岩 田 英 子*
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(2) 兵政策の一環として進めた(4)。 このような社会. ある。 したがって,戦前の社会においては,「国. は,「国家共同体社会」であり,国民は,「囲健」. 債」護持のため富国強兵が目指ざされ,軍隊は. の名の下に主体性なく,経済的活動のためのみ. 殖産興業の一翼を担う合法的武装組織として存. に集まっていた(5). 在しており,社会は積極的主体的にその存在を. 現在の日本社会においても,自衛隊の存在. 受容していたというよりむしろ,社会及び国家. は,戦後の国民の意思を問うことなく既成事実 それは,儒教の影響を受けた「思 化している。 惟構造」が,今も通奏低音として底流をなして. 体制が,その受容を有無を言わさず強いていた と言えよう。 戦前の旧軍を創設する上で大きな役割を果. いるからとも言えよう。. したドイツ兵法思想に重要な影響を与えた. 本論は,戦前の旧軍と戦後の自衛隊がそれぞ. [Rossinski1966:110]のは,クラウゼビッツ(ll). れどのように形成され,発展してきたかを検証. であった。彼は,当時のカントからヘーゲル. し,その日本社会との歴史的且つ社会科学的関. に至るドイツ観念論哲学を基礎においた論汰,. 係に着目し,日本の近代化を考察し,あわせて. 思考方式,認識論により自己の体験した戦争. 事象の背景にあるエートスを解明する。. を,従来の古典的戦争と比較した[Paret1976: これにより,彼は,ナポレオン戦争を説 151]。. 2. 日本の旧軍とクラウゼビッツの戦争論. 明することを目的として,戦争理論の一貫した. 軍隊とはそもそも武力集団であり,一旦事が. 体系を樹立した。彼の戦争理論を一言で表現す. 起き,時の政府がその武力行使を命じたならば. ると,科学的な分別主義に立っているというこ. 梼拷せずその命令に従うという,命令を忠実・. とである。彼は,科学的な分別主義による戦例. 正確に行使するという機能が期待されている存. と戦争術の探求において,経験は哲学的真理よ. 在である0 時の政府がその存在をどういう形で. り重要であることを理論的根拠にした。. あれ容認している限り,たとえ合法的でなくと. 験を重視する理論を根拠に,絶対戦争論者から. も軍に正当性は存在する。. 後には現実戦争論者に変身し,現実戦争におけ. 軍隊は,様々な形で定義づけられ,論じられ. る戦争は,他の手段を用いるところの政治的交. ている(6)軍隊は,戦前の旧軍の場合,とくに. 渉の継続に過ぎないと主張した。. 特徴的な性格を有していた。. それは,プロイ. この経. また,彼は,. 戦争そのものの法則に従うのではないとも主張. センmi以下「ドイツ」)式軍隊を手本とした結. した[Pareted. 1986:297]。. 果,「国家を所有する軍」という表現に象徴さ. 一方,クラウゼビッツは,戦争とは他の手段. れる[LiddellHart1956:214]ように,軍令(8). をもってする政策(Politik)の継続にはかなら. が軍政(9)を蚕食し,統帥権(10)は何者にも侵され. ないと述べ,政策が主催者で戦争はその一手段. ないという文民統制に服さない軍隊を誕生させ このような軍の体制が,天皇を頂点とする た。 「囲健」体制と相償って,旧軍を国民の軍隊で. に過ぎないと主張し,ここから軍事に対する. はなく,「国債」護持のための軍隊としたので. 的な考えを有していた。 それは,戦争の開始・. 政策優位思想の根源が誕生した。. さらに,彼. は,政治家と将帥との関係についてかなり独創.
(3) 戦前の旧軍及び戦後の自衛隊の創設と変容 遂行それから講和に至るまで政治家が主動者に. とは言いがたい。. ならねばならないとの見解であり,モルトケや. 明治維新時の陸軍軍備は,国内治安用のもの. マッカーサー等の主張と正反対のものであっ. で,外征して近代戦を戦えるものではなかっ. た[Summers1983:112]c後者は,国家間の. もちろん,西欧諸国に対抗する必要性は認 た。. 外交的交渉が妥結に至らず結局戦争が勃発すれ. めていたが,最初は国内の反政府勢力の鎮圧が. ば,政治家は部隊の裏に引っ込み,今度は将帥. 主体であった。 他方国土防衛はまず,海の防. が舞台に登場して自由に活動すると主張する。. 衛からであるが,海軍の充実は維新当初から行. [MacArthur1964:404]その結果,敵軍を打倒. われ[黒野2006:40‑41],貧弱な艦隊を充実さ. 撃滅すれば,その勝利を背景にして,政治家に. せるために皇室の予算が流用されてもいた(12). よる休戦条約が締結されるとする通念に従って. これが,外征軍としての態勢になるのは台湾. いる。. 征討からであった。 漁民が殺された(13)ことを 名目として台湾に出兵し,かろうじて外征目的. 3. 明治の軍隊とその変容. は達成したが,大きな損害を出し,近代的外征. 1867年10月,徳川慶喜が朝廷に大政奉還を申. 軍の整備が課題として認識された[毛利1996:. し出て,250年にわたった徳川政権の歴史は終. 118‑127]cまた,その後の西南戦争(15)において. わった。2ケ月の後,王政復古が宣言され朝廷. も,明治政府の新しい徴兵制による軍隊は,近. による支配という形式が,12牡紀の院政期以来. 