鈴木道太研究序説
──「鈴木道太文庫」の価値と鈴木道太研究の今日的意義
増山 均
●はじめに──研究の目的
鈴木道太、この人の名は国分一太郎、村山俊太郎、佐々木昂らとならんで、戦前の 生活綴方教育、生活教育、北方性教育運動のリーダーとして、有名である。その人と 業績については、中内敏夫『生活綴方成立史研究』(明治図書)をはじめ、多くの研究 書・論文で取り上げられてきた。また戦後は、『親と教師への子どもの抗議』『教師への 母の抗議』をはじめ子どもや母親の生の声にもとづく教育論やロングセラーとなった
『子ども会』など、家庭教育・地域教育の分野での活躍はめざましく、教育評論家とし て全国各地に講演に出向き、人気を博したことでも名を知られている。
ごく簡単に鈴木の略歴を辿ると、1907(明治 40)年に宮城県白石市に誕生し、子ど も時代を白石で過ごした。本名は鈴木銀一。宮城師範学校を出て、小学校教員となり、
宮城郡荒浜小学校等において学校内外での教育実践に打ち込む。1934(昭和9)年教 員仲間とともに「宮城県綴方教育研究会」を結成し、翌年には「北日本国語教育連盟」
結成に参加し1)、北方性教育をとなえて生活綴方教育運動を実践した。1940(昭和 15)
年治安維持法違反容疑で検挙され、実刑を受け 1943(昭和 18)年まで獄中生活を送る。
出獄後は教職を離れ、1944(昭和 19)年に大河原町役場の書記として再出発し、1948(昭 和 23)年からは宮城県の児童福祉司として児童相談所の仕事に従事した。児童福祉お よび青少年の保護育成の仕事を開拓しつつ、執筆活動・講演活動に精力を注いだ。1966
(昭和 41)年県職員離職後は、山形女子短期大学に勤務し大学教育にも携わり、1991(平 成3)年 83 歳で死去した。
戦後に執筆した著作は 50 冊もあり、生前に『鈴木道太著作選(全3巻)』(明治図書、
1972 年)が編集されている。鈴木の死後、遺された膨大な著書や資料、原稿類は、遺 族により宮城県に寄贈され2)、最終的に郷里の白石市図書館に移管された。現在は同図 書館に「鈴木道太文庫」として所蔵され、手書き原稿、ノート、子どもの作文などは
未整理のまま保存されている3)。
早稲田大学大学院増山ゼミナールの「鈴木道太研究」チームは、2016 年9月に鈴木 道太文庫の調査を行った。調査に先だって白石市図書館館長あてに送った調査依頼状 の文面に調査の意義と「なぜいま『鈴木道太研究』なのか」について、次のようにスケッ チした。
「ご存じのように鈴木道太氏は、戦前戦後を通じて教育の分野で大活躍され、数多 の著作を残された方です。特に戦前期は、生活綴方教育・北方性教育運動のリーダー として活躍され、戦後は地域福祉や青少年健全育成活動、特に「地域子ども会」の オピニオンリーダーとして、社会教育・家庭教育・子育て活動の分野で多大な貢献 をなされました。
当方は、かつて大学院生時代に「鈴木道太の子ども会論」に注目し、1981 年8月 19 日に仙台市のご自宅を訪問して鈴木道太氏にお会いしてヒアリングをするととも に、日本教育学会にて研究発表4)をしたことがありました。それから 35 年、自らの 研究領域が児童文化・社会福祉へと拡大してくるなかで、鈴木道太氏の業績は学校 や教育分野のみならず、福祉と文化の領域も含んだ総合的視野と地域づくり(村づ くり)への展望にみちたスケールの大きな先駆的業績であったと再評価しています。
戦前、東北地方に残る封建遺制と経済的貧困の桎梏、言論の自由が抑圧され、戦争 に向かう社会情勢の中で、鈴木道太氏が取り組んだ生産と生活にねざし、生活綴方 と集団活動を通じて子どもの成長・自立をすすめ、「ひとりの喜びをみんなの喜びに、
ひとりの悲しみをみんなの悲しみに」を掲げた地域ぐるみの教育実践・教育研究運 動の足跡は、今日ますます輝きを放っていると感じている次第です。
貴図書館に所蔵されている鈴木道太文庫の閲覧・調査の作業は、鈴木道太研究と 氏の業績の再評価にとって、きわめて重要な機会であると考えています。
上記文面に記したように、鈴木道太は学校や教育分野のみならず、児童福祉・子ど も文化・少年司法の領域も含んだ総合的視野にたって、子どもの人権保障と地域づく りへの展望に満ちたスケールの大きな先駆的業績を有しており、日本の子ども・子育 て研究にとって稀有の足跡を残した人物である。鈴木道太研究の今日的意義は、生活 綴方教育の歴史における業績にとどまらず、教育・福祉・文化・司法の多方面にわたっ て活躍した鈴木道太の人と業績をトータルに捉え、教育の分野に偏している鈴木の業
績の再評価を行うことにある。また、鈴木道太の実践と研究の歩みには、教育実践研究、
子ども研究の方法論についても重要な示唆が含まれていたと考える。
小論の主たる目的は、本格的な鈴木道太研究に先だって、鈴木の業績の再評価をお こなう際に不可欠な「鈴木道太文庫」の全体像をとらえ、その内容と価値を明らかに するとともに、今後解き明かしていくべき研究課題を鳥瞰しておくことにある。
一.鈴木道太文庫──その内容と価値
現在、早稲田大学大学院増山ゼミナールの「鈴木道太研究チーム」は、戦前・戦中・
戦後を通じての鈴木の業績をトータルに明らかにすべく、氏の業績の整理・発掘と再 検討に取り組んでいる。
本節は、こうした『鈴木道太研究』において、鈴木の著作や関連文献等を検討する なかで、鈴木道太の蔵書や遺稿・遺作が保存されている「鈴木道太文庫」の存在を知り、
実際に文庫の閲覧・調査を行った。調査は、「鈴木道太文庫」が所蔵されている宮城県 白石市図書館に、鈴木道太研究チーム 4 名(増山均・齋藤史夫・竹原幸太・山田恵子)
で出向き、2016 年9月9日・10 日の二日間第1次調査を、2017 年1月 25 日・26 日に 増山が第2次調査を行った。本論文の最初に、第1次・第2次調査で明らかになった 内容および今後の調査研究課題をまとめておきたい。
1.鈴木道太文庫とは 1) 鈴木道太文庫の由来
鈴木道太とはいかなる人物であるか。その略歴は宮城県子ども総合センター編『鈴 木道太文庫目録』(2002 年3月)にも「鈴木道太先生の略歴」が掲載されている。そこ には赴任先小学校名が詳しく書かれている他は、小論の「はじめに」に紹介した経歴 とほとんど同じ内容である5)。
「鈴木道太文庫」は、1993(平成5)年鈴木の長女である星道代さんから宮城県に寄 贈された貴重な資料である。鈴木が亡くなった後に遺品の整理をしていたところ、講 演をした際のメモや書籍が多数出てきたことから、県に寄贈することに決めたとのこ とである。星さんは、寄贈にあたって「そのままにしておくのは宝の持ち腐れ。若い 教師などに利用してもらえればと思って寄贈しました。寄贈することは、亡き父が一 番喜んでいるのではないでしょうか」と語っている(毎日新聞 1993 年3月 25 日付)。
鈴木の遺品は当初は宮城県中央児童館に「鈴木道太文庫」として収蔵された。その後、
宮城県中央児童館は、宮城県子ども総合センターの管轄下になり、同センターが 2002
(平成 14)年に文庫目録を編集(5,598 冊)。中央児童館が廃止になった後、鈴木の生ま れ故郷である白石市図書館(4,167 冊)に移っている。
宮城県子ども総合センターと白石市図書館の収蔵数の違いについては、文庫を移す にあたり、イタミが著しいものは処分したとのことである(9月 10 日、白石市図書館 職員へのヒアリングによる)。
詳しい内容は、第3次調査を待たねばならないが、以下、初回と第2次調査で明ら かになった鈴木文庫の内容と特徴を簡単に紹介しておこう。
