また保皇の立場に立って革命党 員と争う、その十年の間ずっと、国人の注目を集めるホットな人物であっ た。このような過程の中で、梁啓超は「新聞社は国事に有益である」(12) と十分認識し、意識的に新聞を利用して自己の政治目的に従事した。そし てほぼ彼一人の力で天下の耳目を操ったのである。王韜や鄭観応のような 先達と相対してみると、梁啓超は第二世代の新聞論説家として、すでに彼 らの清議献策的な色彩から抜け出し、新聞に発表する持論ももはや「撰述」
や「我が皇帝」のための献上文ではない。言論を武器に社会の支持を動員 しようという、鮮やかなる変革への画策を持っており、かつまた個性的な 世論空間を作り出したのである。
梁啓超は、「書を著すものは久しく規範を定め、全義を明らかにする。
新聞社は一時を救い、一義を明らかにする」(13)、と述べている。このよ うな認識を持っていたため、梁啓超の文は鄭観応のような「悩んで選択し ても精錬されておらず、語も詳しくない。質の優れたものを待って据付け、
今の語を取り除きたい」、「友が見るたびに持ち去り、雑多に新聞に載せた」
ことについて大いなる悩みを持っていたような、(14)そのような状態には ならなかった。一方、彼の同志である譚嗣同は「新聞の文体説」の中で、
新聞の文章は古来より天下の文章の三類十体を包括できるもの、と考えて いた。「私は信じる。新聞は経国の大業にして、不朽の盛事、人文の寄り 集まるところ、詞林の園、典章の大海大空、著作の広庭、名実相伴う臣下、
易学象数の修練の場である」、「民生まれてより…未だに新聞ほど燦爛とし
たものはない」(15)と、惜しみなく賛美している。これは梁啓超には面白 くないことであって、『飲冰室文集』の「集めてこれを広める」において、
彼の新聞の文章を、「私は言おう:最悪、最悪だ。我輩の文は、どうして 名山に隠し、百世の後まで待っていられようか、時勢に応じて、その胸中 を述べたいのだ。しかし時勢というのは過ぎ去って留まることはないから、
瞬時に、文章は用済みとなる…ゆえに今の文章は、ただ刊行物に掲載され、
その時期に対して勇壮な警鐘を提供するのみなのだ。その時が過ぎれば、
文章は何の価値もなくなるのである」。ここには謙遜も自嘲も、さらに自 己弁護も見られる。いずれにせよ、王韜や鄭観応に相対してみると、梁啓 超は非常に自覚的に、「新聞の文」と「著作の文」の間には明らかな区別 があることを意識していた。「私の心の求めるところを行く」にしろ、「口 に出して後悔することはない」(16)にしろ、いわゆる「一時」に「一義」
を提供する文章は、時に応じて生まれ、時とともに過ぎ去る。一つの点を 挙げれば、その一点のみに集中し、山奥に隠蔽して後世に伝えるような類 の文は、存在していないのであった。
まさにこのような自覚的な意識が根底にあるので、梁啓超の文は「自ら 縛るようなことは繰り返さない、思いのままに筆を走らせるばかり」とな るのも理解できる。(17)王韜の「筆をおいても心は休まず」という謙虚さ と比べると、(18)梁の「筆は思うままに、慎むことはない」文章は、確か に内容も水準の高いものだった。(19)「時務報」から始まって、「変法通議」
を一年余り連載し、そこに含まれないものはのちに『清議報』の続編部分 となるなど、実に「束縛」されないものだった。『弢園文録外編』あるい は『盛世危言』と比較すれば、梁の文が大いに異なることは一目瞭然であ る。当初、梁は「六十篇書き、十二に分類する」と宣言していたが、各編 の幅は長短様々、文章の形式も悉く質が違う。思うままに創作しては随時 発表し、しかも最後はまるっきり完成していないが、このような状況は彼 のその他の長文にも現れている。とりわけ鄭観応の著述態度と照らし合わ せると、梁啓超は確かに「一時」に対して「一義」だったと言えるだろう。
梁啓超の論説文の要素は相当複雑で、「時事雑文は俗語、韻語および外
国語の方法を用いる」(20)ことだけにとどまらない。「万国公報」を代表と する伝教士の論説文体、伝統的科挙文の八股、論策、駢賦、更に八家から 桐城派まで、そして今文経典、先達の経世文など、その後日本に居留した 際の日本式文章、これら全てが彼によって一息に極みへと変化したのであ る。この種のくどい文体は執筆時期によって違いはあるけども、一貫して いるのは気勢でもって反駁しているという特徴である。天下を騒がせたの はこれが原因であり、広く非難を受けたのもこれが原因であった。二三の 言葉が千万の言葉に化身し、現実離れした根拠の無い言葉が積み重なり、
循環往復して、時にはわざと人を驚かし、実際は文の破綻も頻出していた。
しかしこれこそ、彼の文章が「大きな吸引力を持ち」「魔力を持った」箇 所(21)でもあるのだ。『少年中国説』は百年以上影響を持ち、血気盛んな人 間はこれを読むと気力がみなぎったという。全文すべて排比(ⅲ)を用い、
全文を推し量ると、たとえタイトルに「説」と銘打っても、ただ気勢が勝 っているのみで、実は「屈服」、この一語に尽きてしまう。これは梁啓超 の文章のある顕著な作風であった。とりわけ彼が自ら「文章の新体を開き、
