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中央学術研究所紀要 第41号 142竹口弘晃「文化資源の顕在化とそのダイナミズムに関する研究」

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1.課題の設定

 近年、地域文化を文化ストックあるいは文化資源としてとらえ、それらを地域再生 や地域活性化に積極的に活用しようとする取り組みが多くなされてきている。それに もかかわらず、期待されるような成果がなかなか得られないという現状は、それらを

竹 口 弘 晃

1.課題の設定 2.文化資源の顕在化に関する理論的基盤の検討  2.1.SECI モデル  2.2.場の理論   2.2.1.場の定義   2.2.2.場の基本的要素   2.2.3.場の類型  2.3.コンテクストの理論   2.3.1.コンテクストの機能   2.3.2.コンテクストの転換  2.4.小括 3.川越市におけるまちづくりの事例  3.1.事例の概要  3.2.シグナルの受信と「場」の形成  3.3.「場」の連鎖的形成  3.4.「場」の共振的関係の形成  3.5.コンテクスト転換の視点 4.結語 参考文献 参照 URL

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育み更新するベースとなる社会的環境の脆弱さと無関係ではないように思われる1  文化の土壌たる地域社会についてはその衰退が著しい地域も少なくない。かつての 地域は、人々が参加し、意識・無意識のうちに相互に観察をし、コミュニケーション を行い、相互に理解をし、相互に働きかけあい、共通の体験をするような状況の枠組 みとしての「場」を形成していたと考えられる。しかしながら、時代の移り変わりの 中でそのような「場」としての地域は過去のものになりつつある。  こうした事態は、地域という場所におけるさまざまな実践との結びつきを希薄化し、 伝統的な地域文化を支える共同体的基盤の地盤沈下を引き起こしている大きな要因と して考えられる。その結果として、地域の文化がわれわれに何を伝え、その文化が地 域や住民にとってどのような意味があるのかといった文脈の解読を一層困難な状況に していると考えられるのである。  地域文化の現状を考えると、創造から養育を経て継承されるという一連の大きな文 化創造の流れが滞り、その結果として地域文化はそれら自身の断片化や潜在化、ある いは消滅の危機に瀕しているという状況も想定されなければならない状況にある。地 域文化は、地域という空間的まとまりや文脈から切り離された存在となることで、そ の文化的な価値については、当該地域の人々においても共有できない状況が一層濃厚 になりつつあると考えられるのである。  このような点を踏まえると、文化資源の活用を展望する場合、その文化的価値それ 自体を独自に論じるということだけでは十分ではなく、その価値を社会関係との中で 捉える視点が必要とされる。特に、潜在化ないし分断化されて久しいような文化資源 や、そうした状況が進行中であるような文化資源については、顕在化や統合化にむけ た何らかの社会的関与が必要であると考えられ、モノやコトの価値付けに対する社会 関係の形成や再編成という視点を持ちうると考えられる。  そこで、はじめに「暗黙知としての文化ストック」という考えを起点として、暗黙 知を形式知に転換し顕在化するプロセスをモデル化した SECI モデル、またそのプロ セスを活発化させる触媒や媒介の役割を担う「場」の理論、また、「場」が文脈(コン テクスト)を変化させることによって意味を創出する時空間であると位置づけられる ことから、潜在的価値を顕在化させる装置として機能するコンテクストとその転換に 関する先行研究をレビューし、文化資源の顕在化と地域のダイナミズムを読み解くた めの理論枠組みとして位置付ける。  さらに、その理論的検討を踏まえ、風前の灯であった蔵造りの町並みの保存からは 1  伊藤裕夫は、祭りや伝統芸能を「習得・共有・継承」してきた何らかの文化的環境システム、例 えば、制度化された人的・組織的ネットワークなどを広義の文化資源として位置づけ、その重要 さについて指摘している。伊藤裕夫(2008)「地域文化資源と文化マネジメント―富山の事例から の考察」井口貢編著『入門文化政策―地域の文化を創るということ』ミネルヴァ書房 p.56。

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じまるまちづくりを展開してきた川越市を事例として、「SECI プロセス」、「場」、「コ ンテクスト」の側面から文化資源の顕在化と地域のダイナミズムについて考察し、最 後に本稿の結論と課題について述べる。

2.文化資源の顕在化に関する理論的基盤の検討

2.1.SECI モデル  「暗黙知としての文化ストック」から着想を得て、地域において断片化、あるいは潜 在化しているような文化の意味や価値の顕在化を企図するため、暗黙知を形式知に変 換するプロセスを明示的に表現した SECI モデルに着目し、潜在化的文化の意味や価 値を顕在化するような創造のプロセスとして捉えることにする。SECIモデルについて 言及する前に、その前提を成す知識について述べる必要があるだろう。  知識創造の研究領域においては、知識は正当化された真なる信念であり、個人の信 念が「真実」へと正当化されるダイナミックな社会的プロセスとされる2。知識は、個 人の主観的な思い・信念や価値観が、社会環境との相互作用を通じて正当化され客観 的な「真実」になるプロセスであるととらえられている3。知識創造のプロセスとは、 知識ビジョンなどの「どう成りたいか」という目的に動かされた成員が、互いに作用 しながら自身の限界を超えて知識を創造することにより将来のビジョンを実現させる ことである4  これらの点を踏まえると、価値や意味はこうした知識と分かち難く結びついている と考えられる。なぜなら、価値や意味は、知識の創造、伝播、共有によって明確にな ると考えられるからである。一方で、知識そのものにも価値や意味が認められること には留意が必要であろう。知識と価値は表裏一体のものであると考えられるのである。  さて、「暗黙知」とは直感やスキルなど言葉では容易に表現することができない知識 のことである。こうした知のあり方に対して「形式知」が対置される。「形式知」と は、学校で学ぶ知識のように言葉や文章での伝達が可能で、コード化し得る知識のこ とである5  SECIモデルは、知識における「暗黙知」と「形式知」の2つの側面に着目し、これ らの2つの知識は相互に排他的なものでなく、相互循環的、補完的関係にあり、暗黙 2  野中郁次郎、遠山亮子、平田透(2010)『流れを経営する―持続的イノベーション企業の動態理 論―』東洋経済新報社 p.7。 3 同上書、p.20。 4 同上書、pp.12 16。 5  立見淳哉(2008)「産業論・環境論と創造都市⑵」塩沢由典、小長谷一之編著『まちづくりと創 造都市―基礎と応用』晃洋書房、p.31。

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知と形式地との間の相転移を通じて時間と共に知識が拡張していくダイナミックなモ デルとして提示される6。人間の創造的活動において、知識変換のプロセスを通じて暗 黙知と形式知が質的にも量的にも増幅すると考えられている7  SECIモデルのプロセスは「共同化(Socialization)」→「表出化(Externalization)」→ 「連結化(Combination)」→「内面化(Internalization)」という4つのモードからなる。 「共同化」とは、経験の共有によって個人の暗黙知からグループの暗黙知を創造し、「表 出化」とは、暗黙知を明確なコンセプトに表すことによって暗黙知から形式知を創造 し、「連結化」とは、コンセプトを組み合わせて一つの知識体系を創り出すことで個別 の形式知から体系的な形式知を創造し、「内面化」とは形式知を暗黙知へと体化するこ とで形式知から暗黙知を創造することである8(図1)。 図1:SECI モデルのプロセス 出典:野中郁次郎、竹内弘高、梅本勝博訳(1996)『知識創造企業』東洋経済新報社 p.106を基に筆者作成。  以上の4つのモードのスパイラルを経て、個人的で主観的な知識(価値)は、社会 的で客観的な知識(価値)へと変換される。このスパイラルが活性化されることによ り、豊かな暗黙知が形成され、ますます豊かな知識(価値)の創造が期待されるので ある。これが、野中の提示する知識創造に関するモデルである。次に、SECIモデルを 6 野中郁次郎(1985)『企業進化論』日本経済新聞社 p.56。 7 野中郁次郎、竹内弘高、梅本勝博訳(1996)『知識創造企業』東洋経済新報社 p.90。 8 野中郁次郎、竹内弘高、梅本勝博訳(1996)、前掲書、pp.91 104。

