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中央学術研究所紀要 第44号 020寺田喜朗「姉崎正治の日蓮論―明治期アカデミシャンの日蓮イメージ―」

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Academic year: 2021

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寺 田 喜 朗

姉崎正治の日蓮論

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はじめに

 明治末年から大正期にかけて日蓮主義運動は大きな盛り上がりを見せる。その影響 は、宗門関係者に留まらず、幅広い層に及んだ*1。田中智学(1861 1902)等に触発さ れてこの運動に接近した知識人の一人に姉崎正治(1873 1949)がいる。本論は、姉崎 の日蓮論を検討する作業を通して、明治期アカデミシャンが抱く日蓮イメージの一端 を明らかにすることを目的とする。ここでいう明治期アカデミシャンとは、明治国家 の基礎が確立する時期に近代アカデミズムを経由して自己形成を遂げた官制知識人を 指している。姉崎は、―檀林や学寮を経由した宗門知識人とは異なり―西洋近代の人 文科学の教養を身につけた後に日蓮と出会い、宗門人とは異なる角度から日蓮論を執 筆している。  なお、本論は、2014年に発表した旧稿*2(「高山樗牛と姉崎嘲風の日蓮論」)に加筆・ 修正を加えたものである。明治期アカデミシャンを代表する存在として検討の対象を 姉崎に絞り、旧稿において(紙幅の都合から)論及し得なかった村上専精との論争を 取り上げることを通して、姉崎の日蓮論の特質をより鮮明に照射したいと考えている。

―明治期アカデミシャンの日蓮イメージ―

寺 田 喜 朗

はじめに 1.先行研究と本論の目的 2.高山樗牛の日蓮論 3.姉崎嘲風の日蓮論⑴ 4.姉崎嘲風の日蓮論⑵ 5.村上専精の日蓮論に対する批判 6.まとめ―姉崎の日蓮論の特質― 註

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1.先行研究と本論の目的

 姉崎は、ヨーロッパ留学記(1900 03)やショーペンハウエル『意思と現識としての 世界』の翻訳(1910 11)等で文学青年を魅了した文人であり、岡倉天心、新渡戸稲造 と並んで日本文化を世界に紹介した功労者である(英・独・仏語を駆使し、ギリシャ・ ラテン・サンスクリット・パーリ語を読むことができた)。貴族院議員・学士院幹事・ 東大図書館長をはじめ様々な分野で活躍したが、とりわけ「日本の宗教学の祖」(柳川 啓一)としてその名が知られている。東京帝国大学で姉崎の宗教学講義が開講された のは1898(明治31)年、―欧州留学を経た姉崎を担当教授として―宗教学講座が開設 されたのは1905(明治38)年のことである。後述するように、姉崎は、畏友、高山樗 牛(本名・高山林次郎1871 1902)の影響で日蓮研究に着手し、1916(大正5)年に “Nichiren, the Buddhist Prophet”および『法華経の行者 日蓮』を公刊している。

 一方、樗牛に関する研究とは対照的に*3姉崎の日蓮論に言及した成果は少ない*4 たとえば、丸山照雄編『近代日蓮論』*5では、茂田井教亨・内村鑑三・曽我量深・宮澤 賢治・田中智学・木下尚江・高山樗牛の論考が取り上げられているが、姉崎への言及 は名前のみの一カ所である(なお、丸山照雄は「親鸞・道元などにかかわる多産な論 述と比較した場合、知識人と呼ばれる人々の間で、日蓮への関心を示した者はまれで あった」と述べている*6)。  姉崎研究の嚆矢を放った増谷文雄は、「『法華経の行者 日蓮』は…略…先生の多くの 業績の中においても、特殊の地位と意義」をもち、「人間姉崎正治の秘密を語るもので あるということができよう」*7と語っているが、内容への言及はない。柳川啓一も日蓮 研究に関しては、「その面の検討が私にはまだ解らない」*8とコメントを付すのみであ る。磯前順一・高橋原・深澤英隆の労作「姉崎正治伝」は、日蓮研究に至る経緯とそ の後の日蓮主義運動への関わりを丁寧に記述しているが、―姉崎が構想した宗教学の 検討に比べてかなり短い論及にとどまり―智学等の国家主義的な「日蓮主義」との対 照から、その特徴が「日蓮信仰」*9と特定されるに留まっている。管見によると、姉崎 の日蓮論を正面から扱った唯一の成果といえるのは田村芳朗の二つの論考である*10 ただし、姉崎を回顧するシンポジウムにおける講演録、今ひとつは『法華経の行者 日 蓮』の解題という発表媒体の性格から、その特質が簡潔に説述されるに留まってい る*11  以下では、姉崎の日蓮論を検討する作業を通して、明治期アカデミシャンが抱いた 日蓮イメージに迫ってみたい。既に田村によって姉崎の日蓮論の特質は粗描されてい るが、以下の点についてはさらなる検討の余地があると考えられる。①日蓮研究に入 る以前の姉崎が日蓮に対して抱いていたイメージとはいかなるものであったのか。こ れは、姉崎の日蓮イメージの醸成・変遷を検討する上で外せない論点だが、当時のア

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カデミシャン一般の日蓮イメージを照射する上でも興味深い論点だと思われる。②姉 崎が日蓮に接近するきっかけをつくった高山樗牛、姉崎が学んだ帝国大学で仏教を講 じていた村上専精(1851 1929)、あるいは樗牛が日蓮に接近するきっかけをつくった 田中智学、山川智応(1879 1956)等の日蓮論とは、どのような異同が見られるのか。 姉崎の場合、古今東西の幅広い教養を前提に―原始仏教(根本仏教)の研究によって ドイツで博士号を取得した(1902年)後に―日蓮を論じ、最終的には熱心な日蓮信仰 者となっている。「近代の日蓮伝の到達点」*12とも評される姉崎の日蓮論は、同時代の 日蓮論と比べ、どのような特徴が見られるのか。本論では、もっとも大きな影響を受 けた樗牛の議論を対照軸として検討を進めるが、随時、他の論者との異同について論 及していきたい。

2.高山樗牛の日蓮論

 姉崎の日蓮論を検討する前に、姉崎が日蓮に接近する直接的な契機をつくった樗牛 の日蓮論を押さえておきたい。(帝大哲学科の2年先輩に当たる)樗牛は、1896年(明 治29)年6月以降、総合雑誌『太陽』の文芸欄主筆として華々しい評論活動を展開し、 当時の文壇・論壇をリードした時代の寵児であった。樗牛は、1900(明治33)年8月 に喀血、目前の9月に控えた洋行を延期せざるを得なくなり(洋行後には、京都帝大 教授への就任が内定していた)、翌年3月には洋行を断念、療養生活に入る。世俗的な 栄達を諦めざるを得なくなった樗牛は、「道徳的価値」を痛罵し、「本能の満足」を賞 揚する「美的生活を論ず」(1901年)を発表し、その後、日蓮研究に没入する。「日蓮 上人とは如何なる人ぞ」「日蓮上人と日本國」(1902年)等、日蓮を礼賛する文章を矢 継ぎ早に発表し、短い生涯を閉じている。  当初、樗牛は、「吾等は我が日本主義によりて現今我邦に於ける一切の宗教を排撃す るものなり」*13、「宗教は其の本来の性質に於て遂に国家主義と両立する能はざるを以 て、茲に日本主義は一切の宗教を排撃す」*14等と「国家の発達を阻害する」という見地 から「一切の宗教」を「排撃」する議論を展開していた。「今日の佛教と称するもの は、殆ど空虚なる形式主義に非ざるか」*15、「今の僧侶は、内に修めずして徒に外に求 め、六欲煩悩の餓鬼となりて自ら覚らず、腐敗も亦極まれる哉」等と仏教についても 痛烈に批判していた*16  そんな樗牛が日蓮研究へ没入していく直接的な契機となったのは、1901(明治34) 年秋、田中智学と山川智応から『宗門之維新』を贈呈されたことにある。  山川の回顧*17によると、樗牛は、同年10月25日に智学を訪ねている。「私なども矢張 り、日蓮聖人は一個風変りの強気なお坊さん位しか考へて居ませんでしたが…略…今 度あの御書物を頂き、親しく御話を承つて、始めて今までの上人に対する考を根底か

