著者 阿部 朝衛
出版者 法政大学史学会
雑誌名 法政史学
巻 38
ページ 18‑46
発行年 1986‑03‑24
URL http://doi.org/10.15002/00011000
石器は原石とそれを加工する技術によってできあがる。したがって、石器の変化は現象的には原石・製作技術との変化と関連し、そしてこれらの背景には自然環境。文化的環境の変化がその要因として潜んでいる。このような脈絡の中に石器製作技術研究の重要性がある。ところが、縄文時代の石器製作技術の研究は、旧石器時代研究の進展につ(1)れ、以前にも増して進められてはいるものの、いまだその全容は把握されてはいない。ここではその基礎的研究として、打製石器製作技術の基盤である剥片生産技術、特に縦長剥片を量産する技術に注目し、考察を加えることとする。縦長剥片生産技術の典型は石刃技法であるが、これは後期旧石器時代に盛行し、新石器時代以降まで存在するもの 法政史学第三十八号
はじめに
繩文時代の縦長剥片生産技術
縦長剥片生産技術の定義にあたって、この技術の捉え方に違いがあるため研究者間で統一見解が承られてはいない(4)が、ここでは縦長剥片が連続的に石核から剥離される技術として捉えておく。石核の特徴として、剥離作業面が縦長 である。日本においても後期旧石器時代に一般的にふられるが、縄文時代でもその存在が示唆されている。それは北海道各地の資料をもとに示され、石核・剥片。石器の特徴および相互の関係を検討することによって、「狭長割裂片」を連続的、組織的に剥離するための「連続割裂法」として(2)(3)設定されている。その後、いくつかの論考があり、最近に至って資料が増加し、その内容がわかりつつある。そこでこの剥片生産技術の実態と意義を追究してみることとする。
二各地の縦長剥片生産技術
阿部朝衛
八
であり、しかもその稜線群がほぼ平行し、間隔が狭いことがあげられる。そして、その稜線群の延長線の一端または両端に打面が設定される。縦長剥片とは、打面を水平にした場合の長さが幅の二倍以上のものとする。中でも、剥片の両側辺および一端または両端からの打撃によって形成された背面稜線がほぼ平行するものを、剥片が連続的に剥離されたことの指標とする。剥片生産技術の復元には、剥離された剥片すべてが石核に接合し、それによって各工程・各調整およびそれら相互の関係が把握されることが最も望ましい。そして、各工程で剥離される剥片、主目的とされたであろう剥片そして石核の特徴が把握されれば、接合しない資料でも技術の復元は可能である。また、工具などの復元も必要である。しかし、今回扱った資料には接合資料が数例しかないため、先に述べた石核・剥片の形状と剥離面の特徴から主として復元を行った。管見によれば、北海道・東北地方・九州地方の資料に認められた。なお、北海道の石刃鎌石器群の技術基盤であり、高度に発達した石刃技法については、本章では触れない。
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居辺料遺跡この遺跡は十勝平野の内陸部上士幌町に所
細文時代の縦長剥片生産技術(阿部) 在する。遺跡からは旧石器時代・縄文時代・続縄文時代の遺物が出土しているが、縄文時代早期暁式類似の土器に伴って石核が一点発見されている(第1図7)。この石核は黒雁石を石材とし、高さ九・二センチメートル、幅七・六センチメートルを測り、北海道の縄文時代にあっては大形のものである。原石の粗割面を打面とし、そこから連続的に縦長剥片が剥離され、裏而には自然面が残されている。調整として頭部調整が注目できる。この他、縦長剥片を剥離した石核。縦長剥片素材のスクレイ.〈1などが多く出土しているが、所属時期は特定できない。(6)トピニウス川南山岸遺跡この遺跡は知床半島の南岸に位置する。遺跡からは純文時代早期沼尻式期の住居跡・士擴とともに石器も多く出土している。打製石器の石材はほとんどが黒曜石である。石核が.一点発見されている(第1図1)。報告者は、この石核が遺構外から出土しているため、沼尻式に伴うものであるという断定は避けているが、剥片との関連からみると伴う可能性は高い。この石核は黒曜石円礫を素材とする。原石の粗割面を打而とし、連続的に縦長剥片が剥離されており、剥離作業面は石核をほぼ全周する。下端には日然面が残されている。石核は、高さが四・六センチメートル
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第1図居辺14遺跡(7)・トピニウス川南岸遺跡(1~4)。日進 遺跡(5.6)出土資料(註5.6.7文献より)
で、小形である。剥片の詳細は不明であるが、縦長剥片を素材とするスクレイ。〈-類が多く承られる(同図3.4)。これらは、素材背面の剥離面が腹面と同方向の打撃面によって構成され、その長さが五センチメートル前後である点で共通する。との特徴は先の石核の特徴に対応するものと糸られる。(7)日進遺跡この遺跡は北海道北部名寄盆地の名寄市に所在する。ここでは縄文時代前期のいわゆる日進式土器が主体として出土し、石器も多数出土している。第二トレンチから石核が五点出土しており、四点が珪岩、一点が黒曜石を石材とする。珪岩製の右核の高さは内~一○センチメートルを測る。これらの石核には、原石の粗割面が打面ときれ、そこから連続的に剥離が加えられているものがあるといわれ、「磯山類似技法」として位置づけられている。剥片は、第二トレソチでは、微細な剥離痕をもつ剥片を含めて五七七点出土しており、これらのほとんどが、背面に一・二本の稜線をもち、面側辺のほぼ平行した剥片である。大きさは、大形のもので長さ一三~一五センチメートル。幅約四センチメートル、小形のもので長さ四~六センチメートル、幅約一センチメートルであるという。石材の大半は珪岩である。これら剥片の特徴は石核の特徴と関連
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繩文時代の縦長剥片生産技術(阿部)
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性があるものと承られよう。第二トレソチでは、打製石器として、石鑑一三点、石槍八点、右錐三点、石匙七点、スクレイ.〈-類一五点、サイドブレイド状石器二点、彫刻刀形石器一一点が出土しており、縦長剥片を素材とするものは主にスクレイ.〈-類(第1図5.6)。石匙に承られる。(8)幌別川口遺跡この醒退跡は知床半島の中あたり目梨郡斜里町に所在し、オホーツク海に面した段丘上に立地する。遺跡からは、縄文時代中期の北筒式期の遺物が主に出土し、石器は九九一九点を数える。打製石器の石材は黒曜石が主体で、わずかに頁岩・メノウがみられる。石核は十八点出土しており、ほとんどが拳大の黒曜石円礫を石材としている。そのうち四点が縦長剥片を剥離したとゑられる石核である。第2図2.3は、原石帆割面を打面とし、ほぼ石核全周に剥離の加えられた円錐形の石核である。打面には調整が施されている。M図1は、打面が数回の剥離によって形成された後、石核の片面に連続的に剥離が加えられ、裏面に自然面が残される石核である。剥離作業面が幅広である点は注目される。他の一一点を含めて、打面がひとつに固定されている点は特徴的である。また、石核の高さは三・二~六・’一一センチメートルで、小形の石核が多い。