民気の暗潮を激する」と称した『少年中国説』や、『傍観者を責める文』
『過度時代論』等はその典型といえる。(22)
『少年中国説』は広く世に知られているが、今『過度時代論』第二節「過 度時代の希望」を例に挙げてみよう。
過度時代は、希望の沸く泉である。世の中で最も巡り難くまた貴いもの だ。進歩にはすなわち過度期がある。過度なくして進歩は無い。過度の以 前に、こちらの岸に留まり、動機が発せられなければ、その永遠にも似た 静けさはいつ改まるのか、予測が難しい。過度のあと、あちらの岸に移り、
得意満面であっても、まだまだ余力があるかどうかは、これもまた判断し がたい。過度時代というのは、すなわち伝説の大鳥や大魚が大事業をなす ように、九万里をも一息である。大河は幾千も折れ曲がってのちに、海へ と流れ込む。大風広まり、前途は堂々、生気は盛んに湧き出て、雄雄しい 志は旺盛だ。この今の勢力圏では、矢は七札を貫き、気は万牛を飲み込む
ほどだ、誰がこれを御すことができようか。その将来の目的地は、黄金世 界であり、活気ある色とりどりの生涯であるのだから、誰がこれを限定で きようか。よって、過度時代とは、実は千古英雄豪傑の大舞台である。多 くの民族が死より生へ、剥奪から復元へ、奴隷より主人へ、痩より肥へ、
必ずこの路を行く。素晴らしいことではないか、過度時代は。(23)
文章全体はまず第一句が示されると、そのあとすぐに怒涛の勢いを作り、
その効果は絶大だ。事実、梁啓超が新聞論説の一代巨匠となれたのは、こ の特徴に秀でていたからで、新聞の論説は、もともと「気は盛り上がり、
言は適切である」ことが必要なのである。情感の力とロジックの力は同じ ように重要だが、梁啓超の論説は「論理」が足りず、その言論は同輩の厳 復や章太炎には遠く及ばない。梁啓超はもともと「著作の文」には秀でて いないのだが、しかし、文中の情感の激しさ、気勢の豊かさは比べるもの が無く、時運にも巡り合って、その刊行物は社会生活に影響を与える新た な権力となった。梁のやることなすことに対して、世論はこの新しい情報 の運び手を支持したため、章太炎や厳復が一時対抗できないほどだったの である。
日本へ亡命していた期間、梁啓超は新しい新聞の文体を発見した。これ はとりわけ徳富蘇峰の作品により得るところが大きかったようだ。(24)そ の後『清議報』『新民叢報』などの刊行物において『飲冰室文集』の欄が 生まれ、その「叙言」でこう述べた。
何かに触れるたび、時に応じて筆を執り、体裁はなく、順序もなく、論 じたり、学を述べたり、記事を書いたり、書を写したり、時には文言、時 には俗語を用いて、ただ意を尽くすのみであった。(25)
文体から見ると、『清議報』の「本館論説」或いは『新民叢報』の「論 説」に対して、「飲氷室自由書」は確実に「自由」が顕著だ。(26)その中の ある文章、例えば「強権論」などは、「論説」の縮写版と言えるけれども、
しかし相対的に落ち着いた筆調で、梁啓超のその他の論説文のような、豪 華で派手な華やかさがここにはない。また読書の感想を書いた部分もあり、
手当たり次第に写し取ってつづり合わせたのちに、そこへ議論を加えてい る。もし「自由書」を一つの文集とみなすなら、性質の上から言えば古代 の「筆記」に類似しており、統一した文体の格式は無い。ただ特筆すべき は、「自由書」が導入しているのは一種の創作方法であることだ。新聞や 雑誌の正規の「論説」と対峙させてみると、これは「短論」と総称すべき ものである。更に重要なことは、「自由書」式の発言は大衆に向けた「喧 伝」ではなく、多くは個人の感触を吐露する、独り言に近いものなのであ る。このことは論説を創作する上での可能性を豊富にした。例えば「理想 と気力」の一文では
普相士達因(ⅳ)曰く:哲学の理想の無いものは、英雄と思うには足り ず、敢えて行動しようという気力の無いものは、また英雄と呼ぶには足り ない。日本の渡辺国武がこの事を述べて更にその意義を派生させて言う、
現在の人間の欠点は、理想はあるが気力は無く、慈しみの心に立ちつつ時 代を冷ややかに笑う。気力のあるものは他からの影響を厭い、他人を排し て世界に盲進していく、と。飲冰子は言う、理想と気力を兼ね備えたるも のが、英雄である。理想はあるが気力のないものは、学者と見なせるだろ う。気力はあるが理想の無いものは、冒険家と見なすことができるだろう。
我が中国は四億人、理想あるものは幾人いるのか、気力のあるものは幾人 いるのか、理想と気力のあるものは幾人か。ああ、国は天地に存在してこ そ、与えられ立つもの、この事を考えると、心が寒くなるのである。
文章は大変きれいな書き方で、我々が熟知している梁啓超特有の躊躇い や執拗さが、いささかも見当たらない。しかも「寒心」の梁啓超などおそ らくそのほかの文章の中で見つけることは難しいだろう。これは自分のた めに書いた文章であり、大衆のためではない。また「祈戦死」では、日本 軍出征の際、兵士の肉親が「祈戦死」と書いた掛け軸を作ったのを、偶然
見かけた梁啓超が、中国と日本の「なんと相反の甚だしきか」と感慨する のだが、論点を掲げたり結論を下したりはしない。このような文章は注目 を浴びなかったとはいえ、その発展した創作方式は、近代以降の新聞や雑 誌の中には無かったものだ。古文家の規範文章にもこのような感覚はなく、