2.鈴木道太文庫の全容 (1)所蔵件数と文献目録
上述したように、鈴木道太文庫は当初宮城県中央児童館に所蔵され、2009 年に白石 市図書館に移動され、同館 2 階の個人文庫エリアに所蔵されている。
鈴木道太文庫の目録については、先に紹介したように 2002 年3月に宮城県子ども総 合センターが『鈴木道太文庫目録』を編纂しているが、白石市図書館に移動した後も 同館職員により新たに「寄贈者寄贈資料リスト」が作成されている。以下では、両目 録を基に白石市図書館所蔵「鈴木文庫」の全容を概観しておく。
(2)文庫の資料群
文庫所蔵の資料群は、①鈴木が執筆した著書(複数所蔵のものもある)、②鈴木の蔵書・
雑誌類、③鈴木の関連資料類(自筆原稿、講演ノート、講演テープ、写真、スクラップブッ ク、書簡、子どもの作文、山形女子短期大学講師時代の学生レポート等)となっており、
①と②は現物が書棚に並べられ、③は内容のタイトルがメモされた紙箱に収納されて書 棚に並べられている。なお、講演テープ、写真、スクラップブック、書簡等については、
プラスチックケース 2 箱に収納され、書棚の外に保管されている。
①鈴木自身の編著書の内訳
鈴木の著書は、『こどもから親への抗議──理想の両親のありかた』(宮城教育図書出 版協会、1949)、『親と教師への子どもの抗議』(国土社、1951)、『父母の教育学』(国土社、
1951)、『子ども会-その理論と実際』(新評論、1955)、『父親復興──新子どもの抗議』(国 土社、1963)、『日本の子どものしつけ』(国土社、1967)、『戦後子どもの考えはどう変わっ たか』(明治図書、1975)、『叱ってよい時わるい時』(明治図書、1981)など、複数所蔵
されているものがある一方で、代表的な著書である『いたずら時代の人間形成』(新評論、
1969)や『鈴木道太著作選(全3巻)』(明治図書、1972)の第3巻の欠落など、鈴木の 編著書はかなり揃ってはいるものの、すべてが所蔵されている状態ではない。
②鈴木の蔵書・雑誌の内訳
鈴木が所蔵した本・雑誌については、戦後のものが多く、分野としては教育、福祉、
少年司法関連の図書、教科書、伝記、児童文学、日本文学全集、世界文学全集、美術全集、
子ども史、生活文化史、民話、郷土史、歴史、哲学、経済学、文化運動、農村運動など、
多岐に渡っている。
教育関係では生活綴方運動で活動を共にした国分一太郎、村山俊太郎、滑川道夫ら の著書をはじめ、『綴方生活』(東京文園社)、『教師の友』(教師の友社)、『婦人教師』(明 治図書)、『作文と教育』(百合出版)、『生活綴方』(あゆみ出版)、などの教育関連雑誌 とともに、『PTA教室』(北方民生協会、中央出版文化会)、『お母さまの月刊雑誌母親 教室』(学習研究社)や『こどもの光』(家の光協会)など母親や子ども向けの雑誌も多 数所蔵されている。戦後の無着成恭の『山びこ学校』から生活綴方運動・綴方教育を 体系的にまとめた中内敏夫『生活綴方成立史研究』、滑川道夫『日本作文綴方教育史』、
さらには『講座生活綴方』(日本作文の会・百合出版)や『工程・綴方学校』(復刻版・
教育資料出版会)など綴方関係の図書も幅広く所蔵されている。
また、『岩波講座 教育』に代表される教育書に加え、日本子どもを守る会編集の『子 ども白書』や「子どものしあわせ」など、子ども問題全般を取り扱った本や雑誌も多 数所蔵されている。
教育理論書としては、集団主義教育と関わって、マカレンコやクルプスカヤらのソビ エト教育学・教育思想、さらには唯物論・弁証法を取り扱った哲学関係の図書も所蔵さ れている。鈴木が自著『いたずら時代の人間形成』に回顧しているように、戦前の思 想統制対象の書物は焼却されたようであり、蔵書は主に戦後に発刊されたものである6)。 戦後鈴木が児童福祉・児童相談の仕事をしていたこともあり、児童福祉・少年司法 関係の図書が多いのも特徴である。児童相談所の児童福祉司業務を行う基礎理論とし て、谷川貞夫『ケース・ウヮーク要論』(日本社会事業協会、1949)、日本社会事業協会 編『児童福祉事業運営の知識』(日本社会事業協会、1949)7)、竹内愛二『ケース・ウォー クの技術』(中央社会福祉協議会、1950)をはじめ、高島巌『子供のことについて考え るの書 改訂版歌ふ子供たち』(日向書房、1948)、谷貞信『矯正教育(社会教育文庫 第二巻)』(1948)、石原登『十代の危機──間違いのない子にする導きかた』(国土社、
1960)など、戦後の児童福祉・矯正教育界を代表する養護施設長や教護院長、少年院長 の著書が多数所蔵されている。
具体的な実務書としては、宮城県(地方)青少年問題対策協議会が編纂した『宮城県 青少年保護育成要綱』、『児童福祉審議会の手引(青少年指導指針3)』、『児童の世界─
─児童福祉法施行 10 周年記念(青少年指導指針9)』、『青少年問題協議会の手引(青少 年指導指針 10)』などの宮城県内の児童福祉・健全育成事業関係の冊子の他、厚生省児 童局編『日本における児童福祉事業の概況』(厚生省大臣官房統計調査部、1950)、中央 青少年問題協議会・都道府県青少年問題協議会編『道標──全国青少年代表者会議要旨』
(1953)、『第八回全国児童福祉大会要旨(於仙台市)』(1954)等の全国規模での調査データ、
児童福祉関連の会議録がある。さらに、鈴木が勤務した宮城県民生部発行『宮城県中 央児童相談所における児童調査の概要 第一集』(1948)、宮城県中央児童相談所発行『ケー ススタディ・1.岩本正次・2.木幡衛吾・3.筑前甚七・4.鈴木銀一』(1951)な どもあり、後者では鈴木自身が担当したケース検討も集録されている。
児童福祉法制の総論に関わるものでは、松崎芳伸『児童福祉法』(日本社会事業協会、
1948)、松崎芳伸『児童福祉施設最低基準』(日本社会事業協会、1949)、厚生省児童局編『児 童憲章制定記録』(中央社会福祉協議会、1951)、中央青少年問題協議会編『別冊 児童憲章』
(日本少年教護協会、1952)など、子どもの人権に関わる著書もある。
その他、『岩波講座 哲学』、『近代教養全集』、『岩波講座 文学』等、哲学や文学関係 書も多数所蔵されているが、全体的には教師、行政職員、児童福祉司、教育評論家と いうキャリアを反映して、教育、福祉関連の資料、および、児童書、児童文学関係の 図書が多いのが特徴である。
③鈴木の関連資料
鈴木の関連資料としては、鈴木の自筆の講演メモや鈴木が審査員として携わった子 どもの作文等が紙箱に収納されて書棚に並べられている。
講演メモなどの自筆ノート類、大学の講義の準備ノート類、『職務日誌』、著書の構想 ノート、受講した講義のメモノートなどがある。
自筆原稿も多数残されており、その他に分類したものでは、「両親に対する意識調査」、
「知能検査」、「学校関連記録表」等に加えて、子どもの作文や山形女子短期大学の学生 レポートが複数の紙製のボックスファイルに分類されて所蔵されている。
3.未整理資料の内容
鈴木道太文庫には、生前所蔵していた図書類など、鈴木道太の思想形成の背景を探 る資料類とともに、多数の手書き原稿、氏の講演や文筆活動の内容となる子どもたち の作文、職務の記録など多くの未整理資料がある。それらは、多数の紙製のボックスファ イルと2つのプラスチックケースに保存され、鈴木文庫の未整理資料には、それぞれ に分類番号と題目が記されている。しかし、それらの分類はあくまでも便宜的なもの であり、鈴木道太の人と業績を明らかにするためには、整理・分類・記録を精密に行 うことが求められている。