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ら一変されました」と語った。「佛教のことは、大学で村上さん(注・村上専精)から 少し聴きましたが、別段の智識を持つて居りませんが、上人のは大分他のとは異なつ て居る様に思はれます」と感想を述べた(後に智学は、「此の『宗門之維新』といふ本 は、空矢が七八百本もあツたんだが、その中で高山といふ金的一つを打ちあてたとい ふことによツて、一千部近い施本は全く無益でなかツた」と語っている*18)。  樗牛は、洋行先の姉崎へ「ドーモ日本主義の思想が、僕の皮相なる部分の発表に過 ぎなかった」(1901年6月6日附)と語っていたが*19、この『宗門之維新』と智学・山 川との邂逅を契機として、日蓮研究に文字通り没入することになる(この時期におけ る佐々木信綱(同年10月6日附)、井上哲次郎(同年11月3日附)、姉崎(同年11月15 日附)へ宛てた手紙から日蓮への傾倒が明瞭に伺える*20)。  樗牛は、『宗門之維新』を推奨する書評を『太陽』に発表し(同年11月号)、「吾が好 む文章」(1902年2月)において(平家物語や近松の文章に触れた後)日蓮の遺文を大 きく紹介し、その文章が勇壮・豪快なことを激賞している。留意すべきは、「種種御振 舞御書、如説修行鈔、開目鈔、撰時鈔」等を高く評価する一方、立正安国論を評価し ていないことである。樗牛が強く魅了されたのは「国家などの俗界を超越する」思想 であることには注意が必要である*21  樗牛の日蓮理解が大きく披瀝されているのが「日蓮上人とは如何なる人ぞ」(1902年 1月)、「日蓮と基督」(同年5月・6月)、「日蓮上人と日本國」(同年7月)の三編で ある。「日蓮上人とは如何なる人ぞ」では、日蓮が「常識を超越する」法華経の使徒意 識から「わづかの小嶋の主」「小神」などと「君主」「執権」や「天照大神」「八幡」の 権威を見下していたことを「壮観」だと論じている*22。「日蓮と基督」は、「カイザル の物はカイザルに歸へし、神の物は神に歸へせ」という言葉で「地上の権力を永遠に 否定し、人間霊性の独立、自由、光栄、威厳に対して万古動かすべからざる」ことを 宣言した「基督」と、「王土に生れたれば身は従ひ奉るとも心は従ひ奉るべからず」と 述べた日蓮の「類似」を指摘する。一方、イエスが「ガリラヤ湖畔の漁夫の如き単純 無垢なる自然の小児」を相手に教えを説いたのに対し、日蓮は「覇府の中央にして天 下の碩学名僧の環視の間」で教えを説いたこと、イエスの説法が「感情的」「詩的」で あるのに対し、日蓮のそれは「理論的」「思弁的」であり、「奇蹟」を用いないこと等 に「相違」を見いだしている*23  樗牛の日蓮理解の個性がもっとも強く現れているのが「日蓮上人と日本國」である。 この論文は、『太陽』に掲載された「日蓮と基督」を読んだ読者からの「足下(注・樗 牛)の論中に、謗法の國家日本は滅ぶべし、唯日蓮の徒のみは幸ひなるかな云々の文 字あり。是を以て見れば日蓮は日本の滅亡を意とせざりしのみならず、却て謗法の國 土としてその滅亡を希ひし者に非ざるか、果たして然らば、日蓮こそは日本國の大不 忠義漢に非ざるか」という手紙へ返信する形で編まれたものである。

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 この疑念に対し、樗牛は、「日蓮は生(注・あなた)の疑へる如く…略…大不忠義漢 なり」と直截に回答する。続けて「此世において最も大なるものは、必ずしも國家に は非ざるぞかし。最も大いなるものは法也、信仰也」と語り、「法によりて浄められた る國土に非ざれば眞正の國家に非ざる也」、「日蓮は真理の為に國家を認む、國家の為 に真理を認めたるに非ず。彼れにとりては真理は常に國家よりも大也」と日蓮の真意 を解説し、「日蓮の國家主義を説くもの…略…是れ贔屓の引き倒しのみ…略…俗悪なる 僧侶の口より其の國家主義を讃美せられつゝある日蓮上人は気の毒なる哉」と述べる。 そして、「生を此土に受けたるが故に是の國を思ふと謂ふが如き…略…浅薄なる愛國 者」とは異なり、「末法化導の寄託を受けたる上行菩薩出現の國土は即ち日本國なる 事、及び上行菩薩は日蓮其人に外ならず」という「神聖なる選民なりてふ偉大なる信 念」に基づき、己の身を顧みず、世俗権力に追従・迎合することを拒否し、法華経を 説き続けた日蓮こそ「眞正の愛國者なり」と喝破している*24  以上の樗牛の日蓮論だが、智学の日蓮論とは決定的な相違点がある。樗牛は智学か ら大いに学び、終始敬意を表していたが、智学宛ての手紙に「日蓮上人の國家観につ いての御高説の段々、重々拝読、且拝聴し候。尚を氷解せざる一団有之」(明治35年3 月27日附)*25と記しているように、国家主義に引きつけた日蓮理解については疑義を呈 している。また、親国家的な役割を果たすことを喧伝することによって存在意義をア ピールする宗門の動向に関しても「見苦しき」「俗悪」等と痛烈な皮肉を述べている。 智学と同様、「日蓮は日本が曾て産出したる人物中の最大なる者也」、「二千五百年の歴 史に於て」「唯一」「眞正の愛國者なり」等と、人物および「愛國者」としての側面を 賞賛しているが*26、決して、日蓮は、日本(国体)をアプリオリに神聖な国家だとは 見なしていない、というのが樗牛の理解である。

3.姉崎嘲風の日蓮論⑴

 日蓮研究に至るまでの姉崎の来歴に簡単に触れておきたい。京都の第三高等中学出 身の姉崎は、1893(明治26)年に入学した帝国大学の寄宿舎で樗牛の知遇を得た*27(在 学中は、井上哲次郎「東洋哲学及比較宗教」、ケーベル「西洋哲学史」、外山正一「社 会学」、村上専精「印度哲学」「支那哲学」、元良勇次郎「心理学」等の講義を受講して いる*28)。2年次(1895年)頃から宗教学へと関心が向かった姉崎は、「印度の古宗教 だけでなく、一般に活きた宗教を研究する」目論見を抱いたとされる*29。3年次には、 ショーペンハウエルやシェリングを読み、「非理性主義の哲学」という論文を書いてい る。1896(明治29)年6月に卒業、同年9月に大学院へ進学し、翌年、処女作『印度 宗教史』を公刊する。以降、1900(明治33)年の欧州留学までに『印度宗教史考』『宗 教哲学』『比較宗教学』(1898年)、『佛教聖典史論』(1899年)、『宗教学概論』『上世印

