− 秩 父 教 会 皆 野 支 部 に お け る 事 例 一
津 田 晃 成
l は じ め に 2 対 象 地 域 に お け る 教 勢 の 伸 展 過 程 3 導 き の 親 子 関 係 と 地 域 4 ま と め に か え て 1 . は じ め に ① 研 究 目 的 と 方 法 本会における教勢が、導きの親子関係を基軸として、会員の信仰の深ま りとともに一定の地域社会を背景に根をおろし、点から面へと発展し、そ こに道場を中心とした教会活動が展開されてきていることはあらためて指 摘 す る ま で も な い 。 そ し て こ の 信 仰 の 伝 播 お よ び 継 承 、 継 受 が ど の よ う に 行われてきたか、特に血縁、地縁、朋友関係やその他の結合機縁がご法の 伝 播 に ど の よ う に 作 用 し て き た か を 具 体 的 に 検 証 し て み よ う と し た も の が、本研究の主眼である。 こ の た め 分 析 手 続 に つ い て は 、 二 つ の 方 法 を 用 い た 。 ま ず 、 信 仰 の 伝 播 とその間の関係を知るために、予め教会の保有する会員カードから導きの 親 を 名 寄 せ し 、 導 き の 系 譜 図 を 作 成 す る と と も に 、 所 定 の 調 査 項 目 に 基 づ いてのヒヤリングを実施し、実際に導きをした導きの親と子の関係がどの よ う な 社 会 的 つ な が り を 持 つ も の で あ る か を 明 ら か に す る こ と を 試 み た 。 第 二 に 、 こ れ ら の 人 有 の 生 活 、 信 仰 関 係 の 実 態 を 知 る こ と に 努 め 、 実 際 rr)ワ、 、 ム イ ノにヒヤリングにおいて「親族関係」の実態を知ることからご法の伝播の導 筋を明らかにしようとしたものである。そこで、調査対象者の夫婦のダイ アドをEgo(エゴ)として、このEgoを中心とする親族関係のキンシッフ・ ダイヤグラムをヒヤリングにおいて作成し、そこに「導きの親子関係」を 記録することに努めた。そして、入会から現在に至るまでの生活=信仰の 記録をまとめ、そこに作用している一般的あるいは共通の特徴を把握し、 そ れ が 現 在 の 教 会 活 動 に い か に 機 能 し て い る の か を 測 定 し よ う と し た 。 さ らに、対象者と親類関係にな↓、人々がどのような結合契機で結縁を得たか をたずね、総合的に判断しようと試みたのである。 ところで、ここに「親類関係」というのは法律上の意味で用いるのでは なく、血縁関係と出自関係および婚姻関係によって結ばれていると自他と も に 認 知 し て い る 人 々 の グ ル ー プ な い し 集 合 体 を 意 味 し て 用 い て い る 。 厳 密な意味で、「親類関係」の範囲を定義するためには一定社会の親族体系を 明らかにする社会学的あるいは人類学的な調査の結果を待たねばならない であろう。ここでは、対象者が親類あるいは親戚と認知し、一定の権利や 義務の役割期待や交誼、情緒関係を持ったもので、具体的には対象者の親 子関係、夫婦関係を媒介にして拡大された関係の一定の範囲を指して用い たものである。 ②調査対象地域と選定理由 本 研 究 の 調 査 対 象 と し た 地 域 は 、 立 正 佼 成 会 岡 崎 教 会 お よ び 秩 父 教 会 で ある。この両教会とも昭和57年、60年にそれぞれ「会員世帯の世帯構成と 信仰繊承に関する実証的研究」「高齢者会員と世帯に関する研究」という大 量観察法による調査を行い、ともに報告書を刊行し、また本誌第12号、l畠 号にもその報告をさせていただいている。しかしながら、これら量的観察 で は 、 会 員 世 帯 の 家 族 関 係 や 親 族 関 係 等 の 平 面 的 な 側 面 は 把 握 で き て も 、 立体的な生活像の解明はこの調査方法の限界であって、質的な観察を伴っ (28)
換 言 す れ ば 、 会 員 世 帯 が い か な る 時 代 的 背 景 の も と で 、 一 定 の 地 域 社 会 関 係や家族・親関係および職業生活の中にあって、いかなる導きの機縁をもっ て入会し、そして生活即信仰の指導のもとに、どんな思いで修行なされて き た か と い う 実 践 的 課 題 を 世 帯 構 成 員 の 個 々 の 問 題 と 関 連 さ せ な が ら 総 合 的 に 理 解 し て い く た め に は 、 上 記 調 査 と 対 応 し た ケ ー ス ・ ス タ デ ィ ( 事 例 研究)により、その生活記録を整備して考察する必要があると考えたわけ である。