1)手書き原稿
未整理資料の第1は、鈴木道太自身、または別人が清書したと思われる 400 字詰原稿 用紙(一部に 200 字詰原稿用紙もある)の手書き原稿類である。
興味深いものに、自筆の年表の記入がある「北方教師の記録<私の歩んだ道>」や、「親 の教師に対する願いについて」、「自分本位の考え方」などの題目を付された原稿や、題目・
章題がなく「昭和 16 年の8月のはじめ……」などの書き出しから始まる原稿類がある。
また自筆原稿には、「少年法改正構想」、「親と子ども関連」、「仙台放送原稿(お茶の 間問答)」、「その他」に加え、国分一太郎・三浦敬二郎・渡辺十馬・山本一と分類した 他者の原稿と思われるものもある。
自筆原稿は、それぞれがすでに雑誌・書籍として発表されたものであるか否かは、詳 細な検討を要するが、いずれも完成稿と思わせる非常に丁寧に読みやすい字で記述さ れており、鈴木道太の人柄を想像させる重要な資料類である。
2)講演日記
次いで、『講演メモ』(No.1昭和32からNo.17昭和49年までの17冊)・『講演MEMO』(昭 和 50 から 52 年までの3冊)『講演 NOTE』(昭和 54・55 年、1冊)『講演そのおりおり』
(昭和 58 年以降1冊)と表題が付されたA5ノート群がある。
上記のノート類は、執筆活動とともに昭和 30 年代から晩年にかけて、活動の中心で あった講演活動についての詳細な記録である。最初の数ページに、その年の講演の場 所の一覧が記述され、各講演ごとに場所・内容(複数テーマ)・会場や集まった参加者 の印象などが記録されている。ところどころには、新たな講演テーマの概要・参加者 からの子どもの状況の聞き取りなども記入されている。
鈴木は子どもの声や子育ての様子の聞き取りから本を執筆し、それらの本の内容を 各地で講演し、その際に生の声を収集して新たな執筆の素材としていたのではないか と思われる。今後、鈴木道太の創作活動のスタイルを解明するうえでも参考となろう。
3)自筆ノート
講演日記以外に、自筆ノート類がある。『日本の子どものしつけ』(1冊)、『児童文学 ノート』(1冊)、『職務日誌 No. 1〜3』(3冊)、『鉄道官舎の母のつどい』(1冊)、『N HKメモ』(1冊)、『いろいろ帳』(1冊)、『メモ』(2冊)、『雑記昭和 50 年』(1冊)、『キャ ロル女史の講義』(1冊)、『里親制度に関する文献』(1冊)、『矢本調査 MEMO』(1冊)、
『真実の教育に於ける新しき教師の人間像』(1 冊)、『その他』と題書されたボックスファ イルには 16 冊の自筆ノートが収められていた。
そのうち、「キャロル女史の講義」と題されるノートには、「8月3日午后」から「8 月 16 日」の日付までの講義記録が残されている。社会事業官・児童福祉コンサルタン トとして、国際連合・社会活動部から派遣され、1949(昭和 24)年 11 月5日来日した アリス・K・キャロル女史は、「翌年の8月 25 日に離日するまでのおよそ 10 か月間、
わが国の児童相談所の機構改革を中心に、児童福祉行政全般の整備と現任者訓練のた めに、大阪府、福岡県、宮城県などの中央児童相談所で精力的な実践活動を行い、『キャ ロルレポート』を綴り、相談業務の実践現場に多大な足跡を残した。」とされ、宮城県 には 8 月 3 日からの 2 週間実地指導に入ったとされる8)。このノートはその際の記録と 思われ、戦後の児童福祉史・児童相談所の開拓期・模索期の取り組みを解明する上で の貴重な資料といえよう。
4)職務日誌・ケース記録
上記のボックスファイルには、鈴木銀一名の「職務日誌 No. 1」、鈴木福祉司名の「職 務日誌 No. 2」「職務日誌 No. 3」の3冊のノートもある。児童福祉司としての仕事の 状況、具体的なケースが記録されている。そこには、ケース一覧などとともに、人身売買、
里親等の相談、打ち合わせ、講演等々、宮城県職員時代の職務の状況が記されている。
厚生省児童局刊行の『児童のケースウォーク事例集』(1950.3.31)には、「キャロー ル女史のケース指導」として、宮城県鈴木福祉司取扱ケースが掲載されている。キャ ロル女史帰国の翌年、厚生省児童局は女史が実地指導した宮城を含む3県の児童相談 所をモデルとして指定した9)。講義ノートと職務日誌を照らしてみることによって、鈴 木道太の児童福祉実践がどのように形成されたのかを理解するとともに、日本におい ての児童福祉・ケースワークや児童相談所の形成過程を理解する上での助けともなる 資料である。また、その過程における鈴木道太の位置と役割の評価も課題となろう。
5)「雑記」
鈴木道太の日常の生活や人間性の特徴について解き明かす手がかりとなると思われ
る、手書きの原稿用紙を折って糸で綴じて作られ、表紙に「雑記 昭和 50 年」(49 を 線で消して下に 50 と書かれる)と題された帳面がある。
1975(昭和 50)・76(51)年の2年間の人物往来・日々の出来事・金銭出納(日常の 食品ごとの金額・出版社への送金や印税のやり取り・株の運用まで)から、料理のレシピ・
出版社や個人からのお歳暮一覧などまで、日常生活や人柄を表すやりとりが丁寧に記 録されており、鈴木の交友関係や私生活を垣間見る資料としてきわめて興味深い。
6)個人写真・履歴書
鈴木道太と妻・鈴木みゆきの職務に係る履歴書(教師奉職より県庁退職までの履歴書)、
宮城県総務部人事課による「宮城県事務吏員発令通知書」(昭和 26 年6月)、荒浜小学 校時代の身分証明書〔1931(昭和6).4.28〕、戸籍の写しなど、個人の経歴に関する 書類がある。また、出版等の際に使用されたものと思われる顔写真、家族等と撮影さ れた私的な写真類もある。
7)手紙・書簡
主に戦後であるが、鈴木道太の交友を探る資料として3つのはがきファイルと1つ の書簡ファイルがある。
はがきファイルには無着成恭〔1947(昭和 27).1.19〕・西村繁三郎〔号 舟水:1961(昭 和 36)元旦〕・須藤克三〔1963(昭和 38)元旦〕・但木卓郎〔1962(昭和 37)元旦〕・
菊地新〔1960(昭和 35)元旦〕や、宮崎典夫・遊佐照雄・寒川道夫・ナガイショーゾー・
井野川潔などからのはがきが収められている。
また書簡ファイルには、各地からの講演依頼状・出版社との出版契約のやり取り等 の手紙が収められている10)。
8)スクラップブック
10 数冊のスクラップブックがあり、鈴木道太による雑誌連載、また、自分に関する 記事や参考とした新聞記事等が保存されている。
本人の執筆連載は、誌名不明で全 12 回掲載された「セミドキュメンタリー 教師と子 どもの小さな物語」(昭和 49 年1月〜?)、東北電力新聞に連載された「父親と子ども」
(年号不明、9月〜3月、東北北陸の企業を訪問して、職員家族をレポート)「おお子ど もたち」(全 6 回、最終回は 1977 年9月)「電力の新婚家庭」(全 11 回、初回は 1977 年 10 月〜 1978 年?月)、「我家のアイドル──職場めぐり」「わが家の教育」などのシリー ズ連載がある。これらは出版された著書に収録されているのかどうかを判別する必要 があるが、すでに刊行された著書や雑誌論文と合わせて、執筆活動の全体像を理解す
ることのできる資料である。
9)集会・運動・各種取り組み
ボックスファイル「各種会報:綴方関連、中川先生通信藤枝市立藤枝第2小」には、
「加美教師の会機関誌 ほくと」(1954.5.23.)、「教師の会」(宮城県教師の会 1951.
