民族政治の権威主義的転回
−ハンガリー、フィデス連立政権の隘路−
渡 辺 俊 彦
はじめに Ⅰ.東欧のハンガリーから西欧のハンガリーへ Ⅱ.1998年選挙とフィデスの勝利 Ⅲ.減税か増税か―フィデス連立政権の税制改革 Ⅳ.市場化政治の民族権威主義的転回―フィデス連立政権の隘路 おわりにはじめに
ハンガリーの人口はおよそ1,000万人であるから、いわゆる小国である。しかし、ハンガリ ーは中欧に、あるいは広義のバルカンに位置して20世紀の歴史に固有の足跡をのこしてきた。 第1次世界大戦で敗北した結果、トリアノン条約のもとにハンガリーの国土は3分の1に縮小 され、およそ400万人以上のハンガリー人が国境外に取り残され、あるいはまた1956年の「ハ ンガリー革命」においては、ソ連軍(ワルシャワ条約機構軍)の侵入を経験することにもなっ た。それらの事件の背景にあって、少なからず事件を誘引したものとしてハンガリーの中欧的、 バルカン的性格があげられるのである。 ハンガリーにとって、トリアノン条約とは、第1次大戦前の現在の3倍の領土の時代におけ る諸民族混住による民族間の確執というバルカン的性格が、国境外に400万人のハンガリー人 を放置するという列強の決定によって中欧ハンガリーに遡及したことを意味するものであっ た。西欧と東欧とのはざまに位置し、他方でバルカン的性格を帯びるというハンガリーの地理 的歴史的特殊性が時代の状況を通して翻案されることによってトリアノン条約を出現させ、か くして、さらにまたバルカンの後遺症を引きずらせ、ソ連軍の侵入をひき起こしていったので ある。 これらの歴史的事件は現在なおハンガリー政治を動かす基底要因をなし、ハンガリー国民に 何らかのプラス、マイナスの思考と感傷をひき起こすものとして存在している。たとえば、こ の二つの事件は戦間期、ハンガリー外交やハンガリー社会主義および体制転換のプロセスに直接的に、間接的に大きな影響を与えてきたし、特に転換後はハンガリー民族主義の一つの温床 をなし、民族主義者や極右政党がこの問題をアピールして一定の支持を集める格好の材料とな ってきた。 第2次大戦後、ハンガリーは社会主義国家としての歩みを開始し、1956年の「ハンガリー革 命」の後、60年代後半から「新経済メカニズム」と呼ばれる経済改革を開始する。それは市場 経済導入の先鞭をつけるものとなったが、ソ連の圧力のもとに「社会主義の枠内」における改 革としての制約を免れることはできなかった。ここにも大きな緊張感のもとで、両国で、ある いは世界で20世紀ハンガリーの歴史的位置、意味の吟味がなされたことであろう。 以来、1980年代の体制転換にいたる過程は冷戦構造という拡大鏡を通してハンガリーの歴史 的存在意義が大きく映った時代であったが、現在の市場化社会の建設をめぐる苦闘のプロセス の持つ意味は、現在もまたハンガリー固有の中欧的、バルカン的、そして歴史的存在を通して 翻案され、より注目されるべきものとして姿を現している。 周知のように、世紀末の10年を体制転換の10年としておくることになっハンガリーにおいて、 その間、3回の国政選挙が行われてきた。第1回目選挙は民族主義的中道右派のハンガリー民 主フォーラムを中心にした連立政権を成立させ、第2回目はハンガリー社会党(旧政権党ハン ガリー社会主義労働者党の改革派によって結成された)が市場化へ直進しようとする自由民主 連合と連立政権を成立させた。そして1998年の第3回目の選挙は青年民主連合、いわゆるフィ デスが社会党にせり勝ち、独立小農民党および民主フォーラムとともに中道右派連立政権を樹 立した。 小稿においては、フィデス連立政権を中心にして歴史的ハンガリーの政治的現状が分析され る。
Ⅰ.東欧のハンガリーから西欧のハンガリーへ
ハンガリー政治にその中欧的、バルカン的性格が陰を落としてきたとすれば、それはさしあ たって中欧という地理的要因と国境外に住む400万人以上のハンガリー人がもつ政治的意味で あろう。これらの具体的問題は時代の状況を通して直ちに政治化され、ハンガリーを翻弄する ことになった。たとえば、ソ連軍の戦車によって踏み潰された1956年の「ハンガリー革命」は その社会主義の路線がもつ深刻な意味とともに、西部国境でオーストリアに接し、北部、東部、 そして東南部でチェコ・スロバキア、ソ連、ルーマニアなどに囲まれるようにしてあったハン ガリーの位置とそれら国境外周辺に住む400万のハンガリー人がワルシャワ条約機構軍の侵入 を招き寄せることによって起きたといえる。いわば波及性に富み「危険な」ハンガリーはそれ ゆえそれ以降東方からの圧力に一貫してさらされることになるが、80年代後半に起きるソ連、 中・東欧社会主義体制の崩壊によって、これら圧力は解消し環境は一変するのである。 体制転換の時代をむかえて、しかしハンガリーはその固有の歴史的条件のもとに、ソ連に代 わってアメリカを中心とする西方からの「支援」という圧力のもとにおかれることになった。その交代は実は早くから用意周到に進められていた。 筆者は西側の中・東欧援助政策および関与政策について別稿で検討しており、重複するが、 ここでもおよそのところを述べておきたい1)。それは、体制転換にかかわる西側援助額の総額 が700億ドルをこえること、このうちEU側の308億ドルに比べてアメリカの直接援助は74億ド ルであり、額においてはEU側の背後に回ったかの感を受ける。しかし、IMFや世界銀行に占め るアメリカの支配的位置からしてその200億ドルを加えると、その援助額は一挙に270億ドルに 増える。さらにアメリカ独自の“SEED”ACT(東欧民主化援助法)援助の13億ドルがそこに 加わり、その上G24カ国会議に対して持ったアメリカの影響力を考慮すれば、アメリカはEUを しのいで、1989年の中・東欧体制転換そのものと、その後の市場化の主導国としての姿を現わ してくるということであった。 さらにそれよりもかなり前、アメリカのハンガリーにおける活動はすでに1970年代後半に始 まっていた。その一例をあげておこう。現在、ハンガリーでは初代国王セント・イシュトバー ンによる建国一千年のミレニアムを迎えており、建国以来伝えられてきた王冠「セント・コロ ナ」を民族の象徴として神聖化する動きが、多様な祝賀行事を通して頂点に達している。コロ ナが現代政治に持つ意味を明快に語るものは、そもそもコロナが辿ることになった数奇な運命 である。第2次大戦末期、ジューコフ指揮下のソ連軍が迫るブダペストでは、王宮に厳重に保 管されていたコロナの避難がはじまる。コロナは護衛されて、フランクフルトのドイツ帝国銀 行を目指すが、その途中でアメリカ第7軍によって接収される。その後、コロナはアメリカに 持ち去られて、長くテキサス州フォートノックスの倉庫に保管されていたが、それが1978年に、 カーター大統領らの決定によってハンガリーに返還されることになった。