そこで、両教会からそれぞれl支部を選定し、これ等の課題に取 り組んだのである。 本稿では、紙幅の関係上、秩父教会皆野支部における教勢の伸展と導き の親子関係を地域における導きの系譜を中心に追いながら、とくに、昭和 35年のブロック制の形成過程とその後の導きの動向を検討してみようとす るものである。 ③対象地域の概況 秩父教会は埼玉県の西部に位置する郡・市1市5町3村を包括地域とし ている。この圏域内の人口は約12万7000人、世帯数約3万4000世帯である。 本調査で対象とした皆野支部は、この圏域内の東北部に位置する皆野町 と長瀞町とを包括地域としている。 皆野町は東を長瀞町と東秩父村に、北は児玉郡に、南は秩父市、西は吉 田町に接し、町域の61%が林野である。町を二分するように流れる荒川の 河岸段丘に街が帯状に開けており、平坦地はこの中央部分の25%にすぎな い。昭和30年と32年に町村合併を行い、国神社、金沢村、日野沢村、およ び三沢村を合併編入し今日に至っている。 昭和43年に国道140号線、昭和55年に関越自動車道がそれぞれ開通したこ とで、自動車利用による交通は至便となり、生活圏が拡大された。 人口は61年現在12,930人(3,364世帯)で、人口、世帯ともに秩父広域圏 (29)
の約1割を占める。人口動態はやや減少傾向にあるものの、ここ15年間は ほぼ横這い状態である。また、65歳以上の高齢者は13%近くまで達し、今 後もさらに高齢化の進行が予測されている。 産業構造では、第1次産業14.9%、第2次42.4%、第3次42.7%となっ ており、第1次産業では、酪農や養蚕、こんにゃく栽培などが主であるが。 どれも小規模である。近年はブドウ、クリ、シイタケなどを中心とした観 光農業が盛んになっており、町の発展が期待されている。 長瀞町は、名称・天然記念物の「長瀞」で知られた町で、古くは農業を 中心とした町であったが、明治44年秩父鉄道が開通するとともに秩父の表 玄関として商業・工業も発達し、とくに観光では年間250万人を超える観光 客を集めている。 昭和61年4月現在の人口は9,098人(2,379世帯)であり、戦後からこの 人口は横ばい傾向を示している。また皆野町同様、町域の60%が林野であっ て 、 最 近 は 特 に 町 の 中 心 部 で あ る 長 瀞 ・ 本 野 上 地 区 へ の 人 口 の 集 中 化 ( 両 地区に町人口の50%以上が居住)が目立っている。 産業では農業(養蚕、コンニャク等)が基幹産業であったが、後継者難 から兼業農家が増加し、近代農業への脱皮が望まれている。また、若年労 働力確保のため農村工業導入も進めるほか、就労者の福祉対策にも積極的 に取り組んでいる。 ④ 秩 父 教 会 の 沿 革 秩父地方に本会の布教線が伸びたのは比較的古く、昭和25∼26年頃から である。当時は導きの系統で布教がなされており、昭和32年の「秩父連絡 所」発足当初の記録(「入会者申込控」)によると、現在の包括区域内に5 ∼6の支部系統があったことが記されている。 主な系統では、第21支部、第50支部、第7支部、第53支部、第73支部の 5支部が独立して記録されており、ほかに「込支部」として第58、第9、 (30)
Tの第6支部もM・Tの導きからその会員数を増やしたようであるが、布 教の中核として地域に伸展したのは、秩父の旧市内を中心とした第21支部、 影森地区を中心とした第50支部、小鹿野地区の第73支部、そして皆野・長 瀞地区を中心にした第7支部の系統であった。昭和32年の秩父連絡所発足 まで、これらの支部系統がそれぞれの地域に独自の布教を展開していたの である。 昭和32年8月、秩父連絡所が秩父鉄道の秩父駅前にある第21支部のO・ Tの家に設置されてから後は、本部で副支部長の任にあったM・Tが連絡 所主任(責任者)として赴任し、このM・Tを中心に所属する支部系統ほ 別個であるにも関わらず、ある程度まとまった活動が展開された。お導き の報告も秩父連絡所として本部へ報告されたが、厳密には導かれた会員の 所属する支部は導きの親の所属支部であった。 昭和32年8月末の会員数は882人であり、秩父支部(現秩父教会の前身> が発足する昭和35年2月の会員数は1,311人であるから、連絡所時代の2年 6カ月(30カ月)の間に429人の会員増をみたことになる。これを月平均に すると1カ月当たり14.3人であるが、実際の記録によれば毎月平均40世帯 (体)前後の入会者があったようであるから、転出・退会も相当数あった ことがわかる。 昭和35年には、教団の組織が導きの親子関係を主体としたタテ系統の組 織から地域を基盤としたヨコ系統のブロック制組織へと改編したのにとも ない、秩父連絡所も現教会の前身である「秩父支部」として新たに発足す る こ と に な っ た 。 こ こ に 言 う 「 支 部 」 と は 、 現 在 の 「 教 会 」 組 織 と ほ ぼ 同 意 で あ る 。 そ し て 、 こ の 支 部 の 下 に 「 法 座 」 と い わ れ る 地 域 単 位 の 下 部 組 織が設置された。この「法座」が現在の「支部」に近い概念をもっている。 と も あ れ 、 秩 父 支 部 は 2 月 に 秩 父 ・ 影 森 ・ 皆 野 の 3 法 座 体 制 で 布 教 を さ らに進めることになった。 (31)
