ディスコースアプローチにおける言語イデオロギー をめぐって ― 制度的装置としてのエスノグラフィ ックインタビュー再考 ―
著者 松木 啓子
雑誌名 言語文化
巻 4
号 1
ページ 1‑20
発行年 2001‑08‑20
権利 同志社大学言語文化学会
URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000004356
ディスコースアプローチにおける言語イデオロギーをめぐって
―制度的装置としてのエスノグラフィックインタビュー再考―
松 木 啓 子
1.はじめに
ディスコースを中心に据える人類学のフィールド調査において、「テープ レコーダー」が意味するものとは何だろうか。これまで、調査協力者とのイ ンターアクションを実際に録音する研究者達の多くは、テープレコーダーを あたかも透明な存在であるかのように扱ってきた。アメリカの人類学者ベハ ーの例を見てみたい。彼女は、象徴的な「境界線」(border)の「あちら側」
に暮らすメキシコ女性エスペランザのライフストーリーを書くことを決意す る。数年に渡るインターアクションを通して、ベハーは長いエスペランザの 様々な体験談を聞くわけであるが、以下はテープレコーダーを回してもよい かどうか彼女にはじめて尋ねたときの様子が短く描かれている箇所である。
After our participation in the two ritual events, we began to see more of Esperanza. In the quiet of her small, unlit cinder-block room she told me about her life, folk legends, and her religious worldview. I listened, entranced. Just before I left in 1985, I asked if I could tape her stories. She agreed, and with this we embarked on a series of conversations that continued over the course of many evenings, and many years (Behar 1993: 7 下線は筆者による)
ここで興味深いのは、ベハーが録音に関してエスペランザの同意を得た後の
「言語文化」4-1:1−20ページ 2001.
同志社大学言語文化学会©松木啓子
部分である。テープレコーダーを回してもよいかどうか尋ねる前でもベハー はエスペランザから既に彼女の話をいろいろ聞いていた。それなのにもかか わらず、ここでは、あたかも録音の了解の後に二人の本格的なインターアク ションが初めて展開したかのように記述されていることだ。一体、この二人 の間に、メタレベルにおいて何が成立したのだろうか。録音の了解の後、一 体、何が変わったのだろうか。更に、ベハーは、録音の了解後のふたりのイ ンターアクションを「会話」(conversations)という透明なレベルづけを行っ ているが、テープレコーダーを回すかどうかという問題は本当にそれほど些 末なことだったのだろうか。ここではっきり述べておきたいが、筆者は、ベ ハーとエスペランザの間のインターアクションが「会話」でなかったという 推論を成立させようとしているわけではない。筆者が指摘したいのは、この 短い抜粋の中に、フィールド調査−特に、エスノグラフィックインタビュ ー−のダイナミックな諸相が凝縮されていることである。
もうひとつ、エスノグフィックインタビューの方法論書としては「古典」
とも言われるThe Ethnographic Interviewの中の一説を紹介したい。自己内省 的なモードで書かれたベハーの実験的エスノグラフィからは一線を置くもの であるが、スプラッドレイの体系的エスノグラフィの方法論では、「テープ レコーダー」について非常に興味深い次のようなアドバイスがなされている。
The best way to make a verbatim record during interviews is to use a tape recorder. It is especially valuable to tape record the first two or three interviews in order to quickly acquire a large sample of informant statements. However, tape recorders are not always advisable, especially during the first few interviews. when rapport is beginning to develop. The use of a tape recorder may threaten and inhibit informants. (Spradley 1979:
73-74; 下線は筆者による)
ここでは、「テープレコーダー」は調査協力者には脅威と感じられることが あるので、「ラポール」(調査者と調査協力者の信頼関係)ができるまでは奨 められないとある。ここで問いたい。「ラポール」が成立した後ならば、そ
