• 検索結果がありません。

<研究論文>表記形式と普遍性 : 「文字圏の文明史」から見た現代日本

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "<研究論文>表記形式と普遍性 : 「文字圏の文明史」から見た現代日本"

Copied!
51
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

This document is downloaded at: 2016-12-21T12:00:34Z Title <研究論文>表記形式と普遍性 : 「文字圏の文明史」から見た現代日 Author(s) 鹿島, 英一 Citation 長崎大学外国人留学生指導センター紀要. vol.4, p.1-50; 1996 Issue Date 1996-03-25 URL http://hdl.handle.net/10069/5481 Right http://naosite.lb.nagasaki-u.ac.jp

(2)

表記形式 と普遍性

o)

文字圏の文明史

か ら見た現代 日本

-鹿

1.は じめに

2

.古今東西の諸例

2.1

古代 メソポタミア (横形文字圏)

2

.2

古代エジプ ト文化圏

2

.3

東地中海周辺

2

.4

フェニキア系諸文字の地域

2.5

ギ リシャ文字文化圏

2

.6

アラム文字文化圏

2

.7

アラビア文字文化圏

2

.8

イ ン ド文字文化圏

2

.9

東 アジア文字圏

2.

1

0

その他の文字 3.世界帝国 と公用文字

4

.結 1.は じめに 「日本語の漢字は (文字 としては)おか しい (-strange)

とか 「日本語 の表記法 は杏妙 だ (-abnorma

l

)

という話 を耳 に した ことがある。主 に、 非漢字圏の人か らである。 だが、自分が長い間慣れ親 しんだ ものについて、 そ う言われることは気持 ちのいい ものではない。 自分が事実上それ しか知 ら なければ不安 になる し、批判者が 日本語の読み書 きに堪能でなければ強い反 発 を覚 え、時には自らの学習能力の無 さを誤魔化す単なる照れ隠 しか とさえ 思 う。 だが、これは別に日本語の表記法 についてだけ言 えることではな く、 馴れ親 しんだ技術や習慣への愛着が持つ無批判的な標準化の危険性の一例 に 過 ぎない とい う気がする。 筆者 は仕事柄時折、外国人学習者の批判 に対 して

(3)

殆 ど同 じ論法で反撃を試みるが、彼 らの投げるブーメラン自体の優秀性のた めであろう、大抵 は気分悪そ うにして話題 を替えるか らである。 勿論、原因の細部は人によって異なる し、具体的な論点や指摘する現象 も 必ず しも同 じでないが、要は 「発音が (文字中に)明記 されていない上 に、 読みが沢山ある。」 ことや 「漢字、ひらがな、カタカナ とい う3種類 の文字 を混用する。」 ことが原因 らしい。ただ、(表面上は)それは往 々に して、英 語や他の西欧語 との (暗黙の)対照 しか念頭 に無いような発言の形を採るが、 実際には半ば意識的に目を背けている自らに最 も馴染みのある初等教育など での教育言語や同 じ文字文化圏に属す近隣地域の諸言語の表記法や文字体系 が背景 にある場合が少な くないように思われる。 筆者 は以前か ら、世界各地の文字をほぼ同 じ基準の下に纏めて取 り扱 うこ とも肝要だ と考えていた1)。要するに、「必ず しも視点の同 じで ない、分野 別の詳細 な記述の寄せ集め」ではない 「文字圏の文明史」 を、一個人が書 こ うとす ることで初めて見えて くるものに期待 していた。それを実行 してみた のが本稿である。尚、[ ]内は特 に明記の無い限 り、文字 (字形) とする。

2

.古今東西の諸例 2.1古代 メソポタミア (横形文字圏) シュメール ・アツカ ド文明圏 という青葉に象徴 される様に、シュメール語 と表裏一体の関係で生 まれた とされる絵的文字は、紀元前三千年期の後半に は襖の形 をした有向直線の組合せの形 となってほぼ固定 し、アツカ ド帝国の 勢力拡張などにともなってティグリス とユーフラテスの中 ・下流域の沼沢地 か ら西北方のアナ トリアの高地の様な粘土板の材料の豊富でない土地や東方 のエラムの様 な固有の文字を持つ所にまで も広がっていった。表記 された言 語 も多彩で、字形 も時 と所 によって異なるが、後代 に主流が本来の中心地に 近いバ ビロニア系の書体 と上流域のアッシリア系の書体 に分れた点を除けば、 割 に統一が取れているとも言える。 この地域の後代の主流 となったア ツカ ド 語などのセム系の諸言語は、シュメール語 と言語構造が違 うために、一つの シュメール語の文字が音標音節文字 として も表意文字 (多音節読み)として も使われた。つ まりは、限定符 と呼ばれる数十字の一群 を除けば、音 ・訓両 読併用の万葉仮名式漠字による日本文 と基本的には同 じとい うわけである。 無論、音節文字 も表意文字 も読みは基本的に複数である。

(4)

長崎大学外 国人留学生指導 セ ンター紀要 第

4

号 研究論文編

1

9

9

6

3

他 に、外見の類似 した ものに、古代ペルシャ文字 とウガリッ ト文字 と呼ば れる

2

文字がある。アッシリアの文字が使用頻度の高い文字だけで数百ある のに対 し、前者 は語間境界符号や王名 ・神名の表意文字 を入れて も

5

0

字 に満 たず、後者 は音標文字ばか りで皆で

3

0

字ほどである。その上、両者 とも字形 の構成法や子音が単音 を表す ことな ど、本来の横形文字 とは相当に異なる。 その内、曾て裸形文字が隆盛 を極めた地域の世界帝国であるハカーマニシュ (アカイメネ-ス)朝の、アラム語文 と並ぶ公用文の古代 ペ ル シャ文字 は、 [鞘 ]2)とい う基本の

5

方向は守っていた し、機能 も (時 には単独 の子音 を 表す とは言 え)基本的には、現代 ヒンデ ィー文の語末の字 と似 た程度 には音 節的であった。 これに対 し、地域の西端の地中海岸のラース ・シャムラで、曾ての王宮跡 か ら初めて出土 したウガリッ ト文字 はハー ド面でのメソポタミア要素 とソフ ト面での非メソポタミア要素 を併せ持 った折衷様式であると言 える。 即 ち、 粘土板 に今 日の我々 とほぼ同 じように して持 ったペ ンで模形の窪み をつけ、 太陽光で乾か して完成す るのだが

、[

A]

の様 な左右対称 と見倣 せ る字形 を

3

0%

も持つ こと3)や文字の機能がその並 びを含 めてアリフ ・ベ ト (アルフ ァ ベ ッ ト)の系統であるといった特徴 を持つのである。 ところで、この両者は我々の現実感覚 として、 どの ぐらい違 うのであろう か。平仮名 とカタカナの程度なのか、仮名 とローマ字程度なのか。そこで、 我々に身近 な東 アジアの文字に沿えば、凡そ次のように要約 される。即 ち、 本来の横形文字 を漢字に対応 させた場合、古代ペルシャ文字は女真文字 に、 ウガリッ ト文字 は日本の平仮名 にほぼ当たる。 とい うの も、女真文字の漢字 に対する字形上の近 さは相当な もの と見 える のに対 し、平仮名の場合 はその結果 における字形の速 さに加 えて、並びを含 む文字の機能はシッダマー トリカー (悉曇)文字か何かの北 イン ド系の文字 の系統 にあると見 られるか らである。 無論、いわゆる襖 の形 にほほ近い古代 ペルシャの書体が文明発祥の地 に近いバ ビロニア系の晩期の書体 に連なって いる とい う事情 もこの観点 を支持す る。ただ、通常、アルファベ ッ トは単音 文字だ と言 われてお り、この点が気 になる。 だが、ウガリッ ト文字の様 に、 セム語 を表記す る限 りは、子音文字 と見 るか後続す る母音 を含めた音節文字 と見 るかは単なる立場の違いに過 ぎないため、ここでは素通 りす ることがで きる。

(5)

2

.

