一九
八二
年度
︑
した︵教育学部教員図書室所蔵︶︒知るところによれば︑当コレクジョンは︑オランダの国際古書市場で競り落とされた
掘り出しものだそうだが︑出所源に関するこれ以上の情報は︑阪売元に尋ねても明らかではない︒しかし︑当コレク
ジョンの内容にみる専門的緊密度︑ 五
00
冊にのぼるフラソス教育史関係古書のコレクジョンをセット購入 さらに︑為されている装丁の多くの︑同一年代的な特徴から推察するに︑これら
の古書は︑業者が寄せあつめてつくり上げたセットというよりも︑教育あるいは教育学に︑生涯においてたずさわっ たフランスの二三の家系または人物の蔵書の一部を成していたものであり︑子孫によって今日手放されたものではな これはあくまでも私的推量であるが︑蔵書の内容を吟味してみるならば︑高等教育に関する資料が少ないことなど もかんがみて︑視学官
lゴin sp ec
teurCそれもかなりの身分の視学官︶を何代かにわたって務めた家系などが出
所源の一
近代
フラ ン
スにおける教育の諸相と展開 いか︑と考えられる︒ はじめに早稲田大学では︑ 其の
十六世紀
1
十八世紀
l
近代フランスにおける教育の諸相と展開
今フ
ラ
ンス
教育
史コレクショ
ンに
寄せ
て﹀
石
堂
常
世
ch i v
es
N at io na
les
相当
する
︶
っとして想定される︒あるいはまた︑十九世紀の公教育省le
Mi ni st er e de
﹃I
ns tr uc ti on Pu bh qu e
C今日の文部省に
の高官の家系︑もしくは十九世紀後半に活躍した教育学者︵当時︑今日でいう教育学者は稀であり︑大低は視学
{ I J
であった︶の家系かとも考えられる︒
かのかたちで教育の任務にたずさわっていた先祖がいると思われる︒ともあれ︑
た︑教育学研究の新しい波︵教育科学Je s
s c i e n c e s
d
e
!'educa
tio
n の勃 興︶
が押し寄せてくる直前に︑最後の代のコ
レククーたる人は相当な高齢となって世を去ったことが︑これら書物の時代別分布と内容のとぎれから判断できる︒
なわ
ち教
権を
︑
で捜しても︑ 蔵書の傾向からみて︑もう一っ言えることは︑所蔵者は熱烈な共和主義者にして︑ライシテle
l a i c
i t e (
会教 の権 力す 1 2 1 教育の領域から排除し︑公教育の世俗化を推進する︶運動の瑯茄立者であったらしいということである︒もち
ろん︑無神論者ではない︒共和主義者でライックな教育を求める態度は︑国家が教会に代わって教育管轄の主導権を
掌握しようとするその移行期における︑知識人の一般的態度であった︒
こうした判
断を加
えながら︑この膨大な資料をひもといていると︑私の脳裏には︑二十世紀前半までのフラソス社
会にみなぎっていたあの繊細にして重厚な生活の渋味が紡彿としてわいてくると共に︑これらの書籍が収まっていた
であろう書斎の深閑たるたたずまい︑ また
︑所
蔵家たちをたどっていけば︑宮廷に関わりを有した高官がおり
︑何
ら
そして︑全体に黄ばみがかった年代もののその壁と︑同じ色調にみえる書物の
背とが相まってかもし出す薄茶色の鈍重な明かるみさえもがほのかに浮かんでくるような気がするのである
: ・
・ : ︒し
報告書•手書きのノート・雑誌の一部)には、 かし︑想像はここで止めなければなるまい︒ともかくも︑当コレクツョソを構成している書籍や資料︵パンフレット・
パリの国立図書館
l a
Bi
bl
io
th eq ue a N ti on al e
や国立古文書館le
s
Ar ,
おいそれとは見つからないような稀隈本が含まれているので︑
日本にあってフラ
ンス教育史・文化史・社会史を研究する人々にとっては宝庫的な図害である︑と言っても過言ではない︒当論は︑近
一九
六
0
年代からフラソスに興隆し‑ 2 ‑
近代
フラソスにおける教育の諸相と展開
であ
る︑
献の主なるものを洗うことによって︑ 代以降のフラソス教育史の推移に沿いながら当コレクジョソの研究文献的価値を紹介するというよりも︑逆に︑当文
フラソス教育史の相貌と進展を再認識してみようとするものである︒
当コレクショソは
︑十
六世紀出版のもの二冊︵但し︑合本装丁︶
︑十七世紀のも
の三六
冊
︵合
本
二
件︶︑十八世紀のもの一四六冊︵合本七件︶︑十九世紀のもの二六七冊︵合本ニ︱件︶︑二十世紀のもの五九
冊
︵合
本二
件︶︑出版年度不詳のもの一︱冊から成っている︒十九世紀のものが︑総冊数︑約五
00
冊の半分を占めていること がわかる︒︵なお︑同一
本が
数点
含ま
れて
いる
︒︶
印刷術の発明による活字の普及より一世紀後の十六世紀後半︵フラソスのルネサソス 後期︶から︑
二十世紀の中葉に渡っている︒十九世紀の書物がとびぬけて数多い理由は
︑当蔵 書の所有者︵複数の代に 浪るとしても︶の主なる活躍期が二十世紀よりも十九世紀であることと︑十九世紀が︑前時代に比べて数多い教育書 を生んだ時代であることである︒そして後者の理由には
︑
もう︱つの重要な理由となるべき背景が
存 在 す る ︒ そ れ
は︑十九世紀とい
う時代が
︑民衆
の識字化の急速に進んだ時代であること
︑
すなわち︑国民教育制度の確立期に当た ることである︒二十
世紀は︑﹁教育爆発
! ' e xp l o iso n s co l a ir e の時代︵すべての教育階梯における進学率のめざましい上昇 をマークした表
現 ︶
﹂あるいはさらに︑七
0
年代以降はこの教育充足状態から派生した頗廃現象をさして﹁学 校教育の危機﹂の時代
︑
さらにはこの現象を特定のイデオロギーのふるいにかけた上で﹁学校教育無用﹂の時代であ
1 4 1 1 3 1
ると言われることがある︒しかるに
︑
﹁十九世紀は︑まさしく学校の時代﹂なのであった︒十九世紀こそは
︑
フラ
ソ ス革命以後百余年に
わた
って続いた
社会的動乱
のただ中において
︑
国民全体を対象とする体系的な学校教育制度を確 立する作業をやってのけた時代であった︒教育問題や教育論議を多くの領域
や次元で生ましめた十九世紀フランス
従って︑これら蔵書の範囲は︑
蔵書の時代別分布
なっ
た︒
頭には︑
﹃教
育に
関する考察﹄
So mTh〇芯e
gh st co nc
er
ni
ng
Ed uc at io n
C一
六九
︱︱
‑︶
のフ
ラ
ソス語訳第二版
(N ou
器
l i es in
st
ru ct io n s po ur
l ぷ
du ca ti on des eミfミ
nt
1699世紀初s)が含まれている︒さらに十九,
フラソスで最初のペスタロッチ
PE ST ALONN I
J
•
H
17461827研究書といわれるシャヴァンヌー)教育理論の(.