2.24.)、「校外子供会 研究協議会要項」(1954.9.15 宮城県青少年問題協議会)、「第 5次教育研究全国集会参加のしおり」(1956 年1月)、「第1回青少年代表者会議参考資 料『高校生はかく考へる』茨城県」他、多数のガリ版刷りパンフレット・チラシが収 められている。鈴木道太の活動の足跡や、各種運動との関わりを知る資料類である。
10)子どもの作文
綴方教師としての鈴木の経歴から、講演・著述の多くは子どもの作文から取り出し た生の声が引用されている。また、鈴木は多くの作文コンクールなどにも審査員とし て携わってきた。そのことを示す子どもたちの作文が膨大に残されている。
まず、26 箱のボックスファイルに収められた作文がある。原稿用紙につづられた小 学1年生の「いやだったこと」と題する作文や、家族のことが更紙につづられた無題 の作文などがある。一部には、赤鉛筆で二重丸や「作文はうまい」などの書き込みも 付されている。
また「母と子の作文応募作品」と題書された6つのボックスファイル、またそのボッ クス6には、「東北放送『みちのくの朝』応募作品昭和 29 年」「母の日の作文、応募作品、
昭和 45 年」との題名も同時に書かれているものもある。また、「東北電力中学生作文コ ンクール入選作品昭和 54 年」「同昭和 55 年」のそれぞれに、2 つずつ、作文の入ったボッ クスファイルがある。
11)録音テープ
2つある大型クリアケースの1つには、オープンリールの録音テープ1、カセット テープ9、8㎜フィルム1も収められていた。それらの中には「歌つきなつめろ」と 鉛筆書きされたものもあるが、「子どもはなぜいうことをきかないか」「思いやりを育て るしつけ」という題名での鈴木道太の講演と思われる「家の光カセット」2本、「子ど ものほめ方叱り方」との題名がある「政府の窓」カセット1がある。そして、オープンリー ルの録音テープには「9月 12 日放送、父が叱る時母が叱る時」とのメモがつけられて いる。
鈴木の肉声で、どのように語られていたのかを知ることができる資料である。
12)文集・詩集
1つのボックスファイルには、山形県宮内中学校2年1組の『ハンドル』(1952.1.
30)をはじめ、各地の学校の『ひこばえ』『とみやち』『えんぴつ』など 21 冊の文集・
詩集が収められている。
教師時代に各地の綴方教師と交流し文集を交換し合ったことは知られているが、児童 福祉司になって以降の綴方教師との交流や関心の状況を探ることができるものである。
13)山形女子短大講義ノート
山形女子短期大学で行った講義ノート、「児童文化ノート」No. 1、山形女子短期大学、
『児童文学ノート』(1冊)、「児童文化講義」、3 冊がある。中川李枝子の『いやいやえん』
など児童文学の概要・意義・分析や、児童心理などの講義内容が記されている。また、「山 形女子短期大学の学生レポート」が1から3のボックスファイルに保存されている。
4.未整理資料の特徴とその価値
以上のような未整理資料は、今まで本格的な整理、内容の検討はなされておらず、鈴 木道太の人となり、歴史的に果たしてきた役割を明らかにするうえで貴重な第1次資 料であり、さらに今後の調査検討が待たれている。前節では、鈴木文庫に残されてい る未整理資料の内容を大きく 13 項目に分類してみたが、そのいずれもが、鈴木道太の 全体像(とりわけ人と業績)を明らかにするうえで、不可欠の史料的価値がある。
ここでは、その中から、特に重要だと思われる資料のいくつかについて、その内容 を簡単に紹介しておこう。
1)歴史を埋める資料の発見──芝居のシナリオ
鈴木道太の活動の中で、地域での文化活動、社会教育における実践は特筆すべきもの である。荒浜小学校時代の地域活動をはじめ、赴任先の学校での実践は、すべて地域の 子どもの生活、青年と地域住民との交流が位置づいている。それは、生活綴方、生活教 育の実践者鈴木にとっては必然のことであり、「地域文化の発展」「地域づくり」への関 与は、鈴木の教育活動の骨格をなすものである。「地域文化の発展」「地域づくり」とい うと大袈裟だが、鈴木にとっては、地域の人々との交流のなかで、共に表現活動を楽しみ、
文化的楽しみを共有することは、ごく自然な行動だったのである。
荒浜小学校時代の「蒼穹(あおぞら)村芝居」、佐倉惣五郎をモデルにした農民劇や「捨 子」という時代物の創作の上演(著作選1「北方教師の記録」p.57)を行っていた。刑 務所から出て大河原町役場に勤めはじめた鈴木は、昭和 21 年に、そこでも村芝居に取 り組み、シナリオを創作している。鈴木が演劇のシナリオを描くことになったいきさつ
は、すでに『鈴木道太著作集1』「町が学校であるという考え方で」(pp.222 - 223)や『い たずら時代の人間形成』に記され、よく知られている。
鈴木は出獄(昭和 18 年 10 月)した後、一時期、義兄が経営するベントナイト工場 で土方仕事をした後、縁があって大河原町役場の書記(庶務係り)としての職を得る。
町長の気まぐれな命令(「出征兵士の遺家族慰安の演芸会をやれ」)が女子職員に出され たことがきっかけで、困った女子職員たちが鈴木に泣きついてくる。
『いたずら時代の人間形成』(pp.236 - 238)には、その時のことが次のように回想さ れている。
「……役場のなかではわたくしが唯一の文化人だと思ったのであろう。そこでわたく しは、うた、おどり、剣舞、寸劇と、女子職員のやれるものを組み込んで一幕物のヴァ ラエティーをつくり、わたくしも監督という役割でそれに出演したのだった。それが 物凄く受けて……」鈴木は一躍町の人気者になる。その後も町民の要望が高まり、再 び遺家族慰安の演芸会をすることになる。この時本格的な芝居(『英魂と父のかえる日』)
を書き、鈴木自身も「山村啓吉」という役で登場したのである。「これ以後、児童福祉 司になって県に移るまで、わたくしはいくつかの芝居をやった。ピストル強盗など復 員軍人にいろいろな問題が出た世相を写して『冬来たりなば』、民主主義の出発を解説 する『人民の足音』、教員組合思想宣伝の『聖職』、戦死者の妻の再婚をあつかった『祭 りの夜』など、そのときどきの社会の事件を前向きな立場であつかいながら、町民の 啓蒙を意図したものである。……」と。
ここに記されている芝居のシナリオのうち、『聖職』、『冬来たりなば』、『祭りの夜』
の3冊が、ガリ版刷りの奇麗な保存状態で残されているのを発見した。『聖職』のシナ リオの表紙には、教員組合大衆宣伝用脚本(昭和 21 年 12 月1日作成)とあるが、難 しいことを優しく、堅苦しいことを柔らかく、高尚なことを庶民に上手に近づけ、人々 の心の琴線に触れ、情理にせまる鈴木の精神性、柔軟な思考、文化的実践性が見事に示 された、貴重な史料である。次回の調査では、戦後民主主義の出発を解説したとする『人 民の足音』の脚本もぜひ探し出したいものである。
2)埋もれていた未発表原稿の発掘
第二に注目すべき資料は、未発表と思われる鈴木道太の自筆原稿がいくつも残され ていたことである。その詳細は、今後の検証を待たねばならないが、中には、『裁かれ た教室』と題して、400 字詰原稿用紙で 273 枚にもおよぶ大部の原稿があった11)。その 内容は、『生活する教室』の内容とも重複するが、綴方教師弾圧事件で検挙された後の、