れまで「脅威」を象徴していたものが透明なものに変わるのだろうか。いや、
問い方を変えよう。「ラポール」が成立した後ならば、(許可を取って)テー プレコーダーを回すことが「脅威」でなくなるとする人類学者の前提として いる視点とは何なのだろうか。スプラッドレイの著書は20年以上前のもので あり、ベハーとは違う世代に属する。従って、二人のエスノグラフィそのも のの方法論が異なることは理解できるが、一方で、「テープレコーダー」の 扱いをめぐっては両者の間にはある共通性が見られる。これらの抜粋は、今 日でも解決されていないフィールド調査におけるいくつかの課題について極 めて示唆的である。
ディスコースアプローチを中心に据えるだけでなく、本稿で論じるように、
1960年代の「ことばのエスノラグフィ」の登場以後に言語人類学のトレーニ ングを受けた研究者にとって、人々の「声」や「対話」を録音することは理 論的、方法論的に不可欠である。本稿では、「テープレコーダー」が意味す るものを再考したい。1
2.本稿の目的
本稿では、近年の言語人類学において注目されている言語イデオロギー (language ideology) の概念を援用しながら、制度的装置としてのエスノグラ フィックインタビューを再考する。「調査する側」 対「調査される側」とい った二項対立的な枠組みに代表されてきたように、人類学のフィールド調査 における非対称的力関係は近年の人類学理論と方法論の中では避けることの できない重要な課題であり、本稿で用いる「制度的装置」の概念はこうした 力関係を取り込む学術的理論と実践の制度的仕組みを意味する。しかしなが ら、その関係の諸相は対立する二者間の力関係のあり方やバランスのみに還 元できるほど単純なものではなく、様々な要素が極めてダイナミックに相互 作用していることを改めて思い起こす必要がある。更に、こうした相互作用 は、特に、「調査される側」の人々の「声」や「調査する側」と「調査され る側」の「対話」を分析の中心に据えるディスコースアプローチを取る場合 に顕在化してくる。2本稿の最終的な目的は、特定の学術理論的視点に基づく 言語イデオロギーを背景にした人類学者が、特定の目的を持ってある人々に
面会を申し込み、話を尋ね、そして、話を聞く行為―即ち、「エスノグラフ ィックインタビュー」―の制度的装置をより立体的に捉え直すことである。
1960年代にデル・ハイムズによって提唱された「ことばのエスノグラフィ」
以来、世界各地の様々な文化的、社会的コンテクストで現れるディスコース のダイナミックな諸相が論じられてきた。こうした社会行為としてのディス コースの研究は、人間が用いる言語記号の多機能性、及び、インターアクシ ョンの中で創造される意味の多様性を明るみにしてきたと同時に、西洋の言 語観、人間観を脱中心化してきた。今や、言語人類学者にとって、言語を文 化的、社会的コンテクストからは切り離して考えることは不可能であり、非 指示的レベルの意味が指示的、命題的レベルの意味に優先さえもする。更に、
社会の中で生きる人間は自律的に自己完結し得ないし、「意図」や「主体」
さえもインターアクションの過程で共同構築されると考えられる。本論では、
近代の言語理論、語用論が前提とする言語と人間に関する価値体系、即ち、
言語イデオロギーの脱中心化を試みてきた言語人類学が、代わりに新しい言 語イデオロギーを自然化させてしまうことによって、フィールド調査におけ る「テープレコーダー」の象徴的意味を見落としてしまうかも知れない危険 性を論じたい。
3. 「フィールドワーカー」と「テープレコーダー」の分裂
20世紀の文化人類学の歴史において、長期間に渡るフィールド調査を体系 的に行った最初の学者はブロニスロウ・マリノフスキーであるが、中でも、
彼が提唱した「参与観察」(participant observation)は今でもフィールドワー クの方法論を論じる上で避けて通ることのできない概念である。「参与観察」
とは、調査者が特定の共同体の中で、所謂「社会の一員」として参加すると 同時に、「調査者」としての客観性を忘れずに観察するというダブルバイン ドの方法論を言う。つまり、調査者が現地の人々との関わりを通して様々な 感情や思考を経験しながらも、最終的にはある距離を保つ客観的観察者とし てとどまることが「社会科学」としての人類学の方法論にとっては重要とさ れてきた。ところが、1960年代になって、フィールドでの主観的体験を前面 に押し出す自己内省的エスノグラフィが書かれるようになると事情が変わり
始める。つまり、「主観」と「客観」の境界線が曖昧になり始め、それに伴 って、「参与観察」が前提とする客観性の神話が人類学において本格的に崩 れ始めるのである。そして、1970年代には、クリフォード・ギアーツの解釈 人類学の登場によってますます加速度がついて神話は崩壊していくことにな る。ギアーツによれば、「文化」は客観的に記述できるものではなく、「テク スト」として解釈すべき意味の網目となる(cf. Geertz 1973, 1983; Ortner 1984; Rosaldo 1989)。更に、1980年代になると新しい動きが活発になる。中 でも、カルチュラルスタディーズやフェミニズム理論等の差異のパワーポリ ティックスを論じる諸領域の発展に刺激されながら、人類学の政治性と認識 論的限界が頻りに論じられるようになる。例えば、ジェームズ・クリフォー ド等はフィールド調査や異文化表象につきまとう限界と可能性について論 じ、その後のアメリカ人類学の流れに大きな影響を与えるが、このような中 でいよいよもって「参与観察」は人類学における客観性だけでなく、20世紀 の人類学調査の前提であった政治的中立性の神話の主要なメタファーへと変 わるのである (cf. Clifford and Marcus 1986; Fox 1991; Marcus 1998)。