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度宗教史』(1900年)を公刊している。洋行前の姉崎は、①インド宗教を中心とした宗 教史研究、②宗教学の方法論の確立、③ショーペンハウエル等のドイツ哲学に関心が 向いていたことがわかる。また、樗牛や恩師である井上哲次郎が関わった大日本協会 (機関誌『日本主義』を発行)からは距離を置き、比較宗教学会(1896 99)、丁酉倫理 会(1897 1947)の設立に携わる等、諸宗教・宗派の対話・連携を模索するリベラルな 立場に立っていた。  姉崎(28歳)は、1900(明治33)年3月末、欧州留学へ旅立ち、キール・ベルリン・ ミュンヘン・スイス・ライプツィヒ・オランダ・ロンドン・パリ・イタリア・インド を経て、1903(明治36)年6月に帰国する。この間、病床の樗牛と書簡の往復を続け、 これをきっかけに日蓮へ関心を抱くようになる。以下、二人のやりとりを具体的に見 ていこう。  既述の通り、樗牛は、1901(明治34)年10月頃から日蓮研究へ没入し、『太陽』等を 媒体にその成果を矢継ぎ早に公表していた。翌年1月2日附の姉崎宛書簡には、「此頃 は日蓮上人の研究に身を委ねて居る。この英雄の生活によりて吾等の弱き命の強くな るように感じらるる」と記している*30  これに対し、姉崎は「(注・樗牛の日蓮論より)清盛論の方が、僕には感心できる」 と述べたり、「然し『日蓮の日本』の後半は如何と思つて居る」と記したりしている (同年5月5日附書簡)。また「あゝ君よ、病の為には万事を放擲せよ。日蓮の研究も 研究と云わずに geniessen(注・お楽しみ)の度に止めておけ」(同年5月14日附)*31 も書いている。  1902(明治35)年5月17日附の書簡は、樗牛に宛てた手紙の中でも長文のものの一 つであり、ここで姉崎は、日蓮へ傾倒する樗牛に対し、かなり突っ込んだコメントを 加えている。この書簡には、当時の姉崎が抱いた日蓮イメージが直截に語られている*32  姉崎の議論は多岐に渡っているが、日蓮への違和感は3つに集約できると考えられ る*33。1つ目から見ていこう。日蓮を、ルターとではなく(内村鑑三は日蓮をルター やムハンマドと比肩させていた)、キリストと比較すべきだと主張する樗牛に対して、 姉崎は、「日蓮の人物がモハンメッドやルーテル(或は又ロヨラやサボナロラ)に近く して、基督やフランシス(或は又仏陀や法然)に遠きを思はしむ。尚近くいへば、僕 は日蓮がワグネル的なりしよりは、寧ろニーチェ的ならざりしかを疑うなり」と述べ る(無論、この当時の姉崎は、ムハンマド、ルター、イグナチオ・デ・ロヨラ、サヴ ォナローラ、そして師ドイセンの旧友であるニーチェを高く評価しているわけではな い。なお、この時点の姉崎は、「性格においても経歴においても」日蓮にもっとも「酷 似」しているのはパウロだと語っている)。そして、「僕はモハンメッドよりは基督を 愛し、ルーテルよりはフランシスを喜ぶ」と語り、その理由を「前者(注・ムハンマ ドとルター)の意思拡張に、深き愛の根底を発見し得ず、後者(注・イエスとアッシ

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ジのフランチェスコ)の勇猛には大なる愛の福音存するを見得るが故なり」と説明す る。続けて姉崎は、「日蓮は天変地異災害外寇を以て、反妙法の結果として人心を聳動 せんとしたり。法敵といひ、國難といひ、之を以て人心を警醒せんとする…略…此の 如き方法或は信仰が、慈悲深き宗教家の態度として似つかはしきや否やを疑はざるを 得ず」と語る。つまり、排斥的ないし独善的な信念、及び神罰や国難、天変地異を説 いて人心を警醒しようとする恫喝的教導法は「慈悲深き宗教家の態度」としてふさわ しいものか、というのが違和感の第一である。なお、この当時の姉崎は、黄禍論が吹 き荒れるドイツの現状を「狭量で排斥的」「ショヰニズム(注・chauvinisme)」と激し く批判し、洋行不要論を展開していた*34  姉崎は、「元来仏教の中に存する経文崇拝が気に合はむなり」と語る(「経文崇拝」 という言葉の他に「字句崇拝」「経典崇拝」という言葉も用いている)。姉崎によると 「佛教の字句崇拝は、其の歴史に於ける宗派分争、宗義争論の時勢に養成せられし悪 風」だとされる。そして「経典崇拝は字句拘泥となり、常に形式的思想と排斥的態度 とに伴ふ」という。この観点から「日蓮は法華の妙法を宣布する為に、極めて露骨に 経文字句崇拝を以て、其の摂折の武器とせしや」と疑義を述べる(「南無妙法蓮華経の 声を聴く毎に、此事を思ふ」とも語っている)。すなわち、姉崎が「形式的思想と排斥 的態度」につながると考える「経文字句崇拝」を日蓮は「極めて露骨」に用いている のではないか、というのが違和感の第二である。  姉崎は、「僕は今(のみならず古来)の仏教家が、ややもすれば國家主義といふ如き 者を武器とし、宗教を以て國家制度の一具にてあるが如くし、又國家の機関を宗教に 利用せんとするを悪むなり」と述べる。これは、(帰国後に発表された『復活の曙光』 でも強調される*35)国家迎合的ないし権力追従的な宗教を批判する、予てからの姉崎 の持論である。この観点から「日蓮は、妙法の為とはいへ、特に日本國単位にてもあ るかの如き大乗有縁説を以て、其の教法宣布の先鋒としたる事なきやを疑ふ」と述べ る。この論点は後の書簡でも触れられるものだが、日蓮と国家との関わりについての 疑念が違和感の第三である。  姉崎は、「釈迦、基督も、今日の科学説に依りて非難を免れざる如き者多きが如くな らん。只僕が此の疑問を君に開陳するは、日蓮が布教の態度が、其の人物性格の必然 的結果にあらざりしやを思ふが故なり」と語る。続けて「日蓮の性格は其の時勢境遇 に併せ見るを要す」と断り書きし、「百難辛苦を嘗めし、此等の事情を総合し来れば… 略…排斥的性格を帯ぶるの自然なるを知る」と理解を示す。これについては「大に同 情すべき」だが、しかし「基督の出でしも、此の如き世、彼の辛惨は決して日蓮に劣 らず」と相対させ、最終的に日蓮を突き放している。  以上の姉崎の書簡に対し、樗牛は、「日蓮に対する君の批評も大に僕を啓く所があ る。併しながら國家と宗教の関係については、君の日蓮観には、多少の不備がある様

