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農民的自由市場の形成と展開 : 京都における野市 の成立史から

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(1)

農民的自由市場の形成と展開 : 京都における野市 の成立史から

その他のタイトル The Formation and Development of Farmers' Market

著者 田村 安興, 生田 靖

雑誌名 關西大學商學論集

27

1

ページ 1‑22

発行年 1982‑04‑25

URL http://hdl.handle.net/10112/00020845

(2)

関西大学商学論集第27巻 第1 (19824 (1)1 

農民的自由市場の形成と展開

—京都における野市の成立史から一一

田村安興•生田

( 目 次 ) は じ め に

第一節近世以前における野市の成立 第二節近代における野市の発展 第三節 中央卸売市場開設後の野市の展開 お わ り に

は じ め に

京都市を中心とする京都府南部地域の野菜の卸売市場は,大都市圏の卸売 市場の中でも最も古い歴史を持っている。それはこの地域が古くより大消費 都市であったこと,また野菜の重要な生産地であったことと深く結びついて いる。京都には四季を通じてすぐれた野菜を生産することが可能な土壊•水 利・気侯条件が備わっていた。京都の農民はそのような,経済的社会的・自 然的諸条件を有効に活用し,早くから京都を野菜の大産地にしたばかりでな く,京都独特の特産野菜を多数開発した。それらの野菜の中には聖膜院だい

, , ぶ な

こん・聖護院かぶ・壬生菜・九条ねぎ・堀川ごしまう・西院なす・賀茂なす・

山科なす•田中とうがらし・伏見とうがらし・衣笠菜豆・大亀谷だいこん・

桃山だいこん・など数えあげればきりがないほど京都の地名を冠頭に附した

(1) 

野菜類は多く,今日生産されている野菜も少なくない。

(1) 林義雄「京の野莱記」ナカニシャ出版 昭和50111

(3)

2(2)  27巻 第 1

野菜生産の多様性に応じてその流通もバラエティがあり,京都では地場流 通の多様な形態が早くから発達した。京都の農民・商人がつくりあげた主要 な流通経路は次の四つである。第ーは農家が売手として消費者に直接販売す る振り売りである。第二は農家が季節毎に生産した野莱を持ちよって開設と

の い ち(2)

れる野市である。ここでは,一般小売店・商人相手にセリが行なわれた。第

あいたい たちうり

三に,農家・商人が野菜を特定場所に持ち寄って相対取引を行なう,立売市 場である。第四は青果物の問屋集団によって開設される問屋市場である。こ

(3) 

れらの流通経路は相互に依存し合い,反撥し合いながら展開を見せる。そし て近世・近代期までの市場流通の主要な対立点は,農民的自由市場(立売市 場・野市)と特権的問屋市場との間にあった。時代が下って京都市中央卸売 市場設立以後立売市場・問屋市場は中央卸売市場に併合され,京都の青果物 市場流通は遠地ものを中心に集荷をする中央卸売市場と地場もの集荷に基盤 をおく野市との対抗関係が深まり,現在もそれは終っていない。昭和50年代 に入って京都の卸売市場流通は大きな変動期を迎えている。そのなかで従来 地場流通の主たる担い手であった野市もその経営問題を中心に新たな対応が 迫られている。

本稿の課題は京都の農民がつくりあげてきた農民的自由市場としての野市 の形成•発展過程を明らかにすることである。そのなかで,野市が今日まで 保持してきた性格と役割を明らかにしたい。そのことが現状の野市の問題を (2) ここでいう野市とは,古くから関西で一般に見られる青果物卸売市場である。

1923年中央卸売市場法では,類似市場並びに地方卸売市場と規定され, 1971年卸 売市場法では,地方卸売市場並びに,その他市場と規定された青果物卸売市場の 通称である。

(3) 近世・近代を通して,生産者から消費者を結ぶ京都の野莱流通経路は次に示す 通りである。

生産者→振り売り人(生産者)→消費者 生産者→野市→小売人→消費者

生産者→立売人→小売人→消費者

生産者→問屋→仲買人→小売人→消費者

このほか宮中・幕府への納菜,農家の自家消費があった事は無論である。

(4)

農民的自由市場の形成と展開(田村・生田)

考える上でも必要であることはいうまでもない。

1節近世以前における野市の成立

(3)3 

京都における最古の本格的な市場は平安京・東西市である。この東西市は 開設当時は大室令の開市令によって, ついで延喜5 (905年)以後は延喜 式の規定によって管理運営された官営の市場であった。東西市では主として

(4) 

官の調庸・交易雑物の払下品が交易された。しかし京都近在の農民が米穀・

野菜・果実を持ちより,そこで交易された量も相当多いと考えられている。(5) 

