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Hsiu-ts'ai (秀才) and Káo-lien (孝廉) in theChin (晋) and Southern Dynasties (南朝) periods

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九州大学学術情報リポジトリ

Kyushu University Institutional Repository

Hsiu-ts'ai (秀才) and Káo-lien (孝廉) in the Chin (晋) and Southern Dynasties (南朝) periods

越智, 重明

https://doi.org/10.15017/2232305

出版情報:史淵. 116, pp.85-114, 1979-03-31. Faculty of Literature, Kyushu University バージョン:

権利関係:

(2)

晋 南 朝 の 秀 才

.  孝 廉

智 重 明

は し が き 決時代に生じた察挙制の中心をなす秀才︑孝廉は現晋南朝にあっても引続き存在しているが︑その察挙制について

の研

究は

比較

的少

ない

︒︵

田誠

一一

閉店

伽州

制的

吋町

一恭

r

r H

氏︑︶乙れはそのもつ独自性があまり目立たないことによると思わ

ι

れる︒しかし︑それも亦時代の流れのなかにあるだけに︑その実態の追求は現普南朝時代︵以下︑六朝という︒﹀の時

代相の解明に具体的多様性を与えるものである︒

を指

すも

のと

する

︒︶

︵以

下水

柿で

いう

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挙制

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い際

には

秀才

︑学

旅の

それ

本稿は西晋時代察挙制が天子の支配権力の独自性の一端を担っていたが︑のち家絡の固定化|族門制の成立の聞に その性格が変化し︑秀才の制に基く就官がほぼ次門︵だけ﹀に聞かれたものとなって行った乙と︑一方︑孝廉が族門 制を肯定しつつ政治的特権と結びつこうとする後門さらには三五門にとって利用すべきものとなったこと︑梁の天監

の改革は次門を含む全士人と後門を含む非士人

l

小人とを区別した上で︑全士入居を政治的支配者層に措定し︑かつ

両者を通じ人才主義をうち出したものであるが︑それが察挙制にも現われている乙と︑などを論ずる︒またその聞に

晋時代の察挙の試験成績のつけかた︑天監の改革以後の因子学と秀才の制との関連性︑南朝になると秀才に挙げられ

ることに︑各人の官序における一つの就官を意味する︑といった性格が生じたこと︑正日時代廉吏が後門に聞かれたも

沼田

南朝

の秀

才・

孝出

版︵

越川

竹︶

}\ 

(3)

晋南

朝の

秀才

・孝

廉︵

越智

︐ ︑ ︑ − ︑ ︑

J

﹂ ノ

のとなっていたが︑南朝に入ると姿を消したと思われる乙と︑などにふれる︒なお︑本稿でいう族門制とは︑西晋末

家格固定化の大勢のなかに生じた︑郷晶一ーニ品を甲族とし︑郷品一ニ

l

五品 を次 門と し︑ 郷品 六| 九品 を後 門と し︑

一般庶民を三五門とする家格のヒエラルキーの乙とである︵4

鮒 艶 胴 船

似 ⁝ 綿 一

昨 昨 日

J

吋じ

第一節酉晋時代の察挙制と天子の支配権力

晋の天子司馬氏はつとに士人層と政治的支配者としての一体感をもっ乙とを政治運営におし出している︒説中期司

馬氏の主動性をもって九品宮人法に州大中正の制が設けられ︑同時に郷品制が創められたが︑乙れはその現われであ

る︒しかし︑天子としての司馬氏は︑士人層を政治的支配者層とし︑彼らを国家権力の構成員と措定すると同時に︑

官界 にお いて 自ら が独 自の 支配 力を もっ 乙と をも 示し てい る︵ 糊僻 喧申 請胴 け臥 盟主 号︑

﹀︒ 支配 装置 とし ての 晋の 国家 はこ う

したニ面をもっているわけである︒本節は西習時代九品宮人法下家格の固定化が進んでいたが︑その反面︑天子の支

配力に筋を通すものとして︑選挙制度に一定のわくのなかにおいてではあるが︑家格と一応無関係に人才に応じて郷

品を与える機能が存在したとと︑当時の察挙制もその線に沿って理解できる局面があるζ

と︑ をと りあ げる

︒ まず

︑太 学の 試験 につ いて であ るが

︑晋 書博 一点 劉下 伝に

劉下︑字叔龍︒東平須昌人也︒本兵家子︒質直少言︒少為県小吏0

・:

下従

︵県

︶令

至格

得入

太学

試経為台四品

吏 ︒

とあ

る︒

︵一般の︶兵戸が郷品をもっていたとはとうてい考えられないが︑そうした兵戸が太学生となりかつ試経さ

れて台の四品吏となったという乙とは︑一般の庶民も亦太学生となり試経されて台の四品吏となりえたのを示唆す

る︒ なお

︑宋 書博 品目 礼志 一に

︑そ の七 千余 人と いう 人数 から 見て 当然 一般 庶民 を中 心と する 太学 生に つい て︑

晋武帝太始八年︑有司奏︑太学生七千余人︒才任四品︑聴留︒詔︑己試経者留之︒其余遺還都因︒

(4)

とあ

る︒

この﹁才任四品﹂の四品は右の﹁台四品吏﹂の四品と同一内容とすべきである︒つぎの記事とあわせ考える と右の﹁台四品吏﹂は台の郷品四品のものの就くべき官に就く吏︑

たで あろ うか ら︑ それ は恐

らく

第八 品官 であ った であ ろう

︒﹀

さて

︑初 学記 時一

−文 部紙 第七 に︑ 王隠音書目︑劉下為凹品克︒訪問推一鹿斑黄紙︑令下写書︒下語訪問︑劉下非為人写黄紙也︒訪問案下罪︑下品二 等︑ 補尚 書令 火︒

ということになろう︒

︵劉

下は

その

官を

起家

とし

とある︒訪問は州大中正のもとにある官人である︒中正

ω

引き下げた口聞は郷品に追いない︒そうすると劉下は郷品六

品になったことになる︒晋時代の尚書令史は第八品官か第九品官かであるが︑族門制制定以後でいえば後門届︵つま り郷品六品九品のもの︶の就くべき官である︒従って郷品六品になった劉下がそれに就くのは︑それが肢門制制定以 前であっても当然のことであったであろう︒なお︑音書劉下伝には︑

︵前略﹀訪問令写武紙一鹿車︒下回︑劉下非為人写武紙者也︒

才簡略︒堪大︑不堪小︒不如作守合人

0

・下

従其 言︒ 後為 真部 令史

︒ 訪

問知

怒︑

一一

面於

中正

︒退

為向

書令

山人

︒成

沼下

日︑

とあ

る︒

この舎人は公府の舎人のことであろう︒晋時代のふ口人は第九品官であるが︑族門制制定以後でいえば後門胞

の就

くべ き官 であ る︒

当時上級士入居︵

H

門地二口問層︶は通常州大中正以下の中正を独占していた︒郷品六品以下のものは通常士人に入つ ていなかったようであるが︑右の場

A只問題はそれが士人に入ってい石か否かというよりも︑むしろ上級士人胞を代

表すべき州大中正が中正制度という組織に乗ってもっている郷品決定権が︑側面から部分的とはいえ︑別の組織を通 じて崩されているということである︒この太学の試験制度は︵国家権力を代表する︶天子が官人としての能力を判定 し︑中正がその判定に基いて郷品を与えるものであるが︑かくて四晋の政治史上無視できぬ主要性をもっているとさ れよう︒もっとも右に見たように︑いったん与えられたそのものの郷品は以後州大中正の学握下に入るが︑それにし

m同

南朝

の秀

才・

学・

ぽ︵

地刊

;¥. 