2.対象地域における教勢の伸展過程 皆野・長瀞地区における教勢の中心的役割を果たしたのは第7支部であ
ることは先に記した。しかしこのことを詳細に検証してみると、現在の皆
野支部が形成されるには、第7支部のほかに第50支部、第53支部、浦和支
部などの系統を主だったものとしてあげることができる。 ①第7支部の展開 皆野・長瀞地区にはじめて教線が延びたのは昭和27年1月10日、第7支 部野田系統の故高橋惰光(元若狭教会長)が、長瀞で観光物産店を経営し ていた故S・Mと同地区で材木商を営んでいたK・Sを共に導いたことに 始まる。高橋は秩父郡両神村の出身で、終戦後長瀞の前記K・S宅の近所 に住居を構え、両神村において製材業を営んでいた関係から、K・Sとは 友人同士であり、商売上の取引もしていた。しかし、昭和24∼25年頃高橋 は事業に失敗し、東京目黒に転居した。そこで高橋は佼成会の縁にふれる ことになる。その後も、高橋とは若干の取引もあり、東京に引越した高橋 を気にしていたK・Sは、昭和27年に集金のため目黒の高橋の家を訪ねよ うとしたその際。たまたま会った近所の前記S・Mと誘いあわせて高橋の 家を訪ねた。そこで高橋の説く法華経の教えに感心し、また熱心なすすめ もあって、その日のうちに杉並の本部へ連れて行かれ、姓名鑑定による自 己のいたらなさに気付かされて、K・S、S・Mがともにその場で高橋の 所属する第7支部へ入会した。K・S34歳、S・Mは60歳前後であったよ うである。この二人が皆野・長瀞地区において連絡所以前の布教の中心的 役割を果たすことになったのである。特にS・Mは熱心に布教に逼進し、 皆野地区の会員の拡大につとめた。 図lは、昭和60年度現在皆野支部に所属する会員のうち、S・Mの導き の系譜のみを、会員カードに記載されている導きの親の名を出来うる限り rqワ、 、 L ノ レ ノ﹄‘‘‘句守.. ︻口切︶房l嵩・ ︾壷1cm. 冨 【 垂 房 湯 買 霞 冨 陛 い ・ l 1 l l l l l l : ← [ 短 つ ゆ C 門 戸 ョ c 3 号 マ マ マ 巾 山 の 吟 、 ﹄l守心 座l守山 豊1m守
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図 2 Y ・ S 系 系 譜 図 (35)1世帯(体)ずつではあるが着実なお導きをした。YA2∼YA4はそれぞ れ│日知の間柄であった人々である。 このY夫婦の導きの子のうち、ブロック制以前に浦和支部の系統を拡大 したのがYA3である。入会と同年YB1を、34年にYB2を導いている。 この他に同地区内におけるブロック制以前の入会者は現在では確認できな い。Y夫婦の系譜はどちらかといえば皆野町皆野という狭い範囲での布教 が中心であったようである。 次に第53支部系統の系譜を見ると(図3)、やはり昭和29年にダム建設の 労働者として一時的に来住していた水野某に導かれたA・R(女性)が入 会している。入会当時A・Rは43歳で長瀞町中野上に住んでいた。翌30年 にAAl、AA2、AA3、昭和31年にAA4と4名を導き、このうちAAX は33年にABl,34年にAB2を導いており、AA2は32年AB3,35年にA B4の2名を導いている。またAA4も33年にAB5を導いている。ただし、 このAB5はA氏の実の子供であり、AA4が便宜上導きの親になってい るということである。 最後に、影森地区を中心に布教を展開していた第50支部も秩父連絡所が 設置された昭和32年から皆野地区への導きがすすめられた(図4)。その中 心になった人がI。Hである。I.Hは昭和30年、病気を苦に入会するが、 これが入会した次の日に治ってしまってから、主に秩父、影森地域を中心 に布教をした。そして昭和32年に学校時代の裁縫の先生であったA・Yと 本 部 へ 行 く 途 中 の 駅 で 偶 然 に 会 い 、 そ の 場 で 導 い た こ と で 以 後 I 。 H の 導 きの親子関係が形成される。A・Yは学校の先生であった関係上、直接導 き 活 動 が で き な い と い う こ と で 、 A ・ Y の 導 き は 実 際 に は I . H が A ・ Y の紹介を受けて導いたものがほとんどである。33年にA・Yは親戚のI圧 を導くが、IBlを育てたのはI.Hである。そしてこのIBlが34年ICl、 IC2,IC3,IC4の4名を導き、IC4が35年IDl、ID1がIEl、I E2と導きの親子関係系譜が拡張していく。対象地域においては連絡所発足 (36:
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図 4 1 . H 系 系 譜 図 (38)関係は堅い紐帯をもち、会員に対する影響力が強い。これはI.Hが昭和 47年から56年までの10年間皆野の支部長として赴任していたことと無関係 とは言えない。 以上見てきたとおり、秩父教会発足前までの皆野・長瀞地区においては 主だったものとして4つの系統がみられた。そしてこれらが個々の人的な つながりを中心にして布教活動を展開し、教勢の伸展を進めてきたのであ る。 ③秩父支部(現教会)発足後の展開 本会では会員の増加に伴い、昭和34年から35年にかけて、従来の導きの 親子関係を中心にしたタテ系統の支部形態から地域を中心としたいわゆる ブロック制組織へと布教体制が改編されたことはすでに述べたところであ る。これに伴い、秩父連絡所も昭和35年2月に「秩父支部」として新たに 発足をした。 新支部には地理的条件および布教の実績を考慮して、秩父、影森、皆野 の3法座(現支部)が設けられた。この時点における会員世帯数は1,311世 帯と報告されており、対象地域である皆野法座(皆野町・長瀞町・吉田町 の一部を包括)の所属会員数は、当時支部会計となっていた前記K・Sに よれば「約200世帯くらい」であったといわれている。これらの人々が皆野 町大浜に住むZ氏の自宅を拠点として新たな活動を開始することになり、 初代の皆野法座主任として秩父市を中心に活動していた第21支部0.Tの 嫁であった0.Mが任命された。 ところで、この時期の秩父教会の会員動態(表l)をみると、支部発足 後のこの時期の会員数は4∼5年の間低迷しており、昭和40年に初めて発 足時の会員数をこえるという状況であった。これは秩父だけの現象ではな く、本会全体がまさしく同様の動態変化を示している。ここには昭和36年 (39
表 1 秩 父 教 会 会 員 動 態 *差引増減は入会・整理のほか,転入・転出等を加味し計算した。 (401 昭和35年 戸、︶痔””■.︹×︺一無声一灸唯一一・・⋮一一毛乙一今﹁雪4刈宝一r︲霊︶置嘩一毎・・・.n×︺津万一い‘■︾一二・・⋮一苧“]、く︺・麺三・’戸‘皇︾一戸h︺弓・呂Cご nくJ句ぺJn唖﹄、玉﹄4刈孟︲″式“〃詮j刈詮4川詮4川詮幻細詮4州孟4刈云4m壬F、﹄F︻⑭戸崎﹄F︻﹄F、︺FhJ戸局﹄︷烏﹄F﹃﹄ 教 会 長 高森千恵子 高森千恵子 高森千恵子 高森千恵子 高森千恵子 高森千恵子 高森千恵子 高森千恵子 高森千恵子 吉 井 利 正 吉 井 利 正 吉 井 利 正 吉 井 利 Ⅱ 吉 井 利 Ⅱ 吉 井 利 Ⅱ 吉 井 利 Ⅱ 吉 井 利 Ⅱ 吉 井 利 正 吉 井 利 正 吉 井 利 Ⅱ 吉 井 利 Ⅱ 毛 利 浩 子 毛 利 浩 子 毛 利 浩 子 員数 缶市 会世 可且八UQゾFD44?●.○ムハU|UJ頁﹄︵峠︶nUlりじ44|﹁●●叩●︷|ワ●..︵●.一○|,野●●・戸、−6︶一雪・凸一府﹀・4一ラ] ﹃lユ﹃Iエハh﹀EJハノム−〃詮局ノーハⅢ︺戸HJ旬J14州詮○くJ︿×︺4刈孟nく﹄﹃I且ハuゾ知ベリ頁一J句J1ハu﹀局ノー4列式ハh﹀ 、く﹄︵uJハ叩﹀ハⅡU旬乙︲刈吐︿hUハⅡ︺﹁Iユ勺Iエ﹃l坐﹃’八可lエ4〃玉戸︻﹄Fヘリ勺I工八くJくり﹀、ノムn〃全﹃Iエn/白勾玉J
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支 部 3 3法座 秩 父 影 森 皆 野 3 支 部 十 1 地 区 (小鹿野> 秩 父 支 部 影 森 支 部 皆 野 支 部 4支部十l地区 秩 父 秩 父 東 (新設) 影 森 皆 野 (西秩父〉ようであるが、従来のタテ系統の結びつきから、地域を中心としたヨコ系 統のブロック制への改編のとまどいも、一つの要因ではないかと思われる。 この状況は皆野法座においても先の図1∼4で、昭和35∼40年の入会者が 非常に少ないことにも示されている。次章で述べるがこの時期の皆野地区 における教勢の伸展は、地域が狭いこともあって、どの系統も中心となっ た人々の居住地域を大きく越えるものでなく、相当限定された地域で布教 が行われている。当時の入会申込者控を見る限りにおいても、隣接する大 里郡、比企郡等々への拡大ないしは秩父市内に点在する程度のものであっ