人類学自体が存在論的に嵌まって逃れられないパワーポリティックスが頻 りに論じられる中で、調査される側の人々の戦略的な視点と、そうした視点 と弁証法的関係を保とうとする人類学者自身の視点を具現するものとして援 用され始めたのが、「ディスコース」や「声」、そして、「対話」の概念であ った。こうした動きは、勿論、20世紀を通して様々なジャンルのディスコー スデータを研究の中心に据えてきた言語人類学にも大きな影響を与えること になり、特に、これらの「ディスコース」、「声」、そして、「対話」を通して 生成される政治的、イデオロギー的意味のミクロ分析が盛んになる (e.g., Duranti and Goodwin 1992; Hill and Irvine 1993)。そうした中で、文化人類学者 クラパンザノによって指摘された「フィールドワーカー」と「テープレコー ダー」の分裂の問題は実に興味深く、特に、「参与観察」と共に消えたはず の客観主義神話の残像やディスコースアプローチの盲点に我々の注意を喚起 するのである。
We see in Tedlock’s writing, and in the writing of many other
anthropologists who make use of the recording devices, a tendency to symbolize the ideologically constituted split between particpant and observer in terms of the “fieldworker” and the “tape recorder.” They do not appear to recognize the symbolism and its implications for their studies (Crapanzano 1990: 281).
1960年代に、デル・ハイムズによって「ことばのエスノグラフィ」が提唱さ れて以来、ディスコース現象をよりマクロな社会関係の中に位置づけようと する言語人類学者は特定の言語共同体に赴き、「エスノグラフィ」の中心と なる「データ」を獲得するためにテープレコーダーを回し、現地の人々自身 の、または、現地の人々と人類学者自身のインターアクションを録音してき た。そして、それは文字化という作業を通してテクスト化され、分析の対象 となる「ディスコース」、「対話」、そして、「声」として再コンテクスト化さ れてきたのである。この意味で、クラパンザノの批判は、元来、「対話」の 概念を前面に押し出したテッドロックに直接向けられたものではあるが極め て示唆的である(cf. Tedlock 1983)。
前後するが、クラパンザノによれば、言語人類学者は、通常、「第一番目 の対話」(primary dialogue)のみに注目し、「第二番目の対話」(secondary dialogue)を置き去りにしてきたという。ここでクラパンザノのいう「第一番 目の対話」とは、調査者と調査協力者が出会った時に実際に展開する対話と 言ってよいだろう。多くの場合、「ディスコース」の分析はこうした対話と 同一のものであるという認識に基づいてきたし、今日でも、いまだその幻想 は消えていない。一方、「第二番目の対話」とは、録音された対話が文字化 され、「データ」として構築された「対話」である。更に、こうした過程で、
調査者も同じように文字化され、客体化されることによって「調査者」とな り、調査協力者も「調査協力者」と客体化されていく。この「第二番目の対 話」は理論的、学究的な解釈が付与されている分析のプロセスをメタレベル で取り込むものである。つまり、「第一番目の対話」では存在しなかった、
もしくは、存在していても間接的な指標的連鎖性−エスノグラフィックイン タビューの制度的装置における連鎖性−の中でしか捉えられない「対話」で
もある。更に、クラパンザノはこうした「第二番目の対話」を構築するもの としての「影の対話」(“shadow dialogues”) に注意を喚起する。
Simply for the moment, a shadow dialogue is one a speaker has––silently, for the most part–– with others, embodied say in his colleagues, who are not present at the primary dialogue. The primary dialogue becomes the theme of the shadow dialogue, and the partners in the primary dialogue becomes figures in this new dialogue that bypasses them (275).
