九州大学学術情報リポジトリ
Kyushu University Institutional Repository
見世物芸から「郷土芸能」へ : 長崎県南島原市深江、
カラクリノゾキの再生事例から
坂井, 美香
新潟市立高志高校 : 講師
https://doi.org/10.15017/2344601
出版情報:九州人類学会報. 36, pp.86-98, 2009-07-12. 九州人類学研究会 バージョン:
権利関係:
見泄物芸から「郷土芸鹿」へ
一是崎娯南島原市深江、カラクリノゾキの屏生事例から一(坂#)
見 世 物 芸 か ら 「 郷 土 芸 能 」 へ
—長崎県南島原市深江、カラクリノゾキの再生事例から一一
坂 井 美 香 ( 新 潟 市 立 高 志 高 校 講 師 / 神 奈 川 大 学 歴 史 民 俗 資 料 学 研 究 科 博 士 課 程 ) キ ー ワ ー ド : 「 郷 土 芸 能 」 へ 、 カ ラ ク リ ノ ゾ キ 、 噴 火 災 害 復 興 事 業
I . はじめに
これまでの芸能研究において、ある地域 の芸能が習い憶えられることにより他地 域に受け継がれ拡がっていく事例は多々 報告がされているが、流浪の見世物芸が地 域に根付き活用される事例を捉えるもの は管見の限りにおいてあまりない。確かに、
地域に伝わる芸能の中には、ムラからムラ へと廻る放浪芸が地域の中に採り入れら れ、地域の芸能として受け継がれてきたと いう伝承を持つものは多い。しかし、流浪 の芸が定着する時を捉え、その要因を把握 する機会は現代においてほとんどないと 言わねばならない。このたび筆者は、のぞ きからくり研究の一端として、長崎県旧深 江町のカラクリノゾキ1)の再生事例を詳 細に知ることができた。本稿では、そのカ ラクリノゾキの再生を事例に、流浪の見世 物芸が地域の中で再生され、「郷土芸能」
として定着をし、伝承活動の対象となる過 程を検証し、その要因を捉える作業を行う。
ところで、深江町でのカラクリノゾキ復 活は、後述するように雲仙普賢岳噴火災害 からの復興事業の一環として立案、実行さ れたものである。そういった意味では、災 害復興と民俗というテーマでの扱いも可 能ではある。しかし、本稿ではノゾキ再生 のきっかけが災害復興イベント企画にあ ったとして捉えることにしたい。
のぞきからくりとは、レンズと光を利用 し、擬似的な遠近法を用いて描かれた中ネ 夕絵2)を語りとともに見せる装置である。
大型のものは、明治の中期から昭和の初期 の時代に隆盛期を迎え、日本全国の大小の 縁日祭礼で見世物興行としてあちこちに 出された。しかしながら、現在完全な形で 制作当時の全形を所持するのは、新潟県新 潟市巻郷土資料館(旧西蒲原郡巻町)、広 島県三原市歴史民俗資料館、現奄美大島原 農芸博物館 (1988年に大阪から移転)にあ る3台だけになってしまった3)。当然のご とく、深江町でも、他地域でも、のぞきか らくりを実際に覗いた経験を持つ人々の 多くは既に 70歳を超えている。そのよう な消えゆく見世物芸のぞきからくりであ るが、深江町のぞきからくり保存会によっ て「郷士芸能」として 1998年に復活・再 生がなされ、現在も創意と工夫が積み重ね
られている。
なお、「のぞきからくり」の呼称及び表 記は近々の通称的表現であり、地域により その呼称は異なる。長崎県旧深江町では
「カラクリノゾキ」または「ノゾキ」と呼 ぶ。しかし、対外的には「のぞきからくり」
の呼称を用いている。本稿では、聞き書き 部分については地元の呼称を用いること にしたい。また、深江町は 2006年の町村 合併により 8ヶ町が併合し南島原市となっ ているが、本稿が検討する事例が合併以前
見佐物芸から「郷土芸鹿J へ
一長崎媒南島原市深江、カラクリノゾキの苺生尊例から一(坂#)
からの活動であることから、深江町と表記 する。
II. 深江町のカラクリノゾキ
1 旧南高来郡深江町(長崎県南島原市深 江町)概況
深江町は、島原半島の熊本県側に位置し、
雲仙普賢岳を背負って有明海に面してい る。主な産業は農業、生活都市圏は島原市 に属している。
長崎県南南高来郡深江町(現南島原市深 江)は、雲仙普賢岳噴火に伴う 1991年 9 月 15日の大火砕流及び、それに続く土石 流で大きな被害を受け、産業や生活は大打 撃を受けた。そして、長期に及ぶ噴火活動 と多量の土砂により復興はなかなか進ま なかった。 1996年6月、普賢岳噴火活動開 始から5年7ヶ月にしてようやく終息宣言 が出されたが、 2008年時点でも復興工事は 完了していない。
2 スミヤンのノゾキ
かつて、深江町には坂本住太郎というノ
ゾキを演じる興行師がいた。その住太郎さ んのノゾキの道具、招き看板と中ネタ絵が 深江町教育委員会に保存してあり、それら を用いて復活・再生が図られた。まずは聞 き書きした住太郎さんの商売の様子をま
とめてみた。
坂本住太郎さんは四国の人で、長崎にし ばらくいた後に 1935年前後に深江町下瀬 野にやって来た。妻の円さんは住太郎さん と長崎で一緒になった人で歌が上手く、円 さんが島原市有明町湯江の出身だったこ とから深江町に来た。深 写真1 住太郎さんの「カラクリノゾキ」 (1962年頃) 江町のぞきからくり保存