王韜や鄭観応にもない。梁啓超の同時代の人の中でさえ、容易に別の例証 を探し出せないほどだ。「自由書」中のある部分は、刊行物の論説のため に書かれたものだが、もっと正確に言えば、新しい叙述形式のためにこの 初めての経験が提供されたと言えるだろう。残念なことに、このような個 人的な創作は梁啓超自身が継続して発展させようとしなかった。よって、
彼のその他の論説文と比べると、十分な影響力を持ち得なかったのである。
『飲冰室文集』は『清議報』第二十五冊から掲載が始まった。当時梁啓 超は戊戌の政変により日本へ逃亡して一年近くたっていた。「三十自述」
の中で、「戊戌九月日本にいたる。十月、横浜の商業界の諸々の同志と『清 議報』を計画して、これより日本の東京に一年、わずかだが日本語を読む ことができるようになり、思想が一変した」(27)と述べている。「自由書」
は彼が「わずかだが日本語が読める」ことによって、『清議報』上にでき た欄だ。初刊『飲冰室文集』ののちに、次期はまた二十六冊出版され、そ こではまた新しいコーナー「国聞短評」が登場した。梁啓超が創作に参加 したという証拠は無いが、しかし刊行物の責任者として、「日本語が読め るようになった」のち、「自由書」欄を参考にして創設したのかもしれな い。
十九世紀までの中国の新聞雑誌では、論説とニュースはずっと直接的な 関係はなかった。新聞上の議論文において、討論されている大部分は中国 が直面している現実問題ではあったけれども、しかし具体的なニュースや 事件に焦点を合わせて評論を発表することはなかった。「その論説を眺め てみると、 西学は中国を起源とする考察 でなければ、 中国富強急務論 であり、次々とこれを踏襲するのみなので、読むうちに読者が眠くなって しまわないか心配である」(28)といった具合で、梁啓超は世紀の変わり目 であった当事の現実の状況に、大変不満を持っていた。しかしその嫌悪す
る状況を生み出したのは、ひょっとしたら彼自身かもしれない。彼の影響 を受けたからこそ、このような政論に染まり、現実とリンクしていない題 目が用意に歓迎されたのではないだろうか。王韜や鄭観応から梁啓超本人 まで、文は全て、「中国を速やかに富国させる」ための救国策にほかなら ない。もちろん、俗な書き手とは雲泥の差があるとはいえ、しかしタイム リーな事件に対して直接干渉しなかったことは共通している。同時期の
『万国公報』にしろ『申報』にしろ、ニュースと論説が分離している状況 は大体同じだ。例えば梁啓超主筆の『時務報』では、毎期大量のニュース の転載がある。「京外近事」「域外報訳」「西文報訳」「東文報訳」及び英語、
フランス語、ロシア語などの「報訳」、そして「西電報訳」「ロイター電音」
等等、ただしこういったニュースは、梁啓超の「論説」とはまるで関係が ない。早くは「中外紀聞」から、ニュースによっては、編集者の注釈とい う方式で簡単な評論を行っていたが、しかしその注釈もきちんとした文の 体裁をとっておらず、ただニュースの付けたしであった。『清議報』が創 刊されてからの二十五冊は、やはり『時務報』と同様の構成で、「本館論 説」の中の『変法通議』も引き続き掲載された。それから、「西報訳編」
と「東報訳編」と題してニュースを供給し、のちに整合して「外論集訳」
と「万国近事」になった。次期二十六冊では「国聞短評」が出現し、この 題目の表示によって中国の新聞、雑誌でのニュース評論が真に出現し始め たのである。ちなみに、同期の「本館論説」では任公の「中国と欧州国体 の異同に関する論」がトップを飾り、『飲冰室文集』では短論「地球第一 守旧党」であった。「国聞短評」の第一条は「西報の繁栄と闘争の記載を 論じる」である。題目からも見て取れるように内容及び形式に変化が生じ、
この「短評」を「論説」或いは「短論」と比べてみると、ニュースや事件 と大変密接に関わっている。例えば二十七冊上の「剪辮奇辱」では、
ロシアは満州を経営している。勢いにかげりは無く、大きく全土を飲み 込むがごとくの勢力である。華人が流れ住む。多くは個人的な恩恵のため にロシアと結ばれている。しかし無理やり、その辮髪を切られて、目下す
でに四十人あまり。日本の新聞はそれを論じて曰く、華人は朝廷から民間 まで上も下も、みな辮髪を誇りとしている。今突然ロシア人に切られた。
以後粉粉と入り乱れることを恐れる。
記事曰く、華人の辮髪は、古において逆らう者は無かったが、今では採 用する必要もない。当然切って当たり前だ。日本も明治以前はみな髷だっ た。明治の政変で、努力して西法をまねし、これを取り去った。よって治 世が容易になった。しかしこの度の華人は自らこれを切ったのではなく、
人に切られたのである。その栄光と恥辱には差がある。維新の士は、よく よくこれに注意すること。
これは比較的短いもので、取り上げたところで、その内容は取るに足ら ないものだ。しかし注意すべきことは、議論がある一つのニュース、「ロ シア人が華人の辮髪を切った」事件から出発していることである。これは 往年の「論説」や「短論」にはない特徴で、新聞における新しい文章の登 場である。
