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「社会進出」と教育科学

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戦時下における女性の

「社会進出」と教育科学

佐 藤 広 美

はじめに

 戦前の民間教育研究団体の最後の拠り所となる教育科学研究会(以下教科研 と略す)は,岩波講座『教育科学』(1931年〜33年)の刊行をその運動の母体と して出発する。この講座の付録として出されていた『教育』を独立の雑誌とし て刊行するのが1933年4月からであり,城戸幡太郎と留岡清男らがその編集に 携わり,この読者を中心としてつくられた研究組織をもとに,37年5月に教科 研が発足する。そして39年第1回の全国協議会を開き,事務局体制と研究部会

を整備し,全国組織に再編成していった。

 教科研は,社会の現状から離反する従来の観念的教育学を批判し,教育の事 実の実証的研究をすすめ,教育内容を中心とする教育改革案を提示し,教育科 学の創造を志向してきた。『教育』創刊の辞の書き出しは「教育は,今日その将 来の動向について甚だしく戸迷ってゐる。教育はもはや教育内部の理念を以て

しては自立することが出来なくなり,急激に進展する社会のテンポを追うて,

次第に広まりゆく社会の戦線に参加することを余儀なくされてゐる。」(1)であっ

た。

 しかし,教科研はけっして反体制の研究団体ではなく,1940年に「新体制運 動」への積極的協力を表明し,委員長の城戸と幹事長の留岡は大政翼賛会に参 画していった。40年4月の教科研綱領は,「国家の課題を達成せんが為の政策と の関係に於いて,教育刷新の根本的指標を確立せん」(2)ことを掲げていた。

 城戸は『教育』創刊10年目の年(1943年),雑誌『教育』は「社会戦線の第一

線に立って教育の理論を実践とに科学性と企画性とを与え教育国策の樹立に協

(2)

力しようとしたのであった」と,その果たした役割を振り返っている。彼は,

「協力」とは単なる国策の宣伝のみを意味しないとした。すなわち,政府にも 誤りがあり,これを見抜き,これを正し,政策検討の参考に資することこそ『教 育』の目的であるとし,それが国策協力に対する教科研固有の任務であったと

した(3)。教科研の「体制協力的な政策批判」という特質がここに端的に示されて

いる。

 教科研は,何故,新体制運動を積極的に担い,国策協力にたいする能動性を 見せたのだろうか。筆者はすでにこの問題について,いくつかの論文を発表し てきた(4)。本稿は教科研の女子教育論の展開を軸に,『教育』に集った女性たち

との思想的運動的交流を踏まえこの問題を検討していきたい。

 ここで女子教育論を取り上げる理由はなにか。

 城戸は先に引用した部分の後に,『教育』は「昭和十一年頃までは一般教育や 教科研究の如き学校教育に関する問題が,多く取扱はれてゐたが,それ以後は 急激に減少し,それに代って青年教育殊に女子教育に関するものが多くな」⑤っ たとのべていた。「社会戦線への参加」(1933年『教育』創刊の辞)から「国家 政策への参加」(40年教科研綱領趣旨)という教科研の運動の軌跡を分析するう

えで,女子教育論は検討に欠かせない対象の一つだったのである。

 日中戦争勃発以後(1937年),国民精神総動員法以下数々の動員法によって,

女性の活動領域は否応なしに拡大されていった。戦争は国家総力戦の様相を呈 し,あらゆる面で国民の総力を動員することが求められた。女性もまた,総力 戦体制下に組み込まれ,体制を支持する能動的な一員として期待され,それに 呼応せざるをえなくなる。後に触れるように,女性は戦争の長期化に伴う男子 の労働力の枯渇を補う労働力の確保と早期結婚・多子多産の奨励など人的資源 の確保の政策に応じていく。また婦人運動の指導者は,政府の中央委員(大政 翼賛会中央協力会議への参加など)や地方の行政機構の役員に起用されていく

(「婦人国策委員」の登用)。戦時体制下,「家」に閉じこめられていた女性の多 くは,職場,地域,行政機構へとこれまでになく社会に「進出」しはじめたの

である。

 この女性の「社会進出」は,これまでの家族国家観による「家」制度の護持

(3)

と「家」を通して間接的な国家・公共への貢献を促す伝統的な良妻賢母主義の 女子教育理念と明らかに矛盾した。しかも女性の労働力の確保と次代の国民の 育成という人的確保の要請は両立しがたい内容をもっていた。また,「婦人国策 委員」の誕生は,女性の社会的発言の好機と捉えての国策機関への参加ではあっ たとしても,戦争協力の推進に「差別なく」女性を組み込んでいく役割の一端

を担ったのではないだろうか(6)。

 教科研で展開された女子教育論は,はたしてこうした矛盾を含む事態をどの ように議論していただろうか。すでに述べたとおり,教科研は,当時の女子教 育政策に無批判ではなく,たとえば女子労働の劣悪な条件の改善や個性に応じ

た職業指導の提言をし,家事科の男女共学を指摘している。しかし,こうした 指摘は上記の女性をめぐる矛盾した社会状況を捉えての発言であっただろう か。教科研が,何故に戦争と国策動員のための女子教育政策を支持していった かを探るためにも,この分析は重要な課題である。

 この課題を果たすうえで,とりわけ次の事実に注目したい。一つは,婦人参 政権獲得期成同盟会(婦選同盟)と教科研との交流についてである。婦選同盟 の市川房枝は「教育改革同志会」を仲立ちの舞台にして,城戸や宮原誠一,宗 像誠也らと共に女子教育の制度改革について議論しており,また双方の機関誌 である『女性展望』と『教育』にお互いのメンバーが登場するなどして協力関 係をつくっていた。その市川は,1940年4月に国民精神総動員中央本部参与に,

41年5月に大政翼賛会調査委員会委員に就くなどして積極的に権力機構に参画 している。教科研の女子教育論を国策協力の線にそって分析しようとする場合,

運命をともにした婦選同盟との関連を問うことは重要な意味があろう。

 二っ目は,しかしその一方で,『教育』には女性の「社会進出」や権力機構へ の参入を無条件に肯定することなく,厳しい批判の目を向けていた女性が登場 していることである。山川菊栄(7)や宮本百合子がそれにあたる。教科研の周辺に 権力機構への参入にたいする批判的態度を表明していた人物がいたという事実

は重大である。ここでは,特に宮本百合子の評論をとりあげて検討してみたい。

百合子は,41年1月,婦選獲得同盟が40年に解散し,新体制運動に吸収された

ことを,その後の婦人の政治的自覚を期待するうえで「大きい深刻な痕跡を刻

(4)

み」⑧つけたと述べている。一方,城戸は同年11月,これまでの婦人運動は自由 平等論や解放運動であったが,これからは「国家に対する男女の職能」を明ら かにし,「国民運動の一一ee」をなすべきとした(9)。両者の違いは歴然であり,彼 女の評論は新体制運動へと向う教科研に問題を投げかけていたことは明らかで

あった。もし,教科研がこの百合子の問いかけを受け止めていたなら,国策協 力ではない別の道が存在していたのではないだろうか。この点の解明も重要で

あろう。

 先行研究はこの意味で十分とはいえない。教科研内部に設けられた家事科教 育委員会(同部会)や城戸,宗像が中心となって設立した国民生活学院(1942 年)を詳細に研究したものに高木葉子や橋本紀子の研究がある(1°)。両研究は,