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だ。…略…僕は日蓮に於て、其の信念の為に國家をも犠牲とする偉大なるイゴイスト を観た」(1902年7月3日附)との返信を書いている*36  姉崎は、8月20日附の書簡において、「君の日蓮論面白く読んだ。君の所論と至極同 意で、日蓮が徒が徒に國家主義などふりまわす愚を思ふ。只一つ僕の腑に落ちぬのは、 謗法の國は亡びるとして、日蓮は何の根拠があつて、元の兵の妙法帝釈の使者と見た か。此を単に警戒を見て喜んだか、又は眞に日本の亡國を喜んだか。その間に憤怨の 私情が交つて居なかつたか」との疑問を呈している。さらに「君の示した材料だけで は謗法の國を悪み、従つて北条氏治下の日本の亡國を望みし事は、明かであるが、そ の上に、日蓮が如何なるヴィジョンを持つて居たか。彼が一般に國家といふものを、 どう見て居たかは、まだ十分明かでない様に思ふ。彼は眞言を亡國の教といひ、律を 國賊といつた、その國は如何なる國であるか。又立正安國の國は何の國であるか」(1902 年8月20日附)*37という疑義も記している。以上が、樗牛と交わした日蓮論の大要であ り、「日蓮信仰」に入る以前の姉崎が抱いていた日蓮イメージである。

4.姉崎嘲風の日蓮論⑵

 帰国後の姉崎は、『樗牛全集』(全5巻、1904 06年)の刊行に取り組むとともに博士 論文『現身仏と法身仏』(1904年)を公刊し、その後は『国運と信仰』(1906年)等の 出版を経て、カーン資金による世界周遊(1907年9月―翌年10月)へ旅立つ。帰国後、 『花つみ日記』(1909年)、『意思と現識としての世界』(ショーペンハウエルの訳、1910 11年)、『根本佛教』(1910年)、『文は人なり』(1911年)、『宗教と教育』(1912年)を 公刊する。ハーバード大学から招聘された姉崎は、1913(大正2)年8月から1915(大 正4)年7月までハーバードに滞在、アメリカの聴衆へ日本宗教の講義を行う(磯前 等の研究では、このハーバードでの講義が「姉崎の日本研究の出発点」とされてい る*38)。姉崎は、ハーバードで日蓮の講義を試み、その成果が1916(大正5)年の

“Nichiren, the Buddhist Prophet”および『法華経の行者 日蓮』として結実する(帰国後 の姉崎は、日蓮の研究を経て、聖徳太子・切支丹という日本宗教を対象とした経験研 究へ向かう)。  姉崎の『法華経の行者 日蓮』「序言」(1916年)には、「回顧すれば、亡友樗牛に刺 激せられて、日蓮上人に注意し始めてから、はやすでに十年。始めは盲目的の批評か ら、漸次研究に移り、もっぱら遺文について、その人を研究するにつれ、人物として、 思想家として、また鎌倉時代の宗教改革者として、一歩一歩その人に親炙するに至っ た。しかし充実した意味における『法華経の行者』としての上人に接し始めたのはけ だし六、七年以来のことである」という文章がある*39  姉崎が、日蓮への「盲目的の批評」から「研究」に移ったのは、一回目の洋行後に

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智学・山川と知遇を得(1903年)、樗牛の遺稿整理を進める過程と軌を一にしている。 1910(明治43)年前後から本格的な研究に着手し、『法華経の行者 日蓮』刊行時には 「親炙するに至った」と回顧している。なお姉崎は、1916(大正5)年に生まれた三男 を(四条金吾から)金吾と命名しており*40、また1910年(明治43)生まれの長女(三 世・後の岸本英夫夫人)は、(姉崎の生家の浄土真宗仏光寺派の勤行と並行して)「八 歳のころから…略…日蓮のお像の前で法華経をあげる」習慣が始まったと回顧してい る*41。後述する1917(大正6)年における村上専精との論争*42や次男種世の死(1947 年・姉崎74歳)に際し、自身で戒名を書き、法華経をあげたエピソード、自らの死に 際しては、生家の仏光寺派ではない谷中の瑞輪寺(日蓮宗)で葬儀を行わせたこと等*43 を総合すると、1910年代半ば以降に「日蓮信仰」に入ったと見なしてよいだろう。  『法華経の行者 日蓮』*44は、「成るべく多くの人、但し一応の教育のある人に『法華 経の行者』の何たるかを知らしめる様に、成るべく通俗にした」と記されているよう に教養層向けの一般書として刊行された著作である。樗牛の日蓮論との違いは、まず、 その厚みと網羅性にある。同時代的に日蓮伝の定番ないし権威的著作であった小川泰 堂の『日蓮大士真実伝』*45を凌駕する厚みを誇り、―樗牛や小川の日蓮伝には見られな い―法華経と天台教学の解説にかなりの頁が割かれている。また、姉崎が重視する「人 格への感化」という観点から、日蓮と弟子との交流および「教化指導」に多くの頁を 割いている。日蓮に関する伝説上の逸話(例えば貴種流離譚)については、「家系のこ とは問題にする必要はない」という表現から看取されるように、人物像を描く際に検 討の俎上から外している。姉崎は、「上人の一生と思想とは、その遺文四百篇だけで十 分之を尽し得る」と語り、真筆と考えられる日蓮遺文をふんだんに引用しながら叙述 を進めている(翌年の論文で「成るべく帰納的研究に沿うた経験的組立をして見た」 と語っているが*46、同書では、史料的に裏付け不能な日蓮の留学体験について、高揚 した気分や興奮を―自身の洋行体験を下敷きにしたものか―活き活きと推察している 部分もある)。いずれにせよ、叙述は、徹底した御書(遺文)の読み込みに裏付けられ ており、法華経をはじめとした大乗諸仏典に関する周到な研究を踏まえ、独特の格調 高い文体で小気味よく叙述が展開されている。  なお、博士論文『現身仏と法身仏』(1904年)では、「パーリ語仏典と漢文四阿含」 が主たる資料として用いられ、その「序言」では「日本の仏教者が自ら大乗と称して 独り高しとし、高遠の理論、迂闊の談理を弄びて、却て切実なる仏陀中心の信仰を忘 れ、その極、終に影の如く空閣の如き仏教となしはてしは、歴史と信仰の二面より、 共に愍笑するに堪えたり」*47と語っているように、この時点では(「根本仏教」の研究 方法上の必然性から来ているとはいえ)「大乗仏典」を軽んじている印象が見受けられ る。しかし、『法華経の行者 日蓮』では、法華経を「インドから中央アジア諸国にか けて、仏教徒の最も尊重した経典」、「事実上仏教の中心を占めてきた」「根本聖典」等

