「湖北地域における集落立地の変遷」
著者 酒井 康介
雑誌名 金大考古
巻 34
ページ 8‑10
発行年 2000‑12‑22
URL http://hdl.handle.net/2297/2842
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図4 アッシリア宮殿浮彫
ア ッ シ リ ア の 騎 馬 文 化 は 、 ア ッ シ リ ア 人 自 身 が 、 時 間 を か け て 独 自 に 発 達 さ せ た も の で あ る ( 註 2 。 宮殿 を 飾 る 浮 彫 ( 前 9〜 7世 紀 ) ) の 図 像 に は 、 そ の 試 行 錯 誤 の 様 子 が よ く 見 て とれる(川又1994:163‑6 。もちろん、西アジ ) ア 外 、 つ ま り 中 央 ユ ー ラ シ ア 方 面 か ら の 影 響 も 皆 無 と は い え ま い 。 し か し 、 騎 馬 文 化 に 関 し て 、 独 自 の 流 れ を 作 っ て い る こ と は た し か だ。そうしたことを考慮して、 アッシリアの
「 タ イ ツ 」 ま た は 「 ゲ ー ト ル 」 が 、 後 に 「 行 縢 」 へ と 発 展 し て い っ た の で は な い か 、 と 想 像しているのである。
ズボンと行縢は、別々に生まれた。そして、
そ れ ぞ れ の 使 用 者 同 士 の 交 流 に よ っ て 、 後 の 時 代 に 一 緒 に な っ た 。 つ ま り 、 中 央 ユ ー ラ シ ア草原から伝播した「ズボン」と、おそらく、
西 ア ジ ア の ど こ か で 生 ま れ た 「 行 縢 」 が 、 何 ら か の 理 由 で 、 パ ル テ ィ ア 時 代 以 降 、 セ ッ ト と し て 用 い ら れ る よ う に な っ た の で は な い か
これが、現時点での見通しである。
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こ の 見 通 し が 正 し い と い う 自 信 は な い 。 た だ 、 乗 馬 用 の 装 備 に も 複 数 の 系 統 が あ る と い う 点 は 間 違 っ て い な い と 思 う 。 騎 馬 文 化 は 、 と き に は 安 易 に 草 原 の 騎 馬 遊 牧 民 と 結 び つ け ら れ が ち で あ る 。 し か し 、 鐙 の よ う に 、 定 住 民 に よ っ て 発 明 さ れ て 、 逆 に 騎 馬 遊 牧 民 に 採 用された例もある(樋口1983 。西アジアにお ) け る 乗 馬 服 の 普 及 に 関 し て も 、 た し か に 中 央 ユ ー ラ シ ア 草 原 と の 関 わ り は 重 要 で あ る が 、 それを過大に評価するのも問題であろう。 両 者の相互関係を考慮に入れる必要がある。 そ れ を 念 頭 に 、 今 後 も 下 半 身 を 観 察 し 続 け て い
。 、 、
くつもりである また 図像資料だけでなく
文 献 史 料 や 民 族 誌 に も 目 を 向 け な が ら 、 研 究 を深化させていきたい。
註
1)H.セイリクも、行縢(jambi reè )は、本来は乗馬用では なく、ヤブなどから脚を保護するためのものではない
Seyrig かと推測し、西アジア起源をほのめかしている(
。 1937:13)
2) 騎馬が、草原地帯で始 まって、そこから完成した形で 伝播した、とは簡単には決められない。むしろ 「定住、 農耕地帯 」での騎馬(特に軍事利用に関して)が早い とする考 え方もある。ただし、馬の家畜化自体は、草 原地帯( ウクライナ周辺が最有力候補地)で行われた
(川又1994)。
参考文献
Curtis, V. S. 1993 A Parthian Sutatuette from Susa and the Bronze Statue from Shami,Iran31:63-69
