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ドキュメント内 三ヶ同又化\考美 (ページ 75-79)

2の内面 (大場 1965)

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4の突起の内面

4~6 八戸市石手洗遺跡

縮尺不同

第4図 円筒上層式に伴う顔面付土器の集成①

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~ 10青森市三内丸山遺跡

11 .青森市三内沢部遺跡

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12・13平川市堀合E号遺跡

15・16六ヶ所 村 富 ノ 沢(2)遺 跡 7 

14  14.東北町古屋敷貝塚

縮尺不同

第5図 円筒上層式に伴う顔面付土器の集成②

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外面

内面

第6図 青森県五戸町大久保遺跡出土の顔面付土器の写真 77 ‑

蓑虫山人の「陸奥全国神代石古陶之図」と青森新聞の

「第二回弘前博覧会縦覧の記」について

藤 沼 邦 彦 ・ 深 見 嶺 ・ 工 藤 清 泰

はじめに

津軽地方の明治時代の考古学研究史はおもしろい。中央でモースが明治10年に大森貝塚で日本初の 学術的発掘調査を行い、明治12年にその報告書を英文と和文で刊行する。明治17年には、坪井正五郎 を中心に人類学会が創設される。日本の石器時代に関する興味が急激に高まった時代といえよう。明 治19年から機関紙

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人類学会報告

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(まもなく

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東京人類学会雑誌jと改称)が発刊されると、亀ケ

岡遺跡など津軽地方を中心とした遺跡 ・遺物が資料紹介・論文の形で多数掲載されるようになる。こ れらを見ると、津軽地方の考古資料が明治期の石器時代研究の発展にいかに寄与したかが分かる。青 森県では、佐藤蔀・安田雄吉・工藤祐龍・広沢安任・外崎覚などが入会し、発掘報告・資料紹介・論 文などを投稿するとともに中央からやってく る研究者の協力者になり、学界のために活躍するC 明治 22年7月、東京大学の若林勝邦が亀ヶ岡遺跡を学術目的で発掘調査するが (若林1892)、このとき地 元の佐藤蔀・外崎覚・安田勇(雄吉と思われる)が湯口村の土器塚を案内し、佐藤は亀ヶ岡遺跡まで 同道して い る (

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東奥日報

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明治22年7月28日の記事)。東京大学の佐藤伝蔵は、地元の協力を得て、

明治28.29年、亀ヶ岡遺跡の大規模な発掘調査を行い、詳細にその内容を報告する (佐藤1896a .  1896b . 1896c . 1896d)。しかし、人類学会創設前後には、すでに津軽地方には出土品 (古物)を収集 する人々が数多く存在していた。明治13年の青森新聞の第二回弘前博覧会の記事や蓑虫山人が描いた 絵画などを調べると、明治前・中葉の津軽地方には、実に60名を越す古物所蔵者すなわち古物愛好家 がいたことが分かる。彼らがすべて積極的な蒐集家あるいは研究者であったかは不明であるが、少な くとも政治に関心の高い人、地域産業の振興に熱心な人、地域文化の向上に尽くした人々が含まれて いることは事実である。そして当時の津軽地方は東奥義塾を中心にきわめて開明的な雰聞気ーキリス ト教の伝導や民権運動など に包まれていた。なぜ、古物に興味を寄せる人々が多数いたのであろう かc こうした明治前・中葉の津軽地方の考古学事情を明らかにすることは、津軽地方の地域文化の顕 彰という立場からも重要なことであると考えている。

まず、明治20年近く に蓑虫山人が描き残した絵画と明治13年の青森新聞の第二回弘前博覧会の記事 を通じて当時の遺物所蔵者の名前や出土品の種類をさぐって見ることにする。

蓑虫山人

蓑虫山人 (1836~1900年)は、美濃国 (岐阜県)の出身で、本名は 土岐源吾という。蓑虫にかかわる伝記は多数あるが、考古学との関わ りについては、杉山荘平の「蓑虫仙人小伝

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(杉山1967)がもっとも 詳しくかっ読みやすい。杉山は日本考古学史の立場から蓑虫の位置づ けを行っている。青森県滞在中の蓑虫については、成田彦栄の「蓑虫 山人と考古学

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(成田1949)が詳しい。蓑虫の墓は名古屋市の長母寺 にあり(第l図)、この寺には蓑虫が蒐集した多数の石器・土器、 22 冊の絵日記および画軸が残されている。

蓑虫は、独特な画風をもっ漂白の画人で明治

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年から明治20年まで 青森県に滞在したC 青森県に滞在中、県内各地を旅行し、数多くの風 景画を描いた。また、古物に興味があった蓑虫は、各地の蒐集家のと

ころをたずねて土器や石器などの出土品を描くと同時に、多くの地方

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第 l図(蓑虫山人の墓)

有力者や占物愛好家と交流し、円分も出土品を多数集めた。また中央の神田孝半などからむ器時代の 遺物を集めることを頼まれたりしている。明治20年には亀ヶ同遺跡を自ら発掘し、その様子を神田孝 平に手紙で報告した。神山はその手紙の内容を「陸奥瓶同ニテ未曽有ノ発見 津軽ノ蓑虫翁の手東J(神 田1887)として東京人類学会に報告したので、 蓑虫は亀ヶ岡遺跡の内容を中央の学会誌に報告した最 初の人となる。しかし、手簡の内容から分るように、蓑虫は研究者というより古物愛好家の段階にと

どまった人物であった。

青森県立郷1:館の特別展図録で、ある『蓑虫山人]に収録されている「陸奥全国神代石古陶之図j・「太 古石器占陶凶」・「古陶図」などを見ると、青森県内の100点を越す多数の出土品が描かれ、その傍ら にl点ごとに出土地や所蔵者名が書き込まれている。所蔵者のなかには、

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東京人類学会雑誌

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に投 稿する佐藤蔀・下沢保娼・工藤彦一郎、両家の平尾魯遷、地方の有力者である熊沢慶次郎・阿部文助 などが合まれている。彼らはみな津軽地方の有力者・文化人で、考古学資料 干片物)に対して好奇心( を抱く階層が}よかったことを示している。このことは、明治13年の青森新聞の第二回弘前博覧会の記 事からもいえることである。

蓑虫の出土品の絵は、よく特徴をとらえているが、写実的ではない。考古学の立場からいえば、古 風な描き方で、津軽を代表する研究者・蒐集家であった佐藤蔀の描く土器図・土偶図と比較すると、

正確さが著しく低いといわざるをえない。誇張されたもの・省略されたもの・潤色を加えたものなど があり、同じものを描いたものでも、作品によ って細部が異なっているものが多い。それで、も特徴を よくとらえており、 写真資料や現存する資料と同定できるものがある。また現物が失われている資料 も描かれており、津軽の考古学にとっては貴重な資料となっている。したがって蓑虫という人物とそ の作品を多数の図版を用いて紹介した青森県立郷土館の特別展凶録である『蓑虫山人jは青森県の明 治前半期の考古学史を研究する上で基礎的な文献となっている。しかし、写真の大きさに制限がある ため、絵

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削に書き込まれた出土地や所蔵者名の文字は小さくて解読することができない。

ここでは、「陸奥全国神代イ1古陶之図」を題材に、なるべく写真を大きく掲載し、そこに描かれた 遺物の種類、その出十ー地・所蔵者などを探ってみることにする。

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陸奥全国神代石古陶之図

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(阿部扉風・木村扉風)に登場する遺跡と出土品(第3図‑15図と第

ドキュメント内 三ヶ同又化\考美 (ページ 75-79)

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