2

古代エジプ ト文化圏 ナイル河の下流域約

1

0

0

0km

程、最後の湊布

(

c

a

t

a

r

a

c

t

)

が終わった辺 り である。 地形、気候、史的経緯か ら上エジプ トと下エジプ トに分かれるが、 下エジプ トを主産地 とするパ ピルスか らはその繊維 を用いてパ ピルス紙 をつ くり、上エジプ トでは石 を、特 に最後の湊布直下にあるアスワン付近では、 碑文用 の良質の花尚岩 を多量 に産出 した。 これは 「中王国」や 「新王 国」4) の時代 の都 テ-ベのす ぐ近 くである。 大型の石の碑文 には絵柄のはっきりしたヒエ ログリフ (聖刻文字)書体が 用い られ、逆の個人用文書 にはパ ピルス紙 に筆記体 にあたる絵柄の少 し崩れ た ヒエ ラティツク (神官文字)書体が用い られた。文学 などは、量が多 く、 石 に刻 むのは無理なので、パ ピルスの巻紙 と先 を潰 した葦のペ ンで善 くのに 適 した特別な字体が後か ら発達普及 したのであろう。 新王国時代 も終わ り、 ギ リシャ人がアレキサ ン ドリア ・コプ トスか ら命令 を発する頃には、 ヒエ ロ グリフの原形 を留めない抽象的な符号 に変わったデモ-ティツクとい う書体 (民衆書体)が広 く用い られるようになっていた。やは りそれ も、パ ピルス の茎 を削いだ ものを、ナイルの毎年の氾濫時 に川の水が含む豚のような物質 で、張合わせて造った紙状の特産品かつ戦略物質に主に書 かれたが、 (旧来 の神官書体が忘却の淵に近づいていたためか)有名 な 「ロゼ ッタ石」5)の様 に時 には石碑 にも使われた。 また、インクには粉絵具か、煤か良質の木炭の粉 に水 と豚 を混ぜてつ くっ たイ ンクを用い、インク壷 に入れてお き、硯 かパ レッ トに移 してか ら使い、 アラバスター (雪花石膏)、木材、象牙、ス レー トなどでで きた硯 の類 いの 用具 などもあった と言 う。紙 とパ ピルス (舵 )とい う書写材料の類似性から、 東 アジアの我々には納得 しやすい。 しか も、 自分で墨 をす らずに墨汁のまま で買 って きて使 う現行の主流方式 に近い。無論、書記 はその筆や硯や墨汁 を 使 ってパ ピルス紙 にヒエラティツクかデモ-ティツク書体で書いたのであろ う 。 ここで、紙 とパ ピルス紙 との類似 を軸 に、更に東 アジアとの類推 を押 し進 めると用途 を含めて聖刻文字 と対応するのは甲骨文字や金石文の字体であろ う。 すると、神官の常用字体 には萩の普及 に伴 って漠代以降に広 まっていっ た隷書が、また非神官層 にも使用者 を獲得 した後代の走行体風の民衆書体 に は (槽書 ・行書 ・草書の中の)行書か草書が対応 しよう。 その際、エジプ ト

(6)

長崎大学外 国人留学生指導セ ンター紀要 第4号 研究論文編 1996年 5 では聖刻文字 と神官文字の使用時期 にかな り重 な りがあるようで、その点は 束アジアと必ず しも同 じでない。 ただ、それは ともか く、エジプ トでは槽書 に当たる ものが成立 しなかったためであろう、結局 この地の文字はエジプ ト 起源の字形 を幾 らか加 えただけのギ リシャ文字 とも言 える折衷様式のコプ ト 文字 に取 って替 わ られて しまった。無論、その善 し悪 しを論ず ることはそ う 簡単ではない。だが、漢字の字形や用法の複雑 さに加 えて、旧仮名遣い文 と 口語 との大 きな解離 を放置 しておいたために、第二次大戦後 に日本語 もロー マ字 との間で似 た経験 をしかかったことは記憶 に新 しい。 ところで、これ と似た文字は古代エジプ ト世界か らナイル河 に沿 って港市 を幾つか遡 った地域 にもあった。古代ヌ ビア文字、メロエ (クシュ)文字な どがそれである。ただ、大半が表意 (表語)文字の上、膨大 な字数 を数 える ヒエ ログリフと違い、これ らは基本的に表音文字だけか らなるコプ ト文字式 である。 その内、字形 はヌビアの文字が コプ 下風だが、メロエ文字 はヒエロ グリフの単子音文字風であ り6)、ギ リシャ文字の原理 とエジプ ト固有 の字形 の折衷様式 とい う意味で先に見たウガリッ ト文字 を思わせる。 2.3東地中海周辺 この地域 には粘土板文書の形体が広 く普及 し、(宝 )石 な どの印章 7)と並 んで主流 をなす。また、一部地域は地理的に裸形文字圏 と重 なっているが、 これは東端部に当たるカッパ ドキア (アナ トリア東部)に新古の両ハ ツティ 帝国の中心部があったためである。 また、域内のあちこちに散在す る文字は 互いに何 とな く似ている。つ ま り、外観か らは絵文字 と線文字 に大別で き、 日本の仮名の様 な開音節< (子音 +)母音 >文字が基本である点が共通 して いる。 だが、大抵 は素性 もはっきりせず、名称 も出土地名 などを冠 した暫定 形式である。当然、未解読な部分が少な くないため詳細 は未だはっきりして いない。 この内、代表的なのは線文字A、線文字B8)、絵文字A、絵文字Bの四種 のクレタ-ミュケーナイ文字で、粘土板文書の様式 はメソポ タミアの もの と 幾 らか違 う。一方、キプロス文字は字形がクレタ-ミュケーナイの線文字 と かな り似 ていて、中心 をなすギ リシャ語方言の ものは解読 されてい る9)。 解 読字 ・未解読字 ともに碑文に使 われ、解読の方は硬貨 に も使 われている点で 小 アジア、アナ トリアの もの と類似する。 キプロス島には、他 に解読 ・未解

(7)

読の両者の共通の祖先の可能性のある別の文字 も発見 されている。文字数な どの面 も含めて両者 は日本の仮名 によく似た原理であるため、その文は英語 やマ レー語などの語嚢 を湊字表記10)した漢語 ・華語文 の様相 を呈 していて、 後代の我々には元の音が復元 しに くい。 次 に、キプロス島か ら東南寄 りに海を渡ると、古代都市グプラ (ギ リシャ 語名 :ビブロス11)に着 くが、そこには青銅板 と石柱 に記 されたグブラ文字が ある。一応、音節文字 らしいが、母音音価が はっ き りせず、確 かな ことは 不明であるという。そこから、北東方面 に向かった北 シリアや南 アナ トリア には、ハ ツティ新帝国崩壊後の紀元前一千年期の初期までハ ツティ人12)が使っ ていた絵文字 (別名 :アナ トリア聖刻文字)がある。主に石の碑文や印章 に 刻 まれたこの文字は、基本的には模形文字ハ ツティ語文 と併用 されたようだ が13)、使用が長期間かつ広範囲にわたったのはこの文字の方である. 尚、 この文字では音節文字 は趣 く一部 に過 ぎない ようで、 (音節文字の原理が 日本の仮名風開音節である点 を除けば)ちょうどエジプ トの ヒエログリフの 様相 を呈 している。 2.4 フェニキア系譜文字の地域 アルアベ ッTJ 4)と通称 される、古代セム人が使 ったこの有名な文字の成立 は、明 らかに周囲の先進文化圏の影響 を受 けているに も拘 らず、必ず しも 明 らかでない15)。尤 も、イン ドのブラーフミ一系音節文字の様 に、程度の違 いこそあれ、少な くない文字が厳密に言えばそうである。 故地か ら移動 して シリアに位置 を占めた西セム人の内、アラム人は主に隊商を組んで陸路で、 カナ-ン人の一派であるフェニキア人は天然の良港 を拠点に して、それぞれ アジア、アフリカ、 ヨーロッパに跨がる商人 として活躍 した。彼 らはエジプ トやメソポタミアの諸帝国の文字 を利用することもあったが、 目的が実用つ まり効率 とい うことであったので複雑 さを回避する文字の普及に貢献 した。 また、それは結果 として、後のハカーマニシュ帝国におけるアラム文字の、 またアレクサ ン ドロス以後の世界 におけるギ リシャ文字の隆盛 を招来 した。 ただ、実際にはアラム文字 とギリシャ文字の進んだ方向はほほ逆であった。 即ち、アラム文字がイラン系 を始めとする非セム系諸言語に仲間を取 り替え なが ら (時には字形 も変えて)東へ向かったのに対 し、ギリシャ文字はほぼ 同 じ過程 を経つつアラビア文字に追われて結局は西に向かった16)。 そ して、

(8)

長崎大学外 国人留学生指導 セ ンター紀要 第4号 研 究論文編 1996年 7 それは二千年余 り後の

2

0

世紀 になって、地球 を一周 した後、東アジアで再び 衝突 を開始 した。即 ち、広義のアラム系文字の内、蒙古文字 は外モ ンゴルで ギ リシャ系 のキ リール文字 によって一旦 は廃字 にされた し、満州文字 はギ リ シャ系 に属す ラテン文字 によって国家 もろとも廃品にされた。だが、この両 系の文字は漢字 を潰す ことはで きず、結局の ところ、フェニキア系の文字は 世界制覇に失敗 した17)。 話 を戻そ う。 さて、母音価 を表記 しないため、一種の音節文字 とも言 える この種の単子音文字は、文字数

