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デューイ教育思想における経験の二つの原理 関 勤*

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茨城大学教育学部紀要(教育科学)36号(1987)129−144

デューイ教育思想における経験の二つの原理

関   勤*

(1986年9月27日受理)

Two Principles of Experience in John Dewey s Educational Thotlght

Tsutomu SEKI*

(Received September 27,1986)

1 教育や人生を考える場合の大切な二つの視点

教育の効果をはかる眼 われわれは,現在,教育の効果を考える場合,ともすれば近視眼的な立 場をとりがちである。すなわち,短期間に区切った時間の枠のなかで,どれだけの教育の効果があ ったかを,あせって知ろうとするのである。たとえば,1年間の枠のなかで,また,一つの学期の なかで,さらに,一ケ月の学習期間のなかで,はなはだしい場合は一週間のなかで,子どもの学力 がどれだけ伸びたのか,子どもの技術がどれだけ向上したのか,子どもの学習能度がどれだけ発展

したのかをはかろうとするのである。

以上のような立場で,教育の効果をはかろうとする考え方は,これがさらに促進されると,一日 の時間の枠のなかで,極端になると授業時間ごとの枠のなかで,子どもに対する教育の効果授業 の効果がどをほどあったのかをはかろうとするのである。現在はやりの科学的と称する授業研究,

授業分析の方法は,子どものうけている教育や授業を切りきさんで断片に分解し,その分解された 断片ごとの評価を機械的によせ集めて,子どものうけた教育の効果がどれだけあったかをはかろう

とするように思われる。

このような近視眼的な教育評価の眼,教育の効果をはかろうとする眼は,教師における場合より も,親たちにおける場合に,無論多いにちがいない。親たちにとっては,今日,子どもが教師からわ たされてもってくる試験の点数が関心のまとであって,一年間とか二年間とかいう比較的に長い時 間の枠のなかで,子どもの学力がどのように上ったり,下ったり,停滞したりしているのか,その 変化を正確に知ろうとするような関心は低いように思われる。今,眼の前にいる子どもが勉強さえ しててくれれば安心であって,ほんとうに実になる勉強をしているのかどうか,能動的で建設的な 学習態度が育っているのかどうか,あまり気にならないように推測される。今の瞬間に,親に対し て,素直で従順で,親の言うことをよくきいてくれる子どもでありさえすれば,それは良い子であ

*茨城大学教育学部教育学科

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って,かれ,あるいは,かの女が,親の目にかくれたところでどのような生活をし,行動をしてい るのか,それはあまり気にならないように見えるのである。まして,その子どもたちが,心の内部 でどのような精神的苦悩を味わいつっ生きているのか,その性格や感情にどのような変化を秘めっ っ生きているのか,長い期間にわたって正確に詳細に知ろうとするような関心や欲求は,あまりな いように考えられる。

要するに,現在,日本の教育界においては,親も,教師さえも,教育の効果を,あまりにも,近 視眼的に考えているように思われてならない。教育の効果を近視眼的に考えるということは,二っ の側面にあらわれるように思う。その一っは,勿論,短期間に区切った時間の枠のなかで,教育の 効果を知ろうとすることである。今やった授業の効果を,あるいは,お説教の効果を,今,即刻に はかろうとするやり方である。極端な話をすると,授業を実施しっっ授業の効果をはかろうとし,

お説教をやりっつお説教の効果をはかろうとするのである。その二っは,現在,すぐに効果の認め られるもの,眼に見える教育の効果だけを,知ろうとし,はかろうとしているということである。

教育の意味を,教育の効果を,あまりにも,安直に,感覚的に,功利的に考えすぎているように思 われてならない。

これまでに述べてきた,・教育の効果を,あまりにも近視眼的に考えるということは,換言すれば 教育の効果を考えるのに,あまりにも「短い物差」を使ってはかろうとしているということである。

このような「短い物差」も必要なものにはちがいない。しかし,問題は,このような短い物差だけ でよいのか,ということである。率直に言って,私はこれだけでは不足だと主張したい。これだけ では片手落である。もう一つ,教育の効果を考える「長い物差」が必要とされるように考えるので ある。この「長い物差」がないと,生き生きとした人間の成長していく姿は,捉えられないように 考えられるのである。ほんとうの人間の教育の実現が,さまたげられるように思うのである。

保育における大切な二つの視点

●  ●

第一,子どもといっしょになって,熱い心で今というときを生きるときの視点

       ●  ●

,今というときが,この子の一生の中でどういう意味があるのかと問う視点

これまで,教育の効果を,あまりにも近視眼的に考えることは,ほんとうの人間の教育を実現す るのにさまたげになるだろうと考えてきた。即効薬のような教育,付け焼き刃のような教育のみが はびこってはこまるのである。すぐにその効果が確認できないと不安だというのでは,長い時間を かけて,じっくりと成熟していく人間の成長の本質を捉えそこなうかも知れない。今すぐに,眼に 見える感覚的な,功利的な教育の効果ばかり,あせって追いかけていると,子どもの発達における 眼に見えないものを見すごしてしまう恐れがある。人間らしい感情の発達,良心だとか理性だとか の発達,社会的連帯や協力の態度の発達,総じて人間の内面的な精神的な能力の発達が等閑視され る恐れがある。「短い物差」だけでは,ほんとうの人間教育をはかることができない。どうしても,

「長い物差」が必要になるのではないかと思われるのである。

津守房江は,r育てるものの目』(婦人之友社,昭和59年)において,保育における大切な二っ の視点,ということに関して,つぎのように書いている。それは,われわれが,今まで論じてきた

「短い物差」と「長い物差」の話に,直接に結びっく内容のものである。

「子どもたちとの生活を振り返ってみるとき,母親や幼稚園保育所の先生は,二っの視点を持つことが

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関:デューイ教育思想における経験の二つの原理       131

●  ●

大切だと思う。その一つは子どもといっしょになって,熱い心で今というときを生きるときの視点である。

●  ●

子どもと同じ目の高さでの見方ともいえよう。もう一つは,そうやって生きる今というときが,この子の 一生の中でどういう意味があるのかを問う視点である。子どもといっしょになって生活するとき,子ども の痛みや混沌とした思いを,そのままに感じて,私まで悲しくなり,途方に暮れてしまう。

