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Vol.55 , No.1(2006)007池 麗梅「荊渓湛然の啓蒙師「方巌和尚」-六祖慧能の門下「東陽玄策」と関連づけて-」

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Academic year: 2021

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(1)

﹁方

﹁東

一 、 は じ め に 湛 然 が ﹃止 観 輔 行 伝 弘 決 ﹄ 、 ﹃ 法 華 玄 義 釈 籤 ﹄ 、 ﹃ 法 華 文 句 記 ﹄ の 三 書 を 蘇 州 開 元 寺 の 経 蔵 に 寄 贈 し た 際 に 題 辞 を 付 し た が 、 そ の 内 容 は 後 に ﹁小 石 碑 ﹂ ( ﹃天 台 九 祖 伝 ﹄ 所 収 ) に 録 さ れ る こ と と な っ た 。 そ の 中 に 、 ﹁ 開 元 十 六 年 、 は じ め て 浙 東 に 遊 学 し 、 師 を さ が し も と め て 道 を た ず ね た 。 開 元 二 十 年 に 至 っ て 、 東 陽 郡 の 金 華 で 方 巌 和 尚 と め ぐ り あ い 、 (和 尚 か ら ) 天 台 の 教 法 を 示 し て 頂 き 止 観 等 の テ キ ス ト を 授 か っ た 。 ﹂ と 見 え る 。 こ の 記 述 に よ れ ば 、 湛 然 は 、 玄 朗 と 出 会 う 以 前 に 、 東 陽 郡 の 金 華 で ﹁方 巌 和 尚 ﹂ と い う 人 物 か ら 止 観 を は じ め と す る 天 台 の 教 え を 授 か っ た こ と が わ か る 。 ﹁方 巌 和 尚 ﹂ に つ い て 、 左 渓 玄 朗 の 弟 子 で あ ろ う と い う 説 が 有 力 で あ っ た が 、 し か し 、 秋 田 光 兆[一 九 九 九 ] ( ﹁唐 代 に お け る 天 台 教 学 の 動 向 ﹂ 、 ﹃ 山 家 学 会 紀 要 ﹄ 2 ) な ど は 、 ﹁方 巌 和 尚 ﹂ は 南 宗 六 祖 慧 能 の 弟 子 ﹁方 巌 玄 策 ﹂ で あ る と す る 見 解 を 提 示 し た 。 本 論 文 で は 、 先 ず 、 ﹁ 玄 策 ﹂ と い う 人 物 に ま つ わ る 問 題 点 を 解 決 し た 上 で 、 ﹁ 方 巌 和 尚 ﹂ を ﹁玄 策 ﹂ と 同 一 視 す る 可 能 性 に つ い て 論 じ て い く こ と と す る 。 二 、 東 陽 玄 策 の 人 物 像 と そ の 問 題 点 南 宗 六 祖 慧 能 の 法 嗣 で あ る 玄 策 は 、 東 陽 玄 策 と も 呼 ば れ 、 ﹃ 景 徳 伝 灯 録 ﹄ 巻 五 に 見 え る 伝 記 に よ れ ば 、 彼 は 元 々 女 州 (東 陽 郡 ) 金 華 の 出 身 で あ り 、 嘗 て 慧 能 に 学 び 、 後 に 金 華 で 大 い に 活 躍 し た と 伝 え ら れ る 。 柳 田 聖 山 [ 一 九 六 七 ] ( ﹃初 期 禅 宗 史 書 の 研 究 ﹄ ) は 、 東 陽 玄 策 が 左 渓 玄 朗 や 永 嘉 玄 覚 と 親 交 の あ っ た 人 と 認 め な が ら も 、 玄 策 が 主 と し て 玄 覚 や 玄 朗 と の 関 係 に お い て の み 登 場 し て い る た め 、 李 華 の ﹃ 衢 州 竜 興 寺 故 律 師 体 公 碑 ﹄ ( 全 唐 文 三 一 九 ) に 見 え る 衢 州 策 律 師 の 脱 化 で あ ろ う と 推 測 し て い る 。 し か し 、 東 陽 玄 策 禅 師 と 衢 州 策 律 師 と は 、 そ れ ぞ れ ﹁東 陽 ﹂ と ﹁ 衢 州 ﹂ と 表 記 さ れ て い る た め 、 両 者 は 明 ら か に 出 身 地 を 異 に し て い る し 、 更 に 、 各 々 ﹁禅 師 ﹂ と ﹁ 律 印 度 學 佛 教 學 研 究 第 五 十 五 巻 第 一 号  平 成 十 八 年 十 二 月