2

0

余のフェニキア文字、パ レスティナ文字、 アラム文字などの北西セム文字 と、文字数30ほどの南 アラビア18)の碑文文字 に大別 されるが、いずれ も紀元前一千年期以降に盛 えた。無論、ハ ツテ ィの 絵文字 とも時代的に重なってお り、実際に現在の東南 トルコか らはフェニキ ア文字 とハ ツティ絵文字の対訳形式文付 きの像 も出ている。 ところで、この種 の文字の盛衰 にはいろんなことが関係 している。その内 の一つはキ リス ト教及び同種の宗教 の伝播が諸文字の広汎な普及の加速装置 の役割 を果た したことである。 例えば、ヘブライ文字はユ ダヤ教諸文書 に、 またシリア文字は対応す るキ リス ト教文書 によって主に広がっていった し、 ゾロアス ター教聖典や北東アフリカのキリス ト教はパフラビ- (中世ペルシャ 請)文字やギリシャ系文字で文字化 された。 もしここにアラビア文字 も含め れば、そのコーランとの関係か ら、それは一層明 らかである19)。 二つ 目は、この地域では母音の表記の必要性の比較的低いセム系の言語が 支配的であったことである。 従 って、セム語 との関係が切れた場合 に、いろ んな事態が発生 したのは当然であった。例 えば、ギ リシャ文字に変 わる過程 では独立の母音文字が出現 した し、元来がフェニキア文字の走行体 とも言 え るアラム文字はイラン系言語の表記用 になって時代が下 るに従い、一層判読 が困難 にな り、本来の用途に遠 さな くなっていった。尤 も、セム系譜の聖典 で も時代が下 るのに伴 って、母音符号 を考案する必要に迫 られたか ら、或 る 程度 は割引 して観 る必要はあろう。 ところで、フェニキア文字の一部はエジプ ト産のパ ピルス紙、羊 ・小牛の 皮紙 にイ ンク (液体 )で記録す るのに適 した流線型風の字体 をしているが、 同時 にそれはこの種の書写材料が以前 よ り大量 に出回 り始めたことも意味 し ている。事実その後のオリエ ン ト世界の主流 になった。実際、ベルセポ リス を陥落 させたアレクサ ン ドロス軍は宮殿 の文書庫か ら粘土板文書 と並んで多

(9)

量の皮紙文書 を発見 しているが、それは耗製の本 と共に半導体や磁性体 など で作 った記憶素子 に書 き込 まれた本が先進国の国立中央図書館 に詰 まってい る現在 と似た状況 を思わせる。ついでに言えば、当時小 アジアのイオニアで も、パ ピルス紙 を含めて、書写材料のことを操 した 「皮」 と総称 していた と 言 う。 ち ょうど我々が 「舵でない もの」 を、パ ピルス紙、羊皮紙 と呼び、東 アジア出身の 「紙」 に破れて遥か久 しい地域の人々が愛着 を以て依然 として 「パ ピルス」 (英語 :paper, ドイツ語 :papier, な ど) と呼 び続 けてい る 態度 に似ている。 そ して、この観点は更に、ヘブライ文字やギ リシャ文字が直線 を組み合 わ せた角張った字体 をその後 も保 ったのは、逆 に言えばパ ピルス紙 などが入手 しに くい辺境で主 に使われたため とい うことを示唆する。ただ、ギ リシャ文 字はパ ピルス紙や皮耗 に適 したオリエ ン トのアラム文字の世界 を後に受け継 いだわけだか ら、その時には既 にギ リシャ文字での古典が確立 していた とい う事情 もあったのであろう。 尚、ギ リシャ文字 とアラム文字はギ リシャ語や アラム語 と解離 して独立の文字圏の親字 になった後半生 をもつか ら、本稿で はアラビア文字 と並ぶ独立の項 目を立てた。 2.5ギ リシャ文字文化園 ヘブライ式の文字名称 を持ち、フェニキアの形 をした碑文用のこの文字が 借用であることをギ リシャ人は意識 していた と言 う。 日本人による漢字ほど ではないが、彼 らもまた用法 を少 し変えた。要は、セム語で も実際上用いて いた半母音 ([Ⅰ] と

[

T]

)と喉音

(

[

A]

)用の字 を母音字に転用す る便法 に、喉青文字 を二つ ([E]と [0])加 えて、正式 に踏み切 ったのである。 漢字の元来の音 と朝鮮、 日本、越南の音の差異 に当たる現象が [Z] [≡] などに関 してあった。 そ して、この文字は

、1

9

世紀か ら

2

0

世紀にかけてラテン文字が世界に広がっ た様 に、紀元前一千年期前期の短時にエ ーゲ海周辺 に広が った。 それ は、 結果 として、 リュキアや リュ-デイアなどの非ギリシャ語地域の小 アジア型 と東西のギ リシャ型の三つに分かれて落ち着いた。その内、西ギ リシャ型は 小 アジア起源説のあるエ トル リア人の文字 を媒介 にして、後にイタリア半島 の諸民族の間に広がった。無論、ローマの文字 もその一つで、現代世界の主 流の文字である。 また、アレクサ ン ドロス後のオリエ ン ト (ヘ レニズム)世

(10)

長崎大学外 国人留学生指導セ ンター紀要 第4号 研究論文編 1996年 9 界 に共通語であるギ リシャ語 (コイネ-)を運 んだ標準形文字は、文化優位 を誇 った東 イオニアの東部型の文字であった。無論、他の二種類のギ リシャ 文字 を駆逐 していったはずである。だが、実際には駆逐 されていなかった。 とい うのは、数百年後に建国された地中海の海洋世界帝国、ローマの首都の 街角の言葉 は西部型 に連 なるローマ字で書かれていたか らである。 では、東型は どうなったのか。勿論、暫 らくはどうなったわけで もなかっ た。だが、 ビザ ンツ帝国に取 って替 わったオスマ ン帝国が崩壊 した後は、そ のあ まり重要でない破片 を集めて造 った小国 (現在のギ リシャ) しか この文 字 を使 う国がな くなって しまって、今では昔の面影は全 くない。い くらフェ ニキア文字 を受け継 ぎ、ラテ ン文字 とキ リール文字 を大勢力 として後代 に残 した功績 は大 きい と言って も淋 しいことは否めない。余談だが、現在 は隆盛 を誇 る英語 と英文 もいずれはこうなるのであろう。 ところで、ラテン文字の媒介 となったエ トルリア文字などはどうなったの だろうか。少な くとも、ローマ帝国の西半分の滅亡 までは保存 されていた と い う。原因は割 に単純で、 ヨーロッパの中世の写字生は (稀 に模写するギ リ シャ字写本 を除けば)原則 としてラテン語以外の ものを無視 したからである。 これは、要するに自分の属する社会や文明圏の教養 (先祖の遺産)とは関係 がない と観 る、ある種の知的無関心か ら出てい る。 それは、基本 的 には、 現代 のアラブ ・エジプ ト人が コプ ト文字や ヒエログリフの印 された古い神殿 に接する時の態度 と同 じであ り、イスラエル人が古いヘブライ語の諸文書や (余所者の筆者 には時 にそ う見 えるが )魔境 に対 す る振舞 い とは明 らか に 異質の ものである。ただ、これには、ビザ ンツ帝国の (中世 )ギ リシャ語や グブタ朝のサ ンスクリッ トに見 られた、比較的積極的な別の要素 も指摘 で き る。 つ ま り、実用にな り得 る幾つかの候補の中か らどれかを選ぼうとすれば、 残 りは徹底的ない し意図的に排斥せ ざるを得 ないのである。無論、例は他 に もある。 政治面でマウリア朝マガダ国を再興 した感のあるグブタ朝は、仏教 の開祖 となったブッダの頃 (七百年以上前)には既 にプラークリッ ト諸語に 主導権が移 っていた とい う現実 を重視 しないで、帝国の公用語 に兆 しの見 え るサ ンスクリッ トを復活 させ る決心 をし、その 「人工言語」の使用 を推進 し た し、東 アジア大陸で も 「文言」20)は長期 に亙 って持 ち堪 えた。 次 に、 この文字のエジプ ト方面への進出を見 よう。東地中海の制海権 は、 「海の民」 とエジプ トで呼ばれ、同時に東地中海沿岸やハ ツテ ィ帝 国 に も襲

(11)

いかかった海賊達 によって握 られた一時期 を挟んで、クレタ人か らフェニキ ア人に移 った。彼 らは、地中海のライバル、ギリシャ人 と同 じく統一国家は 造 らず、やがてアッシリア帝国、続いてメディア ・ペルシャ帝国の支配下に 入った後 も、その帝国海軍 として後発のギ リシャ人 と争っていた。顕著な例 はペルシャ-ギリシャ戦争である。ギ リシャ人はフェニキア人か ら受け継い だ文字 を商業等の実用だけでな く、文学や哲学の表記に転用 し、それを伴 っ てサイス朝時代か らヘ レネ-ス (ギリシャ人)の租界地の様相 を呈 していた アレキサ ン ドリアを足掛か りにしてエジプ トに乗 り込んでいった。だが、広 範囲に広がったのは主 としてキリス ト教文書の表記 に使われたか らである。 一方、フェニキア人の大商人達の文字は、結局はギ リシャ文字に取って替わ られた。「廟 を貸 して、母屋 を取 られた。」のには、都市国家内で特権階級 を 構成 して秘密主義の寡頭政治 をしていたために、その行政や商業の文書量の 外、その利用者 自体 もあまり多 くなかったことも関係がある。 少 し具体的に見てみよう。 オリエ ン ト世界か らアラム文字 と横形文字を駆 逐 したギリシャ文字は、エジプ トでは先祖 に当るか もしれないヒエログリフ か ら一部を取 って加 えて変身 し、コプ ト (エジプ ト)文字 という名で、既 に 古語の表記 を専 らとしていたヒエ ログ リフ系 の民衆書体 に止 め を刺 した。 キリス ト教 をオシリス崇拝 と重ねて理解する農民には、民衆書体で表記 され た古語など理解できず、話言葉に文字 を与える必要があったのである。それ はち ょうど、旧仮名遣いの漢字仮名混清文の世界であった日本に、ローマ字 書 きの口語文が強い位置 を占めたような状況に当たろう。ただ、第二汰大戦 後の日本では仮名遣いの改革を実施 して対抗 した上、ローマ字 日本文は心の 空白を埋めるものを必ず しも持ち込まなかった点が異なる。 その後、 この文 字の前線は南 に向かって拡大 した。既に見た様 に、ヌビアやメロエの方 まで 影響が及んだが、更に南のアビシニアまでは届かなかったようである。 とい うの も、単性論のキリス ト教 は南進 を続けたにも拘 らず、その地の諸文字は イン ド大陸を思わせる音節文字 しか知 られていないか らである。 ところで

