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安政期における目黒砲薬製造所の建設と地域社会

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安政期における目黒砲薬製造所の建設と地域社会

著者 根崎 光男

出版者 法政大学人間環境学会

雑誌名 人間環境論集

巻 19

号 1

ページ 218(1)‑187(32)

発行年 2018‑12‑20

URL http://doi.org/10.15002/00021908

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はじめに近世の巨大都市江戸やその周辺地域が︑他地域と決定的に異なるのは︑江戸の町には統一権力としての将軍が居住する江戸城が位置づいていたことで︑それを防衛面でも生活面でも支える必要があったことである︒まさに﹁江戸城城付地﹂としての役割が付与されていたのである︒江戸の町には将軍の生命を守り︑その生活や政治を支えるために大名や旗本・御家人の屋敷が配置され︑またそうした武士の暮らしを支えるために町人たちが居住していた︒そして︑その周辺地域には江戸城で必要な物品の上納や江戸で暮らす人々の生活を支えるための物資の供給地としての役割があったのである︒そうしたなかで︑江戸から半径五里の将軍家鷹場に指定された地域では︑享保改革期に鷹場などの夫役や江戸城への上納役が整備 され︑江戸城の防衛や江戸城・将軍家の生活を直接に支える﹁江戸城城付地﹂としての機能と性格を再編強化するにいたったとする見解もみられる ︒江戸の町は﹁武都﹂︑すなわち武士階級の頂点に君臨する将軍の都として成立し︑近世全体を通してその性格は維持されていた︒幕府の軍事組織の整備とともに︑江戸には番方︵軍隊︶の組屋敷︵居住施設︶があり︑江戸及びその周辺を含めた地域には焔硝蔵や火薬原料の貯蔵庫などの軍事施設が位置づき︑馬場・鉄砲場・大筒稽古場・騎射馬場・鷹場などの軍事訓練施設が設定されていたのである︒幕末期になると︑﹁武都﹂としての性格はより一層露わとなり︑とりわけ嘉永六年︵一八五三︶六月のペリー来航以後の外圧への対応として︑幕府は軍事力の拡大・強化に突き進むことになった︒築地の講武所の新設によ

安政期における目黒砲薬製造所の建設と地域社会

根崎  光男

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浦賀に来航して開国を要求すると︑幕府はその対応をめぐり危機的な状況に陥った︒そして︑同時期に十二代将軍徳川家慶が病没し︑代わって十三代将軍として徳川家定が就任すると︑幕政の実権は完全に老中の阿部正弘が掌握することとなり︑翌七年に日米和親条約を締結し︑開国に踏み切ったのである ︒一方︑開港に備えた国防強化として︑さまざまな対策を矢継ぎ早に実施していった︒その一つに︑講武場の設置がある︒嘉永七年︵一八五四︶十一月︑老中阿部正弘は勘定奉行・作事奉行・普請奉行・小普請奉行らに︑次のような通達を出した ︒鉄砲洲築地堀田備中守中屋敷︑筋違御門外明地北之方横町町家取払往来六七間囲込候︑四ッ谷御門外明地︑右三ヶ処江此度新規講武場御取立被仰出︑武芸稽古・鉄砲角場御取立有之候︑小隊の駈引等出来候様被仰出候間︑可被得其意候︑取立之義向々江可被談︑早速出来候様可被取計候神田橋御門外明地︑一ツ橋御門外明地︑右者是迄冬分鳥飼付候御場所之処︑向後一ツ橋御門より神田橋之方一構ニ囲込︑諸家并御旗本之向々騎戦調練之場所ニ被成下︑雉子橋寄之方江縦横ニ馬場取立︑是亦 諸向調馬之場所ニ被成下︑繁勤之向々ニ而も登城之往還ニ立寄稽古出来候様可被致旨被  仰出候間︑可被得其旨候場所取立方之義ハ向々江可被申談︑尤御城火除明地之義ニ付︑聊之立物ハ不苦候得共︑麁立候休息所等取立候義者難相成︑外構之義も御入用ニ不相成候様︑生垣等ニ而質素ニ出来候様可被取立候︑右之通海岸防禦掛リ御目付江相達候間可被得其意候︑委細可被談候    寅十一月この年八月八日︑老中阿部正弘は普請奉行石谷周防守に江戸の東西南北ごとに振り分けて講武の場所として相応しい五︑六ヶ所の場所の選定に︑作事奉行や小普請奉行らとあたるように命じていた︒その結果に基づき︑鉄砲洲築地・筋違御門外明地北之方︑四ッ谷御門外明地の三ヶ所を新規の講武場に︑一ツ橋御門より神田橋に向かう一帯を騎馬戦調練場所に︑雉子橋寄り一帯を馬場の候補地として選定し︑簡素に造成するように通達していたのである︒これらの場所は︑御用繁多の役人も登城の道すがら立ち寄って︑稽古ができるようにとの配慮から選定されたものであった︒この講武場は︑安政三年︵一八五六︶三月︑築地に建

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る剣術・砲術・槍術・水泳などの軍事訓練の近代化︑江戸湾沿岸での御台場の建設︑江戸での海軍伝習︑軍艦を用いた洋式海軍の開始など︑さまざまな観点からの軍事力の強化が急速に進められたのである︒そのために︑鉄砲・大筒などの火薬の増産も要請されていた︒こうして︑幕府が軍制の洋式化・近代化を打ち出すと︑それまでの軍事関連施設は増加・拡大傾向を示し︑その範囲は江戸の内外に広がり︑その影響は江戸の周辺地域にも及んだのである︒その一つとして︑文久元年︵一八六一︶六月には﹁武州荏原郡中目黒村砲薬製所︑其外新規御取建 ﹂とあるように︑中目黒村に砲薬製造所が建設されることとなった︒その場所は︑近世前期より江戸の人々の行楽地として賑わった下目黒村の目黒不動︵龍泉寺︶近くの斜面地であった︒寺の門前とそれに続く中目黒村の通りには町屋が形成され︑延享三年︵一七四六︶にはその参詣道沿いが町奉行支配となり︑下目黒町・中目黒町と称されるようになった︒その周辺は長閑な農業地帯であったが︑この砲薬製造所の建設がさまざまな事情からその一帯に住む人々に与えた衝撃は大きかった︒本稿では︑幕末期において目黒地域が幕府の軍事力強 化の一環として焔硝蔵移転の候補地となり︑また砲薬製造所建設の計画地となったことについて︑これを地域社会がどのように受け止め対応していったのかを︑幕府との交渉過程や地域社会の動向を中心に検討していくことにしたい

一  安政の改革と軍事力の強化

安政の改革とは︑幕末期の外圧危機に対して︑安政年間︵一八五四︱六〇︶に幕府の老中首座であった阿部正弘を中心に行われた幕政改革であるが︑すでにそれは弘化年間︵一八四五︱四八︶から開始されていた︒まず幕府組織の改革としては︑海防掛の設置があげられる︒それまでにも臨時的に海防掛に任命される者はあったが︑定置となったのは弘化二年︵一八四五︶以降で︑老中阿部正弘・牧野忠雅が兼務し︑若年寄二人も任じられていた︒また︑大小の目付・勘定奉行・勘定吟味役から選抜して海防掛に任じ︑外交実務を担当させたりもした︒ペリー来航後はより海防掛の重要度が増し︑幕閣内での発言力を強めていったのである︒嘉永六年︵一八五三︶︑ペリー率いるアメリカ艦隊が

