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三ヶ同又化\考美

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三ヶ同又化¥考美

〈付・研究報告索引〉

頑張れ!亀ヶ肉えイヒ

弘前大学人文学部附属 亀ケ岡文化研究センター

(弘前大学人文学部 日本考古学研究室研究報告 7 )

(3)

はじめに

人文学部の校舎の改修にとも会い、日本考古学実習室は教育学部や総合教育様の小さな教室に分散 して開器ちし、その土、日本考古学研究室も使用できなく会った。実官室の引っ越しで、

が作成した遺物の実灘間・拓本・ヰ真、遺物の集成・出土遺跡の一覧などを整理してみると、その中 にはただ捨て去るにはもったいない資料が含まれていた。藤沼も途中までまとめていた論文がいくつ かあったので、学生と相談すると、学生は息分たちの作成した実測岡もあるので向らかの彰でまとめ たいという

O

しかし、考吉学ゼミの今年夏の最重要課題は、 昨年度の夏に調査した青森県三戸町の杉 沢遺跡の発掘謂査報告書の作成と刊打であったので、その付録としていくつかの論文・資料紹介を加 えることにした。杉沢遺跨の報告書は、執筆しているうちに大部のものとなり、付録としていくつか の論文や資料紹介を加えることは不可能になった。そこで論文や資料紹分を独立させて f 亀ヶ同丈化 (研究報告 7 ) として刊行し、それにこれまで刊行した研究報告の文字索引・実湖国索引を付 け加えることにした。一年障に本を 2 冊作るなんて、まさに定年退職を前にした暴挙である

O

これで 定年ギワギリの 3 月末まで朝から夜遅くまで学生と一緒になって忙しい毎日をおくることになった。

ヶ同文化雑考集 J には、地域社会との連携を考え、亀ヶ岡式土器の文棟を徹底分析し、デザイ ン化を試み、津軽の伝統産業である津軽塗りなどに応刑できないか、なども取句上げた。また、賠魅 魁魁が乱舞する暗間の世界に立核武多の遮光器土偶を登場させ「頑張れ!亀ヶ詩文化 J と撤を飛;まし

た絵も査場する

O

日本考古学研究室の研究報告第 1 集は平成 1 5 年長に刊行したので、今回の研究報告を加えると、 5 聞に 7 冊子

IJ

持したことになる

c

財政のきびしいおり、図や写真の多い本を刊行できたのは弘前大学 の学長や人文学部長を蛤めとする各方面からの応援があったからである。話究報告の題名を発行

)11

長に 捧げてみよう

第 1 集 ?亀ヶ同文化遺物実溺図集j

2 集 ?青森県東津軽郡平語村今津遠藤発掘調査報告書j 第 3 集 「ミニ特出展「亀ヶ岡文化の世界 J 図録 J

平成 1 5 年度 平成 1 6 年 皮 平成 1 7 年度 平或 1 7 年度 平成 1 8 年度 平成時年夏 第 4

第 5 集 G 集

f 亀ヶ同文化遺物実灘留集 ( Z : J

ヶ同文化遺物実測

ア集 「亀ヶ開文イヒ雑考集(関・研究報告索引

)j

平成 1 9 非度 以上の研究報告の表紙には留を入れて、その下に「頑強れ!亀ヶ開文化 J と諮打合てきたむこの研 究報告アの完成とともに定年を迎えることができると思うとなんとなく嬉しい。

なお、第ア集 f 亀ヶ同文化雑考集j の刊行には平成 1 9 年度の学部長裁量経費などを f 吏吊した。

平成 2 0年 3M

弘前大学人文学部日

弘前大学人文学部開講 亀ヶ陪丈北研究センター 弘前大学大学院地域社会研究科

藤 沼 邦 彦

(4)

日 次

はじめに

江戸時代の文献に見る亀ヶ岡遺跡 藤沼邦彦………...・

H

・‑………… 1 亀ヶ同文化の遺物の紹介

弘前市薬師遺跡・五所川原市観音林遺跡・三戸町杉沢遺跡、東松島市里浜貝塚

亀ヶ同文化の土鵠(的、仮出〉の紹介

王 子 J I 東北町田 蕪地という 亀ヶ開文化に

蓑虫山人の

について

いて

ヶ間文化における岩偶について

亀ヶ ン ・

宮 本 明 日 香 ・ 五 十 嵐 愛 ー

‑つがる m 亀ヶ詞遺罫・弘前市薬師遺跡などー 赤坂拐美・秋山真吾・藤沼邦彦……

e

H

M

・ ‑ 藤沼邦彦・萩坂華恵...・

H

・ . . . . . , . . . . . . . , … … … 3 5 真 葉沼莞彦・を藤千絵...・

H

・ . .

葉沼邦彦・・・

藤沼邦 E Z ‑ 秋山真吾・

の顔面付土器

藤沼邦彦・栗原徹………...………的英

と青森新開の「第二 について

藤沼邦彦・深見

津田恭平・藤沼邦彦……… 1 0 5 頁

藤沼邦彦・

宮本明日香・佐藤千絵…...・

H

・ ‑ … . . . . ・

H

・ 1 1 5 頁 亀ヶ間文化と穐ケ (最終講義抄) 藤沼邦彦……… 1 4 1 頁 索引 日本考古学研究室研究報告第 1

五十嵐 日;香・佐藤千絵

1 4 9 頁

(5)

江戸時代の文献に見る亀ヶ岡遺跡

藤 沼 邦 彦

亀ヶ岡文化の名称、の由来になった津軽の亀ヶ岡遺跡は、江戸時代からすでに数多くの土器が出土す るところとして著名で、各種文献にも色々な形で登場する

O

とくに有名な文献は、中谷治宇二郎によ って詳しく紹介された「永禄日記 J といわゆる『菅江真澄遊覧記 J である

O

このほかに弘前藩の人々 が書き残した膨大な古文書の中にも、亀ヶ岡遺跡出土の土器に関する記事が散見する

O

また、その出 土品(土器・土偶)は江戸まで運ばれ、文人の好奇心をくすぐり、古物収集の対象となっている

O

し たがって、江戸の文人たちの随筆にも亀ヶ岡遺跡の出土品が登場することになる

O

全国に数多く存在 する縄文遺跡のなかで、江戸時代のうちに土器などの採集を目的に発掘がおこなわれた可能性がある のは亀ヶ岡遺跡だけであろう

O

ここでは、江戸時代の文献を中心に、①亀ヶ岡遺跡に関する江戸時代 の文献にどんなものがあるのか、②縄文土器に関する最古の記録といわれる館野越本『永禄日記 J

元和九年条の再検討、③考古学史における菅江真澄の業績、④江戸時代の人々が亀ヶ岡遺跡とその出 土品をどのように考えていたか、⑤亀ヶ岡遺跡や出土品に関わる人々の交流関係、⑥江戸時代に於け

る亀ヶ岡遺跡の意義、などについて順不同で考えてみたい。

なお、小論を書くにあったって、中谷治宇二郎・清野謙次・成田彦栄・内田武志・村越潔・福田友 之などの先行研究を参考にさせていただいたことを明記しておきたい。

O  亀ヶ岡遺跡の概要

亀ヶ岡遺跡は、青森県つがる市木造町館岡字亀ヶ岡にある

O

青森県津軽半島の西南部に位置し、西 海岸(日本海岸)沿いに延びる館岡丘陵から津軽平野につきで、た標高 20m~ まどの舌状台地を中心に、

その南北の谷地までおよぶ広大な遺跡である

O

日本海までの距離は、扉風山丘陵を越えて、直線にし て約 4km で、ある

O

低地にはクルミやトチノミの殻を大量に含む泥炭層が発達し、土器や石器のほかに 筆胎漆器など植物質の遺物が数多く出土している

O

亀ヶ岡遺跡は江戸時代から多数の土器が出るところとして知られ、津軽地方には亀ヶ岡遺跡を中心 とした出土品を集め、楽しむ好事家が出現し、彼らのもとから土器や土偶が江戸まで送られた。明治 に入っても、この状況が続くことは明治 1 3 年の第 2 回弘前博覧会の出品目録や蓑虫山人の描いた『陸 奥全国神代石古陶之図扉風 J などからよく分かる