教科研の家事科研究が「国策協力の線上にあった」ことを指摘するが,何故国 策協力へと歩んだかの検討は十分出来ていない。国家的要請に従属しない家庭 科教育を構想するうえで,両者の研究はまだ課題が残されている。

 中鳥邦の責任編集に『近代日本女子教育文献集 第III期』の『解説』(11)があ り,『教育』掲載の主立った女子教育論の解題が載っている。同解説は教科研の 女子教育論を知るうえで良き水先案内であり,時代の推移において国策協力に すすむ教科研の姿を教えてくれているが,複数の解説者からなるように一貫し た問題意識と論理構成で書かれているわけではない。

 以下,1940年を前後する時期に焦点を当てて,教科研が新体制運動に能動的 に係わっていく必然性とその問題点を,市川や百合子らとの理論的交流を交え

て明らかにしていくことにする(12)。

第1章 教科研の女子教育論の展開と新体制運動への参入

第1節 家事教育委員会(家事教育部会)と「家事科」批判

 教科研が1937年5月に発足してすぐ,家事教育委員会は五つある部会の一つ

生活教育部会(部会委員に留岡清男,宗像誠也)に属し,活動を開始した。同

委員会は,1937年6月から翌年の3月までほとんど毎月例会をもって研究を行

(5)

なっている。この活動の経過と成果については高木と橋本の研究に詳しいが,

たとえば,1937年7月に山田文子(小学校教員)が「家事科研究コースの研究 プラン報告」(13)を,1937年10月に宗像誠也が「ヘッツェル『児童と貧困』の梗 概」(14)を行なうなど,例会は活発であった。

 さまざまな地域と階層における生活実態の解明への努力が行なわれ,生活程 度の考察力の形成が課題であるとの自覚が例会で確認された。

 1939年8月の第1回教育科学研究協議会の開催以降,全国組織となった教科 研は,いままでの5つの部会を13の部会に編成替えし(家事教育部会となる),

「国民教養の最低必要量」が各部会共通の課題となり,家事教育部会もこのテー マにそって研究を引き続きすすめられていく。40年8月開催の第2回協議会で は,11の研究協議事項の一つに「家事の問題(芸能科)」が設けられ,家事部会 が「国民学校芸能科家事に対する要望事項」を提出し,「総合教育の立ち場に立 つ家事教育」など五つの報告が出され,討論が行なわれた(15)。

 これらの研究活動では,家事科の教科書分析が重大な関心となっていた。す でに,実際生活の適応をめぐって女子の家事科は問題になっている。海後宗臣 は,高等女学校の学科課程の歴史を分析しつつ,今後の学科課程改革の課題を 述べている。彼は,「中学校の学科の程度を低くし,それに家事と裁縫を付加す れば高等女学校の学科が構成されるといふ六十年来の伝統に対し第一に反省を 加ふべき」とし,女子の実際生活の仕事に従って教育内容は編成される必要が あるとのべ,しかし「それは今日の家事,裁縫,手芸,作業などの時間を漫然

と増したのではこのような結果に到達するものではない」㈹と指摘している。

また,1939年頃より保育問題研究会に参加していた帯刀貞代は,今日の家事科 の問題は「従来の教育がとかく知識の単なる集積であって,実際の生活に活用 し得る技術として体得せられたのではなかったことに対する批判に,同様逢着 しなければならなかった」としている。帯刀は,初等総合教育のために一定の 基準を創りつつある教科研の態度に「予ねてから敬意を表してゐる」とのべて

おり,さらに女子の科学的精神が「日常行為の洗練性や情味の豊かさ」に矛盾

するものとの考えが男子にあるのは遺憾とし,それらはむしろ「科学的精神に

貫かれた日常生活の上にこそ,花咲くべきもの」(17)としていた。

(6)

 ではこうした実際生活に即応出来る家事科の改革への期待に対し,教科研は どのような議論を積み上げていたのか。難波しなは,研究部会の成果を踏まえ つつ,国民学校高等科の家事科の教科書は「我国中流の,理想的生活の諸様式 なのである」とし,実際の生活からみて「無縁な教材」に映る子どもたちの存 在を指摘している( 8)。高等女学校用家事科教科書を調査した黒川喜太郎は教科 書が対象とする家庭生活は「少なくとも月収五百円以上の家庭」(19)であること

をのべ,あるいは,古木弘造は,女学校の教科書には「月収三百円以上の家庭 にのみ許される如き教材」が配列されているとする(2°)。民衆レベルの生活実態 にあった家事科教材が必要とされたのであり,衣・食・住を含む国民生活を調 査しその最低生活の標準を設定することが課題とされた。

 留岡清男は,家事科教科書の構成は家庭生活をその構成要素に分解して,切 れ切れに配列しているに過ぎないとし,総合的に理解させることが困難である

としている。そして,社会的階級の相違を無視することなく,現状にたいする 宿命観に陥らず,「種々異なれる社会階級の家庭生活を比較し合うことによっ て,標準家庭生活に接近することを妨げているところの色々な障碍を検討し,

そこからそれらの障碍を克服する」(2 )方法の認識の形成こそが課題としてい

る。

 難波はまた,家庭生活に無頓着であることの多い男子であれば生活者として の資格を得るためにも家事科を受けさせるべきと提言している(22)。技術教育部 会に所属していた細谷俊夫は,教科研解散(41年4月)後の42年5月に高等女 学校の教員養成問題に触れつつ,「男子教員が家事裁縫の教育に関与することが 望ましいと同時に,女子教員もまた家事裁縫のみに立籠らず,その科学的基礎

を啓培する数学理科の教育に十分な理解とを備えて両者の有機的連繋を図るこ とは,女子教育を生気あらしめる」(23)方法であるとのべた。教科研はこうして家 事科の現状を批判した。

 しかし,教科研のこの研究は総力戦体制の確立と無関係ではなかった。

 教科研は,現実の家事科では全く実際の家庭生活からかけ離れて無力であり,

現状の克服は個人の努力や工夫ではもはや困難であって,国民相互の「共同」

した取り組みが必要であると考え,家事教育の目標を家庭生活中心から国民生

(7)

活の理解と訓練とに拡大することを提起する。たとえば,先の古木は,「従来の 家事科に於いては,経済といへば専ら家庭の消費経済に局限されて収入の増加

を如何にして計るべきかの積極的方面は顧られず,… 消費組合,購買組合,

公設市場乃至は医療組合等の社会的施設を利用して共同による経済的改良をは かることについては殆ど考へられてゐなかった」(24)とのべている。留岡は「個々 の操作や技術の修得よりも,むしろ共同化の制度と施設とに対する理解と訓練 が重要視されなければならな」(25)いとし,家庭生活は「私生活の範疇からはみ出 して国民生活の範疇に入りこまざるを得なくなった」(26)との状況認識を説いて いた。利潤追求を抑制する生産と消費と配給とに関する新しい生活機構の創出 であり,生活の「合理化」と「共同化」を提唱したのであった。

 留岡のこの主張は1940年7月刊行の『生活教育論』で展開されたものだが,

彼はさらに「この場合の国民生活といふ言葉は,単純に全体主義の思想から割 り出して,国民の生活の全体の総和であるとか,又は国家に奉仕すべき一元的 生活である」㈹といった観念で捉えてはいけないといっている。あからさまな 国民生活の国家目的への強制的同一化に対する留岡の批判的考えがここに反映 されていた。しかし,同時に,彼は生活問題の取り上げ方は「階級生活から国 民生活へ移行」(27)せざるをえないとも述べている。そして,翌1941年の4月,留

