NEWSLE7 7ER 1 993. 2 No. 13
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㈹ 神奈力
KANA
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AWAバスク民族主 義 とバスク語
スペ インは 「ひとつの祖 国に複数の国民が存在 す る所」 といわれる。住民 にはスペイン国民 とい う意識 は稀薄であ り、出身地‑の帰属意識が圧倒 的に強い。それ故 に、スペインの歴史は統一性 と 多様性、即 ち国家主権 と地方 自治 をどう調和 させ るかをめ ぐる葛藤の歴史であった といって よく、
「国家 とは何か」 とい う問いか け‑ の解答 を模 索 しなが ら今 日に至 っている。 とりわけバスク地方 とカタル一二ヤの 自己主張 は他の追随 を許 さぬ激 しさを保持 して きたが、その主な拠 り所 は個有 の 言語 にあった。そのため、中央政府が地域分立主 義 を弾圧 しようとす る場合、その鉾先が言語の圧 殺 に向か うのは当然 のことであろう。
事実、 フランコ独裁体制 をとってみて も、その 中央集権化政策 によって、 これ らの地域の言語 は 大 きな打撃 を受け、民主化後17年 を経た今 日で も その後遺症 に悩 まされている。40年 にわたるその 弾圧 は徹底 してお り、「帝国の言語」 であ るカス テ イ‑ リヤ語 (日本でスペイン語 と称 されている) のみの使用が公私 ともに強制 された。地名、人名 は変 えられ、印刷物 も厳重 な検 閲を受け、土地の 言葉で書かれた書物は図書 、本屋、私宅か ら没収
され、焼 き捨て られさえもしたのである。
だが、 この弾圧 はカタル一二 ヤ語 よ りもバス ク 語 に大 きな影響 を与 えた。筆者 はフランコ時代 に バスク地方で苦学 していたが、バスク語 を知 らな いバスク人の多 さに驚か された ものである。彼等 の家 に行 けば、バスク古来の民謡の レコー ドをか けてその音楽の素晴 らしさを熱 っぽ く語 って くれ る。だが本人はメロディーを口ず さむだけで、そ の歌詞 もいえず意味 も知 らないのだ。彼がバスク の大義 を熱弁すればす る程、バスク語 を知 らない 心 もとなさ、後 ろめた さが見 え隠れ して、痛々 し
しい
藤 田 一成
ささえ感 じた ものである。 これはテロ行為 を繰 り 返す過激 な民族運動 に対応 して一層過酷 となった 弾圧の結果であったが、また ヨーロッパ の言語 と 全 く異質な起源不明のバスク語 の難解 さに辞易 し て習得意欲 をそがれた り、狭 い地域 に しか通用 し ない とい う実利的な面か らも敬遠 されが ちであっ た ことの結果で もある。
19世紀後半 に勃興 し現代 に至 る近代 的なバス ク 民族運動 は、 自らを規定す る最大の拠 り所 をバス ク語 にお き、バスク語 を話す住民の多い地域 をバ スク地方 とした。 3県 より成る現在のバスク自治 州 もそれ以前 にバスク人が民族 国家 として実効支 配 を したことはな く、その領域 は極 めて人為的に 策定 された ものなのである。この ような言語の重 要性 に もかかわ らず、バスク語 の普及率が十分で ない とい う現実はバスク民族主義 にとって由々 し い問題である といわねばな らない。バスク語常用 者の割合 はギプス コア県で45%、 ビスカヤ県で15
%、アラバ県 に至 っては10%にも達成せず、バス ク自治州の枠外 にあるナバラよりも低 く、カタル一 二ヤ語 を理解で きる者が9割 をこえるといわれる カタル一二ヤとは著 しい対照 を示 している。
バスク民族主義 は、バスク語 をその根幹 にす え なが ら、歴史的に存在す る根拠の暖味 なバスク国 家の建設 を最終的な 目的 としている。だが、バス ク語が住民 を結ぶ杵 とは必ず しもな りえていない とい う矛盾 した現実 を今後 どの ように克服 してい くのだろうか。バスク民族運動 は、フランコ以来 の主役であった武闘派が勢力 を失 うなかで、重大 な岐路 に立た されている。