京 の 手紙 と 田舎 の 手紙
︱女性遺文 の 収集 と 整理 を 通 して ︱ ︵二〇一三年度始業講演︶ 金
子 彰
はじめに本題目の由来この題目は︑﹃天草本伊曽保物語﹄中の﹁京の鼠と田舎の鼠﹂から採りました︒中央と地方とにはそれぞれの文化・生活があるという話です︒天草本は一五九三年にイエズス会の宣教師ヴァリニャーノが活字印刷機を日本に伝え︑西洋の文献を初めて日本語に翻訳出版したものです︒今はイギリスの大英博物館にただ一本だけ所蔵されていま
す︒このイソップ物語は本当に面白い話の翻訳で︑﹁蝉と蟻とのこと﹂が冒頭の第一話で載っています︒皆さんご存じのイソップ物語で言うところの﹁蟻とキリギリス﹂の話が天草本では﹁蝉と蟻﹂になっています︒キリシタン宣教師たちが日本に持ってきた原本には︑夏にさぼった蝉が冬に蟻に食料を恵んで欲しいと頼んでも拒否される話が︑キリシタン版の翻訳では食料を恵んでやる︑というふうに改編されています︒○散々に嘲り少しの食を取らせて戻いたキリシタンたちはヨーロッパの個人主義的な話を日本人の温情主義的な話に改編しています︒このようにイソップ物語
にはヨーロッパ文学を日本語に翻訳する際に日本の文化に合わせて筋書を変容させた部分がいたるところに見られます︒また︑一本では折ることができるが︑三本に束ねると折ることができないという﹁三本の矢﹂の話なども載ってい
ます︒この話は中国・日本の毛利元就の逸話と同じもので文化の伝播についても考えさせられる興味深いものです︒ちなみに︑﹁皆さんは天草がどこにあるか知っていますか﹂と︑この女子大の日本語史のクラス
5 0
名に地図を示して尋ねたことがあります︒キリシタンが天草版の印刷活動をした場所を質問したところ︑関東の学生が多いこの女子大生の正答率は半分くらいでした︒意外に知られていませんでした︒講演の要旨本日は︑手紙に焦点を当てて︑平安・鎌倉時代の女性の手紙を新たに発掘調査し︑そこから言語的になにが解明さ
れるのかという話をします︒主に平安時代末期の京都の藤原為房妻と︑鎌倉時代初期の越後の恵信尼という二人の手紙から言語を分析する話です︒為房妻の四十三通は︑当時紙が貴重だったために︑手紙の裏を使ってお経が書かれ︑
お経が世に残った為︑一千年ほどの時間を経て発見されたものです︒官僚の妻で経歴は不詳ですが︑文字は流麗な筆致でかなりの知識人かと見られます︒恵信尼の十通は一九二一年︑西本願寺の経蔵から発見されたものです︒晩年に現在の新潟県上越市新井近辺から京都の地で夫親鸞の世話をしている末娘に宛てたものです︒自分の娘宛で形式張った言葉遣いは見られず︑当時の口頭語すなわち話し言葉も多いと見られ︑地方人の言語生活が垣間見えます︒今日︑世に伝わる多くの物語など文学作品は作者の直筆本が伝存せず︑転写の過程で後世人の言葉が混入しています︒その点︑直筆の手紙は当時の純粋な言語を採録することが可能なものです︒二人の手紙は内容も面白いのですが︑時間を遡った日本語の東西対比や話し言葉の解明などには有効な資料です︒高校時代︑皆さんの中には国語の古典は苦手だったという人もいると思います︒高等学校では古文を現代語訳する
ためだけに面倒な古典文法を勉強しなければなりませんでした︒だから食わず嫌いのまま︑今日に至っている人が多いとみられます︒本日は古文は文法だけではないんだという︑﹁ことば﹂からそれを書いた人に迫っていく別の視点
もあるという話を︑手紙などを使ってしてみたい思います︒本日の日本語の歴史的な話の柱は三つです︒一つは︑数少ない女性の書いた手紙の発掘の話です︒実際どれくらいの女性の手紙などの文書が発掘されているのでしょうか︒二つは︑当時の中央地域の京都で書かれた女性の手紙と︑中央からかなり遠い地域の越後︑現在の新潟県の上越地方で書かれた女性の手紙を通して︑日本語の東西の言語を平安︑鎌倉時代まで遡って比較してみます︒これは︑題目
に掲げたテーマでもあります︒三つは︑当時の直筆︑即ち直接書かれた生の資料は︑まさにテープレコーダーのように︑当時の話し言葉などの言語
を解明する手がかりになります︒漢字と違って︑女性が使ったひらがなは︑当時︑実際話されていた言葉の音韻などを解明するのに非常に役に立ちます︒手紙を使って今までの未開拓な言語のいくつかを明らかにしてみたいと思います︒