O

また、考古学・人類学の勃興期をむかえ、東京人 類学会が結成されると、古くから多量の出土品が知られていた亀ヶ岡遺跡は、遺物収集期でもあった 人類学・考古学の恰好の標的となった。とくに、明治2

2

年に東京大学の佐藤伝蔵によって大規模な発 掘調査が低地を中心におこなわれ、遺跡の内容や成因、大量の遺物について詳細な報告がなされると、

亀ヶ岡遺跡は考古学界における不動の位置を占めることになる

O

その後、しばらく、大学・個人によ る学術調査はなされていないが、個人研究者やコレクターによる遺物採集、それらに供与するための 地元民による発掘がさかんに行われ、優品は東京人類学会雑誌に絵入りで紹介された。その結果、他 の遺跡で出土した土器であっても、亀ヶ岡遺跡出土の土器と似ているものは、亀ヶ岡式土器と呼ばれ、

その型式の土器を使用する文化も亀ヶ岡文化と呼ばれるようになった。

昭和 3 年に県による仮指定、そして昭和 1 9 年に近くにある田子屋野貝塚とともに国の史跡に指定さ れた。地元の展示施設として、 J R五能線木造駅の近くに「木造町縄文住居展示資料館カルコ」、遺 跡の近くに「縄文館」があるが、ともに学芸員などは配備されておらず、課題も多い。

なお、亀ヶ岡遺跡の代表的な学術的調査は、①明治 2 2 年の若林勝邦、②明治 2 8. 2 9 年の佐藤伝蔵、

③昭和 25 年の三田史学会、④昭和 4 8 年の青森県教育委員会、⑤昭和 5 5 ‑ ‑ ‑ ‑ 5 7 年の青森県立郷土館による

(6)

もので、それぞれ報告あるいは報告書が刊行されている

O

O  館野越本『永禄日記 J の登場

亀ヶ岡遺跡は、「奇代之瀬戸物ほり出し候所也 J として日本考古学史にデビューする

O

この魅惑的 な文章が登場するのは『永禄日記 J という稿本で、それを最初に紹介したのは、中谷治宇二郎の「東 北地方石器時代遺跡調査予報 J (中谷 1 9 2 9 ) であるが、『日本先史学序史j ( 1 9 3 5 ) で、さらに詳しく 述べられている

O

これには青森市にある三内村の遺跡も登場する

O

あまりにも有名な文章であるが、

館野越北畠家蔵のいわゆる舘野越本の『永禄日記 J からその部分の原文を取り出してみよう

O

元和九突亥年正月元旦天気能

O  二日弘前下鍛冶町火事、

O  近江沢御城築之事相止、此所城下ニ相成候ハ、亀ヶ同と可申由 J 此所より奇代之瀬戸物ほり出 候所也。其形皆々かめ之形ニ而 J 御座候。大小ハ御座候へ共、皆水ヲ入ルかめニ而御座候。昔より多 ク出候所也。 J 昔何の訳ニ而此かめ多土中ニ有之事不故知候。其名ヲ取て」亀ヶ岡と申候也。又青森 近在之三内村ニ小川有、此][[より J 出候瀬戸物大小共ニ皆人形に御座候。是等も訳知レ不申候」

内容は中谷の紹介文とほぼ同じであるが、中谷は下線の部分を「何々沢にて J とまちがって読んで いる

O

また、中谷は、近江沢城の造営工事で土器が出土したように解したため(中谷 1 9 2 8 、 1 9 2 9 、

1 9 4 3 ) 、多くの研究者がそのことを引用するが、原文をみても分かるように、造営工事で土器が出土 したとは書かれていない。原文を要約すると次のようになる

O

①元和 9 年 ( 1 6 2 3 年)近江沢での城の造営が中止になった。

②この城が完成したら亀ヶ岡城とよばれる予定であった。

③亀ヶ岡からは、みな「かめ」の形をした大小の「奇代之瀬戸物」が昔から多く掘り出されている

O

④亀ヶ岡の土中になぜ多数の「かめ」があるのか不明である

O

⑤土中に多数の「かめ J があるので、亀ヶ同とよばれるようになったのである

O

⑥三内村にある小川から瀬戸物がでるが、大小共にみな人形である

O

何故かは分からない。

中谷は、『永禄日記』のこの記事について、「石器と共に埋没してゐる先史期の土器は、何れの国に あっても最近世まで人々の注意を逸し勝のものであって、それが古記録に現れると云ふ様な事は極め て稀であった。然るに我国にあっては、土器が特に豊富であると云ふ事実があったにしても、十六世 紀の最初、即ち石器が近世再び人々の認識に上がったよりも一世紀以前に、偶然とは云へ既に記録さ れていたのである」と評価し、「是は一つの不思議な事実である」とまで述べている(中谷 1 9 3 5 ) 0 こ れによって、『永禄日記 J は縄文土器に関する最古の記録として認定されるにいたり、芹沢長介の『石 器時代の日本j ( 1 9 6 0 ) をはじめ、磯崎雅彦「亀ヶ岡式土器研究小史 J ( 1 9 7 7 ) 、勅使河原彰の『日本 考古学史j ( 1 9 8 8 ) 、福田友之の「亀ヶ岡文化の世界 J ( 1 9 9 1)などに引用されてきた。

O  館野越本『永禄日記Jlの検討

この「不思議な事実」について最初に疑問を抱いたのは、青森市在住の研究者、成田彦栄であった。

成田は『先史学序史 J の引用する『永禄日記 J の記事に興味を持ち、所蔵する『永禄日記 J 三種と比 較して見たところ、この記事が館野越北畠襲蔵(館野越本とよぶ)の『永禄日記 l J にのみあって、他 の写本に収録されていない事を発見し、流布本が一様でないことに気がついたという(成田 1 9 5 5 ) 0

さらに成田は研究を進め、原本に近い『永禄日記』は、山崎家で家記として書き継がれて来たものを、

山崎立朴が整理、清書したもの(いわゆる東京本など)で、完成したのは安永 7 年(1 7 7 8 ) であろう と考えた。中谷が云うような弘前藩の記録ではない。この系統の写本の元和九年条を見ると「去年七 月中旬殿様十三御一見之為御出ニて、亀ヶ岡御見立有、此所元ノ名近江沢と申し候。普請惣奉行森内

‑2 ‑

(7)

左兵語、大湯彦左藷円。熱処今年御在江戸ニ而御延引、其内ニ一国一城之外域築停止ニ御感候而、御 止被害成候 J とある(復刻版 f 永禄日記 J みちのく双書第一集)。幕府の一国一城制のため、亀ヶ岡 城の築城を停止したことは書かれてあるが、亀ヶ岡や立内村で、の瀬戸物発見の記事は書かれていない

c

また、閉じ立朴が編集ー清書した館野蓮本の f 永禄位記 ] J ,土、亀ヶ関や三内村などの土器ついての 記事が入るなど、龍の f 永禄日 とは相当 なる部分が三うることから、成田はこれを関本と して尊重すべきであろうと考えた。成田辻、はっきり書いてはいないが、館野越本の「永禄日記 j に ある亀ヶ岡遺跡や三内遺跡の記事は、当時の記録に碁づいたものではなく、山崎立朴が新たに加筆し た可能性があると考えていたようである

