同志社大学における尹東柱詩碑建立の経緯と意義 : ワンコリアの夢と新島精神の遭遇
著者 李 元重
雑誌名 同志社談叢
号 39
ページ 37‑61
発行年 2019‑03‑01
権利 同志社大学同志社社史資料センター
URL http://doi.org/10.14988/pa.2019.0000000626
同志社大学における尹東柱詩碑建立の経緯と意義―ワンコリアの夢と新島精神の遭遇三七
同志社大学における尹東柱詩碑建立の経緯と意義
―ワンコリアの夢と新島精神の遭遇 李 元 重
はじめに
韓国の有力な神学教育機関の一つである長老会神学大学(Presbyterian University and Theological Seminary,
以下「長神大」と略する)は、二〇一六年八月一日、同志社大学神学部と交流協定を締結した。それは日韓両国の代表的な神学教育機関が、日本と韓国、そしてアジアにおける神学の進展、神学教育水準の向上のため、相互理解と協力を深めようとする働きの結果であった。その交流協定の実践の第一歩として、二〇一七年十月二十五-二十六日、長神大が主催する宗教改革記念学術大会に同志社大学神学部の教員を招き講演を聞くことにした。長神大は学術大会の中でいくつかのテーマを設けたが、その中で一つが、韓国で最も愛されている詩人尹 ユン東 ドンジュ柱生誕一〇〇年を記念して「尹東柱、韓国教会に声をかける」というものであった。そのテーマは尹東柱の作品と生涯を文学的、神学的に分析する一連の研究発表であった。そして最後になぜ日本の大学である同志社大学に尹東柱の詩碑があるのかに対して、同志社大学神学部から発表があった。その発表は、最初に当時同志社大学神学部同志社大学における尹東柱詩碑建立の経緯と意義―ワンコリアの夢と新島精神の遭遇三八
長である石川立教授が、同志社大学はどのような大学なのかについて、その建学の精神と実践について語り、詩碑の建立までの具体的な経緯については筆者が発表した。本稿は、その学術大会において韓国語で発表した内容を日本語に翻訳し、加筆修正したものである。同志社大学のキャンパスの中で韓国の詩人尹東柱の詩碑が建てられてから二十三年の時がたった。この二十余年の時間が経過した現在、詩人が望んだ平和、詩碑を建立しようとした人々の和解への思いはどれほど実現できたかについて疑問があるものの、大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国の首脳会談が何回も行われた。特に二〇一八年六月、朝鮮戦争後初めて米朝首脳会談が開催され、韓半島の非核化と平和体制の構築に合意したのは、その希望と思いが結実するための大きな一歩だと考えられる。だからこそ、その経緯をあらためて思い出し、日本、韓国、北朝鮮の間での平和と和解を求め、祈り、心と力を合わせる必要があるだろう。我々が尹東柱の詩をあらためて読み直し、天を仰ぎ、少なくとも恥を知り、自分に与えられた道をもう一度考える機会にしたい。本稿の完成のため、「尹東柱を偲ぶ会」の会長である朴煕均氏の協力とインタビュー、韓国在住の朴世用氏の資料提供、そして同志社社史資料センターの貴重な資料は欠かせないものだった。謝意を表する。
1. 「尹東柱を偲ぶ会」と「同志社校友会コリアクラブ」
同志社大学キャンパス内の尹東柱詩碑の隣には尹東柱詩人を紹介する案内板がある。ハングルと日本語表記になっているのだが、その案内板の冒頭にはこう書いてある。「尹東柱(ユン・ドンジュ)は、コリアの民族詩人であり、キリスト者詩人である」と。少し、注意深い人なら、これが一般的な韓国人にはあまり馴染んでいない
同志社大学における尹東柱詩碑建立の経緯と意義―ワンコリアの夢と新島精神の遭遇三九 表現であることが分かるはずだ。具体的には「コリアの民族詩人」という表現である。最後に紹介されている資料「尹東柱詩碑建立の趣意書」にも、「終戦(解放・光復)前の韓国(朝鮮)に尹東柱という民族詩人がいた。(中略)朝鮮語で詩を書いたことが、朝鮮語の使用は独立運動につながる。(中略)同志社大学のコリア出身のOB達から次の様な声が上がって参りました」と書いてある。大韓民国で生まれ育ち、大韓民国の国籍を持っている韓国人にとって、尹東柱は「大韓民国」の民族詩人である。ところが韓国人の呼び方して、「北韓」、公式的表記としては朝鮮民主主義人民共和国の人々にとって、尹東柱は「韓国」の民族詩人なのか。彼らにとっては「朝鮮」の民族詩人ではないのか。そのような問題意識が一般的な韓国人の中にはない。しかし、その慣れていない違和感こそが、尹東柱詩碑の建立のきっかけであり、また正しい認識の手がかりである。韓半島(朝鮮半島、これからは「韓半島」と記する)において、帝国日本の植民地支配から解放されたばかりで起こった北と南の分断、それに続く残酷な朝鮮戦争の中で、韓半島の人々は憎み合いながら、何十年を過ごしたのである。そのような葛藤と衝突は、日本に残ったコリアンの中でも再現され、戦後日本列島に住み続けてきた「コリアン」は北朝鮮を支持する総連系と南の韓国を支持する民団系として分かれていた。そのような状況の中で尹東柱の詩碑の目に見えない基には、同志社で学んだ在日同胞たちがそのような分断と葛藤を乗り越えようとする試み、つまり平和と和解とのための努力があったからである。一九八〇年代末、世界は根本的に変貌していく時代を迎えていた。一九八九年ベルリンの壁が崩壊され、ドイツが統一に向けて動き、東欧圏の共産主義国家も続々と変化していった。このような脱冷戦の雰囲気の中で、一九九〇年九月、韓半島の二つの政府は南北が分断された一九四八年以来初めて総理級会談を開催し、ソ連と韓国は外交関係を結ぶことに成功した。日本は一九八九年一月、昭和天皇の逝去によって六十四年間持続した昭和の