著﹃ペスクロッチの初歩的教育方法についての概説﹄
H .
Pt a e s l oz z
︑i V
ev
1805その後ジュリアソ]Ueがあらわれたがy︑︑,
I L I E
N
M .
ーA .
(1775ー1848)がこの研究を受け
て︑イヴェルドソにおけるペスタロッチの教育活動を十年にわたって記録・報告した研究書を刊行し︑ペスクロッチ
の全業績をその時代の人々に知らしめるところとなった︒当書はジュリアソがものした著作の中で最も有名なものと
ロッ
ク
ゞdr ese
ta
︵一
六三
一︶
の
︑
は︑それゆえ教育史家にとっては︑果てしもなく長いニポックなのである︒教育関係書がおびただしく
刊行された主
因は︑まさにこれである︒当稿においてもそれゆえに︑十九世紀以降を︑別途に論ずることにしたい︒
フラソスの教育は︑今世
紀を
除き
︑
世界教育史を代弁すると言えるほどの︑普遍
的な教育学的諸命題を他国に提供してきた︒
った
く同
様に
︑
フランスの教育のありようと理論とは︑特に十七世紀以来︑他の西欧諸国に絶えず参照され︑活用さ
スC
oM EN ur s J .
A. (1592ー1670) フランスの政治的変動や文化が他国に及ぼした影響の大きさや深さとま
フラソスは他の国々の教育理論を学ばなかったわけではない︒
レクショソに含まれている関係図書からも具体的に窺うことができる︒
の代表的著作の一っ
そ れ は
︑当コ
十七世紀のコメニウ
﹃開かれた言語の扉﹄︵通称﹃語学入
門﹄ ︶
]a nu a li ng
き ミ
mミ
一六六五年アムステル版をはじめとして︑同じ十七世紀
の末
︑ロ
ン
ド
ソで
出版されたジョン・ Lo
cK E J .
(1632ー1704)の れるところとなっていた︒とはいえ︑ 外国教育学との影響関係について
CHA VA
NN ES DA .
. ,
Ex po e dse
l a
me
th odeleme
en ta i r e
de 当コレクツョソには︑
‑ 4‑
十九世紀フラソス教育界と外国教育学との関わりについては︑
らに注目される︒
︱つ
は︑
6 n
em
en
t
mu
tu
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の導
入で
あり
︑二
つは
︑
7
紹介ないし研究である︒前者は言うまでもなく︑
し︑ラソカスター
一八
七
0
年代以降盛んになったイギリス︑
LANCASTER J. (1778ー1838)
の解決策をもたらし︑
一七
九七
年に
︑
ペスタロッチ教育学の影響の他に︑二つの動向がさ が別途に実践をはかった教授法である︒これは︑年長のすぐれた子
産業革命の結果発生した大量の少年労働者の教育︵つまりは初等教育︶を促進する手段となっ た︒この方法は︑生徒が互いに教えあうという観点に着目するならば
︑
フランス語訳の字義通り
︑まさに﹁相互教授 法﹂なのであるが︑助手的存在の年長の生徒が教師の教授活動を補佐するという観点からみるならば︑
Mo ni to ri al
﹁助教法﹂ということになる︒今日︑意
外な観点か
ら再評
価を受けている この生徒による生徒の教授ジステムは︑
しかし実は︑産業革命期のイギリスが︑幼年・若年労働者の大量生産式教育 の遂行のために編み生した苦
肉の策にしてかつ名
案であったわけである︒
フランスで
一八
七
0
年代以降活発
化した西欧諸国の教育制度の紹介は︑主に公教育省自らが調査研究を進めた官庁
作業でもあるが︑
イギリスや新しい国たるアメリカの教育制度がマークされたということは︑
教教団による教育関与がフランスにおいてはいかに強力にして強靱であり︑
また政府はこれらの既成勢力に対抗し得 るだけの教育制度を確立せんとするにいかに腐心していたか︑を示すものである︒近代日本における公教育の進展事
情と異なり︑フランスでは
︑政府こそが保守的教育体系への挑戦者なのであ
った
︒ 思想面における外国教育学の導入という点から︑これ以後注目されるのは︑十九世紀末にフランス語版のあらわれ
近 代 フ ラ ン ス に お け る 教 育 の 諸 相 と 展 開
Systemという英語の原語の示すように︑ どもが他の子どもたちを教授するというジステムで︑
王党派およびキリスト
一人の教師が多数の生徒を一斉に教授するという不
利な状況へ
イギリスの牧師ベルBELL
A. (
17 53ー1832)
が開発
アメ
リカ
︑ ドイツの教育制度の
一八
一
0
年代から二
0
年代にかけての︑相互教授法︵一般には助教法と呼ぶ︒︶
l'enseig ,
かくのごとく︑二十世紀フランスの教育は︑ フランスはこの期︑主としてベルギ
ー ︑
たスペンサー
SP EN CE
RH1903ー)の﹃(1820.