O

こうした成田の指摘によって J 永操日記j館野越本の円亀 ヶ同)此所より奇代之瀬戸物ほり出候所世」云々の記事の再検討が、村越潔や上野式などによって行 われるようになっ

村越潔;立、館野議本の f 永禄日記j を重接調べ、元和九年条の原文を初めて写真で紹介し、これま での釈文に若干の違いがあること、近江沢域と亀ケ

る、などの点を指摘した(村越 1 9 7 0 ) また、『平山日

直線にして約 1 3 0 0 メートルも離れてい や「津軽一統志j には、亀ヶ岡城の築城に 関する記述はあるが、土器発見に関する事柄がみられないとして、この部分詰「立朴が嵐説を開いて、

編集時に挿入したのではないかと思われる j とした〈村議 2 0 0 1 ) 0 

また上野武 i 之、立本トがそのころ(寛政の頃〉津軽に退留していた菅江真澄と親しく交際しており、

一人の間で亀ヶ問や三内村で出土する土器について話題になったことが反映しているとし、三内村に 関する記述が、館野越本『永禄日記 J と真澄の「栖家の I J I J とで内容がほぼ一致しているのは、館野 越本『永禄日記 J の土器出土の記事が、立朴による捕筆であることを推定させる有力な証拠となると

した(上野 1 9 8 3 ) 。上野のこの指捕は重要であるむ寛政 8 年 3 月 158 に、真澄 i ま初めて館野越〈現板 椀町)に住む医師である立朴宅を訪れるのであるが、二人は意気投合し、すっかり親しくなってしまう

O

の後も、真澄はしばしば立朴宅を訪れ、会えば夜連くまで話し込んだり、病気の時も立朴宅 したりしている(森山 1 9 7 2 ) 0 また、真澄は、三内村で土器・土偶を見る約 2 ヶ丹前に立朴に会い、

ヶ岡を訪ねる約 2 0 日前にも会っている

O

勿論、その後も親しく交流しているむこうした状況の中 古物に関心のあるこのこ入の関で、亀ヶ開の土器や三内材の土器・士課について意見が交換されない

はずがない。上野の推期連りであろう

C

とくに三内に関する館野越本と f 栖家の山j の記述は、(1)小 J

l I  (古堰の崩れ)から出士.品があること、

(2)

士偶(人形、人の頭・仮面の形)を取り上げているなど、

きわめて類似性のある内容となっており、ニ人の間で意見交換があったことを推定することができる おそらく館野越本に亀ヶ問や三内村で出土する土器について加筆されたのは、ニ人が頻繁に交流して いた寛政 8 、 9 年ころであろうむ

なお、明治 2 0 年頃搭かれた蓑虫出入の?睦奥全面持代石吉陽之関幹嵐jを昆ると、士棋の絵の脇に「瓢 ヶ 関 所 護 館 越 村 北 と書き込みがある

G

北畠氏は、館野越の山崎氏(中世に浪岡城に代々

した北畠氏の子孫。津軽氏に樺って山崎氏に改姓したという)のことで、明治年に願い出て、

族の姓である元の北畠に復姓したものである

C

この土偶をいつごろ誰が入手したのか不明であるが、

北畠家(出埼家)に土器や士慢に関心をもつものがいた事を示すもので、これが立朴であってもかま ない

c

立本トが、館野越本の元和九年条に、亀ヶ悶で土器が出土することを付け加えた真意は、「この城が もし完成していたなら、縁起のよい亀ヶ岡の地名をとって亀ヶ岡城下と呼ばれる予定であった己その 良い亀ヶ間という地名は、地中から形も大きさも様々な焼物が沢出出るところから、イすけられ たのだj といいたかったのであって、けっして「元和九年に境物が発見された j とか「お域を作る工 の:境物が出た j とかは言っていないのであるむ原文をよく読んでみようむ「此所よ乃奇代之 は り 出 候 所 以 ‑ f の文章は亀ヶ間という縁起のよい地名の由来を説明するためだけのもので

‑3‑

(8)

ることが分かろう

c

なお、工事が中止となった亀ヶ関域跡、は、つがる市( I 巨木造町)亀ヶ関字近江野沢にあり、土塁や に関まれた郭などがよく残っている

C

亀ヶ間違鼓、辻、亀ヶ関域蕗:の北東にあ与、その距離は約 1300m あ切、重複することはない。また亀ヶ閥遺跡では築城工事が行われたような痕跡、は見られない。

ヶ岡遺跡の現状に詳しいつがる市教育委員会の佐野忠史もそのような痕跡を見つけることができな いという

C

したがって、考古学的観点からも「お城を作る工事が亀ヶ岡遺跡までおよび、そのため沢 山の娃物(土器)が出た J ということはあり得ないのである

O

として、舘野議長本 f 永禄日記j の元和九年条の土器・土鵠の記事;まその当時書かれたものでは なく、寛政 8 、 9 年に書き加えられた可能性が大きい♀したが合てこの記事をもって縄文土器に関す る最古の記録ということはできない。

比良野真彦と亀ヶ同遺跡に関する最古の記録

話野越本の?永禄日記 J にある亀ヶ i 吋や三内村出土の記事が、山崎立キトによっ されたものとすれば、亀ヶ関遺跡に関する最吉の記誌は、現在:の所、

に紹介した比長野貞彦の箱書きとなる(佐藤 1 9 0 0 ) この薩蓋 i 土、坊間にて

8 、 9 年ごろ

f 東京人類学 とあるから、

町中の古道具屋で見。け出したものであろう。箱書き になされたもので、内容は次の通り である

C

f 弘前唐西百余思有品目館問、山中住々出拘器、形回不一皆奇古可愛夫、其沈論乎地中星霜悠久不 知幾年所也、出去海漬数十皇、萱護槙之所載来、被重重県覆没、出海愛遷需在此土中欺、黙為来事日所破 形全者幾希、予偶得一期珍議君、 天明三年秋九月 タト演

きの内容をまとめると次のようになる(方角、距離については事実誤認や誇張が含まれている 距離については無視した)。

①弘前城下の諸方にある館岡村の山中からしばしば陶器が発掘される

C

②その陶器は、形が様々で同じものがなしすべて珍しさ・

③緯器は、地中に深く埋もれて、どのくちい怒久な年月

さの点で愛でるべきところがある

O

したか分からをい。

(むかし)外国船が陶器を載せて梅岸にやってきて、 あって転覆したのであろう

O

⑤今は、地形(槻 I L I ) が変化して、ここに埋もれているのだろうか。

⑧発見されでも、鋤にかかる為に完全な形のものは稀である。

ぐた私(比長野貞彦)は、たまたま完全な彰のもの 1 個を得ることができ、珍践している

O

掩器が発掘される館関村の山中;之、亀ヶ属遺跡を指し、隣器は縄文土器と考えて良い。「外演 野 は比長野貞彦のことで、外浜は設の雅号である C ここで注昌すべきは、選踏:の或菌(~話器が土 中から沢山出る理由)を

(a)

陶器を載せた外国船が台患で沈没したこと、

(b)