同志社大学における尹東柱詩碑建立の経緯と意義―ワンコリアの夢と新島精神の遭遇四〇 時代が終わり、平成の時代が始まり、経済的にはバブルがはじける兆候が見えてきた。そのような世界史的な転換と朝鮮半島および日本の変化から影響を受けたのであろう、二つに分かれていた在日韓国人・朝鮮人の社会の中で、特に文化的には伝統と歴史を重要視しながら、自由と進歩を求める京都の大学を卒業したものの間で、変化を追求する声が出始めた。一九九〇年の暮れ、「在日本朝鮮人留学生同盟」(以下、「留学同」と略する)の同窓会が開かれた。京都にあるいくつかの大学を卒業した総連系の在日朝鮮人学生の同窓生の集いだったが、この集いの中心は京都大学、立命館大学、同志社大学出身者だった。京大と立命大の場合は、在日の同窓会があったが、同志社出身の同窓会はなかったので、その場で同志社大学の同窓会を作ろうとの意見が交わされ、朴煕均の名がその事務局長として挙げられた。彼は一つの条件付きでそれを受け入れることにした。その条件というのは、同窓会は総連系だけの集まりではなく、民団系も一緒に集まる統一された「ワンコリア」(
One Korea
)の同窓会を作るということだった((
(。その場で出席したみんながそれに賛同し、数か月後に準備が始まったが、準備は相変わらず総連系の人々が中心に進められ、民団系の同窓生の消息すらつかめなかった。そこで朴煕均は一つのアイディアを出した。即ち「南北の人士が協力して何かの事業をしてはどうか。そうすればその過程で民団系の人士の消息も分かるだろうし、共同で事業をすることにより連帯感も深まるだろう」と。南北が共に評価し参加できる事業を始めるという意見に、ワンコリアを目指す人々は皆賛同した。しかし、そのような事業が果たしてあるのかがまた問題だった。議論を重ねている内に、朴熙均が提案をした。「同志社大学の先輩として有名な詩人である尹東柱の詩碑を立てる事業を共にすることを呼び掛けたらどうだろう。そうしたら民団系の同窓生の消息も分かるのではないか。尹東柱は南北双方が評価する数少ない人士だということだ」 (2(。
同志社大学における尹東柱詩碑建立の経緯と意義―ワンコリアの夢と新島精神の遭遇四一 尹東柱の母校である、ソウルの延世大学に尹東柱の詩碑がある事実が参考になった。日本生まれ育ちが多かった留学同の人々には尹東柱という名前も、その詩碑を立てるアイディアも斬新なものだった。それでもワンコリアの同窓会を作ろうとしていた人々はこれに賛同した。彼等はまず尹東柱の詩の研究と韓国系・民団系の同窓生の消息を訪ねることから出発した。当時同志社中学校で教えていた故李珠喜が、韓学同(韓国学生同盟)系の同窓生として曺澤晨(現京都新聞記者)を紹介、さらに曺の紹介により朴一(現大阪市立大学教授)を紹介される。また尹東柱のことをより詳しい人として延世大学からの留学生姜恵禎を紹介、姜によってもう一人の留学生朴世用が参加した。当時の留学生たちの中でも尹東柱を記念する何かをやりたい気持ちはあったものの実行までは至らない状況だったので、在日同窓生のこのような動きに、朴世用を中心とした留学生たちも協力を惜しまなかった
((
(。彼らの目標は、一つの同窓会を作る前に「尹東柱を偲ぶ会」(以下、「偲ぶ会」と略する)をまず作ることを優先した。さらに前述の大阪で活動していた進歩的知識人で活動家だった朴一の紹介で、神戸の有力な企業家で、キリスト教歴史研究者でもあった故韓晳曦に協力をお願いした
((
(。韓晳曦は、当時ビジネスよりは日韓関係資料を収集し研究する青丘文庫の代表として活躍しながら、キリスト教教会でも社会的にも著名な人物だった。かつ、総連系・民団系双方に人脈を持つ人物であり、子女も同志社の卒業生であった。一九九一年春から準備会が始まり、八ヶ月の間二十一回も集うことができた。同年十一月七日には「尹東柱研究会」が発足し、開かれた第一回研究会においては、朴世用が「詩人尹東柱の二十七年の生涯」という題で発表した
((
(。次年度の一九九二年二月十六日に「第一回尹東柱を偲ぶ会」を開催することを決め、その会長を韓晳曦
同志社大学における尹東柱詩碑建立の経緯と意義―ワンコリアの夢と新島精神の遭遇四二
が務めることになった
((
(。その後朴一より「韓国系の年長の同窓生が同志社の同窓会を作るので協力してくれ、と言われている」と事務局を担当してきた朴熙均に連絡してきた。初代同志社コリアクラブ会長の趙大斎を中心とする民団系の人士たちであった。直ちに双方が合同の会議を開き、お互い協力して統一された同窓会を作ることに合意した。このように若い人々を中心に、数多くの年配の同窓生も参加、やっと民団と総連を含めて南北双方の人士が参加する統一的な組織の萌芽が見えてきた
((
(。このように集まった人々は共同の会を作り、思想、信条、北と南を問わず「ワンコリア」の精神で統一した同窓会を作ることに合意した。彼らは当面第一の課題として、尹東柱を偲ぶ会開催の成功のため支援を約束した。こうして一九九二年二月十六日、「第一回尹東柱を偲ぶ会」を新島会館で開催することに成功した。第一回偲ぶ会には、会長韓晳曦の挨拶、黙祷、金賛汀の講演が進められた。金賛汀は、尹東柱の死因を明らかにしようとする過程を記した『抵抗詩人尹東柱の死』(朝日新聞社、一九八四)として知られていた人物である。この集いでは総連系の在日、民団系の在日、日本人、韓国人留学生、中国朝鮮族同胞留学生などが一〇〇名以上出席して盛況を呈した。この偲ぶ会が一つの礎になり、同年四月二十九日京都国際会館において「同志社校友会コリアクラブ」(現在の「同志社コリア同窓会」、以下、「コリアクラブ」と略する)の結成が成し遂げられた。設立総会当日は同志社総長の松山義則をはじめ主だった同志社の教員がこぞって出席して門出を祝った。その席上枢要な事業計画の一つとして「尹東柱の詩碑の建立」を掲げ総長、学長などにその願いを入れたこともある
((
