ハーレーダビッドソン車は, 1917年以降国内で販売されていた(大倉商事 輸入,日本自動車が販売。関東大震災後,輸入権は三共製薬の前身,三共 合資の子会社興東貿易に移る)。 1923年以降輿東貿易がその車を輸入し, 翌年京橋に販売所を設けた。関東大震災を転機に急激に需要が起こり,莱 績が逐年向上したので,三共合資は1931年オートバイ販売事業を興乗貿易 から分離して直系会社にした。 1931年12月の「金輸出再禁止」により対米 為替が暴落し,輸入車の価格が暴騰したので,三共がこの車の国産化を計
型」, 250cc 「FB型」の4モデルを揃えることになった。しかし,市場の 流れを読んで,軽二輪車分野に思い切ってシフトすることはしなかった。 これが,陸王敗退の大きな原因の一一一つであると思う。他方, 1955年の浅間 火山レース以降国産モーターサイクルの性能・品質向上は進み, 1957年頃 には250cc級で最高速度100km爪を出すオートバイはごく当たり前の状態 になっていた。陸王の各モデルは時代に取り残されることになった。軽二 輪車「F型250cc」を開発しているが,これとて「BMW」のコピーに過ぎ なかった。同じコピーでもオリジナル車を凌駕する性能・品質のものを設 計する意欲や熱意がなければ,この頃はもはや生き残れない環境になって いたのである。陸王にはこのような企業家精神が不足していたようである。 これが,陸王が敗退したもう一つの原因ではないかと考える。陸王モー ターサイクルの結末。昭和飛行機が1953年10月大神作業所(大神工場)で 陸王の二輪車フレーム等の部品を受注生産し, 1960年4月に陸王の営業部 の一部を譲り受けた。しかし,まもなくして同社は解散したのである6)。 注 1)この項で使用する記述及び諸元等は,中沖満著『オートバイ・グラフィティ』cBS ソニー出版, 1984年, 62頁, 95,96頁, 『モーターサイクリスト 国産モーターサ イクリスト戦後史』 1987年8月臨時増刊,八重洲出版,小関利夫著『国産二輪車 物語』三樹書房, 1993年に拠る。 2)三共六十年史刊行委員会編集兼発行『三共六十年史』 1960年, 73-76頁。デビ ッド・ライト著,高斎正訳『ハーレーダビッドソン80年史』グランプリ出版, 1988 年31頁によると, 1932年末に結んだ契約は,ハーレーダビッドソンの現行モデル の設計図を,日本の会社に譲渡する,というものであった。設計図の代金として 1933年3,000ドル, 1934年5,000ドル, 1935年8,000ドル, 1936年10,000ドルを受け 取っている。また,注文の減少によって遊休施設となっていた精密工作機械も日 本の会社に売却された。そして,ハーレーダビッドソン社は海外代理店のアルフ レッド・チャイルドと日本の会社に売却した工作機械や鋳型の代金として,合計