『深江町郷土誌』 (1971年)から転載 会の人は、住太郎さんの ことをスミヤンと呼ぶ。
スミヤンは下瀬野の高 原家が所有する畑の一角 に土地を借り、掘立て小 屋を建てて暮らしていた。
ノゾキをしたり〔写真l、〕 畑の手伝いに行ったり、
家を建てる時や正月にお 祓いを頼まれたりして生 計を立てていた。 1966年 にスミヤンは亡くなった が、死ぬ前までノゾキを やっていた。
深江には神社が 32社
見泄物芸から「郷土芸能」へ
一畏崎娯南島原市深江、カラクリノゾキの再生事例から一(坂左)
あり、祭りの日がそれぞれ違うため、荷車 なる土石流により更に被害は拡大した。そ で引っ張って行っては神社でやっていた。 の噴火災害からの復興を願い、1997年から 神社祭礼だけではなく、個人の家で「覗き 「ろくべえどん祭り」が企画実行された。
をしてくれんか一」と頼まれるとお金をい ろくべえとは、 200年前の普賢岳噴火の際 くらか貰ってやりに行っていた。 に廿藷の粉を用いた料理を考案、提供して、
スミヤンは車輪の径が 30センチくらい 食糧危機を乗り切ったといわれる深江村 の小さな(細んか)荷車に道具を載せて運こま の六兵衛のことである。六兵衛の知恵にあ んでいた。南は布津大崎鼻の金比羅さんか やかろうと、南高来郡深江町活性化事業実 ら北は島原の初市、安中のお大師さん、枯 行委員会によって主催され、「雲仙・普賢 木のあたりまで、歩いて 4時間あまりかか 岳噴火災害からの復興と地域の活性化を るところまでも行っていた。島原の初市に 目指す」ために企画された。
はノゾキの他にサーカスやバケモノ屋敷 そのろくべえどん祭りの実行開催にあ がでたが、ノゾキは 3月1日から 10日ま たり、深江町商工会から前「深江のぞきか でぶっとおして朝から晩までやっていた。 らくり保存会」会長、当時町会議員文教委 スミヤンのノゾキは説明付きであった。棒 員の北岡静壽さん (1924年生)に「深江に で「こうやこうや」と指して説明をしてい 伝統的な芸能はないか」と相談がもち掛け られた。北岡さんの返事は「深江にはない。
た。 しかしノゾキの原本(中ネタ絵のこと)が
スミヤンが1966年に亡くなったときに、
ある。それをやる人はいないから復活させ その小屋の2階に中ネタ絵が入った木箱が
たらどうだろう」ということだった。
残されていた。屋台は、その時点で残って
商工会の松島哲延さん (1948年生)は、
いたのか無くなっていたのかはわからな かつての上司たち(現在85'"'‑'86歳ぐらい)
い。その後、班の人が小屋を片づけるにあ
が話していた昔話を思い出したという。
たり、士地の貸し主でもあった当時の高原 「昔は 2、3銭貰って、チャンポン食べて、
教育長がもったいないと言い、招き看板と
ノゾキを見るのが楽しみだった」と。聞い 中ネタ絵を教育委員会に運び込んだ。 た当時は何のことやらわからなかったが、
1966年からしばらくの間、ノゾキの招き
看板と中ネタ絵は教育委員会の倉庫にし 北岡さんの話を聞いてやっとわかったと まわれたままだった。ところが、雲仙普賢 いう。深江にその道具があるのならと、話 はノゾキを復活する方へと進んでいった。
岳の噴火により多くの灰が降り積もり、倉 しかし、「誰も人が見つからなくて」、その 庫でも灰の後始末が行われた際に、中ネタ
年はそれきりになってしまった。
絵は外に出されたものの、灰をかぶって汚
その翌年、再度商工会から北岡さんにノ くなってしまったからとゲートボール場
ゾキ復活について再び打診が来た。それを で燃やされてしまった。当初は中ネタ絵が
受けて、北岡さんは毎日老人クラブを回っ 10組ばかりあったが、現在は2組だけが残
て人捜しをした。ノゾキの記憶を持つ人を
っている。 探し、いろいろな面白い昔の話覚えていた
前会長の水田博士さん (1920年生)の説得 皿 ノ ゾ キ 再 生 にあたった。その説得の前後に商工会から 祭り出演に伴う出演料を 10万円出すから 1 商工会の要請と保存会立ち上げ という話になり、資金があるならと水田さ
1991年9月15日に雲仙普賢岳で大火砕
んは参加を承知したという。
流が発生した。その後の多量の降灰、度重
児泄物芸から「郷土芸能」へ
長崎娯南島原市深江、カラクリノゾキの再生算例から一(坂#)
1998年7月「深江町のぞきからくり」の 「地獄極楽」などの物語を上演した。箱は、
ための「深江のぞきからくり保存会」が立 町内にあった長持ちを利用した」と伝える。
ち上がった。当初の保存会メンバーは、水 マジックショー、ひょっとこ踊り、魚のつ 田さん、北岡さん、そしてからくり絵を教 かみどりなどの企画に混じって行われた 育委員会に運びこんだ高原数男さん (1924 「のぞきからくり」であるが、祭り会場で 年生)の3人だった。 は注目され、反応は上々だったことが記事
2 第二回ろくべえどん祭り参加
以上のように、カラクリノゾキは再生が 図られることになった。復活公演を行うに あたり、演題は中ネタ絵が保存されていた