そんなとき,第二の視点に思い至ると,落ち着きを取り戻す。この子の今の状態は成長の過程での当然 のことだから,私まで心を乱して,混乱を大きくしてはならないことに気づく。また,この子には独自の 人生が与えられているのだから,自分と違うからといって否定してはならないことにも考えが及ぶ。だか らといって,はじめから『この子の人生の中では』という考えになることはないし,またなってはいけな いように思う。これは,学校へいって困らないようにとか,大人になっていい生活ができるようにとか,

しだいに欲張った考えへと傾いていくからである。

今を一生懸命に生きることと,長い人生の中でどう展開するかを楽しむこと,この二つのことは,保育 の中での大切なことと思う。D」

津守は,保育における大切な二つの視点として,第一に,子どもといっしょになって,熱い心で 今というときを生きるときの視点,第二に,今というときが,この子の一生の中でどういう意味が あるのかと問う視点,をあげている。そして,この話の最後のところで,うえにあげた二っの視点 のもっ教育的意味を,第一の視点は,今を一生懸命に生きるということであり,第二の視点は,長 い人生の中でどう展開するかを楽しむということなのだ,と言い直している。津守が,ここにあげ た二つの視点こそ,われわれがこれまでに論じてきた「短い物差」と「長い物差」のことである。

第一の視点,子どもといっしょになって,熱い心で今というときを生きるときの視点,すなわち,

今を一生懸命に生きるということが,教育の効果をはかる「短い物差」である。第二の視点,今と いうときが,この子の一生の中でどういう意味があるのかと問う視点,すなわち,長い人生の中で どう展開するかを楽しむということが,教育の効果をはかる「長い物差」である。人間のほんとう の成長,人間のほんとうの教育を考える場合,この二っの視点は,どちらも欠くわけにはいかない はずのものである。この二つの視点は,バランスよく保持されなければならないものである。

自分自身の人生の設計の仕方の二つの視点 第一,毎日という単位での短期的な視点

第二,一生のライフ・サイクルを見通し,毎日を長期的に累積させていく視点

樋口恵子は, 「女四十にして志を立っ」という連載において,女が自分自身の人生をわが手で設 計するには,どうしたらよいか,を述べている。ここにいわれていることの内容は,なにも女性だ けにあてはまることではない。それは女性に対してとまったく同様に男性にもあてはまることがら である。しかも,それは「人生の設計」ということを狭く窮屈に考えた場合に,それだけにあては まることがらではなくて,人間の生活のあらゆる営みに広く普遍的にあてはまることがらだと考え られる。とりわけ,保育とか教育とかを考える場合には,役に立っ考え方だと思われる。

「主婦や女性たちが新しい文化のつくり手となり,自分自身の人生をわが手で設計できるかどうかは,

第一にこうした日々の余暇時間をどのように有効にほんとうに自分のものにできるか,ということ。これ は毎日という単位での短期的問題。そして第二に,一生のライフ・サイクルを見通しながら,毎日の余暇

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時間を長期的にどう累積させていくか,という息の長い生活時間の設計である。そして,長期的時間の設 計の基礎になるのは,やはり何と言っても毎日の時間の過ごし方がモノを言う。2)」

上に引用した樋口の論説は,前述した連載の第10回目, 「志を持続させること」という見出しの 下で,〈女性の余暇時間も長くなったが,どうしたら時間を有効に使えるか〉ということに関して 述べられたものである。この二っの視点は,それなりに理解されるものと思うが,引用の仕方が少 し唐突であったし,また,文章の小間切れの一部分を,全体の文脈から切り離して,いきなり引用 したので,その趣旨がすんなりと受け入れられにくいかも知れない。樋口は,上記のような主張を するまえに,その前提といってもいいような内容,〈女には長距離障害物競争ランナーの息の長さ が必要だ〉という発言をしているのである。上に引用した文章の趣旨を,また,二つの視点の意味 をよりよく理解するために,長いけれども掲げておきたい。

「この老女の生き方を見て思うことは,女性が志を果たすための必須条件は『息の長さ』である。矢島 揖子の生涯について述べたときにもそれを痛感した。女の人生は,男性よりもはるかに,自分の意思や能 力に関係なく,運に支配されやすい。その最大の運が『男運』であることは言うまでもないだろう。女の 側から見れば,本来無責任であってもよい,突如としての挫折や不運が,常に天から降り,地から湧いて 来るのである.そういう不運やつまづきにいちいちびっくりして,いつまでも深く落ち込んでいたりして は女は身がもたない。少なくとも志などは生かせるはずがない。なんによらず男性中心社会で,女がささ やかながらわが志を果たそうとしたら,それは初めから障害物競争だと知るべきである。でも,それは決 してイヤな,避けるべきこととは限らない。運動会の種目で見ても,障害物競争は単なる駆けっこなどと 比べれば,見せ場の多い人気種目である。障害をあたりまえと思い,むしろ半ばおもしろがって,しかし 真剣にくぐり抜けるのがこの競争のダイゴ味である。そして本物の障害物競争とちょっと違うところは,

本物は概して短距離だが,女の人生はマラソン並みの長距離だ。障害物をかわし,くぐり抜けつっ,女性 は長い時間を見はからいつつ息を保ちつづけなければならない。この長距離障害物競争の勝利者となった ランナーに共通する素質として,私は息の長さ,言い換えればすぐれた時間的感覚,を挙げておきたい。

息の長さとは,目の前の障害物にうろたえず,与えられた未来の時間を目測しつつ,現在と未来の時間を つづり合わせていく能力である。3)」

私が,上記の引用文中において,わが人生の教訓として肝に銘じておきたいところは,最後の数 行,すなわち,〈この長距離障害物競争の勝利者となったランナーに共通する素質として,私は息の 長さ,言い換えればすぐれた時間的感覚,を挙げておきたい。息の長さとは,目の前の障害物にう うたえず,与えられた未来の時間を目測しっっ,現在と未来の時間をっづり合わせていく能力であ る〉というくだりである。そして,私は,長距離障害物競争の勝利者となったランナーに共通する 素質,あるいは,能力として挙げられたもの,っまり息の長さ,は,女性にだけ必要とされるもの とは考えられない。本質的に考えれば,それは男性にも女性にも同じようにあてはまるものと考え ている。わが人生の大事として一角の仕事をなしとげようとする人間に必要な能力と考えるのであ

