正倉院文書、天平宝字二年の東大寺大仏殿廂絵作画 文書の継文について
著者 長島 由香
雑誌名 人文論究
巻 51
号 4
ページ 60‑75
発行年 2002‑02‑10
URL http://hdl.handle.net/10236/4936
正倉院文書︑天平宝字二年の
東大寺大仏殿廂絵作画文書の継文について
長 島 由 香
はじめに
東大寺正倉院に収蔵される彩色豊かな宝物の中には︑日本で制作されたものも数多く存在するという︒その彩色は
誰の手により︑どの様にして施されたのであろうか︒大宝令・養老令に規定された画工司は︑正史にほとんど見えな
いが︑東大寺正倉院に伝来した正倉院文書には数種の作画文書が残り︑画工も散見する︒従来の奈良時代の画工研究
は︑正倉院文書を利用した文書内容からの考察のみで︑正倉院文書全体を視野に入れた研究は少ないように思う︒近
年の正倉院文書研究の進展は著しく︑文書性格の検討や接続の復原という観点から再検討することにより︑奈良時
代の画工研究において新たな知見が得られると考える︒そこで︑まずは作画文書として正倉院文書にま
とまって残
り︑文書内容からの先行研究も多い天平宝字二年︵七五八︶の東大寺大仏殿廂絵作画文書を採り上げ︑考察を加えた
い︒
東大寺大仏殿廂絵作画文書として①文書﹁画工司移東大寺﹂︑②文書﹁造東大寺司召文︵案︶﹂︑③文書﹁造東大
寺司政所符絵所領等﹂︑④文書﹁画所解申請用雑物并残及人散事﹂︑⑤文書﹁画師行事功銭注進文﹂︑⑥文書﹁画 六〇
514-05
師行事功銭注進文﹂︑⑦文書﹁画師行事功銭注進文﹂︑⑧文書﹁画師行事功銭注進文﹂︑⑨文書﹁大仏殿廂絵画師作物
功銭帳﹂が挙げられる︒なお︑①文書〜⑨文書を整理し︿短冊1﹀〜︿短冊4﹀に図式で示す︒
上村順造氏は文書内容の検討から︑④文書を除く①文書〜⑨文書が東大寺大仏殿廂絵作画文書であることを明らか
にされた
︒また︑山口英男氏は④文書を除く①文書〜⑧文書を﹁東大寺大仏殿廂絵画師継文﹂︑⑨
文書を関連文書
とされる
が
︑ その詳細は明らかになっていない
︒ そこで
︑ 本論では
① 文 書
〜
⑨ 文書の文書性格を検討し
︑﹁
短冊
﹂
という特殊な表を用いて接続の復原を試み
︑継文編成の過程と目的を考察することにより︑④文書を加えた①文書
〜⑨文書が東大寺大仏殿廂絵作画文書の継文であること︑また︑その伝来の経緯を明らかにしたい︒
一文書性格の検討
まず︑①文書〜⑨文書の文書性格について︑文書の発信者と受信者︑文書が正文であるのか案文であるのかを中心
に検討を加えたい︒
①文書は︑画工司から造東大寺司政所への移で︑東大寺大仏殿廂絵の作画に伴い画工司から造東大寺司に派遣され
る画工司の佑と画工の歴名を記し︑画工の本貫を注記する︒自署﹁乙万呂﹂と不在を示す﹁別当﹂との注記があり︑
﹃影印集成﹄図版に﹁正正六位上辛﹂とあるものの﹁正正﹂の訂正は見られないので︑画工司から造東大寺司政所へ
送られた正文であろう︒
②文書は︑①文書の﹁画工司移﹂を受けて作成された造東大寺司から画工への召文で︑﹁□月□日参﹂と追記され
た画工も見える︒﹁次官高麗朝臣﹂・﹁判官川内恵師﹂の自署がないこと︑見せ消ちがあること︑日付が﹁天平宝字二
年二月廿﹂と書きさしになっていることから︑造東大寺司政所の案文と考えられる︒
正倉院文書︑天平宝字二年の東大寺大仏殿廂絵作画文書の継文について六一
③文書は︑造東大寺司政所から絵所の領等へ画料と共にもたらされた符形式の進送文書︵送り状︶である︒﹁次官