その年の1月5日、 コロナとともに特別機から降りたったアメリカの議員団をフェリヘジー空港でにぎにぎしく出 迎えたのは、アプロ・アンタル国会議長や議員団であった2)。 この時期、ハンガリーはすでに83億ドルと膨れ上がった西側からの累積債務を抱えて、68年 以来の「新経済メカニズム」を設定し直して、新たな「市場価格政策」を推進しようとしてい た3)。アメリカはその状況を中欧に打ち込んだ「楔」としてさらに強化するために、コロナの 返還によってその政治的意味を効果的に活用しようとしたのである。 以来、潜在的に継続されるアメリカの関与が顕著な姿を現してくるのは、先の別稿でも述べ ているのであるが、1985年、6年ころ、CIA、アメリカ情報局のハンガリーにおける活動を通 してである。チズマディアによれば4)、カーダール第1書記は、当時「アメリカ政府の機関は 一般的に礼儀正しく理解があり、実務的なハンガリーの態度とは対照的である。他方CIAと他 の諸組織(それらのスポークスマンが『自由ヨーロッパ』と『アメリカの声』である)は、全 力で内部で政治的支持を得るために活動している」と認識していた。そして、アメリカのこの ような「二重政治」の第2の要素を通じて、反対派の影響力は政治的指導にとってすでに掌握 出来ない規模に成長していたので、カーダールは、「1986年秋を反対派=敵との実際の衝突が 不可避的に起きる分水嶺と考えていた」。 実際に、「アメリカの活動」は極めて活発であった。1982年の秋から始まるハンガリー系ア
メリカ人、ショロシュ・ジュルジー(ジョージ・ソロス)の「開かれた社会基金」による「民 主反対派」をアメリカに招待するプランは、著名な活動家や芸術家のアメリカ旅行を次々と実 現していった。ハンガリー学生のボストン招待旅行、チュルカ・イシュトバーン(現極右の 「ハンガリー正義と公正な生活の党」(MIÉPと略称)党首)のアメリカ旅行や「自由ヨーロッ パ」への出演(1986年)、コーシャ・フェレンツ、ライク・ラスローおよびクラッシュ・ジュ ルジーら映画監督や文筆家のアメリカやロンドン滞在、さらに彼らのアメリカ・ペンクラブ加 盟(1986年)等はすべてこの間のできごとであり、ナジマロシュ・ダムの建設に反対する「有 料広告」の掲載(ナジマロシュ・ダム反対委員会は1988年結成)、あるいは円卓会議期に当事 者意志を放棄したがごとき社会主義労働者党の対米迎合的姿勢等と枚挙にいとまがなく、これ らの背後に少なくとも一定の政治目的をもったアメリカの資金援助や力の行使があったとみな すことが可能であろう5)。さらに、1989年7月ジョージ・ブッシュ、アメリカ大統領はハンガ リーを訪問して公然と「民主反対派」との会見を希望し、労働者党内でポジュガイら改革派に 対立していたグロースら保守派に圧力を行使して、「円卓」での協議を継続させたのである6)。 ハンガリーは体制転換時170億ドルもの巨額の債務に苦しみ、国家財政は破たん状況に陥っ ていた7)。ハンガリーは1982年にIMFと世界銀行に加盟したが、チズマディアは、「1982年は周 知のように国家は破産の瀬戸際にあった。その状況にIMFと世界銀行加盟のドアが開いたので あり、それが[上記の]著名な民主反対派人士の旅行に対する妨害を許さなかったのである8)」 と述べている。すでに西側金融資本による圧力は政権の中枢に直接及んでいたというべきであ ろう。 いずれにしても、IMFと世銀からだけの債務は1989年までの社会主義時代に10億ドルに達し ていたが、その後の急速な市場化の5年間で、それは33億7000万ドルの額に達したのである9) 。 したがって、債務は差引きさらに20億ドル以上増えて、それだけで総計190億ドル台の額に達 したと考えられよう。もちろん償還の努力も続けられたであろうが、その他の転換後の2国間 の借款はここに入っておらず、したがって債務は増えこそすれ、決して減ることはなく、それ は94年にはおよそ266億ドルに膨れ上がっていた1 0 )。ハンガリーの政府歳入(94年)はおよそ 150億ドルであることを考えれば1 1 )、それは歳入の1.8倍近くを占め、ハンガリーの対西側政策 の決定的な制約要因になっていた。 たとえば、ハンガリーの体制転換の基本的理念と政治構造は、直接的には1989年の国民円卓 会議の交渉の場で生み出されたものであるが、国民円卓会議は、社会主義労働者党(改革派)、 反対派勢力が結集した反対派円卓会議および他の社会諸団体の3者から構成され、そこでわず か3カ月ほどの間に転換の理念と枠組みが作り上げられたのである。そこには、政治・法律制 度と経済制度の2つの領域にそれぞれに6個づつの作業委員会が設けられ、特に前者の憲法改 正作業グループ、政党法と政党財政グループ、および選挙法グループは新体制の政治的構造を 造り上げるという重要な活動を行った。 3者の交渉経過は労働者党改革派と反対派円卓会議との2者を中心にした一定の枠内におけ る対立と妥協とを示すことになった。トウーケシュはそれを「コーポラティブ・ゲーム」と示
唆しているが1 2 )、改革派の妥協を前提にして急先鋒の自由民主連合が議論をリードしていくと いう経過であったと思われる。ガーボル・トーカは「最初の自由選挙の前に憲法改正について 包括的処理が許されたということにおいて多少奇妙である」と指摘している1 3 )。確かに、国家 の根本法から政治体制全体にいたるまで、国民円卓会議とはいえ限られた作業グループが構想 し、ほとんど民意を失った議会によって、形式的にそれを正当化するという行為には理解しが たいものがある。ただ、先にも述べたように、この背景に70年代の後半から開始されたアメリ カの「支援」と活動とをすえてみてはじめて、事態の一端が明らかになってくるように思われ る。ハンガリー体制転換の指揮官はまぎれもなくアメリカであった。
Ⅱ.1998年選挙とフィデスの勝利
