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Title
王鐸の書
Author(s)
小倉, 一富
Citation
長崎大学教育学部人文科学研究報告, 26, pp.一七-二三; 1977
Issue Date
1977-03-25
URL
http://hdl.handle.net/10069/32509
Right
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王 鐸 の 書
小 倉 一 富 行きたい。 序 王鐸の書は、大戦後展覧会の盛行と共に、我が国書壇に於て俄 に脚光を浴びるようになった。王鐸を追求する書作家が輩出し、 その流行は全く目を瞠るものがある。私は学生の時、王寺風で書 かれた作品を初めて見て、上から下まで一気呵成に書き流された 連綿草にすさまじい迫力を感じ、呆気に取られたことを今でも鮮 かに記憶している。その後、自分が王鐸の書を学び、それを根拠 として書いた作品を見た一般の人から、 ﹁まるで絵ですね。﹂と か、 ﹁これは前衛というものですか。﹂とかいうような批評を受 けたことが再三にとどまらない。このように王鐸の書は、戦前の 我が国の書道の傾向とは感覚的に全く趣を異にする。尤も、王鐸 ばかりではなく、明車から清々にかけて現われた書家群は皆、個 性豊かで不霧奔放な作風を樹立したもので、戦前の我が国の人々 が、文徴明あたりを規範としたり、新しい傾向としても二王か唐 の四大家あたりを研究するのがせいぜいであったことから見れ ば、全く字か絵かわからない一種独特のものに見えたのも当然か もしれない。 それでは、何故、王月初め明末羅初の書風がかくも不平奔放な ものであるのか。就中王鐸は何事なる用筆法、章法を以って、現 代の我が国書壇に犬きく影響したのか。以下順を追って考察して 玉鐸の書︵小倉︶ 王鐸の書の歴史的背景 中国書道史を見ると、大体に撃て強力な中央集権国家にあって は、均斉の美、シンメトリカルな冷たい典雅な美しさが貴ばれて いる。逆に、中央政権の力があまり強くない社会にあっては、自 由で暢びやかな、自己を強く主張する作風が流行する。これは極 めて大雑把な見方であるが、この両者が交互にくり返してきたと 見ることが出来る。即ち、秦漢の研ぎすまされた、一分の狂いも 許さぬ象隷から、三国、六朝の地方分権的な貴族社会になると、 参差錯落たる怪事の楷書群、又王裁之以下に見る自由闊達な南帖 の行草の発達となる。 ︵王裁之の書は、時代の下降と共に次第に 形式化、形骸化され、その真を失ったものが行草の規範として扱 われるようになる。︶ そして大唐帝国という強力な統一国家の出現によって、王義之 の生彩を尊崇しながらも、所謂初唐三大家に代表される、緊密に 構築されたような楷書が全盛を極め、最早、六朝の恣意に任せた ような書風は顧られなくなる。次の宋は政治的、軍事的に弱体で、 北には遼・金が成立するなど、丁度南北朝と同じ状況を呈するが、 新興貴族の擁頭と土ハに、文化的には革新の気風が満ち、書に果て も、所謂宋の四大家に見る如く、自由奔放に自己を打ち出して、 一七長崎大学教育学部人文科学研究報告 第二六号 ロマンティシズムを謳歌したのである。 やがて強大なる元帝国によって統一されると、格と法に拘束さ れた趙孟頬の書となり、世を挙げて趙に追随し、それは明の文徴 明に引き継がれる。 