「地獄極楽」と「島原お糸事件」の二題と したが、問題は、屋台とレンズ、口上の再 生だった。屋台は長持ちを利用することに した。レンズは、その当時にのぞきからく り屋台を所持し演じていた佐賀県鹿島市 の北園忠治さん4)の元へ出向き、レンズの ロ径や屈折率を聞き、鹿島市のメガネ屋に 取り寄せて貰った。口上は、それぞれの記 憶を集め摺り合わせる作業により復元が された。「地獄極楽」は高原さんが全文を 覚えていた。また、水田さんも一部を覚え ていた。「島原お糸事件」の方は、当時 95 歳だった中川チョノさんが歌を覚えてい た。それらを筆録し、口上とした。
1998年第二回ろくべえどん祭りに参加 した。当初予算は 10万円のみ、それでレ ンズを買い、家にあった長持ちに中ネタ絵 をいれ、高原さんと水田さんが口上を歌っ た。間に合わせで電気もなかったため、初 めての公演時には箱の中は真っ暗、よく見 えなかったという。
1998年8月24日付朝日新聞は、「会場で は中学生のブラスバンド演奏や魚のつか み取りなど数々の催しがあった。今回は、
昭和初期ごろまで祭りなどで楽しみだっ た、独特の節回しの語りを聞きながら箱の 中の絵をのぞき穴から見る「のぞきからく
り」が登場。お年寄りや子どもたちが楽し んだ。町内のお年寄りや4人が語りなどを 務め、町が保存している「島原お糸事件」
から伺える。
3 記憶から屋台と口上歌を再生する 初めての公演は好評で、ノゾキの更なる 再生が期待された。そこで、ろくべえどん 祭りに出演した出演料に加え、深江町から 200万円が助成されて本格的な再生と継承 への取り組みが始まった。
まず、「地獄極楽」、「島原お糸事件」の 他に、「八百屋お七」、「武男と浪子」、「先 生と生徒」の口上が再生された。最初のロ 上筆録時に、高原さんや中川チョノさんの 記憶していた他の口上歌も記録、録音がさ れていた。高原さんは「地獄極楽」「先生 と生徒の物語」を記憶していた。高原さん の父親が祝い事や何かにつけてノゾキを 呼び、歌わせていたのを覚えたのだという。
当時 95歳だった中川チョノさんには、覚 えていた「武男と浪子」「島原お糸事件」「八 百屋お七」の三曲を紙に書いてもらった。
水田さんが中川さんに頼みに行ったとこ ろ、中川さんは声も好く、ノゾキの歌をし っかりと覚えていて、即座に歌い出すほど であったという。水田さんが新たな3曲も 所々を覚えていたため、節回し共々に再生 するのはそう難しいことではなかった。
口上歌 5曲は歌えるようになったが、覗 いて見る中ネタ絵がなければ「のぞきから くり」にはならない。とりあえず、保存さ れていた中ネタ絵の「地獄極楽」「島原お 糸事件」はそのまま使うと傷みが進むため、
写真を撮り引き延ばしてパネル化をし、そ れを用いることにした。「八百屋お七」「武 男と浪子」「先生と生徒」は 5枚一組で計 15枚を深江工藝社に発注し、ベニヤ板に描
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一長崎媒南島原市深江、カラクリノゾキの原生専例から一(坂左)
表1 深江のぞき保存会上演演目 スミヤンが演 地獄極楽(写真パネル使用)
じていた演目 島原お糸事件(写真パネル使用)
八百屋お七(描き絵、深江工藝社)
武男と浪子(描き絵、深江工藝社)
先生と生徒 (描き絵、深江工藝社)
新規制作演目 平成新山物語
(描き絵、深江中学美術科教員作)
教育委員会保 地獄極楽(使用せず)
存の中ネタ絵 島原お糸事件(使用せず)
いてもらった。また、覗きの屋台は地元の 大工で「のぞきからくり」を見た経験を持 つ上田国光さん (1923年生)に依頼し作成 して貰った。上田さんはじめ保存会のメン バーが、昔見たノゾキの屋台の記憶を頼り
に「こんなんじゃった、こんなんじゃった」
と作製したという。
この段階で口上歌、中ネタ絵、屋台、レ ンズが揃った〔表1参照〕。地域に残る部 分的な資料を利用し、互いに持つ記憶を摺 り合わせる事により、かつて見たノゾキに 近いものを求めていったといえる。一方、
資料があり、人が集まり、記憶が有ったと しても、その活動を支える資金が個人の好 意に頼るものであったら、このように大が かりな再生活動は無理だったと思われる。
ノゾキ再生公演のための費用は、屋台に約 50万円、レンズに約10万円弱、中ネタ絵 作製に約 50万がかかった。安くはない値 段であり、まして個人の篤志でまかなえる 金額でもない。公費助成があったからこそ 再生は可能だった。
4 記憶の中のノゾキ再生
カラクリノゾキ再生を考えるにあたり 注意を払うべきは、人々の記憶の中のスミ
ヤンのノゾキが復活されたことである。
つまり、「深江町のぞきからくり」を再 生するに当たり、記憶だけが頼りにされ、
「のぞきからくり」に関する知識や、絡 繰り機構5)について検証する場を持っ
ていなかった6)。このことは、後述する ようにその後の屋台改良や新規作成に 有効に働き、保存会活動に影響を与えて いる。
記憶からの再生という面に限定して 考えれば、人々が面白みを感じていた部 分が優先的に記憶されていて、ノゾキ再 現がなされたと言える。出来上がった
「深江町のぞきからくり」は人々の記憶 に残るカラクリノゾキの面白みを持ち、
再生された演題はスミヤンのノゾキ芸の 中で人気が有り、繰り返し演じられたもの だったに違いない。再生された屋台、口上 に、スミヤンのノゾキの魅力を見出すこと ができる。
