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価値論と差額地代論における基礎的諮問題

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(1)

価値論と差額地代論における基礎的諮問題

l

仙田久仁男氏の﹁労働実体を欠く価値の存在と差額地代﹂に寄せて││

i

/¥ 

上 周

七 λ 五 回 三 二 一

はじ

めに

同一経営内の平均価値説

社会的価値をどう理解するか

﹁市

場価

値1平均価値﹂説と﹁市場価値U大量商品の個別的価値﹂説

異種生産部門の相互依存関係説

仙田氏による﹁虚偽の社会的価値﹂解釈価値論より生産価格論への簡単な数字例による上向的解説

はじめに

仙田久仁男氏は論稿﹁労働実体を欠く価値の存在と差額地代

1 1

市場価値の法則といわゆる源泉問題

i

│﹂

(島

大学法文学部紀要法学科篇﹃経済学論集﹄第五号︑昭和五四年一O月︑以下仙田論文と略称)で︑価値︑社会的価値︑市場価

値および差額地代について氏の解釈を発表された︒

価値論と差額地代論における基礎的諸問題

一七

(2)

価値

論と

差額

地代

論に

おけ

る基

礎的

諸問

/¥ 

氏はこの論稿以前に発表された﹁価値法則︑価値の分割法則と地代﹂(同上︑第四号︑昭和五三年所載)および

一「

農における価値生産と農産物価格形成に関する一試論﹂

ハ﹃

農業

経済

研究

﹄第

四七

巻第

一号

︑昭

和五

O年

)の

論文

で︑

差 額

地代の源泉に関する氏の解釈を示しているが︑氏の結論と﹁ほぽ同じ結論は︑すでに花田仁伍﹃小農経済の理論と経

済﹄︑御茶の水害房︑昭和四六年︑五一

t

五頁に示されている(守屋典郎﹃日本マルクス主義理論の形成と発展﹄青木書

底︑昭和四二年︑二三八頁がこれを支持している)付記しておかねばならない﹂

(仙

田論

文︑

一四

三ペ

ージ

)と

のべ

てい

る︒

氏は差額地代論争における﹁生産説Lや﹁流通説(流入説)﹂の双方を否定されたうえ︑自説の正汁なことを強調さ

れているのだが︑しかし︑私は氏の見解は興味深いものではあるとしても︑価値論︑差額地代論の根本に関わる賛同

し難い論点がそこに含まれていると考える︒

同一経営内の平均価値説

そこで以下氏の所説を検討しよう︒氏はまずマルグスの差額地代第一形態論を次の四点に要約できるとする︒その

けは土地はその自然的条件を異にしているのが通例であるから︑同じ面積に同じ同額の資本を投入し︑同じ種類の生

産物を生産しても地片ごとにその生産量に差異が生ずる︒口したがって単位生産物あたりの価値量は異なる︒同この

結果生産性の高い土地を耕す資本に超過利潤が生ずる︒同この超過利潤は地主に地代として移譲される︒

右の四点をマルクスにしたがって補足するとして氏は川優等地の有限性︑川土地経営の独占をあげ︑土地経営の独

占は有限な優等地を一部の資本家が独占的に経営することであり︑その裏には劣等地しか経営できない別の資本家が

存在しており︑このようなときに同じ商品でありながらその価値量はことなるとのべ︑この点をわかりやすく説明す

(3)

るためには︑これと反対に土地経営の独占がない状態を想定してみるのが便利と思われるとして︑次のようにいう︒

﹁たとえば︑優劣二種類の土地があって︑二人の資本家がこれらをそれぞれ同じ面積ずつ平等に分けあって耕作して

いると仮定しよう︒土地に優劣がある以上︑この場合とてそれぞれの経営内で土地ごとの生産性の差は生れてくる︒

だから︑それにしたがって資本を区分すれば︑そこには単位あたり生産物の価値量のちがいもあらわれてくる︒だ

が︑そのちがいは経営内ですぐ平均化されてしまって外部には顕現しない性質のものであろう︒なぜなら︑この資本

の区分は単にたまたま投入した土地の自然的条件が異なるということだけから生じたにすぎず︑資本の側からの何ら

かの必然性があっておこったものではないがゆえに︑一人の資本家にとってこの区分に固持する根拠はなく︑むしろ

一経営内の資本ははじめから全体としてひとまとめをなし︑その各部分がどんな土地を耕して相互にどんなちがった

結果をもたらそうとそれにかかわらずつねに全部の生産量に対応する

!i

どの資本部分もすべて同じ生産をしたとす

るーーかたちをとるからである︒くりかえすと︑一つの経営のなかでいちどきに同じ生産物に対して投下される資本

はそれでひとまとめである︒かりにそのなかで生産性の高い資本部分とそうでない資本部分とができたとしても︑生

産されたまったく同じ生産物をみてどれが価値が高くどれが低いなどと区別できるはずがなく︑結局どの生産物も投

下資本全体でつくられたとみなす観念が支配するのである︒そうであればこの例において二つの経営の聞には生産物

価値の差はないであろう︒﹂(仙田論文九七ページ︑傍点原文)

右の論旨││同一経営内では生産性がことなる部分があっても︑投下全資本が等しい生産性をあげたとみなして平

均化されるーーを氏は次のように説明する︒

﹁た

とえ

ば︑

一人の農業資本家がある商品をつくるとして︑全体で一五

O

の価値ハ移譲される価値も新たに生みださ

価値論と差額地代論における基礎的諸問題

/¥ 

(4)

価値

論と

差額

地代

論に

おけ

る基

礎的

諸問

/¥ 

れる価値も含めて)が生産物に付加されるように投資したと仮定する︒さらに︑この場合は優︑中︑劣三種類の土地が

同じ面積ずったがやされて

l

ーしたがってそれぞれの土地の生産物には各々五

Q

ずつの価値がつけ加わる││優等地

には三

O

単位︑中等地には二五単位︑劣等地には二

O

単位の生産があったとしよう︒

これをもとに商品の単位あたり価値量を問うと︑正確には優等地の生産物は一%︑中等地のそれは一一︑劣等地のも

のは

v n になるところだが︑こうしたときにはそうではなく︑すべての生産物についてニになるというのがささの議

論であった︒この理由は︑くりかえしになるが一つの経営のなかでは︑いちどきに同じ生産物に投下された資本はそ

れで一つのまとまりをなし︑つけ加えた価値の総額をもって全生産量に対応するかたちをとる点にある︒つまりこの

例では一五

O

の価値が七宝単位の生産物に入ったという見方が支配するのである︒﹂(仙回論文︑一O

一 一

l一O

一 一 一 ペ

ー ジ ﹀

の数字による説明はやや不明確と思われるので私なりに以下のように解釈しよう︒まず優︑中︑劣の各等級地に

工業の平均資本が投下され︑その生み出した価値の総計がそれぞれ五

O

の価値観であるとする︒次に右の劣等地は︑

同種農産物全体の耕作圏のなかでの最劣等地なのか︑それとも︑その農業資本家の耕地のなかでの劣等地であフて︑

耕作圏内の最劣等地にくらべるとそれよりは優等地でるあのかが不明確なのであるが︑前者の場合なら表Aが成立す

るのであって︑この農産物の価値がニとなることはない︒いうまでもなく農産物の価値は最劣等地の個別的生産価格

(工業の平均資本投下を前提とした場合は個別的価値と一致する)によって規定されるからである︒

また後者の場合なら︑例えば最劣等地への平均資本投下による生産物の個別的生産価格(個別的価値﹀がこの場合に

は次の表Bが成立する︒したがってこの農業資本家は平均利潤のほか︑総計七五の地代に転化する超過利潤を入手す

(5)