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と賞揚する文言が頻出し、また日蓮が言及した多数の大乗経典に関しても十分な研究 を重ねた形跡が伺える。  姉崎は、『法華経の行者 日蓮』「序言」(1916年)では、「日蓮宗門の伝説や、前人の 解釈等には拠らなかつた。その故に、今までの上人伝と異なる結論に達した場合も少 からずある。上行の自覚と罪の意識との聯絡の如きは、その最も顕著な一つ」だと述 べている。第二版「改訂序言」(1932年)では、出版当時の状況を振り返りつつ、「大 正の末頃までは自然主義の解釈が流行し、キリストや親鸞を始めとし…略…人情の弱 点を主として、其の人を描出せんとする伝記や小説が多く出た*48。然るに、大正の末 以来、恰も反動であるかの如く、あらゆる偉人を超人として、その光栄を発揚する潮 流」が盛行した。「日蓮上人に関しても、此の二つの態度解釈が相次で」現れた。しか し、この二つの態度は「偏執短見の解釈たるに過ぎない」。「著者は世間一般の見解並 に宗門の解釈と違つて、上人の中に、一方は懺悔滅罪の行者、一方は本仏の魂を活現 する聖者、此の両面が密着融合していることを高調した」と解説している。  姉崎がオリジナリティを自負する「上行の自覚と罪の意識との聯絡」とは、日蓮に は、「凡夫としての罪の意識」と「聖者としての使命に関する自覚」の両面があり、そ の「密着融合」こそ、独自の思想と行動の背景をなす、という理解である。姉崎は、 日蓮の罪に関する意識は、当初の謗法罪を犯している「他人を責める」「云はば客観 的」なベクトルから、佐渡配流以降(姉崎によると依智滞在の時点で)、「自分の滅罪 を中心として」「他の一切衆生の罪滅救済」を考えるベクトルへ変化する「一大転機」 があったと分析する。寺泊御書は、「単に上行(注・上行菩薩)自覚の書ではなく…略 …重点は却て罪障の懺悔」にあると解読され、この頃から「旃陀羅が子」「身は人身に 似て畜身也」等、「自己賤下の言説が多くなった」ことを注視する。過去世と前半生に おける法華謗法の「宿業」「重罪」の自覚、すなわち「罪についての痛切な意識」は、 「滅罪について深刻の覚悟」を醸成し、「進んで救済成仏の見込理想」へ向かうベクト ルへ帰着する。「自己一個の為ではなく、実に此の悪國悪世の救済の為」、「國土成仏の 理想」のため、日蓮は「必至の試練」を覚悟し、法華経の行者として「共業所感」「折 伏主義」の道を歩んだと姉崎は説述するのである*49  この日蓮理解から、姉崎は樗牛の日蓮論の不備を指摘する。まず、樗牛が軽視した 立正安国論は、「法華一乗の信仰が念仏宗や禅宗の個人主義宗教であるのと反対に、団 体主義(または法界主義)であり、これを現実に適用すれば國家主義(ただし近代風 の國家主義と帰趣を異にする)である必然の結果」だと擁護される。また、樗牛は、 寺泊において「俄に」「忽に」「一躍して」日蓮の「自覚」が覚醒したと論じているが、 これは既に依智滞在中に示されているものであり、寺泊滞在の6日間は、「自覚が、と くに熱烈に明確になった」に過ぎない。さらに、樗牛は「上行菩薩との関連」を論じ ているが、ここにおける「自覚」では「不軽菩薩との連絡」こそが重要であり、「滅罪

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の行者としての覚悟」を得たことがポイントなのである(上行の自覚は、佐渡滞在中 に鮮明になってきたと論じている)。他方、樗牛は、日蓮が、元を(謗法の国を懲ら す)義軍と見たことを「亡国の呪詛」と表現しているが、これは「謗法亡国の嘆き」 「正法興国の祈り」を背景としたものであるから「謗国の呪詛」とするのが適切であ る。一方、身延隠棲に関する通俗的な解釈、すなわち「三度諫めて用ひられずば去る」 という「常套の説明」*50は、「動機の一つにはなっても、その理由ではなく、なおさら 目的では」ありえない。身延隠棲は、「滅罪の生活を続け、末法における法華経行者の 責を完う」することに真意があり、「いわば流罪の延長」「志願配流」に他ならない。 別言すれば、流人の生活を「継続延長」して「懺悔の実を挙げる」ことに目的があり、 キリストと同様の「代表的滅罪」によって「一切衆生の眼を開き、彼らの罪を滅す」 「大規模な滅罪」が企図されていたと姉崎は分析するのである。  以上の姉崎の日蓮論を一瞥すると、洋行時に表明していた三つの違和感(恫喝的教 導法、経典崇拝、国家との関係)が解消されていることが看取されよう。まず、恫喝 的教導法については、日蓮の「排斥的性格」に派生するものではなく、法華経本来の 思想に起因することが明確に説かれる。姉崎は、「実行しこれを弘通する人なくば、法 は死法に終わる。すなわち法の流通は人による。この点がとくに日蓮上人の思想と経 歴を支配した」と解説し、愚直なまでに「法華経の行者」としての使命感に忠実であ ることを揚言する。経典崇拝・経文字句崇拝については、「法華経の文字こそ真の仏」 (御衣並単衣御書)、「譬へば籠の中の鳥なけば空とぶ鳥のよばれて集るが如し、空とぶ 鳥の集れば籠の鳥も出でんとするが如し。口に妙法をよび奉れば、我身の仏性もよば れて必ず顕れ給ふ」(法華初心成仏鈔)という遺文を引用し、題目がすべての人々の 「心中の仏性」を喚顕する効用を解説する。姉崎は、「言説から思想生命を感化し…略 …その人をして法華経の実行者たらしめる神力」を確信する日蓮の「神秘主義」を肯 定的に説述するのである。日蓮の国家に対する「ヴィジョン」、「立正安國の國は何の 國であるか」という疑問については*51「國というのは単に日本國土ではなくて、法に 基き法を理想とする國」を意味しており、「それ故に鎌倉時代に見る如き日本國は上人 にとつては病國」、すなわち「灸治」し、「淨め」られるべき対象に他ならなかった。 日蓮の理想は「法國一如」にあり、その「世界観」は、「偏頗の見を排して中正包括の 統一観を特色としている」と高調している。以上のように、日蓮の一生は「憤怨の私 情」ではなく偉大なる使命感から構成され、「謗法の國は亡ぶべきも、久遠の日本國は 亡びない」と考えていた、と捉え返されていることが了解されよう。姉崎は、過去の 「盲目的の批評」から完全に脱却し、自身の日蓮像を文字通り刷新しているのである。