日本語の変化について話題を身近な例でお話してみます︒多くの日本語は変化しながら今日に至っているという例です︒﹁おどろく﹂という語の意味の変化と︑源氏物語の音声復元の例を示して︑日本語の歴史研究の一端を話します︒﹁おどろく﹂を﹁目覚める﹂の意味で使うかというものを紹介します︒高校の古文で︑児のそら寝の﹁稚児のかひもち﹂の話を多くの皆さんは習って来たと思います︒
○
この児︑さだめておどろかさむずらむと︑待ちゐたるに︑僧の︑﹁もの申しさぶらはむ︒おどろかせたまへ﹂と言ふを︑うれしとは思へども
ぼた餅を食べたいけれども嘘寝をして起こされるのを待ったという子供の話です︒ここで﹁おどろく﹂という語は﹁目を覚ます﹂という意味の古語だということを習ったと思います︒平安時代は﹁おどろく﹂は﹁目を覚ます﹂とい
う意味で全国的に使われれていました︒代わりに﹁びっくりする﹂という意味が勢力をもって﹁目を覚ます﹂という古い意味は日本の多くの地方から姿を消しました︒︵図
なっていたかも解明されています︒各単語の音韻もハ行は 現在︑平安時代の単語のアクセントを文献で調べることが可能です︒各単語の音韻も平安時代は現代とどのように異 さ︑しげりて見上げられたる︑たとしへなく木ぐらし︵復元音声は本誌上では割愛︶
○そのわたりちかきなにがしのゐんにおはしましつきて︑あづかり召し出づるほど︑荒れたるかどのしのぶく たつ紹介します︒ 次に﹃源氏物語﹄︵夕顔︶を平安時代の発音で復元する研究を紹介します︒研究者の復元と学生が復元した例をふ 2 う︒ 味に変わりました︒何十年後かに調査すると︑﹁おどろく﹂は﹁びっくりする﹂という意味だけの言葉になるでしょ わているに過ぎません︒古い言葉は新しい言葉に駆逐されるという例です︒全国の大半が﹁びっくりする﹂という意 1オドロク全国地図︶を見ますと︑現在は東北の一部と西日本の一部でのみ﹁目を覚ます﹂という意味で使 1
f
音でa f
・f i
・u f
・e f
・ 音もo f
であったとか︑タ行t i
・u t
であったとか︑﹁が﹂はn g
音の鼻濁音であったとか︑平安時代の発音が現代と異なっていたことが解明されています︒そういうことばの変化研究の成果を︑一語ごとに当てはめて︑平安時代の発音では源氏物語は恐
らくこのように発音されていたであろうと復元することに挑戦できます︒学生の復元は研究者の復元音を聞くことなく︑日本語史の授業でレポートとして課したものの一つです︒日本語の変化を捉えた成果を用いれば︑学生も研究者
が目指したのと同じような音声復元に挑戦できるという例です︒
図1 「オドロク」全国地図
女性の学問について女性の仮名文書を以下で扱いますが︑まずは女性の学問について述べておきます︒平安時代の知識人の女性の学問
の例として紫式部をあげてみます︒彼女が書いた﹃源氏物語﹄があります︒当時としては世界的にも優れた作品が世に出されています︒平安時代は王朝女性文学の最盛期で﹃源氏物語﹄の他︑多くの文学作品が女性の手で世に送り出
されています︒当時の女性の知識人たちは︑男性よりも優れた文学活動をしていたといっても過言ではありません︒知識人の女性達は男性に劣らず当時の学問である漢籍を良く学んで修得しています︒紫式部は菅原家流の漢文訓読等の学問を修得しています︒漢詩文に長じて著名であった藤原為時を父として生まれ︑少女時代︑父が兄に中国の﹃史記﹄を教授しているのを傍で聞いて兄よりも速やかに理解したという自慢話を﹃紫式部日記﹄に書いています︒﹃源氏物語﹄には中国の﹃白氏文集﹄というような文献を訓読した文章がそのまま多く引用されています 3︒蜻蛉の巻に光源氏の息子である薫が朗々と漢詩を詠じた箇所があります︒﹃源氏物語﹄の蜻蛉の巻○さま〴〵に思ひみだれて︵薫︶﹁人木石にあらざればみななさけあり﹂とうちずうじてふし給へり
という箇所は﹃白氏文集﹄の中にある次の訓読文の引用です︒○人︑木石に非︵サ︶レは︑皆︑情有︵リ︶又︑源氏物語の﹁幻﹂の巻も次の訓読文が見られます︒○﹁夕殿にほたるとんで﹂とれいのふるごともかゝるすぢにのみくちなれたまへり長恨歌︵朗詠集巻下︶○夕殿に螢飛て思︑悄然たり︑秋の燈挑ケ盡︵シ︶て眠る︵ル︶こと能︵ハ︶未︒