A

個別的価手告竺んー

市格竺

地 + 

類 V  産

生 当 当 当

産f尚三h

ε 

代と

m  量 産 )り

劣 等 地 50  20  2Yz 

。 。

中 等 地 50  25  2  2Yz  %  12Yz 

俊 等 地 50  30  1% 

25 

︑ ︐

nu RU

u

' 1 1 i

A

表 B 最劣等地 劣 等 地 中 等 地 優 等 地

しかし仙田氏はA︑B

表のいずれの解釈でもなく次のように理解す

る︒すなわち一ケ当り個加的生産価格二の生産物が七五単位生産された

のであるから︑最劣等地の個別的生産価格

(1

市場

生産

価格

)一

二と

の差

一が一個当りの超過利潤(差額地代)であるから総計七五の超過利潤を

入手する︑という解釈である︒私のB表でも七五の差額地代が生じてい

るので︑結果としての地代の量一は一致する︒しかし価値論の考え方とし

ては大きな差がある︒なぜなら仙田氏は﹁生産されたまったく同じ生産

物をみてとれが高くどれが低いなどと区別できるはずがなく︑結局どの

生産物も投下資本全体でつくられたとみなす﹂のであり︑﹁投下した全

資本が等しい生産性をあげたとみなして平均化される﹂と理解している

が︑私見は各等級地ごとに個別的価値ハ一%︑二M

﹀が

成立

し︑

そ れ ら

が平均化されて︑例えば氏のように︑二となることはないとしているか

らである︒なるほど結果として︑同一生産物であるか︑り︑その使用価値

体から個別的価値量の差は読みとることはできないが︑だからといって

個別的価値のちがうそれぞれの商品が︑同一経営内の生産物だからとい

う理由によって︑平均化されるということにはならない︒両者は全く別

の事柄である︒現象的には区別できないととと︑それを理論的には明確

価値論と差額地代論における基礎的諸問題

一八

(6)

価値論と差額地代論における墓礎的諮問題

一八 四

にでさることは別のことであり︑後者が科学の任務とするところである︒例えば農産物価値のなかに︑差額地代部分

がどれだけあり︑絶対地代部分がどれだけあり︑資本に帰属する平均利潤部分がどれだけであるかを結呆としての利

潤総額からは区別しがたいのであるが︑にもかかわらず理論的には区別して認識され︑平均利潤︑差額地代︑絶対地

代がそれぞれの法則にもとづいて明かにされなくてはならないのである︒﹁生産された生産物をみてどれが高くとれ

が低いなどと区別できるはずがない﹂としても︑そのことによって優等地と劣等地の生産物の個別的価値の差の存在

を否定したり︑無視したりしてはならないのであり︑経首内の各個別的価値から平均価値を経営者は計算できるし︑

また現実に企業全体の利潤計算のために計算しているであろうが︑このことは悶一経営内のあれこれの資本部分がそ

れら同一生産物の個別的価値を異にしていることを否定するものではないのである︒

しかるに氏は︑工業生産物についても﹁同じことは︑農業部門にかぎらず工業部門でもおこりうる︒一人の資本家

がもっ資本条件が均一ではなく︑ある資本部分は生産性が高いが︑別の部分は低いといったような場合がそれであ

る︒個々にみれば︑商品の単位あたり価値量は相互に異なってくるであろうが︑しかしそれらは平均化されてみな同

じ大きさの価値をちつものとなるはずである︒﹂ハ仙担論文︑一O一一一ページ)とのべている︒しかし︑この場合も︑平均

化されるのではなく︑各資本部分の生産物の個別的価値は異なっているのであって︑ただその産業資本家が経営内の

同一生産物のそれぞれの資本部分の個別的価値から︑経営内でのその生産物の平均価値を計算できるし︑また経営者

として計算するだろうというだけのことである︒

いうまでもなく各個の資本家の目的は利潤であるから︑企業全体として︑どれだけの利潤が入手できるかが︑彼に

とっての関心事であり︑したがってそれぞれ伺別的価値を異にする生産物があっても︑生産性の高い部分の利潤と低

(7)

い部分の利潤(それは場合によっては負の利潤のこともあろう)が合計されて︑その結果としてどれだけの利潤が︑

σ

資本家に入手できるかということが資本家の関心事であり︑したがって同一経営内での同一生産物の価値は平均化さ

れる︑とみるのは結果としての利益が︑経営内ではどれだけであるかという経営者の視点としては当然の配慮ではあ

ろうが︑しかし理論的な考察においては︑あくまでも︑同一経営内でも︑あれこれの生産現場の相違によって生ずる

諸個別的価値の相異を︑区別して認識しなくてはならないと考える︒商品の価値量規定について︑氏も引用されてい

るようにマルクスは次のようにのべている︒

﹁ある使用価値または財がある価値をもつのは︑それらのうちに抽象的・人間的労働が対象化または物質化されて

いるからに他ならない︒では︑それの価値の大いさは如何にして度量されるかそれに含まれている﹃価値を形成する

実体﹄すなわち労働の分量によってである︒労働そのものの量はそれの時間的継続によって度量されるのであって︑

労働時間はさらに︑時間・日などのような一定の時間部分をその度量基準としている︒・・・・ある使用価値の価値の大

いさを規定するものは︑社会的に必要な労働の分量︑または︑その使用価値の生産のために社会的に必要な労働時間

に他

なら

ない

︒﹂

(マ

ルク

ス﹃

資本

論﹄

長谷

部文

雄訳

︑青

木書

庖︑

第一

部(

上)

一一

t

一 一 一

0

つまり商品の価値の大きさはその商品を生産するための社会的必要労働時間によってきまるということであり︑あ

る資本がその生産物の個別的価値を平均したものが︑その資本にとっての︑その商品の価値であるという説は成立し

ない︒このことについて仙田氏は次のようにいう︒

﹁この文章(マルクスの前掲文││井上)と上来のべてきたこと(仙田説を指す││井上)を比較すると︑双方には内容的

なちがいがあることがわかる︒前者は︑商品の価値の大きさをそこに投入されている社会的必要労働の量として︑す

価値論と差額地代論における基礎的諸問題

一八

(8)