その明が国力次第に弱まって来た頃、趙・文のアカデミズムに あき足りない董其上が、清新にして瀟酒な、所謂文人風の書風を フ あみ出し、更に、蜜語図・二恩・黄道周・侃元珊・傳山・許友等 の出現となり、それぞれが強く個性を打ち出し、自由にして天真 欄漫、加之、芸術的香り高い書風を確立した。かくて明王朝の国 力の衰微とは裏腹に、華麗なる書美の世界を形成したのである。 国力衰微し、内乱相継ぐという点では同じ状況であった唐末は、 書道も衰えたが、明末はそれと異り、書道が衰えるどころかかく も盛大であったことについて、松井如流氏は、 ﹁書道そのもの が、唯美的傾向を帯びて、政治力の外に、独自の世界を形成した み ということにあるのではないか。﹂と述べている。 又この間の書美の変遷について、清の王虚舟は次のように述べ ている。 ノハ ナルモクフナルヲリノ ニ くアノ ヲ 有三一代書格律森嚴、多患方整。至宋皇家、各以其超逸之姿、 二 一 二 一 二 一 セリ ヲ シ シ ニレルナラン ンテ ノ ビタリ リテ 破−竣成法。蓋拓一向外様。 而晋唐嚴謹粛括之意亡 。至 一一 一 二 一 ニ ニ メテラトセリ ヲ ノ バ バノ ニ モ 子昂、始感恩二王。︵中略︶子昂天涯超逸、不レ及遺忘家、而 一 二 一 二 一 ハ ス ルト スモ ヲ シミ ニ レ ヲ ダ リ 工夫爲レ勝。晩歳旦レ名、後困於簡封、不レ免浮滑、包有習氣。 二 一 二 一 二 一
ノハ
スヲモ ノトボルトフ
元三一代書家、皆宗−仰之。癖毛聖域學諸公、猶爲レ所レ蓋。 二 一 二 一 ノバニ ラズルニ ノ バ グメノヲ ハヒノテノ 其他更不レ足レ論。有明前半、未レ改測轍。文徴仲使一蓋平生氣 二 一 二 一八ヲ ルトスルツテ ニメテリルヲレドモリ
テルマテニ カ、究寛爲レ所三軍。至三思白、始挟一八之。然自六白以三盆今、 一 二 一 二 一 二 一 二 一 二 一ル
ノト
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ニルト 又成一種直家悪習夷。一団子出千臨百慕、二成宿直。惟豪傑之 二 一 二 ⋮ ノミ チク シクサン註② 士、乃能脱蓋耳。 このように、虚舟は書美の流れを一応公平に見てはいるものの、 その考え方の根底に於て、 ﹁趙孟頬に代表されるアカデミズムこ そが、書道の方向としてはすぐれていて、宋の墨家や明の董其昌 の自由にして浪漫的な行き方は誤。﹂としている。 ︵戦前の我が 国書壇は、文部省検定試験などの影響もあり、もっと極端にアカ デミズムを尊重していた。︶ スレバ ノ ニ ョリ 又、虚舟は、アカデミズムを尊重する余り、 ﹁童画宋四家、故ニ ルニ
ニ 一 當後来居7上。﹂と言って葉巻頬を宋の四大家の上に置いている。 シニ それにも拘わらず、 ﹁天分に於ては宋の四家に及ばない﹂とか、 ﹁手紙をうまく書けなかった﹂とか、更に又、 ﹁元代の書家はす べて趙を学び、明の書判までその轍を改めなかった﹂などと言っ て、必ずしも趙を全面的にすぐれているとはしていない。続いて ナルハ ヲスルト ナルハ ヲ ス 明の董其昌と比較して、 ﹁工夫粋密子昂爲レ優。天才超妙思白煙レ ル じ ハ モ スト 勝、﹂と同じようなことを言っている。更に﹁思白歯姿態横生、 二 一 レトモメ ノ ラ ニ ル ニ メ ノ ノ ヲ ル フノミ ノ 然究其風力、實愛顧入レ骨。學者不レ求其骨格所レ在、二重跡形 二 一 二 ニ ヲ ナリ ニシテ ナル 貌。所一骨遠野愈下愈俗。﹂とも言う。つまり、虚舟の考え方と 一 二 一 しては、 ﹁宋の四大家や董其昌のような、格を破る書は邪道であ る。﹂という立場を貫かねばならず、従って何とかこじつけてで も趙をすぐれた書家としなければならなかったものであろう。