このように菅原家流の漢文の訓読文が﹃源氏物語﹄には多く反映しているといわれます︒紫式部の個人的な文学的才能と︑自分の家で学んだ学問とがふんだんに盛り込んで作品を創り上げています︒一方男性は中国大陸からの伝来した漢字・漢文の世界に縛られての文学活動に限られていたようです︒ところが女性は中国伝来の漢字から新しく作られた平仮名を使って︑思いのたけを込めた自由な文章表現が出来たようです︒そ
れが紫式部の﹃源氏物語﹄等に結実しました︒
女性遺文について遺文とは︑昔の人が書いた現存する過去の文章・文献のことです︒私は京都などのお寺のお蔵や全国の文庫に所蔵されている古い文献などを調査団の一員として調査しておりますが︑当時のお寺のお蔵は現在の大学の図書館のように多くの分野の文献が所蔵されているのです︒経文︑即ちお経な
ど以外にも︑中国から伝わった漢籍や日本の文学作品︑薬草等の医療関係書︑絵巻物などの美術品︑さらに本日お話する手紙などの古文書類と︑実に様々な古い文献が見られます︒それらを調査団の一員として調査していますと︑女性の書いた文献が非常に少ないことを実感します︒平安時代の紫式部などの王朝女流文学だけを見ていますと女性の書いた文献は多いようにみえますが︑実は女性が書いて残っている文献は少ないのが実態です︒特に知的階層のスーパー・ウーマンとは異なった一般的な女性︑文字を書くことが出来るようになった女性達に視点を当てて︑当時の生活語などを採録してみる必要性を感じています︒﹃日本女性人名辞典 4﹄各時代の女性の掲載数を学生と共同で調べたことがあります︒この辞典は政治・経済・文化など様々な分野で活躍
した奈良時代から現代までの女性物故者が掲載されています︒生い立ちから実績までを紹介してある五十音配列の七千名の物故者の女性を︑百年ごとの編年体で階層別に配列し直してみたことがあります︒その成果は左記に公表し
ました︒﹃日本女性の史的分類データベース稿﹄︵東京女子大学女性学研究所︑二〇〇七︶︒年代別に分類した結果︽図
﹃日本女性人名辞典﹄年代別掲載女性数2
︾の通り把握できました︒掲載女性数の推移︵
1
︶1 0
0 0
年代
8 5
人名︵2
︶1 1
0 0
年代1 6
1
名︵3
︶1 2
0 0
年代1 6
︵
6
名4
︶1 3
0 0
年代1 0
2
名︵5
︶1 4
0 0
年代
6 1
名︵6
︶1 5
0 0
年代2 7
︵
9
名7
︶1 6
0 0
年代4 0
3
名︵8
︶1 7
0 0
年代6 4
3
名︵9
︶1 8
0 0
年代2 3
︵
6 1
名10
︶1 9
0 0
年代1 0
女性階層別女性の内訳︽図 ん︒また女性の階層別では︑年代を追って多くの分野で女性は進出してきましたが︑一〇〇〇年代と一一〇〇年代の 一八〇〇年以降生まれの女性が多く掲載され︑本日取り上げる平安・鎌倉時代生まれの女性の掲載は多くありませ7 4
名﹃日本女性人名辞典﹄掲載女性3
の階層﹄の階層は次の通りです︒皇室関係の女性︵
5 4
・7 4
名︶︑官僚の妻︵3
・9
名︶︑武将︵士︶の妻︵4
・3 7
名︶︑宗教関係者︵2
・3
名︶︑文化人︵
2 0
・2 4
︶名︑遊女︵2
・ 私達は各階層毎に独自に女性を分類しましたが︑古い時代に設定した分類基準の枠に︑後世の女性たちは収まりき1 4
名︶︵一〇〇〇年代・一一〇〇年代の女性︶れなくなってきました︒多くの分野へ進出してきたその内訳を示します︒
︵ 1︶︵ 2︶︵ 3︶︵
4︶︵ 5︶︵ 6︶︵ 7︶︵ 8︶︵ 9︶︵ 10︶
皇室
53 74 112 52 24 27 73 61 105
官僚︵妻︶
3 9 1 4 1
96 15
武士︵妻︶
4 37 19 22 22 202 177 155 193
宗教関係者
2 3 5 1 3 16 17 16 82 22
文︵化︶人
20 24 25 19 5 9 54 211 380 234
遊女等
2 14 4 4 4 0 33 31 66
キリシタン
17 8
商家
2 14 37 212 151
農家
8 37 13
技師
4 1 51 27
医師
1 2 86 20
学者
22 73 67
軍人関係
29
社会活動家
138 126
ジャーナリスト
33 20
教育者
294 69
芸術家
112 33
音楽家
32 63
舞踏家
44
俳優
・芸
人
52 115
伝統芸能継承者
164 69
犯罪者
26
スポーツ選手
88
その他
2 2 17 71 124 48
図2 『日本女性人名辞典』年代別掲載女性数