高麗朝臣﹂・﹁判官川内恵師﹂の自署はないが︑﹁主典美努連﹂に自署﹁奥万呂﹂と見え︑造東大寺司内で遣り取りさ
れた文書であることから︑造東大寺司政所から絵所へ送られた正文であろう︒なお︑この作画に伴い政所の下に絵所
︵画所︶が設置されたことが分かる︒
④文書は︑画所が﹁請用雑物并残﹂及び﹁人散﹂の事を造東大寺司政所へ報告する解形式の文書で︑尾欠のため年
月日未詳である︒画料名とその数量を記し︑﹁自二政所一請﹂等の画料の支給元を注記する︒﹃影印集成﹄解説に本文四
・七・一七行に﹁文字書き出しの高さを訂正する朱書符号あり﹂とあることから︑画所の案文と考えられる︒
⑤文書は左方で︑⑥文書は右方で行われた須理板の作画について︑作画工程別︵彩色・堺・木画・塗白土︶に画工
名とその作業量・功銭料を記した行事報告である︵但し︑⑥文書に功銭料の記載はない︶︒⑦文書は左方で︑⑧文書
は右方で行われた蓮花枚と花実の作画について︑⑤文書・⑥文書と同様に作画工程別︵彩色・堺・木画・塗白土・堺
朱沙并墨・塗白土緑青同黄︶の行事報告である︒⑤文書〜⑧文書には下道主による朱書の算勘が見え︑自署があるこ
とから︑⑤文書と⑦文書は左方から︑⑥文書と⑧文書は右方から︑左方・右方を束ねる画所へ提出されて下道主の算
勘を受けたのであろう︒
⑨文書は︑作画毎に所属別︵画工司人・式部位子・司人・里人︶の画工名とその作業量・功銭料が記され︑後欠で
ある︒大仏殿廂絵の全作画終了後︑画工への功銭支給のため画所で作成されたのであろう︒なお︑朱書﹁三月廿日領
下/判官川内恵師﹂の﹁判官川内恵師﹂とは画所別当を兼ねた造東大寺司判官の川内恵師年継︑日付下の﹁領下﹂と
は造東大寺司政所の案主であり︑画所領として画所に派遣された下道主と考えられる︒なお︑この朱書に自署がない
のは画所内の文書であるためであろう︒ 正倉院文書︑天平宝字二年の東大寺大仏殿廂絵作画文書の継文について六二
︿短冊1﹀
︵紙端破損︶画工司移東大寺佑竹志麻呂画部河内石嶋左京・・・以前依中務省今月廿四日宣且送如件故移天平宝字二年二月廿四日正七位上行令史黄文連﹁乙万呂﹂正正六位上辛別当
4/259〜260
続修16□10
①文書
「画工司移 東大寺」
造東大寺司召河内石嶋二月廿六日参河内稲万呂・・・・・・右得画工司状云被中務省宣稱為彩色大仏殿之天井件人等令向東寺者・・・左大舎人・・・仍差散位従
秦 黒 人
七位下丈部石床充使故召
・・
・
次官高麗朝臣判官川内恵師天平宝字二年二月廿
4/260〜261
続修43□1
②文書
「造東大寺司召文(案)」
政所符絵所領等白緑廿三斤十両二分・・・・・・︑右彩色大仏殿廂之天井并須理等板料下充如件宜承知此状到奉行次官高麗朝臣判官川内恵師主典美努連﹁奥万呂﹂天平宝字二年三月三日
4/262〜263
続修43□2
③文書
「造東大寺司政所 符 絵所領等」
愛智郡司解申進上東大寺封祖米事 天平宝字六年四月廿九日 愛智郡司解申進上東大寺封祖米事 天平宝字六年四月廿一日 愛智郡司解申進上東大寺封祖米事 天平宝字六年六月四日・・・ 大領従七位上依智秦公門守使秦足人 国使慈賀團少毅外従八位上吉身臣三田次 16/397 398 〜
愛智郡司解申進上東大寺封祖米事 天平宝字六年七月六日・・・ 愛智郡司解申進上東大寺封祖米事 天平宝字六年七月九日・・・ 以前・・・ ︵余白約七糎︶
16/398 399 〜
﹇主カ﹈ ︵空︶ ︵半存︶ 封印□
封印
□
○
カ○ス
○カ
○カ
正倉院文書︑天平宝字二年の東大寺大仏殿廂絵作画文書の継文について六三