F

(5)

晋南

朝の

秀才

・孝

廉︵

越智

; ¥   J ¥  

てもやはり最初の決定権が州大中正とは別のと乙ろにあったという点で無視できぬであろう︒

右はいわば最下級官入居︵郷品六品以下の宮人層﹀についてのことであるが︑西晋時代上級官人層︵郷品二品以上の宮人 層︶のもとにそれよりも下の官人を送りこむ﹁方法﹂として寒索への察挙があった︒

いまそれについて考えてみよ

ぅ︒晋書践活祭伝に︑

元康中︑詔求廉譲沖退臆道寒素者︑不計資︑以参選絞︒尚書郎王現乃薦︵泡︶番目︑

精深︑合意内奥︒安貧楽道︑棲志窮巷︒箪瓢詠業︑長雨禰堅︒誠当今之寒索︑著属俗之清彦︒時張華領司徒︒天下

所挙︑凡十七人︒於香特発優論0

・:僑凡一挙孝廉︑八薦公府︑再挙清白奥行︑又挙寒索︒一無所就︒

とある︒右に活喬が寒索に挙げられたとあるが︑その際の寒索について︑﹁元康中︑詔求廉譲沖退履道寒索者︑不計資︑

以参選紋︒﹂とあって資が見える︒資にはいろいろな意味があるが︑乙の資は晋書消李重伝に見える李重の上奏に︑

香菓

徳真

粋︑

立操高潔︒儒学

如︵

笑酉

︶ 詔書之旨︑以二品繋資︑或失廉退之士︑故開寒索︑以明尚徳之挙︒

とある場合の資と同一内容と考えるべきであろう︒つまり︑それは具体的には官人たる資格としての郷品を指してい る︒ところで︑晋書李重伝には︑﹁時燕国中正劉洗挙窪原為寒素︒﹂とあるのに続いて︑

司徒府不従︒出又抗詣中書︑奏原︒而中書復下司徒参論︒

︵ 下 略 ︶

とあ

り︑

晋書

尚一

宮笹

原伝

に︑

及劉沈為国大中正︑元康中進原為二品︒司徒不過︒出乃上表理之︒詔下司徒参論︒中替監張華令陳準奏為上品︒詔 可 とあ るが

︑か くて

寒索に察せられそれが認められるというζ

とは

︑ 郷品についていえば郷品三品以下︵下品︶のも のを郷品二品以上︵上品﹀とするのを意味するとされよう︒

ところで︑右の晋寄宿祭伝の記事は西晋の元康中に寒索を挙げさせたとき︑尚書郎王現が活香を寒素に挙げた記事

(6)

であ るが

︑晋 書李 重伝 では

時燕国中正劉抗挙震原為寒素︒

とあ り︑ また

︑晋 書性 小紀 櫓伝 に︑ 紀際 につ

いて

︑ 永成 初︑ 州又 挙寒 索︒ とある︒州が寒索を挙げたというのは州の刺史が寒素を挙げたと読むべきであろう︒これらは相まって︑寒索がいろ いろな資格をもっ官人によって挙げられたのを察せしめるとされよう︒さて︑王混が活喬を寒素に挙げたとき︑その

一方︑晋書李重伝に見える李重の上奏には︑劉日出が震原を寒柔に挙げた本州の名士の意向を聞いたことは窺えない︒

こと

につ

いて

︑ 始挙原︑先諮侍中傾中書監禁前州大中正後将軍嬰河南ヂ軟︒・:如泊所列︑州党之議既挙︒

とある︒この際・果︑素を挙げるにあたり︑その本州の名士の意向を聞いているわけである︒乙れは劉枕が中正の職分に あったことと間接的に関連があったのを示唆するが︑他例をあわせ考えた際︑一般的な形としては︑推挙者一人の責 任において寒索を挙げるべきであったのが推測される︒ところで︑震原の場合︑劉出が彼を寒索に挙げたにしても︑

それは国大中正が自ら郷品を与えたというのではなくて︑国大中正が門地二品でないものを敢て寒素として郷品二品 とする書類を司徒府に提出し︑司徒府がそれを認めなかったため︑中書省をへて天子に上奏し︑結局詔が出て寒素と

して郷品二品が与えられたというのであるから︑たとえ国大中正劉出が本州の名士の意向を聞いたにしても︑

乙の

際 は官人の本資としての郷品の最終決定権が天子にあった

ζと

,,、、

一般

には

その

決定

が恐

らく

司徒

府に

委任

され

てい

たと

と︑

︶を示すものとされよう︒かくて︑西晋時代寒素の目があったということは︑家格同定化の大勢のなかにあっても︑

天子の官人支配権が︑全面的に郷品上品層︵日門地二品層﹀の意向のなかに吸収されてしまっていたのではないのを一不 しているとされよう︒次節で述べる察挙もそうした観点から見ることができる︒

町田

南朝

の秀

才・

孝康

︵越

知日

 

‑ J L  

(7)

普南

朝の

秀才

・孝

廉︵

越智

九0 

第二節晋時代の秀才︑孝康︑賢良などの試験制度︵概要︶

旧来︑秀才などの試験成績については︑秀才︑孝廉︑賢良︑試経の合格成績は何れも甲︑乙︑丙

ω

三等に分れ︑丙

はさ らに 上︑ 下に 分れ てい たら しい が︑ それ が郷 品の ニ品

︑三 品︑ 四品 に対 応さ せら れて いた とい う理 解︵ 恥叫 刷朝 刊︶

が一般に適用しているといえよう︒紙数の都合で論述を省略せざるをえないが︑秀才などの試験成績に関する私見を

述べ ると つぎ のよ うに なる

太学の試経については明かでないが︑MM時代秀才︑孝廉︑賢良の試験に合格したものには上第︑下第という区別が

あり︑さらにそれぞれに高第があった︒就官の官品︵ひいては郷品︶はその成績によって決定された︒その際上第のう

ちの高第は第六品官︵郷品ニ品﹀に任ぜられ︑それでないものは第七品官︵郷品三品︶に任ぜられた︒下第はその高第

︵た

だし

︑そ

の就

く官

には

違い

があ

った

︒︶

さて

︑南

x n

書もそれでないものもともに第八品官︵郷品四品︶に任ぜられた︒

地一

日謝

超宗

伝に

︵宋泰始︶一二年︑都令史勝率議策秀才考格︒五間魁得為上︑一不合与第︒︵尚書敗中郎謝︶超宗

ツンデ議以為︑片辞折獄︑寸言挫衆︒魯史袈舵︑孔論興替︑皆無侠紫間後乗裁︒夫表事之測︑析職之会︑蛍必委牒︑方切

治道︒非患対不議問︒忠以恒文弗奇︒必使一通峻正︑寧劣五通而常︒与其倶奇︑必伎一亦立採︒調︑従宰議︒

とあ る︒ 南史 博ト 謝超 宗伝 に︑ 右の 事柄 を︑

三年︑都令史路宰議策秀孝格︒五問滋得為上︑四三為中︑二為下︑一不第︒超宗議不問︒詔従宰議︒

と記しているが︑謝超宗は要するに路宰の意見に反対であったわけである︒いま晋書挟紀路伝を見ると︑尚書郎陸機

が秀才に挙げられた紀踏に策している︒晋警謹陸機伝によると︑陸機は尚書郎としてはさきに中兵郎ついで殿中郎に

任ぜられている︒そうすると陸機は尚書殿中郎として紀胞に策したとされよう︒当時謝越宗は尚書殿中郎であるが︑

四三

為中

二為

下︒

(8)