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活発に駆動させる際に、触媒や媒介の役割を担うと考えられている「場」の理論につ いて述べる。 2.2.場の理論 2.2.1.場の定義  「場;ba」とは、知識の創造、共有、活用、蓄積を活発化させるために、個々の知識 (価値)を共有したり、共同で知識(価値)を創造したりするための結節点として位置 づけられるものである。  伊丹敬之は、「場」とは人々が参加し、意識・無意識のうちに相互に観察をし、コミ ュニケーションを行い、相互に理解をし、相互に働きかけあい、共通の体験をする、 その状況の枠組みであり、そこでは、人々が様々な様式で情報を交換し合い、その結 果人々の認識(情報集合)が変化する。このプロセス全体が情報的相互作用で、場と はいわばその相互作用の容れもののことであると定義する9  また、野中郁次郎と紺野登は、「場」について「物理的空間(オフィス・分散した業 務空間)、仮想空間、特定の目的を共有しているメンタルスペース(共通経験、思い、 理想)のいずれでもありうる、場所 platform である」と定義する10  このように、「場」は関係の時空間であり、各々の存在が共有される場所である。そ こでは、個人は他者との相互作用的な関係に布置され、相互作用を通じて各人の視点 が総合的に取り込まれることで新しい知識(価値)を創造するのである。場の参加者 は、場に持ち込まれたさまざまな関係性や文脈を相互に共有することで、変化してい くのである。 2.2.2.場の基本的要素  それでは、「場」はどのようにして形成されるのであろうか。「場」が形成されるき っかけは、いずれかのメンバーが外部環境から何らかのシグナルを探索し、受信する ことから始まる。このような「場」において、高密度で継続的な情報的相互作用が展 開されるには、参加するメンバーが4つの基本要素を共有していることが必要である とする。その4つの要素とは、①アジェンダ(情報は何に関するものか)、②解釈コー ド(情報はどう解釈すべきか)、③情報のキャリアー(情報を伝えている媒体)、④連 帯欲求である11  アジェンダの共有とは、どの情報を収集し、交換し創造していくかという意図をメ ンバーの中に共有していくことである。解釈コードの共有とは、場の参加者が、発信 者の社会の習慣を理解し、その状況に至るまでの歴史的組織的経過に対する理解や了 9 伊丹敬之(1993)「場のマネジメント序説」『組織科学第26巻1号』組織学会 pp.4 5。 10  野中郁次郎、紺野登(2000)「場の動態と知識創造―ダイナミクスな組織知に向けて―」伊丹敬 之、野中郁次郎、西口敏宏編著『場のダイナミズムと企業』東洋経済新報社 pp.56 57。 11 伊丹敬之(1999)『場のマネジメント』NTT 出版 pp.41 42。

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解をかなりの程度共通に有していることが重要である。さらに、情報のキャリアーに ついては、人間が五官を有し、観察能力を有するがゆえに、「物理的空間の共有」は情 報のキャリアーの共有を可能にしているという。中でも、対面による物理的空間の共 有は情報のキャリアーの飛躍的増大という点で重要な意義を有している12  これらの要素の共有が進むことで、①周囲の共感者との相互作用、②全体での統合 努力、③全体から個へのフィードバックという3つのタイプの相互作用が起こり、そ の結果として、「全体への共通理解」という秩序への収斂と全体の心理的エネルギーの 発生がもたらされると考えられている。このような、場のメンバーの「個」と場の「全 体」とを結ぶループ状のフィードバック(ミクロマクロループ)が働き、共通理解と 心理的共振が同時に達成されるのである13(図2)。 図2:場の共通理解と心理的エネルギー発生のプロセス 出典:伊丹敬之(2005)『場の論理とマネジメント』東洋経済新報社 p.184を基に筆者作成。 2.2.3.場の類型  「場」については、先に述べた SECI モデルの「共同化」、「表出化」、「連結化」、「内 面化」のそれぞれにおおよそ対応する形で、「創発場」、「対話場」、「システム場」、「実 践場」の4つの分類がなされている。  「創発場」とは、共同化に対応する「場」であり、個人的かつ直接的相互的関係によ 12 伊丹敬之(1999)『場のマネジメント』NTT 出版、p.42。 13 同上書、pp.80 85。

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って規定される場であり14、ここでは主に、経験、思いなどの暗黙知が共有される15 「対話場」とは、表出化に対応する「場」であり、集団的かつ直接的な相互関係によって 規定される場であり16、各自が対話を通じてそれぞれの暗黙知を言語化・概念化する17 「システム場」とは、連結化に対応する「場」であり、集団的かつ間接的な相互関係に よって規定され18、形式知を相互に移転、共有、編集、構築する19。「実践場」とは、内 面化に対応する「場」であり、個人的かつ間接的な相互関係によって規定され20、形式 知を暗黙知として取り込んでいくための場である21(図3)。 図3:場の4類型 出典:筆者作成。 2.3.コンテクストの理論 2.3.1.コンテクストの機能  先に述べたように「場」は、相互作用を通じて他者と文脈を共有し、その文脈を変化 させることによって意味を創出する時空間であることを述べた。この文脈とはコンテ クストのことであり、コンテクストとはコンテンツ間の関係性解釈の着眼点であり22 14 野中郁次郎、遠山亮子、紺野登(1999)「『知識創造企業再訪問』」『組織科学』第33巻第1号p.40。 15 野中郁次郎、紺野登(1999)『知識経営のすすめ』株式会社精興社 p.170。 16 野中郁次郎、遠山亮子、紺野登(1999)、前掲書、p.40。 17 野中郁次郎、紺野登(1999)、前掲書、p.172。 18 野中郁次郎、遠山亮子、紺野登(1999)、前掲書、p.40。 19 野中郁次郎、紺野登(1999)、前掲書、p.173。 20 野中郁次郎、遠山亮子、紺野登(1999)、前掲書、p.40。 21 野中郁次郎、紺野登(1999)、前掲書、p.173。 22  涌田幸宏(2007)「境界連結を通じた情報技術とコンテクストの構造化プロセス」小松陽一、遠 山暁、原田保編著『組織コンテクストの再構成』中央経済社 p.123。