これら四点以外の石核も小形のものが多い。しかし、それらは作業面と打面とが交互に入れ替わるような右核で、チョピソグトウール状を呈するものがある(同図4)。また、剥離面からみると、不定形の剥片が剥離されたものと理解される。剥片はチップも含めて八五七八点出土しているが、縦長剥片の詳細は不明である。しかし、二六四点出土したスク(9)レイパー類の五○点が図一示されており、その中で縦長剥片を素材としたもの(同図5~8)は三○点以上認められる。これら縦長剥片は、その背面の剥離方向が腹面と同方向のものがほとんどであり、これは石核の打面が固定的であることと関連する。また、スクレイ。〈I類は、長さ六センチメートル前後のものが多く、石核の高さより若干大きいものの、石核が残核であることからすれば両者の対応関係はあるものといえよう。この他の打製石器として、石鑑一五○点、石槍一八六点、石錐一六点、石匙四点、両面加工の石器二一一一点が出土しており、縦長剥片を素材としているものは石匙である。スクレレ.〈-類・石匙以外の打製石器は二次加工がほぼ全面に及んでいるため、その素材の詳細は不明であるが、報告者によれば、石鑛未成品の特徴から、小形の石器の素材はチョピソグトウール状の小形石核から剥離されたものと 法政史学第三十八号
推定されている。(肥)オンネナイ第2地点遺跡この遺跡もオホーツク海に面し
た紋別市に所在し、現在の海岸線まで約一・六キロメート
ルの所に位置する。ここでは縄文時代中期の北筒式を中心とした土器とともに、五七八六点の石器が出土している。石材のほとんどは黒帰石である。石核は四三点出土しており、三二点以上が縦長剥片を剥離した石核と詮られるものである。これらの石核は、打面が一回の剥離によって形成され、石核のほぼ全局に剥離の 及ぶ円錐形のもの(第3図1)、打面が二回以上の剥離によ
って形成され、剥離作業面の裏側に自然面を残すもの(同図2~5)に分類されている。いずれも打面はひとつに固定され、六○~七○度の角度で剥離が行われている。ほとんどの資料に打面調整がみられる。また、打面再生剥片(同図6)が出土しており、打而再生も行われた可能性が指摘されている。この他の右核は、打面転位が著しく、打面調整はほとんど翠られないという。また、剥離作業面の稜線はあまり平行でなく、不定形な剥片が剥離されたものとふられる。これらの石核は小形で、高さが五センチメートルを越えるものはないという。剥片はチップなどを含めて五五二二点出土しており、そのうち一二四七点が縦長剥片であるという。露蕊感 議壗鷺
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第3図オンネナイ第2地点遺跡出土資料(註10文献より)
打製石器として、石鍼九点、石鈷一七点、石槍七点、尖頭器類破片三五点、石錐二点、石匙一一一六点、両面加工削器一点、スクレイ.〈1類九二点が出土しており、そのうち縦長剥片を素材としたものは石匙(同図、~⑫)・スクレイ。〈1類(同図7~9)である。石匙では五八。〈-セント、スクレイ。〈-類では、二九.〈-セントを占めるという。これら素材の背面剥離而は、図示された資料ではすべて腹面と同方向の打撃による剥離面で構成されており、これは石核の打而が固定されていることと関連する。ただし、石匙・スクレイ.〈-類は長さ五センチメートルを越えるものが多く、石核の高さより大きい。しかし、発見された石核は残核であり、打面調整・打面再生が行われていることから、
剥離作業中の石核の高さは五センチメートルを越えていた
ものと推定される。(Ⅱ)開成2遺跡この連退跡は北海道の東部、北見市に所在し、オホーツク海まで直線距離で約四○キロメートルの所に位置する。出土遺物は、土器片一二二点、石器一七五一点、その他五点の計一八七八点であり、土器に比べ石器の数量がはるかに多いことが注目できる。土器は縄文時代中期の北筒式で、石器もほぼこれに伴うものと考えられる。打製石器の石材は、ほとんどが黒曜石である。石核は二点出土しており、図示された八点中五点が縦二
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長剥片を剥離した石核である。これらには、原石の粗割面を打面として連続的に剥片を剥離するもの(第4図1)、打面調整の施されたしの(同図2)がある。いずれも、裏面に自然面を残す。後者は、剥離作業面と打面とが同時に転位されている。この他に、打面と剥離作業面とが交互に入れ替わるチョピングトウール状の石核が存在する(同図3)。これらの石核も小形で、高さ五センチメートル前後のものが多い。また、残された自然面から糸た場合、原石の大きさは拳大ほどであったと推定される。剥片は一五三七点出土しており、そのうち一五一一一点が石刃であるという。図示されてある石刃は、背面剥離面の打
撃方向が腹而と同方向のものがほとんどである。長さが五
センチメートルを越えるものもあるが、これらの石刃と先述の石核とは対応するものと考えられる。打製石器として、右鍼・尖頭器・スクレイ.〈-類などが出土しており、縦長剥片を素材とするものは主にスクレイ。〈1類に認められる(同図6~8)。図示された二五点中、
一○点以上が縦長剥片を素材とする。(⑫)上泊3遺跡この遺跡は、北海道北端に浮かぶ島、礼文島の東岸に位置する。住居跡などと共に大量の遺物が出土
している。縄文時代中期・続縄文時代の土器が出土しており、前者が圧倒的に多いことから、石器の大多数は縄文時 法政史学第三十八号代中期に所属するものと考えられる。石核は七七点出土し、これらは主に頁石を石材とする。一二点が図示されており、そのうち二点が縦長剥片を剥離した石核である。第4図狙は、|側辺が粗割面、片側辺が自然面に狭まれた作業面をもつ石核で、打面調整・頭部調整が著しくみられる。高さは五・九センチメートルを測る。同図Ⅳも調整が著しく染られる。石核の裏面に下方向から剥離が行われた後、剥離作業面が形成されているようである。高さは七・一五センチメートルを測る。ともに打面は固定的である。この他の右核は、剥離作業面・打而が転移するものが多く、形状。大きさにバラエティーをもつ剥片が剥離されたと理解される。縦長剥片石核に対応する頁岩製の剥片が一二九点出土
し、その分析が行われている。それによると、背面の剥離
面構成に関しては、腹而の剥離方向と同方向のもの(同図9~u)八○。ハーセソト、一部の剥離面が腹面と逆方向のもの(同図⑫)一一一。〈1セント、その他一七。〈1セントで、打面と剥離作業面との関係が固定的であったと理解される。打面は、調整打而のもの七三・五。ハーセソト、|而の剥離面のもの一二・五.〈-セント、その他一四。〈-セントで、打面調整が頻繁に行われていたものと理解される。打角は一○○~一二○度に六割が集中し、一○一~’○五度四
