著者 上野 和美
雑誌名 関西学院大学先端社会研究所紀要 = Annual review
of the institute for advanced social research
号 13
ページ 69‑87
発行年 2016‑03‑31
URL http://hdl.handle.net/10236/14351
! 特集 3 シンポジウム連動企画 薬害と現代社会をめぐって !
◆ 特別寄稿 ◆
上野 こんにちは。上野和美と申します。事情があって旧姓に戻っておりますが、岩崎孝祥の母で す。よろしくお願いします。私が今日、この話をいただいて、一応原稿がないとしゃべれないので 原稿をつくってきました。とりあえず聞いていただきたいと思って原稿をつくってきましたので、
すみませんが、よろしくお願いします。
今日は、孝祥の絵も全部出していただきました。先ほどの(ドキュメンタリーの)冒頭の中 に1)、絵画教室に通っていたときのデッサン、いつも振り出しに戻されながらも一生懸命かいてい たデッサンです。向こうの油絵は、中学校のとき近くの絵の先生のところに行っては、毎週行って は、あれは板に書いてあるんです、キャンバスじゃなくて。最初のころのもので。毎週行っては、
書いては、でき上がって喜んで持ってきては、
もううれしくて、うれしくて仕方がなくて。毎 週、絵の先生のところへ行くのを本当に楽しみ にしておりました。
花井さんが先ほど遺族の話をしていましたけ れども、本当に思い出すと涙が出てきます。当 時の映像が頭の中に残っていて、その場面場面 を、本当に鮮明に覚えていて、そのときの感情 とかがわき上がってくるんです。どうしようも ない思いで、やり場のない思いで、正直この原 稿を起こしたことで夕べ一睡もしていません。
一晩じゅう起きていました。寝られないんで す。
今年は、息子が亡くなってから
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回忌でし た。息子とともに生きてきた年月以上に月日が 流れてしまいました。でも本当に23
年たった 今でも、ときどき昨日のことのように思い出し まして、フラッシュバックしてきます。本当に──────────────
1)セッションに先立ち、岩崎孝祥君の薬害エイズ被害についてのドキュメンタリーを視聴した。
絵1 Takayoshi《ジャケットのなかの少女》(1990)
薬害エイズ被害者遺族の経験
上野 和美
(薬害エイズ被害者遺族)
やり場のない想いに駆られることがあります。
私は息子とともに、今は石川県の金沢の近くに住んでおりますが、当時福井の近くの県境にあり ます小さな市に住んでおりました。地元の市役所に勤めておりまして、数年前に定年退職しており ます。仕事と家庭との両立で、息子の病気も含めて悩み苦しみ、体は無理をしたことで、今は慢性 疾患を
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つ抱えております。意識を失って、何回か倒れて、救急車で運ばれたり、死線を越えて今 があります。正直、息子が助けてくれたと思っております。生かされていることを感じておりま す。息子は血友病という病気を持って生まれてきましたが、血友病を受け入れて、息子と一緒にその 病気と向き合って頑張って生きてきました。そして、その治療で使用した血液製剤で
HIV
感染を しました。エイズを発症して、生きる望みを絶ちきられ、死を受けざるを得なかったのです。HIV 感染という事実が身の上に起こって体調が悪い状況でも、病気と闘い、つらかったのは、苦しんだ のは息子でした。これは本当に薬害です。薬害の被害者です。当時、私は血友病を背負わせたこと、自己注射は、私がこの手で息子の小さな手に血液製剤を静 脈注射していたこと。そのために気が狂わんばかりの自責の念と、全てを消し去りたいと自分自 身、自死を考えたり。でも、自分がいなくなると息子はどうなるか、考えれば考えるほどの迷路に 入って、自死することができない自分がいて。でも、生きている存在を消すことばかりを考える一 方で、守らなくてはならない、頑張らないといけないと、その狭間でもがき苦しんで、必死に生き てきた過去があります。真っ暗なトンネルの中に入れられて、もがき苦しんで。針の穴の光さえも 見えなく、どうしていいのか、自分自身が迷い込んでしまって出口が全く見えませんでした。正 直、今でも息子には申しわけないという思いでいっぱいでおります。毎日仏壇に手を合わせており ます。
絵かきになりたいと夢を持って絵の勉強を始めた息子に、感染の事実を知らせることは夢や希望 を奪うことであり、息子には言うことはできない、隠さなければならないと、まず家族の中から秘 密をつくらなければ守ることができませんでした。全ての歯車がかみ合わず、ぎくしゃくしまし た。そして孤立していきました。入院してもその病状を、状態を説明できないで口を閉ざすばか り、言葉を失っていきました。
家で泣き顔は見せられません。人のいない場所を探し、夜の病院の駐車場の片隅で車のハンドル を抱え込み泣き崩れたり、お風呂の中に顔を埋めて、声を殺して泣く日々でした。感情を殺すこ と、誰にも悟られてはいけないと心の引出しはぐしゃぐしゃのままに閉ざしていきました。心を閉 ざした期間が長く、感情を押し殺してきた期間が長く、重いふたをした過去はまだまだ整理ができ ないままでいます。
私たちが受けた薬害被害は、被害者がどんな状況であったのかという、その被害の状況を語って いかなければ、その事実を知っていただくことはできません。今、遺族は年齢的にも老いていって います。自分が生きてきた人生の終末が近づいてくると、嫌が応にも過去の自分と向き合わなけれ
ときぐすり
ばならないと感じております。「時 薬」と言いますが、私たちは過去の息子の病気のことで、血友 病、そして
HIV
の感染、エイズという病気で、事実、偏見と差別を受けてきました。時間の経過 があっても、語ることで心が軽くなることはありません。最近の遺族の集まりで話題にのぼったことですが、気持ちの整理ができないままで、この先、認知とか痴呆とかが入ってきたりしたらと考 えたりすると、自分が今まで黙ってきたこと、隠してきたこと、自分の口から話し出すのではない だろうか、何をしゃべり出すのかとても心配しております。身辺整理と心の整理をどのようにして いくべきか、とても大きな課題があります。
ここから私と息子との生活のことというか、頑張ってきたことを話したいと思います。息子が生 まれたのは、私が
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歳のときです。普通に嫁いで子供を授かり、幸せな家庭を築いていきたいと 思っていました。3歳になるまで何度となく出血する出来事がありました。3歳となった年の10
月、左のひざの内出血で入院。入院先の医師の勧めもあって紹介状をいただき、その12
月に金沢 大学の附属病院へ検査入院しました。血友病A
2)と診断されました。遺伝病であり、母親が保因者 であると。聞いたことがない病名、それも血がとまらない病気だと。家に帰り、何と説明すればい いのか、嫁ぎ先に申しわけないという気持ちでいっぱいでした。同居する両親に血がとまりにくい 病気だと話した折、義理の母からは「何て恐ろしい病気なのか、うちの血筋じゃございませんから ね。うちにはそんな子は1