さ りながら、虚舟の鑑賞力を以てすれば、当然、董の筆力は見える 筈で、線質については﹁実に沈勤骨に入る。﹂という最大級の讃辞とならざるを得なかったのである。そして董より後の学書者 が、董の形貌の模倣に終ったとして、 ﹁姿態が立派であればある 程品格が下る。﹂というふうに模倣した者を批難する形を取って ヒ いる。尚虚舟よりや\後の清の朱閑雲は、 ﹁明之季世、人助董思 ニ ニ ヒ ノ ヲ ル ニシテキ ヲ註③ 白、用羊毛弱筆、作軟媚無レ骨細書。﹂と言って筆の採択を誤っ 一 二 一 二 一 たとして庶系書家群をけなしている。 如上の状況下に、風鐸は、董其昌に逼るること三十八年にして 出生する。 ︵董其昌11一五五五−一六三六、王鐸一一五九二i一 六五二︶明末の書家は謡扇環堵の影響を受けるのであるが、それ は、 ﹁格にとらわれない。﹂ ﹁自己を打ち出す。﹂という意味で の影響の受け方なのであって、王虚舟の所謂﹁但其の形貌を襲ふ のみ。﹂というようなものではない。董より後の純理の書は、魔 津雲仙先生の所説の如く、④張瑞薫風のもの、◎王鐸風のもの、 註④ ◎三元瑚的なもの、という三つの系列になるのであるが、いずれ にせよ、各作家が二王を中心とする古帖に学びながら、しかも強 く個性を出して一種のロマンティシズムを現出したということが 言えるのである。 王鐸の書 前記、虚舟も閑雲も、王鐸について全く触れていない。彼等に とって王国は﹁思議より以て今に至るまで﹂の一人に過ぎない し、又﹁董思白に敷ふ﹂一人に過ぎないのであろうが、実はその ようなものではなく、明末筆初を代表する書家であることは、今 日誰もが認める所である。王潜剛の﹁清人書評﹂にも、 ﹁明清の 註⑤ 際の書家中戸も博なるものは傅山と僧号の二人である。﹂と言っ 王鐸の書︵小倉︶ ている。 王鐸の書は、行草に於てその本領を発揮している。王鐸の書を 集めた擬退園帖には楷書や隷書がいくらか入っているが、これは 帖としての一応の体裁を考えて入れたものと思われ、やはり、行 草、殊にかの連綿草に於て、その真価を発揮しているというべき であろう。これについては、松井如回忌は﹁擬山嵐帖などを見る と、隷書や楷書も載っているが、なかなかさわやかなものであ 註⑥ る。﹂と褒めており、ヨ反、単二喫洞稽醤謹の藩ル一頻羅要論書枳ゆり 中で、 ﹁擬山巡帖、本不レ足レ取、民望聯閾入古文鐘鼎、則大謬 註⑦ 三 二 ︸ 。﹂と述べている。両者全く相反する見解であるが、 ﹁もとよ り取るに足らず﹂というのはいささか極端な論であり、やはり、 築隷楷もなかなかのものだが行草にその主体がある。というのが ム ヲ ニテ モ 正当な評価であろう。︵尤も梁同書によれば、 ﹁計量レ聾者、世相 ルハテ ヲルモノヲ ハ ルノミ 亦所レ謂以報深文淺隔也。﹂と手きびしい。更に﹁書禮只有平直 二 一 二 一 ニ リ ン 中正。自レ古無他道。﹂と言っているが、これは虚舟・閑雲とも通 一 二 一 ずる場代一般の考え方のようである。︶ そこで本稿では、王鐸の行草に焦点をしぼって考察を進めて行 きたいと思う。 王鐸行草書の特徴は、これを簡明に言うならば、右に左に揺れ 動きながら、しかも悠楊迫らず、すべてを包含する大人の貫禄を 以て書き進んで行く。ということになろうか、彼の書を見ている と、本当に楽しんで書いている、書作することの中に無上の喜び を感じている。としみじみ思い、芸術家として極めて高い境地に あったことが想像出来る。松井如流氏も、 ﹁王鐸くらい芸に溺れ た人聞は・古今その類が多くないといえないだろう加⑱﹂と述べ 一九