ハンガリーではこれまで行われた3回の国政選挙で、与党はそのたび毎に敗北を味わってき た。もっとも第1回選挙では、旧政権党はむろん、およびその後継政党であるハンガリー社会 党の勝利の可能性はもとよりなかった。 1994年の第2回選挙では、ハンガリー社会党が単独過半数を得て大勝し、自由民主連合と連 立政権を樹立した。前のアンタル政権の与党、民主フォーラムは第1回選挙の164議席を37議席 に激減させて大敗し、青年民主連合、フィデスーMPPも1減の20議席に終わり党勢の拡大はな らなかった(フィデスはこれを契機に35才以下という党員資格の条件をはずし、ハンガリー市 民党−Mgyar Porgári Pártに党名を改称、以後一般的にフィデスーMPPと表記される)。ハンガ リー社会党は一方で体制転換の敗者の不満を背景にして勝利を獲得する一方、他方では「体制 転換の旗手」、自由民主連合と連立するという深刻な矛盾を背負い込むことになった。そして、 1998年の第3回選挙において、そのハンガリー社会党がフィデスに敗北して政権の座を下りる のである。 社会党の敗因はなによりもインフレの高騰下にボクロシュ蔵相の大がかりな緊縮政策による 急激な市場化の施策、いわゆるショック療法的社会補償費削減のボクロシュ・パッケージ(緊 縮施策の詰め合わせ)にあった(ボクロシュ・パッケージについては注を参照されたい)1 4 )。 ホルン社会党の4年間、特に94年、95年にはこの緊縮政策による市場経済へのラディカルな再 編下に、ハンガリー国民は10∼18%にもおよぶ失業率と28∼30%のインフレ状況に、32%もの 通貨フォリントの切り下げや社会福祉の切り捨てが重なるという困難な状況に耐えねばならな かった1 5 )。ヴァルガによれば1 6 ) 、「[社会党の敗因は]西側金融界によって認知されたボクロシ ュ・ラヨシュ[ブタペスト銀行頭取]やシュラニー・ジュルジー[ハンガリー国立銀行頭取]」 を起用することによって、ハンガリー民族(社会)の願望と利益を視野に収めた政治家にでは なく、金融専門家に国家の運命を託したことにあった。そして、「彼らはIMFと世界銀行が期 待し、承認した項目にそって、さらにEU加盟の条件に基づいてプログラムと目的を描き、そ してハンガリーの投票者の期待を裏切った」のである。 当時、ホルン首相はベーケシ蔵相を更迭し、新しくボクロシュを蔵相に任命するが、この蔵相の交代劇の背後に、アメリカの「力」の行使があったことについてはおよそのことが指摘で きる1 7 )。アメリカ両院合同経済委員会の研究課題に従事して、ダニーリィクはアメリカ議会へ の報告書を作成した。彼はそこで94年5月以降「ハンガリー政府との合意を遅れさせている未 解決の問題は、ハンガリーの幼弱な産業、あるいは再編中の産業を守るために、ハンガリー政 府が10年間保護的な措置を採ることが許されるべきだと主張していることである」と述べてい る1 8 )。ベーケシ蔵相はハンガリーの当然の主張をし、そして更迭されたといえるだろう。彼は 辞任後、国営企業を自然淘汰にまかせたうえ、さらに福祉予算を削減して、GDPの22%もの額 をインフラ整備等の成長施策に集中することは、国民に苦痛以外に与えるものはないと批判し たが1 9 )、ベーケシの更迭は国民経済の「解体再編」という課題を果たすためにボクロシュ・パ ッケージが登場してきたことを明確に物語っている。 他の諸党もまた、この「西側金融界が期待し承認した」ボクロシュの体系的緊縮政策、いわ ゆるボクロシュ・パッケージに対して態度の表明を迫られ、そのために政党間関係はダイナミ ックに変化していくことになった。フィデスもそれまで兄弟党と目されてきた自由民主連合と ボクロシュ・パッケージに対して厳しい批判を行い、自由民主連合との訣別を決定的なものに していった2 0 )。公式文書「大いなるペテン、社会党ー自由民主連合政府の最初の1年」を発表 して、フィデスは、公約した「社会的に管理された国家」を無視して反社会保障的国家をめざ すボクロシュの政策をペテンとして激しく攻撃し、それに加担する自由民主連合とそれまでの 友誼関係を断ったのである2 1 )。レンジェル・ラスローによれば、フィデスはそれまでの保守的 自由主義の批判政党からここで右翼ポピュリスト陣営に転じ、反自由主義的社会的保護主義者 の主張のもとに独立を求める不満の政治、体制転換の「敗者の擁護」へと旋回し、民族主義、 ポピュリズム、反自由主義の性格をもつ民主フォーラム、独立小農民党、さらにはキリスト教 民主人民党との連携姿勢を明確にしていった22)。 フィデスはこうして、社会主義政権の末期の積極果敢な攻勢以来積み重ねてきた行動的党と いう評価を基礎に、民族の政治、あるいは右翼ポピュリスト陣営の側からボクロシュ・パッケ ージに苦しむ国民の期待を集めていった。 ホルケイ・H・フェレンツはそれについて、「国 民的、伝統的、歴史的階級〔地方の小都市住民やブダ地区上流階級〕と若者の民主主義の最初 の世代との出合いを意味し、広い市民的ユニオンの基礎になった」と肯定的な評価を下してい るが2 3 )、他方ではそうした「市民ユニオン」は西側金融界、あるいはアメリカ支配のもとにど れだけの可能性をもつのか問われていくことになったのである。 さて、もう一つのフィデスの勝因はハンガリーの選挙制度に求められる。1989年10月に制定 されたハンガリーの選挙法(法律1989年第34号)は、一定の方向性をもった選挙結果を誘導す るいくつかの規程を要所に配置した「小選挙区比例代表混合制」と呼ぶべき複雑な仕組みを生 み出した2 4 )。それは、これまで3回行われた選挙結果に一定のバイアスをかけ、それを拡大す る効果を果たしてきたもので、選挙結果を判断するに際しては除外することが出来ないものに なっている。 同法によると、ハンガリー議会は下院一院制で定数は386人であるが、それは小選挙区制個
人選挙区から選出される176議員と、比例地方区からの152議員、および全国区からの58議員か らなる。個人区候補者になるためには、750人以上の推薦署名(選挙民一人一候補者推薦)を 得なければならない。地方区は選挙区の4分の1以上に候補者を立てた党が地方区リストを出 すことができる。全国区は7区以上にリストを出した党だけが対象となる。またリストを連結 して政党間での候補者調整も可能である。投票は2回にわたって行われうるが、第1回目得票 率は50%以上必要であり、それが達成されない場合には、2回目の投票において25%以上の得 票率が必要であるばかりでなく、それは個人区も比例区も同様に適用される。 個人区では、第1回目投票の半数以上をえた最多得票者が当選する。そして、50%条項のた め当選者が出なかった場合には、15%以上の有効投票の獲得者3人以上が、あるいは該当者が少 なくとも3人揃わなかった場合には、上位から3人の最大票の獲得者が2回目の投票に回るこ とができる。 比例地方(県)区では、議席の配分は投票総数を割り当て議席数で割って必要得票を出し、 議席を配分する、つまり党は得票に応じてリストに従い、順次議席を獲得する。しかし、これ には2つの独特の関門が用意されている。一つは、最大残余票に1議席配分する方式がとられ、 しかし必要得票の3分の2以下の場合には配分しないと規定されていることである。二つ目は、 地方区得票を合計して全国得票総数を出すが、それが全国投票総数の4%以下に終わった党は 地方区でも全国区でも議席を得ることはできない。すなわち、ハンガリーの選挙制度は厳しい 立候補資格を設けたうえ、小選挙区制によって小政党をふるいにかけ、さらに4%条項によっ て小党を徹底的に排除する。 全国区リストには、選挙民は投票しない。議席は残余表の全国合計に従って配分される。