人もいませんからね」と厳しい言葉を受けました。私は仕事を続けない といけない、2歳違いの双子の弟たちもいて、仕事をしていくことは、嫁ぎ先の両親の手助けも必 要でした。ひざの内出血はたびたび起こり、日中は元気いっぱいに動き回り、症状が出るのは決まって夜。
大学病院へ連絡して、夜、金沢までよく走りました。あるとき、注射針がなかなか入らないときが ありました。泣き叫ぶ息子と一緒に泣いていた私を看護師の方が診察室の外に呼び出し、看護師の 方が私に「お母さんが一緒に泣いてどうするの、子供がなおさら不安がるだけよ、お母さんが毅然 としなくてはいけない、子供を不安がらせないで反対に励まさないといけないのよ」と言ってくだ さいました。それから決して子供の前では心配させてはいけないと、明るく振る舞うように努力し ました。その言葉はいつも私の心の中にありました。私の心の動揺を息子に悟られまいと気をつけ ておりました。
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歳のころ、病院の待合室で、ひざの内出血で痛みをこらえていた息子が、「何で僕だけこんな に痛いの」と。私は息子に「孝祥は誰よりも強い子だよね、誰よりも強い孝祥だから痛いのが我慢 できるんだね。だから神様がそう決めたのかもしれない。もうすぐ痛いのがなくなるから、もう少 し我慢しようね」と息子を諭しました。小学校に入学したときに、石川県で(ヘモフィリア)友の会3)ができました。病院を通じてある 男性から手紙をいただき、それが友の会の会長となる方でした。その年の夏にサマーキャンプに初 めて参加をしました。それまではひとりで病気の不安を抱えていましたが、同じ病気と闘い、病気 の不安と悩みを持つ仲間がいることを知りました。そして会場には病気の専門医がいて、病気のこ と、生活のこと、孝祥より成長している子供たちがいて、そのお母さんたちがいる。本当にうれし
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2)血友病Aは第8因子の欠乏による血友病であり、血友病Bは第9因子の欠乏による血友病である。
3)血友病は英語でフェモフィリア(hemophilia)という。開発当初、高価であった血液製剤の公費負担を求 めて、全国および各地で、血友病患者の親を中心にヘモフィリア友の会が作られた。石川県ヘモフィリア 友の会は石友会と呼ばれた。日本における血友病患者の歴史は次の本に詳しい。北村健太郎、2014、『日 本の血友病患者の歴史──他者歓待・社会参加・抗議運動』生活書院。
かったです。不安なこと、悩んでいたこと、お話しして聞くことができる、とても救われた思いで した。血友病の専門の先生、整形外科の先生、口腔外科の先生、看護師の方々、養護学校の先生 方、製薬会社の方々。息子
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人に何人もついてくださり、サポートしてくださる方々が多くいまし た。母親たちは安心して子供たちを預け、医師のもとで勉強いたしました。そしてお母さんたちか ら、日ごろの出血管理のことなど聞きたいことがたくさんありました。以後、毎年サマーキャンプ に参加するようになりました。息子とともに夏になるのが待ち遠しくて、楽しみにしておりまし た。1982
年3
月、またひざの出血が重症となって歩けなくなりました。病院を転院して専門医のい る金沢の国立療養所医王病院(現在の国立病院機構医王病院)へ、小学校の2
年の夏まで小児病棟 に入院して、併設の養護学校に通うことになりました。そこで治療法の変更を伝えられ、定期投与 を始めることになりました。出血してからではなく、出血しないように血液製剤を投与する治療法 に変更したのです。けがをしないように普通の生活ができる、出血の痛みが軽減される、夢のよう でした。翌年の
1983
年2
月、厚生省(当時)が血液製剤の自己注射療法を認可しました。その年のサマ ーキャンプでは自己注射の指導を受けてきました。自宅で注射ができることの喜び、子供の生活ス タイルを重視して、出血の重症化を防げることができる。成長とともに活発になってくる息子、遠 足、運動会など学校の行事に参加できるようになっていました。将来を案じて心を痛めていました けれども、この先も希望と夢を見ていいんだと、本当に前を向いているんだという希望が持てまし た。1986
年1
月のことです。石川県内の1
歳上のK
君が悪性リンパ腫で亡くなりました。中学校1
年生でした。彼の死で不安が頭をよぎりました。翌月2
月、主治医に検査を依頼しました。結果はHIV
陽性でした。事実を受けとめられず、この事実を隠さなければいけないと言葉を飲み込み、動揺を悟られまいと口を閉ざす日々がふえていきました。
同じ年の
5
月は友の会の総会へ。帝京大学の安部教授が石川県まで来ました。教授の特別講演で した。安部教授はHIV
感染、エイズのことは心配することはない、それより君たちは血液製剤を 打つほうが大事なんだと講演の中で力説しておりました。孝祥は中学校に入り、絵に興味を持ち、絵かきさんになりたいと。私も孝祥が何か没頭できるも のがあればと思い、本人は近くに住む絵の先生のところに行き始めました。毎週毎週、仕上げてく る絵がうれしくて、絵を書くことが楽しくてしようがない様子でした。その一方で、私は
HIV
感 染のことで頭がいっぱいであり、心配が募るばかりの日々でした。その年の
12
月、感染がどうしても信じられず、金沢大学の附属病院へ検査をしてもらいに行き ました。結果はやはりHIV
陽性でした。翌年の1987
年8
月、以前入院していた国立療養所医王病 院へ検査入院をお願いしました。そこでもHIV
陽性でした。3度目の検査をするも陽性だと、息 子の体に何が起こっているのか不安と恐怖で受けとめられず、ひとりでこの事実を隠そうと必死で おりました。孝祥が小学校
1
年のときに友の会ができて、県内に同じ病気を持つ人がいること、サマーキャン プに参加することで仲間を知り、心を寄せていろんな苦難を乗り越えてきました。何かあったときは友の会の会長さん、ときには京都の石田さん
(石田吉明氏)4)に電話して、相談に乗っていた だいておりました。病気のことだったり、入院 中の病院の対応のことだったり、あるとき石田 さんは京都から車を運転して病院まで来てくだ さり、医事課へ行き、話をしてくださったこと もありました5)。息子の病室で会長さんと石田 さんが、息子にどんな話をしていただいたの か。息子も頼りにしていたと思います。息子だ けでなく、親子で会長さん、石田さんたちを頼 りにしていました。心のよりどころでありまし た。彼らがいなかったら今の私はいないと思っ ております。心からとても感謝しております。
本当にたくさんの助けをいただきました。息子 が亡くなった後、友の会の会長さん、石田さ
ん、知っている仲間の方が次々と亡くなっていきました。悲しみと悔しさと、それを超える絶望で した。生きることを絶たれ、お世話になった方々の死が本当につらかったです。息子の死から次々