﹇註﹈1︑短冊とは続々修成巻直前の断簡の様態を図示したもので︑一次面と二次面の表裏関係を上下で対照させ︑成巻と﹃大日本古文書﹄︵以下﹃大日古﹄と略する︶について出典を示し︑初行・終行・年月日・料紙の状態などの文書内容を記す︒大阪市立大学栄原ゼミにおけるご教授による︒なお︑︿短冊3﹀は続々集四十五︱六の現状を図示する︒2︑文書名称は﹃正倉院文書目録﹄によるが︑その記載のないものは﹃大日古﹄による︒3︑文書の出典は︑例えば﹁4/259〜260﹂は﹃大日古﹄の巻数/頁数を︑﹁続集
16□ 数︱巻数︶・紙数番号︵囲い数字︶を示す︒また︑成巻の表は紙数番号を﹁□︵囲い数字︶﹂︑裏は﹁裏 10﹂は成巻名・巻数︵続々修は帙
要と思われることを記す︒ にまたがることを︑□は料紙の汚れ・破損等により文字の定かでないことを表し︑︵︶には紙端の状態や文書名など必 5︑文書内容において位署の﹁﹂は自署︑﹃﹄は朱書︑傍線は﹃大日古﹄に見える見せ消ち︑網掛けは文字が料紙の継目 と︑﹁○カ﹂は接続が推定されることを表す︒ 4︑点線の継目は料紙が貼り継がれていることを示し︑実線の継目の﹁○ス﹂は﹃正倉院文書目録﹄により接続が確実であるこ □′﹂と表す︒ 金青伍拾 合請物参拾捌種 画所解申請用雑物并残及人散事
・・・ 一斤自内裏給出斤拾参両参分五十五斤十五両一分自政所請
丹参伯斤拾伍両壱分三百斤十二両一分自政所請三両人知識進
23/621〜622
続修17裏□4′
④文書
「画所解 申請用 雑物并残及人散事」
︵﹁造石山寺所解移牒符案﹂︶ 愛智郡司解申進上東大寺封祖米事 天平宝字六年四月廿日 愛智郡司解申進上東大寺封祖米事 天平宝字六年四月廿五日 愛智郡司解申進上東大寺封祖米事 天平宝字六年四月廿一日 愛智郡司解申進上東大寺封祖米事 天平宝字六年四月廿日 大領従七位上依智秦公門守 16/395
397 〜
○カ 正倉院文書︑天平宝字二年の東大寺大仏殿廂絵作画文書の継文について六四
︿短冊2﹀
左方須理肆伯捌枚合彩色画師壱拾弐人写了河内石嶋伍拾陸拾功二百八十文・・・・・・堺画師参人上牛養弐伯陸拾捌枚功二百六十八文・・・・・・木画壱人辛子大雪肆伯拾弐枚功二百十六文四枚右方花塗白土弐人﹃塗白土須理板四百枚﹄私部安万呂弐伯参拾弐枚功廿九文・・・・・・以前自三月七日至十六日画師等行事如前天平宝字二年三月十七日散位従七位下坂合部﹁蓑麻呂﹂画師司長上従七位下上村主﹁牛養﹂画部正八位上河内画師﹁石嶋﹂﹃算勘下道主﹄︵余白約二三糎︶
4/265〜266 続々修43−9裏□2′
⑤文書「画師行事功銭注進文」
﹃彩色者﹄﹃十三﹄右方須理板肆伯捌枚﹃検見画師廿人有五人未召﹄合彩色画師壱拾捌人山広万呂肆拾捌枚・・・・・・堺参人﹃堺須理花四百三根﹄山広万呂壱拾壱枚・・・・・・木画陸人﹃木画須理花四百四根﹄大伴子松肆拾肆枚・・・・・・白土弐人﹃塗白土須理板四百十六枚﹄山広万呂壱伯捌拾肆枚・・・右起三月二日十六日至于恵師作行事注進上如件天平宝字二年三月十九日﹁息長常人﹂画工司画部従八位上牛鹿恵師﹁足嶋﹂﹃算勘下道主﹄
4/266〜268 続集29□5
⑥文書「画師行事功銭注進文」
︵﹁造石山寺所造寺料銭用帳﹂︶ 主典安都宿祢下道主 九日・・・ 十日・・・ 十九日・・・ 廿三日下銭壱伯弐拾陸文
雑用内 一斗一升別六文一斗二升別五文
5/369 371 〜
右仕丁舂米水取今月加米二斗三升二合 料給如件 九月五日・・・ 十九日・・・廿六ノ六 十月六日・・・ 七年正月卅日・・・ 主典安都宿祢領下道□
15/444 446 〜
○ス○カ
正倉院文書︑天平宝字二年の東大寺大仏殿廂絵作画文書の継文について六五
︿短冊3﹀
