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社会学理論の三水準

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(1)

社会学理論の三水準

著者 舩橋 晴俊

出版者 法政大学社会学部学会

雑誌名 社会労働研究

巻 28

号 3・4

ページ 139‑177

発行年 1982‑03‑20

URL http://doi.org/10.15002/00006424

(2)

今日の社会学理論におけるパラダイムの競合の巾で、社会学理論の確固たる論皿的端緒を原理論の水準での考察を通して確保しようとする一つの試みとして、存立櫛造論がある。存立構造論は社会学的な探究の論理的出発点に位置する問いを解こうとしてきた。その問いは、社会学において繰り返し問われてきた、社会と個人との原耶的な側係いかんという問題価域に属するものである。存立櫛造論はこの問

題傲域に対し、「協働連関の媒介をめぐる主体性連関の逆転」という発想を軸にしてアプローチする。この発想に立つ

社会学理論の三水準一三九 第一節第二節第三筋第四節納び はじめに

はじめに

社会学理論の三水準

存立構造論、両義性論、中範朋の理論三水噸の皿論の川Ⅲ関係巾範囲の剛論の「統合」と両義性論との関係三水準の理論の質的差異と相補性

橋晴俊

(3)

社会学皿論の三水堆一四○

て、既にいくつかの回答の試みがつみ菰ねられてき種

けれども、社会学において存立構造論が理論として持つ潜在的な含意と歴側刀とは、未だ十分に引き川され結実しているとは言えない。また存立構造論が、只体性に密杵している他の理論的研究や災証的研究に対して、どのような理

論的な示唆や視阿を提起できるのかということも、未だ十分に明らかにされてはいない。存立柵造論は原皿論の航域に位制しているから、それをいきなり現実の分析に通川しようとしても、存立構造論の問題関心の鍵である「主体性」への関心を提供することとか、ごく限られた雌礎概念によって、問度に仙象的な記述をすることしか可能にならない。またそのような適川のしかたはしばしば他耐した公式並瀧へとつながるであろう。

けれども原肥論的考察が自らの水唯のみへと日ロ川飛してしまうならば、その意義は半減してしまう。存立櫛造論によって拠僻された問題感覚と鍵視座を概極的に生かしながら、より具体性に近づいたかたちで現災を捉えることが追究されねばならない。そのためにはなおなされるべき多くの課題が残されている。本稿の主題は、そのような探題の巾でも、方法論的な論議の文脈においてまずなされるべき一つの課翅、すなわち存立術造論から川発してより具体的な現実に接近するためには、どのような理論群を迦過することが必要であるのか、

ということを探究することである。

、、、本稿はこの主題を以下に示すような八つの諜麺に分割することによって、また社会学の理論水準の分節化と、

、、Q、、、分節化された諸理論の亜属的な併用という方法によって、回答を試みようと思う。ここで言う理論水準の分節化とは、さまざまな社会学皿論を、その解こうとしている課題がいなる蘭のものであるの

かという観点から、すなわちより根本的な皿論的視座の形成という課題を担うものなのか、それとも、より具体的な

(4)

現象把握という課題を担うものなのかという観点から、複数の水準へと区分し、その上でそれら相互を論理的に関係づけることであるUそして諸肌論の赦胴的な併川とは、分節化された諸皿論を、同一の対象の認識のために、柵互に

側迎づけながら同時に仙川することである。さまざまな社会学理論の形式的性格を検討してみると、|方で、社会とは何か、社会はなぜ成立するのか、社会

とそれを構成する洩糸的主体との側係はいかなる6のか、等々の原皿的問題脈を追究することを通して、さまざまな

対象の認識に関して汎汕的に採川されるべき、什絡的、咄庇的な概念枠糾の柵築をⅡざす努力がある。たとえば仔立構造論はそのような努力の一つであった。また初期パーソンズの探究した「ホッブス的秩序」の問題もこの文脈に位慨している。他力、経験的データと密行しながら、具体牝の高い水城で、社会的行為や社会システムをめぐる法川性、川Ⅲ桃を、命題体系として樅序することを自らの諏皿としているM論もある。たとえばR・K・マートンの拠咄した

「中範囲の理論」はそのような試みの一つである。

このような意味で、社会学皿論にはさまざまな水噸があり、水地のちがいに応じて皿論の仙象性~具体性も変化する。〃立柵造諭から川発しながらより具体的な社会認識へと進むた的の戦略的な鍵は、このような理論水坤のちが

いを生かすことであるように思われる。

では存立柵造諭を雌底とした場合、どのようなかたちで複数の皿論水準を分節化し、それらを菰肘的に併川したら

よいであろうか。一般的な可能桃としてはそのしかたにさまざまのものが埒えられるが、ここで提川したいのは、次

、、、、、、、Qも

のような二一水準の分節である。それは、もっとも根底的な水準からより具体的水準にむかって、原理論としての存立 柵造論腿礎皿論としての協働巡閲の両茂性諭巾脆川の皿論、という三水準であ雫