、2

0

世紀末の現代世界の主流であるラテ ン系文字は西ギリシャ型 文字の系列に連なっていた。では、ギリシャ系の文字には他 にどんな ものが あるのだろうか.ビザ ンツか らロシアを経由 してユーラシアを横断 し、ラテ ン文字にあまり見劣 りしない数の言語の表記に使われ始めたキリール文字が 先ず思い浮かぶ。また、コンスタンチノープルか らさほど速 くない所では、

(12)

長 崎大学外 国人留 学生指導 セ ンター紀要 第4号 研 究論文編 1996年 11 山岳地帯 にはカフカス ・アルバニア文字 を含 むアルメニア文字や グルジア文 字が、 またハ ンガ リアにはギ リシャ文字や グラゴール文字の一部の字形 を借 りた文字がある。 この外、 ヨーロッパ北部のルーネ文字、古 いアイルラン ド 語の文字、結局 はキ リール系文字 に取 って替 わ られたグラゴール文字な ども ある。 2.6アラム文字文化 圏 ギ リシャ人がペ ルシャ帝国 と争 った ように、アラム人 はア ッシリア帝国 と 争い、その盛衰 に深 く関わった。彼 らもまた都市国家 を成 して同族相食み、 統一帝国は造 らなかった。 些か、現在 までの ヨーロ ッパ (西欧キ リス ト教世 罪 )を連想 させ る趣 きである。 また、紀元前

8

世紀未 にア ッシ リアに最後 の 独立 を奪 われて以来の強制移住政策 も、結果的にはアラム語 とアラム文字の 勢力拡大 を助長す る効果 を生 むことになったた め もあって、 ア ッシ リア語 (ア ツカ ド語 ) と並ぶ帝国の公用語、外交語、商用語 として、次 第 にメ ソポ タミア一帯の文明の正統 な継承者の地位 を得てい った21)Oまた、ハ カーマ ニ シュ帝国時代 には、首都 を含 む東方辺境部は古代ペルシャ語 と新形式の裸形 文字 に任せ て、アラム語は西方の旧来の文化的な中心地の実際上の公用語 の 地位 を保 った。それはち ょうどギ リシャ語 コイネ-が帝国の首都 のある辺境 部 はラテ ン語 に任せて、旧来の文化の中心地の公用語 となったのに対応 して い る。程度の差 を除けば、類例 はモ ンゴル帝国の近代ペ ルシャ語 と蒙古語 、 清朝の漢語 と満州語 な どの様 に、身近 な所 に もある。 ところで、 この二重公用文字制度 に移行 した背景だが、多分それは海上で 力 を持つに至 った フェニキア人 との媛衝勢力 として、また帝国の地理的拡大 に伴 って増加 した と思 われる煩玲 な横形文字 に好意的でない勢力の台頭 に対 応す る もの としてのアラム文字の持つ潜在的な能力のせいではなか ろうか。 この観点は、アラム文字の実態が フェニキア文字の走行体 (草書体 )に過 ぎ ない程度の ものであることとよく符合す る。 さて、 この様 な事情で、アラム文字 は親 に当るフェニキア文字 を実用か ら 追い出 した後、結局は自身 もギ リシャ文字 に追われる羽 目に陥った。だが、 元来の基盤が比較的脆弱だった帝国東部では、却 って長持 ちす る ところ とな り、中世のパ ルテ ィア語 、ペ ルシャ語 (パ フラビ-)、 ソグ ド語 等 の イ ラ ン 語 にアラム文字 を しっか り渡す までは公用語 の位置 を保 った。だが、イラン

(13)

諸語 とのカップリングにおいて母音 を表記す るシステムの確立に失敗 したた めに、結局 この地では文字 として成功 しなかった。 また、帝国はインダス河 流域 にも進出 していたか ら、その方面に も痕跡 を残 した。即 ち、北 イン ドの カロシュティー文字の母胎 とな り、皮肉にもヘ レニズムの進行す る北 イン ド とイラン諸族の地である中央 アジアで長 く使用 された。一方、アラム文字 自 体 もアシ ヨーカ王碑文などでアラム語やアールヤ諸語の表記 に使 われたが、 アラム-ブラーフミ一所衷方式のカロシュティー文字 と共に、イ ン ド大陸の 言語 をうまく表す競争 において、結局はブラーフミ一系文字 に破 れた。 ここ の言語 も北方は母音の重要な印欧語だったのである。 これに対 し、帝国東部 に基盤 を持 った古代ペルシャ語文の方は どうなった のだろうか。実はこの文字 も単音文字化 はかな り進んでいたが、歴史の浅 さ に加 え、誤読 しやすい文字体系 を持 っていたためか22)、結局生 き残 れ なか っ た。 だが、何れにしろ、 この時点でアラム文字はアラム語 と運命をほぼ分かっ た。その後の状況は、例 えて言 えば、漢字が藻族 の言語 を離 れて、 日本 や 朝鮮やベ トナムを始め とする周辺地域の言語 とだけ運命 を伴 にす るような、 我々にはなかなか実感 を以て理解 し難い ものである。 だが、 とにか くアラム 文字 は形 を変 えつつ生 き延びたのである。 アラム文字の後期 の拠点 となったイラン諸語 との関係 をもう少 し見 よう。 イラン詩語の北方諸族中の東方のマ ッサゲタイ (ギリシャの呼称 )の後商の 一つがソグ ド人で、植民都市 を各地 に持つ商人 として活躍 していたために、

7-8

世紀頃にはソグ ド語は中央 アジアの国際語の地位 に登 っていた。 では、南方系 はどうだろうか。地域 も年代 も雑多な集成のアヴェス ター聖 典の言語、アルシャツク朝 (安息)の中世パルティア語、サーサーン朝の中 世ペルシャ語 など、アラム文字で書かれた ものは皆 この中に入るか ら文字 を 含む文明の担い手 としてはこちらの方が中心である23)。 この内、量 的 に最 も 比重がかかっているのは中世ペルシャ語であろう。 とい うの も、それはアル シャツク朝の遺産 を継東 しているか らである。サーサー ン朝初期の諸王の碑 文などは両言語併記 の ものが多い と言 う。尚、中世パルティア語の文書 には 東 トルキス タンの トルファンか ら出たマニ教文献が少な くない らしいが、そ こにはバルサ ワ (現 ホラサー ン) とい う王朝の故地の地理的影響 を見 ること がで きるか もしれない。 さて、イ ン ドのヴェ-ダ聖典は周知の様 に、ブラーフミ一系文字で文字化

(14)