価値論と差額代地論における基礎的諮問題

一八 六

なわちその商品が本来的にもっている価値のままに正確に規定している︒これに対して後者は︑商品の一部分につい

ては商品が本来もつ量とはかかわりのない別の額で規定することを認めているのである︒上の例でいえば︑本当は一

%︑二Mの価値をもっ諸商品がいずれも二の価値をもつものとされているように︒このちがいはどこからきているか

といえば︑それは議論の前提になっている場の相違︑抽象度の相違によっている︒マルクスの文章の方はまだ経営と

いう要素がなく︑したがって商品が個々に一単位ずつ問題となる状態を前提にしているのに対して︑他の方は経営と

いう要素が入って︑本来の価値額が同じではない諸商品が経営ごとにまとめられて問題となる状態を前提にしてい

る︒前者が抽象度が高く︑後者がより具体的という相違である

o L (

田論

文︑

O

二 二

O四

ペー

ジ)

しかしマルクスの社会的必要労働時間の規定と仙田氏の同一経営資本内の平均価値説との差異は抽象的規定と具体

的規定のちがい︑つまり抽象度の差であろうか︒そうではないであろう︒拍象度の差という場合は︑その本質規定は

同一であることが前提されていなくてはならないのだが︑マルクスと仙田氏では価値論理解の質が異なっているので

ある︒仙田氏は﹁商品価値の規定は抽象の度合が低くなると︑緩和してくるないしは幅をもってくるということであ

る︒はじめの抽象的な規定では︑商品の価値はそれに含まれている社会的必要労働の量として︑どの商品についても

厳密に与えられていた︒それが具体化がすすむと︑商品によっては必ずしもそれにとらわれず︑自らがもっている労

働量とは関係なく︑一定の価値量を表示するところも可というように変化したのである︒商品価値の規定とは決して

固定的ではなく︑このようなものであることを強調しておかねばならないよ(仙田論文︑

O四ページ︑傍点原文)とい

われるが︑そうではなく︑商品の価値が社会的必要労働量によって規定されるということ自体が︑社会的必要労働量

別言すれば社会的価値以上の生産物︑又は以下の個別的労働量︑つまり個別的価値の生産物は︑それらの個別的価値

(9)

を社会的価値として主張できないことを意味しているのであり︑抽象的規定が具体化されることによって商品の価値

の規定が鰻和されたり︑変化したりするのではない︒氏は﹁商品が自分の価値とは別の価値額をもっというのは︑も

とより無原則的にあるわけではない︒一般的にいえば︑諸商品が個々別々にとりあげられるのではなく︑一つの枠内

で複数個がいっしょに問瞳にされ︑そのなかから外にむけて統一した﹃平均見本﹄

(マ

ルク

ス﹃

資本

論﹄

長谷

部訳

︑青

室開

底︑

第一

部(

上﹀

一二

O質)がっくりだされるさい︑その見本の額とは一致しない他の商品が同じ額に平準化される

場合に限られる︒そしてこれまでのはなしでは︑この枠とは経営でゐったが︑その枠が生産部門にうつるとき︑この

ことは再び生じるのである︒同種類の商品を生産する諸経営がつくる一生産部門からは︑統一した市場価値が成立す

るからにほかならない︒個々の経営によって規定されてきた価値額が市場価値に一致しない商品は︑いまいちとその

額に修正されるであろう︒﹂(仙田論文︑一O四ページ︑傍点原文︑ゴデは井上﹀といわれるが︑ここで﹁自分の価値﹂とい

うのは個別的価値のことであり︑﹁別の価値﹂とは社会的価値のことであろう︒そしてマルクスは競争の結果︑個別

的価値から社会的価値(き︑りには市場価値)が成立するとしているのであって︑勿論その成立は無原則的ではなノ¥法

則的に成立するのである︒氏は﹁平均見本﹂の成立の枠を︑﹁これまでのはなしでは︑この枠とは経営であった﹂と

するのであるが︑それは氏の独自の考えであって︑マルクスにあっては︑枠ははじめから同一生産部円であって︑経

営が枠であるという考えはマルクスには存在しない︒

個別的価値それ社会的社会の成立︑個別的価値から市場価値の成立のいずれの場合も枠は同一生産部円であり︑こ

の枠内の競争によって︑社会的価値︑市場価値が成立するのである︒勿論︑現実には同一生産部門内の競争は異種生

産部門聞の競争と不可分に結合しているのであるが︒

価値論と差額地代論における基礎的諸問題

一八

(10)

価値

論と

差額

地代

論に

おけ

る基

礎的

諸問

しかし仙田氏は同一経営内では平均価値が成立するが︑同一生産部門内では︑必ずしもそうはならないという氏の

主張を展開するため︑続いて次のようにのべる︒

﹁さて︑このように商品の価値に修

E

がおこりうるというとき︑重要な論点はそうしてできあがった商品価値の総

額(見本の額に商品数を乗じたもの)とはじめにつくられた価値の全額との関係はどうか︑もっと直接的にいえば︑前者

はすべて労働実体をもつものとして把握できるかどうかである︒自らの価値額より小さい価値に平準化される商品は

ょいとして︑問題はその逆︑すなわち小さい価値しかもたない商品がそれより大きな価値額をもつにいたる場合であ

る︒不足分が生れるとすればこちらのことであるからである己(仙田論文︑

O囚J

O

五ペ

ージ

)

何故︑自らの悩値額より小さい価値に平準化される商品の場合ならよくて︑逆の︑小さい価値の商品が大きな価値

をもっ場合だけが問題となるのか︒後者の場合が問題になるなら︑当然前者の場合も問題にならなくてはおかしい︒

そもそも個別的価値が社会的価値より︑大か小の場合があっても︑それは当然のことなのである︒氏は﹁かかる観点

からこれまでのことをふりかえると︑一経営内の平準化に関してはそれはないといえる︒平準化に価値の足りない商

品は︑余分にある商品からゆずり︑つけていることはさきにみたとおりである︒この場合はつくられる円平均見本﹄は

全体の平均値であり︑平準化は平均化であって不足はでてこないのである︒すべて労働実体をもっている︒﹂(仙国論文

O五ページ﹀とのべていろが︑氏は同一経営内の個別的価値の算術平均から︑経営内の平均価値を求めていたので

あるから︑右のことは自明なのであるが︑氏は更に右の視点から市場価値の問題をとりあげて次のようにいう︒

﹁しかしながら︑市場価値の形成にかかわっては︑このことは一概にいいがたい︒前にも述べたように︑経営をこ

えての平均化はありえないのであるから︑市場価値が一生産部門全体をまとめたかたちでの﹁欝酋菌¥ゆ割出陶酔帥﹂

(11)

という関係でわりだされることはない︒したがって︑市場価値が落ち着く額によっては不足分が生れる可能性があ る︒定まった市場価値と同じ価値額をもっ商品ばかり︑ないしはそれより大きい価値額ばかりがみられるときはよ