N. ノゾキを維持・継承する 1 保存会の活動
当初、水田、北岡、高原の 3人により立 ち上げられた保存会であったが、高原さん は事情により退会、代わりにと口上が歌え そうな人にだんだんと声を掛けていった という。声を掛けられた人がまた友達を誘 い、 2007年には8名となり〔表2〕、現在
もそのまま活動を行っている。
以下、保存会が取り組んできた活動と、
その活動を動機付け、強化する要因につい て見ていくことにする。
①屋台改良の取り組み
最初に創った「のぞきからくり」は、そ の後、「あーでもない、こーでもない」と 手探りで改良が進められた。
当初のものは9人しか一度に見られなか ったため、 1999年の深江町文化祭では、覗
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一長崎娯南島原市深江、カラクリノゾキの原生専例から一(坂芹)
表2 2007年の保存会会員 水田 男 87歳 *前会長
元理髪業・新聞販売店経営 北岡 男 83歳 女会長
元町会議員、元会社経営 尾ノ上 男 68歳 元外国航路機関員
(*2009年より会長)
原口 男 73歳 バナナの叩売り口上を唱う 井ロ 男 65歳 元郵便局長
尾ノ上 女 64歳 尾ノ上妻 上田 女 64歳 尾ノ上妻の友人 広瀬 女 52歳 パート勤務
きのレンズを使わずにスライドを上映 して公演を行い、多くの人に見て貰ったと いう。翌年はレンズの代わりに幅 15セン チのガラス板を上下二段に平行に入れて 多くの人が覗けるように改良した。しかし、
それは年寄りが見るのに腰が痛いという から、ほどなく全面ガラスとしてほとんど 開放状態とし、多くの人が見られるように
した。
しかしながら、開放状態の「のぞきから くり」〔写真 2参照〕は意外に不評であり、
老人ホームや保育園などから一度公演依 頼を貰っても次年度の公演依頼が来なか った。また、大阪天王寺の知り合いから、
ノゾキは「覗き」でなければ面白くない、
覗きに戻した方がいいとの助言 (2004年) もあった。
結局、覗いた人が楽しいと思ってまた覗 きたいと思うのだという水田さんの提案 も有り、2006年の春からレンズを一回り大 きい直径9センチのものに取り替え、これ まで平面だった前面パネルにカーブを付 け、覗くカラクリノゾキに戻した。ここま での作業で深江町から貰った200万円はほ
とんど使い切ったという。
保存会のメンバーは、自分たち独特の
「深江町のぞきからくり」を試行錯誤しな がら得ていったといえる。
②新作「平成新山物語」作製
保存会は再生のみではなく、演題の新規 作成にも取り組んだ。 2004年10月の大阪 公演後、普賢岳の災害をやってくれという 要望が相次いだ。そこで尾ノ上さんは中ネ 夕絵以外のものをすべて自作してしまっ た。「平成新山物語」、自分で歌を作り、絵 を中学校の美術の先生に依頼し、中ネタ絵 を納めるネタ箱も自分で作った。
尾ノ上さんは、手先が器用でいろいろな ものを自分で加工し作ってしまう。新しい 中ネタ絵のアルミ枠の取り付け作業など はすべて尾上さんが担った。人材的要因が 芸の保存継承には重要なことを示す一例 である。
新たな演題を作製するという活動で、再 生されたカラクリノゾキは新たな展開を はじめたことになる。それまでのスミヤン の残した中ネタ絵や、記憶の中の口上歌再 生から一歩を踏み出し、自分たちが受け継 いだ地域の芸能として展開し始めたとい えるだろう。
③他者からの注目ーメディアによる報 道・公演活動で得る観客
1999年第三回ろくべえどん祭りで新し い屋台を用いて公演を行い、同じ年11月3
日深江町文化祭にも参加した。公民館での 公演にはホールに人が入らないほど人が 見に来たという。それ以来、毎年開催され る文化祭はのぞきからくりが中心になっ ていったと保存会は自負している。「ノゾ キ再生」、「日本で唯一」と話題になり、地 元の新聞やテレビが取材に来てそれはに ぎやかなものだったという。保存会会員の 一人、広瀬さんは活動の最初からの新聞報 道記事をすべて切り抜き保存をしている。
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写真2 長崎さる<博にて公演 (2006年8月 於長崎市)
接見物できるようにした。
演目は「八百屋お七」「武 夫と浪子」「お糸物語」な どで、悲恋や人の功罪につ いて説く物語が主。雲仙・
普 賢 岳 噴 火 災 害 と 地 域 の 復 典 の 歩 み を つ づ っ た 現 代版の物語もあり、この日 初めて披露した。
「のぞきからくり」復活は話題を呼び、
ろくべえどん祭りや深江町文化祭だけで はなく、町外の大きなイベントに招かれる 事になった。2000年に日蘭交流四
00
年周 年記念「日蘭まつり」参加出演し、次いで 2004年10月には大阪四天王寺で奉納公演 を銘打って行った。また 2006年8月には 長崎夜市〔写真 2〕に、 10月には「人と環 境にやさしいふるさと推進大会」に招かれ た。そして、そのたびに地域の話題として 新聞、テレビにて報道されている。2004年9月の長崎新聞記事を読んでみよ う。大阪四天王寺での公演を控えての記事 である。