かくて謝超宗は秀才の策を行う当事者として路宰の新案に反対し︑かっそ乙で自己の案を提出したが︑結局路宰の新 案に敗れたという乙とになろう︒こうした試験成績のつけかたの変化は孝廉︑賢良についても同様であったとして大 過あるまい︒かくて︑試験の成績が五問中五間とも

A

ロ格を上︑四問と三間との合格を中︑二問だけの合格を下とする

ととになったのがわかる︒乙の新制が以後いつまで続いたのかはわからない︒

とこ

ろで

与えねばならないのであるから︑

旧来︑秀才︑孝廉と中正との関係については︑秀才︑孝廉を挙げるのは州郡の長官たる刺史太守の責任 であるが︑実際には中正が顧問に当ったことは疑いない︒察挙︑︵賢良のような﹀制挙の成績点に対して中正が郷品を

中正は恐らくその答案を審査する権限が与えられていたに違いない︒という理解

察挙︑その試験に中正が関与していたとは考えがたい︒いまそれに

しか

し︑

︵品

川刷

畑町

︶が

一般

的で

ある

とい

えよ

う︒ 関する私見の結論部分だけを述べてみよう︒

説晋時代に入ってからの察挙の場合︑それが地方長官によって行われるにあたりその本貫をかける土地を基準とす

るとともあればその現住地を基準とする乙ともある︒︵察挙が木貫中心主義と現住地中心主義との両者をとっている理由に

関し てで

ある

が︑ 地方 長官 の察 挙は 本来 現住 者を 対象 とす

べき

であ る︒ しか し︑ 当時 の基 本的 な選 挙で ある

中正

によ る選 挙は 本貫 を かけ ると 乙ろ を基 準と する

︒本 貫中 心主 義の 察挙 は恐 らく そう した

選挙

の主 潮流 に引 きず られ て生 じた ので あろ う︑

とい

ζと

が推

測さ

れる

︒と

の際

︑そ

乙に

天子

の側

の察

挙者

の眼

をふ

やし

︑ 以て 少し でも 広く 人材 を得 ょう とす

る意

図の あっ たこ とを 予測 する こと

も十

分可

能で

あろ

Z

︶なお︑孝康察挙に関する事務は郡の太守の職掌の一つとして︑

って行われたと考えられる︒また︑秀才察挙に関する事務は州の刺史の職掌の一つとして︑その官属で人事を掌る別 駕などによって行われていたのであろう︒以上述べたように︑察挙は本貫をかける州︑郡でも僑地の州︑郡でも行わ れたが︑それだけに専ら本貫中心の︵広義の﹀人事を行う中正がそれに関与する

ζとは想定しがたい︒中正はただ試

験成績によって天子から与えられた郷品をそのまま受け入れるに過ぎなかったのであろう︒

その官属で人事を掌る功曹によ

普南

朝の

秀才

・孝

燦︵

越智

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(9)

晋南

朝の

秀才

・孝

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越智

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ところで︑もともと孝廉に挙げられたものには土地の有力者で人望を集めているものが多かったと考えられる︒そ れだけに察挙されるととは人望をえていることの裏返しでもあったとされよう︒そうすると︑少なくとも西晋時代ま でについて見た際︑︵州大中正の制制定以後の︶九品官人法下︑各中正がその管下の名声あるものを対象にその名声の程 度によって郷品を与えるとした場合︑それが現実の察挙制と大きく合致するのではないか︑という疑問が生ずる︒し かし︑すでに別稿で述べたように︑右の九品官人法の名声に基く郷品附与はいわば建て前である︒つまり︑九品官人 法下︑時流に乗って上級士人層となったものは通常中央官界に基盤をおいたが︑それは必らずしもその本貫をかける 地方の官界のささえを必要としていない︒そこでは地方官界は中央官界の高官を出す母胎ではない︒州大中正以下の 中正は中央官界にあるものの兼任で︑それらは上級士人層の利害代表としての性格を強くもっている︒それだけに上 級士入居にとって土地と結びついたものが︑それによって中央官界で栄達するのはむしろ忌むべきであったと考えら れ る

︵ 喝 辞

u傾斜中提唱誌州民獄謹一誌が︶︒さっしたものであるだけに︑九品官人法が︑察挙制︵とくにそのな

かの孝版察挙制︶が現実に豪強の中央官界進出の一手段となっている面と相応ずる︑といったことはなかったとされよ

与 つ ︒

それ

だけ

に︑

上級 士入 居に とっ て︑ 察挙制はむしろ否定すべき面をもっていたとされよう︒

西f

第三節宋斉時代の察挙の対象者

南朝における察挙制はともに政治身分の世襲性をふまえつつも︑宋斉時代と梁臨時代とでかなり大きい相異を示し ている︒本節は主として宋斉時代における察挙をとりあげる︒

第一に秀才についてであるが︑宋斉時代秀才に挙げられでも︑その結果として第一流の甲族の起家の清官である秘 それにつぐ著作佐郎などに起家するといったことは殆んど見当らない︒ただし︑宋書境顧規之伝に︑

書郎

(10)

︵顧︶感好学有文辞︒於世︵担︶大明中︑挙秀才︒対策称旨︑摂為替作佐郎太子舎人︒

とあるが︑これは天子の支配権力の強化につとめた宋の孝武帝による︑才能ある甲族に対する特別の措置と考えられ る︒また︑本文後引の梁嵩張率伝の張率の場合も︑起家ではないが︑天子の支配権力の強化につとめた斉の武帝によ る︑才能ある甲族に対する特別の措置とされよう︒なお︑宋時代秀才に挙げられたことを示すものはかなりの数にの ぼる︒そのなかには甲族か次門かわからないものもあるが︑次のニ例は甲族の場合であろう︒南斉書諸王融伝に︑

王融︒字元長︒破邪臨好人也︒祖僧達中書令︒曽高並台輔︒:・挙秀才︒晋安王南中郎板行参軍︒坐公事免︒音陵王 司徒板法曹行参軍︒遷太子会人︒融以父官不通︑弱年便欲紹興家業︑啓世祖求自試︒