い︒前の場合はいうに及ばず︑後の場合はそこで魔棄されればよいからである︒だが︑小さい価値しかもたない商品

が一個でもあるときは︑この可能性が現実化する︒経営聞の一41均化がないとい︑7ことは︑経営をこえての価値の変動

︑︑

がないということで︑それゆえにこのさいは他経営から価値の補てんをうけるわけにはいかない︑さりとて一経営内

ではもはや価値をふやすわけにもいかないのである︒

ここで︑部門全体として︑はじめにつくられた価値総額が市場価値に荷品数をかけた額に等しいとか︑それをこえ

ているとかいうことは何の意味もなさないことを明確にしておかねばならない︒くりかえすが︑一生産部門内で経営

をこえての価値の平均化がないということは経常聞の価値の移動はないという乙とで︑一方に市場価値に満たない価

値をもっ商品があって︑他方に市場価値を超える価値をもっ商品があっても︑前者は後者から価値をゆずり︑つけるこ

とはできないのである︒余分の価値をもっ商品の方では︑その部分をそこで廃棄するのみである︒だから価値が不足

している商品は依然として不足のままにとどまる︒﹂(仙田論文︑一O

五︑

lジ︑傍点原文)

ここでも氏は﹁経営をこえての平均化はありえない﹂とのべているが︑既迅のようにここに氏の所説の独自性が示

されている︒そこで個別的価値からの市場価値成立のメカニズムを氏はどのよ︑コに理解されているかが当然問題とな

らざるをえない︒市場価値はどのようにして成立するかという問題である︒氏の所説をさらにみよう︒

﹁そうであれば︑そういった一部の商品については︑価値の根拠をもたないままにそれだけの価値をもつことにな

るだ

ろう

一定の価値額を表示しているのに︑その実みずからがもっるでいる価値はそれより少ないという商品がで

価値論と差額地代論における基礎的諸問題

一八

(12)

価値論と差額地代論における基礎的諸問題

一 九 O

てくるであろう︒このことは︑あるいは異常と思えるかもしれないが︑商品価値の規定が変化するということの前に

は容認をせ空られる事柄である︒本来は小さい価値しかもたない商品もそれより大きい市場価値の形成をみれば︑そ

れと同じ価値額をもつことになろというのがさきで︑そこに不足が生れるか生れないかは結果にすぎない︒仮に不足

していても︑それで商品の外観がかわるわけではなく︑またそうしたことを公表するわけでもない︒そのようなこと

に関係なく︑それは同種の他の尚品とも等しく市場価値に相当する価値額をもつものとしてのあっかいをうけるはず

であ

る︒

かくてこのような場合は︑労働実体を欠く価値が存在することになる︒廃棄される価値額とのさしひきがあるので

つねにとはいえないが︑もし市場価値が最も高い価値をもっ商品にあわせて定まって廃棄される価値がないとすれば

社会全体としてはその分だけの量をふやすことになるのであるo

(仙

田論

文︑

O六ページ︑ゴチ井上)

右で氏は︑市場価値の規定如何によっては︑価値以上の市場価値が成立するとのべている︒ここでは市場価値の規

定そのものについて︑氏はまだ述べていないのであるが︑しかし︑右で氏が価値と表現しているのは﹁市場価値一の

ことなのか一個別的価値﹂のことなのか︒もし︑個別的価値のことなら︑氏も御承知のように価値は本来個別的価値

ではなく︑社会的価値リ市場価値のことなのだから︑右の文章そのものが成立しなくなってしまう︒つまり﹁一部の

商品については︑価値(個別的価値と置き換えてみよう)の根拠をもたないままにそれだけの価値(市場価値と置き換えて

みよう)をもっということになってしまうからである︒いうまでもなく︑ある商品がその個別的価値以上の社会的価

値(市場価値﹀をもつのは自明のことだからである︒

では氏は個別的価値をどのように理解されているであろうか︒氏はいうじ

(13)

﹁マルクスの市場価値規定をみるためには︑その前に彼の個別的価値

G H 尻町三含色句者向︒および社会的価値

Qa

色田

口町

田岳

山口

町向

者向

︒を

知っ

てお

かね

ばな

らな

い︒

いうまでもなく価値とは本来的に社会的なものである︒にもかかわ

らず

一見するところ形容矛盾とも思える個別的価値︑あるいは同義反復ともうけとれる社会的価値とはいったい何

をさすのであろうか︒

一個の経営によって与えられる単位あたり商品の価値の大きさのことである︒すなわち︑これま個別的価値とは︑

でのいき方を踏襲すれば︑

一個の経常という枠のなかから外にむけて統一して規定される商品の価値額のことであ

る︒

﹂(

仙回

論文

︑一

O六ページ︑傍点原文)

右の個別的価値の規定は︑一個の経営がその資本の各部分で不等な生産性をもっている場合︑その平均価値が︑そ

の経営の個別的価値であるという理解を排除するなら正L

い ︒

つまり同一経営内でも︑同一生産物を雫一産するにあた

り︑不等な個別的価値をもつならば︑その経営は︑それらの個別的価値を認めればよいのであって︑経営者の視点か

ら︑その平均価値が問題となり︑全体としてとれだけの利潤を入手出来るかが問題であるとしても︑そのことによっ

て複数の個別的価値が存在することを否定してはならないということである︒

社会的価値をどう理解するか

さて次に社会的価値であるが︑氏は﹁社会的価値とはそうして存在する様々な個別的諸価値のうち︑社会的に標準

的な生産条件のもとで規定される個別的価値のことをとくにいう︒これまでの行論をふまえていいなおせば︑価値の

実体となりうる質をはじめからそなえている︑それゆえに他の労働の換算の基準となっている労働のもとで決定され

価値論と差額地代論における基礎的諮問題

(14)

価値論と差額地代論における基礎的諸問題

一九

た個別的価値︑それが社会的価値である︒ということは︑個別的諸価値のうち最も多くの企業が一致してだしてくる

個別的価値のことでもある︒というのは︑個々の経営によって生産条件がちがうといっても︑たくさんある企業のす

べてがまったくちがった生産条件をもっているわけではなく︑いくつかずつは同じものをそなえており︑それは先に

も述べたように通例は標準的な生産条件をもっ企業がいちばん多いため︑そこで規定される個別的価値が最も数多く

みられるからである︒すなわち︑一生産部門がもっ種々の個別的諸価値のなかで︑社会的に標準的な生産条件のもと

でつくられる個別的価値が︑価値額のきまり方においてもその数においても当該部門を代表するということで︑これ

をとりたてて社会的価値と呼ぶのである︒﹂(仙田論文︑一一一ページ︑傍点原文)

社会的価値とは個別的価値から競争によって成立する範曙であり︑現実の社会において︑その個別的価値がそのま

ま同時に社会的価値となるような︑社会的標準的生産諸条件と︑熟練と強度の平均労働力を充用している企業が存在

するのは偶然以外にはありえない︒マルクスは﹃資本論﹄三巻十章で市場価値の成立を﹁組合せ﹂としてとらえ︑中

位の企業が商品大量の生産する場合を﹁通常の組合せ﹂とし︑上または下の企業が商品大量を生産する場合を﹁異常

な組合せ﹂と・よんでいるが︑現実には﹁異常な組合せLも存在する場合があろうし︑また﹁中位﹂が商品大量を生産

する場合でも︑その中位の商品の個別的価値がそのまま社会的価値として成立するとは限らず︑それが社会的価値に

近似している場合が一般的だと考えられるのである︒しかし仙田氏は︑市場価値が競争によって同一生産部門内の諸

商品の諸個別的価値から成立する範曙であることを明確にされず︑社会的・標準的な生産諸条件のもとで規定される

個別的価値が市場価値だと断言される︒このような考えが布石となって︑氏の農産物の価値についての所説は以下の

ように展開されるる︒

(15)