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荊 渓 湛 然 の 啓 蒙 師 ﹁方 巌 和 尚 ﹂ (池 ) 師 ﹂ と 呼 ば れ て い て 、 立 場 の 相 異 も 伺 わ れ る こ と か ら 、 ﹁策 ﹂ と い う 一 字 だ け が 共 通 す る こ と に 拠 っ て 両 者 を 関 連 付 け る の に は 、 や は り 無 理 が あ る 。 更 に 、 次 に 論 じ る 仏 川 慧 明 と の 関 連 か ら も 明 ら か な よ う に 、 玄 策 が 玄 覚 や 玄 朗 と の 関 係 に お い て 以 外 に も 登 場 す る こ と か ら 、 そ れ を 必 ず し も 実 在 人 物 の 脱 化 と 見 な け れ ば な ら な い 必 要 性 も な い 。 更 に 、 柳 田 [ 一 九 六 七 ] は 、 別 の と こ ろ で 仏 川 慧 明 に 関 説 す る 時 、 ﹁方 巌 策 公 ﹂ と い う 表 現 を 含 む ﹁唐 湖 州 仏 川 寺 故 大 師 塔 銘 ﹂ ( 以 下 、 ﹁塔 銘 ﹂ と 略 す ) に 言 及 し て い る 。 た だ 、 そ の 際 に は 、 方 巌 策 公 と 東 陽 玄 策 と を 結 び 付 け て 考 え よ う と は し て い な い 。 し か し 、 こ の ﹁塔 銘 ﹂ の 内 容 を 丹 念 に 読 み 解 い て い く と 、 そ の 中 に 現 れ る ﹁ 方 巌 策 公 ﹂ は 、 東 陽 玄 策 と 決 し て 無 関 係 で は な い こ と が わ か る の で あ る 。 こ の こ と を 明 確 に 示 す た め に 、 先 ず 、 ﹃ 全 唐 文 ﹄ (巻 九 一 七 ) 所 収 の ﹁ 塔 銘 ﹂ の 内 容 に 注 目 し た い 。 そ の 中 に は 、 仏 川 大 師 慧 明 の 伝 承 系 譜 や そ の 出 身 ・ 生 涯 に 関 し て 、 以 下 の 通 り の 叙 述 が 見 え る 。 ﹁ 第 六 祖 曹 渓 能 公 能 公 伝 方 巌 秉 策 公 乃 永 嘉 覚 荷 沢 会 之 同 学 也 方 巌 即 仏 川 大 師 也 。 ⋮ [師 ] 年 漸 及 丱 、 方 祈 捨 俗 、 大 人 従 之 、 至 受 具 時 、 即 開 元 七 年 (七 一 九 ) 也 。 ⋮ 嘗 謂 人 日 、 昔 者 繁 刑 首 作 、 伯 成 子 高 遁 焉 。 吾 雖 不 捨 律 儀 、 而 悪 乎 浄 ( 諍 ) 論 紛 若 。 心 即 心 之 法 至 矣 哉 。 西 詣 方 巌 、 頓 開 心 地 。 ⋮ ⋮ [建 中 元 年 正 月 ] 十 二 日 、 奄 然 長 往 。 