す なわち、キモ・クウシェラの説明によれば、全国区の議席配分は個人区落選者票と地方区残票 の合計総数を議員総数で割るハーレ方式によって計算されるが、なお残る空席に対しては、残 余票の総数を合計空席数で割って各党の残余に応じて議席を割り当てる。この操作を空席がゼ ロになるまで続けて、比例区定員の210名を選び出すのである。したがって、個人区の落選者 の票の回り工合と地方区の4%条項によって地方区議席の空席が増えれば、全国区議席は多く なり、地方区議席は減っていくことになる。最終的に全国区で選出される議員の得票は漸減し て行くことになる25)。 選挙結果は得票率では、実は社会党の32.92%に対してフィデスの29.47%と社会党が勝った のだが、個人区で社会党が62議席を獲得したのに対して、フィデスは単独候補52議席プラス民 主フォーラムとの共同候補46議席を加えて98議席を獲得した。フィデスは得票率での実質敗北 を、フィデス−民主フォーラムの連携と独立小農民党の陰からの支援のもとに、小選挙区制の 特徴を活かして勝利を納めたのである2 6 )。市場化施策の先頭に立った自由民主連合は議席を70 から24議席へと激減させた。フィデスは社会党と、自由民主連合の票を奪い合い、個人区議席 で98対62と、36議席開くという結果を獲得し、比例区での敗北5差をカバーしたばかりでなく、 民主フォーラムも17議席の配分にあずかることができた。またチュルカ・イシュトバーンが率 いる極右政党、「ハンガリー正義と公正な生活の党」が比例区ではじめて、しかも一挙に14議
席も獲得したことは注目に値する。したがって98年選挙は結局のところ、「体制転換の旗手」、 そしてラディカルな市場化政策の推進者である自由民主連合に対する国民の拒否反応ととも に、社会党の社会民主主義の政治とそれに対する民族の政治、あるいは民族主義ポピュリズム の政治とへの世論の分化を導くものとなった。フィデスは後者の流れにたって、現状の打開を 期待する国民の声を背に受けて連立政府を樹立したのである。
Ⅲ.減税か増税か―フィデス連立政権の税制改革
先にみたように、ホルケイはフィデス政権登場について「国民的、伝統的、歴史的階級と若 者の民主主義との最初の出合い」、あるいは「市民的ユニオンの基礎」とフィデスに期待を寄 せた。筆者もまた別稿で、アメリカの支配にたやすく屈服した左翼連立政権を目の当たりにし て、それに代わって右から登場して、反ボクロシュ・パッケージを唱える民族主義ポピュリズ ム政権にどのような可能性を持ちうるのかと、ある種の期待を寄せた。青年の党、フィデスの 行動的政治が「転換の敗者の側」に立ったとき、西側支配にどのような抵抗を示すのかと見守 りたいと思った2 7 )。それから2年以上の歳月が経過した現在、状況はどのように推移している のであろうか。 出発時、フィデス政権の抱えた課題は、公約したところの増税をしない ― 家族タイプの課 税方式の導入、賃金カットをしない、福祉を切り捨てないなどの国民生活の改善の反ボクロシ ュ政策を実施することにあった。しかし、政府が提起してきた一連の新法の制定は国民の期待 にそうものではなかったといわなければならない。それらは税制改革、地域開発法、児童福祉 法改定、共和国大統領職法改定、高等法院設置法改定、国家財産法、国家機構機能化法、国 家・行政機密法、政府職員・官房局員の地位等に関する法案、あるいは改定法案等々からなっ ており2 8 )、全体的性格としてそこには政府権限の強化、産業の育成、「増税」という政府政策 の特徴を指摘できるように思う。なかでも、税制改革はフィデス連立政権の質と方向を表すも のとして国民の注目するところとなっていた。 政府による新税制案は2000年10月19日の国会で採決され成立した。税制改革の問題は、政府 としても増税をしないと公約したこともあって、またこの問題の処理が世論の動向やさらには 2年後の選挙の勝敗に重大な影響を及ぼすと考えられることから、慎重な検討が続けられてき たものである。 『人民の自由』紙によると2 9 )、2001年の家族手当ては320億フォリント(以降、ft とする) 増額され820億 ft に、2002年には830億 ft へと増大し、企業による従業員のための保険負担は 1,100億 ft 減額され、これまで、33%であった負担率は3%づつ2年間で6%減らされて27% になる。所得区分別の税率は20、30、40%と変化しないが、所得区分が変わり(第1表を参照 されたい)、課税所得額10%の返還は2001年105万から125万 ft の間で、2002年は120万から140 万 ft の間で認められた。また児童手当ては2001年に子供1人で2,200から3,000 ft 、2人で2,200 から4,000 ft へ、子供3人で3,000から10,000 ft へ増額され、さらにそれに連動する免税控除額が2001、2002年それぞれ1子で400,000、400,000 ft (ここはすえ置き)、2子で642,854、 685,714 ft 、3子で1350,000 、1421,053 ft と増額された(第2表を参照されたい)。 税率20%の所得上限ランクの48万 ft は計算すれば、手取り年収432,000 ft で月収36,000 ft 、 税率30%の上限ランクの105万 ft は手取り年収84万 ft で月収が7万 ft 、それ以上たとえば勤労 者の平均的収入に近い200 万ft では手取り年収120万 ft 、月収10万 ft となる。この最後の数値 でも日本円に直せば、100円=280 ft (2000年10月は280∼285 ft の変動幅)として、5万円に すぎない。ハンガリーでは、最低賃金を25,000 ft 、平均月収83,173 ft (中央統計局発表、2000 年8月末)と発表されているが30)、貧富の差が激しく拡大している状況では、この8万 ft とい う数値は国民生活の実情を示すものにはなりえず、ただその窮乏化を示すことができるだけで ある。 なぜならば、家庭非課税控除額は、それ以下では暮らせないと政府が考えている額であると いえるが、1子家庭非課税額、40万 ft は月に直して33,333 ft である。2子免税控除額642,854 ft は、 月53,571 ft になり、この額は政府の発表する平均月収と約3万ftの差があるだけである。生活 限界線ともいうべき収入と国民の平均月収が近いということは、国民の困窮化を表しているこ とに他ならない。そしてここには、いぜん高率のまま推移している失業とインフレ問題がかか わってくる。中央ドナウ流域のブタペストや工業地帯ミシュコルツの地域は、たしかに状況は 改 善 さ れ 全 国 的 に も 軽 減 の 方 向 に 向 か っ て い る と い え る 。 し か し 、 そ れ で も ト ー タ ル で 368,612 人 の失業者数が報告されており31)、しかもそれは失業保険登録をしている約400万人 の「うち数」であることに注意しなければならない。