代軍として充分機能せず,軍事力の改善が急務. 久しぶりに復活した。 しかし,すでに日本は,. であることが痛感された[黒野2004:22‑25]。. 西欧の強国群との間に不平等条約を結ばされて. ここに,維新以前から日本の陸軍を指導して. おり,下手をすれば植民地に転落する恐れがあ. いたフランス式からプロイセン(ドイツ)式に. るため,この危機を原動力として,明治政府は,. 変更する動きが出てきたが,それは,普仏戦争. 近代国家への模様替えを様々な角度から,新し. でフランスがドイツに敗北したことにより決定. いやり方で行っていった。. 的となった。山煤有朋系のドイツ派(15)が三浦. 明治維新後,日本の軍事力の特質は,陸軍を. 悟郎等のフランス派(16)を排撃して,陸軍の兵. 考察することにより,明らかとなる。. 制をドイツ式に切り換えた。. それは,. 陸軍は全国各地に部隊が所在し,地域社会に密. これは,単に兵制の手本を変更したのではな. 着しており,その構成員の中の男子が,一定の. く,国防方針,安全保障政策の変更でもあっ. 年齢になると徴兵制により兵役に服する義務が. た。 当時の国防方針は,山願のロシアの脅威を. あったからである。このような陸軍は,当時の. 排除するため日本国土外に,つまり大陸に防衛. 日本社会一般の意識を良く反映すると考えられ. 線を設定する構想と,三浦等の国土防衛に徹す. これに対し,海軍は原則的に志願制で,一 る。. る構想が対立しており,必然的に前者は大規模. 般的な日本社会とは隔絶した特権的とも言える. な外征軍を必要とし,後者はこれに反して小規. 閉鎖的集団を形成していたため,陸軍に比し社. 模で機動性に富む国土防衛軍を構想していた0. 会一般の意識を,必ずしも如実に反映している. また,当時の自由民権運動が主張していた国民. 3.
(4) 軍・民兵による国防構想も,ドイツ式軍制の採. [伊藤1958:52]。. 用により排除された。. 前述した,クラウゼビッツの忠実な弟子・後. こうして採用されたドイツ式軍制のうち,と. 継者であると自負していたモルトケは,クラウ. くに陸軍大学校の教育(17)は,ドイツより派遣. ゼビッツの戦争に関する哲理に背反していた。. されたメッケル参謀少佐(18)によって行われた. モルトケは,政策が,その目的の達成のために. が,その特徴は,①精神主義,②攻撃重視,③. 戦争を使用するという見解に立たず,軍部が戦 争の開始及び終結に決定的に介入するという姿. 実務的戦略及び戦術を重視し,とくに現地戦術 彼. を主眼とすること,(彰戦史の重視であった。. 勢を採った。他方,モルトケは,戦略は常に与. の教育は,③の現地戦術や参謀演習旅行に特に. えられた手段によって,一般に達成しうる中. 重点があったが,即効的実務本位の実用教育. で,最高の目標に向かってのみ努力を向けるこ. であった[上法1973:122‑124]。. メッケル本人. とができるため,戦略は政策に最も都合よく協. は,クラウゼビッツの精神にしたがって教育. 力するが,それは,政策のE]的についてだけで. したと語っているが,彼の教育は,クラウゼ. あって,行動においては全く政策から独立して. ビイツツの理論を曲解したモルトケの「政策は. いるとの見解を示した[浅野:5211cモルトケ. 戦略に奉仕するべき」とする思想に影響されて. の見解は19世紀後半からドイツ参謀本部の基本. いた[小山1970:207]。. 的思考方式として定着した[Fuller1961:60]。. クラウゼビッツは,政治家と軍人とが一身に. それゆえ,戦略の名において政治的問題に対す. 兼備される知見が,戦争遂行において極めて重. る断固たる軍事的統制の要求を生み出し,政治. 要であることを認識し,最高の将帥を内閣の一. 指導者たちは,軍部の要求に抵抗することなく. 員に加えることにより,最高の活動ができると. 受諾することとなった。 これは,ドイツの軍国. 主張する。彼の見解は,軍事的決定に内閣の関. 主義思想の根本をなす考えで,「政策は戦略に. 与を強調したものであり,政治的決定に軍人の. 奉仕する」事態を現出することとなった[Earle. 関与を強調したことではなかったのである。. し. ed.1943:174][Handeled.. 1986:25‑26]<このよ. かし,戦前の日本においては,この箇所が「. うなドイツの軍事思想が,近代の日本に大きな. 将帥が内閣に関与して重要案件を決定する」と. 影響を及ぼした。. 解釈されている。日本語訳を紹介すれば「最高 の将帥を内閣の一員に加え,最も重大な時機に は内閣の審議及び決議に与らしめるという制度 だけである」とされた[篠田1968:324]。. この. 4. 旧軍暴走の背景 4‑1大日本帝国憲法の解釈問題とそれ付随 する政府の権力構造. 内容は,日本の政治と軍事に重大な影響を及ぼ. 大日本帝国憲法は,絶対主義的側面を有す. し,日本の陸・海軍大臣は現役の大・中将に限. る[岡1990:7‑8]一方,他方で近代憲法であ. 定され,その一事によって軍閥の地位を,政治. るゆえ,リベラルな側面もある程度は有して. 上の金城湯池と化し,1945年の敗戦まで半世紀. いた(19)軍隊以外にも,フランスの影響が及. 近くもその特権的地位を守り通したのである. んでおり,フランス民法を下地に民法典が編纂.