明治から昭和初期にかけて親しまれ た大衆娯楽「のぞきからくり」を復活さ せた南高深江町の「のぞきからくり保存 会」(北岡静寿会長)のメンバーが二十 五日、同町の観光施設「道の駅みずなし 本陣ふかえ」で観光客向けに公演した。
〈...略・・・〉
公演では屋台の箱を開放、多くの人が直
語り手による口上と、調 子 を 取 る た め に 竹 の 棒 で 時 折 屋 台 を 軽 く た た < 音 が会場に響き、来場者は独 特 の 雰 囲 気 の 中 で 熱 心 に 見入った〔長崎新聞 2004 年4月27日付〕。
このように注目を浴び 報道をされ、また大きなイベントで公演を こなし観客を得ることは、晴れがましいこ とであり、噴火災害からの復興のためとい う大義名分を満たし、保存会の名誉を高め ることにつながった。いうなれば、メディ アによる報道や公演活動を通じて他者か
らの注目を得ることが、保存会活動を強化 する要因となったということである。
2 運営資金調達
ここまで見たように深江町における「の ぞきからくり」再生・復活のためには、記 憶や他者からの注目の他に、まとまった公 的活動資金の存在が有効だったことがわ かる。しかし、その資金で屋台や中ネタ絵 を作製しただけでは保存会の活動を続け てはいけない。
保存会会長北岡さんは、「屋台維持、活 動継続のためには資金が必要だ、しかし金 を個人で出してくれというと保存会が壊 れる」と危惧をした。そのために、活動の ための基金を持つことにしたという。その 資金源は、親和銀行地域振興資金35万円
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表3 運営資金調達 屋台再生・改良の基金
年 費目
商工会「ろくべえどん祭り」
1998年
出演料
1999年 深江町から助成金 2000年 親和銀行地域振興資金
日蘭交流四00年記念 2000年
出演料
屋台維持・活動運営資金 外部公演出演料
金額 10万円 200万円 35万円 17万円
概 ね 1回2,‑‑...,5万円
(相談に応ず)
1人1年当たり 2000円
※イベントなどで公演をしても、興行収入はない。
(2000年授受)、日蘭交流四0 0年記念出 演料17万円 (2000年授受)だった。その 基金に公演での謝礼・出演料を加え、運営 資金として活動を行ってきた〔表3参照〕。
活動資金を得るために旧深江町のぞき 保存会に関して幸いしたことは、屋台を新
しく組み立て式で制作したために移動が 可能なことであった。移動可能であること により、再生された「のぞきからくり」は いろいろな所へ公演をしに行った。公演を すればなにがしかの出演料が出され、それ が保存会の活動費に当てられ、その活動を 支えた。現在は年に数回依頼される外部公 演出演料、および保存会会員から年 2000
円の会費を集めて、屋台維持・活動運営資 金に充てている。
3 再生されたノゾキの維持・継承 再生されたカラクリノゾキは屋台改良、
新規演題作製、出張公演、また、それらが 報道されることで、地域に定着し、地域の 人々に知られるようになったと考えられ
る。
屋台改良にあたって、中ネタ絵を覗くこ とにこだわらずに前面開放としたり、板ガ ラスに変えたりするなどの様子から、本来 の「のぞきからくり」にとらわれていない ことがわかる。互いに持つ記憶を摺り合わ せる作業から深江町「のぞきからくり」が 出発をし、持つべき絡繰り機構にこだわら ずに再生を行ったために、改良への取り組 みが気軽に行われている。本来のものにこ だわらないことが、自分たちのノゾキを作 り上げ発展させるための努力に結び付い ている。
また、全くの新規演題を制作に取り組ん だということは、更に継続性のある発展的 要因を持つことになる。それまでのスミヤ ンの残した中ネタ絵や記憶の中の口上歌 を利用しての似たものの再生という側面 から一歩を踏み出し、屋台改良と相まって 自分たちの地域の芸能として独自性と発 展性を得たことを示している。それは、新 作制作のきっかけと、それを可能にしたも のがあったからである。観客の要望、応え ようとする意欲、制作のための技術をもっ 人材があったからこそだった。
加えて、そのような新たな「のぞきから くり」へと展開し始めた活動を強化し支え たものは、メデイアや観客などによる注目 と関心、それと活動資金であった。深江町 の「のぞきからくり」として、深江町町民 からの観客を得、新聞などに紹介されるこ とにより、復活再生の役割を果たしたこと になり、深江町および深江町「のぞきから くり」の名を広めることになった。それら は保存会の人々にとって他者による自己 肯定感の授与でもあった。
活動資金の確保は、保存会活動を継続さ せるために必要なものであり、避けては通 れない問題だった。個人資金ではない活動 資金を得られたことにより、屋台の再生と 改良、保存会活動の継続が可能となった。
それは水田前会長、北岡会長は共に現役時