図3 『日本女性人名辞典』掲載女性の階層
図4 『鎌倉遺文』掲載文書数
﹃鎌倉遺文 5﹄女性の書いた仮名の手紙等︑仮名文書がどれだけ存在するかを調べたこともあります︒﹃平安遺文﹄﹃鎌倉遺文﹄という︑竹内理三博士が終生かけて集められた古文書集成の本があります︒手紙や︑土地の譲り状︑借用書︑離縁状その他の文書が﹃鎌倉遺文﹄全四十二冊には︑三万五千通が掲載されています︒その中で︑女性の仮名で書かれた文書は数えてみると三九二通の僅かしか見られません︒︽図
﹃鎌倉遺文﹄掲載文書数4
︾後で具体的に分析する為房妻は︑竹内博士の﹃平安遺文﹄には掲載されていません︒為房妻の四十三通の伝存は貴重であると言えます︒﹃鎌倉遺文﹄の恵信尼の時代の仮名文書は十四通︑二十一通︑九通という少なさです︒平安時代に比べて仮名文書が少し発掘されていますが﹃鎌倉遺文﹄という多くの文書を集めたものも︑実は男性の文書︑漢字文書が大半で︑女性の仮名文書は少ないのが現状です︒世に残る女性の手紙など仮名で書かれた文書の数は本当に少ないのが現状であり︑今後とも一層広く言語の歴史を解明するために︑全国に渡って女性および女性仮名文書を掘り起こしが必要と考えています︒
二人の女性の手紙言語資料として二人の仮名文書を少し詳しく見ておきます︒︵以下の引用文の濁音符は金子が付けました︶藤原為房妻 6
これは紙背文書︑つまりお経の裏に書かれていたために残っていたものです︒お経の裏書きとして
1 0 0 0
年ほどの時間を経て発見されました︒紫式部の少し後の時期に四十三通もの直筆の手紙が伝存していることは大変貴重です︒夫藤原為房は日本史事典にも掲載されているような人物です︒しかしこの為房妻の経歴は不詳です︒彼女は源頼国
の女︑六乗斎院宣旨の妹かと推測されています︒かなりの知識人かと見られます︒流麗で精緻な濃淡織りまぜての筆致で︑書の観点からの芸術性も︑また内容の文芸性も価値が高いと評価されます︒四十三通の手紙の内容は︑彼女の大切な息子が比叡山延暦寺に学問習得のため入山し︑その先生であるお坊さんに書き送った書状です︒息子の先生へ我が子を宜しくと綿々と親心を吐露しています︒また官僚である主人の昇進の失敗などを愚痴る手紙を切々と書き送っています︒大旨家族関係の内容に終始しています︒生活に困らない為房妻は現代のある種の母親像にも重なるものが見られます︒手紙の一文を読んでみます︒これが都の貴族の妻の手紙です︒○
あはせのきぬまいらす︒いとみぐるしげにはべめり︒これをばよる〳〵きせさせたまへ︒ひるはひとへど
もをきせさせたまへ︒︵第十一痛
﹁山へ袷の着物を届けます︒お粗末な着物ですが︑寒くなる夜の間だけ着させて下さい︒昼間は見栄えの
1
行︶よい単衣を着させてください︒﹂○
わかのしはぶきは︑昨日よりまさりてくるしげにはべめるを︑おぼしめしいのらせ給へ︒︵第二十七通
○このついでにや︑せじもくだりはべるをいと〳〵ほいなくはべりてぞ︒︵第二十七通 ﹁わが子の咳は昨日より一層ひどくて苦しそうなので︑治癒できるよう祈祷をお願いいたします︒﹂
1
行︶残念でなりません︒﹂ ﹁このついでに宣旨︵主人の昇進︶も下るだろうと心待ちにしていたのですが︑中止になり︒ほんとうに
43
行︶このような家族関係の記事に溢れたものが為房妻の手紙です︒都に住む貴族の妻である為房妻の手紙には贈りもの付け届けの記載も多く見られます︒
衣料関係では︑あはせのきぬ︵袷衣︶・かたびらのぬの︵帷子布︶・ひとへども︵単衣共︶その他が見られます︒○あやしうはべめれど︑おほむかたひらのぬの︑ふたつまいらす︵第七通
食料関係では︑いを︵魚︶・うり︵瓜︶・かき︵柿︶・ひだくり︵飛騨栗︶・くだもの︵果物︶・ささげいを︵捧魚︶・ ﹁たいしたものではありませんが︑帷子の布を二つ持って行かせます﹂
3
行︶すひらめ︵酢平目︶・たかうな︵高菜︶・ふたご︵二子栗︶などの贈り物の例が見られます︒○れいのあやしのうり︑ふたご︑まいらせさせはべり︵第十一通
恵信尼 7 ﹁いつものようにつまらない物ですが︑うりやふたごうりなどを持って行かせます︒﹂
23