︵﹁造金堂所解︵案︶﹂︶用﹃一千六百八十四貫五百卅四文定一千六百
九貫七百十三文﹄
一十二貫四百五十文火作工二百
九人功
・・
・
16/306〜307 続々修45−6裏□6′ 左方蓮花枚弐伯弐拾肆板﹃功銭二貫四百四十八文﹄彩色画師壱拾人﹃銭十貫七百九十二文﹄河内石嶋廿四枚功百九十二文秦虫足・・・枚
・・
河内古万呂・・・枚・
・・
・
・・・堺画師弐人﹃銭五十六文﹄上牛養百十二枚功廿八文・・・木画師弐人﹃銭廿八文﹄上牛養百十二枚功十四文・・・塗白土弐人﹃銭廿二文﹄上牛養百十二枚功十一文・・・花実壱拾肆果堺朱砂并墨画師弐人﹃銭二百廿文﹄﹃十﹄上牛養七果功廿五文・・・塗白土緑青同黄画師弐人﹃銭六十文﹄私部安万呂七果功卅五文・・・以前自四月二日至十日画師等行事如前宝字二年四月十日散位従七位下坂合部﹁蓑万呂﹂画師司長上従七位下上村主﹁牛養﹂画部正八位上河内画師﹁石嶋﹂﹃勘下道主﹄︵余白約五糎︶
4/270〜272
□5′
⑦文書「画師行事功銭注進文」
長押二枝長二丈広七寸 厚四寸一枝一丈六尺准榑三村 天平宝字六年八月九日・・・ 案主下﹁道主﹂ 廿六ノ六四
5/264 265 〜
︵﹁造石山院所解︵案︶﹂︶ 見七百八十七物納石山漕下足庭作功 木工八人 夫六十四人
往還四箇日単 雑役伍条
16/227 229 〜
正倉院文書︑天平宝字二年の東大寺大仏殿廂絵作画文書の継文について六六
右方花実壱拾肆果之中花枚弐伯弐拾肆枚・・・花実・・・合恵師弐拾壱人之中彩色十六人堺一人塗白土緑青并同黄三人花実朱沙堺画一人花枚木画一人彩色﹃銭一貫七百九十二文﹄山広万呂三枚功廿四文・・・・・・堺画工上楯万呂二百廿四枚功五十六文塗白土緑青并同黄三人﹃銭六十文﹄
白土花枚百五十四枚功十四文穴太石勝四果一果充功五文功十七文・・・・・・堺画朱沙花実一人雀部浄人十四果一果充別十五文功二百廿文︑右始四月自四日九日至于作恵師等行事注進上如前花枚木画一人丈部山守二百廿四枚天平宝字二年四月九日息長﹁常人﹂画工司画部従八位上牛鹿﹁足□﹂﹃惣銭二貫一百七十八文勘下道主﹄︵余白約一二糎︶
13/234〜236
□4′
⑧文書「画師行事功銭注進文」
︵空︶
□3′
︵空︶
□2′
︵空︶
□1′ 針間斐太万呂解申買進上小柱事 天平宝字二年十月十八日・・・ 十三帙三巻一
14/200 201 〜
︵﹁造甲賀山作所告朔﹂︶ 四人山雑材木運道切作 天平宝字六年四月廿八日・・・ ﹃山残檜皮一百七十八圍﹄ 廿五ノ九二 15/462
卅二ノ十五三 山作所解申進上檜皮事 天平宝字六年四︵虫損︶ ﹁︵虫損︶五斗塩等者﹂︵異筆︶
25/333 334 〜
︵﹁造石山寺所雑様手実﹂︶ 充功食料米十九俵 一枝
長五尺 荒木
准榑三村
5/262 264 〜
正倉院文書︑天平宝字二年の東大寺大仏殿廂絵作画文書の継文について六七
︿短冊4﹀
︵﹁画工司未選申送解案帳﹂︶右二人姓名顕注申送如件以解天平勝宝九歳四月七日画工司未選﹁連黄文連黒人﹂︵楽書︶・・・天平勝宝九歳四月七日物部小鷹
・・
・
・・
・
・・・天平勝宝九歳四月七日︵余白約七糎︶
13/219 続々修38−8裏□4′
天平宝字三年三月始給大仏殿廂絵画師等毎人充日作物給功銭帳合須理板捌伯拾陸枚
・・
・
・・
・ 板別彩色花捌伯拾陸根
・・
・
・・
・
画師参拾陸人九人画工司人一人式部位子十人司人十六人里人応給功銭伍貫肆伯陸文□□□十文彩色功料以五文充花一根・・・画師上牛養堺花二百六十八根銭二百六十八文花別充一文・・・右九人画工司人雀部浄人堺花・・・根銭・・・文
・・
・
4/353〜354
□3′
⑨文書「大仏殿廂絵画師作物功銭帳」(前半部)