それが地形の変化で館関村 の山中に埋もれている、と考えていることである

O

この資料は単なる箱書きにすぎないが、亀ヶ 跡やその出土土器に関する最古の記録であるとともに、亀ヶ岡遺跡の成因を考えた最初の記録として 重視すべきである

G

籍蓋を発見した註藤は、籍の中身にすいては全くふれていないので、すでに中 は失われていたのであろう。答書きの内容からすれば、亀ヶ同遺跡出土の完全な形の土器が入ってい たことが推定できるな天明 3 年は、貞彦が弘蔀に来る前であるから、国元の入を通じて、江戸で手に 入れたものであろう

O

ところで、比良野貞彦は、弘前落江戸定府の侍で、 と文才を兼ね備えた いう

c

谷文昆について画法を学び¥外浜人・嶺雪と号した。天明八年五月に 拐めて弘前にやって来るが、翌年実段元年三月に i 主審公の参府にお供し

j 筈在わずかに 1 年弱であるが、初めて百にする国元の畏景、人々の暮ちしぶり

e

4 ‑

人物であったと 閣に随従して、

ってしまう。

などを巧み

(9)

生し f 奥民図葉 J を残した(森本 1 9 7 0 ) 0 この稿本は、この時期の庶民の致活・文化を知る貴重な 料となっているが、このなかに「亀岳陶器」として 3 留の土器(壷・鋒・詑日土器)が搭かれている

O

ヶ岡遺跡の土器が描かれた最初の文献となるが、その図は、 f 患の絵と比べるとはなはだ稚拙に見え るので、貞彦本人が描いた部分であるのか気になるところである

O

O  穐ヶ同遺接と管江真澄

菅江真澄は天明・寛政を中心に北海道や東北地方北部を歩き、亀ヶ岡遺跡や三内遺跡をはじめ、土 器や在器が出る遺跡を訪ねたり、所有者の請を訪問して遺物をスケッチしたりしている

O

などを考古学史の立場から詔介し、その業績を高く評価したのは、やはり中谷治 字二郎であった。中谷は、真澄が亀ヶ岡遺勝の土器と三内村出土の土器の違いをとらえ、さらに亀ヶ 岡遺跡出土土器の製作者まで考察していることに対し、縄文土器に関する真澄の「功績は実に石器に 於ける白石、石亭の稔和にも対比すべきもの」であるとまで言い切った。しかし、中谷はのちに発見

された「外ヶ誤奇勝j を見ていないし、真澄と山崎立朴との関係についても関心を示していない。

ここでは、大きく亀ヶ同遺跡、じ関わる部分仔外ヶ浜奇勝j.  r 津軽のっと)、亀ヶ同遺跡と けられた弛の遺跡の部分 a 新古祝饗品類之国)、三内村の遺跡に関わる部分げすみかの出j. 

のっと1)に分けて記述し、真澄がこのニつの遺跡の違いをどのようにとらえていたか、を考えて見 たい。

1 . 亀ヶ関遺跡に関わる部分を『外ヶ浜奇勝 1 (内田・宮本 1 9 7 2 所収)、 f 津軽のっと l J (内田・

1 9 7 3 所収)から書き抜いてみた。

(1)

外ヶ浜奇襲j (本文) r  (寛段 8年 7 月 2 日 、 3 日)館岡見んとて、みちふたつある右なる小高 き野添ひの結路よりゆけば、めてに松たてるくさむらを堂の語といふ。此あたちの土をほれば瓶子、

ノト査、天の手扶、祝瓶ゃうの、いにしへの陶のかたしたるうつわの i まちいづる

O

さらば、瓶ヶ 関の名はふりたれど、近き世のことにや、此山に域つく号、やぐらたてたまはなんの、こころねがひ し給ふのをりしも開えたれば、今館関という

C

この村なかに来つつ詣っきたり

C

三吾 やの翁ほとけ にぬかづき、はと、あくびうちして、けぶ与をただふきにふいて、缶の形したる小瓶に、つばきぬ

c

此器や、かの周辺よち;まり来りけん J (亀ヶ岡遺跡発見の土器 2 倒の岡あ引

c

津軽のっと j(本文) r はた護ヶ詞といふやかたのひろ野ある、その小高きところを i まりうがてば、

こがめ、へひぢ、ひらか、をつほ、手輩、あまの手扶ゃうのものまで、むかしよちいまし世かけて法 れどもほれどもっきせず、なにの料にうづみしにやり凡、いはいべ、とちへひぢに似たるもの多

しか、そのかたを 5 だんにのす J (亀ヶ同遺跡出土の土器の国あり)。

以上((1 ) ・

(2))

から、要点をまとめてみよう

O

真澄は、寛政 8非ア月 2 日、初めて亀ヶ同遺跡の為 る館関村をたずねる

O

紀行文だけあって描写辻写生的である

C

堂の前は、現在も鎮挫する雷電社付近 を指すのであろう

O

また、瓶ヶ岡とし寸地名は古いけれど、近い時代に、ここに域を築こうとしたので、

今辻諮問と云ゥている、とも述べている

O

問題点を笹条書きしてみよう

C

ヶ国では間の上を掘ると関器が出土する、とあるの低地の水田あるい辻沢地を掘ると陶器が出 土するとは書いていないことが j 主目される。 r 新古祝聾品類之国 J でも昨

IIIEI

を掘るとある

O

このころ の土器出土地点は、低沼地ではなく、丘授と沢地への斜面が中心で、あった可龍性がある

$出土した陶器は、瓶子、小輩、平搬、小章、天の手扶、祝部に似たものが多く、大小は様々である、

とする。土器の形を具体的にあげているのは、完全な形で出土するものが多いことを示している。真 澄は形のわかるものが出土することも亀ヶ詞遺跡の特設ととらえているようである

③亀ヶ岡では、昔から現在まで掲器を掘っているが、尽きることがない。真澄は、時器が沢山 ることも亀ヶ罷遺跡の特俄であると考えている

‑ :J一

(10)

を目的として埋めたのか分からないとしている

小壷に疾を吐いているが、この壷;まこの近くから揖与出して持ってきたものであろ うとする。このことは、当時、発掘品を地元民が所持していた事を示している。

以上が、

いの辻、

2 .  

とらえた亀ヶ詞遺跡とその出土品の状況である ち出している現場に室面していないこと と関連合けられた抱の遺跡の部分(

いてまったくふれていな ものであろう

G

(内田・宮本 1 9 7 3 所収)) 

ケ 決 奇 勝IJ

,  ~津軽のっと j が、亀ヶ同遺跡の現状報告なら、次の?新古祝薬品類之図 J は、考 察編のようなものである。ここでは、亀ヶ同遺跡出土品に加え、秋田県・岩手県・北海道出土の土器 を検討し、亀ヶ開遺跡出土品とよく似た土器を一群のものとしてとらえ、製作者まで想定している。

なお、 f 新古祝薬品類之図j でいう「祝霊j は祝部土器のことで、考古学では一般に須恵器をさすこ とが多い。真澄は、埋没家屋などで発見された須恵器を中心に、古い胸器として縄文土器も中近世の 胸磁器も、 とりあげている

O

図から縄文土器と判断できるものはア点あるが、すべて縄文晩期 のものと思われる。真澄が興味を抱いていた「みかえのよろしリ的な土器が合まれていないのは、完 形品を見ることがなかったためであろう

O

ここでは、縄文土器と推定されるものの絵 σ 菅江真澄全集j

を参照)と本文を紹介しよう

C

( 3 1 5 )   r 間関同郡北比内荘、橋詰村の家の後なる地よち揖与得るといふ。陸輿ノ津軽の護箆同よち 揺ちうるがごとに、を号としていくらも出る事あるてふむそのさま蝦夷地の議母呂より掘り得とて、