︵ 下 略 ︶

とある︒王融の父王道淡の極官は恐らく躍陵内史︵知一九口問官︶であったと考えられる︑第五品官の内史は次門の極官で

もある︒当叫軍府の参軍は明確な格づけのしにくいものである︒また︑宋書惜一一玉微伝に︑王微について︑

年十六︑州挙秀才︒衡陽王義季右軍参軍︒誼不就︒起家司徒祭酒︒

とある︒王微の父王甜は太保王弘の弟で︑侍中︑光禄太夫であった︒司徒祭酒の起家は珍らしいものである︒恐らく

これも明確な格づけをしにくいものであったのであろう︒

さて︑梁書建蓑遼伝に︑表逮について︑

斉建武初︑刺史粛迄昌引為府主簿︒:・本秀才︒対策高第︑奉朝詰︒

とある︒奉朝詰は第六品官であるが︑次門の就く官であった︒それだけに右は次円が禿才のなかのい函館に挙げられ︑

その結果︵旧来でいえば上節のなかの高第にあたる︶第六品官に就宮をした際も︑次門としての官序を出ることのなかっ た例 とな ろう

︒乙 乙で 南斉 吉博

正劉

職伝 を見 ると

︑ 職初州畔祭酒主簿︒宋大明四年︑挙秀才︒兄琢亦有名︒先応州挙︒至是別駕東海王元曽与職父恵書目︑此歳賢子充

除部陵王郡主簿安陸王国常侍安成王撫軍行秀︒州闘可謂得人︒除奉朝請︑不就0

・:

︵麦

祭︶

薦為

秘書

郎︑

不見

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別凶

南朝

の秀

才・

孝旅

︵越

川刊

(11)

MH

南朝

の秀

才・

怒出

版︵

越知

刊︶

九四

参軍

︒公

事免

とある︒州官起家は通常次門起・家の一つの形式をなしている︒また王国の官は次門の就くべき官である︒一方︑秘書

郎は甲族の就くべき官である︒それだけに右も亦次門の家系の俊秀が秀才に挙げられたが︑それによって次門として

の官序しかえるととができなかった事例となろう︒つぎに梁書坤担孔休源伝を見ると︑孔休源について︑

太尉徐孝嗣省其策︑深善之︒調同坐日︑董仲静華令恩何以尚此︒可謂後生之准也︒観其此

︵芥

︶建

武問

年挙

秀才

対︑足称王佐之才︒浪邪王融雅相友善︒乃腐之於司徒寛陵玉︑為西邸学士︒梁台建︑与南陽劉之溢同為太学博士︒

当時

以為

美選

とある︒太学博士は次門の就く官である︒それだけにそれは次門が秀才に挙げられた際︑美選とされた場合にあって

もやはり次門としての官序しかもてなかったのを物語っているものとされよう余聞鍔特拡即時一服僻

W4

醐軌

叫軒

両烈

誌の

﹀︑

上級士入居︵族門制でいえば甲族層︶が察挙制離れした理由としては︑さきにふれたように︑甲族層がどちらかとい

えば察挙制に否定的であったとと︑南朝に入ると家格の固定化が決定的となったが︑それだけに甲族屈にとっては︑

次門同様秀才に挙げられる必要は別になく︑また挙げられでも何ら栄誉でなかったとと︑などがあげられる︒また︑

もし秀才の挙に応じたとすればその試験の成績が現われ︑それに応じた起家︑就官が聞かれる︒乙うしたζとも亦甲

族庖にとって好ましい乙とではない︒やや例外的に秀才の挙に応じた先の王融︑王徴の二例にあっては︑露骨に家格

との対応が示されない官に就いているが︑乙れもそうしたこととの関連において見るべきであろう︒また︑秀才の試

験内容は時事に及んでいる︒複雑な世に処するための常識として時事にかかわらない乙とをモットーとする甲族層が

禿才の試験をうけ自己の政治信条などを述べざるをえなくなるのは好ましくないことであったであろう︒それにもか

かわらず甲族のなかにあえて秀才の挙に応じたもののいた理由であるが︑その一つとして︑恐らく王融について想定

されるように︑自己の顕示があげられよう︒他の一つとして︑それと関連するが︑年少であるにもかかわらず対策に

(12)

十分応じられるだけの才能のあるのを示すことが考えられる︒梁沓博七陸僅伝に︑芥時代のこととして︑

保少

勤学

︑品 川川 崎文

︒:

・十 七︑ 挙本 州禿 才︒ 刺史 寛陵 王子 良関 西邸

︑延 英俊

︒ほ 亦到 持︒

M

議首従事参市雌陵王法曹

行参

市︒

とあ り︑ 梁古 川

h伏挺伝に︑伏挺について︑

及長有才忠︑好属文︒為五言詩︑善効謝康楽体︒父友人楽安任肪深相歎異︒山市日︑此子目下無使︒・汗末挙秀才︒対

策為

円山

川第

0・:高祖見之甚悦︑謂日顔子︒引為征東行参軍︒昨年十八︒

とあ り︑ 染引 いは 阿劉 之遂 伝に

︑斉 時代 のこ とと して

之遜八歳能属文︒十五挙茂才︑対策︒日間約任肪見而異之︒起家寧朔主簿︒

とある︒布

ω

なかに次門も入っているかも知れないが︑何れにしても年少で秀才に挙げられるのが︑その学識等を識

者に一不す好尚となるべきを察せしめるであろう︒さきに見た王微の場合も︑宋書王微伝に︑

微少好学︒無不通覧︒善属文︑能書費︑兼解音律医方陰陽術数︒

とある︒王微にあっても秀才の本に応ずることはその才能を示す機会となりえたのであろう︒

さて

︑山 本古 唯一 九隠 逸伝 中の 宗矧 伝を 見る と︑ 宗耐 につ いて

刺史股仲地利玄此畔主簿︑挙秀才︒不就︒

とあり︑その劉桜之伝に︑劉凝之について︑

州一

二礼

川団 関主 簿︑ 本禿 才

0

・ 不 就 ︒

とあり︑そ

ω

奴法 賜伝 に︑ 初制 法賜 につ いて

州附主的︑挙秀才︒右参市著作佐郎員外散防侍郎︒蚊不就︒

とあり︑南斉書謹封延伯伝に︑封延伯について︑

MH

陶輔

の秀

才・

孝版

︵越

川代

(13)