長崎大学教育学部人文科学研究報告 第二六号 ている。一 話が少しそれるが、明末の乱に於て、王鐸が一矢も酬いず清軍 に降伏し、明史編纂に携わるに至ったことについて、とかくの批 難があるが、このことに関しても、松井氏は﹁芸に溺れて自己を 滅却したであろう彼の姿を思い浮べて微笑を禁じ得ないのであ 註⑨ る。﹂と言って大いに弁護している。 尚、王鐸の書が自由奔放、感情の赴くままに書き進むとは言っ ても、全く法を学ばなかったというのでは無論なく、二王を主と する古帖を臨書することに力をそそいでいるもので、むしろ七三 によって三七の一三は蘇ったとさえ言える程で、伏見沖敬氏も ﹁王義之というフェニックスは、王鐸の酷烈な情意の燃え上りに 註⑩ よって、また新しく生き返ったのである。﹂との名言を吐いてい る。明末書家群の中でも、特に王鐸はきびしく古帖を追求したも ので、一日法帖を臨し、一日需めに応ずるという態度を終身変え なかったという話は有名である。王鐸の作品は、自運よりはむし ろ臨書作品の方が多く、特に淳化閣帖を回したものが最も多い。 但、王鐸の臨書は、形似を主とするも.のではなく、古帖を習い込 んだ上、それを自分の書として再構成するというやり方であり、 極めて独創的な臨書である。清の朱閑雲の書学捷要によれば、唐 スルニ ヲ ニ バノ ヲ メテリムルニノ ヲ ソテ の太宗は﹁吾臨古人之書、殊不レ學其形似、務在レ求其氣骨、而形 二 一 二 一 ; 一 ラ ズ 勢自生。﹂と言っている。上田桑鳩氏も﹁臨書することは、鑑賞 註⑪ して得たものを表現することである。﹂と述べており、これ等の 見解は王鐸によっても実行されているといえる。このような努力 の結果、所謂王鐸風の書が出来上るのであるが、以下具体的に王 鐸書を見ていくことにしたい。 二〇 ①外拓か内含か 石橋犀水博士は、書美を形成する原理として、 外拓と内含という対立する二原理を挙げている。 ﹁外拓は言うま でもなく、外への開拓で、構成の拡大、用筆の放縦を意味する。 ぢ な 内含は中への充実で、構成の収敏と運筆の抑制を意味する。﹂と 説明せられている。これを中国書道の流れに当てはめて見ると、 秦漢・初唐の書などは内含の書であり、六朝の書・宋四大家の書 ・明末の年鑑は外郭の書ということになる。砂口の王虚舟は、そ ノ ハ ニ メ ノ ハ の著、論書冊語の中で、 ﹁唐以前書、風骨内敏、宋以後書、精神 ニ ク 外拓。﹂と言ひ、更に、前者は書法にあつく︵淳︶、後者はうす い︵潤︶と言っている。このように、虚舟は、唐以前の書はすべ て内含の書であって、すぐれた書であるとしている。然しこれは、 清代という極端な尊古主義の時代の考え方であって、今は常識的 に石橋博士の所説に従うことにする。 さて、王鐸の書が外回の書であることは、一見して明らかであ る。縦横無尽に大小肥痩の変化をつけ、思い切り左右にゆさぶり ながら感情をぶちまけて行く彼の作口叩が、内含の書であるなどと は到底言えるものではない。 ところが、仔細に観察して行くと、その線質の中に内含の要素 を発見する。例えば、外拓の代表の如く言われる龍門受像記あた りの線質と比較する時、明らかな違いを見る。ところが同じ外野 の書の鄭文公碑と比較する時、非常に以通ったものを感じる。一 見した所では全く別物だが、くり返し臨書していると、その線質 に於て明らかに共通点を見出す。即ち線が重厚で一種のねばりと うねりを持っていること、用筆の面から見ると蔵鋒が多く、従,っ て筆鋒が線の中心を通り、愚筆のある深い線になっていることで ある。そしてそれは象書の用筆法にも通ずる所であり、鄭道昭、