、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、■、、、、、

社会学川論の一二水邸一W一

(5)

社会学皿論の三水雌一四二

とれらの三水噸の理論の役判は何であろうか。それぞれの皿論はどういう質の問題を解こうとしているのであろうか。

これが本稿の第一の課題である。

そのような水準ごとの問趣のたて方の机異が明確になれば、次にそれらの三水準の皿論の机亙関係がいかなるもの

であるのかが問われるであろう。より具体的な水準の皿論は、より於底的な水準の剛論の提供する鍵概念や鍵視座を、

どのように前提しているのだろうか。逆に、より払底的な水準の理論に、どのような条件や論叫的契機が付加されることによって、より具体的な水恥の理論が導出され展閲されるのだろうか。これが本稿の第二の課題である。水摘の第三の課題は、このような三水準の皿論の机互関係を、巾範Ⅲの理論を雌点とした社会学皿論の艮川的発展プログラムの文脈で検討することである。マートンの提叩した八中絶川の皿論の累仙的統合を皿してのより一般的な理論の形成Vという長期戦略と、三水準の皿論への分節という発想は、どのようにかかわるであろうか。とりわけ巾範川の班論とそれに隣接する両義性論とは、どのようにつながるのだろうか。そして第四の課題として、三水準の理論のそれぞれの妥当性とはどういうことか、それぞれの妥勤性の検証のしかたがどのように異なった手続きを必盤とするのか、ということを考えてみよう。岐後に、そのような異質性にもかかわらず、三水噸の皿論は現実の認識に際してどのようにⅢ補的であるのか、を検討してみよう。これが水稲の第孤の課

題となる。

存立構造論、阿義性論、巾脆川の皿論という三水準の社会学理論がそれぞれ担う課題はどのようなものであろうか。 第一節存立構造論、川義性論、巾範朋の班論

(6)

原理論としての存立櫛造論が解こうとしているのはただ一つの問いである。それは、一般的に言えば真水悠介氏によって提起されたように、.目川に」行為する具身の諸個人の実践的な関係の総体桃が、一つの「自然的」社会法則ないしは社会的「自然法則」の体系としての独自の存在規格を独得し、逆にその当の諸個人の意思を超絶して側徹す(しる対象的Ⅱ客観的な力として存立するにいたる機構の把握」である。

このような問いのたて方は、経験的データとの直接的つながりを重視しながら社会学理論を構想する立場から見れば、社会学理論の枠に入らない問いとして、社会学理論としては偽問題であり、むしろ「哲学的」な問いであると、位慨づけられるかもしれない。けれども、存立術造論は、社会学的探究の川発点を雌礎づけようとし、祉会把鵬の於

水的な視雁群を確立しようとするという意味において、社会学の原理論の伽域に位慨している。

存立構造論の問題設定がなぜ必要であるかは、社会学の直而する社会の両義性に関する認識論的な難問から、まず皿 解されねばならない。周知のように社会学においては、社会を帆墾倣肪揮蝿吋な法則性、構造性を持つ社会システム

サプジエクテイヴとして捉える立場と、社会を諸個人の主体的Ⅱ主観的な行為の集合として捉える立場とが、競合しながら共存してき

た。社会学理論の多くは、それぞれとの意味での社会の阿義性のうちから一面のみを選択し、その一面に関して付効

社会学理論の三水準一川三 それは一言で言えば次のようなものである。原皿論としての存立椛造論は、社会認識にあたっての論皿的な端緒にくるべきもつとも触水的な問いを解くことを、その課題としている。雄礎理論としての両義性論は、社会把掘のための雅

礎的な概念群及び複数の視座群を、系統的に提出する作業を担うものである。そして、巾範囲の理論は、データと密

着した形で経験的法則性を説明し、記述することをめざしている。この三水準の理論の課題を順次、検討してみよう。

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しようとするものである。 社会学剛論の三水準一四四であるような概念群と説明の論皿を形成し洗練してきた。けれども、それぞれの社会学理論が現実の一脈のみを仙川し、認識の射曝を得ようとすればするほど、この社会の持つ両義的な存在性格の相互関係がいかなるものであるかということは、問いのとされていく。社会が諸個人の主体的Ⅱ主観的行為の集合であるならば、なぜ諸個人にとって外在的、拘束的であるような対象的Ⅱ客観的な社会システムが、存立するのであろうか。逆に、社会が対象的Ⅱ存観的な社会システムであるならば、その内部に包摂されている諸個人の行為の持つ「自川」や「主体性」とはいかなる性桁のものであろうか。社会学理論が徹底して履開されたならば必ず泣面するはずの、このような認識論的な難問を解こう?)とするのが、存立構造論の課題なのである。