二 月 十 二 日 、 建 塔 於 仏 湘 川 西 山 。 ﹂ 引 用 文 中 の 傍 線 を 引 い た 部 分 は 、 問 題 を 含 む 箇 所 で あ り 、 そ こ に は 句 読 点 を 入 れ な い こ と に し た 。 こ の 内 容 を 、 柳 田 [ 一 九 六 七 ] に 引 用 さ れ た ﹁第 六 祖 曹 渓 能 公 、 能 公 伝 方 巌 策 公 、 乃 永 嘉 覚 ・ 荷 沢 会 之 同 学 也 。 方 巌 即 仏 川 大 師 也 。 ﹂ と い う 文 と 較 べ て み る と 、 ﹁能 公 伝 方 巌 ﹂ と ﹁策 公 乃 永 嘉 覚 荷 沢 会 之 同 学 也 ﹂ と の 中 間 に 、 ﹁ 秉 ﹂ の 一 字 が 介 在 し て い る こ と が わ か る 。 こ の 相 異 は さ て 置 き 、 次 に 、 こ の 引 用 文 か ら 浮 か び 上 が る 、 慧 明 の 師 承 関 係 に お け る 不 審 点 に つ い て 指 摘 し た い 。 柳 田 [ 一 九 六 七 ] に よ れ ば 、 ﹁慧 明 の 史 伝 は 、 皎 然 ﹃ 唐 湖 州 仏 川 寺 故 大 師 塔 銘 ﹄ (全 唐 文 九 一 七 ) に よ っ て 、 極 め て 信 ず べ き で あ り 、 此 の 人 は 永 嘉 玄 覚 、 荷 沢 神 会 と 双 ぶ 慧 能 門 下 の 重 鎮 と し て 七 祖 に 目 せ ら れ る 人 で あ る ﹂ ( 一 九 一 頁 ) と い う 。 も し 、 こ の よ う に 、 現 行 本 に 見 え る 記 述 を そ の ま ま 容 認 す れ ば 、 我 々 は 、 慧 明 と い う 人 物 が 方 巌 策 公 や 仏 川 大 師 と も 呼 ば れ 、 南 宗 六 祖 慧 能 か ら 法 を 授 か り 、 そ の 門 下 の 永 嘉 玄 覚 や 荷 沢 神 会 と 同 学 で あ っ た と 認 め な け れ ば な ら な い 。 し か し な が ら 、 慧 明 が 、 ﹁仏 川 大 師 ﹂ 以 外 に 、 ﹁方 巌 ﹂ や ﹁策 公 ﹂ と い う 呼 称 も 持 っ て い た 、 と す る の は い さ さ か 不 思 議 に 思 わ れ る 。 と い う の は 、 蘭 陵 出 身 の 慧 明 は 、 湖 州 仏 川 寺 を 中 心 に 活 動 し 、 そ こ で 亡 く な っ た た め 、 同 寺 に 因 ん で ﹁仏 川 大 師 ﹂ と 呼 ば れ た と 考 え ら れ る が 、 そ の 彼 の 名 に ﹁方 巌 ﹂ や ﹁策 公 ﹂ と 冠 さ れ る 理 由 は 、 ﹁塔 銘 ﹂ か ら は 全 く 浮 か び 上 が っ て こ な い か ら で あ