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コンテクストは文脈や状況、コンテンツは固有の意味や価値を意味している。  コンテクストとは、人々の認知や決定や行動を支える構造的前提、または解釈枠の ことである23。換言すれば、コンテクストとは、ある情報や知識の意味に影響を与える (意味づける)ものであり、コンテンツが有している潜在的な価値を顕在化させる上で 重要な役割を担っていると考えられる。  コンテクストは、コミュニケーション行為において、効率的かつ効果的なコミュニ ケーションを成立させる機能を有しており、「場」において多様な関係者と適切なコミ ュニケーションを展開するためには、コンテクストの共有が必要になる。一方、直接 的なコミュニケーションが伴わない場合においても、コンテクストの共有があれば、 ある一つの情報や知識について同じような意味や価値付けが可能となるのである24  コンテクストには、「コンテクスト表示性」、「コンテクスト再帰性」、「コンテクスト 型式性」の3つの機能がある。コンテクスト表示性とは「ある情報・知識(コンテン ツの意味を解釈する時の枠組み」としての機能、コンテクスト再帰性とは「引き続き 訪れる局面のコンテクストを形成する」機能、コンテクスト型式性とは、「対話者の背 後に存在する関係性、すなわちコミュニケーションに型を与える」機能を有している25 このような3つの機能はいずれもコンテンツ(固有の意味や価値)の認知に関わる機 能である。  このようにコンテクストは、潜在的価値であるコンテンツの価値を顕在化させるた めの装置として機能すると考えられる。コンテクストは、コンテンツの価値を表示性、 再帰性、形式性という3つの機能的な特性を利用して引き出す装置として作動すると 考えられる。つまり、コンテクストのありようによってコンテンツから引き出される 価値は変化すると考えられるのである。このように考えると、コンテクストの転換を 引き起こすことが出来るのかが大きな関心となり得る。 2.3.2.コンテクストの転換  寺本は、コンテクストの転換を企図する場合の対象となる3つのコンテクストとし て、「価値的コンテクスト」、「主体的コンテクスト」、「関係的コンテクスト」を挙げ る。この3つのコンテクストの相互関係については、次のように考えることができる26  主体はそれ自体で孤立して存在するわけではなく、他の主体との関係によって区別 され、識別される。故に、主体は他者との関係性のなかに編みこまれている。関係性 についても、何も存在しないところではそれは成り立たず、主体間の関係性は、それ 23 古賀広志(2007)「情報戦略におけるコンテクスチャルデザインの射程」同上書 p.98。 24 同上書、p.81。 25  寺本義也(2005)『コンテクスト転換のマネジメント―組織ネットワークによる「止揚的融合」 と「共進化」に関する研究』白桃書房 pp.74 75。 26 同上書、pp.79 80。

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自体で存在するというよりも、それぞれの主体の中に編みこまれていると見るべきで あろう。  また、価値についても、その概念には判断基準や評価基準という意味を内包してい るが、同時に、それは主体および主体間の関係を排除したところで、先見的に付与さ れているものではなく、価値の形成には主体と主体間の関係性に関する情報・知識27 深く関わっており、価値もまた、こうした主体と主体間の関係性の中に埋め込まれて いるのである。このように、3つのコンテクストを形成する概念は相即不離の関係で あると考えられる。  寺本は、多様な参加者が既存のコンテクストを共有するだけでなく、さらに進んで 参加の相互作用を通じて、異なるコンテクストを融合し、新たなコンテクストを創造 (止揚的融合)するように働きかけることが重要であるとの考えを示し、野中らの組織 的知識創造プロセスにおいて共有され再定義される動的な文脈としての「場」という 概念とも密接に関連していることを指摘する28  こうしたコンテクストとその転換について原田は、寺本の述べた3つのコンテクス トに「行為」という視点を加え、「価値」のコンテクスト、「主体」のコンテクスト、 「関係」のコンテクスト、「行為」のコンテクストの転換を提示する29。4つのコンテク ストの意味は以下の通りである。  「価値転換」における価値とは、経営理念や企業理念、基本理念を指し、自らの行動 指針となる価値の転換に関わるものであって、組織としての基本的価値を転換するこ とは、自らの行動を変えることを意味する。「主体転換」の主体とは、ある情報や知識 をそれぞれの定義されている主体、当事者である個人や組織体を示し、主体の転換と は、当事者が「変」わる、あるいは「替」わることである。「関係転換」とは、情報や 知識をそれぞれの定義で捉えている主体間の関係付けが変わることを意味する。ある 情報や知識に対するコンテクストが A と B とで異なっている場合には、それは A と 27  寺本は、「情報」と「知識」を明確に峻別している。「情報」とは、個々の情報が必ずしも相互 に関連付けられていないのに対して、知識は他の知識と何らかの形で関連付けられているストッ ク的資産であると位置づける。情報が部分的・局所的であるのに対して、知識は全体的で、世界 的であると考えられている。また、情報は、主体の存在とは関係なく客観的な認識の対象として おかれているのに対し、知識はそれぞれの主体の主体的な認識によって基礎付けられている。以 上のことから、情報の生産や消費には主体の関与が必要とされないのに対して、知識は創造、活 用のプロセスに対して、なんらかの意味において主体が関与する。情報は、目的と手段に関わる ものであるのに対して、知識はその背後にある意味を問うものであるとしている。寺本義也、小 松陽一、福田順子、原田保、水尾順一、清家彰敏、山下正幸(1999)『パワーイノベーション』新 評論 p.12。 28 寺本(2005)、前掲書、p.82。 29  原田保(2010)「基礎理論とモデル概論」戦略研究会編集、原田保、三浦俊彦編著『ブランドデ ザイン戦略』芙蓉書房出版 pp.19 20。

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B の相互の関係がそれぞれのコンテクストを規定することである。「行為転換」とは、 前出の3つのコンテクストの転換が行われた後、主体間の相互作用は従来と全く異な るものとなり、その結果、従来では決して生まれなかったであろう知の創造が行われ、 同時に組織全体の行為も転換される。  以上の4つのコンテクストは、すべて独立して機能するが、相互に影響しあったり、 あるいは複合的に展開されることもあると想定されている。4つのコンテクストが同 時に展開する場合には、マルチレベルのコンテクスト転換と呼ばれるが、行為転換は、 すべてのコンテクスト転換が行われた後に行われるのが一般的現象であると述べられ ている30  また、こうしたコンテクストの転換については、一組織の枠を越えて、社会との関 係性を射程に含めたよりマクロ的な議論の広がりをもつのである。それ故、まちづく り組織のような組織と地域社会との関係におけるコンテクストをも考察することがで きると考えられるのである。 2.4.小括  「暗黙知としての文化ストック」という考えを起点として、地域における断片化、潜 在化された文化の顕在化を企図するため、それらに関連する先行研究として、「SECI モデル」、「場」、「コンテクスト」の理論を参照しその理論的枠組みについて概観して きた。それらの要点をまとめると次のようになるだろう。  SECIモデルは、個人的で主観的な暗黙知を社会的で客観的な形式知に転換するモデ ルであり、4つのモードのスパイラルが活性化されることによって、豊かな暗黙知が 形成され、さらなる知識(価値)創造が期待される。こうした知識創造を活発化する 上で重要となるのが「場」であり、「場」は知識(価値)創造を活発化する際の、触媒 や媒介の役割を果たすものとして考えられ、SECIモデルで示された4つのモードに対 応する形で4つの類型化された場が措定されている。  「場」が触媒や媒介の役割を果たすためには、「場」において人々の個別の理解が、 共感と共通理解へと発展し、さらにそれらが「全体への共通理解」という秩序への収 斂と全体の心理的エネルギーの発生がもたらされることが重要となる。このように、 「場」の参加者は、「場」に持ち込まれたさまざまな関係性や文脈を相互に共有するこ とで、変化していくと考えられている。このように、「場」は、相互作用を通じて他者 と文脈を共有し、その文脈を変化させることによって意味を創出する時空間であり、 知識(価値)創造と密接に関わっていると考えられるのである。  また、価値を顕在化させる上で重要な視点となるのがコンテクストである。コンテ 30  原田保(2010)「基礎理論とモデル概論」戦略研究会編集、原田保、三浦俊彦編著『ブランドデ ザイン戦略』芙蓉書房出版、p.20。