このように認識論的文脈においては、社会の両鍵桃の一mのみしかとりあげようとしないさまざまな社会学皿論に対する批判意識が、存立柵造論の問題意識を特徴づけている。と同時に、突践的な文脈においても存立櫛造論のⅢ題意オブジエクテイヴ識は、現代社会に対する批判意識によって支えられている。それは、社〈蓉の対象的Ⅱ客観的な機構化、官恢制化がかってないほど昂進した現代において、その巾の諸個人の運命がいかなるものであるのか、諸個人が社会機構との関係において感じる緊張感や拘束感や無力感の根拠がいかなるものであるのか、という問題関心である。存立柵造論は、諸個人の主体性と対象的Ⅱ客観的な社会機櫛との緊脹、杣剋の問題を、ほかならぬ諸個人の主体的行為の巾から、諸個人

を超越する当の社会機構が生成、存立してくるという逆説的メカーーズムに焦点をあてることによって、批判的に解明

(5) 巾L

原理論としての存立構造論を前提にI)て、その次の雄礎理論の水準で展開されるのが「協働巡閲の両義性論」(以

(二)

(8)

下では「両義性論」と略称する)である。両義性論の課題とは、存立構造論の論理展開の中から析出してくる社会の一一重

の意味での両義性を、より具体的な水準において捉えるような雄水的な概念枠組を、体系的に展開することである。

ではとのこ敢の意味での両義性とは何であろうか。

第一の意味の両義性とは、存立構造論がその出発点から一貫して問題視してきたもの、すなわち、社会の持つ、対

象的Ⅱ容観的な祉会システムという性格と、諸個人の主体的Ⅱ主観的な行為の集合という性絡との向義性である。こ

の二つの性格は一方が真に存在するものであり、他方がみかけだけのものであるというものではない。こっとも社会

の持つ本来的な性格である。第二の愈味の両義性とは、存立柵造論の論述の過樫を通して柵川してくる協働の契機と支配の契機との両筏性で

ある。これはより一般化して言えば、社会の持つ経営システムという性絡と文配システムという性烙との両義性である。社会を経営システムとして把握するということは、社会もしくはその一部分が、自己の維持のために充足が必要な経徴那題群を、どのような柵成原理や作助原皿にもとづいて充足しているのかという観点から、社会内の折現象を捉えることである。他方、社会を支配システムとして把握するということは、社会もしくはその一部分が、意志決定

権の配分すなわち垂直的政治システムのあり方と、閉鎖的受益圏の階層構造に関して、どのような構成原理や作動原理

を持っているのかという観点から、社会内の諸現象を捉えることである。それぞれの観点から何意味な側面を現実から抽象することによって、経営システムと支配システムとが論定される。つまり両背は、特定のある対象が綿営シス

テムであり、他の対象が支配システムであるというような実体的な区分ではない。このように〃立柵造論がその探究の巾から提川する、対象的Ⅱ客観的なシステムと主体的Ⅱ主観的な行為という両

社会学理論の三水準一四瓦

(9)

第一図両義性競I準 経常システム

る社会学的対象の分節 支配システム

社会学皿論の三水邸

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(10)

義と洗練、及びそ』

いるわけではない。それゆえ「理論」という語の意味をもしマートンのように、「経験的斉一性が導きだされるもとになる論理的に関(7)連しあった命題群」と定義すれば、両義性論は八理論の前段階Vの作業として、つまり厳密には「理論」でないものとして、性格づけられよう。けれども、存立構造論と共に、両義性論も社会学皿論の中に位置づけられるべきである。

なぜならこのような作業があってこそ、(後に見るように)マートンの定義する意味での「理論」の体系化や統合化も可能となるのである。またこのような水準での努力の成果を皿論と呼ぶことは、既になされたさまざまな社会学者の(8)Ⅲ様の仕珈が皿論と呼ばれうることからも不当ではあるまい。

に位置することを意味している。両義性論は一万において、社会認識にあたってのもっとも雅本的な視聴群の設定の 避礎づけの作業を自らは行わず、その点については存立椛造論の成果に依拠することによって、原理論とは区別される。 他力、両義性論は、経験的データに密満した形で法Ⅲ性を捉える命題を体系的に展開するということまでは月ざして

おらず、この点で、巾範川の皿論とは区別される。また、両義性論は、雌礎理論と言うべきであって、一般皿論と言うべきではない。なぜなら一般皿論はその肌想的な姿においては、一巡の命題群として定式化されるものであり、その一般的命題に特殊な条件を付加することによっ

てさまざまな特殊理論を導き出そうとするものであるからで恥塞・だが両義性論は、現実を把握するための川諮の定

義と洗練、及びそれらの体系化を月ざすものであり、特殊理論を斌鐸しうるような一般命題の定式化までを目ざして

では、川義性論よりも一歩具体性に近づいた水準で必要なのは、いかなる皿論であろうか。そこに必甥なのは、R・

社会学剛論の三水準一Ⅲ七

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社会学皿論の三水準一四八

K.マートンが捉咄した意味での「中範囲の理論」である。形式的性格から見れば「巾聴朋の皿総」とは、マートンが説明したように、「H々の訓門の間にうんと出てくる、ちょっとした、しかし必要な作業仮説と、社会行動、社会組織、社会変釛などについて観察されたすべての斉一性を税(し明しようとする統一的理論を股側するための、いっさいを包折した体系への努力との小間にある理論である」。言いかえると「中絶川の理論はそのレッテルが示すように、社会現象の局限された側而を扱うのである。たとえば、準拠