「国聞短評」欄は『新民叢報』に至るまで継続された。文章の多くは依 然としてその作者を特定できないが、技術面でははっきりと上達している。
第八号上の「吾国の公使、独り人にあらず」では、「日本報」に発表され たニュースについての評論である。
駐露公使の楊儒が急病で亡くなった。世間ではいささか疑惑が生じた。
まもなくその子供も首を吊って自殺した。死に臨んで悲痛な心境を吐露し た。世間はますます疑った。近く日本の新聞は楊儒の死を詳しく述べた。
実はロシア人によって建物の上より蹴落とされて命を失ったのだという。
息子の方は、思うに満州条約によって各国に制圧されているため、大志を 叶えることができず、そのため死を以ってして鬱憤を晴らしたのだ、と。
その言は確かかどうかわからないが、おそらく当たっているだろう。ああ、
ドイツの公使の死によって、すぐに八国連合兵がやってきて、首都北京は 陥落した。イタリア公使夫人が道すがら群集によって賑やかに囃し立てら
れると、政府は彼女をすみやかにねぎらい、恐れおののきつつ謝罪を告げ る。鉅鹿における暴動では、フランスの伝教士が負傷した。政府は慰謝の 電報で緩和作戦に出る。天津のフランスの領事はこのようになじるのだ、
我が国の公使は人ではないのだ、と。太平の犬になるとも、乱世の人とな るなかれ、という言葉があるが、私はこう言いたい。外国人になるとも、
中国の朝官となるなかれ。
これは「その言確かかどうかはわからず」という状況下で掲載した議論 であることに注目してほしい。このことは「短評」がニュースという素材 を次なる地位へ押し上げたことを説明している。内容は具体的な事件報道 に依拠しているが、しかし評論は独立性を備えている。ただのニュースの 注釈ではなしえないことだろう。「短評」はここに至って、すでに社会批 評の特徴を備えているのである。
その後「時聞短評」の形式は「時評」へと発展して、多くの新聞雑誌の 採用するところとなった。まずは
1903
年『浙江潮』「近事関連の雑取」がこの「時評」欄を増設した。(29)続けて
1904
年、『中国日報』が「論説」の後ろに時々「時評」を掲載した。(30)
3
月5
日「紳士と流血党」、続けて7
日に「ロシア人船舶調査後に帰国」、15日「ユダヤの移民」、17日「清 太后及び商人との比較」、24日「ロシア旅順を失うことと清国との関係」等、署名の多くは「警鐘」とある。ニュース評論は全て最近起った事件を 基にし、その観点を論述している。「論説」は新聞を代表するコーナーで あるのに対して、「時評」は重大な事件を取りさばくわけではなく、選択 して感じる所があれば、個人の立場と独特の角度から論評している。「紳 士と流血党」は、「最近聞くところによると、北京の海城牛庄の各所で盛 んなのは、秘密社会を決することだ。いわゆる流血党である。その目的は もっぱらロシア兵を食い止めることである。……しかしかの地のひ弱な紳 士は、ロシア兵の強奪に耐え切れず、謹んで保護を求めている」、という ニュースを材料にしている。この一つの小さなニュースは、牛庄という僻 地で起ったものだし、しかも広く関心をひきつけるような、爆発的な状況
にまでは、未だ熟成していないので、社論としての地位にある「論説」が これを採用することはない。だが、「時評」のような短評にはよく適して いる。なぜならこれは個人的な随感だからだ。この批評欄の材料の選択は、
時には魯迅さながらの眼光を持ち得ている。後半部分の議論は精彩を欠い ているが、「流血党の名を恐れる。ただロシア人に忌み嫌われるだけでは なく、政府もまた聞くのを厭うのである」、という一文が、なかなか痛い ところをついていると言えよう。
1904
年6
月12
日、『時報』は創刊された。「時評」を特色としている ことが、名前からも推測できる。『時報』のライター達は、皆相当に素晴 らしい書き手だった。「時評」欄は始め「時事批評」と称し、不定期の発 表であった。「本館論説」の後釜として置かれてからは、署名が省略され たり、時には小さな表題すらなかったこともあった。例えば第十四号刊で の第一篇「時事批評」では、ああ!恐ろしい。激しい剣幕で迫ってくる。私はしばし待ちたいが、人 は私が待つことを許さない。どうしたらいいのか。
日露は、我らのために戦うと言い、我らの地で戦っている。我が人民は 満身創痍。それはすでに明らかだ。多くの人が知っているから、私はしば し述べるのをやめよう。
四月二十九日。本新聞は某国の下議院が今すでに議定したことを記した。
内容はフランスが金二千フランを準備するとのこと。安南の臨時兵が使う 費用だそうだ。安南はどこの土地なのか。臨時の兵費とは何事なのか。我 が国は上も下もそれを聞き否という。
五月八日。本新聞はまた某国が洞庭湖と鄱陽湖を商業上で借りたと記す。
某国の水師の操縦訓練のためとのこと。大体洞庭湖と鄱陽湖は、どこの国 の土地なのか。水師の操縦訓練をして、何をしでかそうというのか。我が 国は上も下もそれを聞き否という。
我が新聞社は始まって以来、今日に至るまで毎日、イギリス人がチベッ トのあちこちへ遠征していることを記してきた。そもそもチベットと我が