岡は「一君万民の国体の本義に徹する国民的信仰は,今日国民生活を再編成す べき危機に直面して,国民をして惜気もなく利益本位主義の職業生活を一榔せ しめ」つつあるとし,「私達の臣民実践は従来無秩序のままに放任されて来た生 産,配給,消費の一連の国民生活を,新しい企画と組織とに再編成すること」(28)

が課題だとする。国体の本義に基づく皇国民錬成のための「共同体」の確立(29)

を説くのであった。この時すでに留岡には強制的同一化に対する批判意識はな く,結局,生活問題の「階級生活から国民生活への移行」という指摘は,「皇国 民錬成の共同体」へと帰着するのであった。

 また,家事科の男女共修を説いた難波も,生活の新体制は「国力培養のため の,民族発展のための,基礎工事であ」り,個人生活という狭い範囲でなく,

「大きな国家経済の立ち場」㈹から家事科の当面する課題を設定する必要を主

張していた。難波は,生活の合理化の促進を新体制運動に期待し,家事科の果

(8)

たすべき役割を考えていたのである。

 こうした教科研の家事教育研究は,明らかに「国策協力の線上」にあり,「反 体制,抵抗の運動であるとは言えない」(31)であろう。教科研の「共同化」の提唱

は「皇国民錬成の共同体」へと突き進むことになる。教科研のその後をさらに 検討していこう。

第2節  「生活科学」研究から「日本婦徳」の強調へ

 1941,42年頃より,「生活科学」の確立が主張されはじめた。生活科学とは,

国民生活の科学化,合理化をはかり,体系的に裏づける科学の確立を目指すも のであった。戦争は長期化の様相を示し,生活物資の窮迫や戦時労働の強化は 着実に進み,戦時体制の強化は国民生活の圧迫と低下によってまかなわれてき た。総力戦体制の重圧が国民生活の細部にまで及び,その再編と合理化が焦眉 の課題となってきたのであり,生活科学はその要請に応えて登場してきた(32)。

 その生活科学は,生活の合理化,科学化をめざすものであって,個々人の生 活における浪費や非合理性といったものに問題の原因を全て解消し,精神主義 的要求でもって国民生活を規制しようとするものではなかった。それはすぐれ て生活という「実際的問題」の処理を扱うことを自覚していた。「生活の共同化」

という先の留岡の主張は,この生活科学の理念につながる発想とみてよいだろ

う。

 しかし,生活科学を成立させた戦時体制そのものとの関連が問われなければ ならない。総力戦体制へと組み込まれその確立を担った生活科学にたいする提 唱者自身の吟味が必要であった。

 41年5月,「科学技術新体制確立要綱」が閣議決定される。この「要綱」の第 12項には「国民体位ヲ向上セシメ戦時生活ヲ維持スルニ必要ナル国民生活ノ科 学化ヲ図ル」(33)とある。同年8月,厚生省の社会局は生活局に,体力局は人口局

に改称された。小泉親彦厚生相はこの改正につき,生産の一面としての消費の

積極的意義の心掛けを「世の細君」に向かって説き,川村初代生活局長は生活

局が「国民の側に立って」努力することを談話発表している(34)。こうした政策

動向に応じて民間団体が成立していく。41年7月,速水滉を主宰者とする財団

(9)

法人「国民生活協会」が,9月に大河内正敏の「国民生活科学化協会」が,12 月に「日本生活科学会」が発足していく。そして翌42年の4月,国民生活協会 は城戸と宗像を中心に「国民生活学院」と「同付属生活科学研究所」を創設す る。この学院は高等女学校卒を入学資格とする各種学校で,国民生活の現実に たいして科学的な企画力を有する婦人の養成を目的とするものであり,教科研 解散後,城戸,宗像らはこの学院を足場に生活科学の実践と創造をすすめてい

く。

 城戸は,「生活主体を認識の根拠とする」のが生活科学であり,「その対象を 先づ歴史的・国民的自覚態としてのわれらの生活問題として把握しなければな

らぬ」とのべる。さらに「生活科学は単に自然科学的方法によって生活を合理 化することではなく,国民に対する生活政策の科学的企画を樹立し」「国民の新 生活運動を指導するための教育計画を樹立することが重要な方法でなくてはな

らぬ」(35)とした。日本生活科学会に出席した宗像は,学会の成立を歓迎しつつ,

今後期待すべきことは生活科学体系論のような書物ではなく,国民生活を合目 的的たらしめる政策の樹立と教育指導が出来る生活科学の創造であり,概念分 析でなく事実に基づいた企画が必要であるとし,単なる理論的興味の対象に止 まってはならないとする㈹。本山政雄もまた生活問題を扱う団体が,ともすれ ば行事的部面の改善に重点をおき精神主義に陥る傾向が多いとし,総合生活科 学の樹立のために日本生活科学会に期待をこめている(37)。

 しかし,実際の研究は,たとえば人口問題研究会の活動に対する本山の報告 にあるとおり期待通りにはいかなかった。41年1月の人口政策確立要綱の成立 に大きな影響を与えた同研究会の全国協議会では(41年11月),医学的生理学的 研究が多く発表され,政治経済的および教育的部門の問題を整理し政策上の建 設的提言と批判を行なう研究報告がほとんどなかった(38)。客観的事態は,具体 的な政策提言を行なうことを不可能にしていた。

 具体的政策提言がほとんど蓄積されなかったこととともに,生活科学が強く

国家総力戦の一環として組み込まれた事実も問題であった。宗像は新設の生活

局の狙いは「個人主義的な生活態度を改めて国家目的に合する生活体制を樹立

すること」であるとし,人口政策確立要綱の目標を達するためには,「結婚,出

(10)

産及び育児は,個人の自由に委ねられるべきことではなく,国家機関がその指 導に全面的に乗り出すことが必要である」(39)とした。その人口政策確立要綱は

「今後十年間に婚姻年齢を現在より概ね三年早めるとともに,一夫婦の出生数 平均五児に達することを目的」(4°)としていた。人的資源確保のための女性への 早婚多産の奨励であり,その内実は「性と私生活の国家管理化」であった。生 活科学は強く人口政策に従属していった。厚生省は,41年10月,男子25歳,女 子21歳までの結婚を奨励する通達を出し,42年2月,大日本婦人会はこれに応

じ結婚促進の運動を起こし,43年には25歳以上の男子と23歳以上の女子の未婚 者を一掃することを決める支部までが現れた(41)。宗像はこうした事態を実質的

に許容したといえよう。

 城戸は,42年5月1日からはじまる健民運動(一週間)は国民厚生について の科学的研究を伴う生活科学運動でなければならないとのべる。しかし,今後 の国民厚生事業が社会事業から社会政策へと発展し,国家によって行なわれる ためには「それを通じて国民は天皇の大御心を奉戴する皇道政治の本義を知ら しめねばならぬのである」(42)と説く。生活科学は皇道政治に包摂されていくの