災川の、社会移動の、役割葛藤の、社会規範形成の卵論というよう、}・その担う課題の内容から見れば、中絶川の剛 論がめざすのは、社会現象の局限された側町の不す法川性を経験的データに接続する形で、記述し説明するような一

巡の命題群を柵簗することである。

この「巾範囲の皿論」の探題が、いかなるものであるかは、具体性に帝荷した調査研究との対比で、より叫碓に

なるであろう。経験的な調在研究においては、剛論化への努力は「作業仮説」や「経駿的一般化」という形で現われる。だがそれらがただちに中絶川の叫論になるのではない。マートンは、次のように説く。作業仮説とは、一定の事実にⅢ会った時、さしあたり思い浮かぶようなあれやこれやの説明であり、それはまだテストされたものではない。(川)それは、「日常われわれが杵使っている常識的手続以上にはほとんど川ないものである」。これに対し、「どの中範囲の

理論も、単なる経験的一般化’二つ、ないしそれ以上の変数間の観察された斉一的関係を笈約した、ばらばらの命瓢l(肥)以上のものである。一つの皿論は仮説群から柵成されていて、経験的一般化それ自身はそこから導きだされたのである」。つまり、完成された段階においては、一つの中絶川の皿論は、公準腓とも言うべき一定の仮説脈をその核心に持ち一、その公準群から論皿的に油鐸できる形で、多数の「経験的一般化」命題を体系的に配列するという形をとらねばなら

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このように経験的調査研究や経験的一般化と、中範囲の理論とは異なるものであるけれども、他方でマートンが強

調しているように、両者の関係は密接で相互依存的である。「中範囲の理論は抽象化を含んではいるが、それらの抽象化は観察データに密着しているので、経験的検証の可能な命題の中へ編みこむことができる」。理論でありなが

ら、経験的な観察に密着し、経験的事実としっかりとかみあっていること、これが理論のそなえるべき条件として、マートンの固執した点である。

このような中範囲の理論の第一級の労作の例としてマートンが言及しているのは、E・デュルケムの『月殺論」と(M)M・ウェーバーの『プロテスタンテイズムの倫理と資本主義の精神」である。この両著作は、中軸川の理論という性格づけだけではくみつくされないそれ以上の豊富な内容を持つものであるけれども、巾範囲の理論という文脈におい

てもその代表的位置にくることは確かである。

中範川の理論は、一方で、経験的規則性を捉える命題脈の形成をめざすことによって、社会を捉える複眼的な於礎視町群と於礎概念群の擬序と定義を主要な課題とする川幾仙論とは、区別される。他方で中絶川の皿論は、維駄的規Ⅲ性を捉える際に公埖脈としての体系性を持つことによって、単に斉一性を断片的に記述するだけの「経験的一般化」

とは区別される。このように性格づけられる中範囲の皿論は、存立構造論から川発し両義性論を経つつ現実にアプロ ーチしようとするとき、もっとも具体性に近い水準に位置すべき理論として不可欠のものである。

以上が、三水準の理論はどういう問題にとりくむものなのかという、水橘の第一の課題に対する答となるであろう。

社会学理論の三水準一四九 ない。マートンの定義する意味での「理論」という名がふさわしいのは、そのような形式にまで洗練されてこそであ

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では、原皿論としての存立構造論、堆礎理論としての川雑性論、巾範川の皿論という三水準の理論はどのような関

係にあるのだろうか。三水噸の川論の川にある二つの隣接而に即して検討してみよう。

第二節三水準の皿論の机互関係 社会学皿論の三水蛾

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(14)

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(15)

社会学皿論の三水淋一丘こし、両義性論は、両主体が文配関係の巾で染休的にどう行為するのか、あるいは正直的政治システムの作助原理がどのようなものであるかを捉えようとする。その把握のために、両義性論は、支配者と被支配者との間の正当性の共有(巴の椴度、両主体間の力関係、彼支配打肘内部の迎帯の限度、等々の鍵概念を設定する。そして、存立構造論が提川した「拡大された主体性」という主翅、すなわち協勧過樫の成果として生み出される価値が川発的な剰余価値を伴っているという主麺は、両義性論においては、協勘の成果たる価値の配分がいかに不平等に柵造化されるのかという間趣として、すなわち、支配システムの一契機としての「閉鎖的受益圏の階厨構造」の(〃)形成の問鼬として腰開されるqきりに存立柵造論において提出された⑲意志決定の質や視野に関する統率者と彼統率荷の州異の問題は、川義性論においては、パーソナルリアリティーにおける階刷間の問題定義の叢として、より豊富な内容を与えられる。すなわち、文配行(統琳背)のパーソナルリァリティーを記述するために「経徽問翅」、「支配問題」が、彼支配者(彼統率背)、)のそれを捉えるために「被格鑛・被支配Ⅲ皿」が、それぞれ鍵概念として設定される。このように両綻性論は、存立櫛造総が提川した論点と視服をより具体的な理論水準において展開するという、存立