行︶一九二一︵大正十︶西本願寺というお寺のお蔵から発見されました︒十通です︒しかも都からかなり遠い越後という地から発信されたものです︒恵信尼の手紙の内容から彼女の生没年が判明しています︒夫は鎌倉新仏教のひとつを興した親鸞です︒彼女の出自には不明な点が多く︑京都の貴族の子女出身説と︑越後の豪族の子女関係者説とがありますが︑現在は判明していません︒この手紙は晩年の七四歳から八六歳頃にかけて発信したものです︒親鸞が越後流罪中に其の地において同棲︒その後共に関東に赴く︒晩年は夫と別れて越後へ移ったことが手紙の内容からわかります︒越後︵新潟県︶の上越市新井近辺から︑京都の地で夫親鸞の世話をしている末娘の覚信尼に宛てたものがこの手紙です︒この手紙の意義はかつての夫との生活や文化的情報が記載されていることです︒歴史上不明だった親鸞の若き日の経歴がこれらの書状で初めて多く判明しました︒又恵信尼は日記を付けていたことが書状に書かれており︑起
こった出来事などの情報がはきっりとした年月日で記されています︒この手紙は母から自分の娘宛で︑形式張った言葉遣いは見られず︑当時の口頭語︑すなわち話し言葉が多く採録さ
れる︑非常に面白いものです︒当時の地方︑日本でも有数な豪雪地で家族と必死に生きる生活の状況を報告しています︒生活の困窮︑娘へ物資︵綿・針等︶の援助を乞う等の記載もあります︒小袖を娘から贈って貰い︑死出の衣装に したいと書いている文章もあります︒○
やまをいでゝ六かくだうに百日こもらせ給て︑ごせをいのらせ給けるに︑九十五日のあか月︑しやうとくた
いしのもんをむすびて︑じげんにあづからせ給て候ければやがてそのあか月いでさせ給て︑ごせのたすからんずるえんにあいまいらせんと︑たずねまいらせてほうねん上人にあいまいらせて︑又六かくだうに百日こ
もらせ給て候けるやうに︑又百か日ふるにもてるにも︑いかなるだい事にもまいりてありしに︵第三痛
九十五日の明け方︑聖徳太子のお言葉を唱えることによって︑聖徳太子が姿を現されて︑そのお告げを蒙 ﹁︵お父さんは若き日︶比叡の山を出て六角堂に百日お籠もりになって︑後世のお祈りなさったところ︑
5
行︶りなさり︑そのままその明け方堂を出られて︑後世を救かるような縁に遇いたいものと︑人を尋ね歩いた末︑法然上人にお遇いになり︑またそれから︑六角堂にに百日お籠もりになったようで︑ふたたび百日の
あいだ︑降るときも照るときも︑どんな大変なことがあろうともお訪ねしていました﹂○
おさなく御みのやつにておはしまし候しとしの四月十四より︑かぜ大事におはしまし候しときの事どもを︑ かきしるして候也︒ことしは八十に ニゝなり候也︒おとゝしのしも月よりこぞの五月までは︑いまや〳〵と時日をまち候しかども︑けふまではしなで︑ことしのけかちにや︑うへじにもせんずらんとこそおぼえ候へ︒︵第四通
﹁あなたがまだ幼く八つでおいでの年の四月十四日より︑風邪をひいて大事に過ごしておられた時の事な
8
行︶ど書き記しました︒私は今年は八十二歳になりました︒一昨年の十一月より去年の五月までは︑今も死ぬか今日も死ぬかと死ぬ時日を待ちました︒今日まで死なないで生きてきました︒今年の飢饉にはあるいは飢え死もすることがあろうかと思われます︒﹂○
それよりたびて候しあやのこそでをこそさいごの時のと思て︑もちて候へ︒よにうれしくおぼえ候︒きぬの
おもてもいまだもちて候也︒又きんだちの事よにゆかしくうけ給はりたく候也︒︵第十通
で厳しい環境に耐えながら自分の家族と共に生活している様子が伺えるものです︒ 恵信尼の手紙は︑為房妻の手紙に比べて︑社会的・文化的な情報が非常に多く見られます︒貴族の妻とは違って田舎 もっと詳しく教えて下さい︒﹂ 思っています︒頂いた絹の衣装もずっと大切に持っておりますよ︒さて︑都に住む孫たちのこと︑どうぞ ﹁あなたから頂いた綾の小袖をこそ死に装束にしようと思って大切に持っています︒ほんとうに嬉しく
21
行︶日本語の東西対比について具体的に言語の分析に入ります︒現在日本語には︑次のような東西の言語対比が見られます︒﹁カッタ︵買︶︱コータ︑シロクなる︵白︶︱シローなる︑イル︵居︶︱オル﹂
この言語の東西対比は昔話﹁桃太郎﹂の冒頭部分﹁昔むかし︑あるところに︑おじいさんとおばあさんがありました︒﹂
の﹁ありました﹂部分の方言訳を北の青森から南の鹿児島・沖縄まで
系︑西日本のオル系を大きく確認することが出来ます︒︽図
1 4
の地点で検証してみても︑東日本のイル﹁桃太郎﹂全国方言訳地図/金子改5
修 8︾