東西市は京都から鎌倉への権力の移行と多くの獣乱(たとえば応仁の乱く14 6777>)によって衰退を余儀なくされた。

鎌倉時代の商工業者は同業組合を組織し,これによって組合員の数を制限 する座を形成した。京都においては鎌倉時代から足利時代初期 (14世紀末〜

15世紀初)にかけて座の制度が確立し,多数の座が権勢家の保膜を得て形成 された。その中には苧座・相物座(魚類)など後の青果問屋・魚問屋等の特 権問屋市場の原型もつくられた。 これら特権問屋に対して立売市場は,こ の頃から成立したと見られている。

天文年間に入ると市場制度に1つの革命が行なわれた。すなわち楽市,楽 座である。これによって商品流通は大いに発展した。京都においても青果問 屋の集団が3ヶ所に形成された。問屋町・中堂寺・不動堂の各青果問屋集団 である。時期を同じくして鮮魚市場も上ノ店・錦ノ店・六条ノ店の 3つがで きた。このほか長い歴史をもつとみられる立売市場,さらに周辺部に野市が 形成されるなど商業活動は急速な繁栄をみせた。しかし商品流通に制度的規 制が加わらなかった時期は短期間であった。

藩政時代に入ると問屋市場は冥加金を上納する代りに営業特権(商規の定

(4) 「延喜式」第四十二。

(5) 三橋時雄「日本古代における中央市物一平安京の東西市を中心として」大阪学 院大学商経論叢第21 昭和514 P.12 

(5)

(6) 

札)を附与せられ,問屋市場以外.の問屋活動は認められないこととなった。

株 仲 間 の 形 成 が そ れ で あ る 。 問 屋 仲 間 組 合 に 加 入 し て い る も の の み に 排 他 的 な取引特権が与えられたのであるp こ の 頃 す で に 問 屋 市 場 に あ っ て は 委 託 販

(7) 

売 取 引 形 態 が と ら れ て い た 。 そ こ で は 大 量 の 信 用 取 引 が 行 な わ れ て い た と 見 ら れ る 。 つ ま り 特 権 問 屋 市 場 で は , 他 の 流 通 形 態 と は 隔 絶 し た 取 引 が 行 な わ れていたのである。

と こ ろ で 立 売 市 場 は 法 的 に は 禁 止 さ れ は し た が 事 実 上 は 営 業 を 続 け て い た 。 商 品 流 通 の 発 展 の 波 を 一 片 の 法 に よ っ て 簡 単 に 押 し と ど め る 事 が で き な い の は 当 然 の こ と で あ っ た 。 た と え ば 錦 高 倉 に 明 和7(1770年),上ノ店に 安永3 (1774年)にそれぞれ青物立売市場が開設されたとされているが,

その口上書には「錦高倉四町へ,古来より私共村方(壬生・中堂寺・西九条な 7か 村 ) 百 姓 共 青 物 指 出 立 売 致 来 り 侯 処 」 と 記 さ れ て あ り , 立 売 市 場 の 公

(6)京都の青果問屋に対するものは硯存していないが,魚問屋に対する商規の定札 は,多数現存する資料がある。たとえば,次のような魚問屋仲間に対する定札が 下附されていた。

ー,魚問屋之俵享保年中申付侯通上ノ店問屋拾煎軒錦小路問屋拾壺軒六條問屋頁t

軒にて煎拾五軒之外新規仲間入いたさせ間敷侯尤議り替名前替等三店問屋中相 談之上存寄無之に於ては外店行事連印相断可申事

ー,諸國より差登せ侯諸魚生畷千物諸鳥類松前物其外何に限ず賣捌日々魚直段相 場書前々より仕来りの通三店より一冊宛に可差出侯尤右品々問屋外にて直売等 いたし問屋に似寄候儀並に諸國より持登り直売等いたし侯もの有之侯はゞ早速 可訴出侯吟味之上急度可申付……•••京都市社会課「市場の沿革」大正12年 3 月 P.  14  所収。

(7) 市場の取引実態を示す資料として次のものがある。問屋町市場問屋,山中久次 郎方に伝わる文書によれば, 「慶年年中に仁助家名を市屋と名付市禰子, 此時伏 見六地蔵より始て荷物持参の約諾有,次第に市繁昌し,此時水工帳と名を付売買 の銭目を記し仕切銭と定め百銭にて口銭と定め,五銭宛取」とあり,市場設立時 より,農家との関係は委託売買と手数料に関する取り決めがされていた。(山中家 文書は,田中辮之助「京都市中央卸売市場誌」(中・) 昭和28 京報社・