である。

 ところで,女性の「社会進出」の実態はどのようであったろうか。女性たち の多くは労働力の確保政策に応じていった。1939年8月には女子の坑内作業禁 止緩和が決定し,40年3月,「青少年雇用制限令」によって12歳から20歳の女子 が不急産業から軍需産業に就業することが求められた。41年8月の「労務緊急 対策要綱」により,婦人の動員を含む国民皆動体制の確立が図られ,42年5月 には,国民動員実施計画によって未婚の女子の動員が強化されていく。こうし て女性の「職業進出」がすすんでいったが,年毎に強化されるその労働は,未 熟練・長時間労働がほとんどであり,公傷病率を引き上げさせていくのが実態

であった。

 この女性の「職業進出」は,労働条件の改善の要求を生み出さざるをえず,

さらに家族制度を護持する伝統的な女性像との矛盾を拡大していく。しかも次 代の国民を育成する人的資源の確保を要求される女性は労働力の供出の対象で

もあった。この二律背反する状況を当時の女子勤労管理の研究書は次のように

(11)

書いている。

 「其の重大なる使命(人口国策の遂行一引用者)と責任とを負う民族の母な  る女性が大挙労働戦線に就くことによって,其の既に母たる者が分娩や育児  に妨げを生じ,また将来妻たり母たるべき未婚の女子が精神的肉体的に欠く  るところを生ずるようなことがあったら,わが民族の将来は真に由々しきこ

 とになるのである。」(43)

 こうした矛盾を糊塗するために文部省は,一段と「家」と「母性」を強調す る政策をとり出す。41年に「臣民の道」が,42年に「戦時家庭教育指導二関ス ル件」がだされ,国家目的に添う母性の覚醒が強調されることになる。夫婦関 係よりは「家」制度の維持が重要視され,しかも「家」を私的側面において捉

えることは否定されることになった(44)。

 宗像は「日本婦道の確立」こそ女子教育改造の根底であるとし,従来家庭生 活は私事と観念されたが,今日それは個人の恣意に委ねられてよいということ はなく,かえって「国の公器」(45)とされるべきとした。城戸は「これまでの女子 教育における良妻賢母主義は,それが単なる家庭本位の良妻賢母主義であれば,

それは国家本位のものに変わらねばならぬ」(46)とした。城戸も宗像も女性の労 働条件にたいする改善をのべるなど女性の地位向上への配慮を示すが,ともに 女子の国家的責任の重要性を説き,母性が国家目的に添うことで女性の社会的 価値が実現されうることを主張している。

 本山は,「国の人口増強の立場から,国民生活刷新,国民皆労の立場から」女 子教育の改革を主張し(47),45年の5月には,勤労動員が常態化する中で,女子 専門学校は「工場・農村・家庭等生活場面は総て重要なる修練の場とする新し い教育観に立って立案されなければならぬ」(48)とした。数少ない婦人工場監督 官補として女子労働者の科学的調査を発表し注目を集めた谷野せつは(40年),

44年の2月,女子の動員を促進するためには,個人主義乃至自由主義的な生活 態度から国家本位の協同主義に切り替え,生活の協同化を行なうべきだ(49)と述 べるに至った。

 生活科学は,自らの成立基盤そのものの批判的検討を回避し,国家目的に自

らの課題を収敏させることで,国家本位の母性を強調する女子教育政策に巻き

(12)

込まれていくのである。

第3節 女子教育改革と権力機構への参入

 教科研と市川房枝が指導する「婦選獲得同盟」(1924年「婦人参政権獲得期成 同盟会」として発足,25年に改称,40年9月解散,解散後は39年「獲得同盟」

から生まれた婦人時局研究会く会長・市川〉に合流)は女子教育論を中心にお 互いに意見を交換し,相互の機関誌に意見を載せるなど交流を深めて来た。た とえば市川は,37年『教育』に,女教師に参政権獲得の運動を提起し,当然の 権利である婦人の職業進出を妨げるものには婦人共同の敵として闘うべきこと

を訴える論文(5°)を掲載している。また,市川や川崎なつ(婦人時局研究会常任 幹事)らは,教育改革同志会(委員長,後藤文夫)に参加し,城戸,留岡,宗 像,本山,宮原誠一らとともに女子教育改革を論じ,改革案をまとめている。

その市川らは,40年「新体制よ,婦人を認めよ」と主張し,婦選獲得同盟を解 散させ,国策への協力というかたちで,女性の「政治参加」の道を選ぶにいた る。女子教育改革の実現への展望と国策協力についての関連を探るうえで,市 川の採った選択の道の検討は重要である。

 市川は,1940年にはすでに教育改革同志会に常任委員として参加しており,

同年2月に出される「教育制度改革案」の作成に城戸,三木清らとともに加わっ ている。同「改革案」は,37年6月の「教育制度改革案」への加筆訂正を施し て,次のような改革案を提示する。学校の種類は,小学校(6年制),中等学校

(中学校,青年学校),大学校および大学院とし,義務教育は,小学校とさらに 中学校の場合は3年まで,青年学校は男子7年,女子は5年までとする。改革 案は,教育審議会の審議内容を批判し,義務教育の範囲は中学校及び女子を含

めて青年学校までとし,中等教育をもって「国民教育の完成」としている(51)。

41年7月の「教育制度改革要綱」(教育研究同志会)は,「女子のみの大学校を

設け,また適宜男子の大学校に女子をも入学せしめ得るものとする」(52)として

いる。これは37年の改革案にある「教育に於ける男女の機会均等を図り,官立

女子大学校を設置すること」(53)と比べ,大学における男女共学の実現に照らし

ての配慮が窺える。

(13)

 市川は,40年5月から7月にかけて,女子教育全般にわたる改革案を立案す るため,同志会内に女子教育委員会を結成し(委員長は市川),藤田たき,加藤 キイ,川崎なつ,谷野節子,金子しげり,北田容子,平井恒子らを委員に推薦

し,数次の会合を持っている(54)。同委員会では,高等女学校および女子の高等 教育機関の改革問題が中心に議論された。7月2,3日の朝日新聞には教育審 議会の官立女子大学案に対する懇談会の議論の様子が載っており,会合は「す べからく男女共学,機会均等,全大学の開放を即行せよ」で一致したことを知 らせている(55)。また,婦選獲得同盟の機関誌『女性展望』(36年に『婦選』から 改題,41年8月終刊)では,城戸を招き,藤田たき,金子しげり,川崎なつら が女子教育問題の座談会を開き,女子大学問題を論じている。教育審議会にお

ける女子大学への家政学科設置の審議に関わって,城戸は「家事科をどうして 男子がやってはいけないのか。児童心理でも,保健衛生でも男子と共にやって よいではありませんか」といい,それに応えて川崎なつが「そうですとも家事 科とか家政かとかいふもの〉見方を根本的に再検討しなければなりません」と 受けるなどし,座談会では大学の男女共学にまで話をすすめている(56)。

 市川は,その後「教育研究同志会」に籍をおき,その研究同志会のなかの女 子教育委員会に入り,活動を続けている。同委員会は「国民生活の新建設(科 学化・協同化)の観点よりする女子教育刷新方策の討究」を基本主題として,