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4)石田吉明氏は大阪HIV訴訟 元・原告代表。1945年8月生まれ、1995年4月21日死去。薬害HIVをめ ぐる運動と薬害HIV訴訟において大きな役割を果たす。その軌跡は次の本に詳しい。石田吉明・小西熱 子、1993、『そして僕らはエイズになった』晩聲社。また、薬害HIV訴訟の過程は、次の本が参考になる。
島本慈子、1997、『砂時計のなかで──薬害エイズ・HIV訴訟の全記録』河出書房新社。
5)後出の質疑応答に出てくるように、当時はエイズが容易に感染すると誤解されていたため、患者は本人の 希望に関係なく、個室に入れられて差額ベッド代を請求されることが多かった。しかし厚生省(当時)の 通達で、差額ベッド代が請求されない事案に該当した。
絵2 Takayoshi《友へ》(1990)
絵3 Takayoshi《一人の姿》(1991)
と血友病の方々が亡くなっていく現実、こんなことがあっていいのかと心からわき上がる憤りでし た。
病院を信頼して、医師を信頼して、治療で使用する薬を信頼して、生きるために医師が勧めた治 療を信じて、指導されたとおり息子にとって一番いい選択だと思ってきました。私がこの手で息子 に投与した結果が息子の命を奪うことになるなんて。信頼し切っていたものが全て崩れていきまし た。
孝祥が高校生になると、体調は悪く入退院を繰り返すことになりました。出席日数の不足や中間 テスト、期末テストが受けられないときもありました。病室でテストを受けさせていただいたこと もありました。体調の悪い中でも病室に教科書などを持ち込み、努力している姿がありました。将 来は絵の道へと夢が希望に変わり、目標となりました。ですが大学受験は、入院している状況でか なわないことになってしまいました。
高校
2
年生のときの文集では、「心象風景」で短歌を詠んでおります。1つ紹介したいと思いま す。身の傷み 一瞬のもの 治りけるが
心の傷は 消ゆることなく
さ だ め
のがれられぬ 生まれ滅ぶは 人が運命
と わ
永遠へと続く 時の営み
最後の入院の日々ことです。美大受験に必死だった息子が自分の口から私に「受験をあきらめる よ。大学に行かなくてもいつでも絵は書けるから。今は体を治すほうが先だよね」と。でもその目 標があったからこそ、つらい毎日を乗り越えて目標に向かい努力してきたのを見てきました。息子 の願いや希望が
1
つ1
つ奪われていくのを見るのは、とてもつらかったです。本人があきらめると 決断した言葉はとても重く、その日から一切絵のことを口にしなくなりました。最後の入院中のある日、「お母さん、僕、エイズなんか?」と私に問いかけてきました。亡くな る
1
カ月前ぐらいのときです。結果的に私は、今言わないといけないと、私からその事実を伝える ことになりました。とてもつらく、でも隠してはいけない、身が裂けそうな思いでした。息子は冷 静でした。「高校のときからそうだと思っていたよ」と私に言いました。そして「エイズのことを もっと知りたいから、お母さんは本を持っているよね、持ってきて」と。ライアン・ホワイト君の 本を持っていきました6)。そして読み終わった後、「僕のこともこんな本になるかな」と。「何 で?」と聞くと、「僕が生きた証」と言いました。感染を告知した日から二人でいろんなことを話しました。今までのキャンプのことや同じ病気の 仲間のこと、K君が亡くなったこと、会長さんや石田さんのこと、やりたいことがいっぱいある。
孝祥は「僕、10年後に生まれてくればよかった」と私に言いました。症状はよくならない中、
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6)White, Ryan and Ann Marie Cunningham, 1991,Ryan White : My Own Story, Dial(=ライアン・ホワイトと アン・マリー・カニンガム、1992、加藤耕一訳『エイズと闘った少年の記録』ポプラ社)。
「僕、もう治らない」と、閉じたまぶたからは一すじの涙が流れていきました。
全てを伝えてから毎日、「お母さん、お母さん」と甘えてくるようになりました。毎日毎日体を さすり、抱きかかえていました。毎日聞くようになりました、本当に「今日は何日?あと何日生き られる?」そして同じように「今日は何日?」「3月
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日よ」と。そしたら急に「お母さん桜が見 たいよ」と言いました。ベッドのそばに桜を生けてあげました。絵をあきらめると言って、一切絵のことを口 にしなかったのに、「お母さん絵をかく、桜の 絵を描きたいんや」と。無念の一言です、悔し かったです。病気でつらい日々を過ごす中で、
かき残した絵ばかりです。ほとんど病室の中で は描けなかったので、本当に退院した後、自分 の部屋で描きためた絵ばかりです。
厚生省(当時)がエイズデーに、もうすぐ
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月1
日7)ですが、ポスターを、息子の絵を採 用 し て く だ さ い ま し た(絵5)。そ こ に 私 は
「伝えていきたいことがある」という言葉を入 れていただきたい、そうお願いしました。その ことを受けとめていただければと思います。御 清聴いただきありがとうございました。(会場 拍手)
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7)WHO(世界保健機関)が1988年に、エイズの蔓延防止と、患者や感染者に対する差別・偏見の解消を目 的に12月1日を世界エイズデーとした。レッドリボンがそのシンボルとなっている。
絵4 Takayoshi《桜の花 3月31日(絶筆)》(1993)
絵5 Takayoshi《情熱》(1991)
花井 ありがとうございました。つけ加えることは余りないので、10分休憩して、その後、質疑 応答というか、来てくださった皆さんと意見交換じゃないですけど、そんな会にしたいと思いま す。
質疑応答
花井十伍(大阪
HIV
訴訟原告代表)・上野和美花井 僕らみたいに血友病患者ですと、みんなはどうか知らないですけど、でも何人か当事者の顔 が見えてますが、血友病の母って、みんな、うちの母親の話を聞いてるみたいな気分になるんで す。なんというか、そういう感じなんですよ、血友病母子はね。上野さんの話を聞いて、そういう 気持ちになって、ちょっとしんみりしたわけですが。
さて、質問コーナーにしちゃいましょうか。何か質問とかがあれば受け付けます。いかがでしょ うか、何でもいいですよね。
当時、お医者さんの言うことが、僕、さっきビデオを見ててお医者さんが顔を出してないですよ ね。何を隠れてるんだという感じですよね、お医者さん。
上野
1
回目の検査を依頼したときに、HIVの陽性ですと簡単に言いました。私は石田さんたちか ら情報をもらっていたので、「先生、陽性なんですか?」と聞いたら、「そうだよ、陽性だよ。抗体 ができてるんだよ」と言ったんです。それで終わりです8)。花井 説明はなかったんですか?
上野 そう。
花井 病気の説明とかは?