国の関係はどのようなものか……イギリスのインド政府は二千兵を補充 してもなお足りないとしている。これはどういうことか。我が国は上も下 もこれを聞いて否という。
先月日本館は南京総督の官庁が先日上海からの密電を受け取ったこと を、またしても探り出した。現在某国が呉淞を借りて水兵の休息所にする つもりであるとのことだ……その呉淞とは我が国の土地ではないのか…
…我が国のものに決まっているではないか。我が国は上も下もこれを聞き 否という。
日露戦争。我らのために戦うと言い、我が土地で戦っている。我が国の 人民は満身創痍である。我が国にとってはもとより極めて大切なことだ。
時事に心留めるものよ。注目し警戒せよ。しかし日露戦争のことだけに限 ってはいけない。その他注意されない一切の緊急事態が放置されている。
ああ!恐ろしい剣幕で迫ってきていると言えるのだ。(31)
全文、警告に力のある書き方だ。数本のニュースを並べ、「その度に尋 ねて」、「我が国は上も下も皆これを聞きて否という」、という構成は、自 然と読む人に注意と恐怖を植え付ける。上下の二段落はいささか抒情的で、
批評はせず、しかもそれが効果的で、俗なレベルではなしえないことだ。
また、この文章の中では、段落が必要不可欠の修辞手段となっていること に、留意すべきである。これ以前の中国近代の文章、とりわけ新聞に掲載 された文章の中には、すでに簡単な段落分けはあったが、目鼻をつけるた めだけに存在し、古代の句読のようなもので、ある特定の表現効果を実現 させることに、役立っているわけではない。だが、この文章が段落分けさ れているかどうかは、大きく効果を左右する。まだ『狂人日記』のような 高度な自覚はないにしても、僅かながらも現代の文章形式の発端が伺える のである。句読点の状況も相似している。原刊は全文句読点を用い、行を 置く。句読点は文字の位置を占拠せず、ただし文頭文末の二段の感嘆符は、
文字と同等に並び、その使用効果も明らかだ。日を隔てて続く次の「時事 批評」は、どうやら同一人物が書いたのか、これには表題があり、「奏請
立憲批評」という。出だしは、「立憲!立憲!これすなわち万民の祈祷す るところ、万国の注目するところなり」。現代的な文体の表現要素が、す でに端々に露見していることが見て取れるだろう。
狄楚青が取り仕切る『時報』には多くの創作例がある。一時、同時期の 上海の各新聞社に影響を与え、皆これに従って動いたほどである。「時評」
は『時報』の商標のごとく特徴ある存在なって、自然と多くの模倣を生ん だ。実は『清議報』『新民叢報』『浙江潮』『中国日報』及び『国民日日報』
等の「短批評」欄などは、早くから「短評」文体を出現させていたのでは あるが、しかし『時報』の影響は圧倒的に大きく、「時評」というこの形 式はその名称までもが流行しはじめ、中国新聞雑誌の論説の様相を一変さ せたのである。そして
1914
年の『甲寅雑誌』に至るまで、「時評」欄は 長く存在し続けたのであった。二十世紀の初頭十年辺りは、「時評」よりは短く、更に自由度の高い「短 評」が流行した。『時報』から名称を借用して、さしあたって「閑評」と 呼ばれた。この文体は、新聞の「埋め草欄」や、「埋め草欄」が発展して 出来上がった新聞の副刊がそもそもの源である。新聞の中でこの部分の紙 面には、一般的にいくらか軽めの作品が載った。『字林滬報』の副刊『遊 戯報』や、『申報』の『自由談』、『新聞報』の前後に現れた『庄諧叢録』
『快活林』などがまさにそうで、その名称から容易に内容が想像できる。
詩詞や小説、笑い話、そして比較的後に出現した漫画などが頻繁に掲載さ れ、その中には笑い話でありつつも風刺性の強い小品もあった。そういっ た小品は何人かの作者の手によってより鋭い内容の論説文へと発展させ られていったのである。比較的突出しているのはやはり『時報』で、『時 報』の「報余」には「閑評」の欄があった。1907 年前後に固定していた 執筆者は「冷」と「笑」である。「冷」はその年の
5
月20
日までに、シ リーズで百本の「不可解」を発表しており、そこでは全て時事を採り上げ た。冷ややかで鋭い書き方は署名のごとくである。6
月1
日『科学の恐慌』では、
科学が発明されてより、神仙妖怪狐に亡霊といった類は、全て取り除か れた。そこで世の隅々まで恐怖は無くなった。しかしまた毒の芽が出つつ ある。五月三日に地球と彗星は同じ軌道であるという説が発表された。こ れは天文学の推測における一つの予想であって、この事を書籍に著したり、
新聞雑誌に掲載したりして、これを究めようと学ぶ者が研究する問題だ。
この推測が必ず正しいと言っているのではない。ところが無知の輩が互い に述べあうと、一変して混沌とした説になる。更に変化して地震の説とな る。世間でのうわさが錯綜してやまない。ああ、これは無学無知の俗物だ。
この説は学問上疑わしい所があるが、しかし一度この手の輩の口を通過す ると、神仙妖怪狐に亡霊といった説に変わってしまうのだ。民の智が塞が れているからこそ起こる害なのだ。そういうことだ。