ここで重要なのは、クラパンザノのいう「影の対話」を見えにくくしている のが、「フィールドワーカー」と「テープレコーダー」の分裂であり、更に、
こうした「影の対話」の存在がまさにこの象徴的分裂を正当化しているとい う点である。以下では、クラパンザノの批判を改めて再考しながら、ディス コースを中心に据えた言語人類学研究における「影の対話」―中でも、言語 イデオロギー―に注目したい。
結論を先に言えば、ディスコースを中心に据えた言語人類学研究に携わる かぎり、フィールド調査には「テープレコーダー」がどうしても必要であり、
冒頭のベハーやスプラッドレイのやり方以外に、より「正しい」許可のもら い方、より「正しい」テープレコーダーの設置の仕方があるとは思えない。
しかし、クラパンザノが批判するように、言語人類学者はこうした分裂につ いてもっと深く考えるべきではないだろうか。但し、それは人類学者の自己 矛盾に対する告白や自己内省的な言説によってなされるのではなく、本稿で 試みるように、自らがよりどころとしている学術的なイデオロギー(言語イ デオロギー)を論じることによって、そもそもどうしてそのような分裂が生 じたのかを考えることが鍵となるのである。言語イデオロギーを論じること は、言語人類学者にとっては実践と理論そのものとなる。
4.言語イデオロギーの定義
20世紀の初頭に、言語人類学の創始者であるフランツ・ボアズはその記念 碑的論文の中で非常に興味深い見解を示している。ボアズによれば、文化現
象と比べて、言語現象はほとんどの場合人々の意識をすり抜け、仮にこうし た言語現象が意識化されたときにも、その説明には常に「誤った理屈づけ」
(“faulty reasoning”)が付与されるという (Boas 1911)。つまり、ボアズは調査 協力者によってなされる自分達の母語に関する説明を、人類学の調査には役 立たない「誤った」ものとして排除するのである。こうした意味では、クロ スクリティも指摘するように、今日の言語人類学における「言語イデオロギ ー」への関心の高まりは皮肉であるかも知れない (Kroskrity 2000a)。何故な らば、今日においては、こうした説明づけこそが人々のディスコースを社会 的諸関係につなぐもの−媒介するもの−として議論の対象となるからであ る。「言語イデオロギー」は言語だけにとどまらず、言語と言語使用者の社 会観、人間観を包摂する価値体系として、今日の人類学研究に大いに有効な 概念であると言える。3
「イデオロギー」の概念がそうであるように、研究者の理論的背景によっ て「言語イデオロギー」の捉え方も単一ではない (Irvine and Gal 2000;
Woolard 1998; Woolard and Schieffelin 1994; cf. Eagleton 1991)。本稿では、基 本的な視点として、シルバースタインの定義―“sets of beliefs about language articulated by users as a rationalization or perceived language structure and use”
(Silverstein 1979: 193)―を援用したい。しかし、一方で、アーバインの定義
―“the cultural system of ideas about social and linguistic relationships, with their loading of moral and political interests” (Irvine 1989: 255) ―においてはっきりと 示されているように、特定の言語についてのある捉え方の体系が社会的なプ ロセス(アーバインの定義では、「道徳的、政治的関心」)に関わってくるこ とも押さえておきたい。特に、ディスコースアプローチにおいて、「調査す る側」の言語イデオロギーと「テープレコーダー」の存在とが切り離せない 中で、アーバインの定義における政治的な方向性は重要な点である。本稿で 論じる言語人類学の言語イデオロギーとは、専門家が正当化する学術的な言 語観という意味であるが、そのようなイデオロギーこそがクラパンザノの呼 ぶところの「影の対話」として、「データ」となる「ディスコース」の構築 を自然化していくのであり、あたかも「第一番目の対話」であるかのように その間にある潜在的分裂を見えなくする点を強調したい。無論、こうした分
裂はエスノグラフィックインタビューにおける非対称的力関係を考える時、
潜在的に政治的な意味を持つ。4
5. 言語人類学の言語イデオロギー
今日のディスコースアプローチを中心に据えた言語人類学の言語イデオロ ギー自体を脱中心化する前に、同ディスコースアプローチが脱中心化してき たものが何かを考えることは有意義である。1960年代以来、ハイムズの「こ とばのエスノグフィ」が求心力となって、言語人類学のディスコースアプロ ーチは大きく発展してきた。ロマン・ヤコブソンの言語の多機能性への視点 とマリノフスキーのエスノグラフィックな視点の統合は、新しいコミュニケ ーション研究の可能性を方向づけた。同時に、様々な非西洋、非英語圏から の事例によって、研究者自身が前提としていた西洋の言語観、人間観が脱中 心化されていったわけだが、ここでは、主に、指示的意味、及び、意味の共 同構築の問題について論じたい。