(5) 戦前の旧軍及び戦後の自衛隊の創設と変容 されようとする動きもあった。. しかし,これ. ものが,絶えず作用していた。. 5 それは,江戸幕. は,家族制度や村落共同体といった日本の洋. 府以前から,日本には村社会の存在があり,個. 風美俗を破壊するとして中止され[丸山1961:. 人を認めようとしない「均一化された集団主義. 44‑52],プロイセン式の教育を受けた学者が,. 愛国的な心情」が,日本社会を支配していたか. 家制度を壊さないような形で民法典を編纂する. らである。支配手段の連帯責任制などが,そ. こととなった。 また,伊藤博文や山願有朋と. の具体例の最たるものである[難波田19825:. いった時の権力者がプロイセン式を好んだた. 311‑3341c. め,政体もそのようになり,個人もそれに従. 大陸進出などの侵略的植民地獲得の戦争は,. うこととなった[丸山1956:38‑54]。. このような上からの命令に忠実,かつ「均一化. これに加. え,クラウゼビッツの軍隊に関する基礎理論. された集団主義愛国的な心情」と,国民の中の. を,旧軍がご都合主義的に曲解したことが,旧 軍,とくに陸軍の独断専行を潜在的に可能とす. ロシアに対する恐怖心や国内的貧困の間溝に対 する政府の巧みな刺激とが相侯って,行われた. る通奏低音となった。 このように,明治期にお. 側面もある。これは,国民の不満や恐怖心をよ. いては,天皇を中心とする「国煙」の下,理念. りどころにした,日本の社会における「均一化. 的に一枚岩の状態で,国家建設に遇進してい. された集団主義愛国的心情」を巧みに利用した. たとは言い難い状況であった[難波田19825:. 政策である[難波田19825:335]が,他方で. 48‑53][難波田19827:94‑95]c. 言論の自由の弾圧とともに,戦前政府の巧みな. 明治政府は,維新後37年ほどで近代化された. 政治指導と解釈することもできる。. 軍隊を創設し,これを運用して当時の大国ロシ. 明治政府が,天皇を頂点とする「国債」を御旗. アに勝利を収めた。 日本の近代軍の創設は,な. にした体制下で,富国強兵策を採り,殖産興業. によりも明治維新政府を旧幕府勢力から守るた. にいそしみ,近代化に励んだからである[難波. めに,国内軍的であった[黒野2006:14‑23]。. 田19825:112‑133]。. しかし,間もなく,西欧列強に対抗して,日本. このように,日本の近代化は,経済的近代化. の植民地化を防ぐために,急速に西欧諸国に対. のみを達成したものであり,政治的,社会的. 抗できる軍備及び軍制を整えていった。. そして軍事的近代化は未発達であった。. アヘン. 要するに,. これ. 戦争の二の舞にならないようにするためであっ. は,国民の自発性を適当に無視し,上から無理. この動機は正当性を有しているが,政策を た。. やりにその方向付けをし,政府の方針に少しで. 決め指導した政府は,国民の総意によるもので. も逆らうと見なされれば徹底的に弾圧するとい. はなく,天皇を中心とした全体制国家を目指す. う,いわゆる,天皇制を利用した古典的な方法. グループが主導していた。 ここに,政府と一般. によって達成された。 それゆえ,経済的側面の. 国民の政治意識の違いが出てくるが,心情的・. みの近代化に終わったのも,当然といえるであ. 情緒的に,国民と政府は繋がる部分がかなり. 明治期においては,富国強兵政策のプラ ろう。. あったことは事実で,上からの指導をあたかも. スの側面が強調され,そのマイナスの側面は,. 国民の自発的意思とする社会システムのごとき. 政府の弾圧の下で,あまり表面化することはな.