これは『新青年』の「僻霊学」を連想させるだろう。「時評」「閑評」に 比べると明らかに自由度が増し、更に精悍さも加わり、わずかな言葉で、
要点を付いている。これは正真正銘の「随感」である。題材の採り上げ方 も更に柔軟性を持っている。この『科学の恐慌』は時事ニュースと関連し ているわけではないが、向かい合っているのは一種の社会現象であり、す でに文化批判であるといっても良いだろう。
国民軍は兵を宿すのは民のためだ。かくして最も良く行動できる。なぜ 朝廷は日一日とこれを制圧しようとするのか。教えてほしい。
大臣は公益を図らず、私利私欲に勤める。まさか国家が滅んでも、私財 利得は守られるというのか。教えてほしい。
官吏は民を押さえつけて搾取する。官吏の子々孫々が皆官吏になるわけ でもないのに。なぜ後のことを考慮しないのか、搾取される側になるかも しれないということを。教えてほしい。
大臣は怠惰でしまりなく、終生安泰であることを計画する。まさか大臣 一人一人が皆孤独な老人でもあるまい。子孫の苦しみを度外視しているの か。教えてほしい。
貪欲卑劣という文字は美しくない。しかし今の役人はみな貪欲卑劣だ。
まさか貪欲でなければ役人になれないとでもいうのか。教えてほしい。
地方の名士は人に迷信を捨てよと勧める。しかし自分の屋敷に道場をつ くる。寺院を修繕する。まさか地方の名士の力を借りなければ、迷信は払 拭が困難なのか。教えてほしい。
志士がアヘンはやめよと勧告する。纏足を解き放てという。しかし家の 中にはアヘン用のベッドがある。足の小さな妾がいる。どういうことか教 えてほしい。
これは「自由談」の「冷嘲熱罵」の欄におかれた文章である。(32)いさ さか掴み所がなさ過ぎるきらいはあるが、文体上から見ればやはり「閑評」
の一種で、この種の議論文の書き方は「論説」「時評」に比べると一層多 種多様となり、内容も更に種種雑多だ。二十世紀に入って二十年、中国の 新聞雑誌言論は「論説」から「時評」「閑評」へと、整った系列を構成し ている。
まさにこのような背景の下、『新青年』の「随感録」があった。このコ ーナーの創設に関して特に編集の説明はなかったが、陳独秀が「随感録」
の一から三まで主筆であった状況から見て、おそらく彼の発案だったと見 ていい。1918年の『新青年』は、早期すでに陳独秀が独自に編集してい た時から、社会と政治問題に関心を持っていた。北京大学の諸教授が交代 で編集を担当するようになると、思想と文化の問題にも配慮するようにな った。ただし編集の経験値から言えば、陳独秀が最も豊富だったといえる。
『新青年』の構成も、彼がかつて協力援助していた、章士釗が責任編集者 である『甲寅雑誌』が元になっている。主要部分は毎号大きな紙幅をとる 数本の論説文にあった。『甲寅雑誌』は「通信」欄を特色としており、編 者と読者が交流することに意図があった。それを模して『青年雑誌』には 始めから「通信」があった。また『甲寅雑誌』には「文苑」と小説があっ た。この欄も陳独秀は初めから設けた。ある時、謝無量の旧式文体による 長詩が一首載ったために胡適に抗議されたことがあったが、陳独秀は実際
にはこのような古文体のものを用いて雑誌の内容を調節していた。それも
『甲寅雑誌』の「文苑」と同じである。ただし、あたかも『甲寅雑誌』上 の『双枰記』『絳紗記』『焚剣記』(ⅴ)が新しい小説の先駆となって、旧小 説の幕を降ろす役を担ったように、のちに『狂人日記』『孔乙己』『薬』の ような小説が『新青年』に掲載されようとは、彼は予想もしなかっただろ う。
『新青年』上に設けた「随感録」は、まさに『甲寅雑誌』の「時評」に 対応している。つまり、当時発生していた事件と関連付けながら、あわせ て評論も提供しているのだ。これは毎号の高頭講章(ⅵ)と歩調を合わせ ている。なぜならその基本は観念レベルによる論述にあって、実際に即し て具体化するためではないからだ。これも当然雑誌編集の技巧である。陳 独秀の「随感録」(一)は「学術はいかに貴重か」を討論しているのだが、
実は文章の長さが比較的短い高頭講章で、無論これは比較的例外である。
しかし相対的に副次的な「論説」をここに置いたのは、このコーナーが全 ての内容に対応できるからである。もともとは随感を「録」する所ではな いだろうか? そこでのちに周作人は書評もこの欄で発表したのである。
「随感録」(二)「世の人国会議員最大の罪状を攻撃する」の議論は、典型 的な「時評」だ。「随感録」(三)において、北京大学の「元曲」カリキュ ラムについて言及したのも、やはり「時評」である。このような調子が定 まってから、その他の人もこれを手本に大挙して参入してきた。第四巻第 五号の巻頭は陳大斉の『僻「霊学」』、「随感録」欄では銭玄同、劉半農が それぞれ『斥霊学雑誌』を発表している。銭玄同の「一篇の支払い」は、
AからJまで、凡そ十項目。劉半農の「妖人偽の鉄の証明書を作る」は、
一から九までの九項目で、僅かに及ばない。(33)陳大斉は正面から立論し、
銭や劉は側面からほのめかす攻撃だが、いずれにせよどちらも精密に練っ た上で選択された論じ方であり、あまり「随」感ではないようだ。このの ち数号を経てスタイルが安定してくると、三人の書く量も割と短くなった。