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5.村上専精の日蓮論に対する批判

 『法華経の行者 日蓮』を上梓した翌年の1917(大正6)年、姉崎は、日蓮をめぐっ て『哲学雑誌』誌上で村上専精と激しい応酬を繰り広げている。その経緯と内容を簡 潔に示したい。  村上は、1916年10月の哲学会秋期公開講演会において「親鸞日蓮両上人の對照」と 題した講演を行い、その原稿が『哲学雑誌』357号に掲載された*52。周知のように、村 上は、1890(明治23)年から講師として帝国大学で印度哲学を講じ、1901(明治34) 年には『仏教統一論』の第一編『大綱編』において大乗非仏説を主張した。留学経験 のない村上は、サンスクリットを解さず、欧米の研究状況に明るくなかったが、漢訳 資料に通暁し、「はじめての本格的な日本仏教史の概論」とよぶべき『日本仏教史綱』 (1898 99年)を上梓し、「帝大アカデミズムにおける仏教研究」を確立した人物と今日 では目されている*53。大乗非仏説により大谷派の僧籍を離脱した村上が復籍したのは 1911(明治44)年、『真宗全史』を公刊したのは1916(大正5)年、東京帝国大学の初 代印度哲学科教授に就任したのは1917(大正6)年のことである。村上は、当代随一 の日本仏教研究の権威として親鸞と日蓮を論評して見せたのだった。  村上は、京の都の「当時の最高貴族」の家系に生まれた親鸞と「辺鄙」「野蛮未開」 な安房の「卑賤」「細民一漁夫」として生まれた日蓮を比較し、親鸞の「温厚篤実、玉 の如き性格」と日蓮の「大言壮語」「傍若無人」を対照させる。村上によれば、親鸞は 自律的に出家し、日蓮は他律的に出家したとされ、また、流罪に際しても、親鸞は自 ら罪を犯したわけではなかったが「少しも之を恨事」とはせず、日蓮は「主犯者」と して二度裁かれたにも関わらず、「其の怨み骨髄に徹す」といった感が見られる、と論 じる。親鸞には主著『教行信証』があるが、「日蓮には大作がない」。多くは「小冊子 にして、殊に消息文」が多く、「『教行信証』等に比肩すべき著作はない」。「而も其の 所説は千篇一律、例の折伏的排他の文字を以て充たされ、さなくば獨り『法華』を称 揚し、又自己を讃嘆するより他の事はない」と述べる。さらに、日蓮の文章には「頗 る品の悪い語が多く用いられ」、「大袈裟に事を論じ、又極端なる用語に依り、人をし て忽ちに主意を瞭解せしめんとすることが如何にも巧である」と評する。また、親鸞 の弟子は、「公卿方」のみならず「生来荒武者の人」も多かったが「至って皆温和」「比 較的に温良恭譲の人」が多いが、日蓮の弟子は多くが「平民」であるにも関わらず、 「傲岸不遜の人多し」と論じられる。村上は、『哲学雑誌』358号に補遺を記している が、そこにも以下の持論が披瀝されている。    日蓮の著作に大部のもの之なき所以は、日蓮の著書は、殆んど皆他に著はすとこ ろの消息文なるが故である。彼の三大部五大章と称するものと雖も『開目抄』は

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佐渡にありし四条金吾頼基へ送られしものである。『観心本尊抄』も亦同じく佐渡 にありて之を作り、富木入道常忍に送られしものである。『報恩抄』は身延山より して安房清澄寺の浄顕房に遣されたものである。『立正安国論』は、時勢憤慨の余 り、時の幕府に捧げし一時の訴状に過ぎぬのである、況や他のものに於てをや。 故に或意味よりしていへば日蓮には著作なしといふことも出来る訳だ。*54  以上の村上の議論に対し、姉崎は『哲学雑誌』360号に反論を掲載している*55。姉崎 が指摘した論点は、①鶴ヶ岡経蔵、岩本経蔵に入り、四年の構想と二年の考究・執筆 を経て完成を見た立正安国論をなぜ「一時の訴状に過ぎぬ」と断言できるのか。②開 目抄は四条金吾へ托した書簡だが私信消息でないことは明らかである。「開目抄は金吾 へ送った」文書だから「著作ではない」と断ずるのは不可解である。同様に③観心本 尊抄についても、④報恩抄についても、村上は門人(そもそも村上は、太田教信へ送 った観心本尊抄を富木入道と誤解している)へ送った文書だから「著作でない」と評 し、また、⑤五大部以外に論ずべき述作はなく、「皆消息」と評しているが、少なくと も、「法華取要抄」「太田曾谷抄」「三大秘宝稟承事」については消息でないことは明ら かである。以上を鑑みたとき、到底、村上の議論を首肯することはできない。つまり、 姉崎は、徹底して「日蓮には著作なし」という見解の根拠を質す疑義を村上に投げか けている。姉崎は、以上の5点を「宗派問題」ではなく「学者間の通義」として、「純 粋に仏教史学上の学術問題」と断り書きし、提出している。  これに対し、村上は、日蓮を「褒貶せんとするやうな考は毛頭なかった」と弁解し、 また、そう取られたのは「意外であつた」と述べるとともに、「風説によると、博士 (注・姉崎)近来、大に日蓮を研究せらるると共に従来の家庭に於ける宗旨を止めて、 殆ど日蓮宗の人の如くなつて居らるゝといふことである」とゴシップを披瀝する。さ らに、姉崎が近所に住居しているにも関わらず、書留郵便で質問書を送付してきたこ とを暴露し、「学術上の問題」と述べてはいるが、「其の動機なるや他に情的関係があ るやうに思はれてならぬ」と私見を語る。また、「或意味に於いて」あるいは「殆ん ど」等と断った上で「日蓮には著作なし」と評したのだから、そんな厳しく追及され ても応えかねる、という趣旨の答弁を繰り返している。そして「姉崎さん、御方は学 問はあるし、年は若い、随つて元気もよろしい…略…私は何をいふにも恥しながら彼 方のやうに学問がない、加ふるに年が寄つて御方のやうな元気がない、それにも似ず 用事は頗る多い、業務多端である。こういふ訳でありますから今回限りとして以後何 んと御責めになりましても御答することは平に御断り申します」と一方的に議論を打 ち切っている。にも関わらず、村上は翌362号にも反論・弁明を掲載し、さらに上記の 姉崎の批判を「感情的」だと決めつけ、「堂々たる東京帝国大学にあつて、殊に神聖な る宗教科の講座を担任せられる教授先生の言動としては如何であろうと思ふ」「博士は

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何と思はれても、吾輩は社会に対して恥ずかしいと思ふ」と批判している*56。また、 「今度はマッチの火から大火事を発した」ようなもので「公衆に対し、誠に恥ずかしい 次第」だが、村上自身は「固よりこんな考なかりしも、真に姉崎博士のために余儀な くせられた」と責任を押しつけている。  これに対し姉崎は、村上の答弁は論点以外の「一身上の事にまで立ち入っている」 が、哲学雑誌の「品格を尊重し」、ここに反論を載せることは避ける、と応えて応酬は 終結している。

6.まとめ―姉崎の日蓮論の特質―

 以上、見てきたように姉崎正治は、当初、大乗経典の価値を低く見ており、日蓮に 対しても独善的かつ恫喝的で、形式的な経文崇拝を強要する「憤怨の私情」「排斥的性 格」の持主というイメージを抱いていた。しかし、洋行時における高山樗牛との往復 書簡をきっかけに日蓮研究へ着手し、帰国後、樗牛の研究を引き継ぐ形で本格的に研 究を進展させ、周到に日蓮の思想と行動を跡付け、自身も熱心な信仰者となった。姉 崎の日蓮論は、国家主義的な日蓮論(田中智学等)やルターとの類似を説いた日蓮論 (内村鑑三等)とは一線を画すものとなっている。通俗的な日蓮論との決定的な相違点 は、(同時代的にもっとも強い参照力を有していた『日蓮大士真実伝』に描かれた)護 国主義者としての日蓮像を完全に相対化している点にある(『日蓮大士真実伝』のクラ イマックスは、日蓮が「大日本防衛の大曼荼羅」を染筆し、「怨敵退散の祈念」を行う と、「山を抜き巌を飛ばす電動雷電」が巻き起こり、「大蒙古数万の軍船、風に木の葉 を巻くが如く…略…微塵に砕け、軍卒も大半は波の屑と溺れ死」んだ場面*57)。  樗牛の日蓮論の最大の特徴は、国家・世俗的価値を超えた「大理想」を果敢に説い た超俗的「イゴイスト」という側面にあったが、姉崎は、樗牛の(立正安国論をはじ めとしたいくつかの遺文の)理解には不十分な点があると批判し、それを凌駕する成 果を提出した。また、同じく東京帝国大学の教授へ就任する村上専精に対する批判は、 その学問に対する姿勢(実際には遺文を読みこまずに書いたと推察される)、ならびに 先入観と読解力不足に起因する(日蓮の)無理解―実証性―を批判する内容であった。  一方、姉崎の日蓮論は、周到な大乗経典・天台教学・日蓮遺文の読解に裏付けられ ているが、同時に(旧稿で論じたように)「入神」によって「神霊の閃き」を発見し、 「人の中に現れた神霊を発見」することを通して教祖の「奥の奥」へと迫り、自らも 「霊光の閃き」を得る、という神秘主義的な傾向を併せもつものであった。いわば姉崎 の日蓮論は、「帰納的研究に沿うた経験的組立」による客観的・実証的な教祖像(日蓮像) を土台としつつも、神秘主義的な領域に足を踏みだすユニークさが見受けられる*58 換言すれば、研究者としての自己と信仰者としての自己の眼差しを弁証法的に往還さ