晋南

朝の

秀才

・孝

旅︵

越利

jL 

J

州昨 主簿

︑挙 秀才

︒不 就︒

とあるのを始めとして︑秀才に挙げられたが﹁不就﹂であったとする史料がかなりある︒ところで︑前引の南斉書劉

蹴伝の場合や右の程法賜伝の場合や︑宗削伝に︑宗畑について︑

臨川王義慶肝為祭酒主簿︒設不就︒

とあるものに見られるように︑官に就かなかった際﹁不就﹂と表現されるが︑秀才に応じなかったととについても同

様の表現がなされているわけである︒乙れは秀才に挙げられることがそのものの官序における一種の就宮的性格を強

めて いた のを 察せ しめ る︒ 果し て︑ 通典 博介 選挙 四雑 議論 上に

武帝天監中︑︵洗︶約又上疏日︑頃自漢代︑本無士庶之別︒自非仕官︑不至京師︒罷公卿牧守︑並選郷里︒小人脂

仰︑以成風俗︒且聾校恭布︑伝経授受︑皆学優而仕︒始自郷邑︑本於小吏︑幹佐方至文学功曹︒積以歳月︑乃得察

挙︒人才秀異︑始為公府所畔︒選為牧守︑入作台司︒漢之得人︑於斯為盛︒今之士人︑並表京色︒其守土不選︑非

直愚賎︒且当今士人繁多︑略以万計︒常患官少才多︑無地以処︒秀才自別是一種仕官︒非若漢代取人之例也︒偲使

秀才対五悶可称︑孝廉苓一策能過︑此乃雌虫小道︑非関理功得失︒以此求才︑徒虚語耳︒

とあ る︒ 乙乙 では 当時 の秀 才が 仕官 の一 種と され てい る︒

︵そ れは 恐ら く孝 康に つい ても いえ ると とで あろ う︒

﹀な お︑ 秀

才に挙げられるとと自体が一種の就官となった過程についてであるが︑秀才勺孝廉︶に挙げられたものを為政者の人

気取り︑動乱などによって試験をしないで官に任ずる乙とがあった︒すなわち︑晋書

4 3

王接伝に︑西晋時代のこと

とし

て︑

是歳︑三王義挙︑恵帝復件︒以固有大慶︑天下秀才︑

とあ

る︒

また

︑晋

書博

一川

孔但

伝に

先是︑以兵乱之後︑務存慰悦遠方︒秀孝到︑不策試︑普皆除署︒至是帝申明旧制︑皆令試経︒有不中科︑刺史太守

一皆 不試

︒接 以為 恨︒ 除中 郎︒

(14)

免官︒太興三年︑禿孝多不敢行︒其有到者︑並託病︒帝欲除暑孝廉︑而秀才如前制︒坦奏議日︑:・帝納鴬︒孝廉申 至七 年︑ 秀才 如故

とあ

る︒

昔m u 博七 甘卓 伝に は︑ 右と 関連 した 記事 をの せ︑

中興初︑以辺冠未静︑学校陵遅︑特聴不試孝廉︑而秀才猶依旧策試0・:卓於是︑精加隠括︑備礼︑挙桂陽谷倹為秀

才︒倹辞不獲命︒州厚礼遣之︒諸州秀才閲当考試︑皆惇不行︒唯倹一人到台︒遂不復策試︒倹恥其州少士︑乃表求 試︒ 以高 第除 中郎

この高第は下第のなかの高第とすべきである︒孔但伝の記事は秀才︑孝廉

K

挙げられたものが︑もはや試験

をしないで任官されるのを当然とする風が生じていたのを察せしめる︒ と

ある

こうしたことはのちのち秀才︵︑孝康︶に挙

げられたのが一種の就官となるのに機能したとされよう︒︵詩

m t

説 明

明 日

諸 制

町 一

一 銭

的 鵬

札 町

︶ ところで︑地方長官の察挙する秀才が通常次門屑の就くべき一種の就官になったとすれば︑他に地方長官などが推

挙するもののなかに︑甲族の就官を意味するものが生ずることが予想される︒ここで宋害地叩郭世道伝を見ると︑

︵会 稽太 守察

︶興 宗欲

挙山

陰孔 仲智 長子 為望 計︑

会稽貴重望計及望孝︒盛族出身不減秘著︒

太宗 泰始 七年

︵郭

︶原

平次息為望孝︒仲智会土高円︑原平一邦至徳︒欲以相敵︒会太宗別殺用人︒故二選誼寝︒

とある︒会稽郡は天下の大郡であるが︑右は会稽郡が盛族を望計︑望孝に察挙した際その望計︑望孝として起家する こと が︑ 秘書 郎︑

著作郎として起家することと同質となったのを示している︒

︵こ

の際

の起

家は

恐ら

く試

験を

経な

いも

ので

あっ

たの

であ

ろう

︒︶

︵た

だし

︑祭

典宗

は別

の制

点か

ら望

孝を

げた

わけ

であ

る︒

︶ ちな

みに

︑梁 書博 た粛 環伝 に︑ 疎年数歳︑従伯恵聞撫其背目︑必興吾宗︒疎少而朗悟︒有縦横才弁︒起家斉太学博士︒時王倹当朝︒疎年少未為倹

所識︒負其才気︑欲候倹0・:倹与語大悦︒倹為丹陽予︑昨為主待︒挙為南徐州秀才︒累遷司徒記室︒

mH

南朝

の秀

才・

孝廉

︵越

利︶

(15)

町田

南朝

の秀

才・

孝旅

︵越

川刊

; J L  

; ¥  

とあ

り︑

梁古

博一

一一

張率

伝に

率年十二能版文︒常日限為持一節︒和逃作賦制︒至年十六︑向二十許廿0

・:

起山

本蒋

作佐

郎︒

︵芥

︶越

武三

年挙

秀才

除太子合人︒与同郡険僅幼相友抑︒品川同誠詣左術将軍出約︒迎位任防在川町︒約乃澗肪日︑比二子後進才秀︑持小川金

也︒卿可与定交︒由此与防友善︒

とある︒太子会人は甲族の就く清官である︒前者は次門︑後者は甲族の場合であるが︑それらは才能あるものにとっ て秀才がその才能を示すべき機会を与えられるものであることと︑秀才がそれなりに一つの官序をなすものであるこ

ととのかねあいにおいて理解すべきものなのであろう︒

第二に孝康についてであるが︑m

日宮 崎一 小附 侃伝 に躍 江太 守張 裂が 附侃 を孝 廉に 挙げ たこ とに つい て︑ 挫察 侃九 不服

︒至 神的 陽︒

・: 除郎 中︒ 伏波 将軍 孫禿 以亡 国支 問︑

府盟

不則

中軍

人士

︑恥

為抜

属︒

以侃

官︑

有為

A m

人 とあ る︒ 怒官 は族 門制 制定 以後 でい えば 後門 の就 くべ き官

であ

る︵ 謡唯 一取 引時 一鯛 時枇 伊誠 子﹂

︶︒ 分はその起家の官によって規制される局面がある︒寒士として起家したものがたとえ甲族の就く官に就いても依然と して怨士であった︵お縦一吟改︶のはそれをよく物語っている︒もともと県の散吏︵流外︶であった陶侃は︑流外に起 家したものとして寒官たる官序をもっていたものであり︑それだけに郎中に除されても一面で族門制制定以後でいう

︵叩

族︑

︶次

ω

ような官人身分ではなかったことが想定される︒輩し右はそうした意味で器官という表現をしてい

るのであろう︒なお︑会人は波門制制定以後でいえば後門の就く官である︒また︑晋書惜叫王遜伝に︑王遜について︑

仕郎

︒媒 孝成

︑為 吏部 令山 火︒

六朝における官人の身

とあ

り︑

官古

川戸

﹂庶

刈伝

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・ 日 叶

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刊︑

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民一

川に

つい

て︑

市築

学服

(16)