すなわち氏は︑氏の社会的価値の規定が︑特殊な場合には︑﹁明確化しいない︑ないしは成立しないこともありう

ることを付言すべきであろう﹂として﹁個別的価値が企業ごとにまったく別々であればそうである︒もっともそうし

たときも︑この部門における標準的な生産条件をもっ企業はかならずあるわけで︑その意味では社会的価値がないわ

けではない︒ただ︑数のうえで多くでてこないという意味では成立しないともいいうる︒こうした例は工業部門では

みあたらないが││生産条件の標準化はどの企業にとっても可能なことであるから

l

︑生産条件のなかに均一化でl

きない土地の自然条件がふくまれる農業部門ではふ?っにおこる︒したがって︑農業部門では社会的価値については

問わないのが妥当であるよ(仙回論文︑一一二ページ)といわれる︒

﹁農業部門では社会的価値について問わない﹂とはいったいどういうととであろうか︒マルクスは差額地代論で︑

市場価値についてのべ︑基本表のA地の一クオーダー六

0

シリングを市場価値として把えているが︑この市場価値は

社会的価値のより具体的規定であって︑社会的価値と読みかえてもよいのである︒

マルクスにあっては︑価値│在

会的価値│←市場価値と︑価値概念が抽象から具体へと上向的に展開されているのであるから︑農業部門では社会的

価値について問わない訳ではなく︑それは市場価値という範噂によって︑より具体的に表現されているのであり︑こ

のことは工業の場合も全く同様である︒しかし氏が農業では社会的価値については問わないと理解されるのは︑氏の

価値論理解の必要上からそのようにいわれるのであるから︑更に氏の所説をみよう︒

﹁市 場価 値

H平均価値﹂説と﹁市場価値日大量商品個別的価値﹂説

氏はマルクスを次のように引用する︒

価値

論と

差額

地代

論に

おけ

る基

礎的

諮問

一九

(16)

価値論と差額地代論における基礎的諸問題

一九

﹁﹃競争がーーーさしあたり一部面でーーなしとげるのは︑諸商品の相異なる個別的諸価値から一つの同等な市場価値

および市場価格を成立させることである

o

(マ

ルク

ス﹃

資本

論﹄

︑長

谷部

文雄

訳︑

青木

喜扇

︑第

三部

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)︑

二七

一頁

)

その市場価値の形成機構について︑マルクスは次のようにいっている︒

﹃市場価値・・・・が︑相異なる生産者によって生産される個々の商品の個別的価値から区別されねばならぬであろ

ぅ︒若干のかかる商品の個別的価値は市場価値以下であり(すなわちその生産のためには︑市場価値が表現するよりも僅か

の労働時間しか要しない﹀他のそれは市場価値以上であろう︒市場価値は︑一面では︑ある部面で生産される商品の平

均価値と見なされる八きであり︑他面では︑その部面の平均的諸条件のもとで生産されてその部面の生産物の大量を

なす高品の個別的価値と看なされるべきであろう︒﹄

(向

上︑

二六

七頁

︑傍

点!

│引

用者

︒)

(仙

田論

文︑

一一

t

一一

一二

ージ)

そして右のマルクスの叙述には市場価値についての二つの規定が含まれているが︑そのうちの一方は誤まりで︑他

方が正しいとして次のごとくのべる︒

﹁よく指摘されるように111マルクス自身は同内容とみているようだが111︑ここにはニつのちがった内容がいっ

しょに論じられている︒すなわち︑市場価値は一部門のすべての企業の﹃同岡山川相同HO

調

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‑ m (

︿+

務苫﹄を﹃その部門の全商品生産量﹄冨

)S

で除した平均価値額によって規定

されるという考え方(個別的諸価値の加重平均値といっても同義﹀と︑そうではなく︑市場価値は一生産部門において数

のうえで最も多くを占める個別的価値によって規定されるという考え方とがならんで見受けられる︒同平均価値﹄と

2

一 一 一 口

業 が ︑

﹃平

均価

値で

の︑

つまり両椋端(よりすすんだ生産条件と逆におくれた半産条件││引用者﹀のあいだに横た

(17)

わる商品大量の中位価値での商品﹄

(マ

ルク

ス﹃

資本

論﹄

︑前

掲邦

訳︑

第三

部(

上)

︑二

六頁

) というっかわれ方をしている のをみると︑あるいは前者の単なるいいなおしかとも思えるが︑別の箇所でさらに明確な部門内平均化説が展開され ていることをおもいおこすとき︑やはりこの文章は二様の内容をもっているといわなければならない︒

結論を先にすると︑市場価値の規定は︑大量を占める個別的価値に等しいという立場に統一して理解されるのでな ければならない︒それは︑市場価値はどのような原理によって規制されるのかという点の追求からおのずと与えられ

一一三ページ)そして市場価値を規制する原理を次のようにのべる︒

﹁市場価値の規制をおこなう原理は社会の需要をみたすにはどの個別的価値をもっ商品まで生産を可能ならしめた

らよいかというものである︒ る事柄である︒﹂(仙国論文︑

さきにも述べたように︑市場価値とは︑ここではその商品が実際に販売される価格であ る︒そして︑個別的諸価値は相対的に小さいものから大きいものまで一定のはばをもって散在している︒したがって 市場価値の額に応じて︑その水準以下の個別的価値をもっ商品は価値どおりないしは価値以上に売れてひきつづきの 生産を可能とするが︑その水準以上の個別的価値をもっ商品は価値以下での販売を余儀なくされてひきつづきの生産 を不可能とするというかたちでは社会の供給量が変化する︒そこで︑社会的需要を充足させ必要量を確保するには︑

どの額の個別的価値をもっ商品まで生産させるか︑個別的価値の小さいものから大きい方へ順にとっていってどの大 きさの個別的価値の商品までおさえればよいかということが市場価値規定の原理となるわけである︒最後に必要とさ れた商品の個別的価値︑それが市場価値の額を決定するということである︒すなわち︑原則的には︑市場価値は一生

産部門において最も高い個別的価値(たいていは最もおくれた生産条件をそなえた企業によって生産された商品の個別的価値)

││これまでの前提では生産された商品はすべて需要供給一致のために不可欠としているのでこういういい方ができ

価値論と差額地代論における基礎的諸問題

一九

(18)

価値

論と

差額

地代

論に

おけ

る基

礎的

諸問

!

l

に等しい水準に決定されると論定できる︒﹂(仙回論文︑

一九

一 一 一 二

l

一一

四ペ

ージ

︑傍

点原

文)