(。同志社大学出身で、それぞれ「朝鮮民主主義人民共和国」と「大韓民国」を支持してきた在日コリアンが「コリア」という名で一つになったことは決して単純なことではない。このような意味で、尹東柱詩人は自分の命が奪われた日本で、後輩たちが分断の傷を癒す大切な隅石(
cornerstone
)になったのである。同志社大学における尹東柱詩碑建立の経緯と意義―ワンコリアの夢と新島精神の遭遇四三 偲ぶ会とコリアクラブは別の組織ではあったが、尹東柱を記念する事業においては共同で推進・開催した。組織は出来たものの実際に詩人の詩碑を立てることが大きな課題だった。彼らは同志社大学のキャンパスで詩碑を立てることに確信がもてなかった。同志社大学はキャンパス内で人を記念するいかなる造形物も許していなかったからである。同志社大学は創立者新島襄に対する尊敬と愛が他のいかなる大学より厚くて深い大学だが、新島襄の銅像すら建てられていない。キャンパス内の良心碑は、新島という人を記念するというより新島が残した建学と教育の理念を記念する碑石であった。旧制同志社中学校出身で、東京帝国大学を卒業し、一九七三年ノーベル物理学賞を受賞した江崎玲於奈のような人物ですら記念するものもない。同志社のこのような姿勢は、創立者が残したキリスト教精神、特にピューリタンの精神による遺産であった。新島や江崎と比べて、尹東柱が同志社に残したものは実際何もなかったと言っても過言ではない。詩人が在学したのは、一九四二年十月から翌年の七月という一年にも満たない期間である。卒業をしたわけでもない、日本で何等かの業績を残したわけでもない、日本人のほとんどは知らない植民地朝鮮出身の青年詩人を記念する詩碑の建立を、同志社大学が許可するわけもはずもないと思わざるを得なかった。このような事情をよく理解できるようになった偲ぶ会とコリアクラブは、同志社大学のキャンパス内の代わりに、詩人が最後に暮らしていた京都市左京区高原町周辺の土地の一部を買うか、若しくは借りて詩碑を立てる案も考えていたそうである
((
(。尹東柱の五十周忌となる一九九五年は日本の敗戦から、コリア民族にとっては解放から五十年、日本と韓国の外交関係が回復してから三十年を迎える節目であった。この節目に合わせて詩碑を建立する希望を持っていた偲ぶ会とコリアクラブは、何かしなければならないという気持ちで、せめて一九九五年二月に記念式典だけでも大学内で開くことができればという願いを持って、一九九四年の暮れ、まず学校法人同志社の総長松山義則を公式
同志社大学における尹東柱詩碑建立の経緯と意義―ワンコリアの夢と新島精神の遭遇四四
訪問し、詩碑の建立をお願いした。しかし、悲観的な彼らの想定とは異なり、学校法人の総長、そして理事長の野本真也、最後に同志社大学の学長岩山太次郎も詩碑の建立を快諾してくれた。その時の驚きと喜びを、実務の責任を務めていた朴煕均はこのように述べた。「我々にとっては狐につままれたような気持であった。こんな簡単に快諾していただけるのなら、二年も三年も、ああでもない、こうでもないと思い悩む必要はなかったのだ
((1
(。」一九九五年一月の理事会にも詩碑の建立が正式に報告された
(((
(。しかしそのような急遽な快諾はそれなりに大変な仕事をもたらすものだった。尹東柱の逝去五十年を記念する二月十六日まで、残りの時間はわずか二ヶ月余りであり、その短い時間の中ですべてを終えなければならなかった。詩碑建立に関する趣意書を作成、準備委員会を組織し、必要な資料を作り、大学のどこで詩碑を立てるか、どのような詩碑を造るか、どちらの業者に頼むか、除幕式の参加者の案内、来賓の接待などの仕事を三ヶ月も満たない時間の中で完遂しなければいけなかった。このような準備の過程の中で尹東柱詩人の甥で、当時成均館大学の教授尹仁石から素晴らしい提案があった。そもそも尹仁石には遺家族の代表として参加を頼んでいたが、彼にとっては伯父、詩人尹東柱の弟で自分の父である故尹一柱がデザインした詩碑の設計図があったと教えてくれた。かつて尹一柱は延世大学に立てられた詩碑の設計図を頼まれた時、二つのデザインを完成させた。その中の一つが延世大学に建てられ、もう一つのデザインは尹仁石が所蔵しているということだった。尹仁石にその残りの一枚の設計図を偲ぶ会に送ってもらい、現在の同志社大学にある詩碑のデザインになった。一柱は「小ぶりでさわやかな感じの後の方が尹東柱の詩碑らしい」とも言っていたという
((1
(。一九九五年一月十七日、準備を急いでいた人々は想像もできなかった試練にぶつかった。それは偲ぶ会やコリ
同志社大学における尹東柱詩碑建立の経緯と意義―ワンコリアの夢と新島精神の遭遇四五 アクラブだけの試練ではなく、日本列島が悲しんだ阪神淡路大震災であった。地震自体が京都まで及ぼしたのはわずかだったが、在日コリアンが多数居住する神戸、大阪の阪神地域は壊滅的な被害を受けた。最終的には六四〇〇人以上の死亡者、四三〇〇〇人以上の負傷者、当時の金額で十兆円を超える財産被害があった。もちろんその中で在日コリアンも災害に遭い、詩碑の建立を準備する人々も当然精神的な打撃を受けたのである。もちろんこの災害は詩碑建立のための基金募集にも困難をもたらすものだった。それにもかかわらず、「尹東柱詩碑建立委員会」の実行委員長を務めた李愚京(現同志社コリア同窓会名誉会長)をはじめ朴春玉(同志社コリア同窓会の直前会長)、現会長の崔龍漢(同志社コリア同窓会の現会長)、呉治好(当時の大阪興銀常務)等コリアクラブのメンバーの精力的な活動、尹氏宗親会(尹家の親類の集い)をはじめ南北を問わない京阪神を中心とする在日韓国・朝鮮人同胞、野本真也理事長や巽吾郎校友会会長等多くの日本人からの積極的なカンパや支援に助けられ、目標とする募金に成功、詩碑の制作、除幕式などの行事、資料の制作と出版、その後の事業などに支出された
((1
(。このように様々な困難を乗り越え、ついに一九九五年二月十六日午前十時三十分、詩碑の除幕式が執り行われた。
2.同志社大学の決意