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る 。 特 に 、 ﹁策 公 ﹂ と い う の は 人 名 と 思 わ れ る が 、 慧 明 は 、 な ぜ ﹁策 公 ﹂ と 通 称 さ れ た の だ ろ う か 。 更 に 、 も し 、 実 際 に 慧 明 が 南 宗 六 祖 慧 能 か ら 直 接 に 禅 法 を 授 か っ た な ら ば 、 ﹁塔 銘 ﹂ は な ぜ そ の 機 縁 に つ い て 全 く 触 れ よ う と し な い の で あ ろ う か 。 む し ろ 、 ﹁塔 銘 ﹂ の 記 述 は 、 慧 明 が 悟 り を 開 い た 機 縁 は 、 ﹁慧 能 ﹂ と は 別 の 人 物 に よ る も の と し て い る よ う に も 読 み 取 れ る 。 ﹁塔 銘 ﹂ に よ れ ば 、 慧 明 は 、 則 天 武 后 神 功 元 年 ( 六 九 七 ) に 生 ま れ 、 開 元 七 年 ( 七 一 九 ) 、 二 十 三 才 の 時 に 具 足 戒 を 受 け た と 推 察 さ れ る 。 更 に 、 慧 明 の 悟 り の 機 縁 に 関 し て は 、 一 箇 所 に 、 た だ ﹁西 詣 方 巌 、 頓 開 心 地 ﹂ と 記 載 さ れ る だ け で あ る が 、 そ の 中 に 見 え る ﹁ 方 巌 ﹂ は 、 慧 明 を 悟 り へ と 導 い た 禅 師 を 指 し て い る と 思 わ れ る 。 従 っ て 、 こ の 記 事 は 、 慧 明 が 、 開 元 七 年 以 後 、 方 巌 禅 師 に 詣 で 、 そ こ で 大 悟 を 開 い た 、 と い う 意 味 に な る で あ ろ う 。 そ し て 、 こ れ が 実 際 の 状 況 で あ っ た と す れ ば 、 慧 能 の 門 下 と さ れ る 慧 明 は 、 一 体 、 い つ 慧 能 に つ い て 修 行 を し た の で あ ろ う か 。 も し 、 そ れ が ﹁ 西 詣 方 巌 ﹂ 以 前 の こ と で あ れ ば 、 彼 は 、 慧 能 の 門 下 で は 結 局 悟 れ な か っ た こ と に な り 、 慧 能 の 直 弟 子 、 例 え ば 玄 覚 ・ 神 会 と 同 学 で あ っ た と は 称 し 得 な く な る 。 ま た 、 も し 、 慧 能 と の 出 会 い は ﹁西 詣 方 巌 ﹂ 以 後 の こ と と す る と 、 そ の 年 代 は 開 元 七 年 を 更 に 下 ら な け れ ば な ら な く な る が 、 し か し 、 そ の 時 は 、 慧 能 は 既 に 亡 く な っ て い て 、 両 者 の 出 会 っ た 時 期 と す る の に は 無 理 が あ る 。 こ の よ う に 、 ﹁塔 銘 ﹂ に 基 づ い て 見 て く る と 、 慧 明 が 禅 法 を 南 宗 六 祖 慧 能 か ら 直 接 に 受 け た 、 と い う の は 歴 史 的 事 実 と し て 認 め 難 く な る 。 現 存 資 料 の 中 で 、 実 際 に 、 慧 能 と 慧 明 と を 関 連 付 け る 記 載 は 、 ﹁塔 銘 ﹂ に 見 え る ﹁ 第 六 祖 曹 渓 能 公 能 公 伝 方 巌 秉 策 公 乃 永 嘉 覚 荷 沢 会 之 同 学 也 方 巌 即 仏 川 大 師 也 ﹂ と い う 箇 所 を 除 け ば 、 ほ か に は 一 切 存 在 し な い の で あ る 。 従 っ て 、 我 々 は 、 慧 能 と 仏 川 慧 明 と を 結 び つ け る 記 載 を ほ か に 求 め 得 る こ と が で き な い 以 上 、 今 一 度 、 ﹁第 六 祖 曹 渓 能 公 能 公 伝 方 巌 秉 策 公 乃 永 嘉 覚 荷 沢 会 之 同 学 也 方 巌 即 仏 川 大 師 也 。 ﹂ と い う 記 載 の 解 釈 を 見 直 す べ き で は な か ろ う か 。 従 来 は 、 こ の 記 載 に 基 づ い て 、 慧 能 の 法 嗣 方 巌 が 即 ち 仏 川 慧 明 で あ る こ と は 疑 わ れ な か っ た 。 し か し 、 こ の よ う な 解 釈 を 受 け 入 れ て し ま え ば 、 同 時 に 、 こ れ ま で 指 摘 し て き た よ う な 様 々 な 齟 齬 も 同 時 に 容 認 せ ざ る を 得 な く な る の で あ る 。 こ の 際 、 こ れ ま で 全 く 考 え ら れ て こ な か っ た 、 も う 一 つ の 可 能 性 に つ い て 考 え て み た い の で あ る 。 そ れ は 、 ﹁第 六 祖 曹 渓 能 公 能 公 伝 方 巌 秉 策 公 乃 永 嘉 覚 荷 沢 会 之 同 学 也 方 巌 即 仏 川 大 師 也 ﹂ の 中 に 現 れ る ﹁ 方 巌 策 公 ﹂ と い う 人 物 は 、 慧 明 本 人 で は な く 、 彼 を 悟 り に 導 い た と 伝 え ら れ る ﹁方 巌 ﹂ を 指 し て お り 、 そ し て 、 こ の ﹁ 方 巌 ﹂ こ そ が 、 慧 能 の 直 弟 子 で あ り 、 玄 覚 ・ 神 会 の 同 学 で あ っ た と い う 可 能 性 で あ る 。 荊 渓 湛 然 の 啓 蒙 師 ﹁方 巌 和 尚 ﹂ (池 )