P.119  所収)

(6)

農民的自由市場の形成と展開(田村•生田) 5)5  萬・開設とされたことは,実は古くから青物取引が行なわれていた事実の追

(8) 

駆にすぎなかったということが明らかになっている。立売市場には農民が自 家生産した野菜を販売する立売業者(農民)と,非農家である立売人(商人)

とを含んでいた。立売市場で後者の立売人が次第に力を持つようになると,

問屋(特権的商人)への上向を志向するようになる。また一方で前者の立売 業者(農民)が集合するようになると,.野市に転化するようになる。換言す れば立売市場は問屋市場か野市へ転化する過渡的形態と見られる性格も有し ていた。この様な相対立し矛盾する二側面を立売市場は含んでおり,このこ とがその後の立売市場の性格変化を規定した。しかし少なくとも藩政中期ま での立売市場は農民の力が強い市場であったことが知られている。

さて上ノ店・錦高倉の2市場は立売市場として黙萬される形で存在してい 2市場とも魚問屋市場の隣接地に立地していた。魚市場に集まる買出入 との取引を行なうために野菜立売人が集合して自然発生的に市が成立したも のである。これら立売市場が周年開市され事実上問屋化する商人も生まれる ようになると,官許の青果問屋市場との間では当然対立が生じるようになっ た。この対立の中で立売商人は特権問屋の独占的営業権と農民とともに闘っ しかし立売市場内の有力商人と問屋市場との間の対立は立売市場の公 許,立売商人の問屋市場への吸収という経過をとった。明和8 (1771 特権問屋市場である問屋町市場は冥加金15枚を奉行所に差し出して錦高倉の 立売市場を吸収しようとした。問屋町市場の策動は成功をおさめ,錦高倉の 立売市場は公駆後一年で問屋町市場に吸収されている。しかし近郊農民を中

(9) 

心としてこれに対して抗議運動が展開された。この運動は問屋市場の流通支 配に対する農民的市場を再建する斗いであった。この斗いの主力であったの は壬生村・中堂寺村・西九条条・東寺廻り・上鳥羽村・西七条村・西塩小路

(8)北村貞樹「近世市場形成に於ける2つの道」一錦高倉惹菜市場を中心とする覚 書一大阪大学経済学第53, 4号 昭 和313 P.  358359に詳しい。

(9) 三橋時雄「問屋市場と立売市場との対立抗争」一京都躇莱市場における一大阪 学院大学通信第84号 昭 和527日P.11 13

(7)

巻 第 1

村の七か村の農民であった。そして農民の斗いは勝利して再び立売市場が問 屋市場から独立し,安永8 (1779年)に立売市場が再開されている。この 時の記録に, 「七ケ村庄屋衆御苦労故卜錦小路裔倉四丁者不及申惣直売百姓 此外所々入込商人共御苦労之段御礼難申処依之未々迄御苦労為御礼之印卜毎

(10) 

年ーケ村へ御酒六升宛七ケ村へ指出し可申侯事也」と記されている。これは 新興問屋である立売商人が問屋市場との抗争の先頭に立った七か村庄屋層に 対して酒六升を差出したものである。これは再開された立売市場に対する農 民の地位が高いことを示すものであろう。

問屋市場・立売市場の他に常設市場としての営業を認められず郊外の農地 や空地に季節的・臨時的にのみ開市する市場,いわゆる野市がすでに藩政時 代初期から多数生まれた。それは京都及びその周辺地域の農民によって創設 され運営されて来たものであり,権力による庇護の下でつくられた排他的特 権を持つ市場に対抗してつくられた,いわば農民による抵抗の所産と言って

(11) 

もよい性格をもっていた。大阪の天満市場周辺部の立売人・野市は幾多の禁 止令,特権問屋市場からの圧力があったにもかかわらず雑草のように再生し た歴史を持っている事が知られている。例えば明和10 (1773年)には難波 村の農民が再三市を開きたいと申し出たが許可されなかった。しかし農民は

(12) 

無許可で市を開いている。京都の野市については現存する記録は少ないが,

(10)  北村前掲論文 P.361 (11)  三橋時雄。前掲論文 P. 10

(12)  「明和十年の春には生玉社領の東村(東成郡生野村字東国分の内)の年寄善四郎 と云う者が官許を得たと欺り,道頓堀裏の畑地を買取り,是に小屋を建て「青物 挨拶場」と銘打って,買手より丁百文を受け、売手に九十六文を渡し,差引四文 を口銭とし,公然市場的営業を開始したので,天満市場は重ねて多大の打撃を受 けた。然し此の打撃は単に天満青物市場のみではなかった。難波村の農民等も忽 ち得意を之に吸収され頗る苦境に陥った。そこで同村の農民等は生玉社領と同様