右一人式部位子山広万呂彩色花・・・根
銭・
・・ 文・
・・ 堺 花・
・・ 根 銭・
・・ 文・
・・
塗白土板・・・枚
銭・
・・ 文・
・・
・・・右十人司人別乙万呂彩色花・・・根
銭・
・・ 文・
・・ 堺 花・
・・ 根
銭・
・・ 文・
・・
・・・平群僧万呂塗白土板・・・枚銭・・・文
・・
・
4/354〜356
□2′
右借充上寺附国守家万呂 十九日・・・ 廿二日・・・ 主典安都宿祢領上馬養
15/474 476 〜
廿四日・・・ 九月一日・・・ 右信濃使給料下如件
15/476 478 〜
主典安都宿祢領上馬養 二日・・・ 八日・・・ 右常食料附真足
15/478 479 〜
正倉院文書︑天平宝字二年の東大寺大仏殿廂絵作画文書の継文について六八
二短冊による接続の復原と継文
ここでは︑全て一次面である①文書〜⑨文書各々の接続の復原を︑その復原方法を示しながら試みたい
︒
﹃正倉院文書目録﹄により接続が確認できるのは①文書と②文書︑⑤文書と⑥文書である︒︿短冊1﹀に示したよう
に︑①文書と②文書は﹃正倉院文書目録﹄に﹁接続ス﹂とあり接続が確実である︒前述の文書性格の検討により︑①
文書は画工司から造東大寺司政所への正文︑②文書は造東大寺司政所の案文であることから︑①文書と②文書は一次
面作成時の貼り継ぎではなく︑一次面作成後に造東大寺司政所で貼り継がれ
継文にされて
︑ 継目裏書
﹁ 封
印□﹇主
カ﹈﹂が記されたと考えられる︒この継目裏書の﹁主﹂は造東大寺司政所案主の下道主の一字を指すと思われ︑下道
主が貼り継いだことを示すものであろう︒次に︑︿短冊2﹀に
示したよう
に
︑
⑤ 文書と
⑥ 文書は
﹃ 正倉院文書目録
﹄
経所食口始八月 十二日・・・ 十七日・・・ ︵虫損︶米参
白一斗 黒二斗
15/471 474 〜
上宮万呂彩色花・・・根銭・・・文以五文充花一根・・・右十六人里人﹃已上卅六人功給既了三月卅日領下判官川内画師﹄彩色天井板花壱万拾壱区
・・
・
画師肆拾弐人十人画工司人一人式部位子十一人司人十六人里人応給銭弐拾肆貫玖伯肆拾弐文廿貫廿二文彩色功料以二文充花一区・・・画師上牛養堺花・・・根銭・・・文
・・
・
・・・河内古万呂彩色花・・・根銭・・・文
・・
・
4/356〜358
□1′
⑨文書(後半部)
正倉院文書︑天平宝字二年の東大寺大仏殿廂絵作画文書の継文について六九
に﹁接続カ﹂とあり接続が推定される︒前述のように⑤文書は左方から︑⑥文書は右方から画所領の下道主に送られ
た正文であることから︑一次面作成後に画所で継文にされたと考えられる︒
なお︑︿短冊1﹀に示したように︑②文書と③文書と④文書は続修に収められているものの﹃正倉院文書目録﹄で
も接続が確認できない︒しかし︑熊谷公男氏が原文書の調査において︑西洋子氏が二次面である﹁造石山寺所解移牒
符案﹂の復原の結果︑①文書〜④文書は同時に紙背利用され内容的にも類似することから︑貼り継がれていたもので
あったと指摘される
︒①文書は画工司で︑②文書と③文書は造東大寺司政所で︑④文書は画所で作成されたので︑
一次面作成時の貼り継ぎではなく︑一次面作成後に継文にされたのであろう︒
一方︑⑦文書と⑧文書は続々修に収められているため﹃正倉院文書目録﹄による接続の復原ができない︒そこで︑
これらの文書に関しては︑二次面の接続を復原して後に一次面の復原を試みる︒︿短冊3﹀に示したように⑦文書と
⑧文書の二次面は﹃奈良博目録﹄によると一断簡から成るが︑このことは﹁附箋﹂の存在からも確かめられる
︒⑦