王鐸共に内含の要素を強く持っていると言えることなのである。 如上、王鐸の書は明らかに外回の書である。それにも拘らず、 その三三の中に︼種の三三があり、これが、はなばなしく振り廻 したはでな書風でありながら、その中に大人の貫禄を持つ所以で あろう。 ②執筆法彼の線質を観察すると、筆鋒は線の中央を通ってお り、抑揚の強い、つまり太細の変化に富んだ線で、ゆったりと一 種のねばりを持って運筆されている。かかる線質は、筆は垂直に 管の上部を撮むように持ち、指に力を充実させ、腎は空中に高く 懸ける所の、揆鐙懸腎の法で書かれたものと推論出来る。 ③用具用材 王徳の作品は長條幅でも巻物でも、私の見た限り、 絹本、続本四は綾本の類に書かれている。これは、一一に一種の ねばりを出す要因の一つとなっている。紙本を用いているのは、 尺憤か詩稿の類である。 筆は、木村陽山氏が﹁晩期︵明朝末期の意・筆者註︶の王鐸と もなれば、その連綿風の運筆からは明らかに羊毫によるものが多 註⑱ かったことが看取出来るのである。﹂と言っているように、王鐸 の長條幅が持つ一種のねばりは、羊毛筆によ,るものかもしれな い。ところが﹁贈張抱一詩巻﹂などは、行・草二種あるが、二種 共に遮る程度かたい毛の筆で書いたものと思われる。恩師、廣津 雲仙先生御所蔵の王鐸作品を沢山見せて戴いたが、皆罹る程度か たい毛の筆を用いている。かくて、二身は、新しい流行の羊毛も 好んだが、兼毫筆も多く用いていると推論出来よう。墨について は、我々現代日本の書家から見ると随分濃くすったものだと思わ れる程であり、漆黒としか言いようがない。硯は、彼のぬめるよ うな即位を見ると、鋒芒め細かな名硯、即ち万暦二五年︵一五.九 王鐸の書︵小倉︶ 七、王国の出生に遅るること五年︶以来採掘され出した端渓水巌 石を用いたであろうと想像する。 ④用筆法と運筆法 これについては松井射流氏が﹁彼の行草書の 特色は、筆を紙や続の上に、ぶっつけるように強く落とし、そし て大きく旋廻させるような勢のはげしい進め方をしでいる。少く ともお上品というたぐいのものではない。どこまでも、意地強く み 感情を沸騰させてやまない。﹂と言っているが、確かに起筆は垂 直に構えた筆を垂直のまま紙上に落とす。さながら水滴が落下し たかの如き形状のものが多く、これはむしろ顔法に近い。又垂直 のまま静かに落下して蔵鋒となったものも多い。そして筆鋒が線 の中心を通りながら、なるべく遠廻りをして内部を寛く囲むよう に大きく振り廻す。その振り廻しの過程に於て、筆が鮮かに裏返 っている所があって面白い。松井氏ははげしい進め方と言ってお られるが、それは主として﹁贈張抱一詩巻﹂の用筆法と思われ、 一般的には、ゆるやかにうねるように振り廻したと見える。かく て全体に寛緯な感じが漂う。 ⑤欧字 前條で述べたように、大きく振り廻す運筆の結果、丸く スケールの大きい悠楊迫らざる結体となる。 ⑥運筆の速さ 既に述べて来たように、大まかに見て、ゆるやか な運筆と見る。但、時々、右払い、浮島等に激しい感情の動きを 見せているのが象徴的である。 ⑦章法 一見章法を無視したような書き様であるが、実は、単純 な調和を破・って破調となり、破調を大きく包含してより高次の調 和となる。そのような収め方となっている。 王鐸の作品は、文字の大小・線の太細・墨の三竿等が入り乱れ 二一