一事に対し一義を述べ、言を尽くせば直ちに文を止める。典型的な新聞雑 誌の「時評」として精錬されてきていると言えるだろう。
1918
年9
月15
日『新青年』第五巻第三号、魯迅は唐俟のペンネーム で「随感録」に参入した。それによりこの欄の雰囲気はがらっと変化する。初めての作品、「随感録」(ニ十五)は、冒頭の筆調からして際立って異な るものだった。
私はずっと以前、厳又陵の何かの本で、議論が起っているのを見たのだ が、書名と原文は、どちらも忘れてしまった。大意はこうである:「北京 では道端で、多くの子供が見える。車馬の足元で転げ周り、轢かれて死に はしないか心配だ。また彼らの将来を思うと、どうなることやら、これも 心配だ。」実は別の場所でも、全て同じである。ただ車馬の多少に違いが あるのみだ。今北京へ行くと、情景は未だ変わらず、私も時々このような 憂慮を覚えるのである……
貧乏人の子供は、汚いなりで街に転げまわる。金持ちの子供は、怪しげ な奇声をあげて家の中で転げまわって大きくなる。みな真っ暗闇の社会で 転げまわる。彼らの父親もそうだった。あるいはもっとましだったか。(34)
あらゆる「時評」は、「話の導入部分」を書き始めるために、最初にあ る実際の出来事を取り上げることを必要としている。しかしここでは、「ず っと以前」「何かの本で」「書名と原文はどちらも忘れた」「大意はこうで ある」等、全て曖昧模糊としており、しかもこれは計算の上なのだ。反復 される曖昧さによって、読む人は「転」がされ続ける。この種の文章が不 確定な事実を引用して述べるのは、実際よく見られることだ。なぜなら「時 評」であろうが「閑評」だろうが、重点は全て「評」にかかっているから である。しかし一般的にはこの銭玄同の「随感録」(十六)のようなもの が普通であろう。
ある人が一人の古学を研究する先生の話を転述した;「外国の新学は、
研究する必要の無いものだ。我が国の古学を学べば事足りるのである…
…」私はこれを聞いて、たいそう奇妙に思った。そこで更に別の友達に言
ってみた。その友は言った:「これのどこが不思議なのかな?ほら、満州 人の清が関所に入った時、あるグループの読書人達が依然として声高らか に『四書五経』八股、試帖を朗読していた。その人々の意見はこうだ、お おむね国が滅んでも、種が奴隷と化しても、先祖代々伝わってきた国粋は 捨て去ることはできない……。私は大いに悟ったのである。−しかし私は その青年達に尋ねたい。君達は某先生の話について、一体全体どう思うの だろうか?(35)
これは確かに簡明と言えよう。だが、魯迅の創作は新しい論述方式を取 り入れることにあったのであり、その方法は材料をどう料理するかが鍵と なり、厳復の話に対して直接評論を行うものではない。厳復の文章中の一 字、「転」を掴み取って、各種様々な「転」を形象化して描写する。そし てここから自分の議論を引き出したのであった。銭玄同はというと、直接 引用した材料に対して議論を起こすもので、これは全ての著者に共通した 特徴でもあった。魯迅の同題材による正規の「論説」『我々はいかにして 父親となるか』を更に比較すると、彼の「随感録」が現代の文学的な論文 体を成長させたことが明らかとなるであろう―これはもちろん「時評」「閑 評」といった新聞雑誌の論体、また『新青年』の「随感録」という大きな 環境の中から、発達してきたのである。
比較の助けとなる例はとても多い。例えば「随感録」(三十三)は「霊 学」の問題に及んでいる。しかし魯迅は銭や劉のような正面切った反論は しない。ただ淡々と、「鬼神の話をする人」は「最も巧妙な撹乱を行う。
まずは科学をとりとめもなく話し、鬼神の話を混ぜ始め、是非をわからな くさせて、科学すら妖気を帯びているように見せかける」(36)ことを、一 つ一つ明らかにしていく。続く引用によって読者は自然とこのような雰囲 気を持って読み進めていく。効果は抜群である。「随感録」(三十五)で論 じられているのは銭玄同も論じた「国粋」問題である。魯迅の立論は先を 見通しており、比喩も巧妙で、休みなく「国粋」を持ち出しては、こちら で嘆き、あちらでもため息、と畳み掛け、一つの擬人化されたような情景
が作り出されるのである。(37)
魯迅の「随感録」の技巧はもちろんここにとどまらないが、ここでは細 部まで推し量ることはやめておこう。これ以前及び同時期の「短評」と比 べると、彼の貢献は、時事あるいはニュースを、自己の思想を表現する材 料として利用したことにある。しかもただ単純に対応した評論ではない。
このようにニュースと評論の地位を逆転させること、及びここよりもたら された一系列の技巧上の刷新は、彼独特の論述スタイルを構築した。また
「短評」を、刊行物に頼りきってしまう記載形式から、離脱させたのであ る。