文書と⑧文書が収められている続々修四十五︱六は六紙から成るが︑﹁マイクロフィルム﹂により第一紙末に﹁十三
帙三巻一﹂︑第二紙末に﹁廿五ノ九二﹂︑第三紙頭に﹁卅二ノ十五三﹂の附箋が︑第四紙にはなく︑第五紙末に﹁廿
六ノ六四﹂の附箋が︑第六紙頭に附箋らしき紙片が確認できる︒附箋の最後の漢数字が続々修成巻時の貼り継ぎ順を
指示するものと思われ︑第四紙に附箋がなく︑第三紙に﹁三﹂・第五紙に﹁四﹂とあって数字が連続することから︑
⑦文書の二次面である第五紙と⑧文書の二次面である第四紙とは︑続々修成巻時の貼り継ぎではなく︑続々修成巻前
から一断簡であったこと
が確認できる
︒ ま た
︑﹁
マイクロフィルム
﹂ を見ると二次面の継目に文字がまたがってお
り︑⑦文書と⑧文書の二次面は二次面作成時に貼り継がれていたことが明らかである︒次いで一次面を見ると︑⑦文
書と⑧文書は接続情報がなく︑⑦文書と⑧文書という別々の料紙を二次面作成時に貼り継いで紙背利用した可能性も
あるが︑二次面作成時には既に貼り継がれていた一断簡を紙背利用した可能性も指摘できる︒文書内容と性格から⑦ 正倉院文書︑天平宝字二年の東大寺大仏殿廂絵作画文書の継文について七〇
文書と⑧文書は⑤文書・⑥文書と同様の文書であること︑また︑下道主による算勘の際に左方と右方とで合計功銭料
が均等に配分されるよう考慮されている
ことから︑下道主により
一次面作成後に画所で継文にされたと考えられ
る︒
さらに︑︿短冊4﹀に示した⑨文書は︑前述の上村氏により⑤文書・⑥文書と同内容の記載であることが明らかに
されており︑また︑﹁マイクロフィルム﹂によると後ろ二紙︵続々集三十八︱八裏第二紙と第一紙︶の継目に﹁以五
文﹂の文字が明らかにまたがっていることから︑⑨文書は画所で一次面作成時に三紙を用いて書かれたことが確認で
きる︒
以上︑①文書〜⑨文書の文書性格と接続の復原を検討した結果︑次のことが明らかとなった︒
①文書と②文書は
一次面作成後に下道主により造東大寺司政所で継文にされた︒
①文書・②文書と③文書と④文書は一次面作成後に
継文にされた︒
⑤文書と⑥文書︑⑦文書と⑧文書は一次面作成後に下道主により画所で継文にされた︒
⑨文書は
画所で作成された三紙から成る断簡である︒
三継文の機能と伝来
次に︑①文書〜⑨文書が各々継文に編成された過程とその目的を考察し︑正倉院文書として現在に伝来した経緯を
探ってみたい︒
①文書は︑この作画に参加予定の画工司の画工とその本貫を把握する必要があり︑②文書は正文の控えとして︑ま
た︑各画工の出仕確認のために︑造東大寺司政所案主の下道主により政所で継文にされ継目裏書が記されたと考えら
れる︒なお︑①文書の右端にも継目裏書﹁封印□﹂が存在しており︑⑨文書に見える式部位子・造東大寺司人・里人
正倉院文書︑天平宝字二年の東大寺大仏殿廂絵作画文書の継文について七一
に関する文書など︑同様の文書が下道主により政所で貼り継がれていたのであろう︒その後︑作画開始に伴い①文書
と②文書を含む継文は︑画所領として政所から画所へ派遣された下道主により画所にもたらされたと考えられる︒そ
して︑③文書は政所から支給された顔料を把握するため︑④文書は正文の控えとして︑①文書・②文書を含む継文と
共に下道主により画所で継文にされたのであろう︒
次に︑⑤文書〜⑧文書は︑各作画終了後に⑤文書と⑦文書が左方から︑⑥文書と⑧文書が右方から行事報告として
画所領の下道主に提出されて︑下道主は⑤文書と⑥文書︑⑦文書と⑧文書というように︑作画毎に左方と右方の行事