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繩文時代の縦長剥片生産技術(阿部)
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開成2遺跡(1~8)。上泊3遺跡(9~19)
出土資料(註11.12文献より)
にピークがある。長さは五・四~一三・二センチメートルで、長幅指数は三○○前後に集中する。以上の諸点は、長さが石核の高さより若干大きいという点を除けば、先述の石核の特徴とほぼ一致する。また、この縦長剥片は剥片の中で四・〈-セントを占めるが、これは縦長剥片石核も少数であることに対応する。報告の写真図版で石核と剥片の接合資料が二例示されており、その一例は、両側辺が自然而に狭まれた縦長の剥離作業面をもつものである。打点が左右に動きながら、打而の長軸に沿って奥へと剥離が進むもので、その最初に両而加工によって剥離作業面の稜を形成していることが注目できる。打一製万器として、万鍼・打鈷・石槍・石錐。石匙・スクレイ。〈1類などが出土しており、石匙(同図珀.、)・スクレイ。〈1類(同図皿~聰)に縦長剥片を素材とするものが多く承られる。(週)船泊遺跡この遺跡も礼文島に所在する。細文時代中・
後期などの遺物が採集されているが、ここでは後期の船泊
上層式に伴うとみられる資料を扱うこととする。石器は、石錐・スクレイ.〈-などであるが、頁岩を石材とするものに、縦長剥片生産技術の存在が推定される。
頁岩を石材とする石器にはスクレイ。〈1類一○点、剥片 法政史学第三十八号一八点、石核一点がある。剥片は三点を除きすべて縦長剥片である。背面の剥離面構成に関し、腹而と同方向の加撃による剥離面で構成されるもの(第5図1.2)一三例、同方向および下方向からの加撃による剥離面で構成されるもの(同図3)一例、その他四例であり、打而は固定的であると理解される。打而の剥離而構成は、|而のものが一二例以上認められ、打面調整はあまり行われなかったものと推定される。頭部調整については、これが梁られるものは七例で、かなり頗繁に行われていたものと思われる。大きさは、長さ六~九センチメートル・幅二~四センチメートルに集中する。このようにしてゑると、原石の粗割面を打面とし、そこから連続的に縦長剥片を剥離する技術であったと推定される。スクレイ。〈-は、七点以上が縦長剥片を素材とし、打而・背而などの特徴はこれら剥片の特徴と一致する。また、同図4のように、背而に両面加工の施されたものが存在し、頭部調整の他に剥離作業而の稜形成を行う調整が行われていた可能性がある。石核は(同図7)は、剥離作業而が縦長ではないものの、川割而を打而とし、班続的に剥離が加えられる点では、先に推定した技術と類似する。この他、貝製品・メノウを石材とした石錐などが採集さ 一一一ハ
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繩文時代の縦長剥片生産技術(阿部)
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第5図船泊遺跡(1~7)。岐阜第三遺跡(8~10)の資料(後者は註15文献より)
れており、貝製品は極東地域との関連を示すものとして注(u)目されている。(焔)岐阜第三遺跡この遺跡はオホーツク海に面した常呂川
下流域に位置する。縄文時代・続縄文時代などの住居跡群 が検出され、続縄文時代江別A式期の加号竪穴住居跡出土 の石器群が注Rできる。それらは、住居跡の床面または炉 穴から出土したもので、スクレイ.〈1一一一点、石核三点、剥
片一四点からなり、黒耀石を石材とする。一点の石核が縦長剥片を剥離した石核である(第5図 、)。打面が固定され、ほぼ全周に剥離の及んだ円錐形の 石核である。打面は三つの剥離面で構成されており、打面
再生の行われた可能性が指摘されている。石核は、高さが約三センチメートルで、小形である。この他、チョピソグトウール状の石核(同図8)、剥離作 業面が原石の片而に設定され、裏面に日然石を残す石核
(同図5)があり、いずれも小形である。剥片一四点は、長さ五センチメートル前後、幅一・五~
一一センチメートル、厚さ○・三~○・七センチメートルを測り、縦長である。これらは「連続割裂技術」によるものとされている。スクレイ。〈1類には縦長剥片を素材とするものは認められず/縦長剥片がどのような石器の素材となっているかは七
ロ東北地方(囮)橋上遺跡この遺跡は山形県山形倫地の西側、月布川の河岸段丘上に位置する。ここでは、縄文時代中期大木、式の土器とともに、八○○○点を下らない石器が川土している。石材は頁岩が主体である。剥片・石核は二○○○点以上出土しており、これらの分析および接合作業によって、一一一つの剥片生産技術が復元されている。ひとつは、剥片生産技術Aと分類された縦長剥片生産技術である。打面は原石州割而を用い、打而調整・打而再生が行われる。また、打而は固定的であるが、下方向から剥離が行われる場合がある。打而の調整の他に、作業面の稜、石核の側辺・頭部などへの調整も行われる。第6図1は打而再生剥片の接合した石核で、裏面には下方向からの打撃が行われている。同図4も接合資料であるが、あまり打而調整は施されていない。同図5は、剥離がほぼ全面に及ぶ円錐形の石核である。同図3兆円錐形の石核であるが、下方向から打撃》が加えられている。しかし、下方の打面は残されていない。同図2は、裏面に両面加工が施され、下縁からも剥離が行われている。下縁からの剥離は、 法政史学第三十八号
不明である。石核下部を鋭角にし、剥離作業面を長三角形状にするため
の調整とも考えられる。右核の両側辺には自然面が残され
ており、原石の形状をうまく利用し、打而と作業而とを設定したものと理解される。剥離作業の進行状況については、これらの資料から糸ると、最初に、打而および作業而の稜の形成などが行われ、次に、石核の一面に主として剥離作業が加えられ、最終的には石核のほぼ全周に剥離作業が及ぶものと推定され潟。そして剥離作業の問に打而調整・打而再生・頭部調整が行われたのであろう。なお、打点は、打而上を左右に移動するが、剥離作業面の新旧関係から染ると、左↓右へという例が多いようである。これら石核の高さは八センチメートル前後であり、また、原石の大きさは拳大から幼児の頭大のものまであるという。
縦長剥片は、剥片全体の約五パーセントの一一一六点以上
出土している。長さは平均七。四センチメートルであり、長幅指数は平均二六七であるという。この他、二つの剥片生産技術B・Cが石核から復元されている。Bは厚手の剥片素材の石核から小形の剥片が釧離されるもの(同図7)で、Cは形状・大きさはバラエティーをもつ剥片が石核全体から剥離されるもの(同図6)で一
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繩文時代の縦長剥片生産技術(阿部)