Athar-e Iran Godard, A. 1937 Les statues parthe de Shami,
2:285-305
Syria Seyrig, H. 1937 Armes et costume iraniens de Palmyre, 18:4-31
Widengren, G. 1956 Some Remarks on Riding Costume and Studia Articles of Dress among Iranian People in Antiquity,
11:228-276 Ethnographica Upsaliensia
川又正智 1994『ウマ駆ける古代アジア』講談社選書メチ エ
樋口隆康 1983「鐙の発生 『展望アジアの考古学』新潮社」 深井晋司 1976『世界彫刻美術全集2 オリエント』小学館
研究ノート
「湖北地域における集落立地の変遷」
( )
酒井 康介 大学院文学研究科 1.はじめに
近江盆地を湖北地域など7つの小地域に区分 し て 集 落 立 地 の 変 遷 を 比 較 し た 場 合 、 弥 生 時 代 Ⅰ 期 〜 Ⅱ 期 ・ 弥 生 時 代 Ⅳ 期 ま た は Ⅴ 期 ・ 古 墳時代後期という3つの時期に、大きな画期を 見 い だ す こ と が で き る 。 ま た 、 愛 知 川 以 南 の 地 域 で は 、 弥 生 時 代 Ⅳ 期 に 見 ら れ る 画 期 が 、 そ れ 以 北 で は Ⅴ 期 に ま で ず れ 込 む と い う 状 況 も見られた。
し か し 、 各 地 域 内 に お い て も 、 あ る 程 度 の
格 差 が 存 在 す る も の と 思 わ れ る 。 そ こ で 本 稿
では、湖北地域を河川流域を基本とした3地域
(図1)に細分して比較を行い、同地域内におけ
る 集 落 立 地 の 変 遷 を 考 え た い 。 山 東 町 ・ 伊 吹
町の4遺跡は、いずれの地域の遺跡群からも距
離があるため今回の分析では扱わない。
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図 1 小 地 域 の 範 囲 図 2 平 均 標 高 の 推 移
平 均 標 高
85 90 95 100 105 110 115
晩期 後葉
弥生Ⅰ期 弥生Ⅱ期
弥生Ⅲ期 弥生
Ⅳ期 弥生Ⅴ期
庄内 式期
古墳前期 古墳中期
古墳後期 時 代
標高(m)
湖 北 地 域 全 体 余 呉 川 ・ 高 時 川 地 域 姉 川 左 岸 地 域 天 野 川 地 域
(遺跡数:84)
2.湖北地域全体
各 地 域 の 分 析 を 進 め る 前 に 、 湖 北 地 域 全 体 の状況を見ていくこととする。
集 落 立 地 変 遷 の 第 一 の 画 期 と し て 弥 生 時 代
Ⅰ 期 が あ げ ら れ 、 集 落 立 地 の 低 地 化 が 進 行 す る。平均標高は前段階と比べて6m以上も低下 している。三角州帯に立地する遺跡の割合も2 0%近く上昇する。第二の画期としてあげられ る の は 弥 生 時 代 Ⅴ 期 で あ り 、 新 た な 集 落 が 多 数 自 然 堤 防 帯 上 に 出 現 す る 。 そ の 結 果 、 平 均 標高は約4m上昇する。こうして出現した集落 は 庄 内 式 併 行 期 に 拡 大 し 、 扇 状 地 帯 に 立 地 す る集落の割合も増加する。第三の画期として、
古 墳 時 代 中 期 ・ 後 期 が あ げ ら れ る 。 扇 状 地 帯 の 本 格 的 な 開 発 が 進 行 し た 時 代 と 思 わ れ 、 平 均 標 高 は 中 期 で 約 3m ・ 後 期 で 約 2m 上 昇 し 、 扇状地帯に立地する遺跡の割合も、中期で4%
・後期で2%の増加を示している。
(遺跡数:22)
3.余呉川・高時川地域