長崎大学外 国人留学生指導セ ンター紀要 第4号 研究論文編 1996年 13 されているが、 この文字 とゾロアス ター教のアヴェスター聖典の関係 もほぼ 同 じであ り、そのためにこの文字はマニ教やマズダグ教等のペルシャ語文書 に必須の地位 を得た。だが、同時にそれに伴 って生れる外部か らのお節介 に 煩 わされるのは嫌 ったようである。例えば、教祖マ一二一の始めた外来要素 との折衷式の宗教 は、広報活動の面で も世界宗教 になる要件 を備 えていて、 話言葉 を文字化 した り、その伝達手段である文字の改革 に熱心であったが、 マニ教のイラン文化圏か らの撤退に伴 って、その寿命 を終えた。要するに、 母胎 のゾロアス ター教文書 を抱 えるパ フラビ-側は、欠陥を直 して生 き延び ることではな く、アラビア文字 による自然死の宣告 までの短い期 間の快適な 生活 を選んだのである。 ところで、ハ カーマニシュ朝の下の標準アラム文字の書体が分裂 したのは セ レウコス朝の崩壊後のことで、その中にはアルシャツク ・パ フラビ-書体 (通称 :パ ルテ ィア文字)か ら8世紀頃にマニ教の布教 活動 に関連 して派生 した らしい、中央アジアのオルホン河やイェニセイ河の周辺 に散在す る突蕨 (古代 トル コ)文字 もある。 ウイグル人が ソグ ド文字で な くこの文字 を受 け 継 ぐ可能性 も考 え得 る状況だった と言 う。 尚、ネス トリウス派 とヤコブ派 と い う宗派 (キリス ト教 )で書体の分かれたシリア文字 もこの文化圏に属す。 [ソグ ド系の話文字] 現在、 トルキスタン (トルコ人の地) と称 される草原及び砂漠 とオアシス 都市か らなる中央アジアの曾ての主役 はイラン諸族であ り、紀元一千年期末 には主導権 は既 にソグ ド人の手にあった。ソグ ド語の文字は仏教 、マニ教、 景教 (ネス トリウス派キ リス ト教)などの宗教文献が多 く、それ もあってか この走行体風の字形 には地域 に依 ると思われる変種 も多い。従 って、なかな か厄介 な代物であるが、 もしこの文字 をアラム系文字 と見れば24)、 ここか ら ウイグル文字、モ ンゴル帝国 と清朝の正文である蒙古文字 と満州文字、及び その変種である トド文字、錫伯 (シボ)文字 などの、一連の縦書 きの文字が 順次誕生 した外、突蕨文字 とも関係があって、アラム文字文化圏内の-大勢 力 に当たる25)。そこで、本節内に小項 を立てて扱 うことに したo さて、

9

世紀の半ば頃か ら西遷 したウイグル人が突蕨文字 に替 えて使い始 めた文字 は、 ソグ ド文字のマニ教文献の書体 に繋がっているらしい。だが、 彼 らは途中で これを900回転 させて、左か ら右への縦書 きに変えた。漢文 と

(15)

の併書の必要性か ら既 にその種の使い方 をしていた突蕨文字の影響か もしれ ない。周知の様 に、 このウイグル人の文字は (モ ンゴル帝国 と満州帝国の文 字 として)後 に世界的な一大勢力 となったわけだが、それにはこの書写方向 の変更が幸い したようである。似た例は紀元前二千年期の前半以前のメソポ タミアで も起 こっている。 この場合は、右か ら左への縦書 きか ら左か ら右へ の横書 きに

9

0 0 回転 した後で絵文字が横形 に変 わ り、結果 としてその後の大 発展 に繋がった。 ウイグル文字 も始めは、異 なる母音や (日本の初期の仮名 に似 て)清音 と 濁音 の区別 もで きないなど、突蕨文字に比べて も技術的にはあま りいい もの ではなかったが、後 には弁別点 を使 って字数 を増や し改良 した。 ところで、 その文字が蒙古帝国の公用文字 となった経過 には粁余曲折があった。即 ち、 初期 はウイグル人が この帝国の書記 をしてお り、ち ょうどキ リス ト教 の宣教 師達が馴染んだ方式のラテン文字で戦国時代前後の 日本語 を書いたように、 ウイグル文字で蒙古語 を書いていた。だが、急 に巨大 となった帝国は

1

3

世紀 後半 には、蒙古語に合わせた修正 を施 したサキヤ文字に切 り替 え、その後推 者で同 じチベ ッ ト人の僧バ クパは字形 まで もチベ ッ ト文字の ものを創 った。 だが、チベ ッ ト文典の翻訳は普及せず、結局は100年ほ どで廃止 され、再 び (改良 された)サキヤ文字 に戻 った。それが所謂、蒙古文字 であ る。 なお、

1

7

世紀 にチベ ッ ト仏典の正確 な翻訳 を目指 してオイラツ ト方言用 に登場 した トド文字 はその改良版であ り、清朝時代 はオイラツ ト専用の公文書 に使われ たが、今では中国の新彊省 と青海省お よび旧ソ連領 とアメリカのモ ンゴル語 族の間に散在す るだけである。 ところで、蒙古文字はその後 も幾度か改正 された。だが、ソグ ド文字以来 の欠点 を一部 に残 したままであったため

、2

0

世紀 になってその点 をキ リール 文字 に突かれた格好 のハルハ方言は、一時は蒙古高原 (外蒙古 )か ら永久追 放 されたか と見 えるほどの仕打 ちを受けた。 ソ連邦崩壊後の最近 になって、 中国領 に避難 していたこの文字 を再 び蒙古全域 に広げる試みが始 まったが、 この文字の習得が国家の成月 の義務 に指定 されて も実際 にその任 に耐 え得 る には、民族的かつ情緒的情熱 を補 う何 らかの技術面での挺子入れが欠かせ な い ように見える。キ リール文字やラテン文字 に加 えて、隣接地域 (中国)の 漢文 までが横書 きであれば、尚更である。 尚、初期の満州文字は蒙古文字 を流用 した無点圏文字であったが、やがて

(16)

長崎大学外 国人留学生指導 セ ンター紀要 第4号 研究論文編 1996年 15 日本の仮名の

o

◆」

に似 た役割 の点や圏な どを加 えて改良 し有点圏 文字 とした。 また、中国の新彊省 に現在 も残 る錫伯文字 はそれ を幾 らか改正 した ものである。

2

.

7

アラビア文字文化圏 一時期広大 な地域 に広が ったアラビア文字使用地域 も、フレンギー (西欧 人)の言 うところの大航海時代 を経 て、 ラテ ン系文字 に逆転 された

。2

0

世紀 の初頭 まで 「イスラム圏」 とほぼ同義であったアラビア文字圏は、 トルコ、 旧ソ連領、イ ン ドネシア、マ レーシア、東 アフリカなどで ラテ ン系文字 とキ リール文字 に勢力 を次々 と奪 われた上、中国で もラテ ン系文字 に破 れかけ、 一時 はアラブ人 とペ ルシャ文化圏の地域文字 に転落す る瀬戸際 まで行 った。 その後 は、勝者側の諸配慮やOAPECの金融力の外、近年 のイス ラム復興 運動 もあって、勢力の退潮 に歯止めがかかった状況 にあるが、アラム系文字 と同様、非セム語の表記 に根本的な問題 を抱 えているので、少な くとも何 か 技術 的な解決策 を講 じない限 り、先細 りの危険性 に依然 として曝 されている と言 える26)。 ところで、 この文字の由来ははっ きりしない と言 う。 勿論 、西 アラム語の 一つで、 ヨルダン南部のペ トラ (岩 山)の遺跡 を都 としたナパテア王国の言 語の表記 に使 われた文字 と関係があるのは確 かである。だが、住民 もアラブ 人だった らしい この都市が陥落 した紀元前 1世紀末 と、アラビア文字の成立 した年代 との間には三百年か ら五百年の空白がある上、地理的分布 において も両者 にはずれ27)があって、アラビア文字はその完成後 にローマの リー メス (帝国境界線 )に沿 ってペ トラに来た らしいのであるai)0 さて、ナパテア文字 は他の フェニキア系の文字 よ り未成熟 だった ようで、 母音 どころか、子音 の一部 も区別で きなかった。 日本の仮名 も濁点の無 い頃 は [た] と [だ]の区別 もで きなか ったか らそ う特別で もないが、母音 の区 別 もダメでは問題は小 さ くない。 そ こで、ネス トリウス派のキ リス ト教文書 (シリア文字)で確立 された弁別点 などの技術 を、モーゼ五書 の校 訂 (ヘ ブ ライ語 )を通 して、初期 のクーフア体の コーランに導入 した29)。 今度は書体 の話 に移 る。 周知の様 に、イス ラム圏では絵画禁止 の原則 のた めか、古来装飾字体が多 く、漢字圏の 「書道」 に似 た もの も含めて文字芸術 が盛 んであった上、都市 ・地域毎 に も特徴があった30)。ア ッパ ース朝 崩壊 前

(17)

の最盛期 には、書体 も

2

0

余 を数 えた と言 うが、現在 も続 く、クーフア、ナス ク (書写用)、スルス (装飾用)、ライハーン (装飾用 )、 リカーア (筆記体) の古典的五大書体は、漢字の槽書、行書、草書 な どに相当するように見える。 これに対 し、アッパース朝崩壊後はイスラム世界が政治的に複数の小 中心地 に分かれ、書体 もこれに追随 した感があるが、結局の ところアラビア文化圏 とペルシャ ・トルコ文化圏に二分 された感がある。即ち、アラビア語圏では クーフア体 とナスク体が引 き続いて栄えたが、イランではパ フラビ一文字の 影響 もあってかペルシャ式書体が次々 と生 まれ