入のもで来ちしに形おなし。これもいにしへ較夷の作ちし鵠にやあらむかし(全集の 3 9 8 頁の国を参 照、縄文雑文の査である入

( 3 2 2 )   r 此瓶は睦輿津軽幸子蘇蔀斐笛闘の片坦を掘れば、をりとして小甑を得る。大小定まらず、僅民、

こは高麓人の来て制作たるといふ

O

螺夷洲より掘りえる鞠に凡 1 tLたり。なお奥にものすべし J (全集 の 4 0 5 頁の図を参際、碍に工字文患の文様がめぐる壷)。

( 3 2 8 ) 秋田郡南比内十二所脊地町、大森永吉文家蔵 J 、「其ニ 大サ凶ノ州シ。扇田ノ神明宮ノ社 リの北に上津野川のあなたに中山村あり。中山にいづれ君かおはしたりけむり桜殿といへる城蹟あり

C

その古城の在りし地より此附堀り得るもの語りあり

O

手なし、口を以て用しげるにや J (全集の 4 1 1 頁 の図を参照、注口土器である、口縁は欠けているようである)。

( 3 2 9 )   r 秋田郡南比内十二所谷地町、大森永吉文家蔵。一一一 其三 高二す柱、回九す位、大知図。

同郡北比内山田村より掛りしといふ。底は転斐にひとし j を 羊茜状文らしき 文議がめぐる

( 3 3 0 )  

揺与うるがこと

き別所村ノ畠より、鍬にあたちていくらも据ち得るといへ号。津軽の護が関に のさま秋田よと内の接持村、最夷自の弥母呂ノ諸に撮るものに凡1t J たち

O

一一一此 護はいにしへ摂夷など、此所に住て作たるにや。有、母呂の撃をもておしはかり知るべし(全集の 4 1 3

頁の簡を参態、縄文雑文の査である〉。

( 3 3 1 )   r 睦異議部農角毛布郷毛馬内家士、山本栄蔑完秀家載。九戸ノ郡一ノ戸の山より端り得しと いへ句

C

こはもろこしの口離のたぐひにして、出羽の秋田北比内なる桜殿といふ柵の蹟より堀り出 しものと、さまおなし。これも蝦夷人の作りなしたる陶にや。 高三寸二分、口豆一寸八分、甲乙回 一尺四す、丙此槌口八分斗(全集の 4 1 4 頁の図を参照、雲形文をも

( 3 3 4 )   r 大館永倉町、横山高四郎成房家蔵。多衛餌離、口亘四寸三分、深立寸。山田村ノ枝村口木 の狐杜 より掘り出しと云ふ J (全集の 4 1 7 頁の図を参照、短い頚部に羊歯状文らしき文様をもっ深鉢〉。

以上の資料から、亀ヶ岡遺跡に関わる部分に視点を量いて、要点を織めてみよう

G

①秋田県橋桁村や別所村の遺跡、のように、掘ればいくらでも土器が出てくる雄子は、亀ヶ属遺跡と 同じであるという

C

これは、真澄がたくさんの土器が出土する状況を三遺跡に共通する容色としてと

~6-

(11)

らえていたことを示す。

②亀ヶ関遺跡・橋桁村・別所村出土の土器 i 之、北海道根室出 に叡ているので、これらは、

むかし蝦夷がそこに住んで製作したものであろうとし、

したもの」という説を否定している。また、

が製作したものとした。

ヶ詞の人々がいう「高麗人がやってきて製 と北比内の桜殿出土の注口土器も、蝦夷人

以上から寝哀の秋田県・ ‑青森県・北海道根室に、 ヶ関遺跡出土土器と類似する一群の士 器が出土することを明らかにし、これらは、根室の出土問から考えて、むかしそれぞれの地域に蝦夷 人が住んで、いて、これらの土器を製作したと考えるべきであると主張している。しかし、異液は土器 の類似だけから蝦夷入との関係をとらえた訳ではない。東北地方にはむかし蝦夷が住んでいたという 国史の記述や伝承があったことを知っていたこと、東北地方に多いナイという地名がアイヌ語に するものととらえていたこと、蝦夷地に渡り、道南を中心に旅してきたこと、当時、産軽半島や下北半 島の北辺海岸部にアイヌが住んでいたのを見毘していたことなども、大いに与っていたにちがいない。

なお、清野は、?新古呪翠品類之国 j を見て、真澄は、須恵器と縄文土器の区別がつけられなかっ たとし、「真澄の考へでは、縄文土器は祝部土器の一部分であった。然も亦後述するが知く

った土器らしく考へもし

が、其月号迄っき皆めた所は筆にし

究極する所、蝦夷の造った祝部土器と考えたかと云ふ事に落ちる らぬj と、真澄に対し、やや皮相的な見方をしている(詰野 1 9 5 4 ) 0 しかし、 7 個のうち 5 留のものについて接室出土品との懇訟や蝦夷人との関連にふ れているが、その龍の須;容器あるいはそれ以降の鴎磁器については、まったく触れていないので、

遣は、縄文土器を祝部土器と…緒にしているが、その中で縄文土器と須恵器との区間をしていたと ること治宝できる

3 . 三内村の遺跡と出土品

一内村の遺跡に関わる部分を、 f すみかの出 J (内田・宮本 1 9 7 2 ) ・『津軽のっと

j

(内田・宮本山 7 3 ) から抜き出し、真澄が三内村の遺罫をどのようにとちえていたか、そして亀ヶ岡遺跡との違いを本当 に見いだしていたか、などを検証したい。

( 1 )   r すみかの山j (本文)日寛政 8 年 5 月 1 4 日)此村(三内村〉の古堰の崩れよ号、縄形、布患の 古き瓦、あるは撃の破れたらんゃうの形なせるものを、掘乃得しを見き

O

陣作のここに住たらんなど いえち

O

おもふに、入の頭、仮面などのかたちせしものもあ号、はた頚鎧に{立たるものあり。……こは、

そのはにわ、たてもののたぐひにこそあらめ J 。

(絵の解説 ) 1 其一、一一一此村の壌のほとりより瓦鵠のごとなるものを掘乃出る

G

其形;ま頚鎧のごと ふものに似た号。美加弊乃興呂比といひしゃ、護甲ならん J 1 其二、一一一寒苗の郷に掘ち 得る中に援面の如きもの出る、これや波遍王ちふものにや J 1 其三(絵のみで解説なし ) J 。

( 2 )   r 津軽のっと

11

(本文)

1

寒苗の皇よりみかべのよろひなすもの、ある辻誌にわなすもの、あるは ふる瓦ゃうのものいづるもいとあやしとおもふに、又このころ、黒石のほとりなる、むかしいふ小杭埜、

いまいふ花牧の邑のこもり、出;またけより、さむなへにほりえしにおなじさまなるものほりいでしと て、しりたる入のをくりしを、めつらしう、かたにしるしむム

( 3 ) 美番弊乃誉路管 J (本文) 1 戸島内の村に来けり。もと蝦夷や栖つらん。山かげに於方

11

志桑為て ふ所のあるにても知るべし。架、碑、複を佃る山蔭を墾たりしをりしも、人の面の如き陶を堀り る物語をそせりけ与

O

こは陸奥津軽寒菖の畠よりほ与出したるとひとしかりき J 。

は寛政 8 年 5 月 1 4 日、三内村(現、青森高〉を訪ね、古壇の崩れた所から出土した土器などを 見る

G

これは真、澄が縄文土器を取り上

題点を笛条書き的に整理してみよう

O

亀ヶ をたずねる約 5 0 日前のことである。関

内の出土品は、縄昌や布目のついた古き瓦のようなもの、獲の破れたようなものがあ号、その

‑7‑

(12)