橘造論のなしえなかった課題を果たし、そのことによって、存立柵造論の潜在的屈開力を剛在化させ、その有意義性

を間接的に立証するものである。

以上のような二つの意味において、原理論としての存立柵造論と於礎皿論としての両義性論とは杣補的である。

では、於礎理論としての両義性論と、より具体的水準にある中範川の理論とはいかなる関係にあるのであろうか。

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(16)

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(18)

脈あるいは側面に対しては、どの中範囲の理論(さらには一般理論を志向する理論)が採用している説明原理が有効であるのかを、両義性論は系統づけようとするものである。たとえば両銭性論の立場から見れば、社会システムの作(、)勁過限についての機能主義的な説明や、組織についてのコンテインジュンシー理論は、協勘巡閲の両義性のうち経鴬システムの文脈においてこそ、まず射程を持つはずである。また、H・A・サイモンの研究した「制約された合理性」(、)や「許容原理」によって特徴づけられる主体モデルは、経営システム内主体に側する分析枠組である。そして、M・

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(巴理と作動原理を対象にしている。さらに交換理論やゲームの理論や集合行動論がすぐれて有効性を持つのは、支配システムの一契機としての(正直的)政治システムにおける主体の行為原皿の解明、という文脈においてであろう。それゆえ川義仙論は、一つの中絶川の皿論が、その本来一淡当しうる伽域をこえて過剰に拡大適川されることに対して、批判を提出する。両義性論から見れば、経営システムに関してこそ妥当性を持つ説明原理を支配システムの領域

にまで肱人適川してもピントはずれとなるし、逆に支配システムの把鵬にあたって鍵となる視町や概念枠組を、その-

まま経営システムに転川しても、良い結果が得られないことは明らかである。以上が本稿の第二の課題、すなわち三水準の理論の相互関係がいかなるものであるのか、という問いへの答となる

ところで本節ロで吟察してきたように阿義性論がさまざまな巾範川の剛論を位悩づけうるということは、より一歩 進んで、中範囲の理論の累積的統合という長期的課題に対し、両義性論が一つの答えを提出するということをも含意

している。個々の中範囲の理論について言えば、それぞれは両義性論をまったく想定しなくても櫛築できるものであ

社会学剛論の三水準一互五 であろう。

(19)

まず、及川的な社会学皿論の発腿という文脈において、「巾範朋の理論」という水準での研究努力がいかなる概極(鋼)的恵投を持っているかを、R・K・マートンに即して柳確認しておこう。巾範肌の理論の水邸で鞭笑止研究を進めてきた社会学者は、マートン以外にも多数にのぼる。その中でマートン

がきわだっているのは、「巾範囲の理論」の水準での研究こそが、一般理論志向と個別的尖証研究志向という形での社会学的努力の両極分解に対する、もっとも確実な克服鏑として械極的意義を持つことを主張し、しかも、「巾範伽

の理論」が同時に社会学理論の体系化のためにもっとも汀望な艮期戦略であることを岨え、その自覚化を社会学研究行に求めたからである。マートンは、包拙的な体系性をもった社会学皿論の形成という長期Ⅱ標のためには、「巾範 中絶川の皿論の累枇的な統合という長期的訓瑚に対して、両義性論はどのように貢献できるであろうか。この問いを次のような問題群に分節しながら検討してみよう。まず、「中範朋の理論の累憤的な統合」という課題設定は、社会学皿論の発展にとってどのような意義を持っているのだろうか。この「統合」とはどういうことを脂すのだろうか。統合への努力はどういう困難さにぶつかるであろうか。その胴難さをどうやって克服したらよいであろうか。その際、両筏性論はどういう意味で貢献しうるであろうか。 社会学皿論の三水準一皿六り、両義性論は不可欠のものではない。けれども、巾範囲の理論という立場の長期的、総体的な企図との関係においては、両義性論は撫視しえない晒要な意獲を持つように思われる。このことをより詳しく検討してみよう。

第三節巾範川の理論の「統合」と両義性論との関係

(20)

(配)冊の理論を展開し、それを定期的に整理統△口する」という慎顛で息の長い戦略を採るべきだと主張し、パーソンズら

の一般皿論を早急に形成しようとする野心的な努力に対して、アンチ・テーゼを提川した。この点から見ると、中絶 州の皿論とは、一般理論にとりくむほどの自信と才覚を持てない荷がとりくむのにちょうどよい大きさの課題という

ような、椚極的なものではないことが明白となる。しかもマートンのこのような主帳が魅力と説得性とを雑ね倣えたものとなっているのは、それが科学方法論と科学

史についての該博な知識によって裏づけられているからである。マートンは社会学に限らず他の数多くの分野にわたっ

て、巾範川の皿論と本質的に同一の刀法を提岨した先人たちとして、プラトソ、ベーコン、』。s・ミル等の主張を紹介すると共に、医学や物理学といった先進科学が数百年にわたって進歩してきた過程を説明することによって、それ(坊)を側己の主張の例証と根拠にしている。