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橋上遺跡出土資料(註16文献より)
(縮尺は2~7が約1/3,1.8~14が約1/4)
第6図
ロ九州地方〈ロ)山角一逗跡長崎県東彼杵郡波佐見町に所在する。縄文時代中期の阿高式系土器とともに三一一一一点の石器が出土している。石器の石材は、約八○.〈-セントが黒曜石である。 ある。いずれも調整の存在は確認されていない。これら剥片生産技術の量的な関係を石核の数量で求めた場合、縦長剥片生産技術はその半分を占めるようである。したがって、縦長剥片そのものは剥片の中で約五。〈-セントではあるものの、調整剥片など縦長剥片生産技術に関わる剥片はかなりの数量に上ると予想される。さて、これらの剥片生産技術から得られた剥片は、どのような石器に加工されたであろうか。出土した打製石器は、石鑛一四五点、石錐七六点、石匙二九点、打製石斧または箆状石器一一九点、スクレイ。〈-類一一一六九点、であり、縦長剥片を素材とするものは主にスクレイ.〈-類(同図9~皿)・石匙(同図8)・箆状石器であるという。図示されたスクレイ。〈-類六六点中、縦長剥片を素材としたものは五三点以上認められる。また、剥片生産技術Bの剥片は石縦・万錐の素材となり、剥片生産技術Cの剥片は万鍼・石匙・箆状石器などの素材になるものと推定されている。 法政史学第三十八号
四点以上の石核が出土しており、縦長剥片を剥離した石核が存在する(第七図1)。これは打面調整が行われているという。石核裏面には白然而が残されている。石核は、高さ三センチメートル程で、小形である。この他の石核には円盤状を呈すものなどがあり、不定形の剥片が剥離されたと推定される。剥片の数量は不明であるが、縦長剥片は二六点以上出土しているようである。これらの背而剥離而構成は、腹而の打撃方向と同方向の剥離而で枇成されるもの(同図3.5)九点、同方向および逆方向の剥離面で構成されるもの(同図4.7.8)’二点、その他五点で、両設打面の石核も存在したと推定される。剥片の長さは五センチメートルを越えるものは少く、小形のものが多い。石鑛・スクレイ。〈-などの素材については不明な点が多いが、縦長剥片は同図2のような石器の素材ともなっている。また、同図9.mもその可能性がある。(咄)柏田遺跡福岡県春日市上白水に所在する。縄文時代中・後・晩期の遺物が出土している。出土土器の全重量のうち後期のものが九八・七.ハーセソトを占め、石器はほぼこの時期に所属するものであろう。打製石器の石材は、サヌカイトが若干染られるものの、黒曜石が主体を占める。石核は三五点検出され、そのうち二点が縦長剥片を剥離
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繩文時代の縦長剥片生産技術(阿部)
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第7図山角遺跡出土資料(註17文献より)
したものといわれる(第8図1)。これは、高さ六・七二センチメートル、幅五・一九センチメートルで、長方形に近い平面形を呈する。作業面の上下両端に打面が設定され、作業面と打面とのなす角度が六○度前後であるという。石核裏面には自然面が残されている。上の打面は複数の剥離両で構成され、打而調整が行われた可能性を示して
いる。他の一点も両設打面で、大きさ・形状などはほぼ同
じである。この他に、石核周辺から剥離の加えられた円盤形のもの(同図3)、打而がひとつに固定されているもの(同図2)、
下または横からの剥離はあるものの、ほぼ固定された打面をもつもの(同図4.5)などがある。前一者からは大きさ・形状にバラエティーをもつ剥片が剥離されたと推定される。後三者は円錐形または半円錐形を呈し、縦長剥片を剥壹離したとも推定される。しかし、いずれも小形である。(p)剥片の出土具學は不明であるが、刃器が五七二点出土し、これらの大半は縦長剥片を素材としている。刃器は一四七点図示され、これらの背面剥離而構成を検討すると、背面剥離面が腹而と同方向のものが二七。〈1セント、同方向および反対方向のもの(同図6~u)四六。〈1セント、その他、上下方向。横方向からの剥離のあるものなど二七。〈1セントである。これらは、長さ四・○~五・○センチメー轤辮蟻 繼
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51cm
トル、幅一・五~二・○センチメートルに集中する傾向が窺えるという。これら剥片の特徴はほぼ先述の石核の特徴と一致する。また、剥片の観察によって、剥離作業而稜の調整(同図⑫)や頭部調整(同図8)の存在が推定される。さらに、剥片と石核の飼互の比較から、剥離作業面の両側辺から中央へという順序で剥離が行われる場合が多いという。打製石器として、尖頭状石器(同図咀)一○点、右鑛(同図叫。巧)円八一点、つま象形石器(同図羽・型)五三九点、台形状石器(同図咀・、).一六点、石錐(同図沁・Ⅳ)五二点、彫器(同図加)二八点、サイドブレイド(同皿・犯)二六点、スクレイ。〈1類(同図朋・妬)一三七点があり、すべてに縦長剥片がその素材に用いられている。特に、尖頭状石器。石鑑・石錐を除く石器はその割合が高い。これらの石器は、折断などの加工が施されるものの、素材の形状が大きく石器の形状に残される。(卯)千里シビナ遺跡福岡県福岡市西区に所在する。縄文時代後期から弥生時代前期の遺物が出土し、石器の半数は縄文時代後期のものとされている。打製石器の石材は黒鵬石が主体を占める。石核は二○点出土し、図示されている七点中二点が縦長剥片を剥離したと思われるものである(第9図1.2)。と
繩文時代の縦長剥片生産技術(阿部) 屯に、二つの剥離作業面をもつ。正面の剥離作業面の打面は、一点は一面の剥離面で構成され、他の一点は複数の剥離面で構成される。二点とも高さは五センチメートルを越えるものではなく、小形である。この他に楕円形(同図3)などの石核があり、いずれも小形である。剥片の詳細は不明であるが、側辺および背面の稜線が平(、)行関係にある縦長剥片素材の刃器が多く出土している。これらの刃器は長さ五センチメートル前後のものが多い。図示された二六点を検討すると、背面の剥離面構成に関して、腹面と同方向の剥離面で構成されるもの(同図6)一八点、同方向および下方向の剥離面で構成されるもの(同図4.5.7)八点が認められ、両設打面の石核の存在が推定される。石鑛・石錐・尖頭器。つま承形石器・サイドブレイドなどが出土しており、主にサイドブレイドの素材として縦長剥片が使われている。また、一部の石鑑・つま朶形石器に縦長剥片を素材としたと思われるものが存在する。(Ⅲ)四筒周辺遺跡J1旧i地点この遺跡は福岡県福岡市に所在する。縄文時代後期・弥生時代の遺物が出土し、石器の多くは縄文時代後期に伴うものとされている。右核は二九点出土しているが、すべて円盤形、または剥離作業面と打面とが複数みられ、多面体を呈するものなど