中に法人の頭、仮面などの形をしたもの、頚鎧のような形をしたものが島る

G

そして、ここに掬器作 りが往んでいたのであろうと考えた。形を具体的に示していないのは、破片ばかりで、完全会形が分 からなかったのであろう

と{J;Aた土器は、図を見ると円筒上麗式土器の大型突起の破片である

O

突起の形状から頚鎧を 斗手かべたのであろう

O

真澄研究者の内田は、真、澄が「みかべのよろしリと呼んだのは、津軽三内 の人たちがそう称していたからだろうとするが、津軽地方で縄文土器を「みかべのよろい j とよんで いた証拠はない。おそらく

と造語したのであろう と区別している

$人の頭、仮面などの形をしたものは、図をみるとあまり正確ではないが、土偶であろう

O

三内村 毘辺の円節上層式土器の遺跡は、比較的多数の土偶が出土するところである(とくに三内丸出遺跡、で

に似たものが土器で作られているというので、真澄が「みかべのよろい J

してこれと似た土器は花牧遺跡でも出土しているとし、亀ヶ同遺跡のもの

は 1 0 0 0 韻体をこす土鵠が出土している〉。

の村でも「人の面の掠き鞠を掛り

これを垂仁紀にある埴輪・立物の類であろうと考え る物語 J を開急、三内村で出土したものと同じであると っている

O

④なお、真澄 i 立石器にも関心があり J すみかの出 J r 雪の出和路 J などにスケッチを残している

o

r す みかの山』では「天狩舎にのぼりでっちを掘れば、震斧石、あるいは鈴石てふものを拾ふ

j

とある

O

天狗台誌弘前市乳井の乳井神社(江戸時代は見沙門堂)の為る出であるが、縄文時代の遺跡はしられ ていない。いずれにしても、土をほィコて石斧を採集したとすれば、当然土器のかけらも出土する i まず であるが、 いてはまったくふれていない。 ほどの人でも と土器が結びつくことは無 かったらしい。

松浦武田部と穐ヶ間遺詩

北方探検家として著名な松諾武四郎も幕末に津軽地方を旅行し、 J 東奥沿滋住誌j (嘉永 3 年) ヶ同遺跡について次のように述べている

C

ヶ岡村 恐らくハ瓶ヶ岡成べ L o 匙辺古き鈎器出るなり J r どうぎ(注、きかが抜けている

O

筒 木坂のこと)村は隣器坂なるべし。亀ヶ関とうさ坂の関の甑より、冬よりイテ解の後に種々の議出る也。

皆自境手造りにじ目有。上方にで行基焼ともいふべきものなり。土質不宜といへ共品は甚珍敷も 余も三ツ程持てーツハ{山野の一止へ送り、ーツハ松前の鴎出子に送り、今にーツ貯なり。定て此村名 は説なりべしと患ふ J 。以上の意味をとって問題点を醤条書きにして縄めてみよう

O

せ〉松浦は、亀ヶ同はもと瓶ヶ岡、どうぎさか村(箆本坂)は陶器坂であろうと、地名の由来を推定し、

出土する旗(胸器)は上方で云う行基壌のようなものと考えた。行基焼は一般に須慮、器をさすことが 多いが、松鴻は、単に古い鴇器という意味で、 f 吏用したと患われる

O

菅江真澄のような考誌は晃られ 会い。白蝶・ヒ目については調べることができなかった。

になって凍てついた大地がとけると、瓶(掲器)が出土するという話は、本当だろうか。石器 ならともかく、形ある土器が雪解けで発見されるという話はあまり開いたことがない。

⑤松浦は 3 個の瓶(詫器)を手に入れ、仲間にも贈ゥた

c

亀ヶ岡の出土品を喜ぶ風潮が広がゥてい たことが分かる

O

こうした思潮に応える形で、頼めば入手できるだけの環境が地元に出来上がってい たにちがいないむこうした環境がいつごろ成立していたのか興味あるところである

O  江戸の野事家と亀ヶ岡遺跡の出土品

江戸時代の中頃になると、泰平が長く続くのに乗じ、器学や国学を中心に、医学・

・地理などさまざま分野で、学問が盛んに行われるようになった。古物・吉跡など考古学的資料

︒ ︒

(13)

に関する収集・ も例外ではない。人々は ミものに愛着を覚え、これらを集めた乃愛玩すると いう風濃もまたさかんに会ってきた

c

人々;こは、古いものにあこがれ、これを愛する気持が、その心 の中にひそんでいる

C

社会がおちゥき、学問がさかんになり、生活が安定するにともなって、この心 性が燃えあがってきたのである(粛藤 1 9 7 4 九交通事憶がよくなり、大都古と地方の交流が盛んにな ったことも大いに与っている

c

江戸や大板・京都などの大都市では、好事家が集まって、各地の珍し い物産・高益な物産を出し合って勉強する物産会が行われるが、書画・古物を出し合

q

て互いに設詳 したりする勉強会も盛んになった。津軽の亀ヶ再選罫が発掘され、土器が採集されたの辻、こうした 古物愛好の風潮に応えるためでもあったのである

O

江戸に往んで、亀ヶ開遺跡の土器を所載していた

は、書家・語家・医師・館学者 国学者など多岐にわたる。ここでは江戸の好事家と亀ヶ 跡の出土品との関わり合い、とくに彼ちが亀ヶ岡遺跡の土器に対し、どのような考えをもっていたの か調べてみたい

c

(l)項;奇会と f 耽奇没録j と亀ヶ岡遺跡、出土品

耽奇会は、雑学者山崎美成を中心とする好古・ ま札会員各自が持ち寄った古書画、吉 器財などの珍品、奇物を展観批評したものである

O

この会辻、文政ア年 5 月かち翌 8 年 1 1 月にか汁て、

毎月 l 回、計 2 0 間関かれ、その記諒 i ま『耽奇漫銭j として集成されている(以.ヒ、小出 1 9 9 3 ) r 耽奇 漫録 J に辻、亀ヶ国遺跡出土の土偶が 1 呂、土器が 2 回載っており、中谷治宇ニ郎によって詳しく紹 介されたことが事る(中谷 1 9 4 3 ) 。会に集まった人々が、亀ヶ同遺跡出土の土偶や土器について、ど のような感想をもったのか、あるいはどんな議論を交わしたか、などは記載されていないので分から ない。彼ら出品者が、どんな手段で本州の果ての地である

のであろうか。

ヶ罰遺跡の出土品を手に入れていた

(a)

第 1 回(文政 7 年 5 月 1 5 日 〉 を出品している(]耽奇漫録 J

に、松襲館吾原稜江が「津軽亀ヶ同にて掘り出たる土偶人ニ躯 J

1 集九二躯とあるが、関をみると、 1 留の遮光器三上偶の表裏を描い たものである

c

西原稜江は、達者、を新右衛門といい、竣江はその号、松薙館は屋号という

O

筑後柳川 藩の江戸留守居役であるが、藩命で、 1 2 西日の会合の出轄を最後に帰国してしまう。この土器辻、の ちに根岸武香の所有になり、再び f 尚古図諒 J (横山 1 8 7 1)に登場するので、西京辻、帰国の際に、