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クストは、ある情報や知識の意味に影響を与える(意味づける)ものであり、潜在的 価値であるコンテンツの価値を顕在化させるための装置として機能すると考えられ る。  従って、潜在的価値の顕在化については、寺本が指摘するように、あるコンテクス トが融合されたり、新たなコンテクストが形成される場合が考えられる。さらには、 原田が指摘するように「価値コンテクスト」、「主体コンテクスト」、「関係コンテクス ト」、「行為コンテクスト」が相互に影響し、あるいは複合的に展開されることで、マ ルチレベルのコンテクストの転換が行われる可能性も有している。こうした、コンテ クストの転換は、一組織のものに限定されるのではなく、社会との関係性を射程に含 めたよりマクロ的な議論の広がりをもつのである。  以上のことをふまえ、次に、文化資源の顕在化に関する具体的な事例を取り上げ、 文化資源の顕在化のダイナミズムを描くことを試みることにしたい。

3.川越市におけるまちづくりの事例

3.1.事例の概要  埼玉県の中央よりやや南に川越市は位置している。同市は江戸時代から明治時代に 商業都市として栄えた土地であり、1457年に川越城が築城され、江戸時代には北の守 りとして重要視された城下町という歴史をもつ。新河岸川の舟運が江戸に通じていた ことから、商人たちは江戸との商いで財を成した。現在、川越市は蔵造りの町並みと して広く知られているが、その背景には、これから述べるように川越市の蔵造りのま ちなみを文化資源として顕在化する営みがみられるのである。2010年の統計によれば、 川越市には600万人の観光客が訪れるという31。1982年の来客数は150万人であったから ことから、蔵造りのまちなみは、30年間の間に4倍の観光客を惹きつけるような顕在 化した文化資源となったと考えられる。 3.2.シグナルの受信と「場」の形成  蔵を中心としたまちづくりが展開される端緒となったのは、1972年に明治時代に煙 草卸売商旧小山家(旧「万文」と呼ばれていた蔵造り)の建物を取り壊そうとする動 きが見られ、これに対して、住民の間から蔵造りを残して欲しいとする要望が寄せら れ、結果的には川越市が買い取って蔵造り資料館として再生されることになり、これ が川越における蔵造り保存の先駆的活動となった。  蔵造りの町が形成された背景としては、1893年に、実に町の全戸数の三分の一以上 を焼失するという大惨事を経験した。当時の東京ではレンガ等を用いた近代的耐火建 31 川越市観光課による川越市入込観光客数の推移を参照。

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築が既に造られていたが、川越は大火の経験において、耐火性に優れた土蔵が見直さ れたため、蔵造りの町並みが形成されていくことになった。そして、この蔵は倉庫と して用いられたのではなく、「店蔵(見世蔵)32」として使われ続けたことが大きな特徴 であり、蔵は川越の住民の生活に密接に関わるものであり川越のアイデンティティと もいえるものであった。  しかしながら、1960年代から1970年代の高度経済成長期においては、蔵造りに対す る評価は「古くて使いづらい」というものであった。時おりしも、急速に生活様式が 合理化、機能化していく過渡期であり、蔵造りの町並みは市民の生活の場から乖離し つつあり、市民にとっての蔵造りの町並みの価値は潜在化あるいは分断化しつつあっ たと考えることができる。  一方で、1971年には、1792年に建築された川越でもっとも古い蔵造り商家である大 沢家住宅が、国の重要文化財の指定を受けており、蔵造りの文化財としての積極的な 評価が行われてもいる。ところが、それは決してメインストリームではなく、蔵の存 在は前近代の古い思い出となりつつあったのであり、川越にとっての蔵造りのもつ意 味、存在意義が問われる状況にあった。  川越のまちづくりの指導的役割を果たしている可児一男氏によれば、1970年代は、 蔵は生活にける不便性や洋風建築を建てる風潮等を背景として、蔵の持ち主が変わっ たり、代替わりする際に蔵の取り壊しが行われ、以前に比べて半数以上がその姿を消 したという。また、その要因として可児氏は、当時の人々が蔵が特別なものだとは思 っておらず、その重要性に気づいていなかったのではないかと振り返っている33。可児 氏はこうした、昔ながらの蔵が姿を消していくことを容認する態度に危機感を抱いた 一人であり、風前の灯である蔵造りの町並みという現実からシグナルを強く感受した 人物だったのである。  1970年代は、商店街の衰退やマンション建設がなされるという状況の中で、専門家 による町並み保存の提言や、地元有志、青年会議所による保存運動が行われており34 蔵造りの街並みの危機というシグナルを感じ取った人々が、その思いを共有して行動 を起こすべく「場」の形成を試みることになる。  「場」の形成に先立って、1981年に川越市は16件の蔵造りを文化財として指定し、川 越市はその取り組みを紹介する番組を作成した。この番組は、全国各地から集められ た各地域の取り組みの映像を集める「地方の時代映像祭」にて、受賞するという栄誉 32 住居と店舗を兼ねた蔵のこと。 33 同上論文、p.4。 34  澤崎貴則、藤井聡、羽鳥剛史、長谷川大貴(2012)「『川越まちづくり』の物語描写研究―町並 み保存に向けたまちづくり実践とその解釈―」『土木学会論文集 F5(土木技術者実践)』Vol.68、 No.1、1 15、p.2。

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に浴すことになる。これらを契機として蔵造りに対する市民の関心が高まり、修復や 再利用に対する問題意識が徐々にではあるが芽生えはじめていったと考えられる。  また、「地方の時代映像祭」はもう一つの意図せざる結果をもたらすことになる。そ れは受賞とともに送られた賞金を蔵の保存に取り組んできた住民に還元するために、 その受け皿となる組織の結成が課題としてもちあがったのである。かくして、1983年 に住民を主体としたまちづくりや商店街活性化による景観保存を目指して、「川越蔵の 会(以下蔵の会)」が、商店街と周辺地区の若手4人を核として結成されたのである。  蔵の会は、「住民が主体となった町づくり、商業の活性化による町並み保存」を目的 (アジェンダ)に住民だけでなく広く市民や専門家などが集まり、⑴住民が主体となっ た町づくり、⑵北部商店街の活性化による景観保存、⑶町並み保存のための財団形成 という3つの目標を掲げている。  蔵の会の発足は、商店街の若手が、自分たちの力の限界を感じつつ、外部からさま ざまな人を巻き込むねらいがあった。蔵の会には、蔵造りの町並みに関心を寄せる専 門家、行政職員、一番街商店街の店主、主婦、市内外の人々が会員として集っている。 その中心的人物が、蔵の会の初代会長となった可児一男氏、川越市役所に勤務してい た植松久生氏、まちづくり専門家である福川裕一氏、都市計画の専門家である佐々木 政雄氏である。  蔵の会では、勉強会が開催され、ブレーンストーミングが行われ、町並みを実際に 見学に行き、現地を視察するなど可児氏が精力的に活躍し、そのような活動を積み重 ねる中で自然と仲間が出来、熱心にお互いに言いたいことを言い合うような活発な雰 囲気があったという35。このようなことから、蔵造りを起点としたまちづくりを構想す る場として、「創発場(共同化)」の段階から「対話場(表出化)」の段階へと場が変化 してきたと考えることができよう。 3.3.「場」の連鎖的形成  「場」を次の展開へと導く契機となったのが、中小企業庁によるモデル事業「コミュ ニティマート構想」であった。川越一番街商業協同組合がエントリーすることになり、 「川越一番街活性化モデル事業調査」が実施され、商店街がまちづくりの実践者となっ ていく大きな契機となった。蔵の会は、一番街商店街に対してまちづくり活動への取 り組みを助言し、一番街商店街のまちづくりの動きを本格的なものにする上で重要な 役割を担った。  コミュニティマート構想については可児氏が強い関心を抱き、地元代議士に相談し、 通産省の大臣室に足を運んで事業の採択を訴えた。その結果、通産省中小企業庁から トップダウンで埼玉県庁を経て川越市役所に伝わることを通じて、各種の調整が図ら 35 澤崎貴則、藤井聡、羽鳥剛史、長谷川大貴(2012)、前掲論文、p.4。