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代事業所経営者であったこと、また北岡さ んが再生時に深江町町会議員であったこ とが、運転資金としての基金の設置、町か らの助成金の交渉、地域振興資金の申請な どについて、ごく一般的な人々から見れば 有利に働いた。これも人材があったからだ
と言うべきであろう。
V. 見世物芸から「郷土芸能」へ 1 「郷土芸能」カラクリノゾキ
これまで見たように、カラクリノゾキは 復活・再生された。そして活動は続けられ ている。そして人々は、「深江町のぞきか らくり」を「ワシたちの郷土芸能」と言う。
この言葉の意味を考えたい。
①地域の中で引き継ぐ文化
ノゾキ復活の発案者、商工会松島哲延さ ん (1948年生)は、その意味を以下のよう に説く。「地域の中で引き継ぐのが文化だ と思う。あるもの何でも作って売るという 発想ではなく、文化というのは地域に精神 的に根付いたものではないかと思う。そこ にものがくつついてくる」と。目先の利益 だけを追うのではなく、地域の中にある文 化 を 大 事 に す れ ば 自 ず と 地 域 が 活 性 化 す
るという視点である。
ま た 、 保 存 会 員 の 一 人 井 口 久 則 さ ん (1942年生)は、 2002年深江町に転勤と なったことを機会に自ら入会した。その動 機は、「地域の中で引き継いでいくべきが 文化だと思う。残しておかなければならな いものだから、自分が習って若い者に引き 継ごうと思った」という。同様に保存会の 水田さんも、「次の世代の人に送り届けね ばならない文化」だといい、北岡さんも「カ ラ ク リ ノ ゾ キ は 今 無 く な る と も っ た い な いから、これを絶やさないように努力して やります」と語る。
こ れ ら の 次 世 代 へ の 継 承 の 意 志 を 中 学
生への伝承活動に見ることができる。保存 会は深江中学での総合学習活動に 2000年 頃から参加し、口上指導、発表会を行って いる。毎年 10"‑'12名の参加があり、高校 生になった受講者の中には、文化祭でカラ ク リ ノ ゾ キ 公 演 を 企 画 し た 人 も い る と い
う。
地 域 の 文 化 を 引 き 継 い で い く べ き と い う思いが活動を支えている。
②古里を誇る文化
長崎新聞2001年8月20日付「ふるさと 継承」と題された記事がある。まつりに助 成 し て き た 長 崎 県 の 雲 仙 岳 災 害 対 策 基 金 がその翌年解散するために、まつりのあり 方が再考されているという記事である。
同委員会は今年、復興や商店街地域の 活性化、地域振興など、まつりの本来の 目的に沿って内容を再検討した。出した 結論は「原点に返ろう」だった。地元商 店 街 で の 買 い 物 客 に 抽 選 会 の 補 助 券 を 発行するなど、今年は商業活性化で知恵 を絞った。今後は、六兵衛どんが救った わが町の文化や歴史、魅力を再確認し、
誇 り を 持 っ て 次 代 へ と 継 承 し て い く 町 独自のまつりづくりが求められる。同委 員会の下田京委員長 (35)は「胸を張っ て古里を誇りたい。だからこそ、みんな で盛り上がり、励まし合える年に一度の まつりは必要。何らかの形で存続させた い」と話していた。〔長崎新聞 2001年 8月20日記事〕
と、書いている。同委員会とは町活性化事 業実行委員会のことであるが、ろくべえど ん祭りの原点が「わが町の文化や歴史、魅 力を再確認し、誇りを持って次代へと継承 していく町独自のまつりづくり」であり、
これからも「胸を張って古里を誇りたい」
との思いを知ることができる。
見泄物芸から「郷土芸能」へ
長崎原南島原市深江、カラクリノゾキの写生専例から一(坂#)
深江町カラクリノゾキは、「古里を誇」
るために必要とされる文化の一つという ことであろう。
③他地域にない文化
前述のように「深江町のぞきからくり」
は、噴火災害復興活動の一環として「深江 に伝統芸能はないが郷土芸能なら有る」と 復活・再生がなされることになった。そし て保存会の人々はからくり覗きについて、
「ワシたちの郷土芸能」だといい、「郷土 の文化財」だという。そして「郷土のため に頑張る」とカラクリノゾキ維持活動への 意欲を語る。それは、中ネタ絵や飾り看板 などの保存されていたからくり絵が、他の 地域にない古い貴重な財産だという認識 に基づき、自分たちの育った地域のために 役立ちたいという意識に支えられている。
2006年に南島原市タウンミーティング が行なわれたが、その席上、深江町保存会 側が「深江町の『覗きからくり』は大切な 伝統文化であり」、「深江町では、五百年、
四百年前の立派な『のぞきからくり』の資 料を保存しているが、樟脳を購入する予算 も支所にはない。自分の私利私欲で使うの ではなく、市民の発展、南島原市のために 活動しているので考えてもらいたい」、「立 派な『のぞきからくり』があることを市長 に認識していただき、四百年前の文化を切 らしてはいけない。そのためにも私たちは 努力していく」と社会的に意義のある活動 をしているのだから助成をして欲しいと 要望をしている7)。事実的には異なる8)も のの、「大切な伝統文化」、「四百年前の立 派な文化」を保存するために「私たちは努 カ」をし、「市民の発展、南島原市のため に活動している」という主張は明確に伝わ る。