(6) &IBH!. 2004:6‑9]。. その後,大正デモクラシーにおいては,日本. しかし,明治時代には,江戸期の孫子の兵. は英国的立憲君主制を目指し,そのまま,議会. 法(22)を教養とする軍人やフランス式の軍事教. 制民主主義下での天皇制として,リベラルな政. 育による,自由独立の精神に培われた軍人の存. 治体制となった。 このような日本が,英米など. 在のほか,明治維新の立役者である元老が,軍. 西欧諸大国と協調しつつ,日英同盟の破棄に代. 部に対する抑止として存在したことから,軍部. わって,日仏同盟の可能性を模索するなど,世. が統帥権を盾にとって独走することは無かっ. 界政治の中で重きをなす可能性もあった。. 当時の伊藤博文や山願有朋ら政治及び軍事 た。. しかし,政府は,国内の不況を上手く解決で. の最高指導者たちは藩閥出身の同質者であり,. きず,そのしわ寄せは,都市の貧困層や農村. そこには共通の思想があったため,統帥権を独. 部に押し寄せ,さらなる貧困を招くことなり,. 立させても,政治と軍事を一体化して政戦略を. 社会が不安定化した(20)そこで,次項以下で,. 統一する自信を持っていたと思われる。. 旧軍内部の問題点と,そのような問題点を持つ. 実際に,それを成し遂げるだけの実力があっ. 旧軍と日本社会との関係について述べたい。. だが,このような,個人の資質に頼った政 た。. また,. 治や軍のあり方は,欠陥のある組織だけを残す 4‑2統帥権と大正期の軍縮及び皇道派. という結果になった。 なぜなら,後の時代,大. 明治期には,江戸時代からの孫子の兵法を教. 正・昭和期になると,政治と軍事の間に立っ. 養として身につけていた軍人もいた。. て,両者の関係をバランスよくコントロールで. また,開. 国期から明治維新にかけては,フランスの影響. きる実力者がいなくなったからである[黒野. が強く,陸軍がフランス式であった。. 2004:7]c. こうした. 点から,自由独立の思想を身につけていた軍人. しかし,日露戦争後,日本は不況に陥り,大. も主流派ではなかったが,存在していた。. 正時代には「産業立国」ということを唱え,軍. しかし,前述したような旧軍の歩みの中で,. 備の縮小を図るべきであるという,軍部に全く. 日本の軍部暴走の背景として,①統帥権の独立. おもねることのない主張も存在した(23)今後. を盾にとって政府の言うことを聞かなくなった. の牡界ではもはや,軍事力に訴えて嶺土を拡張. こと,(塾大正期の軍縮に対する軍部の不満,③. 央と事変派遣部隊との承離などが挙げられる。. することはできないから,国策の根本を産業の また, 振興に置くべきだ,という主張である。 大正時代には,世界的な軍縮の動きから[岡. 明治政府発足当初は,軍政,軍令,外交は一. 1990:20ト202,219‑220],浜口内閣の時,ロン. 軍部内での皇道派と省部派(21)との抗争,④中. 体であり,それぞれの間に優劣は無かった。. し. ドン海軍軍縮会議が開かれ,軍縮条約調印の. かし,山解有朋が,軍令が軍政を蚕食するとい. 過程において,政府は海軍軍令部と大衝突を. う,「軍令権は参謀本部の専管事項」とする統. 演じた。浜口内閣は,軍令部の同意を得ない. 帥権を容認し,伊藤博文の反対を押し切り強. ままに軍縮を敢行した[岡1990:226‑227]た. 行したことで慣例となったものである[黒野. め,軍人の中には失職するものもあらわれ[黒.
(7) 戦前の旧軍及び戦後の自衛隊の創設と変容. 7. 野1998:29],軍部の中で不満が彰積すること. 表現するとエートスに見られる。 また,維新の. となった。. 動乱後数十年を経て社会が安定してくると,政. 大正期の軍縮は,軍部に,「軍は統帥事項で. 府は薩長のみならず,優秀であれば,旧幕臣も. あるにも拘らず軍縮が敢行されており,これは. その官吏に取り立て,結局,体制が変わった. 「統帥権の干犯である」との意見を生じさせる. のみで,政治をつかさどるものは江戸時代と. 結果になった。当時,学会においては,美濃部. 同じともいえる状態となった[林屋梅棒山. の天皇機関説(24)が主流であったが,これに対. 崎1976:166‑169]。 したがって,儒教に影響さ. 抗し,上杉は天皇神権説(25)を唱えていた。. 軍. れた思惟構造が時代背景となる素地は,充分に. 部は,上杉の天皇神権説を引用し,天皇は憲法. あった。. より上位に位置し,軍はその天皇に対する「惟. また,軍隊がフランス式からドイツ式に変更. 幌上奏権」(26)を有するため,政府が勝手に軍縮. されたことは,軍隊と日本社会との関係から次. を実行することは禁じられていると主張した。. のようなことが言える。 そもそも明治維新の軍. このような,軍部と政府との確執が顕在化す. 隊は,旧幕勢力を抑圧するための治安組織的で. る一方,不況は確実に,軍人の多くを輩出する. あり,フランス式の個人の意思を重視した組織. 農村部を疲弊させた。 軍内部には,若手将校を. であった。しかし,次第に政府の富国強兵政策. 中心に農村の疲弊に真撃に受けとめ,腐敗した. 推進のための武力勢力としての道具的側面が強. 政府を排除しようとする考えをもつ皇道派[難. くなり,まさに,「囲健」を中心とした近代化. 波田19827:202‑213]と,それを抑止しよう. の手段として活躍することが期待されるように. とした中央のエリートをその構成員とする省部. この軍隊の変質は,時の政府による上 なった。. 派とが争っていた。この争いが,事変派遣部隊. からの命令によるものであり,日本人の自由意. 指揮官と中央との意思疎通を疎外させる要因と. 志のもとで実施されたものとは言えず,日本社. なった。 こうして,皇道派は2.. 会の総意を反映したものではない。. 26事件を生起. たしかに,. させるとともに,日中事変が,軍中枢の意思に. 日清及び日露戦争で勝利したことで,日本全体. 反し拡大していくこととなった。. が日本の国際社会における大国の仲間入りに沸 き,戦勝特需で経済における更なる発展を招い. 4‑3旧軍と日本社会との関係. たことは事実である。しかし,他方で当時の軍. 江戸期における儒教は,日本人,もっと広く. 隊を支えていたのは,人的にも財政的にも農民. 捉えると日本社会全体に,個人の意思を無視し. 達であり,農民達を基盤とする村落共同体の. た上からの命令に対して,自分の意思を無視し. 疲弊は否めなかった[難波田19825:307‑311]. てでも従うという思惟規範をもたらした。 明治. [難波田19827:37‑38,48‑59,91]これが,. 期の日本において,天皇を頂点とした「国債」. 後の時代の全体主義推進の原動力となったので. を御旗とする,上からの圧制とも表現できる個. ある[丸山1976:931c. 人の意思を無視した体制が,明治維新後受容さ れた背景は,まさにこの思惟構造,別の言葉で.