報告を継文にして算勘したと考えられる︒そして︑全作画終了後に各画工への功銭支給のため︑⑤文書〜⑧文書を含
む継文を基に︑所属別に画工毎の作業量・功銭料を記す⑨文書が作成され︑支給後に﹁已上卅六人功給既了/三月廿
日領下
/ 判官川内恵師
﹂ と朱書されて
︑
⑤ 文 書
〜
⑨ 文書を含む継文は下道
主により画所でまとめられたのであろ
う︒
ところで︑①文書〜⑨文書が正倉院文書として現在に残ったのは︑紙背が﹁造石山寺所関係文書﹂であることによ
ると吉田孝氏は明らかにされたが︑では︑①文書〜⑨文書はどの様な経緯で造石山寺所に持ち
込まれたのであろう
か︒吉田氏は︑⑤文書〜⑧文書に見える下道主を根拠に﹁造石山寺所の案主となる下道主﹂が持参したとされる︒こ
れに対して黒田洋子氏は︑﹁実際の彩色関係の采配を振った下道主﹂が⑤文書〜⑧文書を算勘した後に﹁彩色を管轄
した写経所﹂に提出し︑⑨文書は写経所において﹁
上馬養の手
﹂ により作成され
︑ したがっ
て︑①文書〜⑨文書は
﹁上馬養によって保管・管理﹂され︑造石山寺所へ行くように選択されたと述べられる
︒
しかし︑文書性格と継文編成の過程から︑①文書〜⑨文書は造東大寺司政所と画所に関する文書であり︑①文書・
②文書と③文書と④文書︑⑤文書〜⑨文書は画所で下道主により継文
にされたことは明らかである
︒ さらに
︑ 西 氏
は︑①文書〜④文書の二次面は天平宝字六年七月十六日付﹁東大寺司作石山院所牒案﹂︵﹃大日古﹄十五︱二二三〜二 正倉院文書︑天平宝字二年の東大寺大仏殿廂絵作画文書の継文について七二
二四︶を受けて作成され︑また︑岡藤良敬氏は︑⑤文書〜⑨文書はいずれも同時期︵天平宝字六年八月八日頃から十
二日頃︶に造石山寺所で紙背利用されたと指摘される︒つまり︑①文書〜④文書と⑤文書〜⑨文書は石山寺造営の
終わり頃のほぼ同時期に紙背利用されていることからも︑①文書〜⑨文書を含む天平宝字二年の東大寺大仏殿廂絵作
画文書は継文として画所領の下道主が保管・管理し︑造石山寺所案主に起用された下道主により造石山寺所に持ち込
まれたと考える︒
おわりに
奈良時代の画工研究についての再検討の端緒として︑本論では天平宝字二年の東大寺大仏殿廂絵作画文書を採り上
げ︑文書性格の検討と接続の復原︑継文の編成過程という視点から考察を試みた︒その結果︑①文書〜⑨文書は下道
主により継文とされ︑下道主によって造石山寺所にもたらされた詳細が明らかとなったと思う︒
なお︑本論では紙幅の関係で検討し得なかったが︑造石山寺所で紙背利用された①文書〜⑨文書の他に︑天平勝宝
九歳︵七五七︶の作画文書も存在する︵︿短冊4﹀続々修三十八︱八裏第四紙など︶︒天平宝字二年の東大寺大仏殿廂
絵作画文書と同様に下道主が継文にしたことが想定され︑正倉院文書全体を視野に入れた文書内容・性格の検討や接
続の復原などを今後の課題としたい︒また︑造東大寺司写経機構の事務帳簿に散見する画工についても︑その編成と
組織や令制画工司との関わりなど︑未だ明らかにされていない面が多く︑同様の視点から奈良時代の画工の実態をさ
らに検討する必要があろう︒
正倉院文書︑天平宝字二年の東大寺大仏殿廂絵作画文書の継文について七三
註
正倉院文書の原文書を直接に見ることができないため︑正倉院文書研究にあたっては編年活
字本の東京大学史料編纂所編
﹃大日本古文書﹄︑東京大学史料編纂所編﹃正倉院文書目録﹄︵一九八七年出版開始︶︑宮内庁正倉院事務所編﹃正倉院古文書
影印集成﹄︵一九八八年出版開始︶︑奈良帝室博物館正倉院掛編﹃正倉院古文書目録﹄︑﹁マイクロフィルム﹂を参照すること