た。この意味からすれば、皆野地区は当初から地域を中心とした布教がな
されていたと考えられ、連絡所発足後は同地域における他支部系統間の交流もあったことをあわせて考えれば、組織の急激な変更によって、人間関
係によって結ばれていた地域の従来からのリーダーと、ブロック制組織に
よる組織人事によって任命された役務上のリーダーとの相違が、一般信者
のみならず双方のリーダーにも指導上のとまどいを誘い、それが布教上の 士気に一時的に影響を与えたといわれている。こうした皆野支部が急速に伸展するのは、昭和40年代半ばからである。
とくに、昭和47年、I。Hが第2代支部長(昭和44年から本部組織の再改
編により、従来の主任の呼称が支部長と変更された)として就任して以降
の皆野支部の発展は大きい。また拠点もI。Hの導きの子であるIAl宅を
法座所(別居)として正式に発足させるなどして、積極的に布教をしたこ
とも教勢の伸展の大きな要因であろう。ちなみに昭和50年以降の教勢の伸展をみると(表2)、昭和50年524世帯、51年752,52年791,53年943,54年
1,033,55年1,031,56年988,57年988,58年1,010,59年917,60年939と、
54∼55年をピークにほぼ50年の倍の世帯を数えるようになる。I.Hは昭和47年から56年までの10年間支部長のお役にあったが、ブロック制改編か
らほぼ10年間くらいの間に、従来のタテ系統の指導から地域を主体とした (41)表2皆野支部会員動態(昭和50年∼60年) ヨコ系統間の指導が定着をしているように考えられる。これは先の系譜図 でもわかるとおり、昭和30年代半ばから、40年代半ばごろまでに入会した 人々が導きの親となっているケースが多いことに示されていよう。ブロッ ク制以後の指導は、支部長のもとに数名の法嘩羊仔とよばれる地区責任者 がおかれて、個之の地区単位でなされており、35年からしばらくの間のと まどいの時期から、地域を主体とした活動形態が新たな関係を派生し、徐々 に定着していく過程を示しているものと考えられる。 しかし、ブロック制施行以前も以後も、本会の信仰が導きの親子関係を 基軸として展開していることに本質的に変わりはない。 だが、もともと限定された地域の中における人間関係を中心にして教勢 を伸展させてきた皆野地区の包括地域において、新たな社会関係を築きあ げ、そこに導きの親子関係と社会活動を展開していくためには相応の歳月 を必要としていたことは否定できない。 3.導きの親子関係と地域 前節までは皆野支部の伸展を導きの系譜図を中心に歴史的に概観した が、系譜図作成と平行して実施したお導きの基本的事例の調査を取りあげ¥ 導きの子との人間関係、居住地域との関連等について分類した結果を述べ たい。 この調査は、皆野支部に所属する導き経験のある有力会員を対象として、 所定の調査票に従ってヒヤリングをしたものである。対象者(活動の中心 者)は30余名にのぼったが、ここでは比較的まとまった数のお導きがあっ (42) 目 ムニムロ 教 皆笥 支 部 50年 100. ワ 貞 一 凸 一 J _ 100.0 52 51年 126 3,11 143.鴨 752 52生 132 3.3 li〕且 79 53年 157.Z 3‘955 180.1 94( 54年 169.9 4.27き 1V/,且 1.033 55年 170.5 4.293 196.2 1.031 56年 日。庁,l、 貝﹄勺IL 行、︶7 ,14 188.( 98[ 57耳 168.患 4.244 188. 981 58匂 L J J . = ’ 1 7 牙 こ ・ 4.362 192.訂 1.01’ 59生 174.1 4.39 175. 91 60ゴ 178.〔 4.48 l79 qE
Lク且-あったが、側近者の協力を得て知りえた先のS・Mのケースを含めた16ケー スについて取り上げてみたい。 個々の分類表は、導きの子の地域分布をみるために皆野支部の包括地域 である皆野町と長瀞町とそれ以外(地域外)として3つに大別し、特に皆 野町と長瀞町に限っては中心となる「字」で区別した。各表とも一番上の ゴシック文字が事例対象者である。また導きの子を示す最初の★印は本会 の信仰上の最上位の勧請形態である「ご守護尊神」を表わし、○印はその 次位にあたる「ご本尊」が勧請されている世帯を示している。また・印は
一般的会員の信仰礼拝対象としての夫・妻双方の代々の先祖を而Eった「総
戒名」を而Bり込んでいる世帯を示し、無印は「機関紙誌購読のみの会員(購
読会員)」を表わしている。次の数字は入会年次、アルファベットのMまたはFは性別(Mは男性、Fは女性)である。またそれらを囲むロ印、に.
印、無印は順に「血縁(親族)関係」、「地縁(近隣)関係」、「朋友(友人.