取り調べの様子と、鈴木自身の対応が詳細に書かれたもので、権力による抑圧下の鈴木 の気持ちと行動がリアルに記されたものとして、きわめて貴重である。その目次をピッ クアップすると次のようになっている。
第一章 汚辱の初夜
1.検挙、2.留置場、3.同志、4.連絡、5.灰色の壁に坐って、
6.調べ始る 第二章 北向きの枝
1.父の記憶、2.先生の綴方、3.予習学級、4.無階級の世界、
5.発覚 第三章 防風草の花
1.卑屈の影、2.農民劇、3.下痢、4.区民会議、5.赤化教員 第四章 人生工作
1.町の風、2.批判者の立場 第五章 結語
検挙と収監中の体験について、鈴木はすでに公刊された書物の中で、何度も書いてい る。たとえば『鈴木道太選集第1巻』の第1章「北方教師の記録」二、手旗 10.鉄窓 の回想(pp.192 - 214)や『いたずら時代の人間形成』(第3章-三「鉄窓の中の人間性」
pp.223 - 234)などである。
しかし、『裁かれた教室』と題する自筆原稿には、これまで詳しく知られていなかっ たことがらに関する記述も多く、既に出版されている『生活する教室』(東洋書館、
1951 年)とセットになるべき貴重な記録といえるのではないか。
『裁かれた教室』だけではなく、タイトルはつけられていないが「昭和 18 年 10 月 21 日、
私は3年の拘禁を終へて刑務所から出て来た。……」で始まる出所後の体験を記した 原稿用紙 18 枚の文章12)もあり、いまだ知られざる鈴木の生活と行動・心理状態を知る 貴重な史料として興味深いものである。その他発見された多数の短編の中にも、未発 表の原稿がある可能性が高いが、それらは、既に発表され公刊されている原稿との丁 寧な突合せの作業により、明らかになるであろう。
3)ノート『講演メモ』が語る鈴木の活躍と人間像
第三に注目すべき資料に、鈴木の講演会の記録がある。『講演メモ』『講演MEMO』『講 演そのおりおり』と書かれた大学ノート(A5判)が、合計 22 冊保存されている。
『講演メモ』No. 1は、1957(昭和 32 年)の1月から 12 月まで、No. 2は 1958(昭和
33)年1月から 34 年7月まで 、No. 3は 1959 年8月から 1960 年(昭和 35)年 12 月まで、
以下 No. 4から以降は年度ごとに1冊の記録となっており、No.17 が 1974(昭和 49 年)
版である。
その他、『講演MEMO』と書かれた大学ノートが4(昭和 50 年〜 55 年)冊あり、
また最後の時期のノートとおもわれるものには『講演そのおりおり』のタイトルが付 けられ、昭和 58 年以後と記されている。
その内容は、講演会の日時、講演に出向いた場所、講演のテーマ・内容の簡単なメモ、
講演先で聞いたエピソード、講演会の様子、参加者の印象、報酬額、講演会後の行動 などが、率直にメモされている。
大量の『講演メモ』を開いて、驚くことは、丹念な記録もさることながら、その回 数の多さである。鈴木は、1950 年代後半から毎日のように各地で多様な職種・年齢対 象に対して講演を行っており、それが何年にもわたって続けられていたことである。
試みに、『講演メモ』No. 4(1961 年)の2月のページを開いてみると、次のように 記録されている。
2月4日白石一小 一本立できるしつけ、新しい道徳 2月6日坂本小学校 亘理 新しい道徳、音のない愛情の世界
2月8日名取市母子家庭激励会 まわり道、愛情代償、母のこと、3尺4寸、入獄、
田の文化、本当の親孝行、吉川英治の歌、奈良に来ても
2月 11 日亘理母子家庭激励会 愛情代償、まわり道、修学旅行の金、靴みがき 2月 12 日和賀小中部PTA(岩手藤根保育所) 新しい道徳、親の世界子ども世 界 34 冊、音のない愛情の世界
2月 13 日相去中学校 新しい道徳、親の世界子ども世界 11 冊、音のない愛情の 世界
2月 14 日秋田鹿角八幡平長谷川小学校 第1部 新しい道徳、親の世界子ども世界
第2部 からだの音コトバの愛、音のない愛情の世界
湯瀬ホテル 素晴らしい旅館 芸者アキ 弘前の女 多賀城に知人あり PTA会長 副会長接待 本4冊オキ 注文取るという
歓待いたれりつくせり 2月 15 日青森十和田市
午前 乙供(甲地郡)上エビ沢部落
新しい道徳、親の世界子ども世界
雪の中の農家イロリに犬毛皮の男 10 人くらい 土間のストーブに手拭ほおかむりの母親 20 人くらい 前の話は空轉 表の雪は深々(?) 文化果つるところの感じ
講演先をピックアップすると、次のような場所である。保育園、幼稚園、小学校、中学校、
PTA、父親学級、家庭学級、父母会、婦人会、教員、教育委員会、家庭児童対策、警 察補導員、ママポリス、福祉会、教会、看護婦、公民館、児童館、子ども会、青年学級、
青年の家、成人式、老人福祉慰安会、老人大学、部落、青年会議所、ロータリー、企業、
短大など。
講演内容については、『親と教師への子どもの抗議』から『親の世界子どもの世界』『日 本の子どものしつけ』といった同時期に出版された鈴木の本のタイトルが目立つが、鈴 木の箇条書きで頻繁に出ている言葉を記せば、コトバの愛、からだの愛、音のない愛 情の世界、新しい道徳、親の借金、父の権威、体面意識、叱り方の民主的典型、生活の 折り目、健全家庭のつくり方、少年院の感想、生活の知恵のしつけ……など多彩である。
雑誌・新聞などへの多数の連載原稿の執筆と同時並行して、全国を駆け廻った鈴木は、
教育評論家として時代の寵児となり、一世を風靡した感がある。
鈴木の人気の大きさは、鈴木自身の人を引き付ける人間的魅力と、それを可能にし た話術の巧みさと話題の豊富さ、実践と体験を背景とした説得力がみてとれる。鈴木 の講演については、販売用として作成された録音テープも保存されており、往時の活 躍を肉声で知ることもできる。
戦後鈴木は 50 冊を超える著書を立て続けに出版しており、多作の執筆者としても知 られているが、『講演メモ』を通じて、本の出版と講演会との関連を見ると、そこに鈴 木の著書出版・販売の独自の手法を見出すことが出来て興味深い。
鈴木は「講演会」を通じて、アウトプットするだけでなく、それ以上のエネルギーを使っ て、多くの人と出会い、子どもたちと親たちの生の声を聴き、本の素材となるエピソー ドを集め、新しい本の構想を練っていったのである。
特に、ラジオ放送などで、子どもたちとの対談をしたり、積極的に子どもたちの生の 声に耳を傾け、子どもの願いに寄り添い、子どもの立場に立って考えたりしている13)。 鈴木の蔵書の中には、児童憲章の解説書や、児童憲章制定記録などが収蔵されており、
その活動の基礎に「子どもの権利」の視点が据えられていたことは明瞭である。今日、
国連子どもの権利条約の採択により、子どもの声を聴くこと、子どもの意見表明権を尊
重することが子どもに関わる活動の基本として考えられるようになったが、『こどもか ら親への抗議』『親と教師への子どもの抗議』など、いち早く子どもの声に注目し、そ こから子育てと教育のあるべき姿を考えていった鈴木の取り組みの先見性・先駆性は、