る。

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関:デューイ教育思想における経験の二つの原理       133

両者における二つの視点の一致

われわれは,これまでに,津守房江の説くところの保育における大切な二つの視点と,樋口恵子 の主張する自分自身の人生の設計の仕方の二っの視点とについて,それぞれの内容を明らかにして きた。そして両者を並べて比較しているうちに,両者の二っの視点が,表現は異なっていても,そ の本質はほとんど一致しているように思われてきたのである。津守のいう第一の視点は,子どもと いっしょになって,熱い心で今というときを生きるときの視点であり,それは,今を一生懸命に生 きるということである。樋口のいう第一の視点は,自分自身の人生の設計にっいて,毎日という単 位での短期的な視点ということである。両者ともに,今というとき,毎日という単位を重視してい

るのである。今の瞬間を生活としてどう充実させるか,毎日という現在を生活としてどう充実させ るか,視点のおきどころが一致しているのである。現在の瞬間瞬間の生活の充実こそ,両者共に一 致した狙いである。この視点の意味の重要性にっいては,あらためて説くまでもないであろう。

っぎに,津守のいう第二の視点は,今というときが,この子の一生の中でどういう意味があるの かと問う視点であり,それは,長い人生の中でどう展開するかを楽しむということである。樋口の いう第二の視点は,一生のライフ・サイクルを見通し,毎日を長期的に累積させていく視点である。

両者ともに,一生という長期的な視点をもっている点で一致しているのである。そして,この一生 という長期的な展望の中で,今というときが,毎日という現在が,どんな意味をもっのかを確定し ようとしているのである。この視点は非常に重要な意味をもっている。もし,この第二の視点がな かったならば,第一の視点の意味,あるいは価値さえも,保証されないことになるだろう。すなわ ち,今というときの生活の充実,毎日という現在の生活の充実が,その場その時かぎりのバラバラ な,とぎれとぎれのものとなり,連続的なものとなることができないであろう。連続的でないもの は,その人生の過程の各段階において,意味のある結実をとげたということができないのである。

この二っの視点は,われわれが,教育や人生の意味を考える場合,きわめて大切な二つの視点で ある。第一の視点がなければ,第二の視点が意味を失い,また,第二の視点がなければ,第一の視 点が意味を失ってしまうのである。二っの視点は,まさに相互に補完的役割を果たすものである。

デューイにおける経験の二つの原理 われわれのこれまでの考察によって,津守房江の保育のお ける大切な二つの視点と,樋口恵子の自分自身の人生の設計の仕方の二っの視点とは,表現はそれ それ異なっているようにみえても,その本質はほとんど一致していることが明らかにされた。両者 における二つの視点の一致を整理して,図式的に表現すると,っぎのようになる。

第一の視点,両者ともに,今というとき,あるいは,毎日という単位を重視している。それは,

今という瞬間の生活の充実,あるいは,毎日という現在の生活の充実を重視しているということで ある。っきっめていえば,今,現在の生活の充実の重視ということである。

第二の視点,両者ともに,一生という長期的な視点をもって子どもの保育を考えたり,一生とい う長期的な展望の中で自分自身の人生の設計の仕方を考えたりしている。そして,そのような視点 をもって,子どもにとっての今というときの意味を確定し(見定め)ようとしたり,あるいは,そ のような展望の中で自分にとっての毎日という現在の意味を確定し(見定め)ようとしているので

ある。

このように整理された二っの視点を見つめ,その意味を考えているときに,ほとんど直観的に連 想されてくるのは,実はジョン・デューイの教育思想におけよ経験の二つの原理のことである。デ

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ユーイは,経験に関するきわめて重要な原理を二っ挙げている。第一の原理は,経験の連続性の原 理であり,第二の原理は,経験の相互作用の原理である。どちらの原理も,子どもの行なう経験が 子どもの真の成長に役立ち,子どもの真の教育にふさわしいものとなるために,具備しなければな らない基準を明らかにしたものである。この二つの原理にかなった経験こそ,子どもにとって,の ぞましい教育的経験といえるわけである。その意味では,この二つの原理は,デューイの教育思想 においても,重要な意味をもったものである。ところが,デューイのこの経験の二っの原理が,さ きに挙げた津守と樋口の主張した二つの視点と,ぴったり一致するように思われるのである。なる ほど,表現は大分異なるように見うけられる。津守と樋口の主張するものは視点である。デューイ のいうことは経験である。一見,津守・樋口組とデューイではいちじるしくかけはなれているよう に感じられる。しかし,そのおのおのの主張していることの本質においては,これまた一致してい ることが予測されるのである。ただし,津守・樋口の主張する第一の視点は,デューイの経験の第 二の原理に該当し,津守・樋口の主張する第二の視点が,デューイの経験の第一の原理に該当する ものなのである。われわれは,これから,津守・樋口の主張する二つの視点の意味をさらに深める ためにも,デューイの主張する経験の意味の真意を捉えるためにも,デューイにおける経験の二っ の原理を検討しなければならない。

皿 経験の連続の原理

経験の原理 デューイが,明確に経験にっいての二つの原理に関して本格的に論及するのは,

1986年に出版された『経験と教育』においてである。それより22年まえ,1916年に出版された教育 学上の主著r民主主義と教育』(教育哲学概論と副題が付けられている)においては,経験の原理

について特別に語られてはいない。勿論,同書の第一一章「経験と思考」においては,第一節とし て「経験の本質4)」が掲げられ,経験の価値の尺度として連続性の認識という言葉が用いられてい る。しかし,それは連続を経験の原理として位置づけることはしていない。また,第二節として「経 験における反省5)」が掲げられ,経験の二っの型,っまり,試錯的経験と反省的経験の差違が詳細