つまり科学史の領域で蓄積された豊富な知識を、社会学方法論の領域に転用し展開するという手続きによって、中範囲の理論という主張は支えられている。数百年という及川の視野で入局的に科学の発展史を観察してみると、大切なのは、多数の人々の努力が累穣し、しだいに理論の一般性と深さが蝋していくことである。累積的な一歩ずつの進(”)歩をとびこえて皿論体系を完成させるような天才はありえない。このような観点から、もっとも成功してきた先進科学の発峻の経路を方法論的に縦皿して炎現すれば、中範囲の皿論の漸次的統合によるより一般的な理論の形成、とい

う戦略が提川される。このような科学の発展史についての反省を根拠としているがゆえに、マートンは中範朋の皿論という戦略を確信をもって王帳すると同時に、一人一人の研究行のなしうることに対してきわめて謙虚な態度をとつ

ているのである。

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(22)

では以上のような外征的限界によって限界づけられた範川内では、すなわち法則定立的アブu1チの文脈で、綴験的データに密着した形で法則性を発見し命題体系に編纂していくという課題の内部においては、中範囲の理論はいか

なる難点にもぶつからないであろうか。

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個々の社会学徒にとっては、理論の形式的性格の妥当性よりも、いかなる観点と説明原理に基づいて現実にアプローチするのかということが絶えず切爽に問われる以上、巾範川の皿論という〃向づけは、この点でもの足りないものと

(24)

このことより、複数の中範囲の理論をはたして、またいかにして統合しうるかという第四の問題点が理論内在的に

提出される。複数の巾範朋の皿論を統合するということは、一つの碓災な小範川の理論を作るということとは、次元を異にする諜迦である。いったい複数の巾範川の皿論の統合という作業は、それらが兇画な説川原皿に立脚する時、

いかなる手続きでなされうるのだろうか。それらを統合する皿論とはいかなる性格のものであるのだろうか。マート

ンは「経験的一般化」と「巾範州の皿論」との区別には細心の注怠を机っているにもかかわらず、「複数の巾範川の理論の統合」とはどういうことなのかについては、突きつめた説明をしていないように思われる。「統合」をいかにして推進するのかということの堀り下げた究明が欠けていることが、八中範囲の理論の漸次的統合によるより一般的な皿論の形成Vというマートンの戦略の跨及、実現を妨げている人きな原因であろう。

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(25)

このように一細の公準脈を形成し、その射栂をより包括的なものへと拡張し洗練していくという狭い意味での統合が、社会学理論の発展の経路のさまざまな場所で必要であることは明らかである。ここに中範囲の理論の進むべき一

つの選択肢が立ち現われる。それは、諸理論の累概的統合をあくまで単一の包括的説明原理の構築と表裏一体となったものとして構想し、究極的には単一の説明原理を持つ一般理論の形成をⅡざす立場である。では社会学は、中範囲の諸理論からこのような狭い意味での統合をくりかえすことによって、そのような一般理論

を作りⅢすととができるであろうか。

しかしそのような企図は著しい困難にぶつからざるをえないであろう。なぜなら社会学の中に含まれる多種多様な観点と説明原理のほとんどすべてが、中絶川の理論という形式の中に議場しうる以上、そのような多様性をすべて包括するような一般性をもった単一の説明原理を、遠い将来であれ提出できるとはとうてい考えられないからである。無理にそのような単一の説明原理を提川しようとしたら、さまざまなこじつけや歪曲を生んでしまうであろう。これはどのような形であれ一般理論を志向する努力が、多かれ少なかれ突去あたる困難である。ではもう一つの選択肢として、異質な説明原理に立脚する複数の中範囲の理論がぶつかりあって狭い意味での統合が不可能な場合、両者をそのまま無関係に並存させておけばよいのであろうか。だがそのような形で統合への努力が停止するならば、それはマートンの提起した理論研究上の長期的目標を放棄することになってしまう。

このように皿論の統合ということを、単一の説明原理による諸理論の統一という意味に限ってしまえば、あまり生

物理学において、光につれたのはその一例である。 社会学剛論の三水準一一ハーー

いて、光についての波助説と粒子説との対立が、賦子力学という新しい説明原皿によって止揚され統合さ

(26)

ここで必要なのは、理論の統合ということを次のようなより広い意味に解することである。それはそれぞれ異質な説明原理に立脚するさまざまな咽の中範囲の理論を保持したまま、より広い皿論的展望の巾で、それぞれのいわば「出番」を明確にし、相互に関係づける、という意味での統合である。言いかえれば、この「広い意味での統合」とは、複数の異質な中範朋の理論が存在する場合、各々の理論を構成する視座と踏礎概念群が、現実をどういうふうに切りとるかぎりで妥当するかを吟味すること、そして複数の理論の現実へのアプローチのしかた、現実の切りとり刀が、