きわめて高い価値をもつものと言えよう。
『講演メモ』は、鈴木の業績の再評価を確かにする資料であることは、言うまでもな いが、期せずして鈴木の人物像についての興味深い情報も提供している。『講演メモ』
はあくまでも鈴木自身のプライベートな記録であり、他人が見ることを想定して書い たわけではないので、具体的な記述をここに細かく紹介することは避けるが、鈴木の 人柄の一面が率直に表されていてきわめて興味深いものでもある。われわれは、『講演 メモ』の記述を通して、知られざる「人間鈴木」の一面を垣間見ることになるが、そ れらは既存の文献を通して作られている鈴木の人間像に、さらにふくらみと奥行きを 加えるものになることは間違いない。
「鈴木道太文庫」は、ご令嬢の星道代さんの強い願いもあり、鈴木道太(銀一)の故 郷である白石市図書館に収蔵され、終の棲家を見出しているが、そこに眠っている鈴 木の業績の数々は、そのほとんどが、いまだ未開拓のままである。今回、早稲田大学増 山ゼミナールの「鈴木道太研究チーム」によって、初めてその全貌のベールがはがされ たものの、すでに世に知られている鈴木の業績との突合せによる鈴木文庫の内実の整 理・検討と価値の検証は、これからの課題である。未整理のまま残されている資料の 目録の作成、未発表資料・原稿の整理と刊行など、今後の作業の課題は多い。その作 業を通じて、戦前・戦中・戦後の鈴木道太の仕事、①生活綴方・生活教育・北方性教 育における鈴木、②社会教育・地域づくりにおける鈴木、③文化芸術活動における鈴木、
④児童福祉・地域福祉における鈴木、⑤青少年健全育成・青少年保護活動における鈴木、
⑥子どもの権利保障活動における鈴木、その多面的な活躍をトータルに明らかにし「鈴 木道太の人と業績」を再検証して、教育・福祉・文化・司法・人権史における鈴木道太 という人物の歴史的評価を確立すること、すなわち総合的視点に立った『鈴木道太研究』
がわれわれに課せられた大きな宿題である。この宿題を進めるにあたって、白石市図 書館の「鈴木道太文庫」の存在は、強い味方であり、宝の山である。
二.鈴木道太研究の課題
1.鈴木道太──その人と業績 1)鈴木の人物像
鈴木道太の人物像については、研究会、教育運動の仲間として身近に接していた菊 地新による「北方綴方の道程──ちいさな鈴木道太論」(別冊センターつうしん No.74「こ ども・教育・文化」第8号)にそのエッセンスが記録されている14)。
「『小説・鈴木道太』──もし、私に文才があれば、そんな小説を書いてみたいとしみ じみと思う」と菊地をして言わしめた鈴木道太は、自らの著書の中にもしばしば自らの 歩みを記している。鈴木自身の回想記録は、『生活する教室』東洋書館(『鈴木道太著作 選第1巻』に「北方教師の記録」として再録)、『いたずら時代の人間形成』新評論の二 著に詳しい。特に後者は、サブタイトルを「子ども会論の原点」として鈴木自身の子ど も時代の交遊関係をベースにして、地域の子ども集団の人間形成力を論じたものだが、
自己形成の記録としてきわめて興味深いものである。鈴木は、子ども時代の人間関係・
原体験が、大人になってからの人間的資質にどうつながっていくのかを意識的に描い ている。
著書に記された歩みだけでなく、遺された史料を紐解き読み進めるほどに鈴木道太の 魅力的な人物像が浮かびあがってくる。鈴木の魅力の核心には、生涯を通じて貫かれ ていたヒューマニズムにみちた実践力がある。正義感、リーダーシップ、たぐいまれ なコーディネート力、人を繋ぐ力、さらには人を魅きつける庶民性とエンターティナー としての資質、持病をかかえつつも優れた運動神経と運動能力の持ち主であったこと も鈴木の特徴である15)。
なお、白石市図書館の鈴木文庫には、友人と交わした手紙類をはじめ、手づくりの「雑 記帳」などもあり、人物往来の記録、金銭出納帳、お歳暮一覧など、鈴木の日常生活 と几帳面な人柄をしのばせる資料も多数残されており、鈴木道太の人物像に迫り、そ の魅力的な人柄を明らかにしていくことは今後の課題である。
2)鈴木道太の足跡と業績
(1)戦前期の論文について──実践にねざした理論家として
鈴木道太の主要論文・著書を概観すると公刊された主要なものをとりあげただけで も膨大である。まず戦前に書かれた論文を調べてみると、鈴木は多くの雑誌に名を連
ねているが、主要なものに次のようなものがある。
1932 年 「学級・集団・技術──集団主義教育の理論と実際」16)(『教育論叢』)
1934 年 「調べる綴方の理論と指導実践工作」(『綴り方倶楽部』)、「文学形象の成立と その論理──形象の読方論争の方向転換を意図して──」(『教育・国語教育』)、
「綴方の母胎について──その芸術性・科学性・実用性──」(『教育・国語教 育』)、「綴り方の眼」(『教育・国語教育』)
1935 年 「北方の生活性」鈴木道太編輯『教育・国語教育』1月号、「文集製作に於け る今後の問題」『国語教育研究』1月号、「北方の問題とその人々」(『綴方教育』)、
「綴り方に於ける北方性の問題」(『綴方生活』)、「北方に於ける国語実践の解 釈学的方法」(『綴方生活』)、「生活詩の問題について」(『綴方生活』)、「綴方に おける地方性と北方性」(『綴方評論』)
1936 年 「我が生活と芸術の書」(『生活綴方』)、「生活表現と生活組織──赤い鳥綴方 にふれて」(『教育・国語教育』)、「子供の労働に綴り方をみる」(『教育・国語 教育』)、「知的教材とその学習について」(『教育・国語教育』)
1937 年 「綴方教育に於ける生活組織の新方向」『教育・国語教育』5月号、「韻文と散 文に違いありや──韻文指導課程の問題──」(『教育・国語教育』)、「表現力 培養第一期工作」(『教育・国語教育』)
1938 年 「学級綴方教育への序説──破産者の言葉」『教育・国語教育』4月号、「主席 訓導論」(『教育・国語教育』)
1939 年 「理想の教師 理想の子供」(『教育・国語教育』)、「生活教育の立場から」(『教育・
国語教育』)、「学級文化の諸問題──学級文化交流への新定義」(『教育・国語 教育』)
1940 年 「読書と実践と組織──私の教養史──」(『教育・国語教育』)
以上のように戦前期には、『教育・国語教育』『綴方生活』など生活綴方関係の雑誌に 掲載された多数の論文があり、生活綴方教育、北方教育に関する論議に積極的に参加し 実践と理論をリードしていたことがうかがえる。「宮城県綴方教育研究会」の発足から
「国語日曜会」「北日本国語教育連盟」への参加、さらには『生活学校』「教育科学研究会」
との接点、これらのすべての過程で鈴木は中心的役割を担い、逮捕される直前まで『教 育・国語教育』に論稿を寄せていた。
獄中の鈴木は、戦後出版された『鈴木道太著作選第1巻』の解題に「原本はすでに
鉄窓のなかで」と記しているように、取り調べに応えるかたちであるいは独房の中で、
自らの実践を何度も回顧・反芻・分析している。獄中と出獄直後の鈴木の姿については、
著作選や『いたずら時代の人間形成』に記されている。
(2)戦後の業績──八面六臂の活躍