そこでまずマルクスが市場価値を)面では平均価値と規定し︑他面では平均的諸条件下での大量商品の個別的価値

と規定している点について︑前者は誤まりで後者が正しいという仙回氏の理解について検討しよう︒簡単な数字例を

あげると︑ある生産部門で一

OO

円の個別的価値をもった商品コ一

O

個と︑八

O

円の個別的価値をもった商品六

OO

と︑五

O

円の個別的価値をもった商品一

O

伺というふうに供給されて︑社会の需要をみたしているとすれば︑この六

因︒個の商品の市場価値は︑前半のマルクスの規定によれば︑八

OU

円であり︑後半の規定によれば八

O

円で

ある

仙田氏のように後半の規定を正しいとするなら︑特定の生産部門の個別的価値の総計(前例では五万一千五百円)が︑

市場価値の総計(前例では五万一千二百円)と一致することは例外であり︑したがって市場価値の総計はその部門全体

の個別的価値の総計より犬かまたは小となり︑投下総労働量と市場価値の量的関係が切断されてしまう︒

しかし右のように市場価値の前半と後半の規定を別個のものとして把えることには賛成できない︒両者の関係をマ

ルグ

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木文

庫川二七五ページ)市場価値は一つの部門で生産された諸商品の平均価値と看なされるし︑また近似的にいえば商品大

量の個別的価値とも看なされるとのべているのであって︑同一生産部門内の競争の結果成立する市場何値を数字によ

って︑ぎりぎりの点で表現したのが平均価値説であり︑﹁もちろん現実には︑ただ近似的に千姿万態の変化をしての

み現

われ

る﹂

( 関 白 日

比 け 即 日

回 目

ω・

M g ‑

訳同

二七

五ペ

ージ

﹀の

であ

る︒

したがってマルクスの市場価値の規定に矛盾はない︒

しかし後半の規定を正しいとする仙田氏は︑そこから︑さらに︑﹁市場価値は一生産部門において最も高い個別的価

値に等しい水準に決定される﹂とその論旨を進める︒この場合︑市場価値日商品大量個別的価値説がどうして市場価

(19)

値日最高個別的価値説になるのかが氏の叙述からは明確に理解し得ないが︑商品の大量を生産するところで成立する

個別的価値が最も高い個別的価値であるとの理解がそこにはあるのであろうし︑その典型が農業での最劣等地の個別

的価値が市場価値を規定するということが考えられているのであろう︒

さて︑以上みてきた仙田説は︑かつて大内力教授が展開した﹁市場価値リ商品大量個別的価値﹂説と似通っている

ことに気付くであろう︒しかし︑かつての大内説もマルクスが﹃資本論﹄の初めの部分で規定した﹁社会的必要労働

時間﹂とは異なった価値論を主張していたのであり︑この点について︑かつて私は批判的考察を試みた弓地代の理論﹄

理論

社︑

一九

六三

年︑

O一

t

六ペ

ージ

)こ

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再説すれば次のようである︒大内力教授の見解は﹁市場価値法則と差額地代﹂(﹃社会科学研究﹄九巻四・豆合併号一

九五

八年

一一

月)

に発

表さ

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﹃地

代と

土地

所有

(東

京大

学出

版会

一九五八年十月)に所収されている︒ここで教授は

差額地代を取り上げ︑農産物の市場価値が限界地の標準的経営の生産物の個別的価値によって規制される事態を問題

とし︑このいわゆる﹁限界原理﹂の本質は何かを明かにしようと意図された︒そして大内教授は問題を﹃資本論﹄買

頭の商品の価値規定の理解まで掘り下げ︑﹁マルクスはその点を﹃ある使用価値の価値の大いさを規定するのは︑社

会的に必要な労働の分量︑もしくはその使用価値の生産のために社会的に必要な労働時間にほかならない︒﹄といい︑

﹃社会的に必要な労働時間とは︑現存の社会的・標準的な生産諾条件と労働の熱練および強度の社会的な平均度とを

もって︑何らかの使用価値を生産するために必要とされる労働時間である︒﹄といっている0・・・しかしこの規定をよ

り正確に理解するためには︑:::﹃現存の社会的・標準的生産諸条件﹄というところに︑とくに焦点をあわせてみる

必要

があ

る﹂

(前

掲誌

一一

ペー

ジ﹀

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﹁商品の価値はその﹃生産に社会的に必要な労働時間﹄によって規定されると

価値

論と

差額

地代

論に

おけ

る基

礎的

諸問

一九

(20)

価値論と差額地代論における基礎的諮問題

一九

いうさぎのマルクスの命題は︑じつはより厳密にいえば︑商品の価値はその再生産のために社会的に必要な労働時間

によって規定されるといわなければならない﹂(同上︑二一ページ)と述べる︒そして教授は右の見地から︑一つの生産

部門に優︑中︑劣という三つの条件の諸資本をとりあげ︑その場合市場価値を規定するものは何かというに︑優︑中︑

劣のどこで社会的需要におうじる再生産を確保しうるかによってきまることである﹂(同上︑

一七

ペー

ジ)

とす

る︒

これ

が教授による市場価値の規定であり︑したがって市場価値が平均的価値によってきまるという説は誤りであって︑特

定生産部門の支配的部分

1

1この部分が社会的需要に応じて再生産を行なうーーを占める商品大且一患の個別的価値で市

場価値がきまるという規定が正しいとされる︒そして農業の場合﹁社会的需要は最劣等地の耕作なしにはみたしえな

いの

であ

り︑

したがって再生産のために必要な労働量は明らかに最劣等地の生産条件によって与えられている﹂

f

上︑

一二

二ペ

ージ

︾と

いう

こと

にな

ると

する

右の大内説が仙田氏所説と類似していることは明白なのであるが︑この説は次の点で誤まっている︒すなわちマル

グスのいう社会的必要労働時間の規定における﹁現存の﹂とは大内教技のいわれるように﹁商品の価値は︑それにす

でに体化された労働量︑その生産にあたって投下された労働量によって規定されるわけでなく﹂(同上︑

ぞの商品の現在の時点において再生産するにあたっての社会的標準的坐産諸条件のもとで︑労働の熱練と強度の社会

一二

ペー

ジ)

的な平均度とをもって︑その商品を生産するために必要とされる労働時間である︒しかし︑このことと︑

﹁ど

のよ

な生産諸条件で社会的需要におうじる再生産を確保しうるか﹂ということとは同じ事柄ではない︒つまり︑ある蕗品

の再生産のために必要な労働時間と︑社会的需要に応ずるための再生産をどのような生産諸条件が確保でさるかとい

うこととは二つの別な事柄なのである︒そして一商品の価値の大きさは︑それを生産するのに必要な社会的・平均的

(21)