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第9図千里シビナ遺跡(1~7)・四筒周辺遺跡J-10i地点(8~12)。
田村遺跡(13~15)出土資料(註20~22文献より)
である。(四)しかし、剥片は、刃器(第9図8~、)一○八点・砕片四六四点を含めて九六二点であり、比較的、縦長剥片が多いものと理解される。図示された刃器のうち一一一八点の背面
剥離構成を検討すると、腹面と同方向の剥離面で構成され る屯の一八点、同方向および反対方向からの剥離面で構成 される屯の一八点で、単設打面と両設打面の石核が存在す
るものと考えられる。これらの他に打製石器として、石鑑七五点、石錐六点、
つまみ形石器一一一一点、尖頭器五点、彫器一一一点、換形石器三五点、サイドブレイド八七点、石匙二点、スクレイ。〈-類 三八点、サヌヵイト製剥片石器一八点が出土しており、縦 長剥片を素材としているものは主にサイドブレイド・つま 糸形石器(同図皿)に認められる。また、剥片鍼の中にも 縦長剥片を素材とするものが存在するようである。
(皿)田村遺跡福岡県福岡市に所在する縄文時代早~晩期の 遺跡である。石材は黒耀石が主体である。 石核は七点以上出土し、そのうち三点が縦長剥片を剥離 した右核である(第9図、~巧)。いずれも両設打面で、週 は上下の打角が六○度前後、型は上の打角が九○度前後、 下は六○度前後、巧は上下とも八○~九○度を測る。ま た、そのいずれも四辺形を呈することが特徴としてあげら
繩文時代の縦長剥片生産技術(阿部) 以上のように三つの地域において、石核と剥片の諸特徴の正合性の点から、縦長剥片生産技術の存在を指摘してきたが、次に、石核をもとに、剥離作業面・打面との関係から技術の類型化を行い、その特徴を検討して桑よう。I類剥離作業而において打面が一つ設定されるものである。これは、a打面が一面の剥離而で構成されるもの(第1図1.7など)、b打面調整・打而再生が施されるもの(第3図1~5など)に細分される。n類上下両方からの打撃によって剥離作業が進められるものである。a上下両端に明確な打面が設定されるもの(第8図1など)、b一方に打而が設定され、もう一方に明確な打面の見られないもの(第6図3など)に細分される。
胞類は、北海道では、早期の居辺u遺跡・トビニゥス川
南岸遺跡、前期の日進遺跡、中期の開成2遺跡出土資料に
承られ、後期の船泊遺跡の資料もこれに属する可能性があ れる。打面調整は狸。妬に観察され、妬には頭部調整も認められるようである。石核の高さは五センチメートル前後を測る。剥片の詳細は不明であるが、縦長剥片は出土している。三縦長剥片生産技術の特徴五
る。九州地方では、後期の千里シビナ遺跡の資料があげられる。これらは、原石粗割面を打面とするが、剥離作業が
石核の一面に及ぶもの、ほぼ全周に及ぶものがある。前者
は、裏面に自然面を残すことが特徴的であるが、剥離作業が進むと、後者のような形状になることが予想される。石核調整は、頭部調整以外認められないようである。化類は、北海道では中期の幌別川口遺跡・オンネナイ第2地点遺跡・開成2遺跡・上泊3遺跡、続縄文時代の岐阜第三遺跡、東北地方では中期の橋上遺跡、九州地方では中期の山角遺跡に染られる。これらの石核は円錐形または半円錐形を呈するものが多い。半円錐形のものは裏面に自然面を残すものが多く、おそらく剥離作業が進むと円錐形になってゆくものと思われる。石核調整として、頭部調整。打面調整が認められ、橋上遺跡では打面再生が確認され、卦ソネナイ第2地点遺跡・岐阜第三遺跡でもその存在の可能性が指摘されている。また、作業而稜の調整は、上泊3遺跡・橋上遺跡の資料に認められる。両遺跡とも接合資料
が存在し、その剥離作業の過程は注目される。順類は、九州地方の早~晩期の田村遺跡、後期の柏田遺 跡にふられる。石核の形状は長方形を呈し、他の類型のも
のと大きく異なる。石核調整として、頭部調整・打面調整は行われるようで、柏田遺跡では剥離作業面の稜調整の存 法政史学第三十八号在も指摘される。
Ⅲ類は、東北地方の橋上遺跡にみられる。円錐形を呈
し、打面調整が行われる。なお、九州地方の後期に属する四筒周辺遺跡JImi地
点の資料はⅡ類に属するものと推定される。石材に関しては、頁岩を主なる石材とする上泊3遺跡。 船泊遺跡・橋上遺跡、珪岩を主なる石材とする日進遺跡を 除けば、黒鵬石を石材とする。黒腿石の原石は拳大程のも ので、頁岩はさらに大きなものが利用されているようであ る。石核の大きさも、黒腿石を石材とするものは五センチ メートル前後で、頁岩を石材とするものはより大形であ
る。さて、これらの類型を地域別にみると、北海道では、早 期から継続して胆類が承られ、中期になると小類が加わ り、続縄文時代まで存続するようである。中期以降、石核 調整が発達するようであるが、石核形状などに各時代で共 通性があり、連続性をもって変化したものと推定される。 北海道では今回扱った資料の他に、早・前期では目梨郡
(魂)(皿)羅臼町ソスヶ遺跡・岩見市冷水遺跡。茅部郡南茅部町〈マ
(坊)ナス野遺跡烟巨呑住居跡、中期では河東郡上士幌町居辺咀遣
(5)(妬)(町)跡・常呂郡常呂町朝日トコロ貝塚・紋別郡湧別町二軒橋遺跡
(肥)(羽)・川上郡標茶町茅沼遺跡第二地点・札幌市TW遺跡。函館
一一一一ハ(弧)(虹)市見晴町B遺跡、中・後期では名寄市智東遺跡などの資料
があげられ、明確な時期は不明であるが、上川郡鷹栖村嵐
(躯)(銘)(鈍)山遺跡・常呂郡常呂町岐・旱第三遺跡・同町栄浦第二遺跡・
(坊)川上郡標茶町開運町連垣跡の資料qもあげられ、特に、北海道 東。北部に集中してみられる。これらのほとんどはI類で
あり、石器の形状などは先述の検討の結果と異なるものではなさそうである。晩期の資料は確認できなかったが、晩期の資料が中心にみられる夕張郡長沼町タソネトゥ遺跡A
(釦)発掘区の縦長剥片が注ロ封される。 東北地方では、中期の橋上遺跡で化類.n類がみられた が、量的には肋類が多いようである。今日扱った資料の中 で石核調整が最も発達した資料である。石核は、北海道の 資料と比べ、大形で、高さのある円錐形を呈する。
この他に東北地方では、明確に縦長剥片生産技術の認められる資料を見出しえなかった。しかし、橋上遺跡とほぼ
(師)同時期の山形県村山市中村A遺跡では、頁山石製の縦長剥片 を素材とするスクレイ。〈-類が多数出土しており、山形県
九州地方では、肋類・順類がみられた。、類は山角遺跡 の資料に衆られたが、剥片の検討によってⅡ類の存在が推
今回扱った資料の他に、早~晩期の福岡県筑紫郡那珂川
繩文時代の縦長剥片生産技術(阿部) (詔)
町深原遺跡、一別・中期の土器が出土した長崎県佐世保市四石
(鯛)下洞穴Ⅲ層、後。晩期の福岡県福岡市四筒周辺遺跡Llu
(釦)(虹)c地点。同県糸島郡二丈町広田遺跡。長崎県長崎市深掘遣