長崎大学教育学部人文科学研究報告 第二六号 ているし、又一行も真直ではなく左右に揺れ動いている。これは 書の作品である以上、大なり小なり誰の作品にもあるわけだが、 王鐸の場合これが極端で、一見章法無視の観を呈するのだが、潤 の隣りには渇を、大の隣りには小を、大きく突出した隣りは小さ くへこませるというような工夫が作品全体になされていて、重さ の均衡を得ている。行は左右に揺れ動くが、上の字と下の字との 組み合わせに工夫が凝らされていて、宛然龍の跳るが如く躍動感 を盛り上げ、断じて跡切れることがない。又行間は、広狭さまざ まだが、狭い所は左右の字が軽く細い線で書かれており、広い所 は潤筆で強く書かれている。だから行間は、広狭不揃いであるに も拘わらず一貫している。 このように極端な変化を見せながら、しかも全体が統一されて おり、それが不自然でなく、見事なハーモニーを見せている。 田邊古村氏はその著﹁書について﹂の中で、次のように述べて い6。 ﹁単調を破るといふことは調和を破ることであり、不調和 になることである。一本調子の調和を破って、異質の点画や字形 を加へる。すると不調和になる。しかし不調和はそのままでは済 まされない。必ず調和を求めようとする。それは以前の調和へ戻 ることではなくして、異質を含んだ高次の調和を求めることであ る。戻っては高上にならない。 かくして調和と不調和とは包摂し合って向上進展する。次元の 低い調和より次元の高い不調和の方が美しい。写りに調和が美で あり不調和が美でないとしても、不調和を豊かに含んでいない調 註⑯ 和は退屈させる。﹂と。 正に卓見と言うべきであり、王鐸の書は不調和を豊かに含んだ 高次の調和の極致を示すものと言えよう。 結 二二 如上、王鐸について考察を進めて来たが、最後の田辺氏の言の 如く、調和と不調和とは包摂し合って向上進展するものであり、 人智が進む程、不調和に支えられた高度の調和が求められる筈で ある。この意味に於ても、王鐸の書が、現代書壇に強い示唆を与 えつつあり、又高く評価されつつあることは当然のことであろう。 そしてそれは、明末、董其昌・王鐸の一派が、格にはまった趙孟 頬・文肩明の一派にあきたりなくなった最大の理由でもある。趙 ・文らはあまりにも調和のみを重視し過ぎた。そして戦前の日本 の書壇も。 今一つ、王鐸の書が我が国書壇に影響を及ぼした原因として考 えられることは、前記松井氏の言の如く、明末、書道そのものが 唯美的傾向を帯びて来たことで、作品として壁に掛けて鑑賞する ことが盛に行われ始めた。車幅という作品形式が生じ、王鐸は独 特の章法からなる長点幅を沢山書き、感情を強烈にぶちまけた。 これが展覧会作品の制作に大きく影響した所以である。 かかる意味に於て、王鐸を追求する書家は跡を断たないであろ う。しかし吾々は、浅沓から強く示唆を受けつつも、これの形貌 の模倣に終ってはなるまい。王鐸が董情心から強く示唆を受けつ つも、強く自己を打ち出したその精神を学ばなければならない。 註① 書跡名品叢刊 明王鐸詩巻 二三社 ② ③ ④ ⑤ ⑥ 和刻本集成 三 汲古書院 〃 〃 〃 墨滴 昭五一年一一月号 松丸東魚 王単行書冊 寒紅社 書跡名品叢刊
⑦ ⑧ ⑨ ⑩ ⑪ ⑫ ⑬ ⑭ ⑮ ⑯ 楊家酪主編 巾國學術名著第五輯 近代中国の書 二玄社 ! ノ ! ! 書の歴史・中国篇 二玄社 臨書新研究 教育図書研究会 新書道概論 日本習字普及協会 筆大学堂書店 〃 〃 書跡名品叢刊 書について 日本習字普及協会 芸術叢編第一集第四冊 王鐸の書︵小倉︶ 二三
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