労働時間であり︑それが︑通常は商品大量の個別的価値であり︑より厳密にいえば︑平均価値なのである︒そして同

一生産部門内の諸個別的価値からこのような市場価値が成立するのは︑同一生産部門内の競争なのであり︑この自由

競争が十分に発展しているという前提のもとで︑平均的価値としての市場価値が成立するのである︒

しかし仙田氏は自説に依拠しながら工業と農業での市場価値規定の相違について次のように続ける︒

﹁ただ︑工業部門が農業部門とちがうのは︑ここでは個別的諸価値が散在しているといっても︑同じ個別的価値を

もつ商品が非常に多くその他はきわめて少ない︑いいかえれば農業部門ほど分散していないということである︒

σ

あり方は︑社会的にみて標準的な条件をそなえている企業によって規定される個別的価値がいちばん多いという状態

になることは既述のとおりである︒それから︑工業部門ではおくれた生産条件をもっ企業も農業にくらべたら︑比較

的たやすく標準的な条件においっきうるという事情も双方のちがいであろう︒これらのことは︑市場価値の規定に︑

ある現実的な修正をもたらす︒その修正とは︑前者の作用からいうと︑本来ならば市場価値は︑あるいはほんの少数

かもしれないけれど社会的需要をみたす商品のうち最も大きい個別的価値をもっ商品によって規定されるのでなけれ

ばならないが︑大量の商品がもっそれより低い個別的価値の水準まで市場価値があがるとそれで社会的需要のほとん

どが一気にみたされ︑需要供給の均衡がほぼとれ︑したがってそれ以上に市場価値をおしあげる動力を減退させ︑結

局は大量の商品が一致してもつ個別的価値の水準に市場価値をとどまらせるというものである︒くりかえすと︑

一部

の商品はさらに高い自分のもつ個別的価値の水準にまで市場価値をひきあげようとするであろうが︑大量の商品が

一致してそれより低い価値で売ろうとし︑かっそれで社会的需要の圧倒的部分が充足されるというのであれば︑つま

るところその力の方がつよくて市場価値は多数を占める個別的価値にひきつけられて定まるということである︒後者

価値論と差額地代論における基礎的諸問題

九 九

(22)

価値論と差額地代論における基礎的諸問題二00

はその傾向をいっそうおしすすめる作用を果すと思われる︒おくれた生産条件をもっ企業は生産条件をそのままにし

て市場価値の上昇をまつより︑生産条件を新しくして対処するみちを選ぶであろうからである︒その場では価値以下

の販売しかできずに損をすることになろうが︒このようにして︑現実的な問題として市場価値は大量を占める個別的

価値に等しく規定されるのである︒﹂(仙回論文︑

一一

l

一一

五ペ

ージ

傍点

原文

)

ここでは最高の個別的価値による市場価値の規定が︑大量の商品の個別的価値が存在するなら︑市場価値規定は現

実的修正を︑つけて︑後者にとってかえられる︑と仙田氏によってのべられている︒しかしすでにみたようにこの最悪

の商品の個別的価値説そのものが誤りである以上︑それを更に現実的に修正したという説も成立しないのである︒

異 種 生 産 部 門 の 相 互 依 存 関 係 説

ところで氏が市場価値の部門内競争による平均市場価値説を否定する論拠をみると︑氏は﹁部門内平均化を否定す

る論拠としては︑このことは同じ生産部門内の多数の企業が経営の枠をこえて一つの平均値をつくりだすということ

が︑はたしてそのようなことが実際におこりうるであろうかという点を指摘すれば足りるであろう︒﹂(仙田論文︑一

一五ページ﹀として次のごとくいう︒

﹁一生産部門の企業からみてこの秩序を維持し︑自らの存立基盤をかためるには︑別の企業の存在をみとめなけれ

ばならない必然性をものがたる︒異種生産部門聞にはかかる意味で相互依存関係(﹃兄弟的﹄(マルクス﹃剰余価値学説史﹄

﹃マ

ルク

1

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一一

一一

頁︒

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ある

しか

して

特定の部門

の企業だけが過大な利潤を取得するようなことがあってはならない︒どの部門の企業も同じ率の利潤をえられるよう

(23)

にしてのみ︑諸部門の共存がありうる︒これはまさしく﹃平均化﹄の論理になる過程である︒この場合は使用価値の

種類がちがっているので︑ここに同一の生産性など問うことはできないが︑剰余価値の生産については︑実際の生産

の多寡を問わずどの部門の資本もまったく同じように生産したとみなし無差別にあつかっているからこそ︑平均利潤

率という概念が生れ︑各資本の取得利潤がそれに規制されるのである︒多くの価値を得ろ企業はそうでない企業に価

値を移動させるというかたちでの経営をこえての価値の流出入が異種の企業聞ではふつうにおこっているのはこの理

由によるよ(仙国論文︑一一六

t

一一

七ペ

ージ

︑ゴ

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井上

)

価値の同一経営内平均化説はその原価計算的︑経営者的思考という側面においては根拠のある考えではあるが︑個

別的価値と平均価値という価値論的視点か︑りすれば誤まりであり︑またここで新たに登場した氏の異部門間の相互依

存関係説もこれまた納得できない︒いうまでもなく資本の目的は利潤であり︑各個の資本は他の資本と競争しつつ︑

他との競争に打ち勝って自己の価値増殖をはかることのみを至上命令とする︒しかし︑こうした自己増殖運動も︑結

果として平均利潤率の形成を惹起し︑剰余価値の取得という側面で︑兄弟的関係をもち︑共産主義的でもあるという

のがマルクスの比験的表現であって︑氏のいわれるように︑資本がみずから﹁特定の部門の企業だけが過大な利潤を

取得するようなことがあってはならない﹂などと考えている訳ではないことは︑自由競争段階の資本主義が必然的に

独占段階へ移行せざるをえないことをみるまでもなく自明のことである︒しかるに仙田氏は︑平均利潤率の形成によ

る価値以上の生産価格の成立と︑価値以下の生産価格の成立による部門聞の価値移動を資本の相互依存関係に求める

という新説を主張されているのである︒そして以上の独特の価値論にもとづき仙田氏は価値実体のない市場価櫨につ

いて次のようにいう︒

価値

論と

差額

地代

論に

おけ

る基

礎的

諸問

O

(24)

価値論と差額地代論における基礎的諮問題二O二

﹁一商品の価値がこのようにきまってくれば︑個別的価値がそれに足りない商品はつまるところその不足分をうわ

のせするのであり︑個別的価値がそれをこえる商品はその余剰分をさしひくことになる︒とはいえすでに詳論したよ

うに︑同種企業間での価値の移動はないのであるから︑これは双方の相殺というかたちでなされるわけにはいかない︒

不足したものはそのままの状態でこのことを果すのであり︑余剰のあるものはその場で剰余価値を廃棄するのであ

る︒かりに個別的価値の総和(掛ぞ﹀糊同時口付喜一子加宣言言号︑すなわち一生産部門が全体として商品群に

f r

した額が市場価値に生産商品量を乗じた額(司部首画×ロ)に等しくても︑あるいはこえていても︑経営聞に価値の移

動がない以上︑余剰が生れた商品から不足している商品に価値を補てんすることはできないのである︒したがって︑

一個でも市場価値を下まわる個別的価値をもっ商品があらわれるならば︑その場合は明らかに生産されていない︑な

いしは労働実体をもたない価値が価値として通用していることをみとめざるをえないであろう﹂

(仙

田論

文︑

一 一 一 一 ベ

ージ傍点原文﹀

氏は市場価値を独自に規定された︒そして氏の規定する市場価値からみるなら︑﹁労働実体をもたない価値が価値

として通用している﹂ことをみとめざるをえないとする︒そしてこのことは市場価値の法則にほかならないとして次

のよ

うに

い︑

7︒

﹁市場価値より小さい個別的価値をもっ商品があるときは︑労働実体のない価値が生れる︒そしてそれが実現すれ

ば超過利潤となる︒その反対に︑個別的価値が市場価値より大きい商品ではその差額は廃棄されるので︑社会全体と

しては生産した価値額にくらべて結果的に多くなるか少なくなるかは一概にはいえないが︑もし市場価値がもっとも

高い個別的価値の水準にきまるようなことがあれば︑確実に労働実体をもたない価値部分だけ社会は多い価値をもっ

(25)