上野 (首を振る)なので、この医者は駄目だわと思った。だから金沢大に行ったんです。信じら れなくて。本当に田舎の病院だったので、いろんな意味で薬も手に入らず、友の会の会長さんと か、石田さんたちから情報をもらったことで、先生にいろんなことを。私も必死でしたから、いろ んなことを先生に言うと、もう先生に怒られました。「要らんことばっかり聞いてくる」と、反対 に。何でもかんでも、「要らん知恵がついとる」って私にすごく怒りました。
病院でも、息子がぐあいが悪くて、ちょうど採血するときは、製剤を打つ日と重なったりすると き、製剤を持っていくんですよね。1回の注射で、やっぱり痛い思いをさせたくないので、採血す る……、そこで翼状針を切りかえたい、製剤を入れたいと思って私が持っていく。そうすると看護 師さんが、お母さん、針を入れてくださいって。診療室で私が注射してました。そんな田舎の病院 です。
花井 田舎というか、陽性告知は、お子さんには、親御さんに言って。ただ、わかる年になってく
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8)通常のウィルス感染症の場合、抗体がある場合には、そのウィルスによる病気にかかりにくいと考えられ ているが、レトロウィルス感染症の場合、抗体が出来ていることは持続感染を意味する。しかし当初はそ の特徴があまり知られておらず、抗体陽性は抵抗力があると誤解された。それだけ知られていなかったと いうことでもある。
わけですよね。そうすると本当は、今インフォームド・アセント9)という言葉がありますが、ちゃ んとした説明が必要なんです。多くの患者さんは結構、告知をされていなかったんです。ビタミン 薬だと言って、治療薬を飲んだりした患者さんもたくさんいましたし、告知の負担を親御さんが全 部かぶっていたのは、結構あったということで。そういうところも、すごくむごいことですよね。
そういうのが
1
つはあったと思いますね。治療自体は最後のほうで、治療は個室診療だった。差額 ベッド料は請求されましたか?上野 ……。石田さんが来てくれて。
花井 そうか、石田さんがいたからね。
上野 石田さんが書類を持ってきてくださって、(厚生省=当時)通達の文とか。それを医事課の 方が、通知が来ててもスルーしてるんです。それを石田さんが京都から飛んできて、医事課の方に 見せて説明してくださった経緯があります。
花井 和歌山では、僕もそうなんですが、個室に入れられるんです。ほかの患者の目に触れるな と、外へ出ないでとか言われるんです10)。でも請求書類は個室の差額ベッド料が全部ついてくる、
そういう時代があって。かといって大部屋というわけにもいかず、そういう時代だったです。
結構、おしゅうとめさんは、ひどいことを言っていました。上野さんには自分が産んでしまった という罪悪感はずっと消えなかったということですかね。
上野 もうずっとありましたね。
花井 でも、孝祥君はそういうことは言わないでしょう?何か結構、息子ってそういうものです ね。うちの両親が言うんです、弟も血友病ですが、1回も「何でこんな身体に産んだ」なんて言わ なかったこと、言わなかったことが好きだと言っていた。言わないよね、母親には。言わないで す。ただ、母親の方は罪悪感を持っていて、子供がそういうふうに責めなかったことが救いだった と言っているんです。あの時代の血友病の母の姿だと思います。
さて、質問コーナーなんですけど。はい、どうぞ。
A
さん 僕は研修医1
年目で、一応医師として働かせていただいているんです。僕は小児科希望 でして、今後の参考というか、実際に息子さんが闘病生活をされていたときに、医療者側から治療 の面で、僕はちょっと詳しくないのでわからないですが、声かけとか、どういう声かけをされて心 が安らいだとか、むしろ逆にこういう言葉は傷ついたとか、何か患者さんの目線として、何か僕に アドバイスがあればいただきたいなと思うんです。花井 当時で言うと、相当時代が違いますね。当時はパターナリズム全盛で、お医者さんの中に も、真実を告げることが必ずしも患者のためにならないという気持ちが強い先生がいて。当時の
HIV、抗体陽性と言っていましたけど、抗体陽性が何を意味するのかさえ最初はわからないわけで
す。ある先生は「抗体ができていてよかったね」と告知をしている先生もいるありさまで、知識が 不十分だったというのもありました。──────────────
9)インフォームド・アセントとは、とくに小児患者の場合、その保護者に対する説明と同意を意味するイン フォームド・コンセントとは別に、当事者であるその子供本人にも説明して同意を得ること。
10)薬害エイズの問題は、それが単なる「医薬品による健康被害」にとどまらず、エイズパニックに典型的に 見られたように、差別と偏見にさらされたことにもある。他の薬害でもそうだが、薬害の被害はそのよう に、身体的被害に切り詰めることが出来ない社会的経験を伴うのである。(後掲の特集論文参照。)
そのときに、個人的には、全て言葉を濁すんですね、当時はね。というのは、本人もわからな い。治療法はないんですよ、ほぼ。で、どうしたらいいですかと言うと、どうしたらいいと言え ず。レトロウィルスなので抗体陽性で持続感染だということは間もなく分かってきますが、じゃあ 発症するんですか、しないんですかとか。どのぐらい生きられるんですかと言われたって、何も答 えられないありさまだった時代ですよね。
そのときに医師たちは、結局言葉を濁してごまかすんです。それが返って不安というか、不信感 につながって。さっきサマーキャンプってありましたよね。あそこではメーカーの人も仲よし、お 医者さんも仲よし、みんな仲よし。薬があって、子供が安心して走っている姿を見て、みんな喜ん だシーンなわけです。ところが、実際にはこういう厳しい状況だったときに、結果としては、血友 病の医師と患者の間では、その信頼というものが崩れていくのがすごくありました。だから僕が今 言えることは、「わからないことはわからない」というのが大事ではないかと。しかも、実はわか っていることのほうが少ないんですよ、医療の世界って、本当のところをみると。EBMという言 葉があって、エビデンスに基づいてできるときは答えを持っている。しかし答えを持たないとき に、やはり大事なのは信頼関係だと思うんです。それをつくり得たかというと、結構厳しかったで すね。
この直接の話とはちょっと違いますけど、当時のサマーキャンプで上田先生11)。臨床医で、彼も 最後までエイズをちゃんと、もちろん今でも日本のエイズを診てくれている先生なんですけれど も。患者さんが、あのとき走り回っていた子供たちが、1人減り
2
人減りと死んでいくんですね。それは臨床医としては、小児科医ですよ、自分がずっと子供のころから診ているので、やっと元気 に走っているところにいたその少年たちが、あの夏の日のあの映像にいた少年が、その多くがいな くなっているっていう。それは相当な、臨床医としての苦しみだったそうなんです。だけど、そう いう苦しみも含めて、やっぱり臨床医も人間だというところで思うと、やっぱりそういう先生とは 長くつき合いますね。どうです、その辺は。