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浦賀に来航して開国を要求すると︑幕府はその対応をめぐり危機的な状況に陥った︒そして︑同時期に十二代将軍徳川家慶が病没し︑代わって十三代将軍として徳川家定が就任すると︑幕政の実権は完全に老中の阿部正弘が掌握することとなり︑翌七年に日米和親条約を締結し︑開国に踏み切ったのである ︒一方︑開港に備えた国防強化として︑さまざまな対策を矢継ぎ早に実施していった︒その一つに︑講武場の設置がある︒嘉永七年︵一八五四︶十一月︑老中阿部正弘は勘定奉行・作事奉行・普請奉行・小普請奉行らに︑次のような通達を出した ︒鉄砲洲築地堀田備中守中屋敷︑筋違御門外明地北之方横町町家取払往来六七間囲込候︑四ッ谷御門外明地︑右三ヶ処江此度新規講武場御取立被仰出︑武芸稽古・鉄砲角場御取立有之候︑小隊の駈引等出来候様被仰出候間︑可被得其意候︑取立之義向々江可被談︑早速出来候様可被取計候神田橋御門外明地︑一ツ橋御門外明地︑右者是迄冬分鳥飼付候御場所之処︑向後一ツ橋御門より神田橋之方一構ニ囲込︑諸家并御旗本之向々騎戦調練之場所ニ被成下︑雉子橋寄之方江縦横ニ馬場取立︑是亦 諸向調馬之場所ニ被成下︑繁勤之向々ニ而も登城之往還ニ立寄稽古出来候様可被致旨被  仰出候間︑可被得其旨候場所取立方之義ハ向々江可被申談︑尤御城火除明地之義ニ付︑聊之立物ハ不苦候得共︑麁立候休息所等取立候義者難相成︑外構之義も御入用ニ不相成候様︑生垣等ニ而質素ニ出来候様可被取立候︑右之通海岸防禦掛リ御目付江相達候間可被得其意候︑委細可被談候    寅十一月この年八月八日︑老中阿部正弘は普請奉行石谷周防守に江戸の東西南北ごとに振り分けて講武の場所として相応しい五︑六ヶ所の場所の選定に︑作事奉行や小普請奉行らとあたるように命じていた︒その結果に基づき︑鉄砲洲築地・筋違御門外明地北之方︑四ッ谷御門外明地の三ヶ所を新規の講武場に︑一ツ橋御門より神田橋に向かう一帯を騎馬戦調練場所に︑雉子橋寄り一帯を馬場の候補地として選定し︑簡素に造成するように通達していたのである︒これらの場所は︑御用繁多の役人も登城の道すがら立ち寄って︑稽古ができるようにとの配慮から選定されたものであった︒この講武場は︑安政三年︵一八五六︶三月︑築地に建

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る剣術・砲術・槍術・水泳などの軍事訓練の近代化︑江戸湾沿岸での御台場の建設︑江戸での海軍伝習︑軍艦を用いた洋式海軍の開始など︑さまざまな観点からの軍事力の強化が急速に進められたのである︒そのために︑鉄砲・大筒などの火薬の増産も要請されていた︒こうして︑幕府が軍制の洋式化・近代化を打ち出すと︑それまでの軍事関連施設は増加・拡大傾向を示し︑その範囲は江戸の内外に広がり︑その影響は江戸の周辺地域にも及んだのである︒その一つとして︑文久元年︵一八六一︶六月には﹁武州荏原郡中目黒村砲薬製所︑其外新規御取建 ﹂とあるように︑中目黒村に砲薬製造所が建設されることとなった︒その場所は︑近世前期より江戸の人々の行楽地として賑わった下目黒村の目黒不動︵龍泉寺︶近くの斜面地であった︒寺の門前とそれに続く中目黒村の通りには町屋が形成され︑延享三年︵一七四六︶にはその参詣道沿いが町奉行支配となり︑下目黒町・中目黒町と称されるようになった︒その周辺は長閑な農業地帯であったが︑この砲薬製造所の建設がさまざまな事情からその一帯に住む人々に与えた衝撃は大きかった︒本稿では︑幕末期において目黒地域が幕府の軍事力強 化の一環として焔硝蔵移転の候補地となり︑また砲薬製造所建設の計画地となったことについて︑これを地域社会がどのように受け止め対応していったのかを︑幕府との交渉過程や地域社会の動向を中心に検討していくことにしたい

一  安政の改革と軍事力の強化

安政の改革とは︑幕末期の外圧危機に対して︑安政年間︵一八五四︱六〇︶に幕府の老中首座であった阿部正弘を中心に行われた幕政改革であるが︑すでにそれは弘化年間︵一八四五︱四八︶から開始されていた︒まず幕府組織の改革としては︑海防掛の設置があげられる︒それまでにも臨時的に海防掛に任命される者はあったが︑定置となったのは弘化二年︵一八四五︶以降で︑老中阿部正弘・牧野忠雅が兼務し︑若年寄二人も任じられていた︒また︑大小の目付・勘定奉行・勘定吟味役から選抜して海防掛に任じ︑外交実務を担当させたりもした︒ペリー来航後はより海防掛の重要度が増し︑幕閣内での発言力を強めていったのである︒嘉永六年︵一八五三︶︑ペリー率いるアメリカ艦隊が

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郡三田村へ移転し

方での砲薬製造が幕府御用に限ることになり ︑同三年五月には江戸及び江戸十里四 ₁₁

た野れさ設建が炉射反に川滝はに月二一︶四六八一︵ ︑元治元年 ₁₂

整備されたことなどにより同六年に閉鎖された 地調練したが︑築の島軍艦操練所がで中︶︑舟海勝は越 に軍艦教授所︵のち軍艦操練所︶を付置し︵教師方頭取 か︑薩摩藩の五代友厚らがいた︒同四年には︑講武所内 ばせた︒その伝習生には勝海舟や榎本武揚らの幕臣のほ から伝習生を選抜し︑蘭学や航海術などの海軍技術を学 立した︒オランダ海軍士官を教師とし︑幕臣や雄藩藩士 のため長崎西役所にその教育機関として海軍伝習所を設 はオランダから軍艦を贈られたのを機に︑海軍士官養成 は︑長崎の海軍伝習所がよく知られる︒安政二年︑幕府 一方︑この時期に建設された海軍の軍事施設について この間に︑中目黒村の砲薬製造所が建設されたのである︒ ︒ ₁₃

ことになったのである︒ る事態となり︑家業の経営においても大きな痛手を蒙る         斉藤嘉兵衛設が計画された地域では生活上の安心・安全が脅かされ 返もの也火薬庫の建設が具体化してきたのである︒その結果︑建 ・の増産や砲薬製造所︵鉄砲の火薬︶合薬強化されると︑差向候間︑其旨相心得︑廻状刻付を以順達従留可相 こうして︑江戸及びその周辺地域で軍事施設が拡大・見分いたし候筈ニ候︑右ニ付場所立会出役之ものも 場所先江可差出候︑尤用水路を跨︑弐百間程も場所︒ ₁₄ 候︑且村々申合︑用水路左右巨細之絵図面相仕立置︑ 之旨心得候︑村役人共罷出︑案内等無差支様可取計 路并地理之様子等場所ニおゐて委細相尋候義も可有 越︑同所より見分いたし候旨其筋より達ニ付︑用水 日送リ之積ニ而新富士与唱候場所江朝五時揃ニ而罷 勘定吟味方・江川太郎左衛門手代等︑来月三日雨天 見分与して︑御鉄砲玉薬奉行并支配向御目附方・御 迄之内︑御鉄砲調合薬製方いたし候水車御取建場所 武州三田用水路古富士之辺より松平主殿頭抱屋鋪辺 のような通達が到来した︒ を支配した斉藤嘉兵衛代官所より目黒地域の村々へ︑次 安政三年︵一八五六︶七月二十九日︑江戸周辺の幕領 目黒砲薬製造所の建設計画と候補地の検分二

     七月廿九日  役所これによれば︑幕府の砲薬製造水車場の建設予定地と

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設され︑同月二二日には講武所と改称されて教授陣も決定し︑その陣容は槍術一〇名︑剣術一一名︑砲術一四名︑頭取三名であった︒この頭取のなかには︑勝麟太郎︵海舟︶︑代官江川太郎左衛門らがいた︒そして︑老中阿部正弘は創建された講武所での稽古に励むよう︑次のような通達を出した ︒今般厚キ御趣意を以釼術・槍術・砲術・水泳等演習之ため講武所御創建被  仰出︑築地講武所此節御成功相成候間︑諸御役人始御旗本・御家人并倅・厄介等ニ至迄有志之輩罷出︑真実ニ可被致修行候︑尤当四月中より稽古相始候筈ニ候條︑委細之義ハ久貝因幡守・池田甲斐守可被承合候︑且後日ハ陪臣・浪人等も修行のため罷出候儀御差免可相成候得共︑此儀ハ追て可相達候右之趣向々江可相触候