,青物挨拶場の設置の許可を代官久下藤十郎に請願した。処が市場開設認可の権 限は代官の掌る所にあらずとの理由の下に, すげなくも却下されたから, 巳む なく該農民等は改めて町奉行に出願の手続を取った。例て月番松平勘敬は直ちに 善四郎の経営になる道頓堀の青物挨拶場に就き実地調査の結果,是に廃止の厳命

(8)

農民的自由市場の形成と展開(田村•生田) 7)7 

(13) 

初期の立売市場とともに,特権商人との闘争の歴史をもっているのである。

この時代の特権商人は農家に対してだけでなく「仲買人・小売人に対して は,きわめて格式が高かったものである。………問屋こそ,配給の全機能を

(14) 

果すと共に, 価格に関する決定権を有していた」のである。問屋取引は,

相対取引(袖中取引)であり,取引方法や価格が非公開で.,しかも問屋の思 惑によって価格が決められるという「差益収入」を問屋に保障し得る取引で あった。野市はこのような特権的商人資本の流通支配から離脱し,農民と小 売業者の直接取引によってつくりあげた新しい流通機構であった。野市にお いては農家が持ちよった商品を一同に会し競売(セリ取引)が行なわれていた のである。そこではどの農家にも小売店にも価格が公開される民主的な取引 が行なわれた。なお, 1923年に制定された中央卸売市場法ではこの野市の取 引方法が研究され採り入れられたのであった。

を下すと同時に,難波村々民等の願書をも聞届け難しと却下せらる。於蔽,道頓 堀裏の青物挨拶場は全く影を港め,難波村に於ける同様の設置計画も一時根絶の 形となる。然し難波村の農民等は,其の願意の入れられなかったことを大変遣憾 に思い.何とかして同地に青物挨拶場の許可を得んものと,日夜心を粋.いてい た。そして数年を経て再び同青物挟拶場の設置を出願したのである。けれども既 設の天満市場を保護する念の強い奉行は容易に聞入れられず,悲しくも前回同様 願書の却下を見た,そこで同村の農民等は,最早や正式の出願は到底駄目だ此の 上は最後の手段として私に売買場を設置する依り外に道なし.種々協議の末,同 村の北端,畑中(今の難波元町四町目のある所)に無断で小屋を建て,世話人二 名を置き,て定の口銭を徴収し,自村の野莱は勿論.他村より集中する薩菜の売 買をも為したと.伝へらる。」永市壽ー・天満市場史(上) p. 72 73。 昭和4 9月15

(ここでは野市のことを青物挨拶場という名称で呼んでいるが大阪では一般に百 姓市と言われた。黒羽兵治郎編 大阪商業史料集成第1 p.117  昭和93 月31

(13)  三橋時雄「近世三都の食品市場における統制と抗争_とくに青果市場を中心 として一ー」 大阪経大論集117, 118 昭和52年7 P.  52 56。阪本平一郎

「大阪市における立売人の発生過程について」農業経済研究111 昭和10 p. 121 142

(14)  京都市「京都市中央卸売市場30年史」昭和32年12月11 P.  27

(9)

27巻 第 1

2節 近 代 に お け る 野 市 の 発 展

明治維新以降商業にも大きな変化が生じた。明治元年 (1868 5月京都 商法会所は商法大意を布告して,藩政時代の株仲間に与えられていた構成員 の枠や商特権を徹廃したために旧来の株仲間は実質上まった<枯死したので ある。維新直後における市場の商取引は維新後の政治的混乱, 新興商人の

(15) 

新規参入と旧秩序の崩壊の結果混乱し逆に縮少したと見られる。京都におけ る明治初期の青果市場一覧は表1の通りである。藩政時代から存在した常設 薩菜市場・立売市場の区分もなくなっている。旧問屋集団の有力問屋は商取

(16) 

引の混乱によって衰退し新興問屋に取って代られた事が窺われる。この時代 には野市の取扱高が増大し,それは市内市場集荷量の50%以上にのぽってい る。(たとえば④・⑤・⑨・⑱・⑯・⑰市場などは大正期にまで存続した野 市であり,特に⑰市場は現在も淀青果市場株式会社として存続している。)

大正末期 (1920年代前半)から中央卸売市場設立(1927年)前後に到って、

始めてわれわれは京都市の卸売市場流通に関するやや詳細な資料を入手する 事が可能となる。表2は大正末期における問屋集団内市場及び,野市(合計)