上野 私は母親ですから、私の多くの出会った先生のエピソードを話したいと思うんです。私は、
先ほど言った地元のお医者さんにかからないと、近くじゃないと出血管理という部分では、時間と の闘いだったので、とにかく近くの病院、そして私も仕事がありましたので、病院に通っていくこ とは、やっぱり近くの病院というところでした。その反面、国立療養所医王病院にも入院したんで すが、金沢大学の血液内科にも通っておりました。
息子は金沢大学の先生が大好きでした。何が違うかというと、やはり今、花井さんがおっしゃっ たように、息子と本当にいろんな、出血して痛いときとか、普通に検診するときとか、そのときの 息子と本当に真摯に向き合って、子供に安心を与えてくれたことが一番だと思うんです。それこそ 私もその先生を信頼していましたし、最後の入院のときなんかは、私も金沢大学の先生のところで 診ていただけませんかと、本当にすがる思いで先生にお電話したとき、来られるのには
1
時間以上 かかるんですよね、でも金沢大学の診察を終えた夜、消灯が終わった9
時回ってから、先生が病室 へ来てくれたんです。息子のうれしい顔ったら、本当に、本当にうれしい顔をして、「先生、僕こ──────────────
11)関西医科大学付属洛西ニュータウン病院の上田良弘医師(当時)。
こ痛いんや、ここ痛いんや、診てほしい、診てほしい」と本当に先生にすがるような顔で、その先 生が来てくれたことを喜んでおりました。
私は、先生にお礼を言って「先生のところで診ていただくことができませんか」と先生にすがる 思いで言ったとき、先生が私に「お母さん。もし金沢に入院したら、お母さんは仕事を終えて金沢 まで通うことになるんだよ」と。少しの間でもいい、息子との時間を多くとってあげたほうが息子 にとって一番いいと私を諭してくれました。それで、もうその一言です。だから本当に、いろんな 意味で信頼できる先生って、言葉で言えば簡単ですけれども、その信頼関係を結ぶっていう、診察 の度に積み重ねていく信頼。子供は患者ですから、本当につらい思いをいっぱいしている、それに 先生が声かけてくれる。肌で感じて、もうわかっていることだと思っていました。
花井 ほかにございますでしょうか。
B
さん 告知のときのお話をお聞きしたいんですが、告知というか、陽性だと聞かれて、そのとき にショックを受けられたときに、分割はできないと思うんですけど、治らないというか、不治だと いう部分のショックが多分あると思うんです、治りにくいというのが。それとともに、偏見ですと かそういったことに対する、どうしようという部分が大きかったと思うんです。どちらがという か、どういう感じなのかなというのをお聞きしたいなと思ったんです。つまり、不治であるのももちろんショックですが、でもある種、お医者さんとの関係の中で、ど うやっていけばいいかという方針が立つ部分ではあると思うんです。ところが偏見に関しては、そ れは隠すしかないとか、対処できないみたいな部分もあるのかなと。その辺をもう少し教えていた だけたらと思います。
上野 まず
1
回目は、勉強していただけてない先生の告知ですから、信じたくないという自分の想 いでいて、その足で金沢大へ依頼して、今お話した先生の検査だったので、先生が陽性だと。その落胆というか、感染している事実を受けとめざるを得なかった。当時、私は友の会の会長さ んにその事実を告げて、その治療法を石田さんが「考える会」、京レタ12)ですよね、京レタが本当 に専門書みたいにして送ってきて、私は全然ちんぷんかんぷんでわからないんだけれども、石田さ んたちが行っている治療、AZT、ddIというお薬の効きぐあいとか、そういうのを聞きながらで す。
でも、手に入れてくださらないんです。先生にそれをかけ合って、要らないことばっかり情報を 聞いてくると反対に怒られたり。でも、結果的には取り寄せてくれたりということもあったりし て。あるときなんかは、薬が切れたときに、病院は製造されてないから手に入らないんだと、剣も ほろろに窓口で門前払いみたいにして、私はそこで泣き崩れたこともあります。必死だったんで す、私も。病院の窓口で本当に泣き叫んだこともありますし、息子のために私はすごい顔で向かっ ていったんだと思います。
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12)京レタとは、石田吉明氏が中心となり、京都ヘモフィリア友の会洛友会を母体として創刊された、HIV情 報共有のためのミニコミ誌『京都からの手紙』のこと。その目的は(1)HIV感染者の発症抑制治療の推 進と、心理面でのケアー活動 (2)血友病HIV感染者の医療費救済と、年金補償の確立運動 (3)血友病 HIV犠牲者の遺族補償の支給運動 (4)新聞、雑誌などのHIV記事の送付・会員の寄稿 (5)HIV記事、
番組の告知と追跡取材・HIV強権立法阻止闘争の最新情報 (6)医学講演会のレポートの提供・HIV講演 会の開催(石田・小西、1993 : 108-109)。
でも、石田さんはどうしてか
AZT
を送ってくださったり、病院には内緒で息子に飲ませたり、とにかく綱渡りをしていました。そんな状況です。だから偏見というのは病院で、病気のことは病 院内だけで処理が、知れ渡っていましたから。入院する度に消毒です。息子を守るのか、病院側を 守るのかという状態の中で、私もむきになっていたこともあります。闘いでした、病院との。
でも、金沢はやはり遠過ぎて。当時携帯もなかったですし、ポケベルを持って、ポケベルに連絡 をもらって、携帯電話はお弁当箱みたいなこれぐらいでかい。病院に何言われようが私は病室の外 にアンテナを立てて、息子のまくら元に電話を置いて、私はポケベルを持って。仕事場と病院とが 車で
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分ぐらいのところだったので、朝行って、昼休み行って、夕方行って、夜行って。もう行っ たり来たり、そんな状態で。息子を守ることで、必死でやっていた状態でした。病院と闘っていま した。花井 ということは、いわゆる「あのエイズ」ということよりも、闘病というか、孝祥さんを守る ことのほうが、はるかに大きかったということですよね。ところで薬は、AZTと
ddI、両方飲んで
られたんですか。上野
AZT
だけ。後半にやっとddI
を入れていただきました。花井 地域格差も結構あったみたいですね。
上野 手に入らないんです。
花井 新潟県とか治療する気さらさらなくてという感じだったです。AZTだけではどうしようも なかったんですけど、そういうことですよね。当時の患者も、そんなにエイズってね。どうやって いたんでしょうね、「あのエイズ」にかかるという。