とある︒尚古省の吏部令史︑都令史は族門制制定以後でいうと後門屈の就くべきものである︒それだけに

ζ

の王

遜︑

民間の羽合もさきの陶侃のような身分のものの事例であるとされよう︒また︑晋書博︐叫援遊伝に︑提遊について︑

熱末︑察孝廉︑除相府会人︒出為氏池長︒甚有志政︒以府免︒遂為廃疾︒泰始初︑武帝録絞文帝府僚属︑就家拝郎

とある︒これは孝廉に察せられでも相府会人に任ぜられたことを示す例である︒

ところで︑陶侃伝には︑附侃が舎人とされた記事に続けて︑

時予立国郎中令楊昨侃州里也︒為郷論所帰︒侃詣之︒・:与同乗見中書郎顧栄︒栄甚奇之︒吏部郎温雅謂陣日︑奈何

与小人共載︒昨日︑此人非凡器也︒尚書楽広欲会刑揚士人︒武庫令黄慶進侃於広︒或非之︒鹿目︑此児当遠到︑復

何疑

也︒

もたらさなかったのを示している︒

晋書

山崎

一光

逸伝

を見

ると

っている︒門亭長は後門層の就く流外官である︒ところが同伝に︑彼について︑

f

流外起家後門の場合それが必らずしも社会身分の改変を

光逸は初め博昌県の小吏となりのち門亭長とな としている︒これは孝廉に察せられ郎中に除されても︑

後挙孝廉︑為州従事︒棄官投︵胡母︶輔之︒輔之時為太侍︵東海王︶越従事中郎︒薦逸於越︒越以門寒市不召︒越後

囚閑宴︑責輔之無所挙薦︒輔之日︑前察光逸︒公以非世家︑不召︒非不挙也︒越即肝君︒書到︑郡県皆以為誤︒審知

回一

ん逸

︒乃

備礼

道之

︒ とある︒州従事は木来下級士人の就くべき官である︒恐らく光逸は州従事となってもその才能をのばすことができな

かったのであろう︒また︑宋書博

1 3 尚綜伝に︑東晋宋初の濡綜について︑彼が左民令史に補されたのち︑孝廉に挙げ

られたのを記している︒乙れは後門が孝廉に挙げられた事例となろう︒

このように見てくると︑孝廉は一般的にいって︑族門制制定以後でいう甲族︑次門の官序の過程に現われるべきも

軍日

南朝

の秀

才・

44

廉︵

越知

刊︶

九九

(17)

用同

市朝

の秀

才・

孝脈

︵越

利︶

一 OO

のではなく︑非士人︵H

小人

H庶︶たる後門がそれに察せられるものとなったが︑

が本来の社会身分を士人に改める﹁手段﹂となるものでなかったとされよう︒

と乙 ろで

︑す でに 別稿

︵訓 郡

A

﹃糊 諸糊 欄詔 治︶ で述 べた よう に︑ 宋中 期以 後富 裕な 三五 円で 軍勲 をた てて 後門 屈に 就く べ

き官をえたと偽り︑以て格役を免かれたものが多くなった︒掌廉が事実上後門閥を対象とするものであれば︑その際

孝廉 の制 も亦 何ら かの 形で それ に関 係す べき が予 測さ れる

︒こ とで 宋書 惜一 位以 祭伝 を見 ると

︑京 祭に つい て︑

︵大 明︶ 三年

︑山 位納 山陰 民丁 象文 貨︑ 挙為 会稽 郡孝 服︑ 免官

とある︒大明三年にはすでにさきの偽濫が盛んに行われていたが︑実祭は右の孝廉察挙に何らかの形で関連していた

このことはさきの推測をささえるところがあろ 彼らが葱廉に察せられでも︑

れて

ので あろ う︒ 民丁 とい うの は三 五民 丁︵ 三五 円の 丁﹀ と考 えら れる

ぅ︒

さて

︑山

本古

4孝義伝には︑恐らく三五円と思われるもので孝を以て孝廉に察せられた人物がいくつも出ている︒

そのなかの郭氏の場合︑祖父郭世近︑父郭平原︑子郭伯林が何れも孝廉に察せられているが︑郭世道について︑﹁家

貧無産業︑仙方以益継母︒﹂とあり︑郭平原について︑﹁自売十夫︑以供衆費︒﹂とあるものなどから見て貧しい三

五円であったと推定される︒また︑呉謹も孝廉に察せられているが︑傭賃を以て生計をたてていたと恩われるのから

みて貧しい三五円であったと推定される︒何れにしてもそれらが甲族︑次円であったとはとうてい考えられない︒

ただし︑次門もときとして孝採に挙げられている︒すなわち︑南斉書謹良政伝中の孔誘之伝に︑

勝之初為悶子生︒挙孝廉︒除衛軍行参軍員外郎尚書三公郎︒

とある︒員外郎就官は次門の宮序である︒右は孔誘之が因子学のなかの太学に因子生として在学し︑その在学中︵あ

るいはそれをヰえてから︶孝廉に挙げられたのを示している︒乙の点についてはつぎのような理解が可能であろう︒

次節で述べるように︑斉時代国子学のなかの太学で次門が太学生となった場合︑秀才の高第となれば次門としての

就官をした︒その点と悶子学のなかの太学が次門に聞かれているものである点とをあわせ考えると︑右は次門が太学

(18)

生となっていたため︑何らかの理由で孝廉に挙げられたけれども︑太学生たる身分に基いて︑

わか らな いが 何れ にし

ても

︑︶ 次門 とし ての 就官 をし た︒

︵試

験が

あっ

たか

どう か なお︑孔誘之が孝廉に挙げられた背景はわからないが︑彼は吏能があったとされている︒それだけに本人あるいは

第三者がそうしたことに閲する才能を一不す意図をもったと乙ろにそれが生じたのかも知れない︒また︑雨目芳香惜江文学 伝中 の丘 巨源 伝に

︑ 巨源少挙丹陽郡孝康︒為宋孝武所知︒大明五年︑救助徐愛撰国史︒

とある︒丘巨源が孝廉に挙げられた際︑彼に出世しようとする欲望が強かった乙と︑甲族が秀才に本げられた理由の 一つに自己の顕示があったことをあわせ考えると︑その学識を示して世に用いられようとする彼のな図が大きく働い

︵ 下 略 ︶

ていたとして差文えなかろう︒ζの正巨源の家格は不明であるが︑せいぜい次門どまりであろう︒

ここで廉吏にふれておく︒漢時代の廉吏については︑

つと

に浜

口重

国氏

の考

察が

ある

︵順

制耳

目諜

r h

持 脱

出 向 一 ⁝

持 研 究 ﹄

︶ が ︑

六朝の廉吏は漢時代のものと性格を異にする︒それは族門制制定以後でいえば後門層にあたる身分階層が主対象とな り︑それだけにその察挙の結果与えられる郷品も普通六|九品であったようである︒ただし︑南朝になるとそれは比

この 点に つい ては

︑南 朝に なっ て後 門間 の就 官が

就役

的一 面を もっ

︵州 一誠 二十 五︶ につ れ︑

それだけに史上から姿を消した︑ということが想定されよう︒ 当らなくなるようである︒

もはや廉吏の存在意義がなくなり︑

第四節渠陳時代の秀才︑孝康

梁の武帝は甲族問のほかに次門屈をも明確に政治的支配者問に措定し︑

︑ ︑

り甲族︑次円︶と庶︵つまり後門︑三五門︶とのわくのなかにおいて登用するにつとめた︒

︵恥 持制 限鵬 可改

︶︒ 察挙 とく にそ のな

かの

秀才 につ いて 考え た際

それと同時に有為有能の人材を士人︵つま

これはすでに見た通りである

右と

ω

関連において芥時代までと梁陳時代とでかなり

晋南

朝の

秀才

・学

旅︵

越川

口︶

(19)