知人)関係」であり、この3分類によって導きの親と子の関係を明らかにすることを試みた。ただし、夫、妻双方ともあまり社会的移動が多くない
ので、「地縁」と「朋友」が分類しえない状況もあったが、それは本人の報
告に従った。なお、この関係にはただl例のみ「アカの他人」という人を
導いたという報告があったが、分類上「地縁関係」の項に入れた。
対象者の人会年次の古い順に表をみていくことにするが、まずく事例1>
は故S・Mの関係である。先に述べたとおり、皆野地域の最初の入会者で
あったS・Mは長野県の出身で、青年期に長瀞へ来住し観光物産店をはじ
めるようになったといわれている。本会の入会後は自らが主体的に導き活動に歩き、導きの子は全て本人が導いたものである。地域的には近隣の小
料理店を経営していた女性(SAl)を導いたのをはじめに、近隣における日常の人間関係を中心に6名の導きをしている。また他地域の導きは商売
を通じて知りあいになった人々である。S・Mの場合、親族への布教は唯
(43)一大里郡寄居町に嫁いだ娘だけであって、出身地である長野方面には導き がなかったようで、記録に残されている限りでは、以上のように来住後に 築いた人間関係のある人々を導いている。勧請では28年に入会の男性と29 年の女性がご守護尊神を勧請され、27年入会の女性2名にご本尊が勧請さ れている。 次に〈事例2>はSAlの導きの子で、S・Mの導きの孫にあたる女性で、 出身は夫が長瀞町長瀞、本人は皆野町腰である。28年に入会してすぐに、 皆野町皆野にすむ義理の姉をはじめて導き、同年知人関係にあった近隣の 男性および皆野町金崎に住む女性を導き、その後40年に熊谷に住む義姉を 導くまで12年間ほど導きはなかった。このケースでは、嫁ぎ先の夫が地元 出身であるため、居住地の近隣がほとんど知人関係となっており、年代に 関係なくほとんど総戒名が祁り込まれている。また、地域外の導きは40-F を除いて2名は自分の娘である。なお、長瀞の55-Fは地元の駅で会った本 調査中唯一の全くの初体面での導きである。 〈事例3>は第53支部の初代A・Rである。A・Rの場合、夫の出身が 長瀞町野上下郷、本人は同町本野上の出身であり、野上下郷に居住してし たが、昭和47年頃に現在の中野上に転居している。入会の翌年、近所に住 む│日知の人々を導き、親族をはじめて導いたのは昭和41年、入会12年後で ある。親族の導きは計7名あるが、地域外の2名はともに息子であり、本 野上は本人自身の親族である。また、現住地への転居後、さらに数人の導 きをし、平行して前住地の知人・友人にも布教をしている。このケースの 場合、一人で多くの導きをしているが、地域的には近隣の関係を中心に導 きをしたケースである。 〈事例4>はA・Rの直接の導きの子である。現在この世帯は2代目の 息子夫婦に代変わりしている。導きの上では昭和45年までが母親の導きで あり、それ以降は息子夫婦の導きである。この夫は野上下郷の出身で、当 地の友人関係を通じて自らも52-M,53−Mの2名を導いている。他は妻の (44)
地域に圧倒的に多く、うち2名は親族である。また、居住地域以外の導き は1名を除いて全て親族である。しかし導きの数は多いが、51年以降ほと んどが購読会員であって、幹部となった導きの子はいない。なお、妻は皆 野 町 親 鼻 の 出 身 で 、 こ の 夫 婦 は 青 年 部 活 動 を 通 じ て 知 り あ っ た 共 に 会 員 2 代目であって、実家方面等に導きの子がないのは、実家でも導きをしてい るためである。 〈事例5>は浦和系統のY・Sであるが、入会の翌年はじめて親族を導 き、以下居住地内の朋友関係を中心にお導きをしている。50年までの導き (不明を除く8名)には総戒名の而Bり込まれている導きが多く、うちご守 護尊神1名、ご本尊の勧請者3名と幹部が育っている。しかしながら、51 年の購読3名のお導き後、同支部内には導きがない。 〈事例6〉はY・Sの直接の導きの子であり、現在は2代目で、母親が 当初活動をし、昭和44年から息子夫婦が活動の中心者となっている。入会 と同年、母親は外に所帯をもった息子をはじめて導き、34年に近隣の女性 を導いている。それ以後、母親の代では数名導いた記録はあるが、現在詳 細は不明である。息子夫婦に世代交代したあと、44年、51年に息子が秩父 市内に嫁いだ妹を導き、51年からは嫁が中心となって近隣を中心とした購 読会員を導いている。嫁の出身は皆野町国神であるが、本世帯にはそちら の導きの報告はない。皆野町のその他の地域(嫁の妹)、および包括地域外 の計3名は全てきょうだいである。 〈事例7>は事例6の兄にあたり、現在ご守護尊神を勧請されている世 帯であるが、長瀞町に住む53-Mを除いては事例6同様ほとんどが同地域 内の朋友関係の導きであり、包括地域外は全て妻のきょうだい(4名)と 子ども(1名)である。 〈事例8>はY・Sの直接の導きの子である。夫の出身地は皆野町皆野、