ことになる︒労働価値説という立場からは一見矛盾するようにもみえるが(そうでないことは後述

Y

こういうことは現

実におこっているのである︒それが市場価値の法則にほかならない︒本節での結論である︒﹂(仙田論文︑

一二

二ペ

ージ

)

‑'‑J

仙田氏による﹁虚偽の社会的価値﹂解釈

氏は右のような市場価値の解釈にもとづいて﹁虚偽の社会的価値﹂について次のような見解を以下のようにいう︒

﹁差額地代の源泉は労働実体をもたない価値︑同一部門内の諸企業が競争することによってできる市場価値の法則

から発生する価値の根拠のない︑しかしながらそれとして社会に通用する価値から構成されている︑と結論できる︒

その額が社会のもつ価値量としてはふえるかつこうで

Il

この場合は磨車罰される部分がないから縄粋にこの大きさが

ふえる

l土地所右者の取得するところとなるのである︒﹂(仙同論文︑二二四ページ︑傍点原文)

﹁かくて﹃虚偽﹄の意味はもはや多言を要しない︒労働実体がないということであるo

(仙

回論

文︑

二二

七ペ

ージ

傍点

原文

﹁かくして﹃虚偽の社会的価値﹄とは︑この例に即していえば︑六

00

シリングの﹁社会的価値﹂(印

O N E

叩吋

名目

立)

のうち三六

0

シリングは労働実体のない︑それゆえに吋﹄虚偽の﹄公曲目的

n S

﹃社

会的

価値

﹄(

由︒

江丘

町吋

巧叩

ユ)

であ

る︑

いうことである︒すなわち差額地代に転化する超過利潤は労働実体をもたない︑しかし社会的には価値としてみとめ

られ︑社会の総価値の一部をなしている価値部分から支払われるということである︒﹂(仙回論文︑

以上のような仙田氏の所説の特長は次の諸点にあろう︒

ごニ

九ペ

ージ

川市場価値の解釈が独自である︒すなわち氏は市場価値は﹁大量を占める商品の個別的価値に等しい﹂のであり︑

価値論と差額地代論における基礎的諸問題二O三

(26)

価値

論と

差額

地代

論に

おけ

る基

礎的

諸問

O四

この﹁市場価値の規制をおこなう原理は︑社会の需要をみたすにはどの個別的価値をもっ商品まで生産を可能ならし

めたらよいかというものである﹂とし︑﹁社会的需要を充足させ必要且一塁を確保する﹂ため﹁最後に必要とされた商品

の個別的価値︑それが市場価値の額を決定するということである﹂︑﹁原則的には︑市場価値は一生産部門において最

も高い個別的価値に等しい水準に決定されるL

(前

出)

とい

う︒

同次で右のように規定される市場価値以下の個別的価値しかもたない商品︑つまり個別的価値以上の市場価値をも

つ商品は︑価値の実体をもたない商品である︑とする︒

同このような価値の実体をもたない市場価値は︑労働価値説の立場から一見矛盾るするようにみえるが︑そうでは

なく︑それが市場価値の法則なのであるから︑それでよい︑とする︒

ω

この価値の実体のない市場価値がコ虚偽しなのである︒だから農産物にも工業生産物にも﹁虚偽の社会的価値﹂

は存在すろ︑という︒

川そして右の仙田氏の価値論理解の構成部分として︑同一経営内での平均価値の成立説と︑異種生産部門聞の資本

の相互依存説がある︒

しかし既にみたように︑川の市場価値の独自の解釈は妥当ではないのであり︑したがって川を基準にして価値の実

体の有無を論じた

ω

と川の論点も成立し難い︒また

ω

の解

釈は

マルクスが何故土地生産物について︑﹁虚偽の社会

的価値﹂とのべたかについての誤解によるものであり︑同の解釈についても︑新説ではあるが︑資本の木性からみて

到底容認できるものではない︒

しかしながら仙田氏は自説について次のようにいわれる︒

(27)

﹁前掲拙稿﹃価値法則︑価値の分割法則と地代﹄では︑地代の分析にあたっては﹃価値法則﹄および司価値の分割

法則﹄という二つの法則がまもられなければならないことが明らかにされた︒そして︑その帰結として︑地代の源泉

はあくまで農業部門にもとめられねばならないことが指摘された︒小論での結論がこの立場をつらぬき︑二つの法則

に抵触していないのは容易に確認できると思う︒農業部門内に新たな価値の存在をみとめるのであるから︑いったん

資本に配分された平均利潤額はこわしておらず︑﹃価値の分割法則﹄はまもられたのであり︑またそうしてできた社

会全体の価値から地代は支払われ︑

﹃価

値法

則﹄

もま

もら

れる

ので

ある

︒﹂

(仙

国論

文︑

一四

t

一四二ページ)

(1 ) 

そしてどうにも理解できない論点ーーーその一つは単純商品生産では剰余価値は生産されないというものであり︑そ

の二つは絶対地代がつけ加わったというだけで同じ労働が価値量を増加されるという点

1

0 1を含む見解を次のように

1v

︑ ﹁

﹁差額地代の源泉に関するものに限定すると︑大きく分けて︑﹃流入説﹄︑﹃生産説﹄といわれる説がある︒いずれも

すでにその不成立を上記までに述べているが︑さらに付言すると︑前者はまず﹃価値の分割法則﹄を絶対に堅持でき

ない点をあげておかねばならない︒少し数例をあげてためしてみればすぐわかるが︑平均利潤額を決めてそれから地

代額を決定する︑そしてそれをいったん決めた平均利潤額から徴収するというようなことをすると︑平均利潤額がか

わるのでまた地代額がかわって永久に双方を決定できなくなるのである︒循環論法から脱却できなくなるのである︒

さらに︑差額地代は資本生産制にかぎらず単純商品生産でも生ずるが︑その合場は剰余価値はどこにも生産されてい

ないから︑この説のように他部門から価値を流入させるといってもそのさきをみつけることができなくなる︒

つま

単純生産の差額地代は説明できなくなってしまうのである︒

価値論と差額地代論における基礎的諸問題二O五

参照

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