に分析されている。しかし,そこでも経験の原理に関する論及はなされておらない。要するに第一 一章においては,思考との関連のうえで経験の本質を明らかにしており,当然,そこでは経験と連 続との関係,経験と相互作用との関係は,重要な内容として取りあげられている。しかし,経験の 原理として,連続と相互作用とを位置づけることはなされていない。r経験と教育』において,は

じめて,連続と相互作用とが,経験に関するきわめて重要な原理として位置づけられたことは,デ

ユーCの教育思想の発展を研究の対象とする者にとって,知的な興味をそそられる問題である。

非教育的である経験の性格 デューイは, r経験と教育』の第二章「経験に関する理論の必要」

において,あらゆる経験がすべて教育的であるとはいえない,すなわち,経験と教育とを相互に直 接に同時視することはできない,と述べている。そして,その理由として,ある種の経験は非教育 的であるからという点をあげている。そのあとデューイは,非教育的である経験の性格にっいて詳 細に叙述をするのであるが,この第二章の論述の趣旨は,彼が第三章「経験の標準」において,経 験に関する重要な二っの原理にっいて,真正面から論及するための,伏線,あるいは前提という役

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関:デューイ教育思想における経験の二つの原理       135

割を果たすことにある。どのような性格の経験が非教育的なものかと説くデューイの主張は,実は,

おのずからに経験の連続の原理の重要性を物語るものとなっている。

非教育的である経験の性格について,デューイは, 「いかなる経験も,続いておこる経験の成長 を阻止したり,あるいは,ゆがめたりするような結果をもたらすならば,それは非教育的である。

ある経験は無神経を生ぜしめるようなものでありうるし,また感受性や反応性の欠乏をもたらすよ うなものでもありうる。その場合は,将来においてより豊かな経験をもつという可能性が制限され る。また,ある種の経験は,ある特殊な方向に個人の機械的な熟練を増加させはするが,しかしそ れによって,彼を狭い溝かわだちのなかに行き詰らせてしまうようなことになりがちであるという こともありうる。この場合もまた,その結果は,それ以後の経験の領域を狭めることになる。ある 経験は即座には楽しいが,しかし好い加減な,そして軽卒な態度の形成を促進するものであるかも しれない。その時,この態度は,引き続いて起こる経験の性質を変化させて,その経験者をして,

それらの経験が与えるはずのものを,それらの経験から取得するのをできなくするようにするのであ る物,と述べている。この場合の経験が非教育的な性格のものだという意味は,後続の経験に対し て,直接に悪影響を与える,あるいは及ぼすという意味である。

つぎに,デューイは,後続の経験に直接に悪影響を与えるというのではないが,それでもある種 の経験は非教育的な性格のものである,ということに関して,「また,ある経験は,相互にきわめ て無関係であって,一っ一っの経験としては望ましい,そして刺激的であるにもかかわらず,それ

らが累積的に相互に結びっけられないで離ればなれになっているようなこともありうる。この場合,

活動力が散り散りに分散され,その個人は頭脳の散慢な人となる。個々の経験は,活発な,生き生 きとした,そして興味あるものであっても,それらの経験が相互にばらばらで関連のないものであ るならば,不自然に,分散的な,中心に統合されない,遠心性の習慣を生じさせることにもなりう る。かような習慣の形成の結果は,その個人にとって,将来の経験を統御する能力の欠乏となるの である。したがって,そうした将来の経験は,享楽の通路で来るにせよ,あるいはまた,不満なり 反抗なりの通路で来るにせよ,まさにその来るがままに受けとられるのである。かような事情のも とにあっては,自己統制など論じても無駄である7〕,と説いている。この場合の経験が非教育的な 性格のものだという意味は,相互に無関係は経験,関連をもっことができない経験は,人間の望ま

しい能力の形成を妨害し,むしろ能力の欠乏を生みだす,という意味である。

欠陥のある,よくない性格の経験は,続いて起こる経験への連関の立場から決定 デューイは,

伝統的は学校(旧教育の学校)の教室は生徒たちがそこで経験をもっ場所ではなかった,と一般に 推測されているが,この推測は大きな誤りであると断言している。進歩的教育が旧教育を批判する 場合にも,この推測を暗黙のうちに想定しているのだが,それは誤りであるという。デューイは,

この点に関して伝統的な学校に対する正しい批判の筋道は,古い学校でもたれた経験は,生徒にと っても,教師にとっても,同じように大部分よくない種類のものであった,というべきであると注 文をつけている。旧教育の学校において子どもたちは経験をもたなかった,経験をしなかったので はない。ある種の経験は身にっけていたのである。ただし,その経験はよくない種類のものであっ たというわけである。

さて,旧教育の学校でもたれた経験は,よくない種類の経験であった,とデューイがいう場合,

それはどのような性格のものとして捉えられているのであろうか。デューイはそれを発問の形式(疑

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問形)で示している。箇条書きのように整理しながら引用することにしよう。

「例えば,どれほど多くの生徒が,観念(ideas)に対して無感覚にならしめられたことか?

また,いかに多くの生徒が,彼等が経験したその学習の方法ゆえに,学習しようという動力を喪 失するに至ったことか?

いかに多くのものが,機械的なドリルという手段で,特殊なスキルを修得し,そしてそのゆえに 判断の力と新しい状況に応じて賢明に行動するための能力を制限されるに至ったことか?

いかに多くのものが,倦怠と退屈とをもって学習過程に参加するに至ったことであるか?

いかに多くのものが,学校以外の生活の状況には全然無関係で,したがってそれを統制する力を 与えてくれないような事柄を学んだということに気付いたことであるか?