偲ぶ会が同志社大学に公式的に詩碑の建立を申し出たのは一九九四年暮れで、それが直ちに受け入れられたが、それ以前に詩碑建立のため、この活動の意義に賛同する人々が非公式的に大学の関係者たちを説得する働きもあった。韓晳曦は次のように述べている。コリアクラブはその結成時以来、同志社に詩碑の建立を粘り強く要請してき
同志社大学における尹東柱詩碑建立の経緯と意義―ワンコリアの夢と新島精神の遭遇四六
て、一九九四年になってからは五十周忌を節目とする九五年に向けてより積極的に動いた。学校法人同志社の理事長として野本真也(当時神学部長)が選任されてから学校側の態度に変化が見られた。一九九四年九月、神学部の出身者の集いである神学協議会において野本理事長と橋本滋男理事は、近いうちに理事会において尹東柱詩碑の建立が決定されると知らせて、参加者のみんなが驚いた
((1
(。これらのことは当時の実務を担当した偲ぶ会にも詳しくは知らされていなかった。偲ぶ会は同志社の総長、理事長、学長らが尹東柱を記念するため何らかのことをしなければならないという考えを持っていたことは知ってはいたものの、このような考えに至るまでに何があったのかまでは認識していなかった。一方で同志社大学と理事会内のキリスト者たちが理事会で詩碑の建立が許可できるように水面下で働いていたと推測できる。これは事案自体が敏感な問題だったからだと考えられる。同志社大学と日本社会自体に寄与したことが決して大きいと考えられない外国人の詩碑を建立する案件が議論になって、そして否決になってしまったら、それが二度と提案されることは難しいであろう。神学部の学部長が理事長になり、理事の一人である同志社校友会会長巽悟朗もキリスト者として韓晳曦とも親交があるなど、大学関係者と学校法人の理事会の中でキリスト者たちが詩碑の建立を認めるようになった状況の中で、偲ぶ会とコリアクラブの公式的な申請があり、それが受け入れられたと考えられる。この時期の同志社は、決して平穏な状況にあったわけではない。バブル崩壊後、学校法人の資金運用の中で巨額の損失が発生し、それに対する責任問題が問われ、葛藤が激しかった
((1
(。大学も阪神淡路大震災の衝撃を免れることもできなかった。それにも関わらず、戦後五十年、尹東柱の逝去五十周忌という節目を記念し、新しい未来を開くために、詩碑の建立を推進したのであった。
同志社大学における尹東柱詩碑建立の経緯と意義―ワンコリアの夢と新島精神の遭遇四七 野本理事長は、一九九四年十二月二十七日発行された『同志社々報』第四九八号中、「尹東柱の詩碑建立について」という文章で次のように述べた。「同志社に学んでいるさなか、若い生命を断たれ、軍国主義の痛ましい犠牲となった詩人が、かつて同志社の今出川キャンパスで闇の中に輝く一点の光を見つめつづけていたことを心に深く刻み、教育の場における歴史への反省と今後の国際交流の一助となる事を念願しつつ、関係者の方々のご努力とご協力に対し深い謝意を表したいと思います」。韓晳曦は、この文章から同志社がただ「コリアクラブの要請に押されて、詩碑建立を決定されたのではなく、『戦後五〇年』の節目に立って、同志社立学の精神、『良心之全身ニ充満シタル丈夫ノ起リ来ラン事ヲ望テ止マサルナリ』の新島精神からの決定であった」と評価した
((1
(。この評価が正しいと言えるのは、同志社が詩碑の除幕式に関して場所を提供するだけの傍観者、あるいは後援者のような消極的な立場ではなく、コリアクラブとの「共同主催」という積極的な立場で実行したからである。当初、コリアクラブは詩碑の建立が許可された時、キャンパスの片隅に素朴な形でもできればありがたいと期待したそうだ
((1
(。しかし同志社が整えた敷地は、新島襄が同志社の精神とも言った同志社礼拝堂とハリス理化学館の間、人々の往来が頻繁でありながら、静かなキャンパス内の一等地だった
((1
(。しかも同志社側からまず除幕式を共同主催として提案したことは、同志社が尹東柱詩人とその詩碑を他人のものではなく、同志社の一部として受け入れたことを意味した。この面において、コリアクラブは一層喜び、ありがたく感じたそうである。これは尹東柱詩碑の建立を通して、同志社が過去に対する反省に基づき、日本と韓国・朝鮮との和解、平和の中で未来を開く関係を目指していたことを立証している。このような意味でも、同志社に尹東柱詩碑が建てられていることは、平和を実現すること(マタイによる福音書五:九)でもある。
同志社大学における尹東柱詩碑建立の経緯と意義―ワンコリアの夢と新島精神の遭遇四八
3.詩碑の除幕
一九四五年二月十六日、尹東柱詩人が福岡刑務所で最後の息を引き取った日も零下の天気だったという報告もある。それ以降五十年が過ぎた一九九五年二月十六日、京都の天気としては珍しく、最初は曇った空から雨が降り、それは突然あられが混じった冷たい雪に変わった。そうした厳しい寒さの中で除幕式に参加した人々の心を韓晳曦は次のように代弁した。「私にはそれが、この五十年間の民族と民衆がたどった苦難への、尹東柱の慟哭の涙と思えた。彼が異郷の地で獄死した半年後、あれ程熱望した解放をか (ママ(ら得た祖国のその後の五十年は、分断、戦乱、独裁、抑圧、抵抗にさらされ、憎悪と不信がうずまき、民衆も心身ともに傷つき、涙にまみれた長い長い歳月であり、統一と平和への希望は何度となく裏切られてきた。『死ぬ日まで空を仰ぎ/一点の恥なきことを』を望みつつ死んだ彼こそが、『苦しんだ男、/幸福なイエス・キリストの/ように/十字架が許され』た者なのかも知れない
((1
(。」午前十時三十分、三〇〇人を超える満席の神学館礼拝堂で記念式は開会された。野本真也神学部長の司会で、郡のぞみのオルガン伴奏で皆が讃美歌を歌い、韓晳曦の聖書朗読及び祈りが続いた。朴煕均コリアクラブ事務局長が詩碑建立の経緯を報告し、一同が追悼の記念黙祷を捧げた。岩山学長は、詩人の「道」という詩を引用しながら、次のような式辞を述べた。「尹東柱氏の没後五十年目、このように詩碑を立てることができたことは、誠に感慨深いことでございます。詩人が同志社大学で学んだことは、我々同志社大学の関係者には誇りであり、喜びであります。同時にわが国が過去に犯した過ちを、今、深く反省し、二度とそのようなことがあってはならないように、私たちは強い決意をもって臨むものであります