(8) うに,主体的に自ら時の権威と戦って勝ち取っ 5. 戦後の日本. た自由や民主主義という強い自覚は,余り感じ. 5‑1敗戦の意味. られない。太平洋戦争に負けたことで得た唯一. 戦前も戦後も基本的な点,すなわち人間の思. の財産は,日本国憲法であろう。. 惟構造に関しては,何も相違点が見られないこ. しかし,日本が太平洋戦争に負け,戦争放棄. とは確かであろう。 また,政治体制や治世者に. を謳う日本国憲法を公布したにも拘らず,日本. ついても,戦前は,明治維新による幕藩体制か. では,自衛隊が存在することとなった。. ら,天皇を頂点とする「囲膿」という枠組みは. は,どのような経緯から自衛隊が誕生したのか. 変えても,治世は幕藩体制時の優秀な人材を数. を簡単に述べ,自衛隊と日本社会との関係につ. 多く登用した。同様に,戦後においても,憲法. いて考察していきたい。. 以下で. が象徴天皇制や戦争放棄等の特質を持つ日本国 憲法へと変わったちのの,戦前の官僚や政治家. 5‑2自衛隊の誕生. は数多く残存し,政治における戦前と戦後の継. 敗戦後,軍部は復員業務を実施していたが,. 続性も見られる。. その年の10月参謀本部及び軍令部が廃止され,. しかし,戦前と戦後の相違として次の2点が. 11月陸・海軍省は廃止され,軍部は解体した。. 挙げられる。(D産業構造の変化による農村社会. その後,復員業務は厚生省が担うこととなっ. の崩壊,(参現行憲法による民主主義体制の辛う. た。. じての維持である。 すなわち,人間を取り巻く 環境は確実に変わっている。. 社会構造の変化. 一方,敗戦の翌年1946年,極東国際軍事裁判 や戦争法廷が開廷されるとともに,治安維持法. が,つまり産業構造の工業化及び商品交換の活. で摘発された人の開放がなされ,1947年には日. 発化は,農業主体の産業から商工業中心の産業. 本国憲法が施行されたOこのようなqj,旧軍の. へと変化させ,その結果,必然的に農業の基盤. 軍人は,無職となったり,公職追放になったり. である農村社会を崩壊させ,都市化現象が急速 このことにより,旧来の価値観が に進展した。 廃れてきた。それにともなって,社会の構成員. と生活に困窮することとなったが,旧軍の軍人. の意識も変わった。 この変化は,旧来の価値観. 1950年,朝鮮戦争が始まって,在日米軍の主. からの変化が自覚的になされたものではなく,. 力が国連軍として朝鮮半島に展開する事態と. 外的要因が引き起こしたものであるため,その. なった。このため,国内に治安維持に不安を生. 外的要因の変化により,社会構成員の価値観. じたことから,政府は,同年8月,「警察予備. は,容易に変化する可能性がとても高いという. 隊」を創設した。. 落とし穴を持っている。. 1951年,対日講和条約と日米安保条約が調印. このような社会構造の変容は,太平洋戦争に. され,翌1952年4月28日,日本は主権を回復し,. 負け,たくさんの人の苑と引き換えに,我々が. 独立国家として国際社会に復帰した。. 享受していると言えるが,我々が欧米社会のよ. 約3か月後の同年8月,「警察予備隊」と「海. は,「警察予備隊」が出来たことで,生活の糧 を新たに得ることが出来た。. 主権回復.