その他に、さらに就業の可能性がなく生 第1表 所得区分改定 (単位、ft) 税 率 2000年所得額 2001年所得額 2002年所得額 20% 0∼ 0,400,000 0∼0,480,000 0∼0,600,000 30% 400,001∼1,000,000 480,001∼1,050,000 600,001∼1,200,000 40% 1,000,001∼0,000,000 1,050,001∼0,000,000 1,200,001∼0,000,000 (Népszabadság, 2000. október 18) 第2表 児童手当 (単位、ft) 2000年 2001年 2002年 1子家庭非課税控除 330,000 400,000 400,000 月 額 児 童 手 当 て 2,200 3,000 3,000 2子家庭非課税控除 460,000 642,854 685,714 月 額 児 童 手 当 て 2,200 4,000 4,000 3子家庭非課税控除 657,143 1,350,000 1,421,053 月 額 児 童 手 当 て 3,000 10,000 10,000 (Népszabadság, 2000. október 18)
産の場から脱落してしまった「経済的非活動人口」が1996年時点で170万人にも上っていたの ことは全く無視されている3 2 )。彼らが仕事のくちにあずかるのは無論「うち数」の「正規の失 業者」のあとになるのであろうから、彼らはそのまま放置されていると考えられるだろう。そ こに8月(2000年)段階で9.6%と報告されたインフレが重なるのである33)。この数値はこのま ま続くか、あるいはさらに上昇していくと予想されている。 この何重苦もの状況で平均月収が8万 ft だといっても、それ自体国民の苦しい生活を表わ しているが、それでさえも実体からはるかの距離をおいた虚像というものでしかない。 政府は免税控除額が拡大されて、減税であるとしているが、この状況で非課税控除額が多少 増えたとしても、それはほとんど意味をもたないだろう。 しかし、他方一般的労働者の平均的月収といえる10万 ft の2子家庭を想定して、税負担を 計算してみると、年収は120万 ft.で児童免税控除642,854 ft を受けるので、課税所得は557,146 ft となり、税率30%の課税、および課税所得額の10%の返還を受けて、さらにそこに児童手当 4,000 ft を合算すると、差し引き税額は107,429 ft となる。同じ10万 ft を2000年基準で計算する と、非課税額の差がものをいい147,800 ft の最終税額が計算される。したがって、この想定で は、新税制は年間40,371 ft 、月3,364 ft の減税をもたらすものとなる。「平均的月収」をこえて いるところでは減税の恩恵があるといえる。 他方、児童手当てを考慮からはずして税の本体としての国民課税の状況はどうであろうか。 ここでも、先のハンガリーのインフレ傾向がいっこうに弱まっていないことに注意しなければ ならない。『人民の自由』紙が述べるところによれば、2000年の今年、政府は[でさえも]6 ∼7%を見込んでいたインフレ予想を修正して、8∼9%を計算している。そのために年金の 増額率を見直すことになるが、「蔵相の見積もりでは、今年はさらに2%の年金アップが措置 されることになる。[そのために]2001、2002年のインフレ対応も変わり、政府は来年[2001 年]5∼7%を、次々年にはしかし4∼6%への下落を想定している。それによって、2001年 には7.5%、2002年には6.5%の年金の増額が見込まれている34)」という。 政府予想は政治的考慮が入るため外れることが多いが、ここはそのことではなく、当然のこ とながら賃金もまた年金同様インフレ調整を受けるだろうし、さらに国際的圧力にもさらされ るということである。実際にEUの10%ほどしかない賃金レベルはEU加盟の一つの壁になって おり、EUは、「加盟を希望している貧困国の賃金水準は、労働者が大規模に富裕な加盟国に仕 事を求めないようにするために、EU賃金の60∼70%届くようにしなければならない」と条件 をつけている3 5 )。したがって、新税制で減税になるところは税率区分が変わる若干の領域だけ なのであるが、それもインフレの影響のもとに30、40%税率へと押し上げられて減税効果は解 消されてしまうのである。たとえば、2000年の105万 ft 収入は40%の税率で21万5,000 ft の課税 となり、2001年の30%税率の21万 ft の課税を比べて、減税であるとしてもそれはほとんど無 意味である。なぜならば、インフレ率9%として、かりにそれに対応して賃金も調整されると すれば、2000年105万 ft は2001年の1,144,500 ft に実質等しく、税率は40%が適用され、課税額 は343,350 ft で、かなりの増税となる。さらに通貨、フォリントの切り下げがあれば、この税
額はさらに増えるだろう。このようにして、賃金は上向的に調整される傾向にあるとしても、 これまでの経過からいって、賃金の上昇率はつねにインフレ率をカバーすることはできなかっ たばかりでなく、実体のない所得増が出現し、さらに30、あるいは40%の課税によってひき起 こされる収入の減少に国民は苦しまなければならないということになる。 今回の税制改革は政府がいうような減税ではなく、結局一部富裕層への減税を含む増税措置 であったといわなければならない。新税制の目的は同時に導入された企業による保険負担の軽 減の措置とともに経済の市場化の促進と政治の保守的安定化を一歩前進させようとするところ に見出されるだろう。 こうして「福祉国家」から市場国家への改造はさらに一歩進んだのであって、かつて蔵相の 地位を追われたベーケシとは対照的に、ヤーライ・ジグモンド蔵相はその「功労」をたたえら れることになるのである。 ここで指摘しておきたいことは、新税制案の提起がブタペスト市民の貧困に抗議する声のた かまりのさなかに行われていることである。たとえばそのうちの一つ、5月25日国会前の広場 で行われた「貧困に抗議する集会」には、およそ1,000人の市民が集まり、彼らは「社会の広 範な階層を巻き込んでいる絶望と貧困」が、現在ハンガリーの数万の家庭を脅かしていると強 く訴え、ホルバート・アラダール、「ローマ市民法基金」代表は、「国家がコーナーを回るとし た2000年において、貧困者の立ち退きが連続して続いている」と追求し、社会学者ファージ ュ・ジューザーは、「あまりにも多くの人々が傷ついている。政府はそれが現実であることを 忘れている」と厳しく政府を非難した。フィデス連立政権はこの声に増税でもって応えたので ある。フィデスは少なくとも税制面において、選挙時にたった「敗者の側」から「勝者の側」 に再びその位置を変えたといわざるをえない。