5.1.指示的意味の脱中心化―メタプラグマティックスへ
言語記号の多機能性の問題、即ち、記号が指示的なレベル以外にも機能す ることへの視点はヤコブソンのコミュニケーションモデルを通して、「こと ばのエスノグラィ」の視点でもあった。例えば、ヤコブソンのモデルに基づ きながら、ハイムズは人々の社会行為としてのコミュニケーションをより立 体的に捉えるために「言語事象」(speech event) のモデルを呈示する。その 中では、コミュニケーションはいくつかの構成因子(components)―例えば、
「場」“setting”、「参加者」“participants”、「目的」“ends”、「規範」“norms”、
「ジャンル」“genre”―から多層的に成り立っているとされ、こうしたハイム ズのモデルは分析のパラメーターとして、及び、コミュニケーションの意味 を指示的レベルを超えた、社会的、文化的に広がりのあるものと捉えるため の枠組みとして広く援用されてきたのである (cf. Hymes 1964)。
ハイムズの同僚や弟子達が、各地からの様々なコミュニケーションの事例 を報告していく過程の中で、非指示言語記号の重要性とそうした記号と言語 イデオロギーとの関連性を真正面から論じたのが、シルバースタインであっ
た。彼は、人々が自分の母語についての現象を説明する時(即ち、ある言語 イデオロギーを構成する時)、一番はっきりと意識の対象になりやすい言語 形式は、「指示的」(“referential”)、「分節的」(“segmentable”)、そして、「(コ ンテクストに)前提となるものがある場合」(“relatively presupposing”) であ ることを指摘する。更に、肝心な点は、こうした命題中心の言語イデオロギ ーが西洋の言語理論の主要なイデオロギーとして作用してきたことである。
シルバースタインによれば、我々がこのような「意識の限界」(“limits of awareness”) の先(即ち、命題中心の言語イデオロギーの先)を探求するた めに必要となる視点がパースの記号論的視点であり、中でも、記号の指標性 (indexicality) に基づくメタプラグマテックス (metapragmatics) への視点は極 めて重要であるとされる。ここでシルバースタインのいうメタプラグマテッ クスとは、ディスコースの中の言語記号が自らを連鎖的、再帰的に指標しあ い、自らの解釈フレームを指標する仕組みであると言えばよいであろう。つ まり、言語記号は外界の対象物を指標するだけでなく、自らを再帰的に指標 しながら社会行為としてのディスコースを作りあげるのであり、中でも、そ れ自体には命題的意味がない「非指示的」(“non-referential”)、「非分節的」
(“non-segmentable”)、そして、「(コンテクストに前提となるものがないため に)創造的」(“creative”) な記号の指標性はこうしたメタプラグマティックス において重要であり、その見えにくい性質のゆえに社会的インターアクショ ン に お い て は し ば し ば 中 心 的 な 役 割 を 果 た す と 考 え ら れ る よ う に な る (Silverstein 1976, 1979, 1981, 1993; cf. Lucy 1993)。
5.2.自律的「個」の脱中心化−意味の共同構築へ
今日の言語人類学のディスコースアプローチはいくつかの諸理論、方法論 を統合して発展してきたわけだが、中でも、現象学的社会学の伝統を背景に した会話分析 (conversation analysis) の影響は大きい。特に、その現実構築に おける言語の役割、即ち、言語記号が回りの世界をただ描写するのではなく、
「構築する」のだという考え方と、そうした構築は会話を通して共同でなさ れるという視点は実際に会話ジャンルを分析の対象としない研究者にも広く 行き渡るようになる。こうして、非西洋社会における社会的インターアクシ
ョンとその過程で構築される社会的、文化的意味が分析されていく中で、も うひとつ重要な概念が脱中心化されていく。西洋の言語理論が前提としてい た抽象的、自律的な「個」である。更に、そうした「個」が前提とする「意 図」や「責任」、そして、「主体」も脱構築化され、いずれもディスコースの 社会行為の過程で共同的に創られていく事例が報告されていく。例えば、太 平洋西サモア社会における政治的集会のインターアクションを調査したデュ ランティは、サモアにおける極めて対話的なコミュニケーションの形態が同 社会のセルフの捉え方に対応していることを指摘して、西洋の言語理論が見 落としてきた意味の対話性の問題に注意を喚起した (Duranti 1988)。更に、
こうしたセルフの共同構築に関する関心は、ナラティブアプローチへの関心 とも合致する。特に、語り手がどのような体験をどのようなオーディエンス に向けて語り、どのように「今・ここ」や「あの時・あそこ」を捉え、どの ようなセルフアイデンティティをインターアクションの中で構築していくの かという問題は、構造的結束性が比較的観察しやすいナラティブのメタプラ グマティックスの分析を通して論じられるようになっていく (cf. Hill and Irvine 1992)。