皿田

南朝

の秀

才・

孝康

︵越

智︶

大きい変化がある︒本節は主として梁陳時代のそれをとりあげ︑あわせて梁陳時代の国子生をとりあげる︒

まず秀才の試験成績の評価が変ったことについてであるが︑文逃王元張︑永明九年策禿才文五首の最初に︑

問秀 才高 第明 経︒

とあり︑問︑永明十一年策秀才文三首に︑

間秀

才︒

とある︒最初の文に﹁秀才高第明経﹂とあるのは︑秀才のなかに高第と明経との科が生じたのを物語っているかの如

くである︒しかし︑後引の梁書徐勉伝に︑斉時代の因子生についてであるが︑

生として射策︵試験︶を受け︑その結果として高第に挙げられたということである︒

なように︑秀才の試験のありかたと因子生の試験のありかたとは相応じ相関連するところが多い︒こうした乙とを考 えると︑右の﹁秀才高第明経﹂は秀才として試験を受け︑高第と明経とにされたもの︑ということになろう︒ここで

漢現六朝一百三家集何記室集︑与建安王謝秀才牒を見ると︑

﹁射

策挙

高第

︒﹂ とあ る︒ 乙れ は因 子

のちに述べるところに自ら明か

州民泥塗何遜死罪︒即日被板︑以民充年秀才0

・: 将以 允応 貢選

︑待

問金

円︒ 上第 甲科

︑既 慨努

︐務

︵ 下 略 ︶

とあ

る︒

乙の建安王は梁の建安王偉︵のちの南平王偉︶とすべきである︒何遜は東海部郊県の人であるから︑彼が建安

王偉から秀才に挙げられたのは天監四年から同五年までの王が南徐州刺史であったときのこととされよう︒乙の記事

は秀才の試験結果として甲料とされるものがあったのを示している︒そうすると︑梁初︑︵天殴四︑五年の炎︑︶秀才に

一応甲科︑高第︑明経の三つのうちの何れかとなったとされよう︒さて︑梁の国子生の試験結

挙げ られ 合格 した 際︑ 果に は甲 科︑ 高第

︑明 経の 三つ があ るに 的制 明日 八︶

︒高 第は 明経 より も上 であ る︒ それ らと 甲科 との 上下 関係 であ るが

︑ 梁時代その甲科となったものに︑南海王大臨︑南郡玉大連︑長沙王孝鍛がある︒南海王大臨︑南郡王大連はともに武 帝の孫︑簡文帝の子で︑甲科としてともに中書侍郎を拝している︒長沙王孝倣は武帝の兄の孫で甲科として秘書郎に

(20)

除されている︒因子生としての高第は一般的にいって秘書郎となる︒中書侍郎は流内第九班で秘書郎とは比べものに ならないほどの高官である︒かくて甲科は高第︵及び明緩︶よりも上位であったとされよう︒このことは︑秀才の甲 科︑高第︑明経についても同様なるべきを察せしめる︒なお︑さきの﹁上第甲科﹂は蓋し甲科が上位にあったととろ

﹁後

入悶

学︑

明経

︒射

策甲

科︑

奔中

脅侍

郎︒

﹂と

︵梁

香山

晴酬

南海

王大

臨伝

には

︑南

海王

大臨

につ

いて

る︒

乙の

﹁明

経﹂

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けれ

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句︑

とい

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ζと

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る︒

︶ に出 てい るの であ ろう

とζ

ろで︑第二節で見たように︑宋の泰始三年秀才の試験成績の判定に改変があり︑

間合格が中︑二間合格が下︑ 五間企部合格が上︑四問・三

一間だけでは不合格となった︒右はそうした試験

ω

方法が大きく変化したのを物語って

いる とさ れよ う︒ さて

︑梁 時代 にな

ると

秀才 に挙 げら れ︑

第一

流甲 族の 起家 の家 であ る秘 書郎

︑著 作佐 郎ク

ラス

︵廿

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川同

一議 品問 中

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とい

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る︒

梁書

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覧朋

子情

伝に

︵滞

﹀悩 初為 国子 生︑ 対策 高第

︒州 又挙 秀才

︒起 目ぷ 秘書 郎︒ とあ り︑ 梁書 惜咽

王規

伝に

︑王 規に つい て︑

州挙秀才︒郡迎主簿︒起家秘書郎︒

とあり︑梁書坊主規伝に︑王褒について︑

弱冠挙秀才︑除秘書郎太子舎人︒

とあ り︑ 梁書

堵一

張帳 伝に

︑張 雌に つい て︑

州挙秀才︑起家秘書郎︒

とあ り︑ 陳書 堵一 一王 国伝

に︑

王国 につ いて

挙秀才︑起家梁秘書郎︒

普南 朝の 秀才

・法 成︵

越利

V

一 O

(21)

晋南

朝の

秀才

・孝

旅︵

越智

とあるのはそれである︒それらは何れも甲族起家と考えてよかろう︒

ない可能性もある︒︶また︑陳害時一陸従典伝に︑陣従典について︑陳時代のこととして︑

年十五︑本州挙秀才︑解禍著作佐郎︒

とある︒なお︑陳書捨一陸淡伝に︑陛践について︑梁時代のこととして︑

州挙秀才︑解褐宣恵始興王行参軍︒

︵た

だし

︑布

の王

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秀才

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る︒

乙れ

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甲族

とし

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る︒

また

︑陳

雲田

博一

一一

陸現

伝に

︑陸

現に

つい

て︑

︵陳﹀永定中州挙秀才︒天嘉元年為寧遠始興王府法曹行参軍︒

とあ

る︒

︵永定四年は即ち天嘉元年である︒︶これは陸現が甲族として起家したのを示している︒

弱 −

冠 方挙

秀 陳

才 書

十巻

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対 批策 寄

宵 伝

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梁 、

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城寄 王 l

左 い

国 っ 常 て

とある︒王国の官や太学博士起家はそのものが次円であるととを物語っている︒かくてこれは秀才として高第となっ たが次門としての起家をした例となろう︒また︑梁書均一顧協伝に︑顧協について︑

起家揚州議曹従事史兼太学博士︒挙秀才︒尚書令出約覧其策而歎日︑江左以来︑未有此作︒遷安成王国左常侍兼廷

尉︒太尉臨川王聞其名︑召掌書記︒

とあるが︑顧協の秀才についても右と同様のことが考えられよう︒

とのように見てきた際︑梁に入ってから秀才への察挙に甲族︑しかもその第一流のものも亦応ずるに至ったのがわ かる︒梁の武帝の他の政治行為をあわせ見た際乙れについてはつぎのようなことが理解されよう︒旧来次門層として の士人は政治的支配者層としての性格を帯びる反面︑甲族層の絶対的優位性の前には政治的被支配者層としての一面 をももっていた︒梁の武帝は士人に宮人的性格を強めると同時に︑官人としての士人全体を政治的支配者層とし︑そ

(22)

うした意味で甲族と次門との一体性をうち出した︒その一環として旧来事実上次門にだけ聞かれていた秀才の察挙を

改めて甲族にも聞くようにした︒

ところで︑官人としての士人全体を政治的支配者層とし︑そうした意味で甲族と次門との一体性をうち出すという ことは︑学校制度としての国学の制についてもこれを見るととができる︒ただし︑前者がいわば次門に甲族を加えた ものであったのに反し︑後者はいわば甲族に次門を加えたものであった︒いまその点をとりあげてみよう︒