(蛆)(鯛((必)跡・同県福江市自浜貝塚・熊本県上益城郡益城町古閑遺跡 などの資料があげられ、地域的には西北部に集中し、時期
(妬)的には後。晩期、特に後期に多い。これらの多くはⅡ類 で、石核形状は長方形を呈するものがある。頤類詐橇する 資料一の部は「鈴柄型刃器技法」に対比されている。
以上のように1.Ⅱ類は各地に共通してみられるが、その量的関係を承ると、北海道・東北地方ではI類・九州地 方ではⅡ類が特徴的に承られることが理解される。
さて、この剥片生産技術から得られた剥片に検討を加え》よンっ。もともと縦長剥片を最初に定義し、全体の資料から抽出しているため、その情報の正確さに欠ける。しかし、両側 辺・背面の稜線が平行する縦長剥片が明確に認定できたの は事実である。より規格的な剥片がみられるものは、上泊 3遺跡・橋上遺跡の資料である。両者は、頁岩を石材と し、石核調整が.頻繁に行われる点で共通する。胆類につい
ては、剥片末端部の幅広さが特徴としてあげられるかもしれない。剥片の長さについては、北海道・九州地方では五センチ=
一七
メートル前後、東北地方の橋上遺跡では七センチメートル
前後である。全体的に石核の高さより若干大きい。頁岩を 石材とする剥片が黒曜石のものに比べ大形であるが、これ は、原石の大きさに関連するものと理解される。
次に、これらの剣片と石器との関係をまとめておこう。北海道・東北地方では、主として縦長のスクレイパー類 ・縦長の石匙の素材となっている。一方、九州地方では、
刃器、サイドブレイド・つま朶形石器・台形状石器・彫器など多くの器種の素材となっており、相違点が承られる。
しかし、素材の形状が石器の形状に大きく影響を与えている点では共通する。以上のように、縦長剥片生産技術の構造および石器との関連を述べてきたが、旧石器時代。縄文時代早期の石刃鑛文化期の石刃群とはどのように違うのであろうか。技術的な点からいえば、もともと本論で定義した縦長剥(妬)片生産技術には、石刃技法の定義と共通する要素を持たせてあることからすれば大きな差はない。また、ここで設定した各類型は旧石器時代の石器群に存在するものである。橋上遺跡の資料は、すべての石核調整が認められ、まさに(〃)狭義の石刃技法の怖傭に入るものであろう。しかし、その他の資料は総体的に調整が顕著ではなさそうである。また、I類については寸づまりの円錐形を呈し、小形のものが多 法政史学第三十八号い。このような相違は、石刃鑑文化期の石刃技法と比べても同様に認められる。
縦長剥片の比較を十分できるような状況ではないが、橋
上遺跡・上泊3遺跡などの資料は、東日本の石刃石器群の石刃と規格性の点では差異はそれ程ないものと推定される。しかし、石刃嫉石器群の石刃と比較すれば、規格性の点では劣る。剥片と石器との関係では、旧石器時代の石刃がナイフ形石器・彫刻刀形石器・スクレイ。〈-類などの素材になり、器種の種類に差は承られる。しかし、素材の形状が石器の形状に大きく残される点では共通する。右刃鑑の石刃とも共通する。このように、縄文時代の縦長剥片生産技術とそれに関わる石器の特徴は、技術的には若干の差異が認められるものの、旧石器時代。石刃鑑文化期の右刃石器群と共通性をも
つものといえよう。しかし、大きな違いは、旧石器時代において石刃技法が発達する頃、または石刃鑛文化期ではこの技法が技術基盤の主体を占めるのに対し、縄文時代では客体的であると推定されることである。北海道。東北地方では、橋上遺跡で検討したように半分を越えるとは予想しがたい場合が多い。縦長剥片生産技術以外の技術とは、形状・大きさにくう三 八
以上のように、縄文時代の縦長判片生産技術と関連する石器は各地に承られ、旧石器時代などの石刃石器群と共通する要素を多く待つものと理解された。では、なぜこのような技術が存在するのであろうか。その系譜を考察して承よう。北海道、特に東・北部に、縄文時代から続縄文時代までI類が主体として存続した可能性が指摘された。また、、 エティーをもつ剥片をとる技術である。しかも、これらの剥片は、かなり加工が施され、結果として石鑑・石錐など多様な形状の石器になるものと推定される。したがって、縦長剥片生産技術と性格も異なるものと理解される。なお、縄文時代の剥片生産技術に関して、石核の調整が認められず、得られた剥片には一つの石器形態を規定する(佃)素材の斉一性を求めていなかったという見解がある。しかし、以上の検討結果からふれば、この見解は縄文時代の剥片生産技術全体に適用されるものではないと判断される。一方、このような技術が縄文時代では一般的であることを認めながらも、「特殊な剥片化産」技術の存在を予想し(⑬)た見解があり、今回の検討結果はこの予想を裏鶚つけたことになる。
四縦長剥片生産技術の系譜と役割
繩文時代の縦長剥片生産技術(阿部) 類↓価類へという連続的な変化が看取された。したがって、早期の唯式類似土器に伴う居辺皿遺跡の資料、沼尻式に伴う可能性のあるトビーーウス川南岸遺跡の資料を祝型と染ることができる。そうした場合に、これらと、旧石器時代。石刃鑛文化期の石刃技法との関係が問題となってくる。旧石器時代との関連では、その終末期とこれら二遺跡の(卵)間に相当な時間間隙の存在が予想されること、石核調整の点で差があることから、現段階ではその系譜を引くものとは言いきれない。しかし、旧石器時代終末には、類も若干(皿)存在することは注目しておきたい。石刃鍼文化期の石刃技法とは、この時期の編年が確立されてはいないものの、暁式。沼尻式が石刃鑑文化に先行す(卵)ろ見解がある。この見解に従襲えば、両者において、石核調整が異なることから両者は系譜を異にするものと理解される。また、石刃鑑文化が極東地域からの流入と理解されて(兜〉いるように、石器組成なども大きく異なる。次に極東地域との関連ではどうであろうか。すでに、石刃鍼文化期以降、中期後半に石刃技法が大陸から波及した(爵)ということが指摘されている。たしかに、極東地域では、(“)石刃技法は三月銅器時代まで存続するようであり、この地域との交流があったとするならば伝播してきた可能性はあ
九
る。しかし、早期から中期には、石刃鍛文化を除けば、大陸との関係を明確に示す資料がないことから、大陸からの伝播を現段階では容認できない。また、縄文時代前。中期にはほぼ対比できる下部アムール地域のマリシェポ期・コンドソ期では、プリズム型の石刃石核・石刃鑑などが出土(弱)しており、一別・中期の資料との相典点として注、する必要があろう。このようにしてゑると、北海道では縦長剥片生産技術は早期以来の一連の系譜を引くものと理解される。そして、旧石器時代終末と今回扱った資料との間隙を埋める資料を今後注目しなければならないであろう。東北地方では、明確に縦長剥片生産技術の認定できたしのは中期の橋上遺跡の資料であった。早・前期に確認できないこと、北海道とは空間的隔たりがあること、北海道の資料とは右核調整・形状の点で差のみられることから、現段階では口生と考えざるを得ない。そこで、石刃技法の石核調整の点から検討してゑよう。旧石器時代における石刃技法の各調整技術を個別の剥離現象として承るならば、たとえば、打面再生は石器の端部を輪切りにするように剥離し、末端の厚い剥片をとることであり、剥離作業面の調整は石器の端部に両而加工を施し、鋭い縁辺を作出することである。このような事例は縄 法政史学第三十八号