数芸
自華
編﹄
Ed uc at io
︑n18o9C仏訳D
cl︑ Ed uc at oi
︑n
Ge rm er B a l l l i e r e et
C i e,
えたわけではない︒ところが︑二十世紀に入るや︑
児 童 の 本 性 に 着 眼 し て そ こ か ら 教 育 を 考 え よ う と す る 新 教 育
フランスは大きく外国に負うことになった︒大人の洗練された知性を軸にして子
どもの教育のあり方を考えてきたフラソスは︑その伝統的なキリスト教的教育観や重厚にして成熟した知的文化観の
ゆえ
に︑
モンテーニュ
ー1778)という新教育理論の先駆者を輩出させた国であるにもかかわらず︑子どもを起点にして人間の成長を考える教
育学的転回に遅れをとったのである︒
⑱ デューイDEW
EY
J. (18
59
ー1952)の児童観が紹介され︑イタリアのモンテッソーリ
M
ON
TE SS
Mー1952(1870)ORI.
の教育方法が注目され︑スイスのフェリエール
FE RR IE RE
A .
(1879‑19
60
)やクラ︒ハレード
Cl apa re de
E. (1873‑
1940)
の著
作が読まれ︑ベルギーのデゥクロリ
DE CR
0Oーの教育実践が共感と衝壁をもって受け入LY(18711932).
れられた︒二十世紀前半は︑新教育理論が花咲いた時期であるが︑
イクリアそしてアメリカの新思想を移入し︑第二次世界大戦直後から飛躍的に進歩した実験心理学と発達心理学に基
づくフラソス独自の新教育理論の飛翔に︑静かに備えをなしたのであった︒
とくフラソスを世界のリーダーにとどめおくに足るだけの指導性を保持するものではなくなった︒今や︑
のみならずアジア︑
Mo NT AI GN E M ic he
l E
yq ue m d e
(1533ー1592)
制度は刷新され続けている︒ フラソスの政治と同様に︑十七︑十八あるいは十九世紀の一時期のご
アフリカそして南米をも加えた国際的相互依存関係の中で︑
そして︑この事態はまた︑
Ed uc at io n No uv el le
の理論を︑ 223 p.)
であ
る︒
しかし︑ペスタロッチ同様
し か し な が
フラソスの教育理論やフラソスの学
どこの国に関してであれ共通して認められる︒ ョー
ロッ
パ
スイ
ス
︑ やルソー
Ro su sE AU Je an
‑J
ac qu es
スペンサーの教育理論も︑フラソスの教育に対して決定的な影梱を与
(1712
‑ 6 ‑
れた﹃学間方法論﹄
Me th od us
ac
de
ra ti on e s ti t
d塁
d i136 C著者不詳︶である︒当書はp,.
︑
に次いでその創立が古く︑当時
︑
法律を学ぶ学生を集めて名のあったトゥ
ー
ルーズ大学の学生を対象にして書かれた もののようである︒法学研究上のカリキュラムや方法が記されているが︑道徳的心がまえについての論述のほうに
︑
むしろ力点がおかれている︒法
律を学ぶ者は︑﹁あらゆる
心の迷いや憂さを忘れ︑全力を挙げて渾身︑研究に没入し︑
近 代 フ ラ ソ ス に お け る 教 育 の 諸 相 と 展 開
いかなる矛盾をも洞見し切って真理を発見すべし﹂︑
と記されている︒
ラテソ語で書かれていることの
時代性はいう フランスでは︒ハリ大学 十六世紀
当コレクション中
︑最も古いものは︑
一五六九年にヴェニスのドゥ
・フ
ァ
リス
De
Fa rr is
社から
出版
さ
題を確認しつつ
︑フランス文
化それ自体の
重層性に触れてゆきたいと思う︒
以下
︑
コレクジョンに収め
られている文献を主なる典
拠としながら︑フランスの教
育が各時代ごとに抱えてきた問
ら︑この事態は︑
フラソスの伝統
的な教育に固有の︑あの知的洗練さと
豊饒さとを
無為にするものではない︒近世以
来
︑連綿と引き継がれ発展してきた
フラソス人の教養観を
特徴づける諸相貌や諸相剋は︑人間の形成とは何かとい
う
問題に対する奥行きの深い認識を可能ならしめてきたのであり︑
な思想が生まれても
︑ それゆえ︑今日︑
時代を先取りするかのような奇抜
9トード
なおかマノその思想は連綿と受け継がれてきた方法を当然の前提としているのである︒自国の文 化に対する無意識的な自信と誇りは
︑
伝統的教育という揺るがぬ母体の賜である
︑
と考えられないであろうか︒
キリスト教文
化︑宮廷文化︑
貴族文
化 ︑ ブルジョア文化
︑
あるいはエリ
ート文化と緊密な関係にあるかつての教育
は︑従
って単に過去の遣
物と
してとどまるものではない︒それは重層的
特徴をもつフランス文化の源流としてと
らえ
られることが可能である︒これゆえにまた
︑外国の教育学は︑
なかったのであり
︑
それは︑主に
対
する従の関係にとどまる
︑
フラソスの教育や教
育学を根本的に変化させることは と考えてよいと思われる︒
世が即位して終結へと向かった︒ナントの勅令
Ed it de Na
ntC一五九八︶が公布されるやes ︑
を脱してブルボン王朝の基礎堅めの時期に入るのである︒絶対王制確立期へ向かうこの時代はまた︑教団勢力の興隆
であるが︑ と伸展の時代でもある︒教育史の上で先ず目を引
く の は
︑ 師
博
pr ec ep te ur
C高位の家庭で子どもの教育全般を
担当
した
⑮ 人︶を務めた人物や学問を積んだ人物の書いた王子︵または世子︶教育論が前時代以上にあらわれるようになったこと