、1

5

世紀 には書道 も確立 した し、オスマ ン帝国で も基本的にはナスタアリーク体 を使い

、1

6-1

7

世紀 には 書道家 も輩出 したのである。 この外、東方のウル ドゥー語では後期のペルシャ 書体であるナスタアリーク体 を使 ったが、イランとの中間のパ シュ トウ一語 やアフガンの言語やシンデイ語 はナスク体 を用いている。尤 も、イラン周辺 でのこの状況の大変化 にはイスラム圏における耗の普及 との時期的な一致や モ ンゴル人の侵入 に相前後 して起 こった近東でのイス ラム教-の大量改宗 な ども関係 していよう。 次 に、イフリキーヤ (北 アフリカ)とアンダルースの様子 を見てみ よう。 マグレブ (西方)では、チェニジア、アルジェリア、モロッコを通 ってサハ ラ (砂漠)を渡 ったハ ウサ語圏 (ナイジェリア北部)へ と字体が順次変化 し てゆ く。だが、現在 「マグレブ書体」の名でこの地域 を代表するのはフェズ 書体の後荷である。 この文字は書体面では曾て東方 (イスラム圏の中心部) に栄えたクーフア体 に近いが、基本字母順 の後半が他の地域 と異 な り独 自性 を示 していて、別の文字体系-移行する一歩手前 の状態 と認識 で きる31)0 尤 も、元来がベルベル語地域であるか ら理解で きる話である。余談なが ら、 南北朝鮮 の辞書 におけるハ ングル字母順序の小 さな違い も長引けば両文化の 乗離 を示すパ ラメータとなるか もしれない。次 に、この地イフリキーヤか ら ジブラルタルに渡たるとアンダルースに入 る。アンダルース書体 はマグレブ 書体 よ り更に丸味を帯びるが基本的にはクーフア書体の系統のままである。 後 にはマグレブにも進出 した。 残 るは旧ソ連邦 ・中国内の トルコ系住民 などや東 アフリカ、イン ドネシア 及びマ レーシア付近のイスラム教徒地域である。 とい うの も、アラビア文字 はイスラム教 と表裏一体の関係で広がったか らである。 中国では、人民共和 国成立後の一時的な混乱期 を体験 した後、今 はウイグル文やカザ フ文 などで

(18)

長崎大学外 国人留学生指導セ ンター紀要 第4号 研究論文編 1996年 17 用い られていているが、(手元の書籍 は)ナスク体である。 また、 人 口の多 い回族 は独 自の言語が無 く、漠字 (漠語)を使用 している32)。旧 ソ連邦 内の アラビア文字の運命 は歴史の流れに翻弄 されてきた。例えば、アゼルバイジャ ン語 で は12世紀 の イス ラム化以来1930前後 まで一貫 してア ラ ビア文 字 が 使用 されていたが、ロシア革命後のスターリン体制の国際情勢認識 を敏感か つ率直に反映 した結果、 ラテン文字か らキリール文字- とい う急激 な変遷の 憂 き目に会 った。ソ連邦崩壊後の1990年代 には、アラビア系文字-の回帰が 試み られているようで、まだ揺れはお さまっていない。無論、他の トルコ系 の言語や カフカスの言語 もほぼ似た過程 を辿 った。 また、スワヒリ語や半島マ レー語が リングァフランカ (国際語)であった 束 アフリカやイ ン ドネシア ・マ レーシア地域 も状況 はほほ大同小異である。 即 ち、スワヒリ語は曾てはアラビア文字だったが、20世紀 になってラテ ン文 字 に切 り替 わった し、マラッカ王国の繁栄の後塵 を拝 して広 まってジャワで も半島部で も通 じたアラビア文字のマ レー文、ジャーウイ (Jawi)は今 で は ラテ ン文字で書かれる上、多言語の新生国家 イン ドネシアの国語 とい う姉妹 版 まで生み出 した。だが、同時に最近のイスラム回帰風潮 に見 られる如 く、 この地域 におけるアラビア文字の将来の最終 的様相 は未 だ明 らかでない缶)。 それはマグカスカル島の言語やイスラム ・フィリピン、ス-ルー諸島のモ口 語の様 な例が この地域 に残 っていることか らも分かる。 ところで、アラビア文字にも現在のラテン文字の様な世界文字であった時 代が勿論あって、その痕跡が残 っている。 例 えば、イベ リア半島の レコンキ ス タ (失地回復 )後 もアラブ人 に同化 したキ リス ト教徒 は当時の古 ロマ ンス 語 をアラビア文字で書いていた し、オスマ ン帝国統治下の地域か らはス ラブ (セルボ ・クロアチア)語 をアラビア文字で書いた文献 もある ようだ。 共 に 母音用記号付 きである。 この外、アラビア文字で訳 された聖書が

5

0

言語近 く ある見本帖 もあるようで、ヘブライ文字の場合 に比べて圧倒的に多い0

2

.

8

イン ド文字文化圏 アラム文字のイン ド進 出後の初期 に、主に北方の中央 アジア方面で比較的 短期 間使 われたカロシュティー文字 を除けば、ブラーフミ一系の文字が この 地 を代表す る。アラム文字 とそれに近いカロシュティー文字のイン ド進出を 阻んだこの文字の出所は定かではない。共 に音節 文字 だが、 [か] と [き]

(19)

で字形の異 なる日本の仮名やキプロス文字な どと違い、母音用符号 を用いて [k+i]や [k+u]の様 に二つの字形 で表す方式で、エチ オ ピアの文字や (幾分違 うが)朝鮮半島のハ ングルの範噂に属す と見れば解 り易い。 ところで、(フェニキア系の)子音文字だった南アラ ビア語 の碑 文文字が アビシニアの音節文字 に変わったのは、紅海 をイェ-メン側か ら渡 って暫 く 経 ってか らのことらしく、エチオピア側の最古の碑文 には母音表記がない と 言 う。 イン ドの場合 にも幾分似たことが言 える。即 ち、(現象面での結果 だ けを繋 げば)アラム文字のイン ド進出 とブラーフミ一系の音節文字成立の間 にはカロシュティー文字が介在 してお り、その原理 にはイン ドの影響が見 ら れるのである。 これは、要するにカロシュティー文字がブラーフミ一文字の 原理 とアラム文字の字形の折衷物である可能性 の示唆であ り、その場合 には メロエのエチオピア帝国のクシュ文字、北シリアのウガリッ ト文字などと同 じ範噂 に属す ことになる。 ただ、それに際 しては書写方向のことが幾分気 に なる。ブラーフミ一文字が左か ら右-書 くのに対 し、カロシュティー文字は (アラム文字 と同様 )右か ら左へ書 くか らである。 しか し、 フェニキアの文 字がギ リシャ文字に変わる際 も、左か ら右への方式が定着する以前 に牛耕式 と通称 される両方向の併用方式 を暫 らく使用 していたことがあったが、例 え ばそれを想起すれば間蓮は無かろう34)0 さて、カロシュティー文字は、ハ カーマニシュ朝のダーレヨーシュー世の イン ド侵入後のまだアラム文字の勢力が東進 している時期 に、母音 を明記す るアラム文字の化身 ・改良型 として登場 した。だが、イン ド文化が北 イン ド か ら中央 アジアに進出 して くるのに伴い、原理のほぼ同 じブラーフミ一文字 に

5

世紀以降交替 されて しまった。 ところで、この両者は時代的に もあま り 隔たっていず、共にアシ ヨーカ碑文にも記 されているため、何かグラゴール 文字 とキ リール文字の関係 を想起 させ るところがある。 尤 も、勝 ち残 った方 のブラーフミー文字 も起源ははっきりしないため、字数が近 く、同 じ書写方 向で、似た構造の音節文字 を基本 とする古代ペルシャ文字の影響 も否定で き ない らしい35)0 次 は、ブラーフミ一系文字の史的展開 と書体の変遷 について述べ る。先ず は地理的な記述か らである。この文化圏は時代 と共 にその地理的領域 を拡大 縮小 したが、概 ね北は 「イン ド人殺 し」(ヒンズー ・クッシュ)の山々か ら カラコルムの山並みを経て、万年雪 を戴 くヒマラヤ山脈 を結ぶ線、南 は海の

(20)

長崎大学外 国人留学生指導 セ ンター紀要 第4号 研究論文第 1996年 19 向こうのス リ ・ランカ島までのほほ全域 を含む。勿論、 ここ一千年足 らずの 間は、アラビア文字圏に浸食 されて劣勢気味だが、現時点ではまだミャンマー か らイン ドシナ半島の大部分 を保持 してお り36)、重心 を東 に移 しなが らも、 結果 としてその分 を埋め合 わせた格好 になっている。(以下 で は この地域 を イン ドと略称。) この地域の世界帝国であるマウルヤ朝マガタの分裂後、シュンガ朝が都 を 東部 に遷 して中心部 を受け継いだ。だが、碑文の字は重子音 などを除けば、 前の時期 と同一書体である。 イン ド特有の母音配列 には既 になっているが、

[

,

育,

巨i

]音の文字はまだないようだ。西部イン ドで は、クシ ャーナ朝 後期 になると碑文の言語はそれまでのプラークリッ トに替わって次第にサ ン スクリッ トが復活 して きたが、書体の方は幾分か丸 くなる程度に止 まった。 そ して、サ ンスクリッ ト復活の流れは古代バ ラモ ン文化優先の政策 を採 る世 界帝国のグブタ朝 によって強め られ、同時に全土にわたる文字の統一 ももた らされた。東アジアの唐 も政治的には漠 を復活 し同 じ様 な位置 を占めるが、 言語の面ではそれほ ど復古主義的ではなかった。 その後、紀元