    三月ここでは︑剣術・槍術・砲術・水泳を訓練するための講武所が築地に完成したので︑旗本・御家人は勿論︑その倅や厄介にいたるまで修行するように命じている︒そして︑四月から稽古が始まるので︑詳細は留守居兼帯講武所奉行の久貝正典・池田長顕に問い合わせるようにと 通達していた︒同年四月には﹁講武所規則覚書﹂が触れられ︑稽古日の日時は剣術が﹁丁日﹂︑つまり偶数日︑槍術が﹁半日﹂つまり奇数日︑砲術は日々朝四時︵午前一〇時︶から夕七時︵午後四時︶までの稽古と決まり︑稽古の期間は剣術・砲術が正月一二日から一二月一八日まで︑槍術が正月一三日から一二月一七日まで︑そして朝稽古はいずれも六月一日より七月晦日まで六半時︵午前七時︶から四半時︵午前一一時︶までであることが決定した︒また水泳は五月から八月まで朝四時︵午前一〇時︶より夕七時︵午後四時︶までの稽古となり︑稽古の始めと納めを講武所御門の掛札で知らせることになった︒そして︑講武所での稽古希望者は︑名前書を講武所玄関に持参するか︑総裁及び頭取の自宅へ提出することが必要であった ︒こうした状況のなかで︑江戸及びその周辺地域を対象とした軍事施設の設置・移転や対策が進められた︒嘉永六年一二月には角筈村に調練場を開設し ︑前述した安政三年︵一八五六︶三月には築地に講武場︵のち講武所︶を開設し︑同五年︵一八五四︶正月には深川越中島に調練場を開設し ︑同七年には品川台場の一部が完成し

久元年︵一八六一︶六月には千駄ヶ谷村の焔硝蔵が荏原 ︑文 ₁₀

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郡三田村へ移転し

方での砲薬製造が幕府御用に限ることになり ︑同三年五月には江戸及び江戸十里四 ₁₁

た野れさ設建が炉射反に川滝はに月二一︶四六八一︵ ︑元治元年 ₁₂

整備されたことなどにより同六年に閉鎖された 地調練したが︑築の島軍艦操練所がで中︶︑舟海勝は越 に軍艦教授所︵のち軍艦操練所︶を付置し︵教師方頭取 か︑薩摩藩の五代友厚らがいた︒同四年には︑講武所内 ばせた︒その伝習生には勝海舟や榎本武揚らの幕臣のほ から伝習生を選抜し︑蘭学や航海術などの海軍技術を学 立した︒オランダ海軍士官を教師とし︑幕臣や雄藩藩士 のため長崎西役所にその教育機関として海軍伝習所を設 はオランダから軍艦を贈られたのを機に︑海軍士官養成 は︑長崎の海軍伝習所がよく知られる︒安政二年︑幕府 一方︑この時期に建設された海軍の軍事施設について この間に︑中目黒村の砲薬製造所が建設されたのである︒ ︒ ₁₃

ことになったのである︒ る事態となり︑家業の経営においても大きな痛手を蒙る         斉藤嘉兵衛設が計画された地域では生活上の安心・安全が脅かされ 返もの也火薬庫の建設が具体化してきたのである︒その結果︑建 ・の増産や砲薬製造所︵鉄砲の火薬︶合薬強化されると︑差向候間︑其旨相心得︑廻状刻付を以順達従留可相 見分いたし候筈ニ候︑右ニ付場所立会出役之ものもこうして︑江戸及びその周辺地域で軍事施設が拡大・ 場所先江可差出候︑尤用水路を跨︑弐百間程も場所︒ ₁₄ 候︑且村々申合︑用水路左右巨細之絵図面相仕立置︑ 之旨心得候︑村役人共罷出︑案内等無差支様可取計 路并地理之様子等場所ニおゐて委細相尋候義も可有 越︑同所より見分いたし候旨其筋より達ニ付︑用水 日送リ之積ニ而新富士与唱候場所江朝五時揃ニ而罷 勘定吟味方・江川太郎左衛門手代等︑来月三日雨天 見分与して︑御鉄砲玉薬奉行并支配向御目附方・御 迄之内︑御鉄砲調合薬製方いたし候水車御取建場所 武州三田用水路古富士之辺より松平主殿頭抱屋鋪辺 のような通達が到来した︒ を支配した斉藤嘉兵衛代官所より目黒地域の村々へ︑次 安政三年︵一八五六︶七月二十九日︑江戸周辺の幕領 目黒砲薬製造所の建設計画と候補地の検分二

     七月廿九日  役所これによれば︑幕府の砲薬製造水車場の建設予定地と

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設され︑同月二二日には講武所と改称されて教授陣も決定し︑その陣容は槍術一〇名︑剣術一一名︑砲術一四名︑頭取三名であった︒この頭取のなかには︑勝麟太郎︵海舟︶︑代官江川太郎左衛門らがいた︒そして︑老中阿部正弘は創建された講武所での稽古に励むよう︑次のような通達を出した ︒今般厚キ御趣意を以釼術・槍術・砲術・水泳等演習之ため講武所御創建被  仰出︑築地講武所此節御成功相成候間︑諸御役人始御旗本・御家人并倅・厄介等ニ至迄有志之輩罷出︑真実ニ可被致修行候︑尤当四月中より稽古相始候筈ニ候條︑委細之義ハ久貝因幡守・池田甲斐守可被承合候︑且後日ハ陪臣・浪人等も修行のため罷出候儀御差免可相成候得共︑此儀ハ追て可相達候右之趣向々江可相触候

    三月ここでは︑剣術・槍術・砲術・水泳を訓練するための講武所が築地に完成したので︑旗本・御家人は勿論︑その倅や厄介にいたるまで修行するように命じている︒そして︑四月から稽古が始まるので︑詳細は留守居兼帯講武所奉行の久貝正典・池田長顕に問い合わせるようにと 通達していた︒同年四月には﹁講武所規則覚書﹂が触れられ︑稽古日の日時は剣術が﹁丁日﹂︑つまり偶数日︑槍術が﹁半日﹂つまり奇数日︑砲術は日々朝四時︵午前一〇時︶から夕七時︵午後四時︶までの稽古と決まり︑稽古の期間は剣術・砲術が正月一二日から一二月一八日まで︑槍術が正月一三日から一二月一七日まで︑そして朝稽古はいずれも六月一日より七月晦日まで六半時︵午前七時︶から四半時︵午前一一時︶までであることが決定した︒また水泳は五月から八月まで朝四時︵午前一〇時︶より夕七時︵午後四時︶までの稽古となり︑稽古の始めと納めを講武所御門の掛札で知らせることになった︒そして︑講武所での稽古希望者は︑名前書を講武所玄関に持参するか︑総裁及び頭取の自宅へ提出することが必要であった ︒こうした状況のなかで︑江戸及びその周辺地域を対象とした軍事施設の設置・移転や対策が進められた︒嘉永六年一二月には角筈村に調練場を開設し ︑前述した安政三年︵一八五六︶三月には築地に講武場︵のち講武所︶を開設し︑同五年︵一八五四︶正月には深川越中島に調練場を開設し ︑同七年には品川台場の一部が完成し

久元年︵一八六一︶六月には千駄ヶ谷村の焔硝蔵が荏原 ︑文 ₁₀

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絵図面等ニ御取掛被成候由︑地元三田村江御談有之候︑壱軒茶屋上広尾江之通より松平主殿頭様迄之処見分無之︑新富士常庵より上手古富士迄之処も見分無之︑左候得者右見分有之候場所ニ限リ候様ニ相見候これによれば︑今回︑検分した場所のうち︑中目黒村地内の御立場山あたりには砲薬製造用の水車を建設し︑そして同所より北のほうの三田村地内は下渋谷村との入会地なので︑一軒茶屋上の青山通りへの道あたりまでの四万坪を御用地とし︑その場所に千駄ヶ谷焔硝蔵を移転させるという話であった︒そこで︑一軒茶屋上の広尾への通りより島原藩主松平忠精の抱屋敷までの間︑また新富士の常庵宅より上手の古富士までの間は今回の検分の対象とならなかったので︑御用地や水車の建設場所は実際に検分した場所に限定されるのではないかと村人たちは推測していたのである︒ここにみられる水車は︑水の流れのエネルギーを︑回転動力などの機械的なエネルギーに変換する装置であり︑回転を利用する動力水車とその先端にバケットなどを付けて水を汲み上げる揚水水車とに大別される︒水車の用途としては精米や製粉・油絞りなどのほか︑農業灌漑用 などのための水を汲み上げるために用いられ︑この時期には便利で機械的な動力源として利用されていたのである︒なお︑目黒砲薬製造所の水車については詳細な記録が見当たらないが︑合薬︵鉄砲の火薬︶の原料を潰したり︑混ぜたりするために用いられたとみられ︑庶民が営業する水車よりも大きく頑丈なものであったと推測される︒そして︑八月八日︑三田村名主の三太夫は中目黒村の村役人と候補地となっている場所の絵図面を作成するために面談した︒これを受けて︑翌九日︑中目黒村の村役人は御霊屋料地方役所に︑次のような検分の実情を報告している︒それによると︑八月四日の幕府の検分は︑中目黒村地内の字味噌下山通りの三田用水より上目黒・中目黒・下目黒の各村入会の田圃への分水口下に砲薬製造用水車を建設するためのものであるため︑三田用水路より北の三田村地内のおよそ四万坪を御用地にするということであった︒なお︑この段階で幕府役人から予定地の立ち会いを命じられていなかったが︑この先幕府側からどのような要請をしてくるのかわからないため︑現状を報告することにしたと述べている︒その後しばらく幕府側の動向は把握できないが︑九月