上野 県内の、能登の地区の子だったんですが、隔離病棟でした。彼のお母さんはそう言っていま した。精神科の子も何かおるみたいな、隔離。
花井 閉鎖みたいな。
上野 そうです。そういうところへ入れられたと。
花井 同じ薬害で言えば、スモン全国連絡協議会の事務局長の辻川さんも、スモンで隔離病棟に入 れられたと言っていました。伝染病説があって。スモン自体は感染症ではないですが、そういう話 がありました13)。ほかにございますでしょうか。
C
さん はい。すみません、当事者です。貴重なお話をありがとうございました。花井 エイズと言われたときの、エイズというのと、俺、死ぬんだと、どっちを重たかったです か。
C
さん やっぱりというのが強かった。死ぬんかということは、僕が病気を告げられたのが大学 に入っていたときで、親が告げられたのが中3
という話を親から聞いて。このとき、母親が聞いて ショックがあって、僕が物心わかるまで伝えないでほしいという話をしたって母親が言っていたん です。この告知をされてから息子さんに病気を伝えるまでの間の、そのときの気持ちというか、ど──────────────
13)スモンとは、整腸剤などで使用されたキノホルムによる重度の神経障害(亜急性脊髄視神経末梢神経病)
のこと。英語名(subacute myelo-optico-neuropathy)の頭文字からスモンと呼ばれる。1970年代に多発して 患者は1万人を超えた。その神経障害の原因が当初は分からず、ウィルス説が唱えられて患者差別が生じ た。その後、キノホルム使用停止によって患者が発生しないことから、キノホルムが原因であったことが 明らかになった。
ういうふうな思いでいつ告げたらいいのかとか、どんな思いだったんだろうなというのが僕の中で 思いがある。
大学のときに告知されたときには、やっぱりかと思ったのと。たまたま僕がちょうど薬大でい て、そこで教室で、プロテアーゼのお薬が出たら、HIVまだ半分やみたいな話があって。それを 聞いたときに、その薬が世に出るまで生きられたらいいなと思ったのがあって。薬を飲むのも、で きるだけその薬が出るまで飲みたくないとか。AZT、ddIしかなかったときに、飲んだら結構みん なすごい副作用が出てという話を聞いていて。できるだけ飲みたくないなという思いで過ごしてい た感じです。
薬を飲むに当たって、飲まなあかんとなったときに、僕はすごい飲むことになったときに、初め て、あとこの薬を飲んだら
2
年ほどで効かなくなるという話を、AZTとかを飲むときにそういう 話があって。僕は、あと2
年かという思いで死を感じたというか。初めてそのときに、死ぬという ことを意識したのを覚えています。その薬を飲むのが僕はすごく怖くて、すごくためらったんで す。今の主治医ですが、そのときに目の前で薬を飲んでくれたんです。それはすごく衝撃的で、自 分の向き合って飲まなあかんと思って飲み始めたんです。息子さんは薬を飲むときとか、お薬を飲むときの状況も、状況でどう思ったとか、それをどうい うふうにしてお母さんは受けとめていたのか。そういう想いを聞かせていただけたらと。
花井 薬、さっきプロテアーゼと言っていたの、あれが
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年に出て、患者を救った薬です。今言 っている2
つの、ddIとAZT。これは最初に出た薬で、ほぼ効かないという話で。錠剤のほう飲ん
でいました?C
さん はい。花井 ガリガリ噛んで飲んでた?
上野
AZT
はカプセルで、ddIは大きいので……。花井 錠剤。ポリデントのイメージで、ポリデントのあれを口に入れてガリガリと噛んで水で流し 込むやつ。お薬を飲むときってどんな感じでしたか?どういう薬でしたか?
上野 本当に
AZT
が手に入ったのは発症して後半だったので、飲み始めたときは入院中でした し、見事に効きました。息子もすごく喜んで、一時退院もできて。ずっと続いていた微熱も下がっ て、すごい体調もよかったという衝撃的な薬だった印象があります。私は、息子が小学校
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年のときに最初の感染の事実を告げられて、中学校3
年間、何だかんだ体 調もやっぱり芳しくなくて。高校に入る前ぐらい、手の甲にカビができたり、首のリンパ節がはれ てきたりという症状が出始めて。ヘルペスですよね、当然。高校に入ったときから体調が悪くて、本当に感染の事実を知る一月前は、2月
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日です。聞かれて告げたときに、高校のときからそう 思ってたよと、さらっと言ったんです。短歌でも詠んでいたように、息子は本当にその事実をある程度わかっていて。私がやっぱり隠そ う隠そうとしている状況で、言ったように血友病の母と子です。お母さん見ていたらわかるでしょ う、苦しんでいるの。隠そうとしているのを見ていて、息子は私が苦しんでいるのを一番理解して いました。息子も聞けなかったんですよね、私がつらい思いをしているので。泣いている姿も陰な がら、一番息子は私を見ていて。毎週
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回向き合って注射をしますから、私の表情とかを一番息子が読み取っていました。
冒頭に言ったように、家の中でうそを積み重ねていかないと、やはり弟たちにそういうことがわ かるとしゃべってしまいますし、しゅうとめたちにもそういうことを言えば、ずっとやっぱり。息 子と
2
人、孤立している状態。年寄りは下の双子をかわいがっていましたし、どうしてもそういう ので家の中で線引きされた。何かあっても、父親も入ってきませんでした、正直。だから私と息子 が孤立した状態で、いつも病院を行ったり来たりしている状態がずっと続いていました。私もそこに入って来ないというか、入ってきてほしくないというのもあったから、受け付けなか ったんだと思います。そんな状態で息子と
2
人で頑張ってきたのがあります。ですから、息子も私に、だろうと思う、感染しているんだろうと。エイズのことは世間で騒いで いましたし、病院へ行けば、今まで対応していた看護師の態度が手のひら返したように変わります からわかりますし。入院しても、看護師さんを、やはり息子はわかっているんですね。この看護師 はこうだああだとわかっています。一番息子が敏感に感じ取っていたんだと思います。
状態が治らない中、息子は私に「僕、エイズじゃないか」と聞いて。私も一瞬「え?」という感 じで病室を飛び出しました、一旦。でも、今言わないといけないと思って、病室へ戻って息子と向 き合い、隠していたことを全て話しました。冷静に「そうだと思っていたよ」と私に言って。私が いろんな本を読みあさっているのも知っていたんだろうと思います。お母さん本持っているよね?