ま ず 、 余 呉 川 ・ 高 時 川 地 域 の 状 況 を 見 て い く 。 同 地 域 で は 、 縄 文 時 代 晩 期 の 明 確 な 遺 跡 が 存 在 し な い た め 、 湖 北 地 域 全 体 の 状 況 に 見 ら れ る よ う な 第 一 の 画 期 は 見 ら れ な い 。 第 二 の 画 期 に 対 応 す る 遺 跡 動 向 は 、 弥 生 時 代 Ⅴ 期 に 見 ら れ る 。 遺 跡 数 ・ 住 居 数 と も に 急 増 し 、 平 均 標 高 も 約 10m 上 昇 す る 。 そ の 後 、 庄 内 式 併 行 期 に か け て 住 居 数 の 増 加 は 継 続 す る 。 し か し 集 落 立 地 は 、 弥 生 時 代 Ⅴ 期 〜 庄 内 式 併 行 期 に か け て 自 然 堤 防 帯 以 下 の 割 合 が 増 加 し て いる。つまり扇状地帯に立地していた集落が、
周 囲 の 地 形 帯 へ と 拡 散 し て い く 段 階 と し て 捉 え る こ と が で き る 。 第 三 の 画 期 に 対 応 す る 変 化は、明確には求められない。
(遺跡数:36)
4.姉川左岸地域
姉 川 左 岸 地 域 と し て 扱 っ た の は 、 現 在 の 長 浜 市 域 に 対 応 す る 遺 跡 で あ る 。 同 地 域 に お け る 第 一 の 画 期 に 対 応 す る 動 き は 、 弥 生 時 代 Ⅰ 期に求められる。平均標高は約4m低下すると と も に 、 三 角 州 帯 の 割 合 も 増 加 す る 。 第 二 の 画 期 に 対 応 す る 動 き は 、 庄 内 式 併 行 期 に 求 め ら れ る 。 弥 生 時 代 Ⅴ 期 の 段 階 で 遺 跡 数 の 増 加 は 見 ら れ る 。 し か し 、 住 居 数 ・ 平 均 標 高 の 面 で は 、 明 確 な 変 化 は 見 ら れ な い 。 住 居 数 が 急 増し、平均標高が約4m上昇するのは、庄内式 併 行 期 に 入 っ て か ら で あ る 。 こ の 時 代 に な る と、三角州帯に立地する遺跡の割合が低下し、
そ れ に 代 わ っ て 扇 状 地 帯 の 割 合 が 増 加 す る 。 ま た 拠 点 的 な 集 落 で あ る 鴨 田 遺 跡 と 大 塚 遺 跡 が と も に 最 盛 期 を 迎 え る 。 こ う し た 状 況 か ら 考 え て 、 庄 内 式 併 行 期 は 、 弥 生 ・ 古 墳 時 代 を 通 し て も っ と も 集 落 の 活 動 が 活 発 化 し た 時 代 と い え る の で は な か ろ う か 。 第 三 の 画 期 に 対 応 す る 動 き は 、 古 墳 時 代 後 期 に 見 ら れ る 。 こ の 時 代 、 遺 跡 立 地 の 面 か ら は 明 確 な 変 化 は 見 い だ せ な い 。 し か し 、 一 時 期 沈 静 化 し て い た 遺 跡 数 、 住 居 数 な ど は 再 び 増 加 を 開 始 し て い る 。 こ う し た 状 況 か ら 考 え 、 こ の 時 代 に 集 落 活動が再び活性化した状況が見て取れる。
(遺跡数:22)
5.天野川地域
同 地 域 は 、 姉 川 左 岸 地 域 と 地 形 的 に 隔 て る
も の が な く 、 密 接 な 関 係 を 持 つ 地 域 で あ る 。
し か し こ こ で は 別 の 地 域 と し て 扱 う こ と と す
る 。 そ の 理 由 と し て 、 こ の 地 域 は 息 長 古 墳 群
を 築 造 す る 地 域 で あ り 、 横 山 丘 陵 上 に 古 墳 群
を 形 成 す る 姉 川 左 岸 地 域 と は 、 政 治 的 に 異 な
った地域を形成したものと考えたからである。
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第 一 の 画 期 に 対 応 す る 動 き は 、 弥 生 時 代 Ⅰ