(9) 戦前の旧軍及び戦後の自衛隊の創設と変容. 9. 上警備隊(同年4月海上保安庁の組織として発. 自発的意思によるものであるか甚だ疑わしい。. 足)」を併せて「保安庁」を設置し,「保安隊」. GHQ̲(占嶺軍)の押し付けにより,当時の政. を創設したが,これも「警察予備隊」と同様に. 府,吉田内閣は,国民の意思を問わないまま,. 国内の治安維持のため一般警察力を補うことが. GHQjT)言われるままに自衛隊を既成事実化し. その目的であるとされた。. てしまったことは明白である。. 1953年5月,アメリカが日本に対し相互安. しかし,自衛隊の外国への派遣は,戦後長. 全保障法(以下「MSA」(27)に基づく経済援助,. い間封印されていた。. 武器援助を考慮していることが明らかになっ. PKOへの参加と言う形で実現した。. た。政府は,このMSA協定の受け入れを決定. アPKOでの施設部隊の派遣に始まり,ゴラン. したが,これを締結するにあたっては,自ら防. 高原での引き離し活動といった国連の平和維持. 衛努力を行うことがその条件となっていたた. 活動以外にも,イラクでの多国籍軍の一員とし. め,「保安隊」の増強問題がEI米間の交渉の焦. ての施設部隊の活動や,インド洋での給油活動. 点になった。 この間題について同年9月,吉田. などに参加し,国際社会でその存在を認知され. 総理(自由党総裁)と重光葵改心党総裁(当時. ることとなった。. 野党)が会談し,長期防衛計画の作成と「保安. このような海外での活動を実施しながらも防. 庁」を改正し「保安隊」を「自衛隊」に改め,. 衛省自衛隊は,国内法では,軍隊として扱われ. 直接侵略に対する防衛をその任務に付け加える. ない組織である。 したがって,その組織貞たる. 方針で合意した。. 自衛官は,旧軍との違いを証明するため,その. この政治的決断を受けて,政府はMSA交渉. 階級,装備品等の呼称が独特のものとなってい. のため,米国‑池田勇人自由党政務調査会長を. る(28)このことは,自衛隊という組織が,公. 特使として派遣し,ロバートソン米国務次官補. 共性を有していないことを,すなわち,国民か. と会談をした。 ここで,日本の陸上兵力(日. らの承認を得ていない正当性の欠けた存在であ. 本側18万人,米国側32万5千人)についての交. ることを浮き彫りにしていると考えられる。. 渉は難航したが,米国側が防衛力増強にかかわ. た,防衛省は,やはり国の行政組織の一部とし. る日本側の制約について認識したこともあり,. て存在する一つの小社会であるといえ,このよ. 1954年3月にMSA協定は調印された。. うな軍事的行政組織には,特有の精神風土が存. さらに,1954年3月,防衛庁設置法案と自衛. 在し,これは世界各国の軍隊と共通性がある. 隊法案のいわゆる防衛2法案が閣議決定され,. が,男性中心社会の典型である。. 同年6月2日国会で成立し,同年7月1日に施. 織においては,近代市民社会開聞以来の一つの. 行され,防衛庁は設鼠陸・海・航空自衛隊が. 目標である男女平等社会の実現が達成できてお. 発足した。. らず,このことは,女性将官がいまだに誕生し. 一方で戦争放棄を誼う日本国憲法が施行され. ていないことにも示されている(29). たが,他方でこうして自衛隊が誕生することと. さらに,沖縄が日本に返還された際,沖縄に. なった。このような自衛隊の創設は,国民の. 赴任することとなった自衛官は,住民登録を地. が,海外派遣は,国連 カンボジ. ま. このような組.
(10) 10. 元の役所から拒否されたり,夜間の大学に通う が可能になる。 際に入学は認めたものの科目登録を拒否された 自衛隊が,国民の財産であり資産であるとい う観点から,これを国民のためのものとして存 りと,地元住民から受け入れを拒否される状況 このような事例は,15‑16年前,. 沖 にあった。. 在付ける必要がある。. 縄に限らず全国で見られた(30). 〔投稿受理B2007. 24/掲載決定日2007. ll. ll. 29〕. したがって,自衛隊という組織が,公共性を. 注 有していないこと,すなわち,国民からの承認(1)ウェーバーは,「理解社会学カテゴリー」におい て,「目的合理的」行為は,「(主観的に)一義的に を得ていない,正当性に欠けた存在であると言 明瞭に把握された目的の達成のために一義的に連 えるのである。 合的である,と(主観的に)みなされる手段に従っ 6. おわりに 2007年1月9日に,防衛庁は防衛省へと改編. て,主観的に厳密に合理的に行われる行為のこと である」と説明した[ウェーバー1968:37‑44]c (2)ウェーバーは,手段,政策,副次的結果の関係. を予想し考慮した行為が目的合理的行為であると され,平和維持活動や災害へ権への参加は自衛 しかし,このウェーバー し,これを合理化とした。 隊の本来任務にも加えられ,その姿を変えよう の理論が,日本の旧軍では破綻し,手段と目的が 取り違えられた。 (3)江戸期における儒教は,日本人,もっと広く捉 等を通して国民の中に徐々に理解が生まれる最 えると日本社会全体に,個人の意思を無視した上 中であると言えるかもしれない。 しかし,旧軍 からの命令に対して,自分の意思を無視してでも 確かに,自衛隊は,災害救助活動 としている。. の軍人を吸い上げる形で警察予備隊,保安隊,従うという思惟規範をもたらした[丸山1952:27, 135‑136,184]明治期の日本において,天皇を頂 そして自衛隊は創設されており,その担い手が 点とした「国健」を御旗とする,上からの制圧と 戦前の軍部と同じであることは,事実である。 も表現できる個人の意思を無視した体制が,明治 また,国民の意思を問うことなく既成事実化さ 維新以後受容される背景は,この思惟規範,エー トスに見られる[富永1990:174‑181]。 れたという,発足にまつわる歴史は隠しようの (4)丸山真男は,明治政府による「囲鯉」体制が日 無い事実であり,現在の自衛隊が旧軍とは異な 本の近代化を推進したものの,この体制下で実施 り,市民のための近代化された組織であると,された殖産興業,富国強兵は,西洋の近代化を支 えた個人の自由意志の確立という精神を育てず, 断言できるところまで到達したとは言い難い。 経済面に特化した近代化であったと述べ,戦前の では,近代化された市民の軍隊とは,どのよ 日本社会を天皇を頂点とする「国健」制度により うな軍隊であろうか。 それは,軍隊のあり方が 上からの経済面に特化した近代化と述べている。 問われているのである。 すなわち,政府が,自. さらに,丸山は,このような体制が昭和の全体. 主義への礎となったと説明している[丸山1976: 衛隊を共同体の構成員のために役立つ存在とな 93]。 るように使用することで,実現できると考え (5)大塚久雄は,経済的活動が集団で生活していく る。. ために皆を結びつけるという共同体の基礎理論を,. 経済的観点から3つのカテゴリーを使って説明し, 日本国民の自衛隊となることで,資本主義的 それに 人間が社会的存在であることを説明した。 対外膨張の道具として使用されていた,第2次 よると,資本の原始的蓄積(したがってその歴史 世界大戦までの旧軍から,完全に脱却すること 的前提をなす小ブルジョア経済の一般的形成)は.