という感じで。僕はもっと知りたいから本を持ってきてくれと。
専門書とかを石田さんから送ってくる、ああいう難しいのを持っていたとしてもあれなので、私 はエイズを告げたときに、石田さんたちからも話を聞いていたので、広島の高田先生14)のところ へ、お会いしたこともないですが、病院の帰り私はハンドルを握って、泣きわめいて、高田先生に その帰り、夜、電話をしました、広島大学に。感染の告知をしたこととか、高田先生に言って、息 子がエイズのことを知りたいから本を持ってきてくれと言うんです、と。高田先生が、ライアン・
ホワイト君がいいよねと、高田先生の勧めでした。ライアン・ホワイト君がエイズと向き合って、
闘ったという本です。子供は同じ同世代だったので、それを持っていったことがあります。
今、高田先生の話を出したので、ここで話をしたいんですが。そのときに高田先生が、石田さん も友の会の会長さんも患者さん本人です。私は母親です。本人さんにいろんなことを教えていただ いて、こうしてやってきたんですが、高田先生は私自身のことを聞いてくださいました。「お母さ んよく言ったね」って。「お母さんが告知するなんて」と、高田先生が私のことをすごく心配して くださいました。初めてでした。自分のことを心配してくださる方がいるんだ、お会いしたことも ない先生が、私のことを聞いてくれるということで、本当にあのときは、告知した以上に私は泣き 崩れてました。お会いしたことのない先生が、母親が息子に感染告知する状況、私に言葉をかけて くれた、そういうことがありました。答えになっているかしら。
花井 高田先生はあれですよね、高田先生はもともと血友病の小児科の先生で、「ある日、車を運 転していたら子供をはねちゃった、かけよったら我が子だった」という気持ちだと、この
HIV。
多分高田先生は、割と血友病の先生の中では告知を早目にした先生です、全国的に。恐らく高田先
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14)広島大学医学部付属病院の高田昇医師(当時)。
生は、我が子にそれを伝えるような気持ちだったでしょう。だからもしかしたら、それがゆえに、
上野さんの気持ちがよくわかったかもしれません。
はい。ということで、ちょうどいい時間になってまいりました。(フロアからの挙手に)はい、
どうぞ。
D
さん お二人に一言ずつお願いします。ひとつは、大体全部裁判ですよね、被害者の支援とい うものは。全面解決するとか、いろいろとありますけど。一応、それぞれ和解にしろ、判決にし ろ、何らかの形で直接の被害者の問題については、おおよそ、それぞれの薬害で一応結論が出てい るかと思うんですけれども。だけど、そのためには、僕らまわりの者ができることは、その当時は、多分多くのところは支援 で、公害でも薬害でもそうですが、裁判の支援という形でかかわることはできるんです。でもその 裁判が終わったり、和解が終わったりすれば、それは決着がついている。多分、多くの人は、その 後のつながりがなくなっているんです。
もちろん、まだ続ける
1
人として。今お聞きしたようなこのHIV
については、遺族の方の問題 が、ある意味で解決してないですね。そういう皆様の気持ちに添うようなかかわり方をできるとす れば、どんなことがあれば気持ちが和らぐのか。あるいは自分たちが、少しでも役に立つことがあ り得るのかなと。普通の人が、ですね。ちょっと考えます。花井さんには、見せてもらったあの表はいつも見ますけど、生存者が多い15)。生存者のほうが亡 くなった人よりも。薬害
HIV
の現在の生存者、感染者の、現在の問題は何なのか。遺族の問題は きょうのテーマでしたけど、実際に今生きている人たちの、随分状況は変わりましたよね、和解 後。グラフにあったようにいっぺんに死亡率が減ったし、あるいはそれ以上に肝炎とかほかの問題 が出てきて。そういう状況だと、今生きておられる、生存されている感染者の人たちは何が問題な のか、あるいは終わったものでいいのか。その辺の説明をしてください。花井 まず支援の問題。たくさん支援をしてくれた人がいたんですが、今、何か支援っていうのは
…。つまりその、質問の趣旨は、いろんな社会問題に取り組もうとする人は、裁判支援はやりやす いんだけど、実は被害者の本当の支援は可能なのかというところだと思うんです。実は多分不可能 だと思うんですね。不可能だとしても、それは何らかの支援という形でそういうのに寄り添うこと が、可能性があるのかという質問だと思うんですが、どうでしょうか。
上野 可能性…。今、遺族の集まりがあるんです。本当に出てこられる方は限られているっていう
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15)上野氏の講演に先立って、花井氏が薬害エイズの概要 を説明したときに示された死亡者数の変化。1995年 のプロテアーゼ阻害剤の認可(米国)と1996年の逆 転写酵素阻害剤の認可(米国)により、それらを併用 することで劇的に治療効果があがったことが、1996 年以降の死亡者数の激減に現れているとされる。グラ フはアメリカの死亡者の変化(池田信夫・灘岡陽子・
神谷信行、2009、「世界におけるHIV/AIDS死亡の分 析」、『東京都健康安全研究センター年報』、60、283- 289)。
(1)死亡者数
ところで、地元で病気を隠していたこともあったりして、年齢的にも年老いていっている形で出て こられない方が、やっぱりぽつぽつとふえてきているのも事実です。やはり孤立していますね。
だからその、どう言うんですか、話してもわかっていただくことは不可能なので、その部分に触 れないで、そこの地域の中で穏やかに生活していく。実際、私は地元にいれなくて、飛び出して、
そして名前まで変えてというか旧姓に戻っております。そして、今、何が一番幸せかと言ったら、
一人なもんですから、何棟も建っている公営住宅の一室で、周りが誰も私の過去を知らない、そん な状況の中で毎日を過ごすことが一番安らいでいます、正直。
遺族の集まりとか出かけます。過去のつらかった思いとかを共有できる場、でもそこで語ること で、先ほども言いましたように、解決にはならないんですよね。語ることで、少しは口にすること で楽になったとしても、ずっと自分が死ぬまで背負っていく問題だし、同じ遺族であってもひとり ひとり状況は違いますので。
息子が血友病で、HIVに感染してエイズで死んだという事実は一緒だとしても、置かれた状況 はひとりひとり全部違います。御主人が理解があって、御夫婦で仲よく生活できる方もいれば、私 のように離婚している方もたくさんいます。やはりその状況は、その支援という、ひとつの裁判を 起こしたことで、裁判の支援で問題は解決したというか。裁判のことは解決したけれども、その中 にいる原告ひとりひとりは、全部状況はばらばらなので難しい問題ですよね。でも、遺族はやはり 集まるというか…。
和解勧告を受けて、国が遺族に対して弔意をあらわしてくださったという事実を、やはり私たち はずっと、その弔意に対して少しでも自分のつらさとか、今まで負ってきたいろんな苦しみを、そ の弔意に対して応えていくっていうことで集まることが、自分たちの役目なんだなと、最近はそん なことも思ったりして。自分がそれを解決していかないといけないという事実なので。それの道し るべをいろんな形で、カウンセリングを受けたり、いろんな専門の方のお言葉をいただいたりしな がら、少しずつ前進している状況にあります。それぐらいしかしゃべれません。
D
さん 今、何でそんなことを言ったかと言いますと、患者さんの支援ではなしに、やっぱり患 者さんに寄り添うという形はできるのかできないのか。それは全然かたい話じゃなしに、どうすれ ばなんて難しい話じゃなしに、要するに友だちつき合いをすればいいんじゃないかと、仲よくなれ ばいいんじゃないか。それが一番気持ちに添うことになって、少しでも気分が安らぐんだという。今、患者さん同士の中で集まりができる、非常にそれだけでもすごい安らぎの場をつくっているこ とになると思うんです。そういう中で、仲間に入っていけるような人ともっと…。要するに、こう いうところで話をされるのは、僕は非常に酷だと思うんですよ。自分のことを、つらい話を知らな い人に話をするのは。むしろ、僕は酷じゃないかと思って。本当は患者さんがうちに来て、直に話 を聞くなら別だけど。