義務制を含む女子青年学校の拡充強化や女子のみの大学の承認ないし大学にお ける男女共学の可否等を含む議題を審議している(57)。委員会には,川崎なっ,

羽仁節子のほか宗像,宮原,本山ら教科研のメンバーが加わっている。また,

市川は,「興亜教育委員会」にも所属し,「大東亜共栄圏を対象とする日本語教 育の確立」や開拓村に送るべき女子の教育を内容とする「開拓民教育」の審議

に加わっている。この委員会には先の教科研メンバーの他に城戸や留岡,教育 改革同志会の主要な委員が入っている(58)。

 教科研と市川らは教育改革同志会を足場にして,お互いの女子教育改革案を 練りあげ共通項を確認していったといえよう。

 ではなぜ市川は,教育改革同志会に参加していったのだろうか。教育改革同

志会は昭和研究会内にあった教育問題研究会(阿部重孝や城戸らが中心)と一

(14)

体的に活動していた研究団体である。1940年の夏,新体制運動が活発化し,大 政翼賛会の内容について審議していた準備会には,各方面から参考案がいくつ も提案されたが,昭和研究会の提案がただ一つ婦人の問題に触れていた(59)。市 川はこれは婦選同盟の主張とまったく同じであったという(6°)。昭和研究会は新 体制運動における婦人の役割を明確に位置付けており,そのこともあって市川

は,教育改革同志会に参加していったのではなかったか。そして何より大きな 原因であったと思われるのは,この時市川は国策協力の姿勢を明確に打ち出し ており,権力への「参加」を通して女性の「解放」を展望しようとの道を選択

していたことである。

 女性の権利獲得をめざしていた婦選獲得同盟は,「非常時」の到来とともに困 難な立場に追い込まれていた。「満州事変」の1年後の1932年,第3回の婦選大 会では「憲政擁護」「ファッショ排撃」を決議するなどし,ファッショ化への抵 抗を示していたが,やがて37年,市川は「然し,ここ迄来てしまった以上,最 早行くところ迄行くより外あるまい」(61)と戦争体制を支持する姿勢をとりはじ める。獲得同盟は33年,東京市婦人市政浄化聯盟を結成し,34年母性保護法制 定運動を開始し,35年選挙粛正運動を,37年に国民精神総動員運動をそれぞれ 取組んできた。市川らはこれら「官製運動」への参加を女性の公認の政治参加 の場と捉え,そうすることで,「国家のための女性の参加」という思想を準備し

ていた(62)。

 40年,大政翼賛会が発足する前後,彼女は大政翼賛会が婦人を無視している ことはそれだけ翼賛運動を弱めることであり,婦人の自発的協力の意志を挫く ことであって,自分たちの要求を認めぬ以上,高度国防国家体制はその基礎よ り潰れるであろうことを数次にわたって警告した(63)。そして市川は新体制運動 への婦人の正統な地位と参加を要求していき,婦人国策委員として「体制内批 判」に自らの任務を見いだしていった。

 教科研と獲得同盟の国策協力への連携はこうして準備され,実行されていく。

 市川を支えつづけた金子しげりは,37年,『教育』誌上で,日本の女子教育の 貧困を全般的に痛感するとしたうえで,婦人が選挙粛正運動に動員されたが,

「家庭から開放された彼女等が如何に嬉々としてこれらの労務に服したか,い

(15)

かにまじめに事に当たったかは,婦人の運動が男子よりも好成績をあげた事に より粛正運動史上に歴々としてゐる」として,国民精神総動員運動への女子の

参加を呼びかけている(64)。

 40年10月,婦人時局研究会は,9月に解散した獲得同盟の会員を受け入れ,

あたらしい構想で再出発すべく,12月に女子青年講座を企画する。大政翼賛会 組織局青年部副部長の肩書きをもつ留岡清男がその講座の講師の一人として招 かれ,「大政翼賛運動と女子教育」という演題で講演を行なっている。各講演は

「好評」であったらしく,定員70名の予定をはるかに越え,毎回140名に達する 参加者を得て盛況であったという(65)。この講演で留岡は「大政翼賛運動とは私 心を去り国家的立場にたって国民のあらゆる活動,生活を再編成しなほすこと である。女性には特に明日の生産の再生産過程である消費面の担当者としての

自覚が欲しい」(66)と述べている。

 41年8月,『女性展望』の最終号で,宮原誠一は,東京で唯一人の女性校長木 内キヨウの勇退事件(7月10日)について,教育改革同志会の一人として意見

を求められている。木内は39年大蔵省貯蓄奨励婦人講師に任命され,41年6月 には大政翼賛会中央協力会議に出席し報告するなど国策運動に積極的であった が(67),「女教員の地位を云々するなら婦人運動家になれ」という視学の言葉に即 刻辞表を提出したのがこの事件である。宮原は事件の是非は論じないとしなが ら,「教育,翼賛の二路は許されないどころの騒ぎではなく,実社会における翼 賛と結びつくことなしにはこれからの国民教育は成り立たないことになる」と

し「国民教育の部面でいへば,他のすべての重要な国家的職能に共通する望ま しい性格,知識,技能の基礎的過程を教授することが本来の使命であるべき」(68)

とのべ,実質的には木内のそれまでの国策協力の活動を評価する発言をした。

 教育制度上の「男女差別の廃止」を含む女子教育改革案を練りあげていく過 程は,教科研と婦選獲得同盟が国策協力を強化していく過程でもあった。これ

は戦前の女子教育改革案の基本的矛盾として明記されなければならない事柄で

あったろう。

(16)

第2章 新体制運動に対する宮本百合子と教科研

 宮本百合子が『教育』に登場するのは1941年1月号掲載の「主婦の政治的自 覚」の一回であり,それ以前は講座『教育科学』の付録『教育』(1932年)にロ シア・ソビエトの短い紀行文を二つ(69載せているだけである。教科研への関わ りという点からいえばわずかであるが,教科研が百合子に執筆を依頼したこと は重要であった。明らかに百合子の書いたものは教科研に大きな問題を投げか ける内容が含まれていたからである。また,百合子は他の場所で教科研のメン バーと対談をしたり論文にコメントを加えている。教科研が女子教育問題を取

り扱う場合,百合子の存在を念頭においてみることは難しいことではなかった。

少なくとも百合子への関心を払うことで関係を発展させる余地はあったのでは

ないか。

 教科研が女子教育論を展開した同じ時期,百合子は何を見つめ,どういう論 陣を張っていたのか。それが教科研の国策協力という方針に如何なる問題を投 げかけるものであったのか。合法的舞台での発言は直接的表現や明確な批判を 不可能にしていたが,百合子の巧みな表現のうちに,以下その問題を検討して

いきたい。

第1節 百合子の評論「主婦の政治的自覚」が投げかける問題

 百合子のこの評論の核心は,新体制運動が主婦たちを家庭から引き出し,ま た各種の政府の委員会に婦人代表が参加することが多くなったが,これが女性 の政治的向上を真に意味するのか,と鋭く問うたことにある。「政治と教育」を 特集する『教育』の他の論文と比べ百合子の評論はこの点で出色であった。

 彼女は,市川房枝らの婦選運動は満州事変によって「歴史的屈折をよぎなく

され」たとし,それ以後母子保護法の制定に協力するなどの方向転換をし,「時

局に際して一種名状しがたい消極的苦境におかれるに到った」とのべる。国民

精神総動員運動(精動)等の各種委員会への分散的吸収に任せざるをえなくな

り,新体制の声と共に苦闘の歴史を閉じた,とその歴史を振り返っている。そ

(17)