いかに多くのものが,退屈な骨折りで書物を読まされたために,読むものといえば,ほとんど虚 飾的な派手な書物だけというr条件っき』になってしまったことであるか?8)」

デューイは,以上のような発問をしたことにっいて,みずからその理由を説明して,それは旧教 育に対する徹底的非難のためにしたことではない,まったく別の目的のためであると述べている。

その別の目的とは,第一には,伝統的な学校においても,年少な生徒は経験をもったということ,

そして第二には,(伝統的学校において)困ることは,経験がそこにないということではなくて,

そこでの経験が欠陥のある,そしてよくない性格のものである一すなわち,続いて起こる経験へ の連関の立場からみてよくなく,欠陥のあるものである一ということ,を強調しようとすること であると言っている。

持たれる経験の性質の重要性 上の叙述のなかで,デューイの主張することは重要な意味をもっ ている。子どもたちのもっ経験が,よい経験か悪い経験か,完全な経験か欠陥のある経験か,を決 定するのは,続いて起こる経験への連関の立場からみてだ,というのである。うまく連関できる経 験は,よい経験であり,完全な経験であるということができる。うまく連関できない,あるいは,

まったく連関がない経験は,悪い経験であり,欠陥のある経験だといわなければならない。デュー イは,伝統的な学校,すなわち,旧教育の学校において,子どもたちのもった経験は,この続いて 起こる経験への連関の立場からみて,欠陥のある,よくない経験であった,と批判をしているので

ある。デューイの批判は,立場をもった批判,内容のある批判,批判の標準をもった批判である。

したがって,デューイは,批判の立場内容,標準をもたないで,頭ごなしに伝統的な学校の教育 は悪いときめっけたり,また,旧教育の学校では子どもたちはまったく経験をもっことができなか ったと乱暴な批判をすることをゆるせなかったのである。

だからこそ,デューイは,このr経験と教育』の第二章「経験に関する理論の必要」の冒頭にお いて,「伝統的教育の哲学と実践とを拒否することが,新しい型の教育を信ずる人たちに対して,

新しい型の困難な教育上の問題を提起する9)」のである,ということを警告しているのである。古 い教育を,伝統的な学校教育を批判し,それを拒否することで万事終わったわけではない。いや,む しろ,終わるどころか,実は新しいタイプの,しかも困難な教育上の問題を提起することになるのだ といっているのである。そこでデューイは,旧教育からの離脱が問題を解決するものではないとい うことを,われわれが徹底的に理解することが重要だと述べているのである。旧教育を離脱しただ けで,新しいタイプの,しかも困難な教育上の問題を解決できないならば,すなわち,進歩的な教 育の哲学と実践とを創造することができないならば1われわれの行なう教育実践そのものは,盲目

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関:デューイ教育思想における経験の二っの原理       137

的な,また混乱したものになるほかはないと予言しているのである。

旧教育から新教育への転換の問題,伝統的な学校教育から進歩的な学校教育への転換の問題を,

以上のように認識していたデューイは,進歩的な教育の哲学と実践の創造という問題に就いて,あ くまでも謙虚な態度や姿勢をとりっづけている。自分みずからが絶対的な固定的な哲学や理論を提 示しようとはしていないのである。デューイの主張の仕方は,つぎのようなものである。すなわち,

私(デューイ)が,以下に述べるところのものは,新しい教育が遭遇するところの主要な問題のいく つかを指摘し,そしてまた,それらの問題を解決しようとする場合,見い出されるべき主要な通路 を示唆しようと意図しているのである,ということである。

デューイが,伝統的な学校の教室において子どもたちが身にっけた経験の性質,あるいは,性格 を批判したのも,前述したような問題の認識,解決への態度や姿勢から発したものであることを知 るべきであろう。進歩的な学校教育において,子どもたちが身にっけるべき経験の性質の重要性を 洞察したデューイは,それがどうあるべきかを,旧教育においてもたれた経験を反面教師として,

学ぼうとしたわけである。だから,かれは,経験の必要を強調しただけでは十分でない。経験にお ける活動性の必要を強調してすらも十分ではない。万事(すべて)は,もたれる経験の性質の上に かかっているのだと結論しているのである。

後続の経験に及ぼす影響という経験の性質上述したように,子どもがもっところの経験の性質 を重要視したデューイは,経験にはどのような性質が数えられるのかを考察し,そのうえで,どの性質 を教育上とくに尊重しなければならぬかを示唆している。すなわち, 「どの経験の性質も二っの局 面をもっている。すなわち,快あるいは不快という直接的な偵面があり,また,その後の経験に及 ぼす影響という側面がある。経験の性質の第一の側面である快,あるいは,不快ということは,明 白でもあるし,また判断するのも容易である。経験の(後続の経験に対する)影響は,それの表面 に示されていない。それが,教育者に問題を提起するのである。生徒に不快を感じさせず,むしろ 彼の活動を鼓吹するような,しかもそれにもかかわらず,直接的に快適であるという以上に,生徒 をはげまして望ましい将来の経験に進ましめるような,そういう経験の種類を配列し準備すること が,教育者の仕事である。ちょうど,どんな人も,彼自身のために生き,あるいは,死ぬわけでは ないと同じように,どんな経験もそれ自身のために生き,あるいは,死ぬわけではない。あらゆる 経験は,欲求や志向には関係なく,っついて起こる経験のなかに生きっづけるのである。したがっ て,経験の基礎の上に立つ教育の中心問題は,後続の経験のなかに多産的に,また創造的に生きる ような,そういう種類の現在の経験を選択することである10)」,というのがその示唆の内容である。

このデューイの主張の重点は,教育者の仕事として,直接的に快適であるという以上に,生徒を はげまして望ましい将来の経験に進ましめるような,そういう経験の種類を配列し準備することで あると示唆したこと,および,経験の基礎の上に立つ教育の中心問題は,後続の経験のなかに多産 的に,また創造的に生きるような,そういう種類の現在の経験を選択することであると明言したこ とである。かれは,教育者の仕事にしても,進歩的教育の中心問題にしても,いずれも子どもにも たせるべき経験の性質をどう考え,どう配備したらよいかということに焦点をしぼって論じている のである。そのさい,後続の経験に及ぼす影響という経験の性質が,特筆大書して重要なものとし て主張されているのである。われわれが,これまで論じてきたこと,すなわち,非教育的である経 験の性格,欠陥のある,よくない性格の経験は,続いて起こる経験への連関の立場から決定される