文時代早期から一般的に糸られることであり、打面調整なども含めて石刃技法に特有のものではない。要するに、これらの技術は、石刃の量産を目的とし、縦長の剥離作業面および作業面と打面との適正な関係を保持するため、有機的に関連づけられた時に調整という概念が与えられるのである。したがって、石刃を多く必要とし、個女の技術を有
機的に関連づけさえすれば、常に右刃技法として顕在化す
ることになる。橋上遺跡の資料はこのような場合ではなかろうか。そうした場合、北海道・九州地方でも自生という可能性は否定できない。九州地方の資料については、縄文時代早期に認められないこと、東北地方とは地理的隔たりがあることから、n生
または朝鮮半島などからの伝播が考えられる。(閃)朝鮮北部では、一旦満江流域の〈云寧五洞遺跡・鴨緑江流域
(廓)の公皐旦里遺跡に黒耀右製の縦長剥片を素材とした石器が多 く認められ、縦長剥片生産技術が存在した可能性が高い。 年代については、前者が紀元前六~四世紀、後者が紀元前 七~三世紀と推定されている。また、櫛目文士器の出土す る遺跡で、縦長剥片生産技術が存在した可能性のある例が
(卵)ある。中国東北部・沿海州で石刃技法がかなり新しい段階
(閉)まで存続することを考え合せれば、朝鮮北部では紀一元前四 ・三世紀頃まで存続していたことは想定できよう。
四○朝鮮南部では、縦長剥片生産技術の存在を確認することはできなかった。しかし、櫛目文土器の出土した東三洞貝(的〉塚に伴う右鋸などの素材には注目しておく必要がある。このように、朝鮮南部では明確に認められなかったが、櫛目文士器と前期の曽畑式土器・黒陶と後・晩期の黒色研磨土器の関連性。九州産の黒曜石が東三洞貝塚出土資料の(印)ものと類似することなどから、九州地方と朝鮮半島との関連は強いものと理解される。したがって、朝鮮半島から伝(日)橘してきた可能性は残されよう。|方、Ⅲ生と考えた時に山角遺跡の資料を机型と考えることもできる。、生の要因については、東北地方で述べたように説明することも可能である。しかし、曽畑式土器の出土した五島列島南端の江湖貝塚では、剥離作業面が比較(“)的縦長の石核が存在し、注目しておく必要があろう。いずれにしても資料的にまだ不十分であり、今後の検討を待たなければならない。さて、技術は道具を作って使うために存在するものである。仮りに伝統・伝橘があっても、必要としなければ、あるいは規制が働かなければ捨て去られるものである。また、道具を必要としたければ技術は開発されない。そこで、なぜこのような技術が存在しうるのかを検討しよう。各資料において、縦長剥片生産技術以外にも剥片生産技
繩文時代の縦長剥片生産技術(阿部) 術が存在し、後者では剥片の規格性がそれ程求められていないものと理解された。このように性格を異にする技術が共存することは、互いの役割が認識されていたことを示している。すなわち、縦長剥片生産技術によった剥片は、形状がそれ程変えられることなく石器に仕上げられる。したがって二次加工の省力化という点では有効であったと考えられる。また、石器組成から承ると、縦長剥片を主なる素材とするスクレイ。〈I類・石匙の石器に占める割合は、オンネナイ第2地点遺跡で六四.〈1セント、橋上遺跡では五四.ハーセントである。また、杣、遺跡では、つまみ形石器・台形状石器・サイドブレイドだけの割合でも四五。ハーセントであり、いずれも高い比率を占める。したがって、縦長剥片生産技術は、当然のことながら縦長剥片を多く必要とした
時に、より有効である。そして、このことは、原石を無駄
なく活用できるということとも関連しよう。|方、剥片に規格性を求めていない剥片生産技術は石
鍼・石錐などの石器と関連することが推定された。おそらく、すでに指摘されているように、二次加工がかなり施され、多様な形状を呈するこれらの石器を製作する場合、一定の規格性をもつ剥片を剥離する技術では対応しきれなか四
法政史学第三十八号
〈婚・伯)ったのであろう。このように、縦長剥片生産技術は、他の技術に比べ、有効性を発揮する場合があるものと理解される。そして、有効性が発揮される場合に、縦長剥片生産技術が選択されていたのであろう。その直接の要因は、縦長のスクレイ。〈1
・縦長の石匙。つまみ状石器などの大きさ・形状。数量な
のである。おそらく、その背景にはこれらの石器を必要とした生業活動が存在するものと思われる。以上のように、縦長剥片生産技術の系譜。有効性を考察してきたが、この技術は縄文時代全体を通して染た場合、小数派ではあるものの、石器と剥片、剥片と技術の関連から象れぱ合理性をもつものといえる。一方、一般的に家られろ剥片生産技術は、規格性のあまり認められない剥片を剥離するものであった。これは、石鑑・石錐など多種多様な石器が出現してくる縄文時代の特(“)徴と関連するものであろう。しかし、ここでも剥片生産技術と石器との関係では合理性をもつものといえる。・性格の異なる剥片生産技術が共存するのは、このように合理性という点で共通していることからも理解される。そして、それは旧石器時以代来の技術伝統を引きながら、異なる技術が伝播してくることもその要因となっているとも想定できるが、直接の要因は石器の形状・大きさのバラェ ティーおよび数量の変化と考えることができる。そうして染ると、石器の諸要素の変化によって剥片生産技術も変化するものと理解され、縦長剥片生産技術以外でも、ある規
格的な剥片をとる技術が存在することも予想される。ここに、縄文時代の剥片生産技術の柔軟性、さらには環境適応
の柔軟性を読みとることができる。今回の分析においても縦長剥片生産技術の存在はほぼ認
めうるものであると理解された。しかし、細部においては不明な部分が多く残った。これは将来の検討を待たなければならない。そして、分析方法も、剥片技術を総体とした分析が必要であろう。また、工具およびそれによってひきおこされる諸現象の理解も必要である。それによって、剥片生産技術の実体がわかり、系譜などについても再検討さ
れるであろう。また、各剥片生産技術の名称も統一されると思われる。剥片生産技術の変化の主なる要因は、石器の形状・大きさ。数量の変化と理解したが、これは、まさに石器を介して、技術が生業形態に対して共変関係にあることを示している。そして、それらは環境の変化に対して適応する時に共に変化するものと考えられる。したがって、環境復元と 五おわりに匹’二
ともに石器の機龍の復元か必要とされる。
最後に本稿をまとめるにあたり、明治大学文学部考古学 研究室・同大学熊野正也氏。石川日出志氏・別府大学橘昌 信氏・多賀城跡調査研究所後藤秀一氏・東北大学大学院須 田良平氏・鈴木博子さんには資料を提供していただき、ま た、本学伊藤玄三先生にはご指導をいただいた。深く感謝