①青森県五所川原市アッテイダト②山形県東田川郡三川町イッタケドヤ③宮城県気仙沼市アッタドサ④富山県東礪波郡イヤタトヨ⑤静岡県静岡市デ⑥愛知県名古屋市ゴザッテ⑦京都府京都市イハリマシタ⑧大阪府大阪市オッテント⑨岡山県岡山市アリマシタ⑩島根県松江市オッタゲナ⑪山口県山口市オッタイノウ⑫福岡県福岡市オンシャッタゲナ⑬鹿児島県鹿児島市オイヤッタチワイ⑭沖縄県︑首里方言メンシェービータンちなみに①③⑨で見られた﹁ある﹂は﹃伊勢物語﹄の冒頭﹁むかし︑おとこありけり︵昔︑男が居た︶の﹁居る﹂の存在動詞の古形の残存と見られます︒更に研究者の全国調査でも﹁イル︱東日本︑オル︱西日本﹂が証明されています︒
このような現代の日本の言語の東西対比が︑それでは︑果たして平安時代・鎌倉時代はどうであったのでしょうか︒現代と同じような東西対比の明確な検証は出来ておりません︒古い時代の日本語の東西対比については︑室町時代末期来日のキリスト教宣教師ロドリゲスが記した﹃日本大文典﹄にも形容詞や動詞のウ音便で現在と同じような東西対比があったという観察があります︒東国では︑﹁良ウ︑甘
ウ︑緩ウなどの代りに︑白ク︑長ク︑短クなどのようにクで終る形を用いる︒﹂また東国の動詞は﹁払ウテ︑払イテの代りに払ッテ︒習ウテの代りに習ッテ︒食ウテの代りに食ッテ︒買ウテの代りに買ッテを用いる︒﹂です︒
では︑室町時代からもっと遡った平安時代・鎌倉時代初期の日本語の東西対比はどうであったかについては︑京都の為房妻と︑越後の恵信尼の書いた手紙の言葉を比べて見てみるとよくわかります︒日本語は︑ずっと遡った平安時
代も︑京都中心の地方ではウ音便︑恵信尼が住んでいた東国の地はウ音便を使わない︑という対比があるとこの二人の手紙から証明で きるようです︒形容詞のウ音便表記の東西対比を見てみましょう︒藤原為房妻書状 形容詞の大半がウ音便表記︒
あさましう︵浅︶︑あしう︵悪︶︑あやしう︵怪︶︑ありにくう︵在悪︶︑いたう︵痛︶︑いみじう︑うゐ〳〵くしう︵初々︶︑うれしう︵嬉︶︑ヽ︵う︶れしう︑おそう︵遅︶︑おそろしう
︵恐︶︑おそろしう︑おもう︵重︶︑かひ〴〵しう︵甲斐︶︑くちをしう︵口惜︶︑心ぐるしう︵苦︶︑心やすう︵安︶︑こひし
う︵恋︶︑しげうも︵繁︶︑たのもしう︵頼︶︑ちかう︵近︶︑ひさしう︵久︶︑ひろう︵広︶︑ふかう︵深︶︑ほけ〴〵しう︵惚々︶︑みぐるしう︵見苦︶︑むつかしう︵難︶︑めでたう︵目出度︶︑ものしう︵物︶︑をかしう︑をさなう︵幼︶︑○
いとくちをしうあやしう︵怪︶をりさへあしう︵悪︶はべるも︵第二十七通
う︵苦︶思たまへ︵第十七通 ○このちごはぬるみだにいまヽでさめはべらでいと〳〵心ぐるし
33
行︶30
行︶図5 「桃太郎」全国方言訳地図
恵信尼書状 非音便表記が全ていかヾしく︵如何︶︑うるはしく︵麗︶︑うれしく︵嬉︶︑おそろしく︵怖︶︑おだしく︵隠︶︑おほく︵多︶︑か
たく︵難︶︑くらく︵暗︶︑げに〳〵しく︵実︶︑心ぐるしく︵苦︶︑心もとなく︵許︶︑ことあたらしく︵事新︶︑
さうたいなく︵相対無︶︑しろく︵白︶︑すくなく︵少︶︑たのみなく︵頼無︶︑たよりなく︵頼無︶︑ちかく︵近︶︑
ちからなく︵力無︶︑つくしがたく︵尽難︶︑なく︵無︶︑ふかく︵深︶︑ものうく︵物憂︶︑ゆかしく︵床︶︑よ
く︵良︶︑よくよく︵良良︶︑わづらはしく︵煩︶︑おさなく︵幼︶○おやこのちぎりと申ながらふかくこそおぼえ候へばうれしく︵嬉︶候〳〵︵第三通
○さてもこぞよりはよにおそろしき事どもおほく︵多︶候也︵第十通
67
行︶して︑ロドリゲスが観察・記述した室町時代の日本語の東西対比が︑東西ふたりの女性の手紙に書かれた言葉によっ 為房妻はウ音便を多く使っています︒一方︑東国に在住した恵信尼は形容詞のウ音便は︑一例も見られません︒こう
15
行︶て︑更に数百年前の平安・鎌倉時代に遡って存在していたことが明らかになりました︒更に動詞のウ音便表記の東西対比を見てみます︒形容詞と同じように︑為房妻は﹁思給うて﹂を使っています︒東国の恵信尼は︑やはり形容詞と同じようにウ音便を使わず︑﹁したがひて﹂となっています︒藤原為房妻
ウ音便表記○一夜のそうしははべらざりけりなか〳〵さればかく思給うてそ︵第二四通
○はんにしたがひてたてゝみばやと︵第七通 恵信尼非ウ音便表記
5
行︶この結果から︑恵信尼の出身についても︑その出自が良く分からないのですが︑彼女の使用言語という視点から︑
11