この土鵠を江戸に残していったものと考えられる。受け或った第一の{英語者は、西原を岳父とする海 業庵関息亮であろう

O

8 田(文政ア年 1 1 J J1 4 日)の会合に、

j

毎栄蓮関思亮が「津軽亀ヶ民より掘出す古磁器j を出品 している(耽奇漫録 J 第 8集入国を見ると大混C1あるいはC2式の完全な形の注口土器である。こう したものをどのようにして入手したのであろうか。関思亮は書家である。第 I 回の会合で土鵠令出品 した西原竣江辻彼の岳父である。思亮は天保元年 9 月に 3 5 才で亡くなる

O

(c)

第 2 0 間(文政 8 年 1 1 月 1 3 日)の会合に、谷台谷が f 奥州瓶岡山陶器 J を出品している(月上奇設録 J

第 2 0 集)。菌を見ると鉢形土器であるが、文様が正確に描かれていないので、晩期のいつ頃のもので あるか判断がつかないむいずれにせよ、文様のある優品であったと思われる

G

白谷は、文こといい、

この年に 1 4 議である

O

文晃 i 之、義子の文ーを亡くしてから、ことあるごとに台谷 を得って外出したというっ台谷は、常連である父親に悼われ、耽奇会に詰 3 回出席し、 2 安出品して いる

O

僅か 1 3 、 1 4 才の少年が古書画・古器物を集めたとは思えないので、文晃が怠子の名前で出品し たのであろう

O

前に述べた弘前藩江戸定時の家臣である比良野貞彦は、文晃の弟子である。真彦自身、

ヶ岡遺跡出土の土器を所在しているが、文晃もこうした弘前蓬の関係者などを通じて「奥州甑再出 掬器 j を入手したに違いない。

( 2 ) 大様玄沢と f 伊波比惜考護 j

大槻玄沢は仙台蕃持医で、 f 蘭学階操 J 、 などを著した宥名な蘭医であるむ名は茂質、

‑9 

(14)

磐本と号した。古物にも関心を抱き、文化 1 1 年に「伊波比惜考詮を著作した。玄沢は、

に集まった谷文晃や賭代弘賢などとほぼ同時代の人である

o

r 伊波比倍考誼j は、須恵器の 録集で¥文献を中心に詳しく考証したものであるが、亀ヶ同遺跡にかかわる記事もあるので、原文を 抜き書きしてみよう

G

(a) 

r むかし津軽なる門人より異形なる素壌の二小査を贈れ与

C

是れは極めて粗器なち

G

部其郷の亀 関といふ話 r r よち堀出せりと。 l : l t 同を壌れば大小の壷移しく出づ。只全き物は稀なりとぞ。古なにに用 ひし者にや。知るべかち

(b) 

r 又ここに云ふ、巌誌の類とも見えずして諸困にてスヤキの器を掘出すこと度々にして、然も鰐 しく出す所あり。是必あがりし世の焼ものせし地なるべし。奥州津軽の亀岡といふ所にては、其地を 掘れば惑として訣損したるスヤキの瓶査の類を掘出すよしむ夷地にては是をベンジというよしむ支の 松前の人はベンパチといふとぞ。今の北蝦夷カラフトの実地にては、貧家の者は今もス ヤキの土鍋を作ちて用ふる所為与

O

其嘉をシウトイウシと云ふ。是れは鍋土ありといふ事にて、即ち 錨を作る士を取る所の地名なりとぞ。但し近壌はここより渡せる鎮鍋設に磁器を用ふる故に極貧のも のならねば絶て用ひず。故にそこらに人到れば駈ぢておはひ隠くすとなり。彼地方には古風の存した る事は猫久しかりしなるべし J

(c)

思代輪池の蔵、丙寅二月五日 四五品あり

O

其中神谷氏議物に全く開形の物あ号

c

外 るあ与

C

亀間出す所といふ;こ頻雅品あ与。加に 水五升程も入べき品あり J o

抜き出した内容がバラバラなので、意味をとって箆条書きに纏めてみよう

O

(祝部土器)と異なる素焼きの土器(縄文土器)が諸国で掘り出されているが、それは古い 時代のものである

C

亀ヶ│詞では、大小の査が多数出土するが、素焼きの欠けたものが多く、完全な形 の物は稀で、あるという

O

これらのものが、むかし、何に使用したのか、知ることができない。しかし、

玄沢が縄文土器を同じ素焼きであゥても、須恵器とは異なるものであるとはっき与言っているの 要である

の門人かち贈られた亀ヶ i 再出土の 2 慢の小査は極めて粗末なものであるが、屋代輪池の 所蔵する亀ヶ関のもの辻大変趣のある品であった。おそらく同じ亀ヶ同のものであっても精粗様々あ ることを認識していたと思われる。また、亀ヶ同遺跡の土器が、津軽出身者の贈答品に利用されてい ることが分かる。屋代輪池は、原代弘賢のことで、輪池は号である

O

幕府の右筆を勤めた著名な困学 者で、耽奇会のメンバーにもなっており、須恵器や亀ヶ間出土品を所有してい

@蝦夷地では素焼きの土器を誌の古書に近いベンジあるいはベンバチとよんでいる。北長夷カラフ トの異議では、今でも貧しい家で誌士舗を作りて使思しているところが為るとのことである

O

吉い時 代の車習が残ィコたものであろう、としている

O

清野謙次は、このことから「磐水(文沢)は樺太アイ ヌが士器を製作しつつあるのを聞て、縄文土器もアイヌの手で成ったもので無いかと思ったのである J

と解釈しているが、そこまではっきり書いているわけで、ない。

( 3 ) 雑記帖 f 乗合船j と亀ヶ岡遺跡出土の壷

清野によると、 f 乗合舟j (二冊)は、「筆者を詳にしないが、文化から文設に亘って著者の見関し た事実、友人かちの通信等を記載すること百八十欝穣で、……図を主とし、之に解説が加へである。

々水戸学者の名が出て来るかち筆者は本戸藩関係の考吉趣味に富んだ入の雑記帖かも知れ ない J (清野 1 9 5 4 ) という

O

この中

載がある

O

本文は次の通りである。

「古瓦瓶之図

ヶ同遺跡出 とその査が入ってい などの記

輿 ナ H 奥軽郡華輪荘木造新日亀岡従山中、自 丈設十一点子年冬十丹七 E 覧之j

不知経其年代、旦神工不得知也。

「議後揺

U

Ei

(15)

箱書きは、所有者である三養堂によって書かれたものであろう

O

壷の年代や製作については知るこ とが出来ないとし、当時の一般的な見解を示しているにすぎない。なお、「乗合船 J には、関東地方 の縄文後期の加曾手!J B 式と目される土器など 3 点が「神代之器之図」として載っていることを付け加 えておく(清野1

954‑274

頁)

(4)

家田大峯の『随意録 J と亀ヶ岡遺跡

家田大峯(1

745‑‑1832)

は、有名な儒学者で、名は虎、大峯は号である

O

家田の随筆集である「随 意録 J (文政 8 年)に亀ヶ岡遺跡に関する記載があることを紹介したのは、柴田常恵が最初と思われ る(柴田

1900)0

亀ヶ岡遺跡に関連する部分のみ抜き出してみよう

O

「有一門人、輔自奥州津軽、語日、津軽海辺有地名巳陵、其陵自古巳棄。其径或六七寸。或八九寸。

且其陵土多為石。巳斐附著罵。土人撃得之者。往々有意。予因按之。国史云。天孫夢有天神。訓之日。

宜取天香山中士。以造平巳八十枚。井造巌巳。而敬祭天神地祇。亦為巌呪誼。如此則虜自平伏。云々

O

此神武東征之時也。国初有如是事。然則津軽之巳。其此類之遺也輿」

文意を要約してみよう

O

①津軽から帰ってきた門人の話では、巳陵から径 6‑‑9 寸ほどの古い陶器が出土するが、ここでは 土が石となり、陶器に付いてしまうという

O

村人は発掘してそれを得ることがある

O

②余(大峯)の考えでは、国史に天香山の土で、平金八十枚と巌盆を作り、天神地祇を祭り、また 巌呪誼すれば、虜(敵)は、おのずと平伏する云々とある

O

神武東征の時の事で、国の初めにはこう

したことがありがちである

O

津軽の亀ヶ岡遺跡の陶器も、こうした類のものであろう

O

大峯は、津軽の亀ヶ岡遺跡というところで、土中から陶器が発掘されることを聞き、日本書記にあ る神武東征の時に、天香山の土で、平盆八十枚と巌盆を作り、天神地祇を祭り、敵を呪誼したという 記事から、津軽の亀ヶ岡の陶器も、こうした類の遺物であろうと解釈した。それ以上の考察は行って いない。