の取扱額及び市場構成者を示したものである。明治10年代以降になるとかつ ての特権的問屋市場が再び興隆してきた。無論藩政時代のように封建権力に 擁護された商特権はなくなるが,商取引の非合理性は残存しており,それは 問屋の差益商人=前近代的商人資本としての性格に根ざしたものであった。

各市場の取引状況については,「本市内の問屋業者と荷主間との取引は,生 魚・塩千魚・薩菜・果実などは多く委託販売なり。而して市内の問屋・仲買 人・小売業者の取引は主として相対取引なるを以て,前の日の実際の出来値 は,市内一般消費者の窺知する能わざるのみならず荷主側に於ても亦一切不

(15)  明治維新後の卸売市場の混乱については,羽原又吉「我国三大魚市場の研究」

水産界, 423号,大正612 P.  lO P. 14 

(16) 市場番第①〜Rまでの問屋市場の取扱額は少なくなっている。また後に有力問 屋となった者がこの後次々に生まれている。

(10)

① 

③ 

⑧ 

④ 

⑥ 

⑥ 

⑧ 

⑨ 

⑩ 

⑪ 

⑫ 

⑱ 

⑭ 

⑮ 

⑯ 

⑰ 

農民的自由市場の形成と展開(田村•生田)

表ー1 明治初期京都の青果市場 問 屋 販11 15

売 額

戸 数 上京区13組北町 142 下京区27組上人町 384  29組南町 1,258  葛野郡壬生村 458  西院村 96  東監小路村 190  八条村 305  中堂寺村 102 

愛宕郡田中村 98 

東柴竹大門村 120  岡崎村 35  吉田村 141  聖護院村 524  鷹ケ峰村(松茸) 95  下鴨村 111  紀伊郡向島村 79  久世郡淀新村 2,145 

19 

6,283 

(9)9 

問屋市場

 

I/ 

II 

//  //  I/  II  I/ 

I/  I/  II 

 

//  II  I/ 

木村靖:::「明治前期の農産村市湯」より作成帝国農会報2112号 昭 和92月 所収

表ー2 大正末期京都市の青果市場

I

市 場 名 取 扱 品 目 1扱年額 1日平均

(千円) 寮業 1兼仲買1兼小売立売人•生産者 1:1:1 備 考

仏 光 寺 果 実 践 菜 4,000  13  45 

105  20  500  立売市湯

高 倉   1,000  10 

53  20  300   

上 の 店   1,000  11 

20  37  200  II 

不 動 堂

  750 

59  45  150  問屋市場

丸 京 組 合 土物甘藷、パナナ 500 

゜゜ ゜゜

荷受組織

甘 藷 組 合 甘 藷 300 

゜゜

 

京都果実(合) 果実蕗菜,土もの 1,750  (9) 

京都青果(合)   150  (6)  II   

需じ翌噂い

7471  I I I  400 

京 都 市 中 央 卸 売 市 場 建 設 資 料 よ り 作 成 京 都 市 市 場 課 大 正1311

(11)

明なるが如し,元より市内問屋業者は自己の信用,今後の取引其他の開係上 最も正直公明を旨として取扱いつつありといえども,取引内容の不明は一般 消費者及荷主をして少くとも疑念をさしはさむ余地の存することは明らか

(17) 

なり」と,当時の京都市社会課の調査報告書は取引方法の前近代性を批判し ている。そうした中でも大正期に入ると,京都果実合名会社・京都青果合名 会社など会社組織を持つ荷受会社が誕生した。これらの会社組織は仏光寺・

高倉・上ノ店・不動堂の各問屋集団に所属する問屋が遠地もの青果物を集荷

(18) 

するために,鉄道輸送手段に有利な地に共同荷受機能をもつものとしてして 設立したものであり,この会社が後に中央卸売市場の卸売会社を創設する際 にも核となったのである。産業資本の成立が早く,産業資本による流通支配 が早くから進んだ鮮魚市場の場合と異なり,青果市場の場合は流通過程の 近代化(産業資本による商業資本の支配)が急速には進行しなかったので あるが,青果問屋間の合併・統合による商業資本への脱皮の試みが進んでい

3は明治末から大正中期にかけての主要な青果物卸売市場の取扱額推移 を見たものである。・市場間(特に上ノ店と不動堂)の取扱額が明治末に逆転

表ー3 京都市内青果物卸売市場取扱額の推移

(単位千円)

市 場 名 明41 42143144 1 2  I 3  I 4  I 5  I 6  青上物ノ市宮 15.3  35  55  60  75  120  130  150  130  112  不動堂市場 77.5  70.5  63.5  63.3  60  61  48.8  70  58  58  農 盛 市 場 8.5  7.5  7.6  8.7  7.6  6.4  6.2  5.3  4.2 