Ⅳ.市場化政治の民族権威主義的転回―フィデス連立政権の隘路
もともと中道の右に位置していたフィデスが民族ポピュリズムの姿勢のもとに市場化の課題 に取り組むということは、民主フォーラムや独立小農民党と連立政権を出発させたときから明 らかであった。にもかかわらず、そこに国民の期待が集まったのは、すでに述べるように前社 会党政権が「社会的に管理された国家」の公約のもとに、「EU加盟」という錦の御旗のもとに ボクロシュ・パッケージを導入し、さらに国有企業の淘汰と売却を急ぐとともに福祉予算の削 減を強行したからである。社会民主主義に、あるいは「敗者の側」に党の基盤を求める社会党 をもってしても「西側金融資本」には容易に屈服せざるをえなかったのである36)。 フィデスもまた同様に「EU加盟」を基本政策として、市場化の課題に対処してきたが、税 制改革によって導入された家族課税方式は減税のふりをした実質増税であった。前政権が安易 にショック療法的ボクロシュ政策に雪崩れ込んだことを想起すれば、それは一般的にまだしも よいという印象を与える。フィデス税制改革の目標の一つはそこに見い出されるだろう。この 税制が定着することによって経済が順調に成長すれば、その結果市場社会と伝統社会の接合が、すなわち市場的階層社会の伝統的権威化が進展し、ハンガリー政治の保守的安定化が実現して いくと期待できるからである。これまで、選挙のたびごとに政権が移動するという危険の克服 は、おそらくハンガリー体制転換の勝者と、そして「西側金融界」が強く望むところであるだ ろう。 他方、このような隠微な増税によってかたちを整え、西側の市場化圧力を回避したのである とするならば、それと整合する政治姿勢や法整備がそこに登場しなければならない。しかしな がら、さきにオルバン政権が提起した一連の法案をあげたが、それらは国家制度の権威主義的 保守的改編という文脈からとらえると納得のいくものばかりである。フィデスだけのせいでは ないが、大統領は国民投票から議会選出に変わり、憲法法廷も強く政党の影響下におかれ、国 家財産法改定は、社会団体が所有している財産を国家が収容することを目的にするというよう に、この状況は民主主義の国家的管理への回帰というべき傾向が強まっていることを示してい る。 それだけではない。フィデス、オルバン政権はさらに扇動的ナショナリズムというべき姿勢 を強めている。たとえばそれは極右の「ハンガリー正義と公正な生活の党」(MIÉP)の党首、 チュルカ・イシュトバーンが扇動的論調のもとに民族主義をあおり、社会党攻撃をすると、そ れにトルジャン独立小農民党党首とデービド民主フォーラム委員長が唱和し、さらにフィデス が一定の抑制的姿勢で続くという連携したプレイに現われているように思える。 3月の国会で、チュルカは次のような過激な発言を行った37)。 「ルーマニアから到着する環境汚染は、ハンガリー人の家庭生活に対する民族消滅を目指し た砲煙のない侵略戦争である。それは無責任を背景にした歴史的意図によって牽引されてい る。」 ティサ河はウクライナからハンガリーに入り、ザーホニーからトカイ、ソルノク、チョング ラード、セゲドへと南下してハンガリーを縦断する国際河川であるが、ルーマニアからハンガ リー北東部の国境の町、チェンゲルを経て流れ込むサモシュ河とザーホニーの手前で合流する。 今年2月(2000年)、サモシュ河から流れ込んだシアンがティサ河を汚染して、ハンガリーに 大きな被害を与えた。チュルカは反ルーマニア感情を煽ろうとして、このような主張を行った のだが、社会党や自由民主連合は冷静な対応が必要としてチュルカの言動の規制を要求した。 しかし、政府はそれに対して、「汚染を軍事的経済的手段で防ぐことはできないが、ハンガリ ーの側から必要な準備を国際法および市民法を考慮して行う3 8 )」、というようなそれに呼応し た「真面目な」対応を行うのである。こうした「正当な」対応がチュルカの言動に市民権を与 え、世論を民族主義へと先導していく結果を生み出している。 トリアノン条約記念日はこれまでもチュルカの格好の活躍の場であった。トリアノン条約で 国土の3分の2を失って以来80年目の今年は、とくに旧ハンガリー領、現ルーマニア領のトラ ンシルバニアとそこに住む「200万人」のハンガリー人ヘの国民共通の心情は、明らかにチュ ルカの言動に反応する傾向性をもつものである。チュルカ(のMIÉ P)はこの日(6月4日) 主都の英雄広場で大集会を開いて扇動的な演説を行い、小農民党も民主フォーラムもそれぞれ
独自に声明を発表して、この「国民的心情」に訴えかけを行った。フィデスはさすがに抑制し たが、同党のコーシャ、デブレツエン市長はトランシルバニアをしのんで「ハンガリーの苦痛」 と題する彫像をデブレツエンに建てると語った39)。 こうして、ナショナリズムの浮上をうながしつつ、他方フィデスはそれをハンガリーの歴史 と伝統によって彩色しようとしている。「建国の祖」イシュトバーン王による建国一千年を祝 う一千年国家記念祭、ミレニアムは8月20日(2000年)の建国記念日に、恒例の国会前の広場 でオルバン首相をはじめとする政府および各界代表、軍関係者らの出席のもとに盛大に開かれ た。それとともに、デブレツエンやティハニーバンなど全国各地の祝賀行事が一斉に行われた のである。さらにクリスマスには、イシュトバーン王の戴冠式が行われた、かつての王都エシ ュテルゴムで記念式典が予定されている。 先にも取り上げたように、王冠「セント・コロナ」を民族の象徴として宣称する動きもまた この状況で急展され、こうした政府行事や主都ブダペストにおけるマーチャース教会での祝賀 行事を通して、それは頂点に達している。民族主義を歴史や伝統で着飾るのに、ミレニアムに コロナほど有効なとり合わせはないからである。 他方、最大野党の社会党はミレニアムをどのような態度で迎えたのであろうか。コバーチ委 員長は恒例のマルギット・シゲットで開いたフォーラムで、次のように語った4 0 )。「われわれ 社会主義者は、理想の転換者のもつ重要な意味を理解して建国のミレニアムをみている。その 観点から、ハンガリーの最初の王、セント・イシュトバーンに敬意を払う。∼一千年前と同様 にハンガリーにとって現在最大に拡大された諸国家の共同体のEUに参加することは、国際協 力の進展のために協力を惜しまないと固く約束することを意味する。10年のデモクラシーは、 民族の祝典やわれわれの記憶が一体という観点から結びつくよりも、分裂していくという悲し い特徴をもつものとなっている」と。前首相のホルン・ジュラは別のところでだが、「社会党 は右翼政治の閉め出し政治と歴史の偽造に断固として反対し、MIÉPのチュルカとフィデスの 野合に警戒しなければならないと呼びかけている41)。 