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せることによって、独自の日蓮理解へと到達したものだった。  その姉崎の日蓮論の最大の特質は、懺悔滅罪の凡夫意識と聖者としての使命感との 密着融合という理解にある。姉崎によると身延隠棲は、「いわば流罪の延長」「志願配 流」が意図されていたとされ、キリストと同じく「代表的滅罪」によって「一切衆生 の眼を開き、彼らの罪を滅す」ことが企図されていたと解釈される。これは、姉崎と 近い立場にあった日蓮主義者、山川智応(後に東京帝国大学から博士号を授与されて いる)の見解とも大きく異なるものである*59  以上、明治期アカデミシャンの代表的存在として姉崎正治の日蓮論を検討してきた。 官制知識人における日蓮への偏見・無理解、あるいは世俗的価値に引きつけた宗門人 の日蓮評価とは別に、この時期、伝統的な宗学の外の立場―すなわち近代的な宗教学 の立場から―周到な史料批判と遺文の検討を踏まえた客観的な日蓮像が表象され始め たことが了解される。姉崎の日蓮論は、アカデミシャンが表象する日蓮イメージの過 渡的な姿をいみじくも示している。その後の日蓮イメージの変遷については今後の課 題としたい。 註 *1  戸頃重基『近代日本と日蓮主義』評論社、1972年、86頁。大谷栄一『近代日本 の日蓮主義運動』法蔵館、2001年、231頁。 *2  寺田喜朗「高山樗牛と姉崎嘲風の日蓮論」西山茂編『シリーズ日蓮4 近現代の 法華運動と在家教団』春秋社、2014年、164 193頁。 *3  田村芳朗「近代の日蓮主義者」『法華経』中公新書、1969年、153 198頁。田村 芳朗「高山樗牛の日蓮観」田村芳朗・宮崎英修編『講座日蓮四 日本近代と日蓮主 義』春秋社、一九七二年、152 1168頁。戸頃重基「明治中期」『近代日本と日蓮主 義』評論社、1972年、63 67頁。末木文美士「〈個〉の自立は可能か−高山樗牛」 『福神』7号、2001年、70 86頁。徳田幸雄「高山樗牛」『宗教的回心研究―新島 襄・清沢満之・内村鑑三・高山樗牛―』未来社、2005年、391 430頁。中島岳志 2015「超国家主義と日蓮思想―最後の高山樗牛」上杉清文・末木文美士編『シリー ズ日蓮5 現代世界と日蓮』春秋社、149 172頁。 *4  姉崎研究において、画期的な成果を挙げているのが96年に着手された「姉崎正 治関連資料の整理及び日本宗教学の成立史研究」プロジェクトに参与した研究者 である。磯前順一・高橋原・深澤英隆「姉崎正治伝」磯前順一・深澤英隆編『近 代日本における知識人と宗教―姉崎正治の軌跡―』東京堂出版、2002年、1 142 頁が最大の成果と言えるだろう。なお同書118頁には、「姉崎に触れた論考は散見 されるものの、本格的な姉崎研究はまったくなされていない、というのが実情で ある。結局のところ、姉崎はその死後、急速に忘却されていったのであった」と

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いう記述がある。 *5 丸山照雄編『近代日蓮論』朝日選書、1981年。 *6 [丸山編1981:232頁]。 *7 増谷文雄「姉崎正治の業績」『宗教研究』147号、1956年、27 28頁。 *8  柳川啓一「官の学問・野の学問」『展望』188号、1974年、83頁。柳川啓一「文 人姉崎正治」『明治時代の文人たち』東京大学出版会、1974年、159 180頁も参照 のこと。 *9  [磯前・高橋・深澤2002:48・52・68 69・75 76頁]、磯前順一『近代日本の宗 教言説とその系譜』岩波書店、2003年、156 165頁。 *10  田村芳朗「姉崎正治と日蓮」姉崎正治先生生誕百年記念会編『姉崎正治先生の 業績 記念講演集・著作目録』東京大学出版会、1974年、43 51頁。田村芳朗「姉 崎正治の日蓮研究と高山樗牛」姉崎正治『法華経の行者 日蓮』講談社学術文庫、 1983年(初出1916年)、589 595頁。 *11  田村芳朗の二つの論考は、『法華経の行者 日蓮』の執筆に至る経緯を簡潔に説 述し、「本書は、旧来の偏狭な日蓮伝から日蓮を解放し、すべての人に納得され、 理解される日蓮を描き出しており、博士の視野の広い宗教研究が背景となって、 そのような日蓮伝を可能にしたといえよう」と総括している[田村1983:595頁]。 なお、本稿で論及する日蓮の使徒意識と罪の意識との関連等への言及はない。 *12  大谷栄一「日蓮はどのように語られたか?」幡鎌一弘編『語られた教祖』法蔵 館、2012年、145頁。 *13  「(注・あらゆる宗教は)建国の精神に背戻し、我が国家の発達を阻害するもの」 「日本主義」(1897年5月)、高山林次郎『樗牛全集 第四巻』博文館、1905年、258 頁。「基督教の眼中には世界ありて国家なし。個人ありて家族なし、人類は国家君 父に背きても神に従はざるべからず」「宗教と国家」(1897年7月)[高山1905: 291頁]という言述もある。 *14 「世界主義と国家主義」(1897年7月)。[高山1905:279頁]。 *15 「日本主義」(1897年5月)。[高山1905:261頁]。 *16  「腐敗せる宗教家」(1889年7月)。[高山1905:799 800頁]。清沢満之等の白川 党の運動が僧籍剥奪だけで収束したことを痛烈に批判する文脈。 *17  山川智応「高山樗牛の日蓮上人崇拝について」姉崎嘲風・山川智応共編『高山 樗牛と日蓮上人』博文堂、353 358頁。 *18 田中智学『田中智学自伝 わが経しあと(十)』師子王文庫、1936年、85頁。 *19  高山林次郎著・姉崎正治・笹川種郎編『改定註釈 樗牛全集 第七巻』博文堂、 1933年、708頁。 *20 [高山1933、732 736頁]。