王子のみならず若き主君に対する望ましい教育のあり方を説いた貴紳教育論︑
高 位 に あ る 人 物 が 我 が 子
十七世紀 フランス教育史の観点から︑十六世紀の後半について特記されるべきことは︑
⑭ デスス会のめざましい教育界進
出 ︑
母国語たるフランス語の文語使用の普及であるが︑これらの事実から成る新しい
潮流は︑中世の尾を引く旧来の教育の諸相を飲みこみつつ︑十七世紀へと流れ込んでゆくのである︒
血なまぐさい殺戯をくり返した宗教戦争
l e s Gu er re s de Re
li
gi on
ニで過ごしたのかも知れない︒ までもないが︑早くから教権を離れて国王権力に帰属していた法学部の学生たちの世俗的享楽ぶりを戒めている文章
とも受けとれる︒十六世紀中葉の︑大学生ガイドプックとでもいうべきもので
ある
︒
名門校︑
﹃エ
セー
︵随
想録
︶﹄
Es i s s a
の著者にして︑フラソスの偉大なるモラリスト︑モソテー
ニュ
は
︑
n
>
ージ
ュ
ギ ュ イ エ ソ ヌ 学 院 C ol l
eg
e de
Gu ye nn
eを十三歳で卒業してから︑二十一歳で司法職に就くまでの間︑
このトゥールーズ大学でしばし
の間
︑法律を学んだのではないか︑
フ ラ ン ス は
内乱
状態
も︑王位争奪争いの果てにアソリ四 地
方大学の創設︵ラソヌその他︶
︑イ と推測されている︒もしそうであるとすれば︑その年月は一五五ニー三年ごろに相当するので、当ガイドブック出版時から十六•七年前に当たることになる。モ
ンテ
ー
ニュ
は
︑この﹃学問方法論﹄にみられる以上に堅い教訓を馬耳東風と聞き流しながら︑事実︑青年期の一ときをこ ボルド
ー市
にある
‑ 8 ‑
近代フランスにおける教育の諸相と展開
弁護士を務めた︒
FLEURY
An dr e He rc ul e de de
CoN
T I の王子たちの師博となり
︑次 いでルイ十四世
LO UI SX IV
(
16 38
ー1 71 5)
ワ公
Co mte
de
重である︒
同じ
時代
に︑
VERMANDO!S
務めていた一六
七五年から執筆され︑
八六年にようやく公刊された︒
イタリア語︑
版を
重ね
︑ 長きにわたってヨ
ー
ロッパにおける世子教育の指南書となったといわれる︒彼は︑
も親しかった︒十八世紀のルソーが説いた
︑
子どもがもっている自然のままの興味を引き出し覚醒させるという教育
の原理は︑
既にこの書において強調されている
︒以上の事実は︑
十七世紀に顕著な︑第二の類型ともいうべき教育論は︑
コンティ王家で師偲を
フェヌロソ︵後述︶と 存するということを
︑改
めて
我々に認識させてくれる
︒本書の初
版本が︑当コレクツョンに収
められていることは貴
g h u
・
カテキズム︵教理問答書︶を含めて
︑
各 教 団 か ら 出 さ れ た
学習論︵言語︑
修辞学や論理学の学び方︶やモラル論である
︒
十六世紀の宗教改革の嵐が静まらぬうちに︑既に反宗教改
ヨー
ロッパの教育論の起源と根幹が︑
王子教育論に
スペ
イソ
語︑
ドイツ語に訳されて の教育にあたった
︒﹃ 学 習の選択と方法についての論述﹄は
︑
の子どもでもあるヴェルマンドゥ
(1653ー1743)
とは区
別
されなければならない︒
一六七二年からコンティ王家
Ma is on
ルイ
十五世
後の枢機卿
︑
育に関する考察﹄︵既述︶は︑この最後の範崎に入るものである
︒ J
れらは︱つの類型としてまとめてよいと思われる︒
フル
ーリィ や
︑友人の息
子たちの教育について書き送った教育的助言ないし人生訓︵広い意味では買紳教育論に入る︶も数多くあら
わさ
れた
︒ は第一級の名著と評価される著作は
︑
LO UI
S
十七世紀末
にロンドソで
出版されたロック著﹃教 一八四四年までに二
十版を重ね︑王子教
育論の中で
クロ
ード
・ フル
ー
リィ
F
LEURY
Cl a ud e
(1640ー1723)
の﹃
学習
の湿
〜 択と方法に
ついての論述﹄T
ra
i t e
du ch oi x dt lee a m
蕊ぎ od e
de s
eludes ,
Au bo ui n / E
mer
/y
Cl ou si e r
, 1686
であ
る︒
論に余り関心のない日本の教育学者にはほとんど無視されているフルーリィは︑司祭にして作家︑そして高等法院の
x v
(
17101774‑) の師博を務めた︑
王子教育
革の動きは活発化していたが
︑
十七世紀フラソスは
︑
カトリック勢力の新興時代とも言えるほど
︑各教団の躍動に
渦ちあふれていた︒十六世紀前半に結成されたイエズス会の
ール
BE
RU LL
EP. de (1575‑1629)がフランス・オラトリオ
ロワイヤルを拠点として熱烈な神学活動を開始し始めたヤン
プティ
ッ テ
セニスト達は︑教育活動に熱心であり
︑
とりわけ﹁小さな学
校﹂と呼ばれる初等教育機関を設立(‑六四六︶して︑
ス語の教材による宗教・言語教育を行った︒さらに
︑
ール
LASALE J.
Ba pt is
te
de (
1651‑1719)による﹁キリス
ト教学校同胞団﹂︵別称︑﹁キリスト教職会﹂les
Fr er
es
d
es 活動も見のがすことができない
eこれ以後︑
キリスト教学校
ランツスコ・サッキノS
AC CH
F7INO(15.