(7)

して︑三田用水路古富士あたりより肥前島原藩主松平主殿頭忠精の抱屋敷あたりまでを検分することになったので︑八月三日に周辺村々の村役人は雨天順延の積もりで新富士と称されている場所に朝五時︵午前八時︶に集合するようにとのことであった︒要件は用水路やその周辺の地理について尋問するということであり︑その際それぞれの村の用水路周辺の詳細な絵図面を作成して提出するよう命じられた︒この時︑実際の検分場所は用水路を跨いだ二〇〇間余の場所であることも知らされたのである︒ところが︑この通達とは別に︑同日︑武蔵国荏原郡三田村名主の三太夫らは︑斉藤嘉兵衛代官所から呼び出され出向いた︒そのなかで︑三田用水路周辺村々の入会境界について尋ねられたが︑その詳細は承知していない旨を返答すると︑他の村々と相談して絵図面を作成し検分先に提出するよう命じられた︒そこで︑三田用水路周辺の絵図面作成のため︑八月一日朝五半時︵午前九時︶新富士の常庵宅での寄合開催を下渋谷村名主弥十郎︑同半蔵︑同村野崎組名主茂太郎︑同村上知組源蔵︑上目黒村名主弥太郎︑同藤左衛門︑中目黒村名主鏑木金吾︑下目黒村名主浅蔵らに連絡し︑それぞれの村絵図を持参すよ う要請している︒そして︑一日に寄合を開き︑それぞれの村の用水路周辺の絵図面を作成し︑検分の際の用水路通路の草刈り人足の負担などについても話し合った︒八月三日は雨天のため幕府役人の検分が中止となり︑四日に順延となった︒四日は晴天で検分が実施され︑鉄砲玉薬奉行二名︑同支配向五名︑勘定吟味方改役一名︑同下役一名︑徒目付一名︑小人目付一名︑代官江川太郎左衛門元締手代一名︑代官斉藤嘉兵衛手代一名︑計一三名の幕府役人が出張してきた︒この検分の際︑①三田村新富士より一軒茶屋︵祖父ヶ茶屋︶までのおよそ四万坪を御用地にする︑②その地に千駄ヶ谷焔硝蔵を移転する︑③御立場分水口下︵中目黒村︶に砲薬製造用の水車を建設する︑という話があった︒そのことは︑翌五日︑中目黒村が御霊屋料地方役所へ提出するために手控えた次の記事からもうかがえる︒見分場所之義者中目黒村地内御立場山辺江︑調合薬製車御取建︑并同所より北之方江三田村地内下渋谷村入会ニ而︑壱軒茶屋上青山通リ江之道御取込ニも可相成哉ニも被仰聞候︑凡四万坪程之御用地出来いたし︑右場所ヘ千駄ヶ谷焔硝之御蔵御引移之様ニ無急度御談御座候︑近々日より場所地境等御改分見御

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絵図面等ニ御取掛被成候由︑地元三田村江御談有之候︑壱軒茶屋上広尾江之通より松平主殿頭様迄之処見分無之︑新富士常庵より上手古富士迄之処も見分無之︑左候得者右見分有之候場所ニ限リ候様ニ相見候これによれば︑今回︑検分した場所のうち︑中目黒村地内の御立場山あたりには砲薬製造用の水車を建設し︑そして同所より北のほうの三田村地内は下渋谷村との入会地なので︑一軒茶屋上の青山通りへの道あたりまでの四万坪を御用地とし︑その場所に千駄ヶ谷焔硝蔵を移転させるという話であった︒そこで︑一軒茶屋上の広尾への通りより島原藩主松平忠精の抱屋敷までの間︑また新富士の常庵宅より上手の古富士までの間は今回の検分の対象とならなかったので︑御用地や水車の建設場所は実際に検分した場所に限定されるのではないかと村人たちは推測していたのである︒ここにみられる水車は︑水の流れのエネルギーを︑回転動力などの機械的なエネルギーに変換する装置であり︑回転を利用する動力水車とその先端にバケットなどを付けて水を汲み上げる揚水水車とに大別される︒水車の用途としては精米や製粉・油絞りなどのほか︑農業灌漑用 などのための水を汲み上げるために用いられ︑この時期には便利で機械的な動力源として利用されていたのである︒なお︑目黒砲薬製造所の水車については詳細な記録が見当たらないが︑合薬︵鉄砲の火薬︶の原料を潰したり︑混ぜたりするために用いられたとみられ︑庶民が営業する水車よりも大きく頑丈なものであったと推測される︒そして︑八月八日︑三田村名主の三太夫は中目黒村の村役人と候補地となっている場所の絵図面を作成するために面談した︒これを受けて︑翌九日︑中目黒村の村役人は御霊屋料地方役所に︑次のような検分の実情を報告している︒それによると︑八月四日の幕府の検分は︑中目黒村地内の字味噌下山通りの三田用水より上目黒・中目黒・下目黒の各村入会の田圃への分水口下に砲薬製造用水車を建設するためのものであるため︑三田用水路より北の三田村地内のおよそ四万坪を御用地にするということであった︒なお︑この段階で幕府役人から予定地の立ち会いを命じられていなかったが︑この先幕府側からどのような要請をしてくるのかわからないため︑現状を報告することにしたと述べている︒その後しばらく幕府側の動向は把握できないが︑九月

(7)

して︑三田用水路古富士あたりより肥前島原藩主松平主殿頭忠精の抱屋敷あたりまでを検分することになったので︑八月三日に周辺村々の村役人は雨天順延の積もりで新富士と称されている場所に朝五時︵午前八時︶に集合するようにとのことであった︒要件は用水路やその周辺の地理について尋問するということであり︑その際それぞれの村の用水路周辺の詳細な絵図面を作成して提出するよう命じられた︒この時︑実際の検分場所は用水路を跨いだ二〇〇間余の場所であることも知らされたのである︒ところが︑この通達とは別に︑同日︑武蔵国荏原郡三田村名主の三太夫らは︑斉藤嘉兵衛代官所から呼び出され出向いた︒そのなかで︑三田用水路周辺村々の入会境界について尋ねられたが︑その詳細は承知していない旨を返答すると︑他の村々と相談して絵図面を作成し検分先に提出するよう命じられた︒そこで︑三田用水路周辺の絵図面作成のため︑八月一日朝五半時︵午前九時︶新富士の常庵宅での寄合開催を下渋谷村名主弥十郎︑同半蔵︑同村野崎組名主茂太郎︑同村上知組源蔵︑上目黒村名主弥太郎︑同藤左衛門︑中目黒村名主鏑木金吾︑下目黒村名主浅蔵らに連絡し︑それぞれの村絵図を持参すよ う要請している︒そして︑一日に寄合を開き︑それぞれの村の用水路周辺の絵図面を作成し︑検分の際の用水路通路の草刈り人足の負担などについても話し合った︒八月三日は雨天のため幕府役人の検分が中止となり︑四日に順延となった︒四日は晴天で検分が実施され︑鉄砲玉薬奉行二名︑同支配向五名︑勘定吟味方改役一名︑同下役一名︑徒目付一名︑小人目付一名︑代官江川太郎左衛門元締手代一名︑代官斉藤嘉兵衛手代一名︑計一三名の幕府役人が出張してきた︒この検分の際︑①三田村新富士より一軒茶屋︵祖父ヶ茶屋︶までのおよそ四万坪を御用地にする︑②その地に千駄ヶ谷焔硝蔵を移転する︑③御立場分水口下︵中目黒村︶に砲薬製造用の水車を建設する︑という話があった︒そのことは︑翌五日︑中目黒村が御霊屋料地方役所へ提出するために手控えた次の記事からもうかがえる︒見分場所之義者中目黒村地内御立場山辺江︑調合薬製車御取建︑并同所より北之方江三田村地内下渋谷村入会ニ而︑壱軒茶屋上青山通リ江之道御取込ニも可相成哉ニも被仰聞候︑凡四万坪程之御用地出来いたし︑右場所ヘ千駄ヶ谷焔硝之御蔵御引移之様ニ無急度御談御座候︑近々日より場所地境等御改分見御