(11
(。」
同志社大学における尹東柱詩碑建立の経緯と意義―ワンコリアの夢と新島精神の遭遇四九 それから同志社大学は詩人の業績を記念し、詩碑の建立に感謝する、とても謙虚な内容の顕彰を遺家族に贈呈した。つぎに李愚京コリアクラブ会長は、詩碑の建立の経緯と関連してワンコリアの意志の実現、同志社の建学理念であるキリスト教主義と国際主義の教育の一環として、詩碑建立という実りができたこと、そしてこのために協力した関係者に謝意を表する挨拶を述べた。彼は歴史に対する正しい認識と反省の上で、まことの国際平和、親善友好、人間尊重を実現するために努力することを明らかにした
(1(
(。松山総長は、「この詩碑は、命をかけて希求されました人類の平和への強いきずなになる」と挨拶し、金錫得延世大学副総長は、詩人の詩碑が延世大学と同志社大学との詩人の母校に立てられ、詩人の詩に流れている精神が永遠に生き残ることを期待し、日韓両国の発展を祈願した
(11
(。つづいて同志社大学の学生合唱団がカレッジ・ソングを歌い、祝祷で記念式が終わり、詩碑が建立されたハリス理科学館の西庭で除幕および献花を執り行った。演劇俳優金美和が詩人の「序詩」を朗読し、参加者が提唱した
(11
(。驟雨のため急遽詩碑の隣にある同志社礼拝堂に移動して、遺家族の代表尹仁石が挨拶の言葉を伝えた。詩碑の建立のために苦労したすべての人々に対する感謝と、尹東柱詩人がこのように覚えられ、知られて、愛されることに対してすべての人々に謝意を表した。詩碑が建てられた敷地にも意味があり、伯父の性格が現れているようだと、そして次のような感想を表した。「これで、伯父の詩と、詩の世界、そして時代的な背景は、過去のような、植民支配者と被支配者の問題だけでなくなりました。(中略)本日のこの詩碑建立が契機となり、韓日間の友好と在日韓国人・朝鮮人たちの融和、ひいては祖国の統一がもたらされんことを、また天が創造されたこの世の中を美しく歌い、守ろうとしている地球上のすべての人々に対して、天の祝福があらんことを祈願するも
同志社大学における尹東柱詩碑建立の経緯と意義―ワンコリアの夢と新島精神の遭遇五〇
のであります
(11
(。」すべての式が終わったのは十二時二十分、午後には新島会館に場所を変えてシンポジウムが開催され、午後六時には記念交流会が開かれた。ここで巽校友会長は、先輩尹東柱詩人を同志社の誇りとし、今後この志を継承し、校友会理事会を通して校友会の名簿に載せ顕彰したいという希望を述べた
(11
(。このような除幕式とそれに関連する行事は、尹東柱が代表する歴史、苦難、犠牲、そして未来に対する希望と平和が具現されたものとして考えられる。ワンコリアの精神の下で詩碑の建立に至るまでの過程とその結実である詩碑が一つの象徴として、同志社が継承しようとしている精神、すなわち「人、一人を大切にする」キリスト教の精神が具体的に実践されたものであった。詩碑を簡単に紹介すると、碑石は横幅一〇〇センチ、高さ八十五センチで、前面に縦三十八センチ、横七十二センチの黒ミカゲの銘板がはめ込まれている。そこで詩人の「序詩」が詩人の直筆のハングルで刻まれており、続いて伊吹郷の日本語訳が刻まれている。詩碑の裏面には大村益夫(当時早稲田大学教授)が書いた碑銘が日本語で刻まれている。詩碑は、京都から見ると尹東柱の祖国がある西のほうに向けている。詩碑の右側(南側)には大韓民国の国花であるムクゲが、左側(北側)には朝鮮民主主義人民共和国の国花であるツツジが植えられている。庭の入り口には京都府の花である枝垂れ桜が、詩碑の正面にある礼拝堂には、新島が大切にしていた梅花が植えられている。京都という空間で、尹東柱を通して日本、朝鮮、韓国が友情を持ち、心を分かち合うように感じられる。
同志社大学における尹東柱詩碑建立の経緯と意義―ワンコリアの夢と新島精神の遭遇五一
4.尹東柱を偲ぶ日本
同志社で尹東柱詩碑が建立されたのは、尹東柱を偲ぶ日本の市民たち、そして日本と韓国、北朝鮮の間で平和を希求する人々の活動に一つの転機になった。まず偲ぶ会は、詩碑の建立が終わってからも言葉通り偲ぶ事業を持続している。毎年二月十六日の直前の土曜日に献花式を開催し、詩人の詩を朗唱、花を捧げ、講演会や参加者同士で交流する時間を持っている。二〇一五年二月には、詩人の七十周忌で、韓国の著名な詩人高銀を招き、特別講演会を主催した。同志社礼拝堂は立錐の地もなく多くの市民が参加した。テレビモニターを明徳館に設置しなければならない程の人数であった。それは、高銀詩人に対する関心ばかりでなく、東アジアの平和を求める心が現れたものであろう。京都では尹東柱詩碑建立のための動きが進んでいる中で、東京では日本と韓国の間でもう一つの意味深いプロジェクトがあった。日本のNHKと韓国のKBSが史上初、共同でドキュメンタリーを制作したからである。それは企画の段階から、撮影、編集まで共同作業で作られた作品であった。韓国では、「詩人、尹東柱」というタイトルで、日本では、NHKスペシャル「空と風と星と詩―尹東柱・日本統治下の青春と詩」というタイトルで一九九五年三月十一日(土)に放送された
(11
(。同志社大学神学部の原誠教授は、このドキュメンタリーの一部を自分が担当している「同志社とキリスト教」という授業で用いている。このような詩人が学んだのが同志社であること、この詩人の詩碑が同志社にあること自体が同志社の建学の精神とキリスト教に繋がっていると信じているそうである。このドキュメンタリーの取材の過程中、意味深い発見があった。尹東柱詩人が生前最後に映したと見られる写