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れることによって、最終的に事業決定に至った36  「コミュニティマート構想」を契機として、1987年に一番街商業協同組合の下部組織 として「川越一番街商店街町並み委員会(以下町並み委員会)」が設立された。これに 先立ち、一番商店街の各組合員によって「まちづくり規範に関する協定書」を締結し、 町並み委員会を設置すること、委員会は町づくり規範を定めること、町づくりに関す る行為を行う場合は規範を尊重し、早い段階で委員会に届出て協議すべきこと等が定 められた。  町並み委員会には、一番街商店街から理事長を含む10名、都市計画などの研究者4 名、自治会長と蔵の会代表を含む地元代表7名の合計21名からなり、オブザーバーと して川越市の関連室課と商工会議所が参加した。町並み委員会は次に述べる「町づく り規範」に対する住民の自主的な審査組織として機能し、改装計画の相談を受け、規 範に基づき助言・指導を行い、それに従った改装に埼玉県の高度化資金融資と市・県 の観光市街地形成事業補助金が出る仕組みを整えた。  町並み委員会は、町づくりのルールのあり方を検討した結果67項目から成る「町づ くり規範」を作成した。内容は、都市と建物に分類され、都市分野は「固有な都市・ 川越」、「職住一体」、「身近にみどり」、建築分野は「高さは周囲を見てきめる」、「主要 な棟や建物が目立つように」、「材料は自然的素材、地場産を優先」などさまざまな項 目があり、周囲との調和を尊重した提案型の規範になっている37  こうした規範の実効性については、「建造物を新築・改築する際には、蔵造りの町並 みに合致した建物にしないと、地域社会で暮らしていけないといったような風潮が生 まれてきた38」と述べられているように地域において少なくない影響力をもっていたと いえそうである。川越市は当時、景観条例の制定が実現できておらず、町並みにあわ せた改装を浸透させるインセンティブを生み出すことによって、景観破壊を防いでき たことの意義は大きいといわなければならない。  一番街商店街の取り組みは近くの銀座通り商店街にも波及し、1994年に銀座通り商 店街では町並み委員会の活動をモデルとして「大正浪漫委員会」が設置された。銀座 通り商店街は、かつてアーケードが商店街のシンボルであったがそれを撤去し大正期 の建造物群を活用した商店街づくりに着手した。2001年には大正浪漫夢通りが完成し、 新たな歴史をスタートさせた。通りには、国の登録有形文化財である川越商工会議所、 アーチ型天井をもついせや、観音扉が特徴的な蔵造りのお店小饅寿本舗等の魅力ある 36 澤崎貴則、藤井聡、羽鳥剛史、長谷川大貴(2012)、前掲論文、p.4。 37  川越一番街商店街ホームページを参照。URL:http://www.kawagoe.com/ichibangai/story/story_03. html 38  溝尾良隆、菅原由美子(2000)「川越一番街商店街地域における商業振興と町並み保全」人文地 理学会編『人文地理』52号3巻人文地理学会 p.313。

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歴史建造物が点在し、まちの空間に彩を添えている。  また、近くに菓子屋横丁がある。ここはもともと養寿院の門前町として栄えていた 地に、明治の初めに菓子職人が店を構え、その弟子たちが暖簾わけすることで徐々に 菓子屋街が形成され、最盛期には70軒ものお店が軒を連ねていた場所である。現在で は20軒ほどが独特の雰囲気を醸し出し、川越のまちの魅力を一層豊かなものにしてい る。  さて、こうした動きを「場」の視点からとらえてみたい。まず、コミュニティーアー ト構想が機縁となって、一番街商店街に多様な人々が集う「場」としての町並み委員 会が形成された。町並み委員会が結成される以前、1年間をかけて「川越一番街商店 街活性化モデル事業調査」が実施され、これによって、時間をかけて組合員の意見を 聞き取り、まちづくり規範の作成とそれに基づく個店の整備、ポケットパーク整備や 各施設整備などが提言された。  一番街商店街の「場」は、意見を交換する「対話場」にとどまらず、さまざまな意 見を聞き取りながら、それらを共有、編集するような「システム場」として機能して いたといえる。こうした場の展開において、場の共通理解が形成されるとともに共感 する心理的エネルギーも高まっていったと考えられる。最終的には、さまざまなコン セプトを体系的にまとめた「町づくり規範」に収束したのである。これは、その「場」 から統合的に現れた有力な全体的理解の象徴であるといえよう。  また、この「町づくり規範」はあくまでも誘導策であって、規制的な規範でなかっ たことから、「場」の心理的エネルギーがそがれることを回避するという側面も持ち合 わせていたと考えることができる。「町づくり規範」はよく機能しており、町並み委員 会の要請が尊重され、景観に対する配慮とそれに対する行動を伴うという意味におい て実践的な側面も有していたのである。「まちづくり規範」は、町並みの建築物に関わ る一人一人の、町並みの保全と改善に向けた協力的な行動を促すことに大きな貢献を したのである39。この規範について近隣の3商店街も同様のものを制定している40  こうした実践は、結果として直接的に蔵が失われることを防ぐのみならず、蔵のあ る景観が醸し出す独特の雰囲気が損なわれたりすることを防ぐことにつながった。こ うしたことは、川越のアイデンティティが継承されることにもつながる事を意味し、 暗黙知の継承や形成につながっていくと考えられる。  また、蔵の会という「場」の形成に深く関わった可児氏が、一番街商店街の活動の 「場」に関わったという点に着目すれば、蔵造りの街並みの危機というシグナルを感じ 39 澤崎貴則、藤井聡、羽鳥剛史、長谷川大貴(2012)、前掲論文、p.7。 40  伊藤修一郎(2005)「景観政策形成過程における住民組織の役割―竹富島と川越一番街を題材 に―」『公共政策研究』第5号 p.17。