(11) 戦前の旧軍及び戦後の自衛隊の創設と変容. 11. 何よりもまず,このような共同体組織と,これに. に捕虜になったばかりでなく,ナポレオンのロシ. 必ず随伴する社会的真空地帯の,すわちそうした. ア遠征に際しては,ロシア軍参謀本部付中佐とし. 経済の構造的2重性の克服をもって始まることと. て同郡の敗戦過程を体験した。 これらの経験から, 「戦争論」の著述に専念したが,1831年,これら発. なると述べた。 また,共同体と土地占取という経 済的観点から,「アジア的部族血縁共同体」,「古典 古代的都市奴隷制共同体」,そして,「ゲルマン的. 病によって突然死亡した。 「戦争論」は,未完成作 品として残された[郷田1982:190]。. 封建制共同体」の3つが,共同体の歴史的基本形. (12)明治15年(1882年)8月,山願有朋は,来るべ. 態と説明した[大塚1955:9‑46]。. き清との戦争に備えるべく,陸・海軍の拡張を要. これらのことから,筆者は,戦前の日本の社会. 求した。. は「園健」という名の下に主体性なく経済的活の. しかし,当時,枚方正義大蔵卿による極端な緊. ためのみに集まっていた国家共同体社会であると. 縮財政がその緒についたばかりという財政事情で. 考える。. あったため,山豚有朋の要求は,達成されなかっ. (6)大塚久雄は,共同体の基礎理論を展開する際,. た。 同年9月,岩倉右大臣は,非常時の臨時収税. 軍隊がその土地の経済活動と結びつくことで,そ. で,海軍軍備拡張に当てる事を主張し,11月,天 皇自ら皇室予算の流用を認め,海軍軍備拡張は認. の土地が帰属する共同体の発展の推進者的役割を 果たすと主張した。 彼は,ゲルマン的共同体にお ける封建制の起源が,帝政末期ローマ帝国の軍隊. められた[黒野2006:40‑41]。 (13)明治4年(1871年)11月30日,坑球(現沖縄県). 組織による征服にあると見た。 征服軍は,征服さ. を出航した69人乗りくみの宮古島船が公開中に嵐. れた国々に既に存在していた生産諸力の影響を受. で遭難し,12月7日,台湾南端に漂着したところ,. け,さらなる征服へと進む糧を得たと説明した[大. 上陸のときに3人溺死,残り66人は「牡丹社」と. 塚1955:9‑46]c. 呼ばれた台湾先住部族の襲撃略奪にあい,54人が. (7)明治4年(1871年)にプロイセンはドイツ帝国. 殺害されるという事件がおきた。 辛うじて逃れた. となった。 (8)国防計画の中,軍隊の指揮運用に関わるのが軍. 12人は,翌年2月,清国福建省福州におかれた琉 球館に引き渡され,7月,出帆以来7カ月半ぶり. 令である[黒野2004:8]。. 那覇に帰還した[毛利1996:2‑5]。. (9)軍政は,軍備の建設と維持に関わるのが軍政で. (14)明治10年(1877年)2月。. あるO軍事の分野をうかさどる国家の行政機構と. (15)ドイツ派は,日本の旧軍を害西洋とすること. も言える。 情報業務,部隊の編成,戦時の動見 教育訓練,補給施設の管理といったものは,軍政・. を主張した。 つまり,旧軍は外征の出来る機動 的師団編成にすべきとという[小山1970:202,. 軍令の両方に関わる[黒野2004:81。. 204‑205]。. (10)統帥権は,軍隊を指揮・命令する権限である。. (16)フランス派は,日本の旧軍を,国内治安を目的. 大日本帝国憲法下では,統帥権は,内閣から独立. とする固定的専守防衛軍にすると主張した[黒野. して天皇にあった。 日本の自衛隊の場合,黄高指 揮監督権と称され,これは,内閣総理大臣にある. 2004:48‑49][黒野2006:34‑40]。 (17)明治16年(1883年)創設された. 陸軍大学校は,. [黒野2004:8]。. 参謀を育てることを教育目的とした[黒野2004:. (ll)CarlPhillipGottliebvonCkusewitz(1780‑1831。. 60‑69]c. マインツ戦に参加し,連隊旗手に昇進,16歳で少. (18)メッケルは,モルトケ参謀総長の高弟の1人で,. 尉に任官した1801年,シャルンホルストが初級. 明治17年(1884年)2月,大山巌陸軍卿がドイツ. 将校のため新しく開いたベルリン軍事学校に入学. を訪問し,セレンドルフ陸相に日本の陸軍大学校. して3年間,専門分野である軍事科目だけでなく, 哲学・論理学・数学・歴史学等の基礎教養科目を. の教師派遣を依頼した際。 同相が日本へ送り込む ことを決定した軍人であった[浅野:521L. 受けた。これが後年,彼の戦争理論の中核を形成. (19)大日本帝国憲法は,明治22年(1889年)に公布. するのに影響を与えたと言われている。ナポレオ. された。 同意法は,プロイセン(ドイツ)の憲法 を模範として編纂されているが,プロイセンの憲. ン軍との戦いで皇太子アウグスト(大隊長)と共.