同志社大学における尹東柱詩碑建立の経緯と意義―ワンコリアの夢と新島精神の遭遇五二
真が見つかったのである。NHKのディレクターで尹東柱研究者の多胡吉郎の取材能力によって写真の入手ができ、一緒に映った人々の中でまだ生きている同志社大学のクラスメートとの出会いもできた
(11
(。偲ぶ会の実務者たちは写真が撮られた場所も探し出した。そのクラスメートから、その写真は詩人が故郷に帰る前、送別会並びに当時の宇治の新名物である天ヶ瀬つり橋がある公園にハイキングをした時の写真であったのが確認できた。クラスメートの証言によると、詩人はそこで「アリラン」を歌った。その他の証言によって、詩人がどのような人柄の持ち主だったのかも少しでも知られるようになった。尹東柱詩人の最後の痕跡があるここでも記念碑を立てようとする市民運動が起こり、「詩人尹東柱記念碑建立委員会」(代表、安斎育郎)が二〇〇五年発足した。この委員会は「記憶と和解の碑」という記念碑を二〇〇七年完成し、宇治市との粘り強い交渉の結果、二〇一七年十月二十八日、天ヶ瀬とは少し離れた白虹橋の袂に除幕式を執り行うことができた
(11
(。その以前、すでに京都ではもう一つの尹東柱の記念碑が建立されていた。詩人が京都で暮らしていた左京区高原町の武田アパートがあった敷地を京都造形芸術大学が買い取り、高原キャンパスを作ったが、そこに二〇〇六年六月、「尹東柱留魂之碑」を建立した
(11
(。毎年二月十六日、ここでも献花式と追悼式が行われているが、それは僧侶が司式する仏教式の法要である。東京では、尹東柱が勉強していた立教大学の関係者たちが記念活動を主導している。「詩人尹東柱を記念する立教の会」(代表、楊原泰子)が結成され、二〇〇七年から毎年「詩人尹東柱と共に」というプログラムを開催している。その内容は、講演会、シンポジウム、展示会などである
(11
(。立教大学の大学チャペルがこの会を後援している。二〇一七年度には、尹東柱の生誕百年を記念して特別な礼拝と音楽と詩が一塊になったコンサートが
同志社大学における尹東柱詩碑建立の経緯と意義―ワンコリアの夢と新島精神の遭遇五三 催された。同志社の詩碑と直接的な関連を付けるとはできないが、尹東柱が生涯を終えた福岡にもかつて一九九四年十二月「福岡・尹東柱の詩を読む会」(代表、馬男木美喜子、同志社大学出身)が作られ、毎月尹東柱の詩を読み、尹東柱に関心を持っている日本人、韓国・朝鮮人との交流を続けている
(1(
(。過去福岡刑務所があって、今は百道西公園になったところで毎年二月追悼会を開催している。最初の代表だった西岡健治福岡県立大学名誉教授は、そこに尹東柱の詩碑を建てるための運動を行っている
(11
(。
おわりに
下級武士だった青年新島襄が西洋に憧れ、キリスト教を知りたくて命をかけて日本を脱国した時、彼の所持品の中で価値のあるものとは脇差と太刀しかなかった。日本の侍には命のようなものだった。新島は太刀を彼の乗船を許してもらった船賃として払い、脇差は八ドルで売り、そのお金で漢語聖書を買った。この出来事は新島が、封建主義日本を脱出し、国家と民族を超えた国際主義を志向し、キリスト教を彼の心の中心に置くことを象徴するものだったと考えられる。一八六五年七月新島が上陸したボストンは南北戦争直後の大変な状況であった。それにもかかわらず、ニューイングランドの会衆教会のキリスト者たちは、身元も知らないアジアからの青年を大切に受け入れ、キリスト教主義に基づいた最高のリベラルアーツ教育を受けるように配慮してくれた。人ひとりを大切にした彼らの親切と好意によって、新島襄はキリスト教主義に基づいたリベラルアーツを教える高等教育を日本で実現したいと熱望同志社大学における尹東柱詩碑建立の経緯と意義―ワンコリアの夢と新島精神の遭遇五四
し、そして自分も人ひとりを大切にする心を抱えるようになった。キリスト教を基本とする国際主義、自治と自立、そして人ひとりを大切にする大学を夢見ながら一八七五年、多くの人々の志が結集して同志社英学校が出発し、日本近代史の様々な起伏を経て、一四三年が過ぎた今もその精神を貫こうとしている。もちろん多くの失敗や間違いもあったのだが、その実現の一つが同志社に建立された尹東柱詩碑であろう。このように歴史的な尹東柱詩碑は、朝鮮半島内の北と南、コリアと日本が経験した葛藤と悲劇の歴史を正しく認識し、将来的に和解と平和を実践しようとする意志の証拠でもある。尹東柱が生前見ていた夢、彼が詠んだ理想が歴史を貫き、同志社大学のキャンパスの中で詩碑として芽生えたのである。実際に詩碑建立以来、尹東柱に対する研究と活動はより活発になり、日本各地で尹東柱を記念し、日韓関係のかけ橋となる様々な働きの転機になった。同志社大学は、韓国人が京都を訪ねる韓国人が必ず訪問すべき名所として知られ、同志社大学の広報課によると毎年およそ二万人を超える観光客や修学旅行の学生が詩碑の前で詩人を偲んでいる。国際交流の現場になったのである。その意味で、尹東柱詩碑が建立された経緯は、韓国と日本でもっと知られる必要があると言えよう。それから尹東柱という詩碑の主人公だけではなく、詩人と詩碑を礎としてより多様な交流と協力、研究活動を展開していく必要があるだろう。例えば終戦まで、同志社で学んだ六七七名の朝鮮人留学生はもとより
(11
(、日本で学んだ留学生に対する研究の歴史的な価値は明確である。また韓国のキリスト教大学および神学大学と同志社大学や日本のキリスト教大学との学際的、学術的な交流、日本の市民団体、在日コリアンとの交流及び協力などを小さい段階からうまずたゆまず、深く実践して行くことである。これは根本的には、日本列島と韓半島それぞれの社会におけるシャローム(
shalom
)、朝鮮半島内の二つコリアの間のシャローム、日本とコリアの間のシャロームを実現する、全体的な(holistic