上野 今、ちょっとお話を聞いていて思うことは、私は地元の石川県に帰ったら、子供を亡くした 親の集まりがありまして、そこに参加させていただいております。だから私がこういう薬害でとい う、それは全然伝えておりません。そこには交通事故で子供さんを亡くした方とか、自死された子 供さんの親御さんであったりっていう。やはり子供を亡くした親の集まりで、3カ月に
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回なんで すけれど、集まってそこで語ることは何かと言ったら、やはり自分の今、今気持ちにある、今の心のつらい思いをその場に語る。共有するんじゃなくて、聞いてもらうという作業をしております。
今おっしゃった、私は薬害エイズで、ほかにもたくさん薬害の方がいます。
いろんな薬害という入り口を決めてしまうと、それが先に入ってしまいますよね。そうじゃなく て、子供を亡くした、薬害の被害者でいろんな連れ合いの方を亡くしたとか。やはり亡くした方々 の気持ちに寄り添う、何かうまく説明できないですが、入り口を狭めてしまう、全部一つ一つ刻ん でしまうというんじゃなくて、一歩中に入った悲しみを持っている方々の気持ちを共有できるとい う、そういう何かができるといいなというのは、私の中にちょっと漠然とあります。だから、私は 県内の子供さんを亡くした親の集まりには積極的に毎回参加して。それこそ、そこで怒りをぶちま ける方もおいでますし。やはり、何で自分の子供が交通事故に遭わないといけないんだという、
「何で、何で」と答えの出ない堂々めぐりの話を口にされるんですが、それをみんなで「そうだよ ね、そうだよね」と、そういう時間を持つ。私はその場がすごく気持ちが通うというのを、何か漠 然と感じて毎回参加させていただいております。答えになっているかわかりませんけど。
D
さん いえいえ。よくわかります。花井 なかなか、非常に重要な話が出ているんですけど、余り込み入った話をしても何ですが。結 局、当事者は自分の傷みを語るということは、ある種酷だという、まさにそのとおりで。何でそん なことをやる、当事者がやる側だからできる企画でですね(笑)、無理やりに紹介してやってるん ですけど。今おっしゃられた話がヒントになると思いますが、それだけだったら単なる歴史の
1
ペ ージでしかないですけど、ある種普遍性があるということなんです、その中に。今ほかの遺族とい う話も出ていました。それは今の時代、20年前の物語も語っているわけですが、現在でも何か普 遍的に共通点があるから、そのことが僕らの私的歴史なんだけど、その私的歴史が現在という何か につながっていく。それが死者に対して報いることだと考えているからやっているということで。一方、生きている連中の課題は、医学的にはもちろん
HIV
とずっと闘病している。HIVは、治療 薬を飲み続ける限りはもうほぼ死なないです。発症しないです。そういう意味では、薬が飲めてる 限りにおいては、もう死とは全然無縁の疾患だから、ある種一生飲み続ける慢性疾患になります。で、もう一つは
C
型肝炎ですが、C型肝炎はちょっと厄介で。今年、C型肝炎が消える薬が発 売されまして、若い感染者は、C型肝炎は、肝炎も肝硬変にも全然ならないんです。消えます。ウ ィルス、C型肝炎の陽性で、若い患者さんは今年出た薬を飲めば治る。ただちょっと出るのが遅か ったんです。だから僕らのグループは結構早目から感染しているので、ウィルスは消せるんですけ ど、進行した肝臓が元に戻らないので、まあ肝臓との戦い。もう一つは、血友病原因疾患です。高 齢化は今までなかったんですよ。割と早目に皆さん亡くなったので。血友病初の高齢社会というと きに何が起こっているかというと、出血死が新たに問題になっている。メディカルというか医学的 にはそれが課題になるんですね。じゃあ、被害者として何が課題かというと、これはひと言で言えないですが、見たところ半々 で、半分ぐらいは、メディカルな課題については、幸い医療機関が整備したので、それに対して最 善の医療を提供する体制はあるんです。だから、それには文句のつけようがないです。地域で、そ の病院に行けないというのはあるんですけど。少なくとも日本において、十数カ所においては、そ んなとんでもない医療ではなくて、むしろ最善を超えた医療が提供できる。そこまでやったと。だ
ったらもういいじゃんということなんですが。
一方で、さっき孝祥さんは夢の半ばで亡くなっていったわけですけど、それとさっきちょっと学 生時代に告知を受けたという話が出ていましたけど、そこで死ぬという状況の中で、ちょうど進路 を決定する前に、大学受験を逸して大学受験できませんでした。それから和解金も入ったから、こ れを使って余生を楽しんだらいいんだとやってたら、生き残っちゃった、というときに、結構、社 会復帰ができない。半分は病気だけやって、あとは普通に、だから解決したと言っていいんじゃな いかと。生きてる被害者の半分ぐらいは、実はいろいろ言うんだけど、ほぼ社会的には解決で、僕 らがセルフヘルプグループとしてある程度手助けをすれば、真っ当に行くだろうと。
残りぐらいが、やはり人生を失って取り戻せない集団。特に若いころにこの問題に巻き込まれた ことによって、進路を見失ったりとか、そういう集団がいて、その辺が就職の問題とか、その辺が 課題になっているだろうと。それは、メンタルでもいろいろ課題として残っていて。やっぱり
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回「死」を…すごい悪い例えですけど、特攻隊の生き残り的なニュアンスがずっとあって。どうせこ こで人生が終わると思っていたら、結局生き残った。
だから孝祥君はいっちゃったわけですよね。といって俺も行くと思ってたら、自分は残ったとい う感じはあって。まあ僕は
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ぐらいなので、相当すれていたので、何とか社会復帰を果たしてる んですけど。やっぱり十代、思春期でこれに巻き込まれると、それなりの問題があるということが あって、その辺が今の課題といえば課題ですね。E
さん すみません、もう時間が過ぎてるんですけど。ずっと質問がしたかったんですけど、なか なかできなかったのと。非常に重い話だし、酷だし、つらいことだと。きょう余り話題にはならな かったんですが、実はこの薬害は全然古くないと思うんです。そういうことはあってほしくないん だけど、今後も出てきそうな気がする。あるいは現在でも、何かそういうのを私たちの身近に感じ ている、子宮頸がんのワクチンとか。そういう中で医師としては、私は医者をやっているんですけ ど、医師としてはどこを臨界点として、これは薬害だと認識して、どういう行動ができるかという と、はっきり言って私も自信がないんです。今まで皆さんにずっと受けられた苦難と苦労と、それ は患者さん御自身、御家族御遺族、医師、医療従事者全部含めて非常に大きな問題であることは、きょうまた新たに認識しましたし、それをどう人々が治療をしながら向かい合って行くかというこ とを感じました。本当にきょうはありがとうございました。
花井 ありがとうございます。薬害問題はまた、そのテーマは別で
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時間ぐらいセッションできる ぐらい。ひとつは医療産業化の中で、医療システムが動いているときに、一体全体、患者とか個々 の医療者はどう振る舞うかというのがテーマなんですけど、またそれは別の機会にやりたいと思い ます。ちょうどお時間、ちょっと過ぎましたね。大分過ぎましたか、30分オーバーしましたけど。すみません、本当にきょうは特別セッションに来ていただいてありがとうございます。どうもあり がとうございます。
(了)
講演収録機会 企画展「薬害を語り継ぐ−サリドマイド・スモン・薬害ヤコブ−」薬害エイズ特別セッション
(2015年11月28日(土))。
収 録 場 所 大阪人権博物館(リバティおおさか)。
(注作成:関西学院大学社会学部教授 佐藤哲彦)