実刑を受けた後、鈴木は、大河原町役場の書記を経て、その後宮城県庁職員として 採用された。児童福祉司として児童相談所の仕事についた公務員生活に入り、戦後一 貫して宮城県において、児童福祉、児童健全育成の分野を開拓してきた。出獄後、教 育の場にもどれず、期せずして公務員となり児童福祉や青少年保護の分野に転身した ことが、かえって鈴木の活躍の場を広げることになった。しかし、自らが回想するよ うに、彼の仕事の中には、分野は変わったものの一貫して戦前からの「生活綴方」と「集 団主義教育」の精神が流れていたと言ってよい。戦後に出版された 50 冊を超える著書 は、①子ども論・子育て論、②しつけ・家庭教育論、③母親・父親論、④学校・教師論、
⑤子ども会論、などに大別できる。
戦後の主要著書をリストアップすると次のようなものがある。(*印は鈴木文庫に収 蔵)
1949 年5月 『こどもから親への抗議──理想の両親のありかた』宮城教育図書出版 協会 *
1949 年?月 『つづり方読本作文勉強の手びき』河北新報社 1951 年4月 『親と教師への子どもの抗議』国土社 1951 年4月 『父母の教育学』国土社 *
1951 年 10 月 『涙もろき母に見せまじ──罪の子の手記』(編)東洋書館 1951 年6月 『生活する教室』東洋書館
1953 年6月 『親と子の新しい規律』国土社 *
1955 年2月 『子ども会──その理論と実際』(但木卓郎が分担執筆)新評論 * 1956 年3月 『子ども会──児童期の子どもの導き方』(但木卓郎が分担執筆)金子
書房
1956 年5月 『母の立場』百合出版 *
1956 年6月 『子どもから教師への抗議』国土社 *
1957 年1月 『女教師──その喜びと悩みを生きて』(編)新評論 1957 年1月 『教師への母の抗議』国土社 *
1957 年6月 『北方教師の記録・増補生活する教室』麦書房 *
1957 年5月 『母と教師に語る──子どものしあわせはどこに』明治図書 * 1958 年1月 『子ども会』(但木卓郎が分担執筆)新評論
1958 年?月 『母と教師に語る──子どものしあわせはどこに』明治図書 1958 年2月 『愛情と知恵のしつけ』麦書房
1958 年?月 『忘れられない感動の話──ここに教師のよろこびが』麦書房 (丸岡 秀子と共編)
1959 年6月 『親の世界・子どもの世界』新評論 *
1959 年8月 『母と子で考える<母と子の作文>』(編)東北出版株式会社 * 1959 年 12 月 『実話・子どもの導き方』国土社 *
1960 年?月 『母と子の小さな物語』至誠堂 * 1960 年3月 『生活の知恵のしつけ』麦書房 * 1960 年 11 月 『綴方物語』宮城県農業普及協会
1961 年7月 『地域子ども会入門──』(遠藤実が分担執筆) * 1962 年3月 『かしこい母になるために』明治図書 * 1963 年6月 『父親復興──新=子どもの抗議』国土新書 * 1964 年9月 『親と教師への子どもの抗議』国土新書 *
1966 年4月 シリーズ・現代家庭教育新書 16『ほめてよいこと・わるいこと』明治 図書*
1967 年9月 シリーズ・現代家庭教育新書 27 『成功したわが家のしつけ』(編)明 治図書
1967 年9月 『日本の子どものしつけ』国土社 * 1968 年?月 『小学生の家庭教育』明治図書
1968 年3月 『わが子へ このひとことを』明治図書 1969 年7月 『いたずら時代の人間形成』新評論
1970 年3月 シリーズ・現代家庭教育新書 42 『親の生き方・子の生き方』明治図書
*
1970 年9月 『ああ国定教科書──怒りを懐かしさをこめて』文化出版局 * 1971 年 シリーズ1 愛情を育てるために『名作にみる子どものしつけ』明治図書 1971 年 シリーズ2 意志をきたえるために 『名作にみる子どものしつけ』明治図
書
1971 年 シリーズ3 道理をつらぬくために 『名作にみる子どものしつけ』明治図
書
1971 年 シリーズ4 信頼を育てるために 『名作にみる子どものしつけ』明治図書 1971 年 シリーズ5 正義を高めるために 『名作にみる子どものしつけ』明治図書 1972 年 10 月 『愛情と知恵のしつけ』明治図書
1972 年 10 月 『鈴木道太著作選』1巻、第2巻 明治図書 * 1972 年 11 月 『鈴木道太著作選』3巻 明治図書
1973 年3月 『幼児期の親と子』明治図書 *
1974 年?月 『子どもが親を嫌う時2(小学生の作文から)』明治図書(戸田唯巳・
平野或共著)
1975 年2月 『戦後子どもの考えはどう変わったか』明治図書 * 1976 年8月 『親の生き方・子の生き方』明治図書
1976 年?月 『心かよう村人の生き方』 明治図書
1979 年3月 『続・こんな親なら教師なら』明治図書(松下竜一と共著)
1981 年9月 『叱ってよい時わるい時』明治図書 * 1981 年?月 『風の中の旗手たち』仙台きた出版
以上は、鈴木道太の単行本のリストであるが、鈴木は、戦後の社会・教育・文化の 民主化への動きを背景に、毎年のように単行本を出版しているが、その合間にも子ど もと教育にかかわる主要な講座や論文集に原稿を寄せるとともに、多くの教育関係雑 誌や新聞にも鈴木の論文や評論が掲載されている。その仕事量の多さには、驚嘆せざ るを得ない。獄中で反芻し煮詰め体内に理論と信念を蓄積した鈴木は、戦後社会の民 主化の潮流に乗って、まさに水を得た魚のように、八面六臂の活躍をした稀有の人物 といえよう。鈴木の業績をすべて集約し整理することは今後の課題であるが、ここで は雑誌原稿にみる戦後スタート時の活躍のほんの一部を紹介しておこう。
〈雑誌論文〉
1950 年 「農村の子どもの世界──子どもの幸福は守られているか?」『教師の友』
1951 年 「北方の子どもと教育」『教育』
1953 年 「お灯明代の保護──貧困児の教育はいかに守られているか」『児童心理』
など
〈共同執筆・分担執筆〉
1952 年 「他律と反動の克服」『戦後教育の功罪』海後勝雄他編 黎明書房
1953 年 「生活詩の問題について」『児童生活詩の理論と実践』鈴木道太・寒川道夫・
滑川道夫他編 青銅社
1954 年 「教育環境を形成するもの」『児童問題講座3 学校編』 長田新・城戸幡太 郎・羽仁説子監修 新評論社
1954 年 「学習を妨げる家事労働」『児童問題講座2 家庭編』 長田新・城戸幡太郎・
羽仁説子監修 新評論社
1956 年「地域的な組織においての生活指導──主として「子ども会」について」『明 治図書講座 学校教育 11「生活指導」など
2.鈴木道太はどのように描かれてきたか──先行研究の整理 1)事典・辞典における鈴木道太
「鈴木道太」については、教育関係の事典の中で取り上げられて、その人物紹介がな されている17)。たとえば、「民間教育史研究会」大田堯・中内敏夫編の『民間教育史研 究事典』(評論社、1975 年)には中内敏夫により次のような解説がなされている。