)意味としての「神の国」の宣教を我々同志社大学における尹東柱詩碑建立の経緯と意義―ワンコリアの夢と新島精神の遭遇五五 の時代で遂行していくことであり、我々の尊敬する先輩尹東柱、そして新島襄の信仰と精神を主なる神の中で生かせることを確信している。
同志社大学における尹東柱詩碑建立の経緯と意義―ワンコリアの夢と新島精神の遭遇五六
資料
「尹東柱詩碑建立の趣意書」
(11
(
同志社校友会コリアグラブ尹東柱を偲ぶ会詩碑建立委員会
終戦(解放・光復)前の韓国(朝鮮)に尹東柱という民族詩人がいたことをご承知の人は多いかと思います。現在、南北双方から高く評価されている数少ない詩人です。旧満州の間島(現在の中国東北地方)に生まれ延禧専門学校(現在の延世大学)を卒業、渡日、立教大学に半年留学後、同志社大学英文科に転入しました。そして、同志社大学在学中に、「治安維持法違反容疑」で京都下鴨署に逮捕、起訴されました。朝鮮語で詩を書いたことが、朝鮮語の使用は独立運動につながる、として禁止した当局の逆鱗に触れたのでした。植民地時代、それも戦時下の裁判のこと故、当然有罪となり、福岡刑務所に送られ、解放目前の一九四五年二月十六日福岡刑務所で獄死しました。享年二十八歳でした。ご承知のように福岡刑務所は九州大学医学部の生体実験との関連が云々されていた所です。だから「殺された」との説も「有力視」されています。(当時の状況は一切秘密裏に処理され、未だに真相はわかっていません。今尚、
同志社大学における尹東柱詩碑建立の経緯と意義―ワンコリアの夢と新島精神の遭遇五七 京都時代の作品や遺物は何ひとつ見つかっていません。)解放後の韓国および北朝鮮では大変評価されるようになりました。特に韓国では、どんな教科書でも必ず出てくる、と言われる程親しまれている国民的詩人です。そればかりか、最近では日本の教科書にも掲載されております。筑摩晝房発行『新編現代文』(高校三年で履修)(茨木のり子著『ハングルへの旅』朝日新聞社刊より転載)が、それです。「獄死と、日本の教科書に掲載」という両極端の評価に、五十年の歳月を感じざるを得ません。その詩は、韓国では勿論、日本でもよく読まれ、幾多の評論、論文が出されています。特に青年層には圧倒的な人気があり、その純粋な詩情を慕う青年は、日韓を問いません。そして、生まれ故郷の間島には墓が、出身学校の延世大学では詩碑が建てられております。しかし直接弾圧を受け、獄死した日本では何の「痕跡」もございません。特に沢山の詩を書いたであろう、京都の地には……。そんな折、同志社大学のコリア出身OB達から次の様な声が上がって参りました。「尹東柱と同じキャンパスで学んだ我々同志社のOB、同胞学生として、これで良いのだろうか?何かできることはないものか!」その様な素朴な疑問に駆られたのは彼らだけではありませんでした。戦後五十年近くになって……いささか遅きに失した感はなきにしもあらず、ですが、「何とかしたい、何とかしよう」という声が澎湃と上がつてきました。当初は、同志社校友会コリアクラブのOB会及び同胞学生、留学生が中心になって、呼び掛け、一九九二年二月十六日の「命日」に、第一回の集いをもちました。
同志社大学における尹東柱詩碑建立の経緯と意義―ワンコリアの夢と新島精神の遭遇五八 当日は、韓国からの留学生、在日韓国、朝鮮人は勿論、尹東柱の生まれ故郷の中国間島地方出身の朝鮮族留学生、さらには数多くの日本人も出席、総勢百人を超えました。その後の反響も圧倒的に日本人からの声が多かった事は、同志社校友会コリアクラブのOB達をして、日本の人々との共同事業にすべきだ、との決意を固めざるを得ませんでした。日本人の中には「我々がすべき事を……」と恐縮する人が何人もおられた次第です。『一九九五年は、一つのエポックメーキングな年であります。』終戦、解放、敗戦、光復、生還、抑留、望郷、飢餓、挫折、等々……。人によって、様々な言葉、様々な思いが交錯する年でもあるでしょう。戦後五十年を経ても尚、深い傷跡が残っている事も又事実です。侵略した側である、日本人ですら、その傷跡を完全に拭い去っている訳ではありません。(原爆、中国残留孤児、アジア各地に残り、とり残され、定住した軍人、軍属
etc
)況んや侵略を受けた側をや……戦後五十年。とにもかくにも我々は生きてきました。数多くの人々の犠牲の上に。人それぞれ様々な思いがあるでしょうし、それぞれの迎え方があると思います。ただ二度と、戦争や侵略という身震いするような事象が我身に降りかかるのを拒絶したいというのは、共通の認識だと思います。戦争や侵略というおぞましい言葉が、聖戦や協和という美名に置き換えられ、数限りない無辜の民、光輝く・未来に満ち溢れた青年達の貴重な命を奪い去っていきました。「空を仰ぎて、点の恥ずべき事のなきことを」と吟じた詩人もその一人でした。詩人が学んだ同志社の校祖新
同志社大学における尹東柱詩碑建立の経緯と意義―ワンコリアの夢と新島精神の遭遇五九 島襄は「良心の全身に充満したる丈夫の起り来らんことを」と言いましたが、詩人の生きざまは正にそうでした。「星を歌う心で、全ての死にゆくものを愛せねば」と良心の命じるままに生きました。その清冽な生き様を我々が真似得るものではありませんが、「丈夫たらん事を」願わざるを得ません。即ち、過ちを恥じるのでなく、「同じ過ちを繰り返す愚を、犯さない、犯させない」為にも、詩人の言葉を肝に命じたいものです。そのような気持の一つの具現として、又、恥多き人生を生き続けた我々が、形として残せる物の一つとして、「詩碑」を建立しようと思うに至ったのです。それは、同時に、国や民族、宗教、思想信条を超越した逝きし者達への鎮魂歌でもあります。そのような意味からも、この会は韓国・朝鮮人、日本人は勿論、広くアジア各国の人々にも参加して頂きたいものです。この詩碑が、過去の歴史は忘れないまでも、過ちは許し、未来に託す一つの道標となってくれれば、と願わざるを得ません。それが生き永ら得た、生かされた者達の最低限の責務ではないでしょうか?