0
ー1625)
︵ロ
ーマ
の
は宗教におかれていたのであった︒当コレクツョソには︑
フ してゆくことになる︒もとより
︑
王子教育や貴紳教
育の中心 同胞団は︑
教育事業において
︑
イエズス会におとらぬ活躍を
Ec
o l e s Ch re t i e nn es
の設立(‑六八一︶と初等教育の普及
ラ・サ
フラ
ン
会を創建し︑
コレ
ージュを設立していった︒
一方
︑ボール
積極的な学校設立活動はもとより
︑一六︱一年には︑
ベリ
ュ
まさに
‑ 10 ‑
近代フラソスにおける教育の諸相と展開
以後に教育の領域で活発化している︒彼等の神学的解釈 CAL
B. (1623ー1662)
を 皿 呵中
'に 妾
Pキ
u m
心んだ
︑因
心痒
叫と
白]
由 ちの活動は
︑
六二年に世を去ったパスカルを除き
︑
禁圧
いことに︑ボール・
ロワイヤルの代表的な神学者
・教師た
さな学校﹂も一六六一年には閉鎖を命じられた︒興味深 に対する弾圧は厳しくなり
︑ボール・
ロワイヤルの﹁小 ジェズイット
側
の政略的な勝利に終った︒ャソセニスト
論争は︑
バリ大学神学
部と国王ルイ十四世を味方にした
意思の関係に関するヤンセニストとジェズイットの神学 て︑
これを異端であると攻撃していた︒
ハスカルPAS, に一六四
0
年代から
︑
ヤ ン セ ン 派 の 説 く 恩 寵 論 に つ い
とこ
ろで
︑ 日の出の勢いとも言えるイエズス会は︑既
た教育体系への樹立の努力とを知ることができる︒ も︑
イェズス会の隆盛ぶりと︑この会の体系的で一貫し
当会の学校で活用されたという︒この事例︱つによって 世紀中葉までに全
ョー
ロ
ッパで六
00
を越えるに至った
イニズス会教
団の
修辞
学教 授
︶によって温かれたイエズス会
dt
h
学校の教
師向け指導
書が含まれているが
︑
これは︑十八
写真1
︵前
頁上
︶
王子の教育師側F
LE UR Y (A. H・ de
)
( ki 端︶から教
f i を受けてしる幼年時代のルイ
十五世°数多くの囮臣︑出以族︑挫職者が同席し︑それは極めて大げさなもので あった︒前方右に︑地球袋
︑n
ソバスなど︒当時としては稀な教材が揃えられ ている︒出典︑注
1 4 1 写其2︵左︶
貴族の子どもと家庭教師 当時のこれら私教師たちは︑数族の館に住み込み︑生活全般にわたって子ども
を指胡し︑
その人格形成に狙要な影響を及ぽした°右手に︑子どもを叱る際に
m
いた木製の窮を梱っている°出典︑同右
語が登場したために︑ は弾圧されは
した
が︑彼等の論理学︑言語教授論や教育論は︑その後の世紀にわたって多くの人々の共鳴をよび普及
をみているのである︒なお︑
迎い入れた︒
P. (1621ー1704)︑クロード・ランスロー
L AN CE LO T Cl . (1615ー1695)
⑳ ステルによる︑児童の教育に関する所見が注目される︒これは︑ボール・ロワイヤルの﹁小さな学校﹂の教育精神を
解説している貴重な文献である︒貴重という点でさらに注目されるのが︑
すなわち思考することの技術︒共通せる諸規則の他に︑判断力の形成に関して新たに観察されし幾多の原理﹄La
l o ,
gi qu e o u l r t ︑ ミ
de p g
s er
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on t g g
︑t
ou tr e
le s
r姿
l e s co mu ne
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pl us ie ur s ob s e rv at io n no uv el le s pr op re s
a
fo r
,
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rl ej
芯苓
me nt
︑
Ch ar le s Sa vr eu
x1662473 p. , ,
で本 ごる
︒当
1車 戸 は
通帝吊︑﹃ポール・ロワイヤルの琴躙理学﹄と題さ
れている書物で︑
他︑十八世紀前半まで版を重ねて読み継がれた︑彼
等の手になるフラソス語
︑
さて
︑
王子教育論︑ ギリツャ語︑ラテソ語教授法の文献が
キリスト教教団の教育統轄に次いで︑第三に注目すべきは︑言語の教育に関する文献である︒
ラテン語に対する母国語の登場については前に述べたが︑学校教育からラテソ語が消えたわけではなく︑
法を正しくマスターすることは︑十七世紀においても︑学校教育や人間形成の最大の眼目であった︒
一層力が注がれるようになったのである︒しかし︑前時代には余りみられなかったたぐいの書 四点含ま
れて いる
︒
名著である︒今日もなお尊重されている当書の初版本が︑
いなむしろ︑俗 コレクジョンに入っている点は驚きである︒ アルノーとニコルの共著になる﹃論理学︑
ソルボンヌ神学部が嫌っていたデカルト哲学の方法論によって書かれているとみられている古典的
さらにこの
ラテソ語文 の四人である︒十七世紀中の文献としては︑ アルノー
A
RAー1694NNAULD(1612)とビニール・ニコル.