行︶見て︑恵信尼は東国人の越後の人であろうかと思われるのです︒
外来語の受容について二人の手紙の言語は︑言語の東西を見ることができたと同様に︑書かれた当時の音声をかなり忠実に書き表すテー
プレコーダーの役割をも果たしています︒それが中国から入ってきた外来語︑つまり中国語音の受容の問題です︒自筆の書状は当時の音韻をかなり忠実に表記しているようです︒いま私達は︑撥音便﹁ん﹂・促音便﹁っ﹂・拗音﹁きゃ・きゅ・きょ﹂などを当たり前に話し書くことができますが︑中国語が入ってきた奈良平安時代の人たちは︑それを仮名で書き表すことができませんでした︒日本語は開音節︵母音で終わる音節︶ですが︑そこへ中国語の閉音節︵子音で終わる音節︶が入ってきたところで︑漢字音の末尾は仮名表記が行えず︑平安時代の為房妻には中国語を受容してもそれを仮名で表記することが出来なかったようです︒﹁
n
﹂の﹁ん﹂は日本語にはありませんでしたので︑高等学校の古典で習った平安時代の古文の﹁あ︵ん︶めり・な︵ん︶めり﹂の﹁ん﹂が無表記であったのと同次元です︒その様子が︑平安時代の為房妻の直筆書状にもよく表れています︒彼女は﹁宣旨﹂は﹁せし﹂︑﹁律師﹂は﹁りし﹂︑﹁阿闍梨﹂は﹁あざり﹂というふうに︑撥音便﹁ん﹂・促音便﹁っ﹂・拗音を仮名表記することが出来ていません︒それが︑鎌倉時代の恵信尼になると︑﹁あんじて︵案︶﹂︑﹁ねんぶつ︵念佛︶﹂﹁わうじやう︵往生︶﹂のように︑撥音便・促音便・拗音の仮名表記が出来るようになっています︒二人の手紙は︑日本語の東西対比だけでなく︑平安・鎌倉時代の外来語の受容とその表記法の過程を示しています︒為房妻の漢字音表記舌内撥音︵
n
︶︵零表記︶大ぜ︵ん︶のすけ︵膳︶・せ︵ん︶し︵宣︶・ぜ︵ん︶し︵禅︶・ほ︵ん︶い︵本︶舌内入声︵
拗音︵零表記︶あざ︵じや︶り︵阿闍梨︶・すざ︵じや︶かまひ︵朱雀︶
t
︶︵零表記︶御は︵つ︶かう︵八︶・り︵つ︶し︵律師︶恵信尼の漢字音語の表記 仮名表記が行える︒舌内撥音︵
舌内入声︵ くわんおん︵観音︶
n
︶︵ん表記︶あんじて︵案︶︑あんとうじ︵安藤次︶︑えん︵縁︶︑くわうず御せん︵御前︶︑ 拗音︵仮名表記︶うむびやう︵温病︶︑けんちやう八ねん︵建長八年︶︑わうじやう︵往生︶ ︵つ表記︶せいしぼさつ︵勢至菩薩︶︑ねんぶつ︵念仏︶t
︶︵ち表記︶いまいちど︵一︶︑けかち︵飢渇︶︑じちむ︵実夢︶口頭語について当時の話し言葉が解明されるという例を一つ示してみます︒恵信尼の手紙には︑﹁とん・どん﹂という接続助詞が
○しかしながらひかりにてわたらせ給と候しかどんくわんおんの事は申さず候︵第三通 光渡観音
2
例見られます︒○よろづたよりなく候へどんいきて候時たてヽみばやと思候て︵第八通 頼無生万
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行︶﹃鎌倉遺文﹄全文を調査・検討した結果︑鎌倉時代の全国所在の文書に﹁どん﹂が見られ︑どうやら接続助詞﹁ども﹂ 恵信尼の﹁どん﹂は最初意味がよく分からず︑当時の恵信尼が生活した越後方言かとも思ったのですが︑竹内博士の ﹁行ったけれども﹂︑﹁見たけれども﹂︑﹁勉強したけれども﹂ 私達は接続助詞の﹁とも﹂や﹁ども﹂を知っています︒
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行︶の口頭語︑すなわち当時の話し言葉だろうということが分かってきました 9︒古文書集﹃鎌倉遺文﹄四二冊より東北から九州まで一四六例を採録したものを示します︒︽図
﹃鎌倉遺文﹄6
に見られる接続助詞﹁トン・ドン﹂︾東北地方
1
例︑甲信越地方
3
例︑北陸地方
5
例︑関東地方
3
例︑東海地方14
例︑近畿地方中国地方
81
例︑
2
例︑四国地方
3
例︑九州地方28
例︑地域不明8
例︑この﹁どん﹂は﹁ども﹂に対応する俗語・口頭語だという判断をし
ました︒越後の恵信尼書状は︑都に住む自分の娘に宛てたものですから︑気楽に日頃の話していることばの﹁どん﹂を使ったものかと
みられます︒為房妻の手紙は比叡山で勉学に励んでいる息子の先生の僧に宛て
たものなので︑俗語的な﹁とん・どん﹂を使っていないのは理解できます︒更に︑為房妻には﹁ん﹂という表記法は未だ出来ない時期