6.エスノグラフィックインタビューと言語イデオロギー
シルバースタインの視点に大きな影響を受けた言語人類学者ブリッグス は、エスノグラフィックインタビューの方法論に関する本の中で、インタビ ューのインターアクションが極めて指標的であること、更に、その過程にお いてメタレベルで生成されている様々な非指示的意味の重要性が無視されて きたことを指摘する(Briggs 1986)。ブリッグスのこうした懸念は、1990年代 以降に熟しはじめたメタプラグマティックスへの関心のもとに、ディスコー スアプローチを取る研究者達には今や常識になりつつある。メタプラグマテ ィックスの仕組みへの視点は、テクストとコンテクストのより緊密で弁証法 的な相互作用のダイナミズムを論じる上で極めて有効である。そして、シル バースタインとアーバンが述べるように、研究者が文字化して分析している のは実際に起こったディスコースではなく「ディスコース」であり、更に、
それはメタプラグマティックスの仕組みの中でテクスト化、コンテクスト化、
再コンテクスト化の絶え間ない円環的プロセスを一時的に平面化した「テク スト」である。しかし、その「テクスト」には実際のインターアクションの
「形跡」(trace)が残されており、分析者はメタプラグマティックスの仕組み そのものの理解を通してその「形跡」を探し出すのである (Silverstein and Urban 1996)。
シルバースタインとアーバンのこうしたメタ記号論は極めて魅力的であ り、彼らの視点に筆者も大きな影響を受けている。そして、本稿の最初に紹 介したように、クラパンザノの言うところの「第一番目のダイアログ」と
「第二番目のダイアログ」の関係が指標性の視点から説明可能となる。しか しながら、こうしたメタプラグマティックスの重視は、「フィールドワーカ ー」と「テープレコーダー」の分裂をますます決定的にする。何故ならば、
まず、非指示記号の機能を重視するメタプラグマティックスの分析は、いよ いよもって「テープレコーダー」の存在なしではあり得ないからである。特 に、インターアクションの次元で調査者と調査協力者の両者の意識を超えた 言語記号の現象を見る時、認識論的には前者(第一番目のダイアログ)と後 者(第二番目のダイアログ)が反転しかねない。つまり、言い方をかえれば、
前者は後者の中の「形跡」以外には実態がなくなってしまうのである。
7.エスノグラフィックインタビューと指示的意味の見直し
シルバースタインはメタプラグマテックス理論を論じるにあたって、指示 的、命題的意味が重要ではないとは決して言ってはいない。西洋の言語理論 を脱中心化するにあたって、非指示的意味の重要性を見落としてきたことを 指摘しているのである。しかし、ここで改めて指摘したいのは、実際、文化 的、社会的コンテクストによっては指示的意味が優先される場合があるとい う点である。つまり、ある政治的、イデオロギー的状況によっては、指示的 意味に極めて重点が置かれるべき場合があるのではないかという点である。
言語イデオロギーはこれまでひとつの言語コードに対応するものとして扱わ れてくる傾向があったが、最近の議論では、様々な社会的、制度的状況の中 での支配的なディスコースに対応する複数のイデオロギーの問題が論じられ ている。こうしたより多様的、多層的な視点は、本稿のエスノグラフィック
インタビューという制度での言語イデオロギーの問題を考える上でも示唆的 である。例えば、ヒルは、アメリカの政治報道のメディアにおけるふたつの ディスコースとそれに対応するふたつの言語イデオロギーについて書いてい る。ヒルによれば、メディアにおいて通常支配的なディスコースは「真実性 のディスコース」(“discourse of truth”) であるが、実際には、「演劇性のディ スコース」(“discourse of theater”) も政治報道において重要な役割を果たして いるという。前者のディスコースを取り巻く言語イデオロギーでは指示的、
命題的意味が中心にあり、一方、後者を取り巻くイデオロギーは非指示的意 味が極めて重要となる (Hill 2000)。
一方、ウィルスは、感情表現と言語イデオロギーの変遷をグローバリゼー ションと近代国家の形成の問題から論じている。彼は、バングラデッシュに おける伝統的な死者追悼儀礼 (lamentation) の例に基づいて、都市化やイスラ ム化、そして、近代化が前提とする言語イデオロギーが、追悼儀礼のような 公的、集団的感情表現の儀礼が前提としている言語イデオロギーに取って変 わっていく歴史的プロセスについて論じている。ウィルスによれば、近代化 が前提とするのは、合理性のもとにコントロールできるとされる指示的、命 題的意味を中心に据えたイデオロギーであり、追悼儀礼が前提とするような 感情的で演劇的な意味−特に、非指示的意味−が中心的となる言語イデオロ ギーは近代国家のエリート層を中心に劇的に消えつつあるという。ここで重 要な点は、近代国家形成の歴式的状況のなかで、特定の表現形式を取捨する ことと、特定の言語イデオロギーを取捨すること、更に、近代国家人として のアイデンティティを構築していくことが共起する点である (Wilce 1999)。