錦高倉市場 20 

京都市統計表より作成 (17)  京都市市場課「中央卸売市場建設資料」大正13年11 P.  134にも同様の記述

がある。

(18)  東海道線京都駅は明治10年に開業した。これ以降鉄道輸送による生鮮食料品移 入が増加する。同社は鉄道輸送時代に適応するため京都駅近くに設立された。

(12)

農民的自由市場の形成と展開(田村・生田) (11)11  しており,この時期の市場間の競争が激しかったことが窺われる。この中で 野市は農盛市場のみであり,.野市の状況について細かく検討してみたい。表 4は大正末期における京都市周辺部の野市の実態を示したものである。さき にみた仏光寺市場は京都で最も取扱量が多かったが,この市場に次ぐ盛況を 見せていたと言われた野市,淀青物市場(市場番号⑱)を唯一の例外として 他の野市の場合は数千円から数万円という取扱高である。取扱品目を市場全 体でみると,京都の特産である筍のほか,なす・きゅうり・かぽちゃなどの 果菜類,ねぎなどの葉茎菜類,里芋・聖護院かぶ・たまねぎなどの根菜類な ど野市全体を見ればあらゆる品目が集荷されているが,市場ごとに特徴も持 っていた。すなわちそれは①筍専門市場,③地場野菜と果実市場,⑧地場野 菜市場の三つに分けうる。いずれの野市もその集荷圏は狭く大字を出るもの は少なかった。買出人も地元に所在する買出人が中心であった。開市期間は 集荷される品目によって規定されており,次のようなタイプがあった。①筍 専門市場3月〜6月,⑨夏期薩菜のほか根菜類・果実も集荷する市場5月〜

11月,③夏期薩菜のみ集荷する市場5月〜9月である。開市時期は総じて午 前中,それも午前4時から6時という早朝に開市する市場が多かった。野市で の取引方法は公開セリ取引であったことは藩政期から変化していない。そし て農家に対しても買出人に対しても硯金取引であった。この時期の京都四大 問屋集団の取引が主として問屋の恣意によって取引価格が操作されるなど,

取引の公平化がさまたげられていたことと比較すると野市取引の合理的・民 主的取引は際立っていたといえよう。

もともと野市は農民的市場=自由市として設立されたことは既述した通り であるが,野市は農家集団の市場から絶えずその経営者層が分離し個人経営 の市場へと転化せざるを得ない宿命を持っている。このことは藩政時代にお ける立売市場にも見られた硯象である。そして立売市場も当初は基本的には 問屋・仲買人に対して農民優位の性格を保持していたが,この時期の野市も 同様であった。表 4で示したようにこの時期の野市は藩政期からの歴史を受 け継いだものは少数であり, 大部分は明治期にはじまる新興の野市である

(13)

27巻 第 1

表ー4 京 都 市 の

I

│ 

取 扱 品 目 11

①  西,場2ケ所に分立) 京都市下京区西ノ京 , なきゅうり. 42 

花園農産会市湯 'II  ,かゃ,  20 

③  西院村農会蘊菜販売市湯 葛野郡西院村 夏期裁菜 26 

④  西七条市場 京都市下京区七条千本 たけのこ,松茸,蹴菜 35 

田中飛烏井町東市湯 京都市田中門前町 ぽ. きゅうり,

ちゃ 10 

⑥  大宮連合農会市湯 京都市楽上野京区門前町 ,里,芋, かぎち 69.6 

⑦  農 盛 市 湯 京都市上京区吉田町 きぼゅうり,なす,

か ち ゃ 6.5 

⑧  観月橋市湯 紀伊郡伏見町 米麦以外の農産物 43 

⑧  久宝寺共同線合 紀伊郡深草町 筍専門市湯 34 

⑩  山科藤尾筍売捌組合 宇治郡山科町 30 

⑪  馬島青物市湯 久世郡御牧村 果実,裁莱

⑫  北島育物市場

   

⑬  淀冑物市場 久世郡淀 300 

⑭  山科青物市湯 宇治郡山科町 55 

⑮  津知橋市湯 紀伊郡伏見町 17 

⑯  下 坂 市 場

  20.4 

⑰  阿波橋市場 II  10 

⑱  伏見山亀青果市湯 紀伊郡深草町 100 

⑲  田中村青物市場 愛宕郡田中村 り院かぶ, 蕪ち.きゅ ,,とうがらゃし , 

が,その経営主体は既に個人経営となっているものが大部分であった。野市 の中にはこれら個人経営の市場に対して農民の側から再建した市場も出硯し

(14)