になる︒以下︑﹃大日本古文書﹄は﹃大日古﹄︑﹃正倉院古文書影印集成﹄は﹃影印集成﹄︑﹃
正倉院古文書目
録﹄は﹃奈良博
目録﹄と略称する︒なお︑﹃正倉院文書目録﹄と﹃影印集成﹄の既刊は続修別集までである︒また︑﹃影印集成﹄図版や﹁マ
イクロフィルム﹂では﹃大日古﹄に記載される朱書・薄墨や︑朱・墨の濃淡の違いが確認できないことが多く︑国立歴史民
族博物館所蔵のカラーコロタイプ印刷による複製での確認が必要であるが︑今後の課題としたい︒
上村順造﹁八世紀における画師の労働編成について││天平宝字二年︑大仏殿廂絵作画作業の場合││﹂︵﹃名古屋大学日本
史論集﹄上︑吉川弘文館︑一九七五年︶
山口氏は︑一通一通独立した料紙に書き記された文書を貼り継いだものや︑あらかじめ貼り継がれた料紙が用意されている
ところに追い込みで文書案を書き継いでいったもの︑両者が混在する様態を含めて広く継文と称される︒山口英男﹁正倉院
文書の継文について﹂︵﹃古代文書論││正倉院文書と木簡・漆紙文書﹄︑東京大学出版会︑一九九九年︶
天保年間に穂井田忠友が一次面に注目して正倉院文書を整理して以来︑正倉院文書は正集・続修・続修後集・続修別集・塵
芥・続々修に成巻された︒その際︑八世紀から伝来した文書の様態が破壊された部分もあり︑正倉院文書研究にあたっては
まず︑文書の接続を復元する必要がある︒接続の復原には︑穂井田忠友の整理に始まる成巻前の二次面の復原と︑二次面作
成時に既に失われていた一次面の復原がある︒山口氏前掲論文
原文書を調査できない我々が接続情報を得る手段として﹃正倉院文書目録﹄と﹃奈良博目録﹄が挙げられる︒﹃正倉院文書
目録﹄により正集〜続修別集について接続が確実である︑もしくは︑接続が推定される断簡が︑﹃奈良博目録﹄により続々
修成巻前の二次面の様態が明らかとなる︒石上英一﹁正倉院文書目録編纂の成果と古代文書論再検討の視角﹂︵﹃古代文書論
││正倉院文書と木簡・漆紙文書﹄︑東京大学出版会︑一九九九年︶︑杉本一樹﹁正倉院文書の原本調査﹂︵﹃古代文書論││
正倉院文書と木簡・漆紙文書﹄︑東京大学出版会︑一九九九年︶
熊谷公男﹁年次報告古文書の調査﹂︵﹃正倉院年報﹄五︑一九八三年︶︑西洋子﹁造石山寺所解移牒符案の復
元について
│
│近江国愛智郡司東大寺封租米進上解案をめぐって││﹂︵﹃律令国家の構造﹄︑吉川弘文館︑一九八九年︶ 正倉院文書︑天平宝字二年の東大寺大仏殿廂絵作画文書の継文について七四
附箋には︑続々修編纂前に仮編成された未修古文書の巻帙を表示する附箋︵﹁○帙○巻﹂﹁○ノ○﹂等と記される︶と︑続々
修成巻時の貼り継ぎ順を指示する附箋︵﹁一﹂﹁二﹂等と記される︶がある︒後者の附箋を手がかりに︑続々修成巻前の二次
面の様態が明らかとなる場合がある︒石上氏前掲論文
塗白土・塗白土緑青并同黄・堺画朱沙并墨の作画工程において︑従来指摘されてきたような作画工程別の作業量に対する一
律な功銭支給方法を採っておらず︑その配慮はされているものの︑むしろ︑作画工程別の合計功銭料が左方と右方で均等に
なるように調整されている︒
吉田孝﹁律令時代の交易﹂︵﹃日本経済史大系﹄一︑東京大学出版会︑一九六五年︶︑黒田洋子﹁正倉
院文書の一研
究││天
平宝字年間の表裏関係から見た伝来の契機││﹂︵﹃お茶の水史学﹄三六︑一九九二年︶
西氏前掲論文︑岡藤良敬﹃日本古代造営史料の復元研究﹄︵法政大学出版局︑一九八五年︶五一〇頁
││大学院文学研究科博士課程後期課程││
正倉院文書︑天平宝字二年の東大寺大仏殿廂絵作画文書の継文について七五