妻は長瀞町長瀞の出身である。32年入会後10年間導きはなかったが、昭和
(45)42年以降妻および夫のきょうだい、子ども、親戚を中心に導きの縁を拡げ、
そののち地縁、朋友関係に導きの対象を拡大した典型的ケースといえよう。 そして、肉親にはほとんど総戒名を肥り込んでいるが、他は購読会員である。特に51年以降には全てが購読扱いとなっていることがわかる。また、
夫の出身は皆野町皆野であるが、同地域内に血縁関係による導きはない。 〈事例9>は第50支部のI。Hの導きの孫で、導きの親がI.Hの導き の子で親戚であったが、実際にはI.Hに育てられた人の事例である。活 動主体者の妻、夫ともに皆野町皆野の出身であり、妻は今年69歳になるが: 信仰の上では2代目である。入会の翌年、同町内の知人を2名導いたのを はじめとして、地域内では地縁・朋友関係を中心に、地域外はほとんど主 人の親戚と実子を導いている。しかし、妻自身の親族の導きはない。なお、 同地域内の41-Mは電気工事業者で、土木建築業の主人とは仕事上知りあ い、その後ご守護尊神を拝受されており、先のI.Hの系統図ではこの41-M および皆野町その他の35-Fの導きが伸展している。 〈事例10>は34年入会と同年、地域外に居住する親族を導いた後10年間 お導きがなかった。その後43年から居住地域の朋友関係を中心にお導きを している。このケースも他と同様に居住地域外は親族を導くという傾向で ある。なお、34−Mは他支部においてご本尊を拝受しており、他の親族にも すべて総戒名が祁り込まれている。 〈事例11>は事例9の導きの子でご守護尊神拝受者である。夫の出身ほ 現住地と同じ皆野町皆野であり、妻は両神村の出身であって、夫婦ともに 活動には熱心である。地域分布では地元の4世帯は夫の朋友関係で、野上 下郷に3世帯あり、地域外では妻の実家と姉を導いている。51年∼54年に かけての導きは購読会員であるが、56年、58年ともに総戒名紀り込み会員 である。他の多くのケースのように1年間に数件もの導きをするというこ とはないが、着実に布教をしているタイプである。 〈事例12>はI。Hの直接の導きの子で、夫婦ともに皆野町三沢の出身 (46)お導きしている。また現在地でも近隣関係の導きが3世帯あるが、どちら
かといえば本ケースは夫妻双方のきょうだいや親族を中心とした導きをし
ている傾向が強い。ただし、その親族はすべて総戒名が前Bり込まれている。 〈事例13>は夫の出身は現在地であり、妻は吉田町である。このケース も他と同様に居住地域内の人間関係を中心に導きをしており、特に妻が1 人で活動をしていることもあって、導きはほとんど妻の関係である。 〈事例14>はY・Sの導きの子であり夫・妻ともに皆野町三沢の地元出身であるが入会と同年、妻の実家の兄を導いた他に親族はなく、導きの大
半は近隣の人間関係というユニークなケースである。その数は32世帯と非 常 に 多 い が 、 そ の う ち 総 戒 名 が 肥 り 込 ま れ て い る の は 実 家 の 兄 を 入 れ て 4 世帯であり、他はすべて購読会員である。居住地域内における交際関係の 広さゆえといえるが、比較的入会が新しいこともあって、先の導きの系譜 上では導きの子の中からまた導きの子を生む会員は出ていない。 〈事例15>および〈事例16>はともに昭和56年という新しい入会者であ り 、 導 き の 親 も 同 じ 、 入 会 の 動 機 も 病 弱 と い う 点 で 類 似 し て い る ケ ー ス で ある。事例15の場合は夫婦ともに長瀞町本野上の出身で、入会時の年齢は 36歳、事例16は夫婦ともに大里郡川本町の出身で、入会年齢は40歳とほぼ 両 者 と も 同 じ よ う な 属 性 で あ る 。 こ の 両 事 例 を み る と 、 入 会 の 翌 年 と も に きょうだいを導き、そののち友人関係を次々と導いている。また、表には ないが、両者ともにきょうだいが比較的多いが近隣には居住しておらず、 現 在 ま で の と こ ろ 入 会 し て い る の は 共 に 1 人 だ け で あ り 、 今 後 ど の よ う な 活動を展開されるのかが注目されるところである。 4 . ま と め に か え て 以 上 、 布 教 指 標 の 一 つ と し て 導 き の 親 と 子 の 関 係 と 結 縁 の 関 連 を 地 域 社 会 ( 支 部 包 括 地 域 ) と の 対 応 に つ い て 検 討 し て き た 。 一 人 の 布 教 者 が 実 際 (47)にお導きをし、またその子を教育し育てていけるようになるまでには様友
な要素が考えられる。信仰とはまるで無縁であった人が、多くの人々の幸