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ということ,持たれる経験の性質の重要性,などは,すべてこの後続の経験に及ぼす影響という経 験の性質の重要性の主張に凝集されるように考えられるのである。デューイは,上に引用した文章

の末尾に引きつづくかたちで, 「後に,もっと詳細に,経験の連続の原理,あるいは,実験的連続 と呼ばれるところのものにっいて,論ずるであろう11)」と述べている。だから,デューイが,経験の 連続ということに関して,これまでに論じてきたことは,彼が第三章「経験の標準」において,経 験に関する重要な二っの原理にっいて,とりわけ,経験の連続の原理について,真正面から論及す るための,伏線あるいは前提という役割を果たすことは明らかである。われわれは,伏線ないし 前提としての論議をここで打ち切って,経験の連続の原理そのものの解明に進まねばならない。

経験の価値の職別の標準としての経験の連続の原理 筆者はすでに拙著r教育的経験の探究』に おいて,デューイの経験の連続の原理と相互作用の原理とは,経験の価値の識別の標準として提起

されたものである旨を明らかにしておいたが,いま,これを改めてとりあげようと思う。デューイ は,第三章「経験の標準」において, 「わたしはすでに,わたしが連続性ないし実験的連続の範瞬 と呼んだところのものに言及した。この原理は,すでに指摘したように,教育的に価値のある経験 と,そうでない経験とを識別しようとするあらゆる試みのなかに含まれるのである12)」,と述べた り,また,「……っまり,さまざまの経験のもっ固有の価値の間の識別という事実に帰っていくの である。そこでわたしは,その識別の標準としての経験の連続という原理に帰っていく13)」,といっ たりしているのである。したがって,経験の連続の原理は,なんのために提起されているのか,と いう根拠は,きわめて明確であって疑問の余地がないというべきである。

経験の連続の原理は,習慣の事実を基礎とする デューイは,経験の連続の原理にっいて,ほん とうはこの原理は,と告白的な語調で,習慣が生物学的に解釈された場合の,習慣の事実を基礎と していることを明らかにしている。そこで,彼は, 「習慣の基本的特徴は,行なわれ,また,受け たあらゆる経験が,その行なった本人,また,受けた本人を変容するということであり,他方また,この 変容は,われわれがそれを望むと望まざるとにかかわりなく,後続の経験の質に影響をあたえる,

ということである。それゆえ,その後続の経験にはいるのは,幾分か(前と)異なった人である。

そのように理解された習慣の原理は,ものごとを行なうのに多少とも固定した方法としての習慣にっ いての普通の概念よりも,明白にもっと深いところに触れている。もっとも,それは,そのr一っ の習慣』を特殊の一事例として包含するのである。それ(習慣の原理)は,態度,すなわち感情的 な,また,知的な態度の形成を含む。またそれは,わたしたちが生活上ぶつかるところのすべての 事情に対応し,また,反応する場合の基本的な感じ方や仕方を含むのである14)」,と習慣の基本的特 徴および習慣の原理を説明している。デューイは,習慣の事実に対する以上のような認識を基礎と して,この習慣の事実という見地からすると,経験の連続の原理は,前に発生したところの経験か ら何かを取りあげるものと,後に来る経験の性質を何かしらの仕方で変容するものとの,両方の経 験のすべてを意味するのであるといっている。ここでのデューイの発言は,経験の連続の原理の提 唱が,事実無根の空論ではなくて,習慣の事実という否定しようもないものに根拠を据えたもので

あることを強調したかったのだと想像することができるのである。

教育的過程と成長の過程との同一性 デューイは,経験にっいては,どのような場合にも,ある 種の連続はあるといっている。望ましい連続であるか,望ましくない連続であるか,は別として,

あらゆる経験には,ある種の連続が起こることは事実であると認めている。そのうえで,彼は,経

(11)

関:デューイ教育思想における経験の二つの原理       139

験を識別する基礎(標準)をわれわれが得るのは,経験の連続がその中で行なわれる,さまざまな形式に われわれが気付く時である,と主張する。経験の連続の仕方のさまざまな形式の認識こそ,経験の 価値の識別の基礎だというのである。そこで彼は,そのさまざまな形式の認識のための材料の一っ として,自己の本来の考え方,すなわち,教育的過程と成長の過程とは同一の意味である,を持ち だし,しかも,それに対する反対論の主張を明白にすることによって,自己の主張の正当性を明ら かにしようとしている。彼は, 「わたしのかつて提唱した一っの考え一それは,教育的過程は,

成長ということが能動分詞のr成長しっつある』という意味に理解されている時の,その成長と同 一の意味だという考え一に対して提起されたところの反対論が,何を意味したかということをこ

こに明らかにすることができる。 (原文改行)成長,あるいは,ただ単に身体的にばかりでなく知 的にも道徳的にも発達しっっあるという意味のr成長しっつある』は,連続の原理の一つの実例で ある。提起された反対論というのは,こうであった。成長は多くのさまざまな方向を採り得る。た とえば,強盗としての生涯に出発するものは,その方向に成長することができる。そして実践を重 ねるにしたがってきわめて熟練した強盗になりうる。したがって,r成長』では十分でないという ことが主張される。わたしたちは,それと同時に,成長の成立する方向,また,成長の志向する目 的を,区別して特定しなければならない,というのであった。しかし,この反対論の結末を決定す る前に,わたしたちは,更にもう少しこの事例を分析することが必要である15)」,と先ず切り出し ている。この叙述の内容は,デューイの主張している教育的過程と成長の過程は同一の意味である,

に対する批判の紹介である。自分の主張する考えが,どんな点で批判されているかを,きわめて客 観的に把握しているのである。

そこでデューイは,自説を強盗の例で批判されたので,同じように強盗の例をあげて,その批判 に答えようとしている。筆者は,デューイのこの所説を読むたびに,教育的過程と成長の過程との 同一性ということを,また,経験の連続ということのほんとうの意味を,デューイによって思い知 らされた気になるのである。それは,「人が強盗として,無頼漢として,あるいは背徳の政治家と して,能率的に成長し得るということは,疑うことができない。しかし,教育としての成長一ま た成長としての教育一の立場からすれば,問題は,この方向の成長が一般的に成長を促進するか,