この発言の中に3つの誇る心を見ること ができる、 1つは400年前の他地域にはな い価値あるものを持つという誇りであり、
2つにはこの町だけにある「芸能」を自分 たちの手で再生し得たという誇りであり、
3つにはその様な貴重なものを生かすべく 私たちは町のために努力をしているとい
う誇りである。これらの誇る心は、保存活 動維持の理由付けともなり、また社会のた めに活動し貢献をしているのだという社 会的自己の存在確認になっている。
「深江町のぞきからくり」保存会の活動 は、他の地域にはない「郷土芸能」を持ち、
それを保存する活動をしているという誇 りに支えられている。
2 見世物芸から「郷土芸能」への要件:
きっかけ・道具・金・人・記憶・メデ ィア・観客
ところで、深江町の人々は「郷土芸能」
としてその価値をアピールするが、復活を 図ったものは、もともとその場所で伝承さ れ何らかの役割を担ってきた芸ではない。
四国から長崎へ、長崎から深江へと流離っ てきた見世物芸である。つまり、流浪の見 世物芸を自分たちの郷土芸能として採り 入れたことになる。
スミヤンのノゾキという見世物芸は、そ の残されていた絵が「郷土の文化財」とし て活用が図られ、地域の人々の記憶から再 生がなされ、自分たちの創意工夫において 改造がされ、新作が作られる事により、「深 江町のぞきからくり」という「郷土芸能」
に生まれ変わったと言えるだろう。流浪の 見世物興行が地域に郷土芸能として定着 をするためには、地域が主体的にその芸を 必要とし、「ここだけにしかないもの」と
して自分たちの財産として認識し、地域の 内外に誇ることにおいて可能となったと いえる。
それでは、一度消えかけ廃れた芸が地域 の中で再生・継続されるために有効に働い た要件を考えてみたい。
見泄物芸から「郷土芸能」へ
一妥崎媒南島原市深江、カラクリノゾキの再生亭例から一(坂#)
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その土地にカラクリノゾキ興行を する専業者がいた。
その専業者が残した道具があった。
再生を働きかけるきっかけ。
再生作業をする仲間がいた。
再生のための資金が得られた。
再生に必要な記憶があった。
メディアによって注目され、報道対 象となった。
継続して公演依頼があり、応じられ る。
継続して保存・修理のための経費を 調達できる。
保存会の人的要件(保存意欲を持つ、
行政との交渉役、エ作技術、口上指 導)。
保存会構成員の社会的貢献感。
以上の 11の項目である。これらを大き くまとめ単純化を図れば、再生、継続に必 要な要件は、きっかけ・道具・金・人・記 憶・メディア・観客の7つだといえるので はないだろうか。
ところで、他地域に残る大型のぞきから くりの保存伝承状況と比較した場合、深江 町カラクリノゾキの場合には、実際に使わ れていた台がなかったために解体、移動が 不可能な状況に置かれなかったこと、既存 ののぞきからくりの構造にとらわれずす んだことも要因として指摘できる。しかし ながら、さすらいの見世物芸を「郷土芸能」
として地域への採り込みを要請し、可能と したのは、前記7つの要件が揃うことが優 先するといえるだろう。
VI. おわりに、活動継続の難しさ
最後に、復活・再生されたカラクリノゾ キのその後についてみておきたい。一時の 震災復興イベント企画としてだけ復活で は、見世物芸が「郷土芸能」として定着し
たとは言えない。
2006年3月30日に市町村合併が行われ、
深江町は南島原市となった。合併の結果、
ろくべえどん祭りはなくなってしまった。
ろくべえどん祭りの終了は震災復興事業 が別の段階に進む時期が来たことを示し ている。噴火災害の復興と地域振興の一貫 として復活再生されたカラクリノゾキは、
震災復興とは別に独立した芸能として活 動をする時期を迎えたことになる。
2006年度の活動は、中学生への口上伝承 指導および、 8月の長崎「さる<博」での 公演、 10月末の文化祭公演であった。 2007 年は、 11月に深江町文化祭に参加し、第五 回火山都市国際会議島原大会の際に町の イベントに招かれた。またその会議の際に N H Kの取材を受け放映されている。 2008 年は、 1月に南島原市文化祭に参加をし、
九月雲仙市国見町の土黒温泉神社での祭 礼に参加、11月深江町文化祭に参加をした。
引く手あまたというわけにはいかないが、
何らかのイベントが南島原市近辺で行わ れる時には必ず招かれている。島原半島深 江町の芸能として存在を認められている
ということだろう。
しかしながら、芸能として安定的に伝承 を図ることは楽観できない状況にある。そ の一つは保存会の会員が発展的に増加を しないことであり、二つには、安定した活 動資金を得る財源がないことである。保存 会の会員が増加をしない背景には積極的 に募集をしないという背景もあるが、中学 生への伝承活動が成果として現れにくい ことも一因である。中学校では総合学習の 一つとしてカラクリノゾキを取り入れて いるのであるが、希望者に限っての伝承活 動であり、高校進学の時点で地域を離れて しまう。子ども達に「のぞきからくり」を 伝えることはできても、その活動成果が伝 承継続につながるには先が長いようであ