して,公民権さえ獲得し得なかった今日の現実は「主婦たちの政治的自覚を期 待する上に,消すことの出来ない大きい深刻な痕跡を刻みつけ」たとしている。

婦人運動の任務を解放運動から国家の職能的貢献へと飛躍させる城戸とは相当 の開きがある。彼女はまた婦選運動が自らの権利獲得を男の代議士に働きかけ ねばならなかった歴史的制約とそれ故に「旧い政治家的観念に犯されて」しまっ たことをのべ,その結果の姿を「悲しさ」という表現を使い形容し,婦選運動

のもつ落とし穴に言及している(7°)。

 百合子は,精動にとりくむ婦人たちの多くは「事大的な追随を政治的な態度 と思いあやまって」はいないかとし,「政治を意識する方法の低さから生じる非 政治性」を指摘する。主婦の社会的活動への進出を評価するには選挙権などの 政治的権利の保障と裏付けが必要であって,「徒に画一的な,便宜主義の,判断 のない,投票の数をかき集め式な目的をもつ婦人の政治的参加に対しては,婦 人自ら追随を拒む」ことが大切とし,婦人の「政治的成長と云うものは,…

積極的な合理的な人間生活建設の可能をとらえてゆく動的な生活的な叡智・行 動にほかならない」(71)と主張した。これは,新体制運動への協力に女性の「政治 的自覚」を期待することへの厳しい批判であった。

 宮原は,同じ特集号で,ドイツと日本の文化政策を比べ,我国の新体制の情 報局が「民族文化建設への国民の奮起と協力とを促しつつある国家の旺盛な文 化意思を表明するやうな積極面の展示に乏しい」とし,文化・宣伝機構の政治 的機能の強化を述べている(72)。また,留岡は,教科研の会員にたいし「教育者 の任務」を説き,「今こそ教師としての立場を堅持して,大政翼賛運動に乗り出 さなければならない」とし,教育者の職能団体は国家の問題と政策について学 ぶべき課題を優先させ,これを普及徹底することが政治教育の課題だとしてい る(73)。留岡の議論の特徴は,新体制運動への教師の参加は自主的であることが 望ましく,創意工夫ある政治教育の取り組みを教師に許すことの強調であった が,新体制運動への協力という点で教師の「政治的自覚」を促していることは 明らかである。教育を積極的に「政治化」することで実質的には「非政治化」

が進行してしまうという百合子の指摘を,同じように教科研の指導的地位に

あった人々に見いだすことは不可能であった。

(18)

 百合子の評論には明らかに教科研や婦選獲得同盟にたいする批判がこめられ ている。そこでもう少し,彼女の教科研への批判に繋がる評論を追ってみよう。

第2節 百合子の「教科研」批判

 (1)1941年,朝日新聞が企画する「生活科学問答」に百合子は日本労働科 学研究所の桐原藻見と出席し,「職業と性能の巻」(74》を担当した。桐原は教科研 の技術教育部会に所属し,職業教育について多くの提言を行なっている。

 「問い」を発する百合子は,就職先は児童の適性に応じて決められているか,

現在の労働条件は青少年たちの肉体的精神的な素質の萎縮・摩滅を生んではい ないか,女子の適性労働時間はどれくらいか,などを問うている。桐原は,労 働科学研究所の研究蓄積を踏まえて「労働時間を長くすることは決して増産に なりません。労働力を早く消耗するのみです」と答えるなど,適正な労働条件 への配慮を少なからず提言している。しかし問題は次にある。

 桐原は,単調な労働に女子が耐えれるわけは男女の要求水準の違いからくる とし,「男性は仕事によって人間が完成せられ,女性は母たることによって完成 せられるゆゑん」であるし,それは民族のためでもあるとする。女性に特性を 生かし周囲に潤いをあたえ,「小我を捨てて大きなもの5命に従う気持ちを広 め」ることを説くのである。これに対し,百合子は,ある種の仕事では男女平 等の成績が要求され,いざとなると女性を劣視し,早く結婚し子を沢山産めよ

と言われるのでは「あんまり方便で求められてゐるにすぎる」,とすぐさま反論 している(75)。桐原は女性の社会進出と母性の完成とを決定的に対立させている のであり,百合子はこの矛盾を指摘したのである。桐原のこの弱点は根が深い

ものなのか。彼の女子職業教育論をみてみよう。

 1937年,桐原は,「家庭の崩壊は,高度資本主義経済の当然の帰結であって」

「労働者階級の収入が増大しない限り,婦人は致し方なく家を空けて外の労働 にも就かねばらない」し「若い子女も教育を受ける機会を捨てても勤労に従事 せねばならない」と女子労働の経済的原因を指摘する。しかも「世の中には,

漫然とナチス張りに女性よ家庭に帰れ」と説く人々がいるが,「婦人の就労に反

対する事は,婦人の労働の有利な発達を阻害する以外の何者でもあり得な

(19)

い」(76)と女性労働の意義を擁護する。

 女性の職業進出は,労働条件の悪さをもって阻止してはならないとする桐原 であるが,しかし,一方女性は,夫や子を世話しなければならず,その母性の 保護のためにも労働条件の改善は必要とする。しかも,その母性は一家の母で あり,日本国の母性であり,さらに民族の母であって,「この個人主義的母性観 から全体的母性観への転回」こそが女子教育の理念と方法において十分考慮さ れるべきとする(77)。ここには職業進出と母性とを対立させる契機が隠されてお

り,母性を国家的要請に一体化させる意図が現れている。桐原の資本主義批判 は国体を支持する観念と対立することなく同居していた。この同居は時局の進 展とともに国家的母性観の一層の強調となって変質していく。

 39年,女子労働における無味単調さや劣悪さをのべ,仕事と主体との「人格 的結合」の欠如を指摘する桐原は,そこから転じて工場監督者(教師)たちは 女性たちが単に危害から免れるだけではなく国家的感情を呼び起こす高い価値 感情を形成することが大切であると主張する。私的な利益観念から「社会の母 へ,日本国の母性へと」伸張することを教育の中心課題にすえていく(78)。

 そして44年の戦争末期には,勤労を以て直接国家とつながり,決戦下一億団 結の生活を体得し,現代の科学を身につけて皇国女性としての完成を期するこ とを主張する。母性保護もかなぐり捨てて,「勤労=錬成=日本婦道」の確立を 強調するに至るのである(79)。

 このように,国策に応じる女子職業教育論の進展状況(=後退)を桐原に見 るとき,41年の時点で,百合子が試みた桐原への反論は大きな意味があったと

いえる。

 母性の保護が母性の国家的利用へといとも簡単に転換していく。これこそ女 性の「社会進出」が国家へと吸収されてしまう大きな理由であった(8°)。だから 母性保護から国家的母性への強調の移行はそのわずかな兆候であっても注視の 姿勢が必要であった。しかし,当時,このことは容易なことではなかった。

 たとえばある座談会に百合子と共に出席した奥むめお(81)(『婦人運動』を発 行)は,現状での女性の社会進出は「利用されて,ただお先棒を担いでいるだ

け」と批判するが,その奥でさえ女性が文化的社会的に成長するうえで障害と

(20)

なるものに「母性的な興味」(家の献立に囚われることなど)を挙げている。百 合子は,それに対し,母性的なものそのものに問題があるのではなく,「それが 発露して行く上にいろいろな困難があるということに問題がある」といい,母 性一般の栓楷性を否定する(82)。母性の国家的利用へと通じる芽にたいする鋭敏