四巻から六巻までの「随感録」は明らかに二つの時期を経ている。まず は魯迅が介入する前の二十三本。陳独秀が十三本書き、スタイルも彼が主 導していた。二十四本目以降は、魯迅が参入して、陳独秀は一本もなくな ったが、しかし『毎周評論』の「随感録」では百二十六にも達する本数を 発表した。六巻末までの四十四本中、魯迅は二十七本を発表した。この時 期に魯迅が主導権を握った痕跡は明らかに残されており、その影響力も大 きく、とりわけ銭玄同の論説スタイルに変化を促したのであった。もちろ ん、六巻以降、陳独秀はまた『新青年』の「随感録」において大いに独り 相撲を発揮し、旧い規範を改めなかった。議論の文学的散文業は魯迅が草 分けとなって、新しい言説時代がはじまったのである。
近代の新聞雑誌の文体が勃興して以来、論説文は相当に複雑な過程を経 験してきた。まずは、伝統的な著作の文が新聞上に移され、これは王韜や 鄭観応の時期にあたる。甲午戦争後は、梁啓超が決起した。彼の論説文は 題材の採取が広範囲に及び、古今中外を網羅したといえよう。このため一 時代の教祖となった。余力はさらに、「自由書」にも及び、ここでの「短 論」は、「論説」を個人的なものに変化させたが、ついに影響を生み出す ことは無かった。さらに現代の散文の源流ともならなかった。これと同時 に、イデオロギーと政治上の立場が日増しに多元化・分野化したので、「短 評」はニュース評論の基盤となって新興した。その後「時評」「閑評」と いう二種類の形式へと発展し、「随感録」の時期に至る。そこでは魯迅が
文体中のニュースと評論の関係を転化させ、議論の主体性を確立したので あった。これによって、新聞や雑誌上の論説文はその広範な背景の下、ま ずは「雑感」と呼ばれ、のちに「雑文」とよばれる現代的な論説文体へと、
その誕生を促され始めたのである。
(1) 中華書局
1997
年6
月影印本 黄時鑑「導言」参照(2)
1972
年4
月『申報』に見える(3) 『弢園文録外編』「自序」 中華書局
1959
年10
月版(4) 『弢園著述総目』 『弢園文録外編』「付録」「弢園文録外編十二巻」条
(5) 『易言三十六篇本』「自序」 『鄭観応集』上冊 上海人民出版社
1982
年9
月版(6) 『易言二十篇本』「甑山菜園下傭識」
(7) 『弢園文録外編』「自序」
(8) 『「盛世危言」増訂新編凡例』 『鄭観応集』上冊
(9) 『弢園文録外編』巻一
(10) 『方望渓全集』巻三 中国書店
1991
年6
月版(11) 『鄭観応集』上冊
(12) 梁啓超『論報館有益于国事』 『時務報』第一冊
1896
年(13) 『敬告我同業諸君』 『飲冰室合集・文集』第四冊 中華書局
1941
年版(14) 『「盛世危言」自序』 『鄭観応集』上冊
(15) 『譚嗣同全集』巻一 三聨書店
1954
年3
月版(16) 『飲冰室合集・文集』第一冊『「飲冰室文集」自序』
(17) 『与厳又陵先生書』 『飲冰室合集・文集』
(18) 『弢園文録外編』「自序」
(19) 『清代学術概論』 『飲冰室合集・専集』第九冊
(20) 『清代学術概論』 『飲冰室合集・専集』第九冊
(21) 以下に分見する
黄公度『与飲冰主人書』、『梁啓超年譜編』第三冊「一九〇五(光緒三十 一年乙巳)三十三歳」、上海人民出版社
1983
年8
月版;「与熊純如書」三十、『厳復集』第三冊「書信」中華書局
1986
年版(22) 『本館一百冊祝辞并論報館之責任及本館之経歴』 『清議報』第一百冊
1901
年12
月31
日(23) 『清議報』第八三冊
1901
年6
月26
日(24) 夏暁虹『覚世与伝世』第五章 上海人民出版社
1991
年8
月版を参照(25) 『飲冰室合集・専集』第二冊
(26) 『清議報』最終数冊には、「本館論説」に文がないため、『飲冰室自由書』
は本欄の下に移動した
(27) 『飲冰室合集・文集』第十一冊
(28) 梁啓超『本館一百冊祝辞并論報館之責任及本館之経歴』『清議報』第一百 冊
(29) 『浙江潮』第二期「時評」欄附言
1903
年3
月18
日(30) 『中国日報』は
1900
年に創刊だが、現存しているのは1904
年より。「時 評」欄は設置が早かったが、『清議報』の「国聞短評」よりはどうあって も遅れている。(31) 『時報』1904年
6
月25
日(32) これは
1911
年8
月26
日『申報』、署名は慕娘、の文に見える(33)
1918
年5
月15
日出版(34)
1918
年5
月15
日出版(35) 『新青年』第五巻第一号
1918
年7
月15
日出版(36) 『新青年』第五巻第四号
1918
年10
月15
日出版(37) 『新青年』第五巻第五号
1918
年11
月15
日出版 訳者注(ⅰ)『易経』「繫辞上伝」に見える有名な命題の一つ。清末では、中学を 道に、西学を器になぞらえて、議論が展開された。
(ⅱ)文体の一種。科挙の試問に対し、己の見解を述べる答案文
(ⅲ)修辞法の一つ。対句法。
(ⅳ)
Stein、Karl、Freiherr vom und zum (1757−1831)プロシアの政
治家。フリードリッヒ
3
世治世下の首相。(『外国人物レファレンス事典 古代―19世紀4 R−Z』 日外アソシエーツ1999
年参照)(ⅴ)『双枰記』は
1914
年陳独秀の著作。『絳紗記』(1915年)『焚剣記』(1914年)は蘇曼殊(1884−1918)
の作品。
(ⅵ)旧時、経書の解説書の一種。