IC
OL
E
P. (1625ー1695)︑
ビエ
ール
・
クステル
ク オラトリオ会はヤンセン派に好意的で︑この派の子弟たちを自らのコレージュに進んで
ヤンセン派の指導的な神学者・教師として先ず挙げられるのは
︑哲
学者としても高名なアントワーヌ・
CousTEL
‑ 12 —
している俗語に︑
の強大化ゆえにますます堅められてゆくこの母国語主義は︑
サン
・ジー
ル の 教 育 方 針
ルイ
十四世の愛妾にして王后亡き さらに前進的な女子教育
論は
︑
ラテン語を使ってのフラソス語入門書︑
h 在﹂とでも名づけたいような本の登場である︒すなわち︑十六世紀には学校教師によってうとましく思われていた母
国語が︑いかに正しく容易に学ばれるべきかが︑考えられ始めたのである︒二つは︑他の国々の国語を学ぶための入
四門書があらわれ出たことである︒この二つの傾向は︑十七世紀が︑
言語教育の重点を移行させつつある時代であることを証明している︒十八世
紀になるや︑国家権力
ガリカニズムと一体になり︑
親や社会観を醸成してゆく遠因となるのである︒ともあれ︑ラテン語と母国語を並
列化し︑両者の間に合理的な連関
コメニウスの﹃開かれた言語の扉﹄︵既出︶に最も典型的に反映している︒
最後に触れておくべき点は︑これもやはり十八世紀により大きな開花をみるに至った女子教育論の登場である︒
つは
︑王子教育論に匹敵する王女教育論であるが︑内容は優雅な振るまい︑高貴な身分にある女性として持すにふさ
わしい道徳性などが中心テーマをなしている︒もとより︑信仰についての教えはその根底をなしている︒これは︑十
七世紀以降の貴族の子女教育の原型となってゆくのである︒
TENON,
Ma da
me
de
(
1 63 5
ー1719)が自らの教育実践において示した見解である︒
あと王と結婚したとみなされている彼女は︑ マントノン夫人MAIN
'
一六八六年にサソ•ジールに女子教育所Maison
Ro ya dle e
S a i n t ‑C yr
を設立し︑
恵まれない没落貴族の娘たちゃ︑親に先立たれて困窮
状態にあった貴族の娘たち︵六歳以上︶を当教育所に
預かり︑彼女等が二十歳になるまで教育の任に当たった︒三十年以上にわたって続けられた彼女の事業は︑
の娘たちの境遇と同様であった自らの少女時代の不遇さに対する補完的行為でもあった︒ まさにこ
は、良妻賢母の育成にあり、裁縫•剌繍•織物などのいわば手工芸が主なカリキュラム内容であった。この点におい
近 代 フ ラ ン ス に お け
る
教 育 の 諸 相 と 展 開
を打ち立てようとしたこの時代の意図は︑ 物が出廻るようになった︒
︱つ
は︑
いつしか教会を離れた宇宙 ローマ教会の普遍的
言語から︑国民の生活を反映
つまり、「ラテン語—フランス語自由自
写其3 マソトノソ夫人によって設立された(1686)サン・シールの女子教育所全梨。出典,注(25)
料であるということである︒彼女の甚簡
︑
原稿
︑
あるいは彼
よれば︑
のうしろにはルイ
十
四世がついていたのであるから
︑見方に
当コレクツョンには
︑
サン
・ジー
ル学校での生活の規
則が
四
記された手書きの小
冊
子が含まれているが
︑これは娘たちが
マントノン夫人自らの手稿で
︑
世界にも稀な貴重資
た学則
書の︱つである︒鑑定家によって付され
ている説明に
夏のバカソスなどを終えて学校へ戻ってきたときに手渡され よれば︑
国の経営
し
た女学校ということにもなる︒
性格
の強い女子集団教育の場であったという点にある︒夫人 行われていた教育を廃し
︑
宗教 的責務に束
縛されない
世俗的 さらに︑
この学校の意義は
︑
当時まだ修道尼
院
的な発想から
の女学校は︑
フェヌロソの教育
理
論の実践校ともみられる︒
(1 6: 5 1ー1715)
の女子教育に
対
する見解が反映されて
いるとい
う点において注目されている︒この意
味において︑ ソ夫人が運営し自ら直接教
育指導を行っていたサン・ツール 時︑ 言い難いのではあるが
︑ただし︑
マントノ
その教育方針の理念に
︑当
教育論者として高名であったフェヌロソ
FE NE LO
NF. て︑それは︑
特に近代的な視点に立った教育実践であるとは
‑ 14 ‑
近 代
フ
ラン
ス
におけ
る
教 育 の 諸 相 と 展 開
マントノソ夫人をはじめとして︑ 女の説話にみられた格言金言などが筆写された諸資料は︑今日︑
しまい込まれたまま散逸状態にあるといわれ︑そのために全集刊行もいまだに難しいそうであるが︑当コレクツョン
図
には
︑こうした貴重資料に当たる第一級の文献が︑他に四点含まれている︒マソトノソ夫人をフラソスにおける最初
四の女流教育家として位置づける木格的な研究が近年あらわれ出たことからもわかるように︑今後は︑彼女の教育観に
対する史的考察が深まってゆくことであろう︒この時代以降︑すぐれた教育論が女性によって書かれることが少なく
フラソスにおける第一級の女流教育家は︑おそらくこのマントノン夫人
因と︑十八世紀後半から十九世紀初頭に活躍したジョンリス夫人G
EN
L I S,
Ma da me de
(1746ー
18
30)ではないだろう
フェヌロソの女子教育論に触れておきたい︒聖職者フェヌロンは︑ボーヴィリェ公
Du ed e B EA
UV IL LI ER
たルイ十四世
の孫
(1682ー1712) フラソスの多くの図書館や個人宅の書斎の奥深くに
(1610ー1687)
の自
心
七メ
たち
の教
吉
Eを
gg立
=し
た絲
i︑公の推軌をうけて︑後にブルゴーニュ公Duede
Bo
uRG
OG NE
となっ
の師博となり
︑乱
暴者だったこの王子をしてすばらしい人物に育て上げた︒その際︑
前者の教育経験の産物として﹃女子教育論﹄De
l ' e du ca t i o n de s f i l l
es (一
六八
七︶
が
︑
後者の教育経験の産物とし
四て﹃テレマックの冒険﹄Les
av
en
tu dTeleres e m
ぷi忍(‑六九九︶が生まれたのである︒この二著によって︑
ロンは女子教育論者︑幼児教育論者としての名望を得てゆくのであるが
︑彼
の著作には︑
の子女の教育を論じた諸見解によくみられる表面的な人間理解を越えた普遍的な観察と考察の目が光っており︑
また
︑
聖職者という職務から派生し易い限定的な視界とは無縁な︑自然主義的な児童観の萌芽がある︒この点において︑フ
ェヌロソの教育論は︑
硲あるランペール夫人L
AN BE
RT,
Ma rq iu se
de
最後
に︑
か
゜
なくなるが︑﹃母から娘への忠告﹄︑﹃若き令譲についての手紙﹄の著者で
(1647ー17
33
)
. . l J
いっ
た平
豆吋
の盛
t々たる女性に影親を与えたばかりでな
その
仕事のスケールからして︑
一般の王子教育論や︑貴族 フ
ェヌ
動︑あるいは﹃百科全書﹄
いな一七四〇
十八世紀
そのような世紀的変貌の
兆し︑換
言するならば
︑
フランス人の教
育観 が重層性を強めてゆく徴
候は
︑
一七
く︑その調和のとれた人間形成論は︑ボール・ロアイヤルの指導者アーノルドの精
神
に生涯忠実であった古代史家ツ
悶
ャル
ル
・ローラソ
RO LL
IC1661ー1741CN().