農民的自由市場の形成と展開(田村•生田)

野 市 ( 大 正11 12

(13)13 

咄数 1/:I!( か I開 市 期 間 1 1経 営 主 体 1手配斗率及取引方法 90  45  5月240日〜〜160月31 

25  30  5月249日〜  96 時月20  67  128  5月〜9月12 50  20  4時〜6 12  60  5月〜9月 40  70  6月130日〜〜116 月10 

4月〜8月 人の 午前中開市

45 3月〜6〜  午前7時〜12 午前7時〜12

中市

明治13 訳靡竺製閃耐 現金取引

明治42 個人経営 0.2取引,委託,セリ

同殿会 セリ,現金取引

個人経営

 

  0.2取引

明治町年   0.3割,現金取引

明浩初期 )市場 現金取引 大正2 筍問屋 セリ,現金取引 明治35 引貫目建直)

1810年ごろ 個人経営 0.41引割リ取引, 1700年ごろ

  0.4 1セリ  

村営出荷罷合

大正4 個人経営 明治20

  1割物,現金及延取引

京都市中央卸売市湯建設資料(大正13 京都市中央卸売市場誌(昭和2年)にもとづき作成

※いづれも現在の京都市内に所在

ている。たとえば西ノ京青物市場組合(市場番号①)・西院村農会薩菜販売 市場(同⑧)・観月橋市場(同⑧)・山科藤尾筍売捌組合(同⑩)・山科青物

(15)

27巻 第 1

市場(同⑭)などである。この中で西ノ京青物市場組合は実休としては2 所に分れた市場である。小字内ノ田の市場は個人経営者が経営する市場であ るのに対して,小字車坂の市場は個人経営者の市場に対抗するために生産者 集団が設立した市場である。また西院村農会薩莱販売市場は農会を経営主体 とする市場であった。西院村農会技手・小畑幸太郎氏の手になる西院村農会

(19) 

薩菜販売市場に関する報告書は,当時の野市の設立趣旨と取引方法の一端を 明らかにしてくれている。これによるとこの時期の山院村には仲買業者が70

人も営業していた。しかも取引方法は仕切の改ざんなど問屋商人の側の差益 収入が多大であったことを窺わせる。この資料の中で注目されることは,西 院村農会市場は商人資本に対抗して設立された農民的市場である事を,設立 趣旨の中心にすえていることである。注(19)で示した設立趣意につづいて,

割愛したが,この報告書では商人資本に対抗して設立した野市の取引方法と して次の事が明らかにされている。①取引方法は今日の野市と同じでありセ リによる硯金取引である。また荷姿は通いかこであった。例えばきゅうり・

なすなど主要品目の荷姿は五寸籠を一荷としていた。⑧当時の,西院村にお ける農家の大部分がこの市場に野菜を出荷していた。西院村全農家212戸の うち170戸がこの市場に出荷していた。⑧価格変動はすでに今日の野市とほ ぼ同様の変動をしている。(すなわち出荷初期と末期には高価格が付き,

(19)西院村農会経営青物市場に就て(京都府農会報大正11年第362号)葛野郡西院 村農会技手,小畑幸太郎, 「本村は京都市に西接し, 従来より薩莱の生産地,特 に里芋及茄子は特産物として名あり,殊に近年に至り京都市の膨張は薩菜栽培地 を変じて住宅地となさしめ,人口の増加は野菜類の需要増加し,価格の騰貴を来 し栽培反別の増加となれり,本村内にて諧莱栽培反別百町以上に及び,一種の薩 菜にて反別十町歩以上を栽培せるもの五種類に及べるに徴して其の一端を知るを 得べし。然るに本村内農産物殊に薩菜の販売方法は村内約七十戸の仲買業者の独 占する委託売買により農家は売価を定めずして場に出し,仲買業者に暴利を朦ら しめつつあり,一部農家には之が革正を期せんとするものあるも,従来の習慣に 捕われ如何ともする能はざりき。萩に於て農会は有志と相謀り農作物の共同販売 斡旋をなす計画をたて,青物の躍売を開始すべく京都市下京区西院淵田町にえが 市場を設置し躍売をなすに至れり。」

(16)

農民的自由市場の形成と展開(田村・生田) 15)15  盛期には極端に低価格となるなど。) この頃すでに野菜流通の広域化は急速 な進展を見せるのであるが,京都の農民は野菜の激しい価格変動の中にあっ て問屋取引など他の流通形態に対抗して農民の手により野市を再建し,しか も通いかご•など簡単な荷姿による出荷方法を採用して流通経費を節約する努 力をしているのである。