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荊 渓 湛 然 の 啓 蒙 師 ﹁方 巌 和 尚 ﹂ (池 ) こ の 推 測 が 成 り 立 つ に は 、 現 行 本 ﹁塔 銘 ﹂ に ﹁第 六 祖 曹 渓 能 公 能 公 伝 方 巌 秉 策 公 乃 永 嘉 覚 荷 沢 会 之 同 学 也 方 巌 即 仏 川 大 師 也 ﹂ と 現 れ て い る 箇 所 は そ の ま ま 信 用 す べ き で は な く 、 こ の 中 に 誤 字 脱 字 が 二 箇 所 含 ま れ て い る と 考 え な け れ ば な ら な い 。 一 に 、 ﹁第 六 祖 曹 渓 能 公 能 公 伝 方 巌 秉 策 公 乃 永 嘉 覚 荷 沢 会 之 同 学 也 ﹂ の 中 に 見 え る ﹁秉 ﹂ は 術 字 で は な く 、 元 々 は ﹁策 ﹂ 字 で あ っ た が 、 伝 写 さ れ る う ち に ﹁ 秉 ﹂ と 書 か れ る に 至 っ た と 考 え る の で あ る 。 第 二 に 、 ﹁方 巌 即 仏 川 大 師 也 ﹂ と い う 一 文 は 、 そ の 中 に 見 え る ﹁即 ﹂ は 誤 字 で 、 本 来 は ﹁伝 ﹂ で あ っ た の か 、 或 い は 、 ﹁方 巌 即 ﹂ と ﹁仏 川 大 師 也 ﹂ と の 間 に 脱 文 が あ る か と 考 え ら れ る 。 こ の 二 箇 所 を 訂 正 す る と 、 ﹁第 六 祖 曹 渓 能 公 能 公 伝 方 巌 秉 策 公 乃 永 嘉 覚 荷 沢 会 之 同 学 也 方 巌 即 仏 川 大 師 也 ﹂ と い う 記 載 は 、 ﹁第 六 祖 曹 渓 能 公 、 能 公 伝 方 巌 策 、 策 公 乃 永 嘉 覚 ・ 荷 沢 会 之 同 学 也 。 方 巌 伝 仏 川 大 師 也 。 ﹂ と 書 き 直 さ れ る の で あ る 。 そ し て 、 こ の 一 文 は 、 第 六 祖 曹 渓 慧 能 が 心 法 を 方 巌 策 に 伝 え た た め 、 策 公 は す な わ ち 永 嘉 玄 覚 や 荷 沢 神 会 の 同 門 に な り 、 方 巌 策 は 更 に 禅 法 を 仏 川 大 師 (慧 明 ) に 伝 え た 、 と い う 意 味 に な り 、 従 っ て 、 慧 明 は 、 方 巌 策 の 直 弟 子 で あ り 、 慧 能 の 孫 弟 子 と な る の で あ る 。 慧 能 の 門 下 に あ っ て 、 玄 覚 や 荷 沢 神 会 の 同 学 で あ る ﹁方 巌 策 ﹂ と 言 え ば 、 そ れ は 東 陽 玄 策 そ の 人 以 外 に は 考 え ら れ な い で あ ろ う 。 そ し て 、 ﹁方 巌 策 ﹂ と 東 陽 玄 策 が 同 一 人 物 と 考 え る 理 由 は 二 つ あ る 。 そ の 第 一 の 理 由 は 、 両 者 は 共 に 慧 能 の 門 下 に あ っ た と さ れ 、 名 前 に も ﹁策 ﹂ と い う 共 通 の 字 が 見 え る か ら で あ る 。 第 二 の 理 由 は 、 ﹁方 巌 策 ﹂ と い う 呼 称 そ の も の の 中 に 存 在 す る 。 こ の ﹁方 巌 策 ﹂ と い う 呼 称 の う ち 、 ﹁ 策 ﹂ が 人 名 で あ り 、 ﹁方 巌 ﹂ と い う の は 東 陽 金 華 付 近 に あ る 山 の 名 前 で あ り 、 ﹁東 陽 ﹂ と ﹁方 巌 ﹂ と は 無 関 係 で は な い か ら で あ る 。 三 、 ﹁方 巌 和 尚 ﹂ が ﹁ 玄 策 ﹂ と 同 一 人 物 で あ る 可 能 性 こ こ で 、 再 び 湛 然 の 伝 記 資 料 で あ る ﹁小 石 碑 ﹂ に 視 線 を 向 け て み た い 。 ﹁小 石 碑 ﹂ に は 、 ﹁ [ 開 元 ] 二 十 年 、 於 東 陽 金 華 、 遇 方 巌 和 尚 ﹂ と い う 記 載 が あ り 、 そ こ に ﹁東 陽 金 華 ﹂ や ﹁方 巌 和 尚 ﹂ と い う 固 有 名 詞 が 現 わ れ て い る 。 こ の ﹁方 巌 ﹂ は 、 師 の 名 を 直 接 記 す こ と を 避 け て 、 そ の 駐 錫 す る 山 に 因 ん で の 呼 称 で あ ろ う 。 前 述 し た よ う に 、 方 巌 玄 策 、 す な わ ち 東 陽 玄 策 の 伝 記 に よ れ ば 、 玄 策 は 女 州 (東 陽 郡 と も 言 う ) 金 華 の 出 身 で あ り 、 慧 能 に 学 ん だ 後 、 金 華 で 大 い に 活 躍 し た と 伝 え ら れ て い る の で あ る 。 つ ま り 、 方 巌 玄 策 と 方 巌 和 尚 と は 、 名 前 (方 巌 ) が 一 致 す る だ け で な く 、 活 動 し た 時 代 や 地 域 (東 陽 金 華 ) も 共 通 す る こ と に な り 、 同 一 人 物 で あ る 可 能 性 が あ る と 言 え よ う 。 更 に 、 す で に 柳 田 [ 一 九 六 七 ] に 指 摘 が あ っ た よ う に 、 東 陽 玄 策 は 、 左 渓 玄 朗 や 永 嘉 玄 覚 と 親 交 の あ っ た 人 で あ