一六九四—九六年、
を与えたのであった︒
さて
︑以上の叙述を通して確認させ
られるのは
︑十七世紀までの
フランスの教
育論には︑種々の相違を越えた上で
の共通項を
認めることができる
︑
学的教育観の上に︑ とであり︑次いで︑人間における道徳性の涵養を強く求めていることであり
︑第三に︑
ラテン語に重きを置く言語へ の誘いをも含めた意味での文学的教養を基幹にしているということである︒続く十八世紀は
︑
これら宗教
・道徳・文
いくつかの動態的な変化が導入されてくる時代であり
︑
その傾向は
︑十 八世紀の後半になればな
る程︑
おもて立ってくる
C
という点である
Cそ
れは︑先ずキリスト教的要素と何らかの形で結びついているこ
六
0
年を︱つの
時代的な区切り
として考察することにより明確化する︒おそらく
︑社 会思想史の上では
︑
ル
VO LT AI RE
F. ー
マ ' . I .
Ar ou et
(1694ー1778)
︑
ヴォルテーモンテスキュー
Mo NT ES QU IE U
Ch.
de S ec on da
t (
6891‑1755)
の 芋者作
ぃ荘i
E
ミC yc l
o唸
di e
の刊行
(‑六五一ー一六七一︶をかんがみて
︑
一七
五
0
年を︑年を転機とみなすのがより妥当であろうけれども︑教育は本質的に伝統と慣習を背負ったまま続行され易いがゆえ
に︑社会進
歩の歩調から常に一歩遅れるのである︒宗教性に対する世俗性の拾頭
︑
道徳性に対する知性の強調とそれ
への信頼︑
文学に対する科学の信仰が
︑十八世
紀に現出した時代的変化を説明する︒これらの変化はしかし︑重層性 という言葉を使って強調しているように
︑両極 分解的なかたちで認められるわけではなく
︑
否定しようとするその対
一七二
0
年パ
リ大
学総
長︶
のような高潔な碩学にも影密
‑ 16 ‑
極をとり込んだ上での︑弁証法的発展の中に生成するのである︒これこそが︑
けている相貌であり︑
また同時に︑近代日本にみる教育の発展過程との根本的な相違である︒それゆえ︑特に教育あ
フラソス人は伝統の良さを保持しこれを安易に葬ることはない︒
フランスは
一七
五
0
教育関係の文献を洗う限り︑年代の終り頃までは十七世紀の延長線上にあると判断される︒王図
子教育論が輩出し︑イデスス会やこれに対抗していたオラトリア会をはじめとする諸教団の教育活動は初等教育・中 等教育の大部分を占め︑キリスト教的な散虔な宗教心と文学的教養を二大支柱とする女子教育論が人々の共感と賞讃
を集め︑青少年教育のウェートはまだカテキズムと語学教育を通しての道徳性の育成に置かれていた︒
にあって︑貴族階級やプルジョアジーに属する知識人は︑ しかしながら︑徐々にではあるが︑教育内容と実生活との遊離が意識され始めていた︒経済的・社会的変動のなか
理性に基づく識見を養う自然科学的内容を欠いた教育のあ
いてくれる実用的内容とは無縁のものであることにもどかしさを覚えていた︒ところで︑教団が設立したコレージュ
一の教育を授けたのである︒
書きのマスター︶であった︒ コレージュはそれゆえに︑或る意味では︑機会均等の原理に立った教育機関であった︒
コレージュはフランス全土で約八万名の児童•生徒を収容して隆盛であったといわれる。
し︑十八世紀後半に至る頃には︑貴族階級の子弟はコレージュを見棄てて家庭教師についていたし︑この教育機関は
むしろ︑新典フルジョアジーや職人・農民階級の子どもたちが立身出世をねらいとして通う機関として機能してい
g
‑
︶
Cしかるに
︑ 一 貫 し て
︑ 宗 教 教 育 と 言 語 教 育
︵ ギ リ シ
ャ語
︑ラ
テソ
語︑
フラ ンス 語の 読み
・
近代フラソスにおける教育の諸
相と
展開
常に教団の教育原理は︑﹁神を救う心と︑良俗と︑人文主義的文学へと青少年を高め上げ
コレ
ージュが与えるのは︑ 十七世紀のはじめ︑しか は︑本来︑身分の差別なく万民に開かれていたCつまり︑子どもの属する階級が何であろうとも︑同一の仕方で︑同 り方に批判の眼を向け始め︑一般民衆あるいは農民は︑彼等に与えられる初等教育が︑一人立ちするに足る腕をみが るいは教養の領域においては︑ フラソスにおける教育の展開を特徴づ
的そして
方法
論的反乱
であった︒この二つの教
育
史上の乱気 もをつくる教育に対
する︑
すなわち多くの人為
的・
虚偽
的な
工夫をこらすァソツャソ
•レジー
ム下の教
育
に対する
、理念
教会や大人の命令に
服従
するだけの形式にはまりぎった子ど は︑子どもの本性を否定
的
にみてこれを早く矩
正しようとし︑
るという意図に立った
︑
体制面での教育革命であった︒後者 を追放し
︑﹁
国家による国家のための国民の教
育
﹂を確立す
者は︑
フラソスの初等
•中等教育
に勢力をはっていた大教団
れた
︒ まさにこの状況下
︑
教育改革の
口火は二つの方向から切ら
Dシ
A LEMBERTJ.
(1
71
7
ー1783)は︑
﹃ 百
科
全書
﹄ ュ﹂ の
項目の中で︑
り残された人問になり下がる
︑
の﹁
コレ
ージ
コレ
ージュに十年学べば完全に
時代にと
という批
判を加
えて
いる
︒
︱つ
は
︑ラ・ツャロッテLA
C HALO
TA IS
L .
‑ S .