しかし市場の経営主体が農家集団の手からすでに離れて特定個人の手に経 営が移行している野市は, 19市場のうち12市場を数えている。これら野市の 取引方法もセリ取引であり,取引は公開されていた。その点,京都市内四大 問屋集団の魚•青果問屋が依然として非公開の相対取引を維持し,詐欺に類 する取引が行なわれていたこと, (しかも魚問屋の場合には,仕込前貸制に よる荷主に対する金融的支配,買付取引による差益収入の獲得など,前近代 的取引方法をとっていた)と比較すると,野市経営が農家集団の手から離れ た場合でも問屋市場とは様相を異にしていた。野市が持つこの様な農民的性 格は野市そのものの性格が反映したものである。つまり野市の経営の基盤が 地元農家集団・農家組織に置かれており,地場農産物から離れて野市の経営 は存立しない。野市の経営者はどこまでも農家と小売店の世話役,マネー ジャーにすぎないのである。

3 中央卸売市場開設後の野市の展開

中央卸売市場法は大正12 (1923年)第46帝国議会で制定されるが,この 法律にもとづき昭和2 (1927年)の京都市中央卸売市場を皮切りにして 1930年代に中央卸売市場がつぎつぎに設立された。それは欧米先進国に比較 すると約一世紀遅れをとっていた。中央卸売市場法は,行政機構の役割が強 いわば強権的性格を持つとともに, 都市社会政策的な性格も持ってい た。 類似市場 =野市の位置づけも市場制度の強権的性格を反映したもの であったといえよう。すなわち中央卸売市場法はその第六条で「中央卸売市 場取扱品目二付当該指定区域内二於テ中央卸売市場類似ノ業務ヲ為ス市場ノ 閉鎖ヲ命ズJレコトヲ得・・・」と規定されている。帝国議会の中央卸売市場の審

(17)

巻 第 1

議 の 中 で , 最 も 時 間 を さ い て 議 論 さ れ た 条 項 の 一 つ は こ の 条 項 で あ っ た 。 後 に 中 央 卸 売 市 場 に 収 容 さ れ た 卸 売 会 社 か ら 絶 え ず 第 六 条 を 適 用 せ よ と い う 圧

(20)  力が加えられつづけたのである。

さ て 中 央 卸 売 市 場 法 で 類 似 市 場 と さ れ た 野 市 は , 京 都 市 中 央 卸 売 市 場

、 設 立 以 後 如 何 な る 変 貌 を と げ る の で あ ろ う か 。 表5は 中 央 卸 売 市 場 開 設 以 前 の 大 正11 (1922年 ) と 開 設 後13年 を 経 た 昭 和15 (1940年 ) と い う 時 点 の 中央卸売市場(大正11年 は 後 に 中 央 卸 売 市 場 に 収 容 さ れ た 卸 売 業 者 の 取 扱 額 ) 野 市 の 取 扱 額 を 比 較 し た も の で あ る 。 卸 売 市 場 流 通 量 に 占 め る 野 市 の 割 合 は 減 ず る ど こ ろ か 逆 に 増 加 し て い る の で あ る 。

6は 京 都 市 に お け る 中 央 卸 売 市 場 開 設 後 に お け る 野 市 の 実 態 を 示 し た も の で あ る 。 昭 和 初 期 の 野 市 の 中 で 中 央 卸 売 市 場 開 設 以 前 か ら 営 業 し て い る 野

表ー5 京都市中央卸売市場と野市の取扱額の比較

(問中屋央市場卸・売立売市市場場野 市 計

大 正 11 945万円 74.7万円 1,019.7万円 (1922 92.7%  7.3%  100% 

昭 和 15 1,274.2万円 120.3万円 1,394.5万円 (1940 91.4%  8.6%  100% 

大正11年は京都市市場課前掲資料

昭和15年は京都市中央卸売市湯年報,及び表7の集計より作成

(20)  六大都市青果市場懇話会は,昭和8 (1933 1月「京都市の現状」という 意見書の中で次の様に訴えている。「京都市はわが国中央卸売市場の喘矢の地で あり,開設後既に数年を経ている関係上,これら類似市場もしくは類似営業者の 数も相当多数なるが,これに対する監督者たる府当局の取締方針は,われわれ業 者よりみて全く放任の状態であり,府は府会によって取締るべきはずの既設類似 市場に対しても,事後において発生した類似業者に対しても,われわれより見れ ば全く傍観の態度をとっている。」京都市「京都市中央卸売市場30年史」昭和32 年12月11 P.  367  所収

参照

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