O  亀ヶ岡遺跡以外の亀ヶ岡式土器(菅江真澄の『新古祝聾品類之図 l J をのぞく)

亀ヶ岡遺跡以外で出土したいわゆる亀ヶ岡式土器(東北地方を中心とした縄文晩期の土器)は、菅 江真澄の『新古祝棄品類之図Jlのほかに、清野謙次の『日本考古学・人類学史 J によると、岩手県や 北海道でも発見されていることが分かる

O

(1)その一つは、 j 青野謙次が、八木英三郎の資料からみつけた香炉形土器の写生図とそれに関するメ モである(清野1

954

、298 頁)

0その図から判断すると、縄文晩期中葉の香炉形土器であるO

覚え書き には、箱書の写しと思われる次のような文章がある

O

「此陶器文化中奥羽琵琶柵祉(割り注‑泉三郎忠所拠土人謂之泉城)所掘出。此地今隷子磐井郡戸 河内村郡正大槻氏、即余宗家也。得之土人以贈余、襲蔵以為家珍云 天保壬寅冬十月 磐渓崇記 印 」 これによって、玄沢は、一関の本家の土地から地元民が発掘した香炉形土器を贈られたことが分か る

O

この土器について、玄沢がどのように考えていたかは不明である

O

のち、この土器は、神田孝平 によって図入りで紹介される(神田

1889)0

(2)

二つ目は、やはり清野が岡田屋嘉七の『瓦図譜 J から見つけ出したもので、鈴付馬具や巴瓦(軒 丸瓦)とともに 3 個の土器が描かれており、図から見ると、亀ヶ岡式土器に属する可能性はあるが、

出所については「山中所得」とあるのみで、詳細は不明である

O

清野は「此土器は其形状から云って も文様から考えても縄文土器である

O

その二個は鉄鉢形、一個は亀ヶ岡式の装飾意匠の附いた注目土 器で、立原杏所写」としている(清野1

954)0

(3)

三つ目も、清野によるもので、所蔵の一巻の巻物から見つけ出したものである

O

清野は「誰の手 に成ったのか分からないが、筆者自身の家蔵品、友人の所蔵品が彩色で、描かれて居って、此品に対し

Ei Ei

(16)

て一二首づっ所蔵家が讃歌を詠じている

O

古物好きで歌趣味の友人が会合して、出品物について歌賛 し合ったものらしい。会名は分からないが、巻子には古物量賛と記しである

O

一一一年代も確かには云 へぬが化政以後で、あろう」とし、一群の土器 (6 個)が描かれている部分を図示し、このうち 2 個が 河内国出土の須恵器で、 4 個が縄文土器であると考えた。さらに、この 4 個の土器は、原文では「蝦 夷が嶋より掘し得し所 家蔵 J と説明されているが、清野は、その一つが高台付き亀ヶ岡式土器であり、

他のものも形状から云って、東北地方の産であると断定している

O

しかし、図を検討すると、 4 個の なかに擦文土器の深鉢と続縄文前期の恵山式の深鉢が 1 個ずつ含まれているので、この縄文晩期の台 付鉢の出土地も原文のあるように北海道(蝦夷が嶋)でよいのであろう

O

なお、この図は擦文土器や 恵山式土器が描かれた最初のものと思われる

O

( 4 ) 平尾魯仙の『谷の響き

lJ

津軽地方を旅行した人々が亀ヶ同遺跡の土器を得たり、津軽出身者が江戸の人々に亀ヶ岡遺跡の土 器を贈ったり、あるいは江戸の好事家の聞に亀ヶ岡遺跡の土器が出回ったりしているところをみると、

亀ヶ岡遺跡の現地では、需要に応える為の発掘がおこなわれていたに違いない。しかし、津軽在住者 による亀ヶ岡遺跡に関する記録は意外と少ない。ここでは平尾魯仙の『谷の響き』をあげるにとどめる

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平尾魯仙の著作には『谷の響き J と「合浦奇談 J があり、津軽地方の怪談・奇談を集めたもので、

その中に「地を掘て物を得る」、「地中に希器を掘る J の記事がある

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不確かな内容のものが多いが、『谷 の響き J から亀ヶ岡遺跡にかかわる部分の原文を紹介してみたい。

(a) 

I 文政の年間、八幡崎村の八幡宮の境内を掘りて瓶を多く得たりと、この瓶の出る処多くあり

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つぎにあぐべしその中ーツの瓶に五色の絹糸みてりとなり

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又この廓を掘りて帆柱出たるを掘り上ぐ ることをとどめてその柱の先に堂を建て粟嶋大明神と祝へり J

(b) 

I 天保の末年にて有けん独狐村の長左衛門といへるものその村の領なる若狭館といふ処をほりこ の地より亀ヶ岡産に等しき磁器出るなり

O

掘りて鏡の形なるものを得たりけるが、それにある人形は 岩木山の上にある本尊の脇師の神に似たるとて百沢寺に納めたりしとなり J

この「鏡の形なるものは」は、あとの文章で明らかに鉄製懸仏であることが分かるので、むしろ「亀 ヶ岡産に等しき磁器」が、本当に縄文土器であるのか気になるところである

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それにしても、領内各 地で土器が出土すると、亀ヶ同遺跡、のものと比べており、亀ヶ岡遺跡の土器が基準資料になっている ことが分かる

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また「合浦奇談』にも「陶器の出る処は亀ヶ岡の舘跡、相沢村の畑中、八幡崎村の畑中、独狐巴の 山圃(割り注ありー全形の物出ず、みな破砕のものにて多くあり

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石鍛も此処より出づ)、・

皆素焼きの物にして何の器たると云うことを知らず。古録に裁する所は亀ヶ岡より磁器出ると而己有 て其の由緒及び根原を記さず。さすればよほど往古の物と思はる

O

又独狐の山畑より掘得し砕けたる 磁器の文甚古風なり。左に図す。右陶器の砕片文様の古風を視るべし。倍所々より出ると云ながら精 麗の差あり

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亀ヶ岡の物は士精細文多からず。上品と云べし。八幡崎の物は是れに亜ぐ。独狐山畑の 物は士粗く器も厚く文多く下品と云べし。相沢の物は亀ヶ岡よりは素朴なり。…………天保年中筒木 坂村農夫の子亀岡を掘て石地蔵の如き土偶人三個を得たり。又是も天保の年間当地の県令八木橋某と 云人同じく亀ヶ岡を掘て一筒の棄を得たり

O

瓶中士満て其中に一奇石あり J など興味深い文章がある

O

しかし、「県令八木橋某」などと明治以降の行政用語が使用されているので、今回は『合浦奇談」を 分析の対象とはしなかった。

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