(1
701
拗
‑1785
が中心とな)っ
て断行せしめたイデスス会追放事件であ
困り︑
二つは︑ルソーの﹃エミール﹄
E m
こl8の出版
であ
る︒
前
離反しつつある方向に進んでいたのである︒
ダ フ ソ
ベ 1
Iレ
なロ
ーマ教会の立法
に忠実にとどまるには余りにも遠く
図る﹂ものでなければならなかった︒
一方
︑時代は︑このよう
写真4 イエズス会追放事件(1762)
左手iこ,罵声の中を追われるようにして立ち去るイニズス会Rの神父たちが描かれている。出典,注 (4)
‑ 18 ‑
近 代 フ ラ ン ス に お け る 教 育 の 諸 相 と 展 開
と題する覚書きで提起した(‑七六三︶問題
︑
公教育
一七六二年に同時に生じたことは︑決して遇然ではなかったのである︒もちろん︑ラ
・ツャロッテに対
する批
困
判的見解が︑特に
イエズス会員
たちから出
されなかったわけではない︒また
︑
イエズス会の業績を弁護する意見も出
岡 せ き
されたcしかし︑
時流は変えられなかった︒以後
︑
堰を切ったように
︑
国民教育論
︑
市民教育論
︑
民衆教育論が噴出 ローマ教会の指示から脱した世俗的な教育体系の樹立︑
︽) 0
ナつ
ならびに実学的な教育内容の供給が要求されるようにな
フラソス革命
(1
78
9ー
17 95
ここ では 総裁
政府
(1 79 5
ー1
79 9)
期間
を除
外す
る︒
︶は
︑
(1 7
9 1. 10
. 1ー
17 92
立法議会
As
se
mb le e le gi sl at
ive
9.
20 )
そして国民公会
Co nv en ti on Na ti on al e
(1
79
292117ー. .
95
.
10
.
26 )
を通じて︑教育中→上
重要な国民教育改革案を生ましめたが
︑
それらの計画案に示された主張点は
︑
以上に触れた歴史的な潮流と
呼応して
﹃ニ
ミ
ール
﹄は︑
教育思想史上︑自然主義とりわけ浪慢主義的自然主義に立つ教育論にして︑
源流とみられているが︑そこでルソーが陳述した理想の教育は︑
ーフ
家たちの冷笑をかうことが少なくなかった︒
する理論であって
︑
に人間的
価値
を託している︒
かつ現代教育思想の
フ ィ uゾ
しかるに科学
主義
的自然主義に立つ多くの啓蒙思想 ルソーの人間形成論は
︑
徳性涵養論つまり望ましい道徳性の涵養を唱導 それは同時代の啓蒙思想家の大半が信奉していた知的理性の涵養論とは︑そもそも発想を異にし
ているのであるC
前者は文明よりも自然を規範とし︑後者は自然状態よりも科学的認識を基とした合理的な文明社会
ルソ
ーは︑或る意味では︑十
八世紀フランスをしてアソジャン
・レジームから飛翔させ
るに力あった思想家であるが
︑
また或る意味では︑時代に早すぎた人であり
︑
その教育論の正当な評価と賞味は
︑ニ
十世紀の到来を待たなければな
らなかった︑と
言え よう
︒
従って︑
﹃エ
ミ ール﹄出版後のフラソス社会および教育界は︑ラ・
ジャロッテが﹃国民教
育論
﹄
Es sa
''ide
du
ca ti on
ミd
t2 0n dl
︑ e
ou pl d1 td
ぷtミ
de s po ur l a je
慈u
ss
︑e
す な わ ち
︑
いるのであり︑つまりはそれらを代弁しているのである︒ し ︑ 流
が︑
︑
oし をめぐる諸課題への関心で占
められたのであった︒もちろん
︑
な し、
゜
しかし︑
か ︒
付
言するならば
︑
ルソーはこの時期
︑
むしろ彼の政治思想によって
時の
主人公となったと読むほうが無難ではあるまい ルソーの﹃エミール﹄は
︑内 容的にその範略を越えているとはいえ
︑執筆のき
っかけからして
も貴紳教育論なのである︒これに対して︑明敏な司法官
︑ラ・
ツャロッテの発想は
︑国家権力と教会権力の対
立とい
う現実的かつ緊急の課題から出ていたのであり︑人間性の探究という問題は
︑
これに後続するテ
ー
マでしかない状況 十八世紀の六
0
年代から革命をはさんだ世紀末まで︑この高波の潮流に乗って続々とあらわれ出た
︒ハ
ソフ
レッ
トや
出版物に展開されている提案・報告・勧告•主張は、
とは別種の新しい教育についての論述︑
すなわち︶公教育論の類型に入るものである︒当コレクツョソに収録されている 文献を検討しても再確認できるが︑
それらは大体五つの領域に分類される︒ただし
︑当 然ながら
︑
複数の領域にわた
るテ
ー
マを論じている文献もある︒また
︑
五つの領域は︑相互に関連し合って同一の方向をめざしている点は強調さ コレージュ改革を含めた上で
︑現 実の社会の動きに適応した
︑国民のた 王侯・貴族・僧侶に代わって拾 頭してきた市民階級︵ある意味では国民︶のための教育原理論であり
︑第三は
︑市民階級か
ら も と り 残 さ れ て ︑
貧困
のうちに生きている民衆に対する啓蒙主義的見解︑第四は︑これまでとは全く異なった要請が託されている女子教育 論であり
︑
第五は︑新しい学校教育のカリキュラム論である︒これら五領域にみられる諸主張はすべて
︑先述した十 八世紀後半の教育がもつ三つの特徴
︑す なわち︑世俗性
︑知力︑科学へ
の志向性と連動
しているこ
とは言うまでもな
めの学校教育体系のあり方を考究し報告している︑
いわば制度論であり
︑ 第
二は
︑
れなければならない︒それら領域の第一は︑
総括して︑︵博育官や家庭教師による私教育あるいは教団による教育
に時局はあった︒
ルソ
ー
の主張とこれら諸課題とは
︑関連しないことも
‑ 20 ‑