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取り、それらの重要性を喚起するというアジェンダに対する共感的理解が成立した 「場」が、町並み委員会の「場」であるといえるだろう。可児氏の心理的エネルギーが 蔵の会にとどまらず町並み委員会にも伝播し、そのエネルギーが周囲の人々に共感的 な相互作用をもたらし、文脈の共有化に有効に機能したと考えられる。 3.4.「場」の共振的関係の形成  さて、今まで述べてきたように町並み保存に向けたまちづくりを推進する「場」と して、蔵の会と町並み委員会が立ち上がり、川越に関わる人々の主体的な活動が活性 化し、蔵造りの町並みを核としたまちづくりの機運が高まりをみせてきた。1988年に は川越市は都市景観条例を制定し、1989年4月から施行される予定であったが、その 直前に高層マンション建築に関する申請が4件提出されたことによって、都市景観審 議委員が都市景観の創造に協力を求める緊急アピールを表明する事態になった。  この条例による建築抑制策の要は、都市景観形成地域を行政が指定することで、建 築行為について行政指導を行うことであるが、都市景観形成地域の指定については地 元の理解を得ることができずに懸案事項として残された。この背景には、商店街、学 識者、コンサルタントが中心となって計画を主導したこと41等が住民の不信感につなが ったことが指摘されている。この時点では、心理的エネルギーの共有化はなされてお らず反目し合う関係であり、「場」が地元住民から乖離しているような状況であったと 考えられる。  1990年代に入り、電線の地中化作業が始まると、1993年には自主的なまちづくり案 を提示することを目指して旧城下町エリアの11自治会による「十カ町会」という新し い「場」が結成された。蔵造りが多く残る一番街通り沿いだけでなく、その周辺自治 会が集まり勉強会が開かれ、こうした契機を通して伝統的建造物の保存に対する理解 が深まり、十カ町会から伝統的建造物群保存地の要望書が提出された。十カ町会は、 暗黙知を共有し、それを要望書という形式的な知として表出する場として機能したと 考えられる。  これを受けて、市や省庁間での調整や議論が様々に重ねられ、1999年には一番街の 周辺の蔵造りの町並みが「伝統的建造物群保存地区(伝建地区)に指定され、国の「重 要伝統的建造物保存地区」に選定される42。1975年に伝建制度が創設されて以来、地元 住民との合意が得られなかったことを鑑みれば、合意の成立は川越市にとっての悲願 であったといえよう。 41  岡崎篤行、原科幸彦(1994)「歴史的町並みを活かしたまちづくりのプロセスにおける合意形成 に関する事例研究―川越一番街商店街周辺地区を対象として」『第29回日本都市計画学会学術研究 論文集』p.702。 42  澤崎貴則、藤井聡、羽鳥剛史、長谷川大貴(2011)「『川越交通まちづくり』の物語描写研究― 交通問題解決に向けたまちづくり実践とその解釈―」『土木計画学研究』p.4。

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 十カ町会の活動を述べると、「町並み景観検討委員会」を設置し、住民主導で指定地 区の範囲を決定することを目指してアンケートを実施するなど活発に活動した。この ような活動を通して、十カ町会という「場」においてまちづくりに対する住民の意識 を把握することで、そのあり方を体系立てていく連結化が促進するとともに、問題意 識の共同化と表出化が活発になったと考えられる。  再び高層マンションの建設計画が相次いだ1990年代には、行政が地元の協議が難航 する中でイニシアティブを発揮でいないでいる一方、十カ町会、一番街商店街及び町 並み委員会が伝建指定の要望書を市に提出し、十カ町会が2,900名の署名を集めマンシ ョン建設反対の要望書を提出するなど、それぞれの「場」において、暗黙知が形式知 に転換されその形式知が連結化される動きが見られたのである。このように、活発的 な「場」が複数形成され、かつ、それぞれが相互に刺激や影響を与えるような状況が 見られたのである。  行政サイドにおいても新たな「場」が形成された。その「場」とは、企画財政部企 画課内に伝建担当職員2名、都市計画課文化財保護課の3課による7名のプロジェク トチームが組織され、チームは2名1組の3班体制で指定が予定される範囲を一軒ず つ周りながら住民の意向を確認するなどの活動を展開した。このチームは市長の強い イニシアティヴが働いており、市長が説明会に参加したり、自治会や商店街、町並み 委員会などの関係者を市長室に集めて説得に努めるなどして合意形成に奔走したので ある。  行政にクロスファンクショナルなプロジェクトチームという「場」が、市長のイニ シアティブの下に形成されたということは、縦割り傾向の強い行政体質において、各 セクション内部の「知」が交流する上で効果的な選択であったと考えられる。伝建地 区の指定のためには、文化行政や都市計画行政と接点を持たざるを得ない。このよう な意味で、プロジェクトチームは、各セクションの有している暗黙知を形式知へと転 換するような活発な「場」として機能していたと考えられる。  また、こうした「場」において市長のイニシアティブは有力な全体理解の台頭を推 進する上で大きな役割を果たし、行政組織における心理的共振を高める作用をもたら したと考えられる。そして、こうした市長の積極的な姿勢は地域住民に好意的に受け 止められた43ようである。市長の積極的な行動は市民との対話場を地域に多数形成しつ つ協力関係を構築し、行政と市民との対話を通じて形式知を相互に共有することに繋 がっていったと考えられる。  こうした対話によって川越の地に蔵造りの町並みの価値に対する共通理解、また、 市民や行政における心理的エネルギーが共有されることによって伝建地域の指定とい 43 伊藤修一郎(2005)、前掲論文、p.19。

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う制度的秩序へ向けた収斂が可能になったと考えられる。これ以降、行政と市民団体 の協働によるまちづくりの動きが一層展開されていく。  2002年には蔵の会はNPO法人となり、地元自治会や地元商店街、川越唐桟愛好会と の協働により「旧川越織物市場の保存再生を考える会」を立ち上げて、2001年12月か ら2002年1月に保存運動を展開し2002年11月に保存決定へと導いた。その後、保存活 用の検討組織として「旧川越織物市場の保存再生の会」を立ち上げ、川越市との協働 により検討を行い、2003年8月に保存計画案を市長に提出している44  2004年には、鏡山酒造跡地の蔵の活用について検討を行い、3月に報告書をまとめ ている。地元酒造会社である鏡山酒造の跡地には、明治、大正、昭和初期に建てられ た大蔵3棟が現存する。2010年10月から指定管理者である「まちづくり川越」が、産 業観光館(「小江戸蔵里」)として向こう10年間の運営を任されることになった45。この 他、2011年6月8日には、川越市の「川越市歴史的風致維持向上計画」が国から認定 されている。  以上のように、開発圧力によって風前の灯となりかけた蔵造りの町並みの保全をア ジェンダとした活発な「場」が連鎖的に形成され、市民や行政の有している暗黙知を 形式知に変換する際の触媒や媒介として機能したと考えられる。  つまり、「場」で共有された関係性や文脈が周囲の商店街や市民などにも伝播しなが ら相互の場が触発しつつ展開されたのであり、アジェンダや心理的共感が広範に共有 されることでアジェンダにむけた行動が誘発され、蔵造りの価値を軸にすえた秩序へ と収斂していったと考えられる。  このように、川越市の様々な「場」が相互に緩やかに繋がりつつ、全体を包括する ようなマクロ的「場」が徐々に形成され、場のメンバーの「個」と場の「全体」とを 結ぶミクロマクロループが働き共通理解と心理的共振が同時に達成され得る状況が形 成されたと考えられるのである。 3.5.コンテクスト転換の視点  ここでは前項の「場」の議論を踏まえつつ、川越市の蔵造りのまちづくりを4つの コンテクストの転換、すなわち「価値転換」、「主体転換」、「関係転換」、「行為転換」 の視点からとらえることにする。  「価値転換」とは、自らの行動指針となる価値の転換に関わるものである。川越の場 合、価値の是非をめぐる対象は蔵造りの町並みであり、可児氏が述懐するように1970 年代の蔵の価値は、生活において不便なものであり、洋風建築が時代の流行となる中 で過去の遺物になりつつあり、持ち主が変わる際や代替わりする際に取り壊され、現 44 NPO 法人蔵の会ホームページを参照。URL:http://www.kuranokai.org/home.html 45 川越市(2010)『広報川越 No.1214』p.4。