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(9)

収し︑上水を維持管理した︒ところが︑三田上水は享保七年︵一七二二︶一〇月に廃止となり︑同九年には灌漑用水として利用していた村々から給水の継続願が出され許可されたのである︒これを受けて︑翌一〇年五月︑細川用水と三田上水を一つにした三田用水が完成した︒この用水を利用した村は︑下渋谷・中渋谷︵以上︑現渋谷区︶・白金・今里︵以上︑現港区︶・上目黒・上目黒村上知組・中目黒・下目黒・三田︵以上︑現目黒区︶・代田︵現世田谷区︶・谷山・上大崎・下大崎・北品川宿︵以上︑品川区︶の一四ヶ村であり︑用水組合を構成する村々であった︒これらの村々は︑幕領・寺領・旗本領に属していたが︑事態の推移を支配領主へ逐次報告することになっていた︒また︑寛政九年︵一七九七︶一一月の記録によると︑三田用水には一七の分水口があり︑上流から山下口︵代田村︶︑渋ヶ谷口︵代田村︶︑神山口︵中渋谷村︶︑駒場口︵上・中・下目黒村︶︑中川口︵上・中目黒村︶︑鉢山口︵中・下渋谷村︶︑猿楽塚口︵下渋谷村︶︑坂口︵上目黒村︶︑道城池口︵下渋谷村︶︑別所上口︵上・中・下目黒村︶︑実相寺山口︵中目黒村︶︑銭瓶窪口︵三田村︑白金村︑今里村︶︑銭瓶窪口︵上・下目黒村︶︑鳥久保口︵上 大崎村︑谷山村︶︑妙円寺脇口︵上大崎村︶︑久留島上口︵今里村︶︑久留島上口︵上・下大崎村︑北品川宿︶であった

は灌漑用水として欠かせなかったのである︒ ︒この地域の農民たちにとって︑三田用水からの水 ₁₅

三  水車建設に伴う地域社会の課題

安政三年︵一八五六︶九月︑砲薬製造用水車場建設の予定地となった中目黒村は︑村の支配役所である御霊屋料地方役所に以下のような報告書を提出した︒それによると︑中目黒村は村内の祖父ヶ茶屋脇より御立場山までの字三田用水堀南の田圃に面する斜面に︑幕府による砲薬製造用水車場の建設計画がなされたので︑受け入れの可否を判断するにあたって︑①祖父ヶ茶屋は将軍の目黒筋での鷹野御成の際よく立ち寄る由緒をもっている︑②御立場山は将軍の追鳥狩御成の際の御立場︵狩の際︑その様子をご覧になるため︑土盛りして築かれた高台︶となっている︑③御立場山下の田圃一帯は冬鳥御場所︵冬︑将軍の鷹狩のために整備されている場所︶となっている︑ということを危惧していた︒そのことは﹁御場所柄之義ニ付︑村役人一同心配﹂とあり︑一方で﹁御国恩を相弁︑

(9)

二一日︑中目黒村名主の金吾は御霊屋料地方役所に︑次のような内容を報告している︒それは︑幕府が中目黒村内の字一軒茶屋脇より御立場山までの字三田用水堀南の田圃に面する斜面に砲薬製造用水車場を建設するにあたり︑村方の支障の有無を照会してきたということであった︒この場所は︑上目黒・中目黒・下目黒の三ヶ村の入会地となっており︑詳細な検分をしなければ入会の状況なども判明せず︑また三田用水路にかかわることは一四ヶ村で構成される三田用水組合村々に問い合わせる必要があり︑水車場の建設場所を即座に承知することについては問題があると報告している︒しかし︑幕領の下大崎村から受け取った九月の代官の書付には︑三田用水路のうち三田村と中目黒村地内の字新富士より祖父ヶ茶屋までの間は用水路の水嵩も相応にあり︑周囲の人家とも隔絶しており︑砲薬製造用水車を建設するのに最適な場所であること︑その地内の斜面︵崖の片側だけが急斜面になっていることから﹁片雪崩﹂と表記される︶に水車を建設し︑また字実相寺山口と別所口の二ヶ所の分水口を一ヶ所にして水車を回す水とし︑さらに三田用水路の流末はこれまでの通り田圃の用水として引き入れるのに都合がよいよう流水するとしている︒ 一方︑三田村地内には砲薬・硝石・硫黄・灰などの貯蔵庫を建設するとしている︒このため︑三田用水組合村々はその施設の建設についての支障の有無を︑書面で意思表示することになった︒ここにはじめて︑砲薬製造用水車の建設の受け入れ可否の窓口が焔硝蔵や水車場の建設場所が予定されている三田村と中目黒村のほか︑御用地を流れる三田用水路を管理している三田用水組合村々と建設予定場所の入会地を利用している村々であることが明確になった︒なお︑御用地にかかわる村々はすべて三田用水組合の構成村のなかに入っており︑照会対象の最大公約数は三田用水組合村々であったのである︒三田用水路は︑渋谷川水系と目黒川水系の間の稜線にあたる台地上にあり︑下北沢村で玉川上水から分水され︑三田村を経て白金村に流れていた︒その始まりは︑万治年間︵一六五八︱一六六一︶熊本藩主細川氏が下北沢村の玉川上水から自分の屋敷に引いた細川用水と︑そのやや上流から取水した三田上水であった︒寛文四年︵一六六四︶一一月︑中村八郎右衛門・磯野助六によって三田上水が開削され︑豊島・荏原両郡から高輪・芝金杉周辺の諸町へ給水し︑その利用者から水銀・水銭を徴

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収し︑上水を維持管理した︒ところが︑三田上水は享保七年︵一七二二︶一〇月に廃止となり︑同九年には灌漑用水として利用していた村々から給水の継続願が出され許可されたのである︒これを受けて︑翌一〇年五月︑細川用水と三田上水を一つにした三田用水が完成した︒この用水を利用した村は︑下渋谷・中渋谷︵以上︑現渋谷区︶・白金・今里︵以上︑現港区︶・上目黒・上目黒村上知組・中目黒・下目黒・三田︵以上︑現目黒区︶・代田︵現世田谷区︶・谷山・上大崎・下大崎・北品川宿︵以上︑品川区︶の一四ヶ村であり︑用水組合を構成する村々であった︒これらの村々は︑幕領・寺領・旗本領に属していたが︑事態の推移を支配領主へ逐次報告することになっていた︒また︑寛政九年︵一七九七︶一一月の記録によると︑三田用水には一七の分水口があり︑上流から山下口︵代田村︶︑渋ヶ谷口︵代田村︶︑神山口︵中渋谷村︶︑駒場口︵上・中・下目黒村︶︑中川口︵上・中目黒村︶︑鉢山口︵中・下渋谷村︶︑猿楽塚口︵下渋谷村︶︑坂口︵上目黒村︶︑道城池口︵下渋谷村︶︑別所上口︵上・中・下目黒村︶︑実相寺山口︵中目黒村︶︑銭瓶窪口︵三田村︑白金村︑今里村︶︑銭瓶窪口︵上・下目黒村︶︑鳥久保口︵上 大崎村︑谷山村︶︑妙円寺脇口︵上大崎村︶︑久留島上口︵今里村︶︑久留島上口︵上・下大崎村︑北品川宿︶であった

は灌漑用水として欠かせなかったのである︒ ︒この地域の農民たちにとって︑三田用水からの水 ₁₅

三  水車建設に伴う地域社会の課題

安政三年︵一八五六︶九月︑砲薬製造用水車場建設の予定地となった中目黒村は︑村の支配役所である御霊屋料地方役所に以下のような報告書を提出した︒それによると︑中目黒村は村内の祖父ヶ茶屋脇より御立場山までの字三田用水堀南の田圃に面する斜面に︑幕府による砲薬製造用水車場の建設計画がなされたので︑受け入れの可否を判断するにあたって︑①祖父ヶ茶屋は将軍の目黒筋での鷹野御成の際よく立ち寄る由緒をもっている︑②御立場山は将軍の追鳥狩御成の際の御立場︵狩の際︑その様子をご覧になるため︑土盛りして築かれた高台︶となっている︑③御立場山下の田圃一帯は冬鳥御場所︵冬︑将軍の鷹狩のために整備されている場所︶となっている︑ということを危惧していた︒そのことは﹁御場所柄之義ニ付︑村役人一同心配﹂とあり︑一方で﹁御国恩を相弁︑