(
注)
(
()尹東柱詩碑建立委員会編『星をうたう詩人―尹東柱の詩と研究』
(三五館、一九九七年)、三一六頁。(
( の二回行われた。以下、朴熙均とのインタビューは「インタビュー」と略する。 2)同書、三一七頁。そして朴熙均との筆者によるインタビュー。インタビューは、二〇一七年九月二十日(水)と十月十九日(木)
( 二〇〇二-二〇〇三年頃、朴世用が手紙のコピーを提供)。 ()が、手説明するために書いた紙(緯手紙を書いた時期は、用世を経オフーストラリア在住の尹ィのリップに尹東柱詩碑建朴立
()『星をうたう詩人』
、三一八-三一九頁とインタビュー。(
()「獄中で早逝の韓国詩人尹東柱の研究会発足」
『京都新聞』(一九九一年十一月七日)。
同志社大学における尹東柱詩碑建立の経緯と意義―ワンコリアの夢と新島精神の遭遇六〇
(
()日本基督教団出版局編『死ぬ日まで天を仰ぎ―キリスト者詩人・尹東柱』
(日本基督教団出版局、一九九五年)、一四九-一五〇頁。(
()インタビュー。
(
()インタビュー。朴熙均氏は同志社校友会コリアクラブの事務局長をも務めていた。
(
()『星をうたう詩人』
、三二〇頁。(
(0)同書、三二三頁。
(
(()「学校法人同志社一九九五年一月理事会記録」
(同志社社史資料センター所蔵)。一九九五年一月二十八日の理事会の「庶務報告」の「ホ」項で報告されている。(
(2)『星をうたう詩人』
、三二四頁。(
(()同書、三二五頁とインタビュー。
(
(()『死ぬ日まで天を仰ぎ』
、一五〇頁。(
( たことが窺える。 (()The Doshisha Timesこの時期の学校法人同志社の理事会資料、同志社校友会が発行する『』などからその紛争が簡単ではなかっ
(()『死ぬ日まで天を仰ぎ』
、一五三頁。(
(()インタビュー。そしてコリア同窓会のメンバーである崔忠植氏の証言。
(
(()同志社のこのような動きは、ただ指導部の指示によるものではなく職員の積極的な働きもあったそうである。野本真也元理事
長の証言。(
(()『死ぬ日まで天を仰ぎ』
、一三九頁。(
20)『星をうたう詩人』
、二七九頁。(
2()同書、二八一-二八二頁。
(
22)同書、二八三-二八四頁。
(
2()「尹東柱詩碑建立」
『Korea Today 今日の韓国』(二五五号)、(一九九五年三月)、六五-六九頁。そして当日の式次第参考。(
2()『星をうたう詩人』
、二八六頁。
同志社大学における尹東柱詩碑建立の経緯と意義―ワンコリアの夢と新島精神の遭遇六一 ( 2()「尹東柱詩碑除幕式記念レセプション」
『The Doshisha Times』(四八八号)、(一九九五年三月十五日)、八頁。(
2()この番組のNHK側のディレクターだった多胡吉郎氏は、その後も独自で尹東柱の調査と研究を重ね、尹東柱の生誕一〇〇年
になる二〇一七年二月、『生命の詩人・尹東柱―「空と風と星と詩」の誕生の秘蹟』(影書房刊)を出版した。(
2()写真の発見の詳細は『生命の詩人・尹東柱』一二七-一四〇頁。
(
2()「ゆかりの宇治に平和を願う詩碑」
『朝日新聞』(二〇一七年一〇月二十九日、大阪朝刊)、三四頁。(
2()「尹東柱の詩碑、完成し除幕式
京都造形芸術大学」『朝日新聞』(二〇〇六年六月二十四日、京都市内朝刊)、三〇頁。(
( 日参照)。 (0)「http://tommy((((.world.coocan.jp/yundongju.html七、二〇一東」(九月十五尹人年ジ柱教を記念する立のー会のホーム詩ペ
集人岡・福―年〇七後没詩東柱東尹子「喜美木男尹柱は、歩特て(っ返り振をみのの年〇二会む読を詩馬てつにみ歩のい (()「http://dongju-fukuoka.at.webry.info/会2のーペムーホ詩む読をの柱東尹岡・ジ福」(日そたま)。照参五、十月九年七一二〇
( から七〇年)」『リベラシオン―人権研究ふくおか』(一五九号)(福岡人権研究所、二〇一五年八月)、六〇-六七頁を参照。 敗戦
(2)「尹東柱詩人七〇周忌
( /(/((((((((0(02((20all/。、二〇一七年九月十五日参照) http://news.donga.com/(/ 福岡四刑務所に詩碑建立推進西日(月教二年五一〇二岡報日亜東」『授』
(()宇治郷毅『同志社と朝鮮人学生―「新島精神」に生きる群像』
(宇治郷毅、二〇一六年)九頁。(
(()同志社大学広報課編『尹東柱詩碑』
(学校法人同志社、二〇〇一年)、三-四頁。