あるいは遅滞さすのかどうかということである。成長のこの形式が,さらにその上の成長のための 条件を創造するのかどうか?,あるいはまた,成長のこの形式が,この特殊な方向において成長し た人に,さらに新しい方向において成長を継続するための場合(occasion),刺激,および機会を封 じてしまうような条件を供給するかどうか?,ある特殊な方向における成長が,他の筋道での発展 のために通路を開くような独特な態度や習慣に対して,どのような影響を与えるか?。これらの問 いに対する返答は,諸君にまかせるが,ただ,特殊な方向における発達が,成長の連続をもたらす 場合,ただその場合においてのみ,その発達は成長しつつあるものとしての教育の標準に適合する,

ということだけはいっておく。なぜなら,この概念(見解)は,特殊的に限定されて適用されるべ きでなく,普遍的な適用を見い出さねばならないところの概念だからである161」,という内容である。

上の文中において,もっとも痛烈な感銘を与えるのは,ただ,特殊な方向における発達が,成長 の連続をもたらす場合,ただその場合においてのみ,その発達は成長しっっあるものとしての教育 の標準に適合する,という言葉である。強盗や無頼漢や背徳の政治家に,成長の連続ということが ありうるだろうか。一時的な,狭い範囲での能率的成長ということはあり得るであろう。しかし,

(12)

ほんとうの人間としての成長の連続はあり得ない。上述の引用文中の言葉にもどれば,教育として

の成長一また成長としての教育一の立場からすれば,問題は,この方向の成長が一般的に成長

を促進するか,あるいは遅滞さすのかどうかが問われなければならない。成長のこの形式が,さら にその上の成長のための条件を創造するのか,それともその上の成長を継続するための場合(occa一 sion),刺激,機会を封じてしまうような条件を与えるのか,が問われなければならない。この点が デューイの主張の中心点である。デューイにおいては,教育的過程は成長の過程と同一の意味であ

り,それは,実質的には,経験の連続の原理によって実現せられるものなのである。

筆者は,津守房江によって主張された第二の視点,今というときが,この子の一生の中でどうい う意味があるのかと問う視点,および樋口恵子によって指摘された第二の視点,一生のライフ・サ イクルを見通し,毎日を長期的に累積させていく視点,という両者の実質的な意味は,デューイの いう経験の連続の原理に妥当するものであり,この原理に忠実であることは,両者の実質的な意味 にも忠実であると考えるのである。なお,デューイが,「教育は経験の連続的な再組織あるいは再 構成である17)」,と自己の教育の定義を規定したことはあまりにも有名であるが,これは経験の連 続の原理の基礎あればこそ可能になる教育の定義である。

皿 経験の相互作用の原理

真正な経験と客観的条件の関係 デューイは,経験が単に人の内面において行なわれるものでな いことを強調している。無論,経験は人の欲求や目的に関する態度に影響を与えるから,人の内面 に関連して行なわれるものであるが,それが経験に関する事情の全部ではない。そこで, 「あらゆ る真正な経験は能動的な側面をもっていて,それがある程度まで,そこで経験がもたれる客観的条 件を変化させる。文明と野蛮との差は,大きな規模での例をとれば,先行する経験が,そこで後続 の経験が生ずる客観的条件を変化させたその度合いのうちに見い出される。道路,迅速な移動や輸 送の手段,道貝,機械,家具,電灯,電力の存在は,その実証である。現在の文明的経験の外的条 件を試みに破壊してみよ,しからば,一時われわれの経験は,野蛮人の経験に後もどりするであろ

う18)」,ということを彼は主張する。経験は客観的条件と結合して行なわれる。

デューイが経験の観念について危惧する点は,経験があたかも,まったく個人の体と心のうちに おいて行われているものであるかのように取り扱われることである。そこでまた,彼は, 「経験が 真空のなかで行なわれるものでないことは言う必要もない。経験をひき起こす源泉は個人の外側に ある。経験はそれらの源泉から絶えず養われるのである。貧民窟の割長屋の子どもが教養ある家庭 の子どもと違った経験をもつこと,田舎の若者が都市の少年と違った種類の経験をもつこと,ある いは海岸の少年が内陸の大草原に育っ若者と異なった経験をもっということに対しては,何人も疑 問をさしはさもうとしない。通例,われわれは,かような事実をあまりにも平凡で,記録するに値 しないものとして当然と受けとっているエ9)」,と述べて,経験における個人と客観的条件との関係 を確認させようと努めているのである。

以上のような経験についての見地を確立したデューイは,教育者の教育的責任にっいて, 「しかし,

これらの事実の教育的意義の重要性が認識されるとき,それらは,教育者が,(課業を)無理に

(13)

関:デューイ教育思想における経験の二っの原理       141

押しっけるというやり方によってではなく,年少者の経験を指導することができる第二の道を指し 示すことになる。教育者の基本的責任は,彼等が,まわりをとりまく諸条件による実際的経験の形 成の一般的原理を知るというばかりでなく,彼等がまた,いかなる環境が成長へと導く経験をもっ のに役立っのかを具体的に認識することである。とりわけ教育者は,価値ある経験の形成に貢献す るところのすべてのものを,そこから引き出し得るようなあり方の環境一物質的の,また社会的 の一をいかに利用すべきかを,知るのでなければならない20)」,と述べて,子どもたちに真正な 経験をなさしめるために,教師が客観的条件(環境)を望ましく構成することがいかに重要かを力 説しているのである。

伝統的教育は経験の客観的条件を無視 経験が単に人の体や心のうちにおいて行なわれるもので なくて,個人と客観的条件との密接不離の関係において成り立つものであると見るデューイは,こ の立場から旧教育を批判して, 「伝統的教育はこの問題に直面する必要はなかった。それは,この 責任から組織的に身をかわすことができた。学校の環境として机,黒板,小さい校庭などがあれば それで足りると考えられた。そこでは,教師はその地域社会の物質的,歴史的,経済的,事業的等 の諸条件にっいて,それらを教育的資源として利用するために深く通暁すべきであるという要求は ないのであった21)」,と述べている。この批判的立場からすれば,伝統的教育においては,子ども たちは真正の経験をするところの環境と機会とを与えられなかったことになる。