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二一日︑中目黒村名主の金吾は御霊屋料地方役所に︑次のような内容を報告している︒それは︑幕府が中目黒村内の字一軒茶屋脇より御立場山までの字三田用水堀南の田圃に面する斜面に砲薬製造用水車場を建設するにあたり︑村方の支障の有無を照会してきたということであった︒この場所は︑上目黒・中目黒・下目黒の三ヶ村の入会地となっており︑詳細な検分をしなければ入会の状況なども判明せず︑また三田用水路にかかわることは一四ヶ村で構成される三田用水組合村々に問い合わせる必要があり︑水車場の建設場所を即座に承知することについては問題があると報告している︒しかし︑幕領の下大崎村から受け取った九月の代官の書付には︑三田用水路のうち三田村と中目黒村地内の字新富士より祖父ヶ茶屋までの間は用水路の水嵩も相応にあり︑周囲の人家とも隔絶しており︑砲薬製造用水車を建設するのに最適な場所であること︑その地内の斜面︵崖の片側だけが急斜面になっていることから﹁片雪崩﹂と表記される︶に水車を建設し︑また字実相寺山口と別所口の二ヶ所の分水口を一ヶ所にして水車を回す水とし︑さらに三田用水路の流末はこれまでの通り田圃の用水として引き入れるのに都合がよいよう流水するとしている︒ 一方︑三田村地内には砲薬・硝石・硫黄・灰などの貯蔵庫を建設するとしている︒このため︑三田用水組合村々はその施設の建設についての支障の有無を︑書面で意思表示することになった︒ここにはじめて︑砲薬製造用水車の建設の受け入れ可否の窓口が焔硝蔵や水車場の建設場所が予定されている三田村と中目黒村のほか︑御用地を流れる三田用水路を管理している三田用水組合村々と建設予定場所の入会地を利用している村々であることが明確になった︒なお︑御用地にかかわる村々はすべて三田用水組合の構成村のなかに入っており︑照会対象の最大公約数は三田用水組合村々であったのである︒三田用水路は︑渋谷川水系と目黒川水系の間の稜線にあたる台地上にあり︑下北沢村で玉川上水から分水され︑三田村を経て白金村に流れていた︒その始まりは︑万治年間︵一六五八︱一六六一︶熊本藩主細川氏が下北沢村の玉川上水から自分の屋敷に引いた細川用水と︑そのやや上流から取水した三田上水であった︒寛文四年︵一六六四︶一一月︑中村八郎右衛門・磯野助六によって三田上水が開削され︑豊島・荏原両郡から高輪・芝金杉周辺の諸町へ給水し︑その利用者から水銀・水銭を徴

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村への分水口がある堀筋を指しており︑元樋からその堀筋に取水してほしいと願っているのである︒しかし︑この堀筋の水が田圃に落水すると稲刈りの際支障が出るため︑水車から流れた水が田圃に影響なく目黒川に流せるように︑堀筋の水の流れを検分してくれるよう要請したのである︒中目黒村と同じ御霊屋料であった下目黒村も︑中目黒村から前述した内容にかかわる問い合わせがあり︑村内で相談した結果︑中目黒村が提出した報告書と同じ内容で問題ないということであった︒ところで︑三田用水組合村々の一帯は︑将軍の鷹狩りの場所である御拳場に設定されていた︒この地域は︑江戸廻り六筋鷹場のうち目黒筋に属し︑上目黒村に設置されていた鳥見役所に勤務する鳥見役にも同様の届書を提出していた︒鳥見役は鳥類保護のみならず︑鷹場環境全体の維持保全について管轄しており︑鷹場地域での土地の改変や水車の設置に際しても届け出る必要があった

とほぼ同文の文書を提出した︒ の普請を担当する幕府の普請方役所へ︑前述した報告書 霊屋料の中目黒・下目黒両村と幕領の上目黒村は︑堤防 同年一〇月︑水車場予定地の入会地を利用していた御 ︒ ₁₆ 藤嘉兵衛代官所に以下のような文書を提出した 谷山・上大崎・下大崎・北品川の各宿村の村役人は︑斉 村野崎組・同村上ヶ知組・代田・上目黒・三田・白金・ 同じ頃︑三田用水組合村々のうち︑幕領の下渋谷・同

﹁組合村々より差出候別紙願面之通リ︑もらえない場合︑ はまったく問題ないとしている︒この願いが聞き届けて の拡張を懇願し︑それが叶えられるならば水車場の建設 が︑寸法を広げる樋口の作り直しに支障はないとしてそ 樋口内径の高さが二尺九寸︑縦横が三尺の決まりである 助は︑斉藤嘉兵衛代官所への願書のなかで︑下北沢村元 川宿の惣代である下大崎村名主助之丞と北品川宿組頭要 また一〇月六日︑上大崎村・下大崎村・谷山村・北品 ついては支障がないという返答であった︒ 御座候﹂とあって︑三田村地内への焔硝蔵の移転などに 相無障差々村ハ義候成ニ村江﹁三田建内地御蔵其外御取 条件に︑砲薬製造用水車の建設を要請していた︒一方︑ はこれまで通り番水にして番人足を付けるということを 所の分水口をできるだけ切り広げ︑また水が減った時に てしまうという理由で反対し︑下北沢村の元圦口や二ヶ 水口を一ヶ所にされると用水が行き届かない場所ができ よれば︑三田用水組合村々のうち幕領村々は二ヶ所の分 ︒それに ₁₇

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御用地ニ相成候義者冥加至極難有仕合ニ奉存候﹂とも記述されている︒つまり︑水車場建設の予定地として選定されたことはありがたいことだが︑その場所が将軍の御成場所と密接にかかわっている場所であることを心配していたのである︒一方︑砲薬製造用水車場の建設を受け入れることが﹁国恩﹂に報いることであり︑予定地に選定されたことは﹁冥加至極﹂﹁難有仕合﹂とも述べていた︒これは︑複雑な胸中を吐露したものだが︑必ずしも前向きな姿勢ではなかったことを示すものであろう︒たとえ村側が建設を受け入れるにしても︑御用地となる土地が①﹁召上ヶ切﹂︑つまり幕府に召し上げられてしまうのか︑②代替地が与えられてその石高を差し引いてくれるのか︑③地代に代わる﹁御下ヶ金﹂の下与があるのか︑という現実的な問題があった︒村側からすれば︑﹁下ヶ金﹂の下与があれば土地を召し上げられた農民たちが年貢諸役を上納でき︑またこの御用に支障があった場合には御用地となった土地を地主たちに戻してほしいとも考えていたのである︒もう一つの大きな課題は︑用水問題であった︒この地域には三田用水路が築かれていたが︑用水にかかわる問題は深刻であった︒苗代の季節になると︑下北沢村で玉 川上水から分水している三田用水路の圦口は三分開けから二分開けを命じられ︑下流では用水が行き届かないので︑用水組合村々で相談し上手・下手に分かれて隔日に用水を分配・調整してきた︒中目黒村には二つの分水口があり︑字別所口の分水口は五寸四分四方の大きさで四町八反二畝二七歩の田圃を︑字実相寺山口の分水口は四寸一分二厘四方の大きさで二町八反一畝歩の田圃の水を潤してきたが︑精米用の水車稼ぎが増えてくると水量の配分をめぐって用水問題が生じてきたという︒なおさら︑今回の砲薬製造用水車場の建設により二つの分水口を一つにすることになればより深刻な状況となるため︑二つの分水口はこれまで通り据え置いてほしいと願い上げたのである︒これには︑別所口分水下と実相寺山分水下の田圃とでは︑下手の田圃の地面のほうがおよそ四尺も高くなっているという地形上の問題があり︑従来通りの二つの分水口から水を流さなければ用水が行き届かないという切実な問題があった︒また砲薬製造用水車で使う水は︑下北沢村の元樋からこれまである堀筋に流した水で対応してほしいと考えていた︒これまである堀筋とは︑字別所と字実相寺山の二つの分水口の下手に島原藩主松平主殿頭の抱屋敷があり︑その裏手に中目黒・下目黒両