せを念じ、実際に活動していくまでには、その人の信仰体験の問題、指導
者の問題、さらにつきつめて考えれば、その人個人の生育歴にまでさかの
ぼる必要があるからである。この問題に関しては、また別の機会に譲りた
い。ところで、本稿は上記研究の一部分としてある特定地域においての教勢
の伸展が、どのような機縁をとおして、どのような人に、どのような方法
でなされてきたかという動的問題を明らかにすることを目的として調査した結果の一部をとりまとめたものである。この調査を通じて、実際の導き
の過程についていくつかの知見を得ることができた。本調査の対象者は、様々な導きを体験している女性幹部であるが、特に
これらの事例を通してみると、概して一人の人が導くことができる地域範
囲は決して広くはないということである。対象者はほとんどが妻としての 属性をもつが、出身地と現在地が異なる場合、この出身地における導きは 実家ないしは親族であって、結婚前の出身地における友人関係等々による 導きはさほど多くはない。むしろ結婚後の居住地域周辺に集中し、近隣関 係から新たな人間関係を作り、それを導きの機縁としているものが少なくない。すなわち、居住地域周辺において、親族を含めた血縁、地縁、朋友
関係が重層構造をなし、日常的人間関係の強弱が導きの大きな要素となっ ているように考える。本会の場合、総戒名を肥り込むことが会員としての 規範となっているが、とりわけ親族および近隣の朋友関係の強いところに その比率は高く、居住地域より遠く離れると低くなる傾向にあることからもこれは読みとれよう。この人間関係の強弱が生じるには様々な理由が考
えられようが、日常的な接触があり、そこに互いに信頼関係を深めることができるということが大きな要因ではないであろうか。入会してまず最初
の導きはどのケースをとってみても親族、それも自分に近い肉親がほとん
(48)ないが、そのいずれもが肉親ないしは人間関係的に近い人であったことも あわせて考えれば、「導き」という信仰の伝幡は人と人との信頼関係の上に 成 り 立 っ て い る と い っ て も 過 言 で は な い と 考 え る 。 従来、導きの親子関係は実際の親子に擬せられ、この関係において親は 子に信仰、儀礼、布教方法などの教育を授け、またそこから親自身もさら に成長するという修行がなされてきた。それがブロック制の施行により、 それまでの親と子の紳によって結ばれていた擬制的親子関係は、ヨコ関係 の組織になってその機能が失われたとの指摘もある。しかしながら、組織 改編から30年近くたったいま、系譜図で示したとおり新たな導きの親子関 係が組織内に強盛に展開されている。それが信仰の伝播に最も必要と思わ れる信頼関係で結ばれている限り、この擬制的親子関係の再醸成が信仰心 を深め、組織をさらに発展させる大きな要件であると考える。そのために は会員個灸間の関係と生活を知悉し、かつそれを生かせるリーダーの配置 と新しいリーダーの育成が必要であろう。
最後に、度重なる調査に全幅のご協力をいただいた秩父教会の皆様に、
記して感謝の意を表する次第である。 (49)事 例 1 − 事 例 2 ・47−M
F罵
・57−F 事 例 3 ★29-F-.(現住地) oZ9−F 「5弱三下I ・30−F o37−F (石可FF1 5 1 − M ・ 4 7 - F 0 5 1 − M ・ 4 7 − F ( 魂=、F弱冒而1 53-ML54−Ml F詞冒、「末萌冒而 不 明 一 M 不 明 一 M 不明一両’ 不明一岸 不剛−.岸 1 11⋮⋮⋮⋮ 函函函砺州 画 函函砺州 唾 (言 詞二雨)(浦和子 (5雨三面)(深捧 事 例 4 事 例 弓 (50) 皆 野 田 皆 野 親 斗六 一F 三 沢 ★28 下 田 9 そのfI 長 瀞 町 瀞 戸反 郵唾唾唾唾唾唾雨 ■乎垂 』 二 野上1 中野 本野_I そ の 他 28− 。q『 包 括 地 域 外 回 ﹁〆冒︻H ○28 ・28 口47 F 3F下〕(熊谷 F 宛三F〕(船桧) 〔一雨三壱〕(上尾】雨垂
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事 例 S ★32−; ・48−F 事 例 号 事 例 霊 一・一・.MM雨一MM一⋮M 牛牛↑た戸一歩計詐詐 344’4’5555 0。︽I﹂ 〔雨Fm(秩父三 ( 5 石三m(川越, F1リ'一M (一万ラー雨1 53−愛 53−魂 53−トー 53−'蔀 〔5 豆=、 5 3 − M 事 例 す : (51) 皆 野 皆 I一国闇雨両
親 脚 井 戸 下I暇 そ の 他 唾 長 瀞 I 長 # ■軍雁Ⅱ 野 上 下 中里 本野 そ の 包 括 地 域用=胃麓
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