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る 。 こ の 接 点 も 考 慮 に 入 れ る と 、 湛 然 が 開 元 二 十 年 頃 、 東 陽 金 華 で 出 会 っ た ﹁方 巌 和 尚 ﹂ は 、 南 宗 禅 の 六 祖 慧 能 の 弟 子 で あ る 東 陽 玄 策 、 ま た は 仏 川 慧 明 が 開 元 七 年 以 後 に 師 事 し た ﹁方 巌 策 ﹂ と は 、 同 一 人 物 で あ る 可 能 性 は 非 常 に 高 い と 思 わ れ る の で あ る 。 従 来 、 ﹃ 景 徳 伝 灯 録 ﹄ 巻 五 に 見 え る ﹁永 嘉 玄 覚 禅 師 ⋮ ⋮ 丱 年 出 家 、 遍 探 三 蔵 、 精 天 台 止 観 円 妙 法 門 。 於 四 威 儀 中 、 常 冥 禅 観 。 後 因 左 谿 朗 禅 師 激 励 、 与 東 陽 策 禅 師 同 詣 曹 谿 。 ﹂ と い う 記 述 に よ っ て 、 玄 朗 と 玄 覚 と の 親 交 や 天 台 仏 教 と 南 宗 禅 と の 交 渉 が 知 ら れ て き た 。 も し 、 湛 然 の 啓 蒙 師 で あ る ﹁方 巌 和 尚 ﹂ が 、 実 際 に 南 宗 六 祖 慧 能 の 門 下 で あ る ﹁東 陽 玄 策 ﹂ そ の 人 で あ れ ば 、 こ れ も ま た 唐 代 に お け る 天 台 復 興 運 動 の 中 心 人 物 と 南 宗 禅 の 代 表 的 人 物 と の も う 一 つ の 重 要 な 接 点 と な る 。 従 来 、 湛 然 の 禅 宗 に 対 す る 態 度 は 否 定 的 で あ り 、 特 に 、 祖 統 論 に 関 し て は 、 禅 宗 の 祖 統 論 の 確 立 は 天 台 宗 の 影 響 を 受 け た も の で あ り 、 湛 然 は 天 台 仏 教 の 立 場 か ら 禅 宗 の 祖 統 論 に 批 判 的 な 態 度 を 示 し て い る と 理 解 さ れ て き た 。 唐 代 に お け る 天 台 仏 教 の 復 興 運 動 の 一 環 と し て 、 祖 統 論 の 提 唱 に よ る 天 台 止 観 伝 承 の 正 統 化 は き わ め て 重 要 で あ っ た 。 し か し 、 湛 然 の 時 代 で は 、 自 ら の 伝 承 の 正 統 性 と 優 越 性 を 主 張 し よ う と す る 志 向 は 一 種 の 時 代 的 風 潮 の よ う な も の で あ り 、 決 し て 独 自 の 発 想 で は な か ろ う 。 そ の 典 型 的 な 一 例 と し て 、 禅 の 東 山 法 門 で は 、 北 宗 系 統 と は 相 違 す る と い う 自 覚 に 立 っ て 、 南 宗 、 牛 頭 禅 、 四 川 の 剣 南 智 先 、 お よ び 洪 州 馬 祖 の 系 統 が そ れ ぞ れ 自 ら を 正 統 と す る 伝 灯 説 を 主 張 し て い た こ と が 挙 げ ら れ よ う 。 そ し て 、 湛 然 の 場 合 は 、 そ の 師 匠 玄 朗 が 南 宗 の 玄 覚 と 親 交 を 持 っ た だ け で は な く 、 更 に 彼 自 身 も か つ て 慧 能 の 門 下 で あ り 神 会 の 同 門 に あ た る 方 巌 和 尚 に 学 ぶ 経 験 を 持 つ と い う こ と も 判 明 し て く れ ば 、 湛 然 の 正 統 主 張 は 、 神 会 を 中 心 と し て 興 起 し た 南 宗 の 正 統 標 榜 運 動 か ら 影 響 を 汲 ん で い た と し て も 不 思 議 で は な い 。 従 っ て 、 唐 代 に お け る 天 台 仏 教 の 復 興 運 動 を 論 じ る 際 に 、 禅 宗 と の 対 抗 関 係 を 明 ら か に す る の も 重 要 で あ る が 、 天 台 仏 教 の 復 興 な い し 天 台 宗 の 確 立 と 南 宗 禅 の 興 起 と の 問 に 存 在 す る 共 通 点 や 類 似 性 も 無 視 で き な い と 考 え る 。 更 に 、 天 台 仏 教 と 南 宗 禅 は ほ ぼ 同 じ 時 代 に 、 同 様 に 中 国 南 方 地 域 に お い て 興 っ た と い う 社 会 的 宗 教 的 現 象 と そ の 性 質 の 解 明 は 、 必 ず や 、 我 々 に そ の 時 代 の 仏 教 に 対 す る 理 解 を 深 め さ せ て く れ る で あ ろ う 。 ︿キ ー ワ ー ド ﹀ 湛 然 、 方 巌 、 玄 策 、 慧 明 、 唐 代 天 台 、 南 宗 禅 (国 際 仏 教 学 大 学 院 大 学 学 術 フ ロ ン テ ィ ア 研 究 員 、 文 博 ) 荊 渓 湛 然 の 啓 蒙 師 ﹁方 巌 和 尚 ﹂ (池 )