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存する蔵の半数以上がその姿を消した。その背景には、当時の川越の人々が蔵の存在 に特別な価値を見出していなかったことが挙げられる。  一方で、こうした事態を受けて蔵の価値を積極的にとらえ、破壊に対して保存とい う新たな行動指針を掲げる行政や市民の動きがみられるようになる。行政は、破壊の 危機にさらされる蔵に対して、蔵を文化財として指定することで蔵は破壊されること が許容される無価値な対象ではなく、保存されるべき価値を有する対象であるという ことを示した。これは蔵に対する破壊圧力が高まる中において、新たな行動指針とな る価値の提出であると位置づけることができる。  しかし、行政だけではなく、市民側も可児氏が中心となって蔵の会を設立し、自主 的な勉強会や現地視察などを通して蔵の持つ魅力や重要性といった価値を模索し、蔵 によるまちづくりの確信を深める実践が積み重ねられている。こうした動きは、その 後の一番街商店街の町並み委員会による「町づくり規範」の作成への大きな布石とな っていることからも、市民によって新たな行動指針となる価値の提出(価値ある蔵の 保存)が行われ、価値転換を方向付けるメルクマールとなったと考えられる。  「主体転換」とは、当事者が「変」わる、あるいは「替」わるということである。蔵 の保存のような場合、いうまでもなく、まず蔵の所有者が蔵の保存に対して協力的で あることが必要であり、蔵の価値を高めたり損ねたりしないためには、その周囲の住 民の協力も不可避的な要素であるといえる。  川越市の役人であった植松氏によれば、実は蔵の保存を訴えていたのは主に蔵の周 辺部あるいは外部の文化財保存派の人々であり、実際に蔵に住む地元商店主は保存運 動に参加しなかったという。ところが、こうした状況は外部の人々からの働きかけに よって少しずつ変化し、外部の思いに対して川越の地元の人々が反応し、徐々に住民 側も蔵の価値を見直すことで蔵を保存しなければならないという認識が住民の間でも 共有されるようになったのだという46  川越の場合、価値転換を導く「場」が多様に展開することで、主体転換が連鎖的に 地域に波及したことが重要であると考えられる。地域内にアジェンダを共有する場が 多数形成されることによって、地域以内にシナジーが発揮されやすい環境を徐々に形 成したと考えられる。つまり、コンテクストの転換が一組織を越えて、社会との関係 においてコンテクストの共有が進んでいたと考えられる。  こうした「主体転換」は、「関係転換」をもたらす前提条件となったと思われる。つ まり、市民や行政において蔵に価値を見出そうとする文脈を共有する人々が増えるこ とで相互の関係性に変化が生じたと考えられるのである。  1975年に文化財保護法が制定され伝統的建築物群保存地区の制度がスタートする 46 澤崎貴則、藤井聡、羽鳥剛史、長谷川大貴(2012)、前掲論文、p.5。

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と、川越市でも保存地区指定に向けての調査が行われた。当時は、青年会議所が蔵造 りを生かしたまちづくりをテーマにシンポジウムを開催し、1974年には日本建築学会 関東支部が川越をテーマとしたシンポジウムを開催し、こうしたことが契機となって 研究者や建築家など川越外部の応援団が結成される契機となったが、肝心の商店街は、 建物を凍結保存するような印象で看板も立てられなくなるという不安もあり、また、 蔵で人が呼べるようなことが出来るとも思っていなかったということもあって47、川越 市民と行政・外部者との間には大きな隔たりが存在し、協調的な関係であるとは言い 難いものであった。  しかし、蔵の会、町並み委員会、一番街商店街周辺の商店街における「場」の形成 と実践の積み重ねによって、市民の間で広く蔵造りの町並みに対する価値が共有され ていく。さらに、市長自身や市長のイニシアティヴによって結成されたプロジェクト チームのメンバーが地域に深く入り込むことによって、共通理解の促進や心理的なエ ネルギーの共有がもたらされ、専門家と川越市民、川越市民と外部者の関係、市民と 行政といった垣根が徐々に取り払われて協調的な関係に転換したと考えられる。  24年間にわたる懸案であった伝建地区の指定は関係転換によってはじめて可能とな ったのであり、行政にとって地域住民は政策の方針に従うべきという主従関係にあっ たのではなく、政策推進に欠かせない重要なパートナーとして位置づけられたと考え られる。このように、行政と地域住民の関係は、コンテクストを協調的に規定する関 係に転換されたと考えることができる。  「行為転換」とは、主体間の相互作用が従来のものとは全く異なったものとなり、そ の結果、従来では決して生まれなかったであろう知の創造が行われ、同時に組織全体 の行為も転換されることである。こうした転換は、前出の「価値」、「主体」、「関係」、 それぞれのコンテクストの転換によって最終的に引き起こされると考えられている。  川越の場合、協調的関係になかった市民や行政間に協働が見られるようになったと いう意味においては主体間の相互の関係は異なったものであり、こうした関係の展開 によって協働による新しい価値の創造が行われるようになってきていると考えられ る。  例えば、「旧川越織物市場の保存再生の会」と川越市との協働による保存計画案を市 長に提出する動きや鏡山酒造の活用について検討を重ね、指定管理者による「小江戸 蔵里」の運営などが見られ、市民と行政が相互にパートナーシップを組みながら川越 のさらなる価値創造に取り組んでいるといえるだろう。実践行動は建物の保存にとど まらず、それらを活用してあらたなまちの魅力(価値)づくりが積極的に試みられて いるのである。 47 財団法人北海道開発協会(2003)『開発こうほう』財団法人北海道開発協会 p.20。

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 2011年に川越市の「川越市歴史的風致維持向上計画」が国から認定されたことは、 ここで改めて指摘するまでもなく種々の活動の蓄積によることは疑いない。歴史的風 致とは、「地域におけるその固有の歴史及び伝統を反映した人々の活動と、その活動が 行われる歴史上価値の高い建造物及びその周辺の市街地とが一体となって形成してき た良好な市街地の環境」と定義(第1条)される。こうした定義を踏まえるならば、 川越は蔵造りの価値を中心としてそれらの価値をより高めるための諸活動との間にお いて親和性や調和性が高まり、大きな秩序として収斂化されてきたと考えられる。  その背景には、川越において形成された多様な「場」を通じて多様な主体が相互に 結びつけられ、そこにおいて、互いに共鳴し共感できる普遍性のある価値観が共有さ れる状況が発生したと考えられる。さらに、共有された価値観に基づいた多様な実践 行動が展開される地域に変化したのである。  以上のように川越市の場合、「価値転換」、「主体転換」、「関係転換」、「行為転換」の 4つのコンテクストの転換が起こり、川越市においてマルチレベルのコンテクスト転 換が行われたと考えられる。すなわち、それぞれの組織によるミクロレベルのコンテ クスト転換が地域におけるマクロレベルのコンテクスト転換に結びついた事例である と考えられる。