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村への分水口がある堀筋を指しており︑元樋からその堀筋に取水してほしいと願っているのである︒しかし︑この堀筋の水が田圃に落水すると稲刈りの際支障が出るため︑水車から流れた水が田圃に影響なく目黒川に流せるように︑堀筋の水の流れを検分してくれるよう要請したのである︒中目黒村と同じ御霊屋料であった下目黒村も︑中目黒村から前述した内容にかかわる問い合わせがあり︑村内で相談した結果︑中目黒村が提出した報告書と同じ内容で問題ないということであった︒ところで︑三田用水組合村々の一帯は︑将軍の鷹狩りの場所である御拳場に設定されていた︒この地域は︑江戸廻り六筋鷹場のうち目黒筋に属し︑上目黒村に設置されていた鳥見役所に勤務する鳥見役にも同様の届書を提出していた︒鳥見役は鳥類保護のみならず︑鷹場環境全体の維持保全について管轄しており︑鷹場地域での土地の改変や水車の設置に際しても届け出る必要があった

とほぼ同文の文書を提出した︒ の普請を担当する幕府の普請方役所へ︑前述した報告書 霊屋料の中目黒・下目黒両村と幕領の上目黒村は︑堤防 同年一〇月︑水車場予定地の入会地を利用していた御 ︒ ₁₆ 藤嘉兵衛代官所に以下のような文書を提出した 谷山・上大崎・下大崎・北品川の各宿村の村役人は︑斉 村野崎組・同村上ヶ知組・代田・上目黒・三田・白金・ 同じ頃︑三田用水組合村々のうち︑幕領の下渋谷・同

﹁組合村々より差出候別紙願面之通リ︑もらえない場合︑ はまったく問題ないとしている︒この願いが聞き届けて の拡張を懇願し︑それが叶えられるならば水車場の建設 が︑寸法を広げる樋口の作り直しに支障はないとしてそ 樋口内径の高さが二尺九寸︑縦横が三尺の決まりである 助は︑斉藤嘉兵衛代官所への願書のなかで︑下北沢村元 川宿の惣代である下大崎村名主助之丞と北品川宿組頭要 また一〇月六日︑上大崎村・下大崎村・谷山村・北品 ついては支障がないという返答であった︒ 御座候﹂とあって︑三田村地内への焔硝蔵の移転などに 相無障差々村ハ義候成ニ村江﹁三田建内地御蔵其外御取 条件に︑砲薬製造用水車の建設を要請していた︒一方︑ はこれまで通り番水にして番人足を付けるということを 所の分水口をできるだけ切り広げ︑また水が減った時に てしまうという理由で反対し︑下北沢村の元圦口や二ヶ 水口を一ヶ所にされると用水が行き届かない場所ができ よれば︑三田用水組合村々のうち幕領村々は二ヶ所の分 ︒それに ₁₇

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御用地ニ相成候義者冥加至極難有仕合ニ奉存候﹂とも記述されている︒つまり︑水車場建設の予定地として選定されたことはありがたいことだが︑その場所が将軍の御成場所と密接にかかわっている場所であることを心配していたのである︒一方︑砲薬製造用水車場の建設を受け入れることが﹁国恩﹂に報いることであり︑予定地に選定されたことは﹁冥加至極﹂﹁難有仕合﹂とも述べていた︒これは︑複雑な胸中を吐露したものだが︑必ずしも前向きな姿勢ではなかったことを示すものであろう︒たとえ村側が建設を受け入れるにしても︑御用地となる土地が①﹁召上ヶ切﹂︑つまり幕府に召し上げられてしまうのか︑②代替地が与えられてその石高を差し引いてくれるのか︑③地代に代わる﹁御下ヶ金﹂の下与があるのか︑という現実的な問題があった︒村側からすれば︑﹁下ヶ金﹂の下与があれば土地を召し上げられた農民たちが年貢諸役を上納でき︑またこの御用に支障があった場合には御用地となった土地を地主たちに戻してほしいとも考えていたのである︒もう一つの大きな課題は︑用水問題であった︒この地域には三田用水路が築かれていたが︑用水にかかわる問題は深刻であった︒苗代の季節になると︑下北沢村で玉 川上水から分水している三田用水路の圦口は三分開けから二分開けを命じられ︑下流では用水が行き届かないので︑用水組合村々で相談し上手・下手に分かれて隔日に用水を分配・調整してきた︒中目黒村には二つの分水口があり︑字別所口の分水口は五寸四分四方の大きさで四町八反二畝二七歩の田圃を︑字実相寺山口の分水口は四寸一分二厘四方の大きさで二町八反一畝歩の田圃の水を潤してきたが︑精米用の水車稼ぎが増えてくると水量の配分をめぐって用水問題が生じてきたという︒なおさら︑今回の砲薬製造用水車場の建設により二つの分水口を一つにすることになればより深刻な状況となるため︑二つの分水口はこれまで通り据え置いてほしいと願い上げたのである︒これには︑別所口分水下と実相寺山分水下の田圃とでは︑下手の田圃の地面のほうがおよそ四尺も高くなっているという地形上の問題があり︑従来通りの二つの分水口から水を流さなければ用水が行き届かないという切実な問題があった︒また砲薬製造用水車で使う水は︑下北沢村の元樋からこれまである堀筋に流した水で対応してほしいと考えていた︒これまである堀筋とは︑字別所と字実相寺山の二つの分水口の下手に島原藩主松平主殿頭の抱屋敷があり︑その裏手に中目黒・下目黒両

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同年閏五月一八日︑幕領の下渋谷村・同村野崎組・同村上知組・代田村・上目黒村・三田村・白金村・谷山村・上大崎村・下大崎村・北品川宿の村役人は︑斉藤嘉兵衛代官所に次のような報告書を提出した

これら幕領村々が代官所に提出した書類は︑安政五年 もりは金八二両と銀五匁であった︒ 修理費用の見積りは金一五七両二分︑床下げ費用の見積 の見積りを作成し︑斉藤嘉兵衛代官所に提出した︒橋の ヶ所・石橋三ヶ所・板橋二ヶ所の修理費用と床下げ費用 このため︑幕領村々は同日付で︑三田用水路の土橋一 諭したことも報告している︒ 引き入れられるよう幕府側に要請したほうがいい︑と説 料の中目黒・下目黒両村には小高い場所の田圃へ用水を 建設してもまったく問題はないとしている︒また御霊屋 くれるならば︑二ヶ所の分水口を一ヶ所にして水車場を 額負担による工事︶を行い︑また用水路へ高札を立てて 全の府幕﹂︵普御請の﹁こ相談した下とろ用水路の床げ 簡易な方法にできないかとの問い合わせがあり︑村々で が︑幕府側からそれにはさまざまな支障があるのでより て︑下北沢村の元樋口を切り広げることを要請していた 鍖吉様へ差出候領村々が砲薬製造用水車場の建設を受け入れる条件とし 付︑取調之上前断之通リ地方御掛リ城戸伝之丞様・井出︒その内容は︑幕 ₂₂ 村々より御代官様へ差出候書類取調差出候様被仰付候ニ 命じられて収集し提出したものであり︑それは﹁御料所 二月︑中目黒村が支配領主である御霊屋料地方役所から

った場合︑周辺の人家や田圃で仕事をしている人が しがよい状態なので︑万一爆発などの異常事態があ 建設場所の三方は土手だが︑田圃側の一方は見晴ら② るならば︑田圃への用水引き入れにも支障はない︒ 二〇〇間余の場所へ水がよく流れるようにしてくれ いて︑下樋への溜め桶の設置とその左右の水引き樋 ①両村入会地の斜面地への砲薬製造用水車場建設につ ついて︑次の三点を報告している︒ 方役所に︑砲薬製造用水車場建設計画の受け入れ条件に そのうえで︑同月︑中目黒・下目黒両村は御霊屋料地 な点がないかどうかを見極める必要があったのであろう︒ の進捗状況の把握とともに支配村の言い分について不利 領村々とが同一歩調をとっているかどうかを確認し︑そ 他領の三田用水組合村々の動向を知り︑それらと御霊屋 ている幕府の砲薬製造用水車場建設への対応について︑ 御霊屋料地方役所は支配村である中目黒村内で計画され ﹂という文言にも示されている︒つまり︑ ₂₃