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(158) Abstracts

posed of 42 questions on Tiantai Doctrine, and is a test which Siming Zhili

四 明 知 礼(960-1028)assigned to his disciples.

In this paper I tried to analyze the contents of this text in compassion with

'Kaii shimon shijunisyoto'開 偉 試 問 四 十 二 章 答

written by Koken 光

謙(1652-1739).Iwill examine this text to understand the fundamental thought of

Tiantai Buddhism in the Early Song. Thus the mutual relations of this text

and'Jiangwei wenda sanshizhang'緯 偉 問 答 三 十 章,'Jiaomen zawenda qizhang'

教 門 雑 問 答 七 章,'Sizhong sidi wenda'四 種 四 諦 問 答are confirmed too.

7. Fangyan Heshang: the Enlightenment Instructor of Jingxi Zhanran

CHI Li-mei

According to an inscription entitled "Xiao-shibei (The small stone

monu-ment)," it is said that in the sixteenth year of the Kaiyuan era, Jingxi Zhanran

came to Zhedong (the east part of Zhejiang)

area to look for a Buddhist master.

Three years later, before he eventually began to apprentice himself to Zuoxi

Xuanlang, Zhanran met his enlightenment instructor from whom he had

re-ceived instruction on Tiantai doctrines as well as some texts of Zhiguan (The

cessation-and-contemplation).

Due to the limited information on Fangyan Heshang, scholars only

as-sumed that Fangyan was likely to be a disciple of Xuanlang. Not until 1999

did scholars, such as Xu Wenming of China and Kocho AKITA

of Japan,

be-gin to realize that Fangyan could be Fangyan Xuance, one of the disciples of

Huineng - the sixth patriarch of the Southern Chan sect. Based on the

as-sumption mentioned by the two scholars, this paper attempts first to outline

the figure of Xuance, and then to review the possibility of identifying

Fang-yan Heshang with Xuance.

8. Doctrinal Interpretation of Tiantai Through Zhiyi's Attitude

KASHIWAGURA

Akihiro

A grave concern of mine is what to consider as the unique characteristic

of Tiantai Doctrine. The Doctrine does not imply the teaching of Tiantai

alone. To understand the true concept of Tiantai Doctrine, one will have to

参照

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