6

世紀 にグブタ朝が崩壊するとこの王朝期の統一書体 を親字 とし、以後の政治地図の色分けを反映 して、北 イン ド、西イ ン ド、デカ ン、 南 イン ドと四分 されて地理的、言語的文化圏毎 に変化 して今 日に至 った。そ れはち ょうどアラビア文字圏でのア ッパース朝の崩壊後の過程 にほぼ匹敵す るが、 この地域では字体の分化が比較的大 きいこともあってか、文字休系の 呼び名 まで変わる37)のが常である.従 って、本節が些か長 くなるのは止 む を 得 ない。では、順 に見てゆこう。 北 イン ド、即 ちガンジス ・ヤムナ河の全流域周辺 には、グブタ朝期 を代末 す る北方系書体のグブタ文字 とさして変わ らないシッダマー トリカー文字が

1

0

世紀頃 まで普及 していた。 日本で五十音図の成立 に関係 した 「悉曇文字」 のことである。 この文字の東部型はベ ンガル文字へ繋が り、西部型 はカシュ ミールで普及 したシヤーラダ国の文字認)であ る。 この時期 の カシュ ミール は概 ね純 イン ド様式文化の一大拠点 と化 し、東アジアの南宋期の江南地方の 様相 を呈 していた。そんなカシュミールで、シヤーラダの文字はシッダマー トリカー文字 とある時期重 な りなが ら13世紀 ころまでイン ド西部一帯 に広 く 普及 していた らしい。タッカリーはその走行体である。無論-、北 イン ドには 他 に も文字はいろいろあったが、重要なのはス インディー語や ラへ ンダー語

(21)

の表記 に使われたラング一文字である。 というのは、13世紀以降のアラビア 文字の大洪水 によってカシミール、ス イン ド、パ ンジャブの諸文字が流 され 尽 くす中、主要

3

変種 の一つがシーク教聖典のお陰 もあって、今 日も東パ ン ジャブを中心 に生 き延びているか らである。 ただ し、名称 もグルムキー文字 と変わ り、形 もシヤーラダ書体 との折衷式 (のラング一文字)である。 一方、東部型の子孫であるベ ンガル文字は

9

世紀頃か ら碑文などに徐 々に 表れ始め

、1

2

世紀以後 になって独 自の字形 となった。この文字が仏教文化圏 であるガンジス河中下流 に普及 していったのは、グブタ朝の崩壊後 に

1

2

世紀 まで続いたパーラ王朝のお陰であった。今では、ベ ンガル語の他、ア ッサム 語3')などのチベ ッ ト・ビルマ系の言語 にも使 うし、バ ラモ ン用 と書記階級用 の2書体 を持つオ リヤー文字 もこれか ら派生 した と言 う。出所のはっきりし ないナ-ガリー文字 よりは正統派に属する文字だが、勢力的に遅れをとって いることは否めない。 西イン ドでは、

8

世紀 にラージャスタンなどにナ-ガリー文字が発生 し、 次第に北 イン ドに も広がって

、1

0

世紀以降はシツダマー トリカー文字 と交替 していった。北部でのシヤーラダ書体の文字の浸透 と時 を同 じくしたわけで ある。 また、それは中央 アジアでのアラビア文字 によるグブタ文字の追い落 としともほぼ期 を一にしている。 さて、名称の起源の不明なこのナ-ガリー 文字は

1

1世紀以後 になると今度は、北イン ドではガズニー朝のイス ラム支配 者たち、南 イン ドではラーシュ トラクター朝のヒンズー支配者たちによって 東部 と北部の一部 を除 くイン ド全域 に普及 されていった。要するに、歴史的 結果 として、この文字はアラビア文字のイン ドへの大洪水 を塞 き止める役割 を担いなが ら、ほぼ全 イン ド的な規模でグブタ文字 を受け継いだのである。 そ う見れば、その磯能がその後一千年間近 く続いた として も不思議はない。 実際、シヤーラダ文字で も書かれたサ ンスクリット文献は、当時 との書体差 が大 きくないナ-ガリー文字で多量 に書かれたために、現在で も容易 に近づ けるのである。 今度は南 イン ドとデカンの話 に移 る。南方イン ド固有の文字は、 より北側 のカンナラ ・テルグ文字 と南側のパ ッラヴァ ・グランタ文字の二つがある。 北のカルナ-タカ、マハ-ラシュ トラ、ア-ン ドラの (デカン)地域では、 碑文に独 自の文字が表れ、

8

世紀 にはカンナラ文字 とな り、やがてテルグ文 字にもなった。後者 は13世紀 には書体が少 し変わったのでア-ン ドラ文字 と

(22)

長崎大学外国人留学生指導センター紀要 第

4

号 研究論文第

1

9

9

6

2

1

も言 うらしい。何れに して も、

1

1世紀後のナ-ガリー文字の南進 によって、 南方系 のブラー フミ一系文字は全て を併せて もその領域 は狭 い。 一方、最南部 (南 イン ド)ではグブタ朝の都マガダか ら遠かったせいで、 早 くか ら独 自の文字がパ ッラヴ ァ朝 の碑文 に表れ、

7

世紀 にはタミール ・ナ ドゥにおいてサ ンス クリッ ト文献 (グランタ)の文字 となった。 このパ ッラ ヴァ系 の文字 は、その後 の東南 アジアでおいてカンナラ文字 より広汎に広がっ た。 また、 この地ではバ ラモ ン教 とジ ャイナ教 に よる文字が分化 したが 、 先のオ リヤー文字や カルナ- タカの トウル文字 と並ぶ ものである。 次 に、現 行の タミール文字やマラヤ- ラム文字 は どの系統 に属すのだろうか。 実 は、 グランタ文字 と南方 ブラーフミ一文字の一種40)の子孫 だ と言 うO ところで、 ヨーロ ッパのラテ ン系文字 に も、 ドイツ書体 (ドイツ文字 )や イタリア書体 (イタリック体)などがあって、曾ては地域的独 自性 を主張 し ていた ようだが、活字体、筆記体、装飾用等 の 目的別の書体 を別 にすれば、 現在 は概 ね統一 されていると見て よい。だが、イン ドではグジヤラーテ ィー 文字 はナ-ガリー文字か らその字形が直 ぐ類推で きる程度の違い しか無いに も拘 らず、ナ-ガリー文字 に取 って替 わ られ る兆 しは殆 ど無 い41)。 端 的 に 言 えば、それはそ うなって久 しい とい う歴史的事情 による。 ムガール帝国、 イギ リス ・イン ド帝国、イ ン ド連邦 と、政治的には近年の

EC(

ヨロー ツパ 共同体 )やEU (ヨーロ ッパ連合 )にその萌芽を見る西欧連邦構想の先 を行っ ているに も拘 らずである。 そ こで、 ナ- ガ リー文 字 とラテ ン文字 の対 比 を 中心 に据 えて、 この地域 の特徴 を簡単 に見 ることにす る。 さて、デーバ ・ナ-ガ リJ 2)にア ラビア文字 の イ ン ドへ の大洪水 を塞 き 止 める役割が期待 されている節があることは既 に見た。それは、北部や西部 の対 イス ラム前線寄 りにこの文字の分布が偏 っていること、グブタ文字 との 関係 を含 めて出所が不明瞭であるな どといった諸特徴 を持つ43)。 ヒンデ ィー 語 な どはウル ドゥー文字 を借用 しないで、何故わざわざこの文字 を使 うのか と思 うほ どである。母音表記 の便利 さと天秤 に掛 けて も技術 的な理 由は決 し て 自明ではない。一方、曾て、特 にローマ帝国の西半分 の崩壊後 のギ リシャ 文字文化 圏の主流 はギ リシャ文字であってラテ ン文字ではなかった。だが、 ビザ ンツ帝国の消滅 とイベ リア半島での レコンキス タが なった15世紀以後 は この文字 圏の主導権 はラテ ン文字 に移 ったため、ナ-ガ リー文字 とラテ ン文 字 はその置かれた状況が似 ることとなった。無論、主たる侵入外来者が アラ

(23)

ビア文字であることも同 じである。 ところで、ナ-ガリ一系文字は現在、マラーティー語やサ ンスクリット文 献にも使 う所謂ナ-ガリー文字、ビハ-リー文字などの東部型、グジヤラー ティー文字などの西部型の3系統 に分かれているが、こうなったのは14世紀 が境だと言 う。 もしそうだとすれば