4.結語

 地域における文化ストックや文化資源の利活用による地域再生や地域活性化に関す る関心が高まりつつあるものの、その成果がなかなか得られないという状況がある。 そして、その背景に文化を育み更新するベースとなる社会的環境の脆弱さという問題 を提起した。  本稿では、文化資源の活用を展望する場合、その文化的価値それ自体を独自に論じ るということだけでは十分ではなく、その価値を社会関係との中で捉える視点が必要 とされるという立場から、潜在化ないし分断化されて久しいような文化資源やそうし た状況が進行中であるような文化資源については、その顕在化や統合化にむけた何ら かの社会的関与が必要であるとの仮説を立てた。  そこで、「暗黙知としての文化ストック」を考察の起点として、暗黙知を形式知へと 転換する「SECI モデル」、そのプロセスを活発化する触媒や媒介の役割を担う「場」 の理論、「場」における相互作用によって共有、あるいは変化する「コンテクスト」の 視点を分析枠組みとして設定し、文化資源の顕在化と地域のダイナミズムについて描 き出すことを試みた。  川越市の事例においては、急速に失われる蔵づくりの町並みに対する危機という強 いシグナルを感じ取った可児氏のイニシアティヴにより、住民や専門家等から成る蔵

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の会という「場」が形成された。それ以降、潜在化しつつある蔵造りの町並みの価値 を顕在化しようとする具体的な動きが活発となりアジェンダを共有し得る「場」が地 域に連鎖的に形成された。  そして、ミクロ的な場の緩やかなつながりにより、それぞれの「場」におけるSECI プロセスが活性化し、またそれが相互作用することによって、心理的エネルギーの伝 播や全体の共通理解の形成が促進されたと考えられる。その結果、蔵造りの町並みの 価値を中心とした大きな秩序への収斂化がみられたのであり、こうした状況は、川越 においてマクロ的な「場」が徐々に形成されたとみることができると思われる。  一方で、「場」は相互作用を通じて他者との文脈(コンテクスト)を通じて他者と文 脈を共有し、その文脈を変化させることによって意味を創出する時空間であることか ら、潜在的な価値を顕在化するためには「場」の形成にとどまらず、「場」の相互作用 を通じてコンテクストを転換する視点が重要であった。川越の場合、前述のような 「場」の活性化によって、「価値コンテクスト」、「主体コンテクスト」、「関係コンテク スト」、「行為コンテクスト」という4つのコンテクストの転換が引き起こされたので ある。  以上のように、潜在的な文化資源の顕在化と社会関係については、「場」の形成によ る社会関係の形成や再編成、それによって引き起こされる「場」における SECI プロ セスの活性化、その活性化からもたらされるコンテクストの転換という点において、 社会が文化資源の顕在化のダイナミックなプロセスに関わり得ることが示された。  このような一応の結果を踏まえるならば、地域における文化ストックや文化資源の 利活用による地域再生や地域活性化に関する関心が高まりつつあるものの、その成果 がなかなか得られない要因として、「場」の形成、「場」の活性化、「場」の相互作用を 通じたコンテクストの転換という視点から考察することができると考えられる。  しかしながら、本稿で扱われたのは川越市の事例のみであることから、本稿の理論 的分析枠組みの有効性および理論の精緻化に向けて、さらなる実証研究の蓄積が今後 の課題として残されたといわなければならない。 参考文献 [1] 伊藤裕夫(2008)「地域文化資源と文化マネジメント―富山の事例からの考察」 井口貢編著『入門文化政策―地域の文化を創るということ』ミネルヴァ書房 [2]伊丹敬之(1993)「場のマネジメント序説」『組織科学第26巻1号』組織学会 [3]伊丹敬之(1999)『場のマネジメント』NTT 出版 [4]伊丹敬之(2005)『場の論理とマネジメント』東洋経済新報社 [5] 伊藤修一郎(2005)「景観政策形成過程における住民組織の役割―竹富島と川越 一番街を題材に―」『公共政策研究』第5号

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[6] 岡崎篤行、原科幸彦(1994)「歴史的町並みを活かしたまちづくりのプロセスに おける合意形成に関する事例研究―川越一番街商店街周辺地区を対象として」 『第29回日本都市計画学会学術研究論文集』 [7]川越市(2010)『広報川越 No.1214』 [8] 古賀広志(2007)「情報戦略におけるコンテクスチャルデザインの射程」小松陽 一、遠山暁、原田保編著『組織コンテクストの再構成』中央経済社 [9]財団法人北海道開発協会(2003)『開発こうほう』財団法人北海道開発協会 [10] 澤崎貴則、藤井聡、羽鳥剛史、長谷川大貴(2012)「『川越まちづくり』の物語描 写研究―町並み保存に向けたまちづくり実践とその解釈―」『土木学会論文集F5 (土木技術者実践)』Vol.68、No.1、1 15 [11] 澤崎貴則、藤井聡、羽鳥剛史、長谷川大貴(2011)「『川越交通まちづくり』の物 語描写研究―交通問題解決に向けたまちづくり実践とその解釈―」『土木計画学 研究』 [12] 立見淳哉(2008)「産業論・環境論と創造都市⑵」塩沢由典、小長谷一之編著『ま ちづくりと創造都市―基礎と応用』晃洋書房 [13] 寺本義也(2005)『コンテクスト転換のマネジメント―組織ネットワークによる 「止揚的融合」と「共進化」に関する研究』白桃書房 [14] 寺本義也、小松陽一、福田順子、原田保、水尾順一、清家彰敏、山下正幸(1999) 『パワーイノベーション』新評論 [15] 野中郁次郎、遠山亮子、平田透(2010)『流れを経営する―持続的イノベーショ ン企業の動態理論―』東洋経済新報社 [16]野中郁次郎(1985)『企業進化論』日本経済新聞社 [17] 野中郁次郎、紺野登(2000)「場の動態と知識創造―ダイナミクスな組織知に向 けて―」伊丹敬之、野中郁次郎、西口敏宏編著『場のダイナミズムと企業』東洋 経済新報社 [18] 野中郁次郎、遠山亮子、紺野登(1999)「『知識創造企業再訪問』」『組織科学』第 33巻第1号 [19]野中郁次郎、紺野登(1999)『知識経営のすすめ』株式会社精興社 [20]野中郁次郎、竹内弘高、梅本勝博訳(1996)『知識創造企業』東洋経済新報社 [21] 原田保(2010)「基礎理論とモデル概論」戦略研究会編集、原田保、三浦俊彦編 著『ブランドデザイン戦略』芙蓉書房出版 [22] 溝尾良隆、菅原由美子(2000)「川越一番街商店街地域における商業振興と町並 み保全」人文地理学会編『人文地理』52号3巻人文地理学会 [23] 涌田幸宏(2007)「境界連結を通じた情報技術とコンテクストの構造化プロセス」 小松陽一、遠山暁、原田保編著『組織コンテクストの再構成』中央経済社

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参照 URL

[1]川越一番街商店街ホームページ

   URL:http://www.kawagoe.com/ichibangai/story/story_03.html [2]NPO 法人蔵の会ホームページ

参照

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