ヒルとウィルスの事例における社会的コンテクストは異なるが、両者の例 は、公領域(public sphere) の問題と言語イデオロギーの複雑な関係について 示唆的である。確かに、エスノグラフィックインタビューは、冒頭のベハー とエスペランザの例に見るように、一見したところ「公的」とは考えにくい 状況で行われることが多いかも知れない。しかし、調査者が録音した「デー タ」は分析され、多くの場合、学術的コミュニティのオーディエンスに向け て公開される。更に、一般のオーディエンス向けに出版されることもあるか も知れない。ベハー自身記しているように、ベハーとエスペランザとのイン
ターアクションは「会話」として捉えられるかも知れないが、こうした制度 的状況を考える時、その「会話」は常に社会的、政治的な指標的広がりを内 包するのである。つまり、ここで注意すべきことは、専門家の言語イデオロ ギーだけではなく、調査協力者自身の言語イデオロギーも考えていくことで あり、両者間の相互作用や葛藤の問題にも目を向けていくことではないだろ うか。5特に、多くの人類学者が研究の対象としている非西洋社会の場合、ウ ィルスの例のような政治的コンテクストにおける言語イデオロギーの多様性 に目を向ける必要があるのはないだろうか。中でも、指示的意味を中心に据 えた言語イデオロギーと非指示的意味を中心に据えた言語イデオロギーの間 にある潜在的葛藤について考える時、ディスコースアプローチの方法論とそ の「影の対話」、及び、「テープレコーダー」の象徴的意味の重さに改めて気 づかされる。
8.結論にかえて
1950年代、エドワード・ドジャーは北米アリゾナ州先住民テワ族社会の広 範な調査、研究を行ったことで知られているが、クロスクリティは、1960年 以降のディスコースアプローチのトレーニングを受ける以前のドジャー自身 の専門家としての言語イデオロギーが、テワ族の社会におけるコミュニケー ションの重要性−特に、アイデンティティの構築におけるコミュニケーショ ンの重要性−を見逃させたと指摘する (Kroskrity 2000b)。本稿では、エスノ グラフィックインタビューにおける「テープレコーダー」の象徴的意味を中 心に、「影のダイアログ」としての言語人類学者が持つ言語イデオロギーに ついて考察した。特に、ドジャーの例とは逆に、1960年代以降のディスコー スアプローチが基づいている言語イデオロギーが見逃してしまうかも知れな い「フィールドワーカー」と「テープレコーダー」の分裂の意味について考 えた。本稿で試みたのは、「言語イデオロギー」が研究者のメタ理論におい て非常に有効な概念であることを示すと共に、そのダイナミックな記号論的 作用こそがディスコースアプローチそれ自体に限界を与えることに対して研 究者の注意を喚起することであった。
最後に、筆者自身の体験から、「テープレコーダー」に関わるエピソード
を紹介したい。昭和ひとけた世代の人たちの体験談の調査過程で起こったこ とである。ある4人のひとけた世代の女性達を同時にインタビューした時の ことであるが、録音した2時間ほどのその「インタビュー」はどちらかと言 えば終始なごやかな雰囲気で、筆者自身の親の世代という年齢差もあったた めか、筆者が質問して彼女達が答えるというよりもひとつ質問するとその後 は話が脱線して雑談になるというような和気藹々とした「インタビュー」で あった。そして、4人の調査協力者たちもあたかもテープレコーダーの存在 を忘れたか、全く、気にもかけていないかのように筆者には感じられた。や がて約束の時間が経ち、テープレコーダーをとめて、一様「インタビュー」
を筆者の方から御礼を言う形で閉じても、誰も立ち上がって帰ろうともしな いし、子供時代の体験の話をし続けて盛り上がっていた。つまり、テープレ コーダーの作動をとめる前と変わりなく、「会話」が続いていたのである。
録音をとめても登場する興味深い話のために、しばらくしてから、筆者がも う一度テープレコーダーでセットしてよいかどうか尋ねると、4人全員が反 射的に、「もういいでしょう」というやんわりとした拒絶のポーズをしたの だった。このエピソードは決して劇的な種類のものではないが、メタレベル では極めて象徴的なものである。誰も急いではいなかったし、現に、この後 更に3時間近く、夕食を共にしながら筆者は戦争体験を聞き続けたのである。
つまり、彼女達の「もういいでしょう」は早く立ち去るために言ったのでは なく、あくまでも「(インタビューは」もういいでしょう」という意味だっ たのである。言い換えれば、たとえ、テープレコーダーを切る前と後のイン ターアクションの「会話」のようなモードやスタイルに変わりはなくても、
「テープレコーダー」の存在は明らかに何かを意味していたのであり、決し て「透明」な存在ではなかったということである。
注
1 最近の録音機器としてはMD機器なども用いられており、勿論、テープレコーダ ーだけではない。従って、本稿で論じられる「テープレコーダー」はフィールド 調査における特定の方法論−「調査される側」の人々の発話を録音する方法論−
の象徴として言及されている。