、1

0

世紀以降に汎イン ド的 となったこの 文字は、殆 ど時を経ず して分裂を始めたことになるが、同時にこの辺 りに、 独立指向の強いこの文字文化圏の特徴が見て とれる。尚、イン ドでは階層 に よる使用文字 (言語)の分化 に関する記述や言及によく遇 う。 例 えば、東部 型 に属すマイティリー文字やグジヤラー ト商人だけが速記用に使 う西部型の マハ-ジヤニー文字がそ うである。多分 、それ らは所謂 カース ト制度 (小

c

o

mmu

n

i

t

i

e

s

への細分化現象)と関係があるのだが、正直言 って この こ と に関する筆者の理解の水準は、あまり長 くないイン ド滞在経験 しかないため であろう、古今東西の文字をほぼ同一の基準で纏めて取 り扱 うという本稿の 目的遂行 に耐 え得るほどの水準に達 していないので、時に応 じて書 き出すの に止めた。 ここで、ギ リシャ文字文化圏でのキリール文字の相当物 を探 してみよう。 キリール文字は一千年ほど前 に比較的明瞭 な過程 を経 て生 み落 とされた44)0 勿論、それ らを拾ってここまで見事に育て上げた最大の功労者は、ロシアの 諸帝国と正教 キリス ト教会である。すると、伝統的な文化遺産の保存 を担 う ギリシャ文字 との関係が比較的濃い とい う意味ではベ ンガル文字が適当であ る。だが、故地を大 きく踏みだ して世界文字への道を開いた とい う意味では 南方系 ブラーフミ一文字の方がふ さわ しい。 しか も、(南方系文字 に

2

系統 があったよう.に)失敗 したグラゴール文字 も入れればギリシャ文字系の派生 字 も複数あったわけだか ら、順当なところであろう。 そ こで、最後に亜大陸 とス リ ・ランカか ら外へ出ていった文字の着 をしよ う。 一方は東南アジア方面へ、 もう一つはチベ ッ ト高原方面へ向かった。 [東南アジアの諸文字] 南方系のブラーフミ一文字の一部はインド洋を渡って東方に向かったが、 その競争 において南 イン ドの文字 (パ ッラヴァ系 )はデカンの文字 (カンナ ラ ・テルグ)より優位 に立った。何れの場合 もヒンズーや仏教の文化 を携 え てのことである。さて、その先発隊は既 に紀元4、 5世紀には上陸を終 えて

(24)

長崎大学外 国人留学生 指導 セ ンター紀要 第4号 研 究論 文編 1996年 23 いたようで、結局の ところ今 日の東南 アジア地域 は次の様 にほぼ

3

分 される 状態 に落ち着いた。即ち、(古いジャワに代表 され る) (1)島喚 ・半島部 、 北方の (2)大陸東部 と (3)大陸西部 である。 その内、(1)と(2)は南 イン ド との、また(3)はデカンとの繋が りが強い ようである。 サ ンスクリッ トやパー リー語 (プラークリッ ト)でない45)、落 ち着 き先 の人 々の口語 で書 かれた 重要 な碑文 を、言語面か ら見れば、島映 ・半島部はマ レイ系であ り、北方の 大陸部はタイ系が主要勢力である。そ して、それは主に半島か らのシュリー ・ ヴイジヤヤ王国の拡大の結果であ り、またモ ンゴル人の雲南方面か らの侵入 に端 を発 したタイ諸族の大移動 によって生 じた、ビルマの崩壊 を始め とす る 政治地図の変化の結果である。その際、東南 アジア大陸部の中央 を南下 して きたタイ諸族 は東部型 と西部型の字形 とに分かれて今 日に至 っていてるが、 これは中央 アジアか ら南下 して きた古代のアールヤ人が東側のブラーフミ一 系文字 と西側の古代ペルシャ文字に分かれたのに似ている。 古代 ジャワ文字やスマ トラ北 中部のバ タック文字などの(1)は、現在 もその ヒンズー教徒の末商がベ トナムのカムラン湾近 くに残 る古チ ャム文字 を何 ら かの意味で介 した らしい。無論、ジャワ系文字 を中心 に して、一部は今 もこ の島峡部 に残 ってお り、一時はフィリピンの島々に もタガログ文字や ビサヤ 文字 などとして上陸 した。だが、フィリピンの文字は充分に根 を張 る前 に、 後か ら来たアラビア文字 に取 って替 わられた。 (2)の主流 は古 クメール文字で、古チ ャム文字 に遅 れて7世紀 頃表 れた46)0 さて、ス コータイ王朝の国字は古 クメール文字か ら派生 したが、声調符号が 加 えて改造 してある。現在のタイ王国の文字`7)は、正書法上の改革が施 して あることを除けば、 これ とは書体が幾分違 う程度の違い しかない。 ラオスの 文字 も同様である。また、曾てのチ ェンマイの八百王国の文字や文字原理の 同 じベ トナムの山岳部の白タイ、黒 タイの文字 もこの系統である。 尚、ベ ト ナムの山岳部にはタイ文字 を縦書 きするプ-タイ文字 もある と言 う。 (3)には ビュー文字や古モ ン文字がある。 後者はカンナラ ・テルグ系文字で あ り、 ビルマ文字 もこの派生である。 ビュー文字は縦長、初期の ビルマ文字 を含 めて苗モ ン文字 は角型で、現行のビルマ文字 とは外観 を異 にす る。 一部 だが、 ビルマ文字 もモ ン文字にない声調符号 を採用 している。 また、 ビルマ 文字か らはカレン文字が派生 したが、

3

種類 の内の古い方のス ゴ ・カレンと ポー ・カレンは基本原理が同 じである。尚、パオ ・カレンは字形 ・原理共 に

(25)

ビルマ文字に近い。 この外、 ミャンマーや中国の国境周辺の タイ諸族の文字 は基本的には西部型で、西か らカームテ ィー文字 (イ ン ド ・ア ッサ ム州 )、 シャン文字 (ミャンマー ・シャン州)、ルー文字 とクー ン文字 (シャ ン州 か らタイ領内)、チェンマイ ・ラオ語のユアン文字 (タイ北部)、中国雲南省 の タイ ・ロ、金平 タイ及びタイ ・ナ、タイ ・ホ ンの

2

系列

4

種 の文字がそ うで ある。 ただ、中国領内では人民共和国成立後 は国家の方針で統一 タイ文字 を 作 って、共有する努力がなされている。 [チベ ッ ト文字圏] 字形が グブタ文字 に近いブラーフミ一系のこの文字は、「ラマ教」 の経典 に依 って、その亜文化 圏 を形成 してい る48). それ は、 ヒマ ラヤ連 山の西端 付近で境 を接するアラビア文字圏が コーランに依 っているのに似 ているが、 バ クパ文字や レプチ ヤ文字 といった官製の派生文字が殆 ど成功 しなかったた めに、白亜のラマ廟 に象徴 される寺院都市 に保存伝東 される密教的色彩 の濃 い北伝仏教の経典 に、ほぼ全面的に依 っている。 チベ ッ ト文字の起源は流布 している伝来 49)ほどはっ き りしてはい ないが 、 曾て ヒマ ラヤ周辺で世界文字 として使われたことはほほ確かである。例 えば (残存す る文献の大半 に当る古典チベ ッ ト語以外 に)曾て はナム語 、 ジ ャ ン ジュン語、ギ ヤロン語、(ロ口語系 ) トス語 などの広汎 な言語 の表記 、西夏 文字の注音、湊語の表記 などに使 われた。また、現代ではチベ ッ ト語の諸方 言の外 に、ネパール、ブータン、シッキムな どに も分布 しているが、綴字法 もブータンに見 られる様 に古典チベ ッ ト語 と必ず しも同 じではない。 ところで、先 に述べた両種 の派生文字はチベ ッ ト文字が ヒマラヤを登 って 暫 らく経 った後の ものである。その内、重要 なのは蒙古帝国 (元朝 )の公用 文字であったバクパ文字であろう。帝国支配者の言語 (モ ンゴル語)を表記 するために、チベ ッ ト文字の方形字 を縦書 きにして並べ た観のこの文字は、 古代ペルシャ棋形文字 を思わせ る折衷方式であ り、使用 を奨励 した帝国の崩 壊 とほぼその運命 を伴 に して、短い寿命 を終 えた。多分、原理は13世紀当時 の中央アジアの普及 していたソグ ド系 ウイグル文字である。やや穿 った見方 をすれば、(侵入 して きたギ リシャ勢力 に対するイラン人の怨念 が残 ってい るソグ ド文字の化身である)ウイグル文字 自身は、母音調和 などのある母音 の重要な トルコ諸語やモ ンゴル諸語 を充分・に表せないため、字形だけをチベ ッ

参照

関連したドキュメント

 トルコ石がいつの頃から人々の装飾品とし て利用され始めたのかはよく分かっていない が、考古資料をみると、古代中国では

仏像に対する知識は、これまでの学校教育では必

はありますが、これまでの 40 人から 35

私たちは、私たちの先人たちにより幾世代 にわたって、受け継ぎ、伝え残されてきた伝

海なし県なので海の仕事についてよく知らなかったけど、この体験を通して海で楽しむ人のかげで、海を

 2016年 6 月11日午後 4 時頃、千葉県市川市東浜で溺れていた男性を救

まず, 2000 / 01 年および 2003 / 04 年調査を用い て,過去1年間に実際に融資の申請を行った世帯 数について確認したい。 2000 / 01 年は,全体の

うれしかった、そのひとこと 高橋 うらら/文 深蔵/絵 講談社 (分類 369).