の女性ですから︑為房妻に見られないのは納得のいくところです︒別の人から採録された﹁どん﹂を少しですが示してみます︒京都栂尾高山寺の明恵というお坊さんと︑東国武士の熊谷次郎直実の﹁どん﹂の例です︒明恵は自分の和歌などに俗語・口頭語を多く使う
ことの報告もあり︑熊谷直実も口頭語を使用することが多い点では同様です︒
図6 『鎌倉遺文』に見られる接続助詞「トン・ドン」
○寿ヲモステバヤトぞ思候へどん︵京都栂尾高山寺 明恵上人書状
○しかれどん天たいたいの御さくさくに︵東国武蔵国熊谷次郎直実誓願状 台釈 ︶ 10
︶ 11
しかし現在では︑恵信尼がかつて住んだ新潟県の上越地域や︑明恵などが住んだ京都などでも︑﹁どん﹂は見られません︒現在は九州南部地域に﹁どん﹂が見られる程度のようです︒○アメガ フッタケッドン ユキマシタタイ ︵熊本市 雨が降ったけれども行きましたわい︶○ソラ ヨカトジャケッドン コッチガ ヨカガ︵鹿児島県知覧町 それもいいけれども︑こっちがよいよ︒︶○ハヨーカ イッタタドン マダモドッテ コン
︵長崎県西彼杵郡
早く行ったけれども︑まだ戻ってこない︒︶恵信尼書状の接続助詞﹁どん﹂のような︑鎌倉時代に全国で見られた﹁どん﹂は︑今は全国的には南九州等の一部
を除いては消滅しているようです︒こういう鎌倉時代の話し言葉が恵信尼などの当時の手紙から観察されるのです︒これは︑先に見ました︑平安時代﹁おどろく﹂ということばが﹁目を覚ます﹂という意味で全国的に使われていたの
が︑現代では地方の一部でしか使われなくなり︑﹁目を覚ます﹂という意味が消滅してきた現象と同じと見られます︒本人が書いた直筆の手紙は︑まさにテープレコーダーのように当時の発音や言語の意味を記録しているわけです︒
ま と め女性遺文の収集とその整理を通して︑今私がやっております日本語の歴史研究の一部を
まとめます︒ 紹介しました︒本日の話を 12
1
︑手紙など文書は一篇ずつの言語量は少ないが︑多くを集めると︑文学作品にも劣らぬ格好の言語資料となる︒2
︑文書は生活に根ざしたものも多く︑その時代に実際に使われた庶民層の言語の実態解明に大いに寄与する︒3
︑文書は全国的にも広く存在し︑歴史的にも長いスパンで把握でき︑言語の歴史研究に重要な資料となる︒ 人の言語表現を楽しんでみたいと思います︒ 日本文化を伝える古典は本当に面白いと思います︒人間の息吹に多く触れることができる手紙の文章を読んで︑先4
︑中でも︑女性の書いたものは現在多くは伝わっていないが︑広く発掘することが今後の大切な課題である︒注
︵
︵ 1︶佐藤亮一﹃お国ことばを知る方言の地図帳﹄︵小学館︑二〇〇二年七月︶
︵ 2︶金田一春彦他﹃朗読源氏物語︱平安朝日本語復元による試み︱﹄︵大修館書店︑一九八六年︶
3︶築島裕﹃平安時代の漢文訓読語につきての研究﹄︵東京大学出版会︑一九六三年三月︶
7 9
︵ 7頁
︵ 4︶﹃日本女性人名辞典︵日本図書センター︑一九九三︶
︵ 5︶﹃鎌倉遺文﹄四十二冊︵東京堂出版︑一九七一〜一九九七年︶
︵ 6︶﹃平安仮名書状集﹄︵汲古書院︑一九九二年︶
︵ 7︶﹃恵信尼文書﹄︵法蔵館︑一九七八年︶
8︶佐藤亮一﹃
DCお
国ことばで聞く桃太郎﹄︵小学館︑二〇〇二年七月︶︵
︵ 9︶林和比古﹁助詞ドンについて﹂︵国語と国文学十四巻第九号︑一九三七年九月︶
︵ 10 ︶﹃人物叢書明恵﹄︵神護寺文書︶︵吉川弘文館︑一九六一年︶
︵ 11︶﹃日本名跡叢刊﹄五七︵二玄社︑一九八二年一月︶
二〇一一年三月︶ 金子彰﹁鎌倉時代仏教者夫妻親鸞・恵信尼の用語︱言語の地域性について︱﹂︵﹃言語変化の分析と理論﹄おうふう︑ 金子彰﹁恵信尼の用語﹂︵大谷大学﹃真宗総合研究所研究紀要﹄第二八号︑二〇一一年三月︶ 金子彰﹁鎌倉時代の女性仮名文書の漢語の表記について﹂︵﹃築島裕博士傘寿記念国語学論集﹄汲古書院︑二〇〇五年︶ 三月︶ 金子彰・伊藤守﹁恵信尼書簡総索引稿上・下﹂︵﹃新潟大学教育学部紀要﹄第二七巻一・二号︑一九八五年十月︑一九八六年 年三月︶ 12 ︶金子彰・東京女子大学日本文学科有志﹁藤原為房妻仮名書状語彙総索引稿﹂︵﹃東京女子大学日本文学﹄第八七号︑一九九七
金子彰﹁鎌倉時代の恵信尼文書の用語についてー言語の口語性ー﹂︵﹃東京女子大学日本文学﹄第百九号︑二〇一三年三月︶
キーワード女性遺文︑女性の手紙︑藤原為房妻︑恵信尼︑日本語の歴史︑中世語︑東西の言語︑口頭語︑外来語の受容