相互にどういう関係にあるのかを明らかにすることである。艦礎理論としての両義性論が巾範囲の理論にとって大切であるのは、この広い意味での統合という文脈においてで

ある。第二節口で見たように、両義性論がさまざまな巾範朋の理論を位慨づけうるということは、巾範囲の皿論の側

から見れば、自らの長期的統合の基盤を両義性論が提供することを意味している。両義性論は、さまざまな巾範囲の理論の持つ複数の公準群がそれぞれ妥当する対象領域と前提条件がいかなるものであり、どのような相互関係にあるかを、より根底的な水準での考察によって明確にするのである。もちろん両義性論は基礎理論の水準における一つの試みにすぎないし、両義性論がこの意味で「統合」しうる範囲は、中範囲の理論の総体に対しては、ごく一部にとどまる。だがこのような雅礎理論としての両義性論と中範囲の理

社会学理論の三水準一一ハーーー 産的でない選択におちいってしまう。つまり強引な一般化志向によってさまざまな説明原理を過度に単純化してしまうか、それとも異質の説明原理に立脚する複数の巾範囲の理論を無関係に並存させておくのか、という行きづまりである。この行きづまりを打開する第三の道はないであろうか。 うか、ある。

(27)

社会学皿論の三水邸一六四論との関係は一般化することが可能である。一般化していえば、雄礎理論の水傘に存在するさまざまな理論は、それぞれの担当する伽域の中の一定の中脳川の諸肌論に対して、この広い趣味での統合の於樅となりうる。このように「理論の統合」ということを広い意味に解し、巾範朋の理論よりも根底的な基礎理論の水準に、その統合の雌樅を求めることによって、マートンの提唱した、叩聴凹の理論の累枇的な統合を通しての社会学の発皿という

長期戦略に、新しい可能性を付与することができよう。

以上の本節で考察したことの要点を碓訓函しておこう。第一は、社会学の長期的発展にとって、中範囲の理論の累積的統合というマートンの方向づけが、積極的な意義を持っていること、そしてその主張の説得性が、科学史の知識によって裏づけられているという点である。第二は、にもかかわらず、中範囲の理論の普及は理論内在的にいくつかの難点に突きあたること、とりわけ肝心の

「統合」の激味や手続きについての解明が、、マートソにおいて不足していること。

第三は、理論の統合ということには、狭い意味と広い意味との二つが考えられること。第四は、巾範朋の理論の広い迩味での統合に対して、両幾仙諭が(そして一般化すれば醗礎理論の水地にある諸肌論が)その咄樅を提供するという亜要な貢献を果たすことである。これらが、本稿の第三の課題に対する答となるであろう。

(28)

原理論としての存立構造論、基礎理論としての両義性論、中範囲の理論という三水準の理論は、第一節で見たよう

にそれぞれ異画な課題を担うものであり、同時にそのことによって第二、三節で見たように、州皿に他の水堆の理論を文えあうものであった。このような三水準の理論の問いのたて方の異質性は、それぞれの理論としての性格をどのように異なるものにしているであろうか。つまりひとくちに社会学理論といっても、理論としての妥当性の吟味のしかた、経験的データとのつながり方、論証のしかたが三水準の理論の間でどのようにちがっているのであろうか。いわば理論としてのスタイルのちがいを、次に考察してみよう。まず理論の妥当性とはどういうことかということが、三水準の間で異なっている。理論の妥当性ということの基準

は、巾脆川の皿論においては皿論命題の経験的な真偽の問題としてある。経験的データと川らしあわせて、真なる命題を提示する理論が妥当な皿論であり、そうでない理論は妥当性をもたない。それゆえ、巾範囲の理論においては社

会現象の示す経験的法則性が、実証可能なあるいは反証可能な命題として定式化されねばならない。これは、社会学の「科学性」を強調する論折が巾範囲の皿論を支持し、称揚する一つの皿Ⅲともなっている。ところが、基礎理論としての両義性論や原理論としての存立構造論においては、理論の妥当性ということの意味が中範囲の理論のそれとは異なっている。基礎理論の水準においては、複数の理論的立場が競合した時、その妥当性、優劣を、経験的データと照らしあわせての真偽という判断狂準によって、ただちに決することはできない。なぜなら

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第四節三水準の理論の質的差異と相補性

(29)

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(32)

その第一の愈味は、既に第二節で説明したように、より原皿的な水率における泓礎づけとより共休的な水準におけ

る現実への接近という文脈での相補性である。存立構造論は、より具体的に現実を捉えようとする時に突きあたる自らの限界をのりこえ、その満在的展附力を結突させるためには、両義性論と巾範川の皿論とをnらの上に敢燗化する

ことを必要とする。於礎理論としての両義性論は、一万で自らの出発点を存立構造論によって根拠づけられることを

必甥とし、他力で、法則性を捉える命題群の体系的柵築のためには中絶川の皿諭を必要とする。中絶川の川論はさまざまな中絶川の理論の位悩関係を明確にするにあたって、またさらに長期的な統合の軸を求めるにあたって腿礎理論