な批判といってよく,それは誰にでも出来るものではなかった。

 百合子は,職場に進出する女性たちに勤めに出るということだけで誇りを感 じる単純さはないとし(83),だから「女が働く分野が実質的に拡がっていないと いうだけで絶望も出来ない」(84)と事態に対する複眼的思考を要求する。女性の 社会進出が社会的地位向上へと連動していく重要性を指摘し,悪条件に平気と する態度は実は「きわめて快い退歩的な態度」(85)とし,新しい眼差しでもって

「ぐるりの女同士の暮らしぶりを見直させる」女性達の積極的自覚に期待を表 明している(86)。ここに国家的感情の喚起という飛躍を求める桐原のような主張

は全く見られない。

(2)満州事変以後,日本の重化学工業を担い台頭してきたものに新興財団が あるが,その一つに理化学研究所の大河内正敏が主宰する理研コンツエルンが ある。既成財閥が進出をためらった新技術適用分野を開拓し,軍部,官僚と密 接に結合し重化学工業部門でのしあがってきたのが理研コンツエルンであ る(87)。大河内はその経営理念を「科学主義工業」と名づけ,単なる利潤追求の ための「資本主義工業」とは異なる科学の成果を取り入れ絶えず改良を加える

「科学主義工業」を提唱し,この理念においてこそ高賃金低コストが可能とな ると主張した(88)。大河内はさらに1941年,大政翼賛会のi援助をうけ「国民生活 科学化協会」を設立している。百合子は,この日本ファシズムの「技術的合理 性」を担った科学主義工業の矛盾を指摘していた。

 大河内は,『農村の工業と副業』(1937年)のなかで,理研コンツエルンが長 野や群馬,新潟などの寒村に,「共同作業場ともいえないくらいの小さな作業場」

をつくり,都会の大工業で同じ機会を使って造り出す能率の二倍以上の成績を,

農村の子女によって上げていることを紹介している。この共同作業場には全く

の素人である「不熟練工が,数日ならずして立派な一人前の熟練工となり得る

やうな専門機械を,新しく考案して制作し」て導入されており,農村の女子が

(21)

「農村精神」で精密作業をするからこそ能率があがり,良品廉価の生産方法が 可能になっているという。農村女子のこの作業能率の高さを大河内は「隠され ていた此天才が閃いて現はれて来た」と表現している。彼は,農村を「工村」

にせず,農閑期の副業に止めておくことを強調する。日本の農業精神は土に親 しみ,郷土を愛し,奉公の念に満ちているのに比べ,現代工業にはこの種の精 神的基礎が出来ておらず,個人主義の悪影響を被っているのであり,農村に悪 影響を与えないためにも副業に止めおくべきという(89)。自分の作業が単純であ るかどうかを知らず,農業という単純な作業を年々繰り返している農村の子女 こそ生産能率を上げれる(9°)というのが大河内の考えであった。

 理研(大河内)の実例は,「熟練の大衆化」によって,女が男に代わり得る十 分な労働能力を保持していることを明らかにするものであった。しかし,女子

に支払われる労賃が村の労銀の水準に対して高すぎるという矛盾が生じ,結局 理研は「未熟練の日雇娘に等しい」賃金を支払うことで問題を解決している(91)。

百合子はこの問題をとらえ,「この矛盾的な賃金問題の落着を可能としている根 拠は,科学主義工業がどこまでも農村生活の現状を保守して,副業にとどめて 置こうとしているところにひそんでいる」(92)と指摘する。科学主義工業による 生産性の発展は生産関係の変革の契機と結びつかず,むしろ既存の生産関係を 保守し強化する方向に働くことを百合子は見抜いていた。大河内がいう科学の 導入は,「農業精神」を醸成する「半農奴制的零細農耕」(山田盛太郎)を不可 欠の基盤とするものであったのである。

 百合子は,機械を操る技術ばかりでなく,生産の意義を自覚し,その技術が 及ぼす社会的影響を知り,「技術にふさわしい近代労働者」へと成長する実質を 農村の娘たちが身につけることが望ましいとして,その点に照らし科学主義工 業がもつ問題性を吟味していく。彼女は「生産の計量に当たっては,田舎の若 い単純で素朴な女の子の,長時間単調な労作に耐える能力,家族的な従順さに 馴らされている気質,それがそれなりに止めておかれて,それであるからこそ 労働の素質として好適と見られている」とし,「文化の上から見ればおくれてい

る素質こそ,文明のある操作に便宜であるという,文化と文明とのきわめて微

妙なさか立ちの形があらわされている」と,科学主義工業に「文化の碕形的な

(22)

性格を見ているのであった(93)。

(3)学校教育の実状にたいする百合子の批評はどうか。国民学校令(1941年 3月1日)第1条には,「国民学校ハ皇国ノ道二則リテ初等普通教育ヲ施シ,国 民ノ基礎的錬成ヲ為スヲ似テ目的トス」とあり,同施行規則第1条には,教育

目的に関する留意事項(全10項)として.

 「一 教育二関スル勅語ノ趣旨ヲ奉戴シテ教育ノ全般二亘リ皇国ノ道ヲ修練   セシメ特二国体二対応スル信念ヲ深カラシムベシ」

 「三 我ガ国文化ノ特質ヲ明ナラシムルト共二,東亜及世界ノ大勢二付テ知   ラシメ皇国ノ地位ト使命トノ自覚二基キ,大国民タルノ資質ヲ啓培スルニ   カムベシ」

 とあり,「六」には,儀式や学校行事の重視が書かれている。

 43年3月2日改正の高等女学校規定第1条には

 「一 教育ノ全般二亙リテ皇国ノ道ヲ修練セシメ国体ノ信念ヲ深メ至誠尽忠   ノ精神二徹セシムベシ」

 「二 皇国ノ東亜及世界二於ケル使命ヲ明ニシテ皇国女子タルノ責務ヲ自覚   セシメ職分ヲ尽クシテ皇運ヲ扶翼シ奉ルノ信念ト実践力トヲ酒養スベシ」

 とある。

 女子教育の解説書は,「皇国の世界史的使命」の認識こそ国民錬成の目標であ り,特に女子は「至誠尽忠の精神」をめざす精神訓練が第一であって,「第17条 憲法にいはゆる「背私向公」の心,一身一家を後にして君国の御ために尽くす 心掛こそ,皇国女子たる者の身にすべき第一のもの」(94)とのべている。たとえ ば,ある高等女学校の修練実施要綱の精神訓練条項には「至誠・和順」「従順(命 令二服従)」「積極的(気力旺盛),持久,徹底的犠牲的精神ノ発揚」(95)が記載さ れていた。こうして団体訓練と「随順」の実行が求められ,日本国中に批判精 神を停止させ異様ともいえる訓練が広がっていった。

 百合子はこうした「錬成」の有り様を見逃さず,批判し,その神がかり的呪 縛からの「解放」を訴えている。彼女は,大政翼賛会の発足の翌月,若い娘た

ちがセS−・一一ラー服姿に木剣を背負って,自転車に乗って銀座を行進したという事

態を捉え,日本の昔からの若武者の旅姿ならともかく「それがセイラアの制服

(23)