〜Ⅱ期に求められる。平均標高は約1mずつ低 下 し 、 集 落 立 地 も 三 角 州 帯 の 割 合 が 増 加 し て い く 。 第 二 の 画 期 に 対 応 す る 動 き は 、 弥 生 時 代Ⅴ期に求めることができる。平均標高は2m 上 昇 し 、 三 角 州 帯 の 割 合 も 約 30% 減 少 す る 。 天 野 川 地 域 内 に は 、 扇 状 地 帯 が ほ と ん ど 存 在 せ ず 、 他 地 域 と 状 況 が や や 異 な る が 、 三 角 州 帯 か ら 自 然 堤 防 帯 へ の 移 動 と い う 変 遷 は 見 て 取 れ る 。 第 三 の 画 期 に 対 応 す る 動 き は 特 に 見 い だ せ な い 。 同 地 域 に お い て は 、 弥 生 時 代 Ⅴ 期 以 降 再 び 遺 跡 の 低 地 化 が 進 行 し 、 古 墳 時 代 後期までこのような傾向が続く。
6.まとめ
湖 北 地 域 全 体 の 状 況 と 、 三 つ の 地 域 の 状 況 を 概 観 し て き た 。 そ の 結 果 、 以 下 の よ う な 状 況 が 見 て 取 れ た 。 ま ず 、 第 一 の 画 期 と し た 集 落 立 地 の 低 地 化 は 、 縄 文 時 代 晩 期 の 状 況 が 不 明 瞭 な 余 呉 川 ・ 高 時 川 地 域 を 除 き 各 地 域 で 見 る こ と が で き た 。 第 二 の 画 期 と し た 集 落 立 地 の 上 昇 は 、 す べ て の 地 域 に お い て 見 る こ と が で き た 。 し か し 、 姉 川 左 岸 地 域 で は 庄 内 式 併 行 期 ま で 下 が る の に 対 し て 、 他 の 二 地 域 は 弥 生 時 代 Ⅴ 期 に 求 め ら れ る 。 し か し 、 余 呉 川 ・ 高 時 川 地 域 に お い て も 住 居 数 の 画 期 は 、 庄 内 式 併 行 期 に も 求 め る こ と が で き る 。 こ れ ら の 状 況 か ら 、 姉 川 左 岸 地 域 、 余 呉 川 ・ 高 時 川 地 域 に お い て 扇 状 地 帯 の 集 落 が 本 格 的 に 活 動 を 開 始 し た 時 代 と し て 、 庄 内 式 併 行 期 を 捉 え る ことができるのではなかろうか。
ま た 余 呉 川 ・ 高 時 川 地 域 で は 、 弥 生 時 代 Ⅳ 期 以 降 、 扇 状 地 帯 か ら 自 然 堤 防 帯 な ど に 集 落 の 分 布 域 が 拡 大 し て い る 。 ま た 天 野 川 地 域 に お い て も 、 弥 生 時 代 Ⅴ 期 以 降 、 自 然 堤 防 帯 の 割 合 が 減 少 し 、 三 角 州 帯 の 割 合 が 増 加 し て い る 。 こ れ ら の 状 況 か ら 、 必 ず し も 低 地 か ら 高 地 へ と 生 活 域 が 拡 大 し て い っ た わ け で は な い ことがわかる。
こ の よ う に 湖 北 地 域 内 で も 、 多 様 な 集 落 立 地 の 変 遷 が 見 ら れ る 。 湖 北 地 域 に お け る 鉄 器 の 導 入 時 期 に つ い て も 、 湖 北 地 域 全 体 か ら は 弥 生 時 代 Ⅴ 期 に 求 め ら れ る が 、 地 域 を 細 分 化 し て 考 え た 場 合 、 庄 内 式 併 行 期 ま で 下 が る 可 能性も否定できないと思われた。
参考文献
滋賀県教委 1996『平成7年度 滋賀県遺跡地図』
辰己勝 1989「琵琶湖 東岸の平野地形の特徴と光相寺遺跡
周辺の地形 『中主町文化財調査報告書 第19集 昭和63年」 度中主町内遺跡分布調査(Ⅱ)概要報告書』
松室孝樹 2000「近江・湖北地域における弥生時代集落の 様相−中期から後期を中心に− 『みずほ』第33号 大和弥」 生文化の会
松室孝樹 1998「姉川左岸地域における遺跡の動態 『滋賀」 考古』第19号 滋賀考古学研究会
研究ノート