ここには、連立3党やMIÉPと異なり、転換後の現状に対する社会党の立場を反映し、情緒 的な対応を抑制して現実に対処しようとする姿勢が現れているといえるだろう。それは自由民 主連合の場合も同様である。同党のベクレル・フェレンツ国会副議長のことばは、「セント・ イシュトバーンは鉄の意志を持った現実的政治家であった。彼は民族の利益を明確にとらえ、 一致してキリスト教を受け入れるところにハンガリーに将来が在ることを知っていたのであ る」と、体制転換に重ねて明快である42)。デムスキー・ガーボル(2000年12月、同党委員長に 選出された)も「一千年前に、建国当初の国家が遊牧民の野蛮から解放されなければならなか ったように、ハンガリー体制転換によって解放された民主主義は今世紀の両側からの全体主義、 ファッシズムとコミューニズムから解放されなければならない」と語り、同党の立場を明解に 示した43)。 フィデスはプロパガンダとして、NATO加盟の達成やEU加盟の進展、そして自然災害への対 応などを取り上げるだけでなく、実際に経済の諸課題に優先させて一千年国家記念祭、セン
ト・コロナ神聖、セーチェニー計画など、出来得る限りの扇動的事業を上位に位置付けている。 これによって、いわばあぶり出しのようにして、野党2党の、現実の重視や経済合理主義の姿 勢が明らかになってくるのである。「セーチェニー計画」とは北東部一帯の経済的未発展地区 などを対象に計画されている開発計画であって、毎年500∼1,500億 ft を投資していくという大 規模なものであるが4 4 )、国民からは選挙目当ての実体のない打ち上げ花火的なものとみられて いる。ロバシュ・ゾルターンはフィデスのこうした姿勢を「発展的恒久革命の闘争」と呼び、 これに反対するものは民族の名のもとに攻撃が加えられると批判している45)。 バブシェ・エンドレはフィデス連立政権について、オルバン首相の突出した姿勢が、1990∼ 98年の多数派がすべてをリードするという原則に依拠して形成された合意の民主主義モデルを 再編してしまったと説明している。フィデス内部の精神的雰囲気は「戦争の論理、戦いの熱情、 そして政治的競争者に対して抱く敵意が党の活力を生む」といったものに変わり、政府決定は 「18人の閣僚会議でもなく、また政府会議をまえに召集される8人の主要閣僚会議(首相、内 務相、外相、蔵相、法相、農相、公安相および官房長)によるのでもなく、閣僚たちの意見を 聞いてからもっぱら首相1人によってなされる」。首相の「急進主義、権力的技術および反議 会主義」によって、かくしてハンガリー政治は高度に発達した共同体的合意の民主主義に別れ を告げ、「宰相民主主義」の局面に入り込んだというのである46)。 このような批判は決してバブシェだけのものではない。ロバシュもまた率直に疑問を提起し ている。それは、MIÉPのチュルカやウィーンのハイダーとの友好姿勢をどのように説明する のか、言論の自由、環境保護、教育、厚生事業 社会的思考などの約束はどこにいったのか、 党内民主主義が破壊されていないか、なぜごう慢、不平等、即興的パフォーマンスがくり返さ れるのかについてである4 7 )。さらに、オルバン政治の批判は支持者の間からも出されているこ とを指摘しなければならない。たとえば、「広い市民的ユニオンの基礎」とフィデスを賞賛し たホルケイもまた、他方でオルバンは意識的に独自性を求めて「決断の政治」に向かっている と憂慮を表明している48)。 さて、この状況をどのようにとらえたらよいのだろうか。これまでに明らかになってきたこ とをふりかえれば、フィデスが転換の「敗者の側」にたって政権を握ったこと、にもかかわら ず、「増税」を行い、民族主義を高揚し、さらにそれをハンガリーの歴史に接合しようとした こと。そして、それを独裁的に引っ張ったのはオルバン首相であったことなどである。 19世紀、ブルジョワ革命によって開始された市場化の政治は、国民国家の発展のうちに、資 本主義、民族主義、および歴史の融合を実現してきたが、体制転換以来のハンガリー市場化の 政治は、「西側金融資本」による支配のもとに「国際化」した国家と経済を、かくして民族主 義の歴史的高揚によってささえるという矛盾とアナクロニズムを内包した方向に進んでいる。 オルバン政治は隠微なあるいは露骨な「指導政治」によって、市場化政治の民族主義的歴史化 を推進するものとなっている。それを民族政治の権威主義的転回と呼ぶことができるだろう。 他方、国論は分裂し、再びコバーチの社会党に40%をこえる国民の期待が集まっており、2 年後の選挙では社会党が勝つとの予想が一般的になっている4 9 )。8月に開かれた社会党の全国
大会で、コバーチ委員長は次のように演説した。「政府の強権的姿勢は継続的に多数の人々の 間に懸念をひき起こし、彼らは現状の運命的な打開を社会党に求めている。現政権は交代しな けれならない。そしてただ、社会党にだけその現実的なチャンスがある。」そして、その準備 を整えることを全国党員に呼びかけたのである50)。
おわりに
国家はこれまで国民政治と経済の国際的境界の守護者として、明確な存在理由を持ってきた が、新世紀の「グローバル化」の波を後押しする国家は地理的境界を、いわば「抽象的実体」 へと変更しようとしている。それはよりよき国際秩序を求めてのことか、あるいは大国の小国 支配の新しい形態か、それは観察者の位置にしたがって多様に姿を変えてなかなか実体を現さ ない。しかし、ハンガリーの中欧的、バルカン的な歴史地理的、そして政治的存在の意味はこ こにおいてもやはり失われず、「グローバル化」はハンガリー政治を通してその本質を集約的 に露呈されることになったのである。 フィデス連立政権はオルバン政権と呼ばれるにいたる転回を遂げているが、そこに民族政治 の権威主義的転回と呼ぶべき特徴が指摘された。なぜ、フィデス連立政権がそのような反動化 の道を進むのか、その疑問のもとに浮かんでくるものは「西側金融資本」によるハンガリー支 配の進展であった。フィデス連立政権は国際的圧力のもとに、国民経済の回復を民族政治の保 守的展開によって実現しようとしたが、相互に矛盾しあう課題に苦しみつつ、それら双方とも と対決の契機を宿す権威主義への転換を招いたのである。しかし、それは現実的には「西側金 融資本」の手中にあって、民族の政治から離反することによって進められている。 オルバン首相の民族政治の権威主義的転回は多様な側面をもつものであるが、それはハンガ リーの西側支配の現状を万華鏡のように写し出そうとするが、それは果たせず逆にその抑圧的 実体を露呈するスクリーンになっているということができるだろう。ハンガリー民主主義はま た試練の時を迎えている。 注 1)拙稿「模索するハンガリーの政治」―『敗者』の側の政治の行方」、共編『グローバル化のなかの現 代国家』(中央大学社会科学研究所、2000年)。2)Bertényi Iván A Magyar Korona Törtenétte (ハンガリー王冠の歴史), Kossuth Könyvkiadó 1978, 162, 164 o.