の意を表したい。註(1)田中英司一九七七「縄文時代における剥片石器の製作について」『埼玉考古』第一六号一一一一一一~四七頁後藤秀一一九八五「縄文時代における剥片生産についてI綾合資料を中心としてl」『太平蘂史懲』第四号一~二七頁、山田昌久一九八五「縄文時代における石器研究序説I劉片剥離技術と剥片石辮をめぐってl」『論集日本原史』二一九~二五二頁他(2)渡辺仁一九五○「北海道の連続割裂技術と石器工業との関係」『人類学雑誌』第六一巻第三号七~二一一頁(3)加藤正一九六○「北筒式土器文化に含む特殊な要素」『先史時代」第一○嘘一三~二○頁、駒井和愛他一九六三『オホーツク海沿岸・知床半島の遺跡』上東京大学文学部、羽賀憲一一一九七四『T両追跡』札幌市文化財調査報告書Ⅲ札幌市教育委員会、小池史哲・橘昌信他一九七七『山陽新幹線埋蔵文化財調査報告」第四集福岡県教育委員会、佐藤和利・小柳正夫一九繩文時代の縦長剥片生産技術(阿部)
七八『紋別市「オンネナイ第2地点遺跡発掘調査報告書』 紋別市塾篇委員会橋口肩一九七八「縦長剥片l 西北州における縄文時代の石器研究11」『史学論議』 第九号七五~九一一一頁、寺崎康史一九八五「上泊3 遺跡出土の石刃状剥片について」『財団法人北海道埋蔵 文化財センター調査報告書」第一九集四○八~四二一 頁財団法人北海道埋蔵文化財センター、石井浩幸他
一九八五『橘上遺跡発掘調査報告書』山形県大江町埋蔵文化財発掘調査報告書第一集大江町教育委員会(4)註3および註1の山田昌久一九八五(5)辻秀子・宮宏明一九八五『居辺遺跡」上士幌町教育委員会(6)涌坂周一・豊原煕司・宇田川洋一九七八『トビーーウス川南岸遺跡』羅臼町文化財報告3羅臼町教育委員〈言(7)佐藤忠雄・河野広道一九六二『北海道名寄日進における考古学的調査」名寄市教育委員会(8)河野本道・其田良雄他一九八○『駒沢大学北海道教養部考古学研究会紀要』第2集駒沢大学北海道教養部考古学研究会(9)註8では掻器類となっているが若干石匙が含まれている。五○点という数値は右匙を除いてある。以下、スクレイ.〈-類とは、掻・削器などとも分類されているもので、石匙は含まれない。四
(Ⅲ)註3の佐藤和利・小柳正夫一九七八(u)久保勝範・太田敏量・菅野友世一九八一『北見市広郷・開成遺跡発掘調査報告書』北見市(⑫)種市幸生・佐藤和雄・三浦正人・森岡健治一九八五『礼文島帆泊段丘の遺跡群』財団法人北海道埋蔵文化財センター調査報告書第一九集財団法人北海道埋蔵文化財センター(過)児玉作左術門・大場利夫一九五二「礼文島船泊砂丘遺跡の発掘に就て」『北方文化研究報告』第7輯一六七~二七○頁本稿では、一九五九年、芹沢長介・吉崎昌一氏によって採集された遺物を扱っている。(皿)芹沢長介・吉崎昌一一九五九「アイヌ以前の北海道」『科学読売』第一一巻五号一一一一~三七頁他(嘔)藤本強・安斎正人・飯島武次他一九七七『岐阜第三遺跡」東京大学文学部(畑)註3の石井浩幸他一九八五(Ⅳ)田川肇一九八一『長崎県埋蔵文化財調査集報」Ⅳ長崎県教育委員会(出)註3の小池史哲・柵昌信他一九七七(田)註嘔によれば、「縦長剥片の側辺に沿って使用によると考えられる刃こぼれ、擦痕などの使用痕および小さな調整剥離が局部的に認められるもの」と定義されている(一四三頁)。また、「縦長剥片』については、「剥片の両側辺および背面の稜線がほぼ平行に走り、横断面が薄い 法政史学第三十八号
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1-ノ、_ノ、_ノ
(別) (理)(詔) (皿) (卯) 三角形ないし台形を呈すること。剥片の最大幅に対して、その最大長が二倍以上ある縦に長い整った形状を有し、側辺に鋭いエッジを形成していること。それ自体が利器として用いられる一方、他の剥片石器の素材となり得る目的々な剥片であること」と定義されている(二二八頁)。『刃器」『縦長剥片』の認定は現状では困難な場合が多いが、木稿で定義した縦長剥片は、『縦長剥片』と剥片の形状の点ではほぼ一致する。塩屋勝利・田中寿夫・渡辺和子一九八二『福岡市西区千里シピナ遺跡』福岡市埋蔵文化財調査報告書第兜集福岡市教育委員会渡辺和子・柳田純孝・力武卓拾一九七八『福岡市西区四筒周辺遺跡調査報告書』②福岡市埋蔵文化財調査報告書第四七集福岡市教育委員会福岡市教育委員会一九八四『田村遺跡Ⅱ』福岡市埋蔵文化財調査報告諜館一○四集沢四郎・木田克代・宇田川洋他一九七一『羅臼』羅臼町文化財報告1純n町教育委員会富水慶一一九八一『冷水遺跡発掘調査報告書』岩見沢市教育委員会南茅部町教育委員会一九八三「ハマナス野遺跡」Ⅸ註3の駒井和愛他一九六三米村哲英一九七四『二軒橋遺跡』湧別町教育委員会 四四
(躯)福士広志・豊原煕司・涌坂周一一九八○『茅沼遺舘群』Ⅱ標茶町教育委員会(羽)羽賀憲二一九七四『T両遺跡』札幌市文化財調査報告書Ⅲ札幌市教育委員会(釦)田原良信一九七九『見晴町B遺跡発掘調査報告書』函館市教育委員会(瓠)山崎博信・長谷川功一九六八『智東遺跡B地点』名寄市立図書館、山崎博信一九七一『智東遺跡D地点』同図譜館、山崎博信・氏江敏文・鈴木邦輝一九八○『名寄市文化財調査報告書』Ⅱ名寄市教育委員(雪(犯)斉藤傑・松井恒幸一九六八『嵐山遺跡』嵐山遺跡群調査会(詔)東京大学文学部考古学研究室・常呂研究室一九八五『栄浦第一遺跡」東京大学文学部(型)東京大学文学部考古学研究室一九七二『常呂』東京大学文学部(弱)大場靖友・福士広志・豊原煕司他一九八三『開運町遺跡」標茶町教育委員会(鏥)野村崇一九七七『長沼町幌内タンネトウ遺跡の発掘調査』空知地方史研究協議会(師)渋谷孝雄・名和達朗・佐交木洋拾一九八三『中村A遺跡発掘調査報告書』山形県埋蔵文化財調査報告書第乃集山形県教育委員会
繩文時代の縦長剥片生産技術(何部) (詔)橘昌信・木下修一九七八「山陽新幹線関係埋蔵文化財調査報告』第8集福岡県教育委員会(羽)麻生優一九六八『岩下洞穴の発掘記録』(蛆)二宮忠司・渡辺和子一九八三「福岡市早良区四筒周辺遺跡調査報告書」五福岡市埋蔵文化財調査報告書第一○○集福岡市教育委員会(皿)小池史哲・馬場弘稔・中間研志一九八○『二丈・浜玉道路関係埋蔵文化財調査報告』福岡県教育委員会(狸)賀川光夫・摘日信・坂田邦洋他『深堀遺跡』人類学考古学報告第一号長崎大学医学部解剖学第二教室届)福江市教育委員会一九八○『白浜貝塚』福江市文化財調査報告書第二集(“)熊本県教育委員会一九八○「古保山・古閑・天城」熊本県文化財調査報告第四七集(妬)註3の小池史哲・術自信一九七七、橘昌信一九七八ですでに指摘されている。(蛆)柳田俊雄・藤原妃敏一九八一「瀬戸内技法と石刃技法「l調整技術のもつ意味l」『旧石器考古学』蕊鋼号二九~四○頁他(幻)藤原妃敏一九八三「東北地方における後期旧石器時代石器群の技術基盤」『考古学論叢」Ⅱ六三~九○頁ここでのI群に相当するものと考えている。(蛆)註1の山田昌久一九八五(蝿)註1の後藤秀一一九八五
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