2 1980年代以降の人類学における「声」や「対話」は、「調査される側」の主体性 やその構築の問題と深く関わる概念として援用されてきた。特に、後者はしばし ば「会話」と同意義で用いられることもあるが、「会話」が発話の構造的、技術 的な順番取り (turn-taking) に還元し得るテクニカルなジャンル概念であるのに対 し、「対話」はより抽象的、より社会的、より政治的な広がりを内包する概念で ある。Clifford (1986)、Maranhao (1990)等を参照のこと。
3 これまで多くの社会言語学研究において、特定の言語形式と特定の社会的カテゴ リーの関係性を直接的な「一対一」の構図で捉えてきた傾向がある。しかしなが ら、言語イデオロギーの概念によって、言語形式と社会的カテゴリーの(指標的)
結びつきの複雑で多層的な諸相、また、記号論的にダイナミックな諸相が明らか になりつつある。例えば、アーバインとガルは次のように述べている。
It has become a commonplace in sociolinguistics that linguistic forms, including whole languages, can index social groups. As part of everyday behavior, the use of a linguistic form can become a pointer to (index of) the social identities and the typical activities of speakers. But speakers (and hearers) often notice, rationalize, and justify such linguistic indices, thereby creating linguistic ideologies that purport to explain the source and meaning of the linguistic differences. To put this another way, linguistic features are seen as reflecting and expressing broader cultural images of people and activities.
Participants' ideologies about language locate linguistic phenomena as part of, and evidence for, what they believe to be systematic behavioral, aesthetic, affective, and moral contrasts among the social groups indexed (Irvine and Gal 2000: 37).
4 1950年代のアリゾナ州テワ族のエスノグラフィで広く知られるエドワード・ドジ ャーの専門家としての言語イデオロギーの重要性を論じるにあたって、クロスク リティは、「専門家の言語イデオロギー」(professional language ideology) を、“the assumptions about language in general and indigenous languages in particular that shaped professional discourse within cultural and social anthropology, especially in the treatment of language and identity”(Kroskrity 2000b: 330)としている。
5 筆者自身の昭和ひとけた世代の人々とのインタビュー例について言えば、例えば、
ある調査協力者の場合、自らの戦争体験が「たいしたものではなかった」こと、
「のんびりしたものだった」ことを指示言語レベルで強調する一方で、実際の特 定のエピソードにまつわるナラティブにおいて、こうした指示レベルの意味を翻 すほど感情的、劇的な意味を非指示言語レベルで(例えば、特異なイントネーシ ョンの用い方に基づく語りのパフォーマンスを通して)構築していた。重要な点 は、前者を後者に優先させるのではなく、また、後者を前者に優先させるのでも なく、何故、このような矛盾する意味が同一のインタビューの中に共存するのか という問題である。
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Language Ideology in Discourse Approach:
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Keiko M
ATSUKIKey words: Language ideology; Ethnographic interview; Discourse approach;
Metapragmatics; Politics of fieldwork; Tape-recording