る。
見泄物芸から「郷士芸鹿」へ
一是崎娯南局原和深江、カラクリノゾキの再生専例から一(坂#)
活動資金の面でも苦しい状況にある。現 在、基金としたものは使い切ってしまい、
年 2000円の保存会費だけでは会の維持が 精一杯であり、修理や改良、新たな演題作 製には金が回らない状況にある。
深江町商工会としては、商工会合併後も 南島原市のイベントとして何らかの形で 祭りを引き継ぎ、「地元の本当の文化」で あるカラクリノゾキの実演を図りたい(商 工会 松島さん談)としていた。しかしな がら、実際には希望通りにことは運ばなか った。合併により、活動を支えるための資 金供与を受ける安定的支持母体がなくな り、定期的な公的援助もなくなり、活動資 金の不足が大きな課題となってしまった。
北岡保存会会長は、市長に陳情して年間10 万円でも 15万円でも行政から補助を貰い たいと、2006年から現在まで継続的に市側 に要望を出している。
前項にも紹介をしたとおりに、 2006年8 月深江町におけるタウンミーティング(市 民懇談会)席上において 9)、保存会側が社 会的に意義のある活動をしているのだか ら助成をして欲しいと要望するのに対し、
行政側は「『覗きからくり』は素晴らしい 郷土芸能であり、是非とも次の世代に引き 継いでいかなければならない大切な文化 遺産だと認識している」、「伝統文化を守り 育てて頂いている事に感謝を申し上げる」
と、価値を認める回答をする。しかしなが ら、助成についても今後の保存についても
「検討をする」と答えるのみである。
そのような行政側の姿勢は2007年、2008 年の市民懇談会でもそう変わらない。つま
り、市全体として保存を支援する仕組みは なく、「深江町のぞきからくり保存会」は、
町にある一つの芸能同好会的位置づけに 甘んじざるを得ない状況にある。
この状況をいかに乗り越えていくか、
「深江町のぞきからくり」は一つの岐路に 立たされているのではないか。「郷土芸能」
として旧深江町並びに南島原市の人々の 認識と支持を得られ発展をしていくのか、
それとも一つの郷土芸能同好会として少 人数で活動を継続していくかである。
註
1)長崎県旧深江町のぞきからくりについて、根 井浄〔2005;2006〕が「地獄極楽」の口上歌
を紹介している。
2)中ネタ絵とは、ガラ箱の中に仕込まれている 絵のことを言う。擬似的な遠近法を用いて描 いてあり、透かし障子などのエ夫も凝らされ ている。一話は、 6"‑'7枚の中ネタ絵で構成さ れている。
3)新潟市巻のものについては、坂井美香[2005] を、三原市のものについては坂井 [2007]を 参照。なお、奄美大島原農芸博物館ではレプ
リカが展示されている。
4)北園忠治氏は、 1970年に大阪ののぞきから くり興行師黒田種ー氏より屋台を譲り受け、
老人ホームなどを慰問し、公演していた。現 在、その一部が北九州市海峡ドラマシップに 寄贈されている。
5)明治期の後半から昭和初期まで全盛を誇った 大 型 の の ぞ き か ら く り の 持 つ 絡 繰 り に つ い ては、坂井 [2009]を参照。
6)たとえば、のぞきからくり中ネタ絵に施され ている影からくりの技法である。残されてい た中ネタ絵に用いられていたにもかかわら ず、筆者が調査を行うまで気づかれることは なかった。
7)タウンミーティングにおけるやりとりは、紙 幅の都合上省略するが、南島原市ホームペー ジ
〔http://www.city.minamishimabara.lg.jp/ / contents/1158035083235/、〕
〔http://www.city.minamishimabara.lg.jp/ www / contents/1183690131422/〕に公開さ れている。
8) 「五百年、四百年前の」という発言について は、保存会側がその様な理解をしていること による。またそうであることを望んでいるの であろう。「のぞきからくり」自体は江戸時代 中期にオランダから長崎に持ち込まれたもの が受容され、日本オリジナルなものへと発展
見泄物芸から「郷土芸能」へ
一畏崎原南島原市深江、カラクリノゾキの再生専例から一(坂#)
を遂げたものである。深江町の中ネタ絵は筆 者が見るところ、泥絵具が使われていること や記憶されていた外題の内容から大正時代の 物と考えられる。
9)註7)に同じ。
参照文献 北 園 忠 治
1985 『太うして長うしてツンとした北やん のバナちゃん節』葦書房。
坂 井 美 香
2005 「のぞきからくり興行」『高志路』345: 7‑18。
2007 「ノゾキの商売一最後ののぞきからく り興行師、聞き書きー」『歴史民俗資 料学研究』 12:163‑183。
2009 「覗きからくりとは何だろう一日本、
根 井 浄
西欧、中国一」『歴史民俗資料学研究』
14:101‑121。
2005 「「のぞきからくり」の地獄絵」『印度 學仏教學研究』 54:241‑248。 2006 「絵解きの遺産『のぞきからくり』」『日
本文化の諸相』風媒社、 pp.25‑43。 (2009年5月10日 採択決定)