3)盛田常夫『ハンガリー改革史』日本評論社、1990年、116、135ページ。
4)Csizmadia Ervin, A magyar demokratikus ellenzék, monográfia(『ハンガリー民主反対派、論文編』), T-Twins kiadó, 1995, 349-351.
5)Ugyanott, 351 o (Ibid., p. 351).
7)前掲拙稿
8)Csizmadia Ervin, Monográfia, 255 o.
9)John T. Danylyk U.S. commercial, and security relations, East-central european economies in
transition, study papers subimitted to the joint economic committee congress of The United States,
U.S. government printing office, 1994.
10)Statisztikai havi közlemények 94/8, Központi statisztikai hivatal, 88 o.(『月刊統計報告』94年8月中央 統計局、88ページ).
11)Ugyanott, 90 o. 12)Rudolf L. To˝kés, op. cit..
13)Sten Berglund, and others The handbook of political change in Eastern Europe. Edward Elgar, 1998, p.234.
14)ボクロシュ・パッケージの概要は、1 95年1年で平価フォリントの32%の切り下げ、2 輸入関税の 緩和、3 財政支出の13%縮減、4 社会保険等の社会福祉支出の縮小、5 高校、大学に月額2,000フォ リントの授業料導入、6 年金の削減、およびその他、公務員の削減、公費支出の点検、賃金抑制、住 宅手当、扶養手当て、児童手当等の抑制などの内容からなる。
HVG (Héti világgazdaság), 1995. mártius 18, 25, es június 15, júrius 1(『週刊世界経済』1995. 3.18, 25, および 6.15, 7. 1), Népszabadság, 1995. március 2(『人民の自由』1995. 3. 2).
15)Ugyanott.
16)Varga Domokos György A Bokros éve, Magyarország politikai évkönyve, Demokrácia kutátasok Magyar központja alpítvány, 1996(V. D. ジュルジー「ボクロシュの年」、『ハンガリー政治年報、1996』). 17)前掲拙稿
18)John T. Danylyk, op. cit.. ダニーリィクの同報告書によれば、この問題はポーランド政府との間でも 同時期起きていた。
19)Bekesi, Cirkuszolni Fölösleges, Reform, 1995. december 8(『改革』1995.12. 8). 20)前掲拙稿
21)Fides-MPP A nagy átverés. Az MSZP-SZDSZ kormány elso˝ év, Magyarország politikai évkönyve, Demokrácia kutátasok Magyar központja alpítvány, 1996(「大いなるペテン、MSZP-SZDSZ 政府の最初の 1年」、『ハンガリー政治年報、1996』).
22)Lengyel László Ezerkilencszázkilencvenhét, Magyarország politikai évkönyve 1998, Demokrácia kutátasok Magyar központoja alapítvány 1998. 72, o.(レンジェル「1997年」、『ハンガリー政治年報 1998』).
23)Magyar Nemzet, 1999. január16(『ハンガリー民族』1999. 1.16).
24)Utasi György, A törvényhozás 1989-ben, Magyarország politikai évkönyve 1990, AULA-OMIKK(U.ジュ ールジィ「1989年の法律制定」、『ハンガリー政治学年報1990』).
25)Kimmo Kuusela, The founding electoral systems in Eastern Europe, 1989-91”, ed. Geoffrey Pridham and Tatu Vanhanen Democratization in Eastern Europe, Routledge, 1994.
26)この問題についてはさらに次を参照されたい。羽場久 子「ハンガリーの総選挙と社会分析」、『ロシ ア研究』1998, No.27.
27)前掲拙稿
28)Népszava, 1999. július 10(『人民投票』1999. 7.10). 29)Népszabadság, 2000. október 18.
30)ハンガリー在住の茂木昌史氏からの情報による。 31)Népszabadság, 2000. október 14. 32)前掲拙稿 33)Népszabadság, 2000. október 4 34)Népszabadság, 2000. augusztus 16 35)Népszabadság, 2000. március 20 36)前掲拙稿 37)Népszabadság, 2000. március 21 38)Ugyanott. 39)Népszabadság, 2000. június 5. 40)Népszabadság, 2000. augusztus 21. 41)Népszabadság, 2000. augusztus 26. 42)Ugyanott.
43)Magyar Nemzet, 1999. augusztus 20. 44)Népszabadság, 2000. marcius 29. 45)Népszabadság, 2000. júrius 21. 46)Varga Domokos György, Ugyanott. 47)Népszabadság, 2000. június 21. 48)Magyar Nemzet, 1999. januar16 49)Ugyanott.