「〔役割〕宮城県に組織された千葉春雄の全日本綴方倶楽部系統のサークルとして出発 した国語土曜会(1930 年)、国語日曜会(1934 年)などを舞台に、生活綴方の定型の一 つを創り出した教師。その生活綴方の実践は、生活秩序のたてなおしの仕事(この仕 事を“集団主義教育”のちには“生活教育”とかれは呼んだ)と結びつけて行われた 点に特色をもつ。生活教育論争にあたっては、たとえいかにカリキュラムを改造しても、
綴り方なくしては「仏作って魂入れず」に終わると主張して、もっとも徹底した綴方 教師解消反対論を展開したことで有名。
〔経歴〕宮城県白石町生まれ。本名、鈴木銀一。1927(昭和2)年宮城師範学校卒。
同県宮城郡七郷村荒浜小学校に赴任。翌年、同期生らと語らって国語教育研究サーク ル国語土曜会をつくる。また校区の青年団に働きかけて読書サークル青穹会を、壮年 層に働きかけて農村研究会を組織。この間、雑誌『赤い鳥』の運動、ついでマルクス 主義の影響をうける。32 年柴田郡村田小学校に赴任。この年県下にプロレタリア教育 弾圧事件が発生、転向、国語教育研究に専念すべく菊地譲の『国語教育研究』のグルー プに入る。同年 10 月、個人雑誌『教育評論』を発行。ついで亘理郡吉田学校小学校に 転任、文集『手旗』を発行、綴方教師のあいだにその存在を知られるようになり、北 日本国語教育連盟に参加。37 年、柴田郡入間田小学校に不意転、1 年で村田小学校に再 赴任。40 年 11 月 20 日未明、綴方教師弾圧時事件で検挙され、有罪、宮城刑務所で実 刑に服する。43 年 10 月、出所、地方公務員の生活に入る。第2次世界大戦後は生活綴
方の復興に関与する一方、児童福祉司として活動。
〔研究〕ドキュメントとして、『生活する教室』(1951、東洋書館、増補版『北方教師の記録』
1957、麦書房)、『いたずら時代の人間形成』(1969、新評論)
中内の「鈴木道太」解説は代表的なものだが、鈴木道太が取り上げられる場合の特徴は、
「教育史」において戦前期の業績、生活綴方教育、生活教育、集団主義教育、北方性教 育運動の中での歴史的役割に焦点づけられており、戦後の鈴木の歩みと業績について はほとんど触れられていない。戦後の業績に注目される場合も、「子ども会」における 業績に目が向けられる程度で、しつけ・家庭教育・子育て問題における先駆的業績は捉 えられていない。さらに目が向けられていないものに児童福祉分野の仕事があり、ソー シャルワークにおける貴重な草分け的実践にはいまだ研究的な光が当てられていない ことが分かる。
2)先行研究をめぐって
鈴木道太の業績の評価についての代表的文献としては、中内敏夫『生活綴方成立史研 究』(明治図書、1977 年)がある。中内はこの大著の中で、随所に鈴木道太をとりあげ ているが、「『協働社会』論と生活綴方──綴方教師の共同体思想」(pp.747 - 755)の中で、
学級での綴方実践にとどまらず、村落における子どもの生活・労働・遊びへの実践的ひ ろがり、さらには村の青年や壮年層とのかかわりなど「はみでた」部分の生活教育を重 視していた点に注目している。また当時のプロレタリア教育が村の共同体的遺制を否定 的に捉えていたのに対して鈴木の実践には共同体的習俗に対する開眼と評価の視点が あり、共同体的遺制を積極的に利用しての村の組織づくりであったと分析をしている。
また、海老原治善も『現代日本教育実践史』(明治図書、1975 年)のなかで、鈴木道 太の業績にふれている。海老原は鈴木道太(pp.520 - 524)や佐々木昂・国分一太郎・
加藤周四郎らの実践を取り上げる中で北方性の教育実践は「まず、第一に、生活意欲性 のほりおこしの着手から出発し、第二に生活知性の獲得がめざされ、第三に、労働、集団、
協働を軸に、学級の生活が組織され、第四に地域生活の改善までが意欲的にとりくま れるといった道筋の実践だった」と総括している。1938(昭和 13 年)5月号の「教育」
誌上の座談会において、城戸幡太郎・留岡清男らに対して佐々木昂とともに、子ども たちがかかえる生活の困難への関わり「はみ出た教育」の必要性、生活教育の意義を語っ ていた。鈴木は生活綴方教師が学校の外・地域に出て子どもの生活にかかわり労働や 生活を組織するとりくみの必要性を語り「はみ出て来たところ」への注目を語ったが、
海老原著の「4.はみでた教育」(pp.743 - 748)のくだりは、生活と教育、福祉と教
育の関連の今日的課題から見てもきわめて興味深い評価である。
山田清人はその著『教育科学運動史』(国土社、1968 年)において、鈴木道太が書い た回想記の「生活の感動(北方教育への胎動)」(pp.76 - 78)を紹介しつつ、鈴木らの 生活綴方実践を「現場における“教育科学”性の成熟」としてとらえている。
また、戦後の生活指導研究を先導した宮坂哲文も、生活綴方から生活指導概念や集団 主義教育に至る過程の検討において、鈴木道太に注目している。宮坂の代表的な著書
『生活指導の基礎理論』(誠信書房、1962 年)の中で、「北方教育における生活指導概念」
とならんで、「昭和初期の『集団主義教育』-鈴木道太と野村芳兵衛」という小見出し の節(同著、pp.84 - 88)がある。宮坂は、そこで 1932(昭和7)年7月号の『教育論 叢』誌の鈴木道太論文「学級・集団・技術──集団主義教育の理論と実際」をとりあげ、
「綴方教育のなかで『集団の共感』を育てるといった発想とはまったくことなった教育 観があらわれている」「彼の集団主義教育への志向は明白である」(pp.86 - 87)と述べ ている18)。また鈴木の理論が、学級集団づくりにとどまらず、地域の子ども集団への ひろがり、つながりの中でとらえられていたことに注目している。
ところで、多くの先行研究が注目している鈴木道太の論文「学級・集団・技術──
集団主義の理論と実践」は、1932(昭和7)年『教育論叢』誌において「集団的教育方 法の具体案」というテーマの懸賞論文として投稿された 64 篇のうちの3等に当選を果 たしたものであった19)。鈴木のこの論文を日本における「集団主義教育」の先駆的実 践と思想の源流として見る立場に大橋精夫の「我が国における集団主義主教育思想の展 開」(小川太郎編『講座集団主義教育の基礎理論1』、明治図書、1969 年9月)がある(同 著 pp.166 - 171)。また杉山明男の『集団主義教育の理論』(明治図書、1977 年)でも、
「生活綴方実践者の志向」として、村山俊太郎と並んで、かなりのページを割いて鈴木 道太の実践とその評価を行っている(同著 pp.285 - 303)。その際、引用されているのは、
やはり先の懸賞入選論文と『北方教師の記録』(麦書房、1957 年)、『生活する教室』(東 洋館、1951 年)である。
鈴木のこの論文を、どう位置付けるかについては、さまざまな評価がある。中内敏夫 の『生活綴方成立史研究』では、鈴木自身は「集団主義教育」と名付けているけれども「開 明的な知識人」による村の共同体的遺制を積極的に活用しての村の組織づくりであっ たと評価(p.752)していることは先に紹介した通りであるが、鈴木の荒浜小学校時代 の実践とそれにもとづく理論化を、今日的にどう評価すべきか、再検討が必要ではな いだろうか。