伝統的教育における実際的経験の欠陥をこのように批判したデューイは,ひるがえって,進歩的 教育のあり方にっいて,「これに反して,教育と経験の必然的な結合の基礎の上に立っ教育の組織 は,もしその原理に忠実であるならば,これらの事柄(客観的諸条件・地域社会の諸条件)を絶え ず考慮に入れなければならない。教育者に対するこの重い要求が,また,何故,進歩的教育が,伝 統的組織に常に依存している教育よりも,実践するのが一層困難であるかの,いま一つの理由であ る22)」,と要求している。子どもに真正な経験をなさしめるために,客観的条件を価値あるように 利用するということ,すなわち,望ましい教育的環境を構成することは,進歩的教育にとって,も

っとも大切なことだと要求しながら,しかし,それは困難な課題なのだと警告しているのである。

個人の内在的諸条件と客観的諸条件 デューイは,子どもに真正の経験をさせること,っまり真 正の教育を与えることのために,個人の内在的諸条件と客観的諸条件とを結合させることが重要だ と認めているのだが,問題はこの関係の仕方である。デューイの見るところによれば,進歩的教育 のこれまでの理論や教育計画は,教育される個人のうちに内在する諸条件に,客観的諸条件をかな り組織的に従属させるような考え方,やり方をとっている。彼は,「外部からの統制を賦課したり,

個人の自由を制限したりすることを,廃止することによってのみ,はじめて,これらの客観的要素 に重要性をもたせることができると想定するあらゆる理論は,結局,経験は,客観的条件が経験を する個人の内部に発生しているところのものに従属させられる時にのみ真に経験となるという見解 に立脚するのである。そうはいってもわたしは,客観的条件が締め出されうると想定されているとい っているのではない。かえって,客観的条件が取り入れられねばならないと認めるものである。事 物と人びとからできている世界の中にわたしたちが生きているのだという逃れることのできない事 実に対して,それだけ譲歩がなされるのである23}」,とその進歩的教育の傾向性を指摘しているの である。

客観的条件を内的条件に従属させることでよいのか しかし,デューイは,客観的条件が経験を

(14)

する個人の内部に発しているところのものに従属させられる時にのみ真に経験となるという見解に 組することはできなかった。彼はその見解に対しては批判的である。そこで,「しかし,思うに,

ある家庭やある学校で行なわれているところの実際を観察すれば,ある両親やある教師が客観的条 件を子どもの内的条件に従属させるという観念に立って行動していることが見い出されるであろう。

その場合,ただ単に後者すなわち個人の内部に発生する条件は基本的なものである一それはある 意味においてはその通りであるが一と考えられているばかりでなく,また,それらは一時的に存 在する場合でも,それがあたかも全教育過程を決定するものであるかのごとく考えられているので ある24)」,と疑問を表明しているのである。内的条件が基本的であって,それに対し絶対的なかた ちで客観的諸条件を従属させる考え方にデューイは疑問を提示したのである。

幼児の子育ての事例 デューイは,客観的条件を内的条件に従属させるという考え方の誤りを正 すため,幼児の子育ての事例をあげて, 「赤子の食物,休息,および活動に対する要求は,ある点 において,たしかに基本的であり,また決定的である。滋養分が供給されねばならない。快適な睡 眠に対する準備,等々がなされねばならない。しかし,これらの事実は,親がいっでも赤子がむず かったり,おこりっぽい時には食物を与えねばならないことを意味するのではなく,また,食事と 睡眠の規則正しい時間の計画を定めてはならないことを意味するものでもない。賢明な母親は,幼 児の要求を考慮する,しかし,それは,子どものその要求が充たされるべき客観的諸条件を調整す る彼女自身の責任を放棄するような方法においてではない。もし,また,彼女がこの点に関して賢 母であれば,彼女は,どんな経験が一般に幼児の正常な発達に対して,もっとも役立っのかに光明

を与えるものとして,老練家の過去の経験と彼女自身の過去の経験とを参考とする。そして,赤子 の直接的な内的条件に客観的条件を従属させる代りに,それら(客観的条件)とこれらの直接の内 部的条件との特殊な種類の相互作用が生じるように,これらの客観的条件は明白に秩序づけられる のである25)」,と述べている。正しい育児は,幼児の要求のすべてに客観的条件を従属させること ではない。賢明な母親は,幼児の要求に正しく応ずるために,客観的条件を調整するのである。

経験における相互作用の原理 デューイは,相互作用の原理を説明して, 「今,ここに用いられ たr相互作用』という言葉は,経験をそれの教育的機能と能力とに関して解釈するための第二の重 要な原理をあらわす。r相互作用』という言葉は,経験における両方の要素一客観的条件と内部 的条件一に平等の権利を割り当てる。あらゆる正常な経験は,これら二つの側の条件の相互作用 である。それらが一緒になり,あるいは,それらの相互作用によって,わたしたちの状況と呼ぶと ころのものを形成する26)」,と叙述している。相互作用の本質に関しては,これ以上の説明の必要 はないと思われる。これらの点に関しては,拙著r教育的経験の探究27)』,において,充分に究明 されていることなので省略したいと思う。

経験における相互作用の原理の示唆するものは,経験における主体的条件と客観的条件とを平等 に扱うということである。個人的(主観的)条件のみを一方的に重視するのではなく,また,客観 的条件を一方的に重視するのでもない経験の考え方である。それは,われわれの生活活動,学習の 仕方にとって,もっとも正しい考え方である。筆者は,その考え方こそ,われわれが毎日を充実さ せてよく生きることの原理と考えるのである。津守房江のいう第一の視点,子どもといっしょにな って,熱い心で今というときを生きるときの視点,樋口恵子のいう第一の視点,毎日という単位で の短期的な視点,この二っの視点は,今というときを,毎日を最善に生きることを意味している。

参照

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