(12) 12. 法がナポレオン法典の影響を受けていることから, は,大日本帝国憲法下,指揮統帥事項が閣議を経 ずに統帥部,つまり参謀本部や軍令部が,直接天 自由主義的な色合いがある。 例えば,同憲法は, 解釈によっては,伊藤博文に代表される「統帥権」 皇に上奏することをいう[松下1978:314]c の独立が可能になる一方で,「統帥権」の独立は 帥MutualSecurityAct:相互安全保障法[防衛白書 不可能とする伊東巳代治の主張も存在する[三浦. 2004:1161c. 1994:ll‑14]。 ㈱昭和恐慌は,1929年の世界大恐慌によって,日. ㈱例えば,旧海軍が称した駆逐艦は,海上自衛隊. 本経済が1930年‑1931年に陥った深刻な不況のこ. では護衛艦と,旧陸軍が歩兵と呼んでいた職種は, また,階級に関しては, 普通科と呼ばれている。. とをいう[難波田19827:147‑177]。 (2D筆者が,省部派と統制派との関係について,元. 旧軍が使用した,少尉,中尉,大尉,少佐,中佐,. 旧軍軍人に質問したところ,次のような回答を得. 2催,1佐と,旧軍とは全く異なる呼び方となっ しかし,日本語以外の言語での呼称は, ている。. 省 た。「省部派は,必ずしも統制派とはいえない。 部派は,陸軍省や参謀本部に勤務する陸軍大学校 省都派の中には統制 卒業生を指す言葉であった0 派以外の中間派と呼ばれるグループがあり,それ らのグループは,自分達が統制派とは異なること 省 を強調しようとして,自らを省部派と呼んだ。 部派の代表は,敗戦時の阿南大将であり,統制派. 大佐は,自衛隊では,3射,2尉,1尉,3催,. 旧軍,自衛隊,双方変化はない。 したがって,自 衛隊に関しては,外国語と日本語での表現の仕方 が異なるという二重構造になっている。 ¢9)日本の自衛隊にも,医官として女性海将が存在 した。これは,特殊技能を必要とする職種におい てであり,例えば,人事等の実戦部隊ではない職. 域においてでさえ,日本では,女性将官が誕生し の代表は,東条英機である」という。 但g)「孫子の兵法」は,(D戦いはなるべくしないよう 米軍では,人事担当の将軍が存在して ていない。 にすること,(塾情報収拾が重要であること,③合. いる。. 理的・科学的な戦いの原則を主張,(彰統率(リー. (30)このような地方自治体レベルでの,自衛官に. 対する厳しい扱いに関するエピソードは,筆者 ダーシップ)の本質を指摘したこと,にその特徴 日本には「続日本紀」(760年)の条に「孫 が,現役自衛官からしばしば聞かされたものであ がある。 子の兵法」の記録があり,当初は兵学として日本 る。決して,誇張して表現されているものではな しかし,江戸時代になる く,日常的に,市町村民として受け入れてもらえ の武人に学ばれていた。 と,「孫子の兵法」を知識体系として,武士の間で なかったという。 明 教養として身につけようとする傾向がおきた。 治以降は,再子は,個人レベルで研究され,読み. 参考文献. 継がれた[金谷1963:25]。. 浅野祐吾,「近代日本におけるクラウゼビッツの影. ㈱尾崎行雄や犬養毅は,軍部におもねることなく, 響」『戦争なき自由とは』日本クラウゼビッツ協会。 「産業立国」を重視し,軍備の縮小を図るべきであ 生松敬三,『社会思想の歴史』岩波書店,2002年。 しかし,後に両者は変節すること ると主張した。. 石光真人,『ある明治人の記録』中央公論社,1971年。. になった[岡1990:210‑300]c. 伊藤正徳,『軍閥興亡史』2巻,文芸春秋社,1958年。. 糾天皇機関説は,天皇の権限を憲法の枠内にとど. 猪木正道,『軍国日本の興亡』中央公論社,1995年。. め,議会が天皇の意思を拘束できるとする[猪木. 色川大吉,『自由民権』岩波新書,1981年。. 1995:85]c. 同義武,『山願有朋』岩波新書,1958年。. eS)天皇神権説(天皇主権説)は,大正元年以来, これは,穂積八束の憲法学を 上杉慎吾が唱えた。. 間義武,『近代日本の政治家』岩波書店,1990年。. 踏襲し,天皇の主権を神聖なものとして,天孫降. 大塚久雄,『社会科学の方法』岩波新書,1966年。. 大塚久雄『共同体の基礎理論』岩波書店,1955年。. 臨以来続いている日本独自のものとして「国債」 金谷治訳,『孫子』岩波書店,1963年。 を詳細に述べた[猪木1995:85]c. 黒野耐,「近代における日本陸軍の軍備構想一質と. ㈹椎は垂れ幕,糎は引き幕の意味で,昔の中国の. 量のかっとう」『防衛研究』第20号,1998年。. 陣営で使われたことから来ている。 「椎帳上奏権」. 黒野耐,『参謀本部と陸軍大学校』講談社現代新書,.
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