(としての両蔑性論)と原理論(としてのが血柵造論)とをnらの根底に砿肘化することを必喫とする。三水準の皿論の川棚性ということの第二の意味は、一つの対象を捉える際の視腿の三愈性ということである。これらの三水妙の皿論を取刑化することによって、一つの対象を川時に三砿の文脈で認識することが可能となる。たとえば

社会学皿論の三水準一六九 このような三水耶の皿論の異磁性を見すえた上で、円度、それらの川Ⅲ関係がいかなるものであるかを、雌認しておこう。このような三水準の理論としての異哲性は、Ⅲ、の矛噛や背反性を意味するものではなくて、むしろこれらの州柵性を示すものなのである。ではが立柵造論、阿筏性論、小側肌の理論の側にはどのような意味での川棚性があ との関係において、また社会学皿論の内部柵造において、異なる三つの水準に位慨していることの帰納であり炎現なるだろうか。 のである。以上が本稿の第四の灘題への答となるであろう。

(二)

(33)

社会学理論の三水率一七○ある企業の中の労使関係をとりあげた場合、まず存立構造論の水準においては、労使関係の根底にある支配の生成のメカニズムについての洞察が与えられる。次に両義性論の水準においては、その労使関係が支配システムと経営システムの二頭の文脈に位置しており、支配システムの文脈においては垂倣的政治システムのとりうるさまざまな状柵の中の一つに位置しているということ等について、理解が得られる。さらに中範囲の理論の水準においては、当該の

労使関係が経営システムと支配システムのどのような類型と状机を前提的枠組としているかの確認の上で、労使双方

の行為をめぐる規則性を命題の形で整理することができるであろう。

単にどれか一つの水準において社会を認識する場合に比べて、視座の三重性を保持することは、対象の持つ敢府的

な意味を明らかにする点ですぐれている。それぞれの水準の理論が提供する照明と意味発見は相互に他のものによって代替できない。このような視蝿の三亜性が保持されるならば、同時に次の二つのことが可能となるであろう。それ

は一方で、変転きわまりない社会現象の見かけの多様さにHを肱せられることなく、個々の対象を原理的、骨絡的な社

会把握の文脈において捉えることであり、他力で、個々の対象を抽象的な理論枠組の一例証へと厄しめるのではなく、それらを個性的、具体的姿において認識することである。三水準の理論の相補性ということの第三の意味は、八多様な現象の体系的把握Vという点にある。一般に、社会学理論の形成において、社会現象の示す多彩さと振幅の巨大さに対する敏感さを保持しながら、しかも、多数の異質な理論をばらばらに並置するのではなく、体系性をもった理論群として理論を作るにはどうしたらよいであろうか。そ

のためには、一方で具体性に近い水準において、観点と説明原理との徹底的な分節化を行う必要がある。つまり、それぞれ独自の発想や公準群を持つ複数の理論群を作ることが必要である。そうしなければ、社会の示す多様な姿をそ

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存立柵造論、両稚性論、巾範川の理論という三水地の皿論は、このような多様性を体系的に把搬するという課題に関して州柵的である。まず具体性に密汁した水準において、現実の多様な姿を捉えるためには、さまざまな観点と説

明原理に立った、複数の巾範囲の理論群を作ることが必要であり、また何効である。そして、第二節口と第三節で見

たように両誰性論は、経営システムと支配システムという観点から可能な限りで、いくつかの巾範囲の理論をより堆

礎的な水率において、広い意味で統合する。しかも、その統合の枠紺は盗怠的に選択されたものではなく、存立柵造論のとりくんだ社会システムと社会内主体の原理的な関係についての考察によって、基礎づけられている。

言いかえると、存立柵造論と両義性論の巾には、現実の示す多撤性あるいは振幅の巨大さを体系的に捉えるための

雄軸となる観点が、いくつも組みこまれている。その第一は、対象的Ⅱ客観的な社会システムと、主体的Ⅱ主観的な 行為という両極を捉える観点であり、この両極を結ぶ杣に沿って多様な現象が配列されうる。

第二は、経営システムと、支配システムの両義性という観点であり、この両義性への分節は混沌とした現実を捜序しつつ複眼的に捉える行力な枠組となるであろう。この観点から兄れば、一方で、総徴システムにおける調机、協力、相乗性といった特徴を一面的に取り上げることによって社会像を平板化する態度を回避するべきであるし、他方で、支

配システムにおける強制、不平等、机剋性といった特徴のみに雄づいて一面的に叩純化された社会像を形づくるとと

社会学皿論の三水準一七一 れに適合する形で、把握することは不可能であろう。他力で、理論のより基本的な水準において、さまざまな観点と説明原理の机皿関係を明らかにし、述結するような枠組を川意する必要がある。そのような述結の枠組がなければ、現実に帝軒したより共体的な水率において作られる襖数の皿論群は、州互に無縁なまま拡散してしまい、断片的な求まにとどまるであろう。

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