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*21  三大部の一つである観心本尊鈔については「未だ解し難ぬるふしあるを恨みと す」と語っている。[高山1905:957頁]。 *22 [高山1905:888 912頁]。 *23 [高山1905:934 949頁]。 *24  [高山1905:913 933頁]。なお、ニーチェの『ツァラトゥストラはこう言った』 (岩波文庫上巻・氷上英廣訳、81頁)には、「善人も悪人も、すべての者が毒を飲 むところ、それをわたしは国家と呼ぶ。善人も悪人も、全てがおのれ自身を失う ところ、それが国家である。すべての人間の緩慢なる自殺―それが生きがいと呼 ばれるところ、それが国家である」という台詞がある。ただし、ニーチェを直接 的なスプリングボードとして樗牛の日蓮理解が進んだわけではないことには注意 が必要である。[寺田2014:190頁]を参照のこと。 *25 [高山1933:780頁]。 *26 「無題録」(1902年4月)、[高山1905:1041 1043頁]。 *27  磯前等の研究によると、明治29年の帝国大学入学者は50人、うち哲学科は15人 であり、当時の寄宿舎には、畔柳都太郎、喜田貞吉、吉田賢竜等がおり、夏目漱 石(1893年に卒業した後も寄宿舎に居残っていた)、泉鏡花(尾崎紅葉の住み込み 弟子)もよく出入りしていた。姉崎正治『新版 わが生涯 姉崎正治先生の業績 記念講演集・著作目録』大空社、1974年(初版1951年)、iii 頁。[磯前・高橋・深 澤2002:17頁]。 *28 [磯前・高橋・深澤2002:20頁]。 *29 [姉崎1974(1951):60頁]。 *30  姉崎正治著、島薗進監修『姉崎正治集 第四巻 樗牛嘲風往復集・停雲集・南北 朝問題と国体の大義』クレス出版、2002年(初版1918年)、429頁。 *31 [姉崎2002(1918):442頁]。 *32  [姉崎2002(1918):474 486頁]。姉崎は、「未だ日蓮につきて多く考察せず、彼 につきて知る所極めて少し。故に君の此人に対する深厚の同情と尊敬とに対して は、一言を挟むの権利なきを熟知す。されど、友として茲に少しく僕の胸裏に横 はる疑問を開陳せしめよ。此くして君の所見に依りて、僕の疑を一掃せん事を要 求するも、亦友たる僕の権利なりと思ふ」と語り出している。十分な研究を経た 後の見解ではないことが了解される。 *33  田村芳朗は、姉崎が樗牛に宛てた手紙で「二、三の疑問を投じている」と述べ、 「国家主義」と「折伏主義」に関する疑義だと紹介している。[田村1983:592頁]。 *34 [姉崎2002(1918):392 416頁]を参照のこと。 *35  同書には、「今の世に、国教だとか公認教だとか云て、教会を国家の奴碑とな し、天国の鍵、済度の法輪を地上の国家、利害競争の国家に托しようとする者が

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あるが、彼等は宗教家の本分を自らで棄てた吾が身知らずの不埒者、否宗教の大 敵である」という記述がある。姉崎正治『復活の曙光』有朋館、1904年、158頁。 *36 [姉崎2002(1918):502 503頁]。 *37 [姉崎2002(1918):529 530頁]。 *38 [磯前・高橋・深澤2002:68頁]。 *39  姉崎正治『法華経の行者 日蓮』講談社学術文庫、1983年(初版1916年)13 14 頁。 *40 [姉崎1974(1951):31頁]。 *41 [姉崎1974(1951):29頁]。 *42  姉崎正治「日蓮上人の著作に関して村上博士に質す」『哲学雑誌』360号、1917 年、106 113頁。村上専精「姉崎博士の質疑に答ふ」『哲学雑誌』361号、1917年a、 101 110頁。姉崎正治「村上博士の答辞に就いて」『哲学雑誌』362号、1917年、117 頁。村上専精「姉崎博士の質疑に対する答えを補ひ併せて公衆の批判を請はんと す」『哲学雑誌』362号、1917年 b、112 116頁。 *43  戸田義雄「姉崎先生と世界の人」姉崎正治先生生誕百年記念会編『姉崎正治先 生の業績 記念講演集・著作目録』東京大学出版会、1974年、231 142頁。 *44  以下の引用は、『法華経の行者 日蓮』より。煩雑になるため同書からの引用頁 は省略する。 *45  小川泰堂全集刊行編集委員会編「日蓮大士真実伝」『小川泰堂全集 論議篇』展 転社、1991年(初出1867年)、185 380頁所収。 *46  姉崎正治「傳教大師に對する日蓮上人の態度」『宗教研究』4号、1917年、653 頁。 *47  姉崎正治『姉崎正治著作集第七巻 改訂 現身仏と法身仏』国書刊行会、1956年 (初版1904年)、2頁。釈迦の弟子が「信仰道行の活ける跡を伝ふる阿含部仏典」 と「神話装飾に勉め、経文讃歎に余念なき自称大乗仏典」とどちらが「史料とし て正確なるや」は「公平なる頭脳の容易に判断し得る所ならん」等とも語ってい る。 *48  1922(大正11)年に「空前の親鸞ブーム」が起こっている。千葉幸一郎「空前 の親鸞ブーム粗描」五十嵐伸治ほか編『大正宗教小説の流行』論創社、2011年、 97 131頁。 *49  罪に関する議論については、姉崎正治「罪に関する日蓮上人の懐抱」『宗教研 究』1号、1916年、85 110頁も参照のこと。 *50  樗牛も「三度諫めて聴かれざれば逃る」という理由は当たっていないと論じて いる。ただし、樗牛は、日蓮の「真意」は「蒙古の襲来を予想せるが為のみ」と 述べている。日蓮は、「仏陀の遠征軍」と見なした蒙古軍による「一大惨劇の運命

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を忍受せむが為に鎌倉を去りて身延の幽谷に退隠したるのみ」と論じられている。 [高山1905:925 926頁]。 *51 この箇所の引用は、姉崎正治「序言」[姉崎・山川1913:115頁]。 *52 村上専精「親鸞日蓮兩上人の對照」『哲学雑誌』357号、1916年、29 66頁。 *53  末木文美士2004『明治思想家論 近代日本の思想・再考Ⅰ』トランスビュー、 91頁、98頁。 *54  村上専精「親鸞日蓮兩上人の對照の訂正補遺」『哲学雑誌』358号、1916年、100 102頁。 *55  姉崎に先駆けて山川智応は、『哲学雑誌』359・360号において、村上の誤謬・不 備を徹底的に指摘し、痛烈な批判を展開している。山川智応「村上専精氏の『親 鸞日蓮兩上人の對照』を難ず」『哲学雑誌』359号、1917年a、104 121頁、同「村 上専精氏の『親鸞日蓮兩上人の對照』を難ず(承前)」『哲学雑誌』360号、1917年 b、88 105頁。 *56 [村上1917b:112 116頁]。 *57 [小川1991(1867):372頁]。 *58 [寺田2014:182 184頁]。 *59  「三度諫めて聴かれないから、跡はどうでもよいとして山林に遁れられたのでは ない。寧ろ此の機に身を退き他國侵逼難等の予言の適中することがあれば、また 或は諫を用ゐることがあるかも知れぬといふのが一ッ。自ら開かれた教義の整理 をするのが一ッ。自身の心静かなる修行を楽しまれるのが一ッ。弟子檀那等を教 義的宗教的に訓育養成して永く呵責謗法の事業を継紹せしめられるのが一ッ。こ れ等を総合したことが身延入山によつて解決せられる」と述べている。[山川 1917a:92 93頁]。

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