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元樋用水路共床下被成下置度︑此段奉願上候

障之義無御座候 申立置候間︑右組合村々より申立候廉同意ニ而︑外ニ故 同評議仕︑御料所村々より御支配斉藤嘉兵衛様御役所江 義も三田用水路拾四ヶ村組合ニ付︑先達而中組合村々一 丞・の三浦銓之丞・吉田寅之間野忠五郎に︑﹁当村方之 三浦半之助と寺院の根生院に︑中渋谷村の村役人は旗本 役人は支配領主である旗本の森川鑄三郎・三浦銓之丞・ 一〇月二一日︑三田用水組合村々のうち︑下渋谷村の村 にた︒薬製造用水車の建設ついての対応を報告してい 一方︑旗本領や寺領の村々もそれぞれ支配領主に︑砲 いたのである︒ うに︑元樋と用水路の床下げをしてくれるよう要請して ﹂とあるよ ₁₈

合拾四ヶ村難義不相成候様被成置候上ハ︑聊故障無之旨 御糾之節︑同人共心得を以私共江談有之候ニ付︑用水組 ニ相当︑且ハ分水口広狭等之義ハ先達而御料村々役人共 善太右衛門の立会役所に﹁当村之義ハ右御場所より水上 そして︑この私領二ヶ村は︑代官の竹垣三右衛門・林部 いては同意していて何ら問題がないことを報告している︒ 議しながら対応し︑幕領村々が申し立てている内容につ については三田用水組合村々の一員として他の村々と協 ﹂とあるように︑砲薬製造用水車の建設 ₁₉ 何卒御聞済奉願上候 御座候︑御料村々同意ニ御座候間︑依之此段奉申上候︑ 及挨拶置候義ニ而︑私共弐ヶ村ニ限組合相洩候義毛頭無

支有之間鋪段申聞候 五分四方之分水口新規補理被成下置候得者︑用水引方差 差支候ニ付︑御構際石橋より弐拾間程下之方江隔︑三寸 候ハ︑字祖父ヶ茶屋野道より下之方高場ニ而用水引分ヶ 黒は︑﹁中目人村役之江申聞丞助い名村崎大下る主てし 安政四年︵一八五七︶三月二九日︑三田用水組合に属 えている︒ が私領とはいえ用水組合から洩れていないことを付け加 のうち幕領村々の対応の仕方に問題はなく︑また二ヶ村 設予定地よりも水上であるので︑三田用水組合一四ヶ村 ﹂と報告し︑私領二ヶ村が水車場建 ₂₀

状況にあったのである︒ なっている一部の田圃に用水を引き入れることが難しい の中目黒村と下目黒村は︑他村と地形が異なり︑小高く を引くことに支障はなくなると教えたという︒御霊屋料 隔てて︑三寸五分四方の分水口を新しく設置すれば用水 車場の建設を予定している場所近くの石橋より二〇間程 ほうは小高い場所で用水を引くことができないので︑水 る︒つまり︑中目黒村地内の祖父ヶ茶屋の野道より下の ﹂と斉藤嘉兵衛代官所に報告してい ₂₁

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同年閏五月一八日︑幕領の下渋谷村・同村野崎組・同村上知組・代田村・上目黒村・三田村・白金村・谷山村・上大崎村・下大崎村・北品川宿の村役人は︑斉藤嘉兵衛代官所に次のような報告書を提出した

これら幕領村々が代官所に提出した書類は︑安政五年 もりは金八二両と銀五匁であった︒ 修理費用の見積りは金一五七両二分︑床下げ費用の見積 の見積りを作成し︑斉藤嘉兵衛代官所に提出した︒橋の ヶ所・石橋三ヶ所・板橋二ヶ所の修理費用と床下げ費用 このため︑幕領村々は同日付で︑三田用水路の土橋一 諭したことも報告している︒ 引き入れられるよう幕府側に要請したほうがいい︑と説 料の中目黒・下目黒両村には小高い場所の田圃へ用水を 建設してもまったく問題はないとしている︒また御霊屋 くれるならば︑二ヶ所の分水口を一ヶ所にして水車場を 額負担による工事︶を行い︑また用水路へ高札を立てて 全の府幕﹂︵普御請の﹁こ相談した下とろ用水路の床げ 簡易な方法にできないかとの問い合わせがあり︑村々で が︑幕府側からそれにはさまざまな支障があるのでより て︑下北沢村の元樋口を切り広げることを要請していた 鍖吉様へ差出候領村々が砲薬製造用水車場の建設を受け入れる条件とし ︒その内容は︑幕付︑取調之上前断之通リ地方御掛リ城戸伝之丞様・井出 ₂₂ 村々より御代官様へ差出候書類取調差出候様被仰付候ニ 命じられて収集し提出したものであり︑それは﹁御料所 二月︑中目黒村が支配領主である御霊屋料地方役所から

った場合︑周辺の人家や田圃で仕事をしている人が しがよい状態なので︑万一爆発などの異常事態があ 建設場所の三方は土手だが︑田圃側の一方は見晴ら② るならば︑田圃への用水引き入れにも支障はない︒ 二〇〇間余の場所へ水がよく流れるようにしてくれ いて︑下樋への溜め桶の設置とその左右の水引き樋 ①両村入会地の斜面地への砲薬製造用水車場建設につ ついて︑次の三点を報告している︒ 方役所に︑砲薬製造用水車場建設計画の受け入れ条件に そのうえで︑同月︑中目黒・下目黒両村は御霊屋料地 な点がないかどうかを見極める必要があったのであろう︒ の進捗状況の把握とともに支配村の言い分について不利 領村々とが同一歩調をとっているかどうかを確認し︑そ 他領の三田用水組合村々の動向を知り︑それらと御霊屋 ている幕府の砲薬製造用水車場建設への対応について︑ 御霊屋料地方役所は支配村である中目黒村内で計画され ﹂という文言にも示されている︒つまり︑ ₂₃

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元樋用水路共床下被成下置度︑此段奉願上候

障之義無御座候 申立置候間︑右組合村々より申立候廉同意ニ而︑外ニ故 同評議仕︑御料所村々より御支配斉藤嘉兵衛様御役所江 義も三田用水路拾四ヶ村組合ニ付︑先達而中組合村々一 丞・の三浦銓之丞・吉田寅之間野忠五郎に︑﹁当村方之 三浦半之助と寺院の根生院に︑中渋谷村の村役人は旗本 役人は支配領主である旗本の森川鑄三郎・三浦銓之丞・ 一〇月二一日︑三田用水組合村々のうち︑下渋谷村の村 にた︒薬製造用水車の建設ついての対応を報告してい 一方︑旗本領や寺領の村々もそれぞれ支配領主に︑砲 いたのである︒ うに︑元樋と用水路の床下げをしてくれるよう要請して ﹂とあるよ ₁₈

合拾四ヶ村難義不相成候様被成置候上ハ︑聊故障無之旨 御糾之節︑同人共心得を以私共江談有之候ニ付︑用水組 ニ相当︑且ハ分水口広狭等之義ハ先達而御料村々役人共 善太右衛門の立会役所に﹁当村之義ハ右御場所より水上 そして︑この私領二ヶ村は︑代官の竹垣三右衛門・林部 いては同意していて何ら問題がないことを報告している︒ 議しながら対応し︑幕領村々が申し立てている内容につ については三田用水組合村々の一員として他の村々と協 ﹂とあるように︑砲薬製造用水車の建設 ₁₉ 何卒御聞済奉願上候 御座候︑御料村々同意ニ御座候間︑依之此段奉申上候︑ 及挨拶置候義ニ而︑私共弐ヶ村ニ限組合相洩候義毛頭無

支有之間鋪段申聞候 五分四方之分水口新規補理被成下置候得者︑用水引方差 差支候ニ付︑御構際石橋より弐拾間程下之方江隔︑三寸 候ハ︑字祖父ヶ茶屋野道より下之方高場ニ而用水引分ヶ 黒は︑﹁中目人村役之江申聞丞助い名村崎大下る主てし 安政四年︵一八五七︶三月二九日︑三田用水組合に属 えている︒ が私領とはいえ用水組合から洩れていないことを付け加 のうち幕領村々の対応の仕方に問題はなく︑また二ヶ村 設予定地よりも水上であるので︑三田用水組合一四ヶ村 ﹂と報告し︑私領二ヶ村が水車場建 ₂₀

状況にあったのである︒ なっている一部の田圃に用水を引き入れることが難しい の中目黒村と下目黒村は︑他村と地形が異なり︑小高く を引くことに支障はなくなると教えたという︒御霊屋料 隔てて︑三寸五分四方の分水口を新しく設置すれば用水 車場の建設を予定している場所近くの石橋より二〇間程 ほうは小高い場所で用水を引くことができないので︑水 る︒つまり︑中目黒村地内の祖父ヶ茶屋の野道より下の ﹂と斉藤嘉兵衛代官所に報告してい ₂₁

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