の背中について自転車に乗って行進して来たとすれば,一種の時代錯誤が感じ られるのはむしろ当然ではなかったか」とする。そこには「真に心ある人々と しては決して笑って見ていられない今日の日本の時局精神の皮相的なはきちが い」があり,「何か国民が本気でそれへ(時代錯誤の感じ一引用者)当っている 事象への戯画化が印象づけられる」とした。そして,若い娘たちがこれからま すます群れを組み,街上を行進する機会を多くもつであろうが,その行進が自 分たちの生活にどんな密接な意義をもっているかを考えてみるだけの「自主の 力」(96)の大切さを問うている。また,ある小学校の校長が毎朝体操の時,子ども 達に「忠考,忠考」という掛け声をかける提案をしたという話にたいし,彼女 は「それは異常であるという事を当然忠告すべきであるのに,何となし淡泊に 云い出しかねさせる空気が社会にあることを重大に戒心しなくてはならない」

と社会にある「無気力の習性」を問題にし,少年少女がこうして「感情を鈍化」

させられるならそれは「一つの冒濱であり悪である」とする。そして,大切な ことは「健全さも或る瞬間には不健全なものと転化してゆく,その生きた刹那 の機微に対して敏感でなければならない」(97)としている。

 42年5月,宮原は錬成の「新しい性格」を論じ,「知識や技能と無関係に単な る「性格」を錬成したり,職能活動のぞとで単なる「精神」を錬磨したりする のではない」(98)と精神主義的傾向への注意を喚起しているが,百合子のように 実際の錬成現場における異常な事態を具体的に取り上げ,「感性の鈍化」の広が

りを指摘するようなことはしない。たとえばそれは百合子と宮原の放送文化に たいする問題の取り上げ方の相違にも現れている。

 40年12月,宮原は「放送新体制への要望」という論文を書き,「至難の大業に 逼進する国家の要請にごたへて放送事業はいかに仕立直さるべきか,その具体

的な施策について」,放送機構,番組内容,集団聴取活動などについて提言して

いる(99)。百合子はこの論文について「放送新体制」という表題の付け方にも「興

味がある」し,「放送局の構成や人事について粛正というような文字がっかわれ

ていることも」考えさせられるとし,「粛正」は本来の語義からいえばその反対

物に「移しい因襲,悪弊の存在を認めなければならない」とのべ,その用語使

用の在り方を問題にし,時流にのった宮原の姿勢を指摘している。また,宮原

(24)

が提言する「放送文化研究所」は,はたして聴き手に存在する「一種の消極な 感じの原因」を生々しくつかみ,取り除くことが出来るかと疑問を出している。

「一種の消極な感じ」とは「最大の形容詞と最高の表現」が日夜くりかえされ,

生き生きした表現が失われ単なる「騒音」と感じるまでになっている放送番組 の実態を指している(1°°)。百合子は文化がもつ批判精神をよろこばず,文化を否 定し統制する傾向の増大に何より注意を促し,今日その生活への浸潤に巧妙さ が増し,「腐敗の作用」が案外恐れられずにいることに警告を重ねていた(1°1)。

 宮原も「浅薄安直な教訓主義・説教主義が払拭されなければならない」とい う。しかし,その指摘は今日国民は滅私奉公の至誠に燃えており,通り一辺の 説教や安直な宣伝劇では効果がないではないか(1°2),という文章に続いていたの である。

 宮原の文化統制論は,文化政策が及ぼす「腐敗の作用」に対して注意を喚起 することに極めて消極的であった。この時の宮原は,国家目的にそう文化性を 強調するに止まり,文化がもつ批判精神への着目では百合子とすでに大きな隔 たりができていた。

 では,どうして百合子はこうした批評が出来たのだろうか。次に,この点を 検討してみたい。

第3節 教育科学における「人間の再生」を間う

 新体制運動にたいして百合子はどう対応したのであろうか。彼女は新体制運 動を進めようとした人々との対話をけっして拒否しなかった。大政翼賛会文化 部長の岸田國士と対談を行ない(「文化と女性」『婦人公論』1940年12月),「新 体制を語る」座談会(陸軍省情報部陸軍少佐鈴木庫三や金子しげり等,『婦人朝

日』1940年10月)に出席している。問題はそのなかでどう新体制を批判してい

るかである。

 岸田は,「政治の文化性」を強調し,知識人が直接政治に参加することで体制

内部から現実変革をめざした文化人であり,新体制の「革新性」を体現した人

物の一人であった。その岸田と百合子の対談は,話の進行の内に必ずある分岐

点を見せている点で特徴的であった。たとえば,女性が生活の中に文化性を求

(25)

めることが出来ず,その条件を欠き,女性自身も十分その条件を克服していく 力を形成してこなかったことなどが語られる。次に岸田が,そうした女性の足 枷を取り除くために婦人運動にたいし知識人のバックアップが必要であるとい い,その知識人の動員を果たすことで新体制運動の意義を強調しようとするが,

しかし,百合子はこれには一切答えない。また,学生の躾け問題について,岸 田は翼賛会の青年部運動に期待を寄せる発言をするが,百合子は躾の問題はむ しろ家庭内の家父長的権威関係の克服に課題があるとし,岸田に「勿論そうで すね。躾と云う言葉は家庭以外に余り使いたくない」との発言を引き出し,彼 女自身はさらに「日本の学生をイガ栗坊主にして,皆脚絆で立たして一真の 健全性はそういうところにだけあるわけでもないでしょう」(1°3)と躾を画一的な 統制に解消することに注意を促していく。

 上記の座談会における百合子も,その発言は新体制運動におもねる様子はな く,蓄積される婦人の生活上の問題を具体的に提起し,その解決の在りかを新 体制運動の推進者に問い返している点で,同席した金子しげりとの違いは明瞭

であった(1°4)。

 百合子は新体制運動にたいする一線を画する姿勢を崩さなかった。それは彼 女の「戦争文学」の隆盛にたいする厳しい批判においても明瞭に現われている。

彼女は,岡本かの子の粗大な形容詞を配した和歌や観念上の「空爆」を万葉調 の長歌に書いた北原白秋の作品について,「これらはすべて,明日になって日本 文学史の上に顧れば,日本文学の弱い部分をなすものであり,各作家の秀抜な

らざる作品の典型となる」(1°5)と指摘していたことにそれは端的であった。百合 子は,『明日への精神』(1940年)『文学の進路』(1941年)『私たちの生活』(1941 年)「婦人と文学」(『婦人と文学』は41年出版予定であったが,執筆禁止で刊行

中止,戦後加筆訂正を経て47年刊行される)を次々と出版し,人間理性をおお い,文学的荒廃への道をすすむ文学精神を問題にした。読者の大部分であった 女性に,こうした「精神活動の低調さ」(1°6)を克服し,安易な「ものわかりよさ」

を否定し「従属への感情」から「創造への感情」(1°7)を求め,精神化の流行を見極

める「ぱっちりした澄んだ目」(1°8)をもち,単純なヒロイズムにのぼせあがること

なく(1°9),そして歴史に「消耗」されっぱなしに終わることなく歴史に働きかけ

参照

関連したドキュメント

Hoekstra, Hyams and Becker (1997) はこの現象を Number 素性の未指定の結果と 捉えている。彼らの分析によると (12a) のように時制辞などの T

Guasti, Maria Teresa, and Luigi Rizzi (1996) "Null aux and the acquisition of residual V2," In Proceedings of the 20th annual Boston University Conference on Language

また自分で育てようとした母親達にとっても、女性が働く職場が限られていた当時の

に本格的に始まります。そして一つの転機に なるのが 1989 年の天安門事件、ベルリンの

経済学研究科は、経済学の高等教育機関として研究者を

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