まず国学に入っている次門ひいては次門そのものも亦貴とされたことについてであるが︑南史博

JU儒 林伝 の﹁ 序﹂

l こ

︵前略︶逮江左︑草創日不暇給︒以迄宋斉︑国学時或開置︒而勧課未博︒建之不能十年︒蓋取文具市巳︒

とあるが︑南斉書措礼志一には︑斉時代のこととして︑

建元四年正月︑詔立国学︑置学生百五十人︒其有位楽入者五十人︒生年十五以上二十以選︑取王公己下至三将著作 郎廷尉正太子会人傾謹諸府司馬諮議経除教者諸州別駕治中等見居官及罷散者子孫︒

山朋

︑乃

止︒

悉取

家去 都二 千里 為限

太組

とある︒この官の下限は次門と考えられる︒また︑続いて︑

永明三年︑詔立学︑創立堂字︒召公卿子弟下及員外郎之胤︒凡置学生二百人︒

とある︒この員外郎は︵起家のときを除くと︶次門の就くべき官である︒そうするとい汁時代国学には次門及びその子孫 も入学できたということになる︒ところで︑宋書性別恩伴伝の﹁序﹂に︑

︵前略︶歳月選議︑新風漸篤︒凡厭衣冠莫非二品︒自此以遷︑遂成卑庶︒

級︒説晋以来︑以貴役践︒士庶之科︑較然有弁︒

周漢

之道

以智役愚︒台隷参差︑用成等

とある︒ここでは二品日甲族

H

︵狭

義の

︶士

H

貴と二品以下日次円以下

H

︵広

義の

︶庶

H

賎という図式が示されてい

mH

南朝

の秀

才・

学出

版︵

越利

一 O

(23)

普南

朝の

秀才

・孝

廉︵

越如

何︶

一 O

る︒ さて

︑障 害性

〜百 官志 上に

国学有祭酒一人博士二人助教十人︒太学博士八人︒又有限外博士員︒

生限以貴賎︒︿梁武﹀帝欲招来後進︒五館生皆引寒門筒才︑不限人数︒

とある︒ここでは旧来国学に入っていた次門も亦貴とされていたととになる︒乙れは宋書思倖伝の﹁序﹂に見える甲

族だけを立とするものと異っている︒六朝にあってはのちの制度的用法を前代に投影することがある︵4

噌 綿 一 一 酬 明 日

L

騨四︶が︑こうした理解は恐らく梁の武帝によって明確にうち出されたものを前代に遡らせたものであろう︒何れに

して も梁 時代 及び

︵そ の政 治体 制を うけ つい だ︶ 陳時 代︑ 次門 も亦 貴︵ 族﹀ とさ れた のを 集せ しめ るに 足ろ う︒

貴に

は恐

らく

第十

ニ斑

以上

就官

者を

指す

︑よ

り狭

義の

もの

もあ

る︒

それ

はの

ちに

ふれ

る︒

︵閉

山︶

天監

凶作

世五

経博

士各

一人

︒ 旧国 子学

﹁ −

r

J

F4

JJIL 

乙こ で鶴 って 斉時 代の 国子 生と その 官序 との 関係 を見 ると

︑甲 族の 場合

︑梁 書均 一一 茶持 伝に

︑繋 樽に つい て︑

選補因子生︒挙高第︑為司徒法曹行参軍︒

とあ

り︑

梁書

時一

一江

荷伝

に︑

江荷

につ

いて

選為因子生︒通尚書︒挙高第︑起家秘書郎︒

とあ

り︑

梁書

博咽

一粛

治伝

に︑

粛治

につ

いて

斉永明中為国子生︒挙明経︑起家著作佐郎︒

とある︒乙れらは甲族として起家したのを示している︒

さて

︑さ きに 見た 階書 百官 志の 記事 は国

︵子

﹀学 に太 学博 士が いた のを 示し てい るが

︑府 六山 拠地 一一 因子 監太 学博 士に

︑ 東 晋 一 五 帝 増 置 因 子 博 士 十 六 人

︒ 梁 置 太 学 博 士 八 人

︒ 班 第 二

︒ 陳 品 第 八

︒ 秩 六 百 謂之 太学 博士

︒ 品服 同因 子博 士︒

とあ り︑ 南・ 斉書 埼周 糊伝 に︑ 周嗣 につ いて

︑﹁ 転因 子博 士︒ 兼著 作如 故︒ 太学 諸生 慕其 風︑ 争事 華弁

︒﹂ とあ る︒

乙 ・ つ

(24)

したことは国学の因子生のなかに太学生が合まれていたという理解を確実にしよう︒ところで︑梁書惜桔江草伝に︑芥 時代 の江 草に つい て︑ 与︵弟︶観倶詣太学︑補因子生︒挙高第

0

・: 司徒 寛陵 王聞 其名

︑引 為西 邸学 士︒ 弱冠

挙南

徐州 秀才

︒:

・解

褐奉

朝請

︒ とある︒その秀才としての起家が奉朝請であるのから見て江革はもともと次円であったとすべきであろうが︑そうし た江草が太学に詣って因子生となったとある︒これは国学の太学生のこととされよう︒

時代 の徐 勉に

つい

て︑

起・

米国

子生

0

・:

射策 挙高 第︒ 補西

陽王

国侍 郎︒ 尋遷 太学

博士

鋲軍 参軍 尚書 殿中

郎︒

とある︒乙の際次門の因子生が因子学の試験をうけて高第とされたけれども︑その就官は次門としてのそれであっ

との因子生は必らずや太学生のととであろう︒かくて︑因子生中の太学生が高第とされた

Tこ

梁書控徐勉伝に︑斉

Tこ

とい うこ とに なる

︒ 際やはり次門としての官しか与えられなかったのが理解されよう︒

て ︑

なお

梁党

国博

鳩山

賀湯

伝に

︑ 斉時代の賀湯につい 為凶子生︑挙明経︒場州祭酒︒俄兼国子助教︒歴奉朝的太学博士太常丞︒

とあ

り︑

梁書

博一

4

仲手 伝に

︑丘 仲字 につ いて

︑ 斉永明初︑選為因子生︑挙高第︒未調︑還郷里

0

・: 太守

徐嗣

召補 主簿

︒歴 揚州

従事

太学 博士 子湖 令︒ とあるが︑とれらも亦次門が因子生中の太学生として明経なり高第なりとされたことを示しているとされよう︒

梁時代の学生としての起家については宮崎氏が表をつくっておられるが︑そこに因子生のうち甲科とされて中書侍 郎に起家したもの︑高第︑明経とされて秘書郎に起家したものが列挙されている︵敬一抑制び︒乙れらは何れも甲族起 家であったとされよう︒ところで︑そこには次円が因子生として明経とされ︑それなりの起家をしたものが含まれて

いる

︒陳

書世

一一

日開

不問

口伝

に︑

日出

不害

につ

いて

同日

南朝

の秀

才・

孝康

︵越

知刊

一 O

(25)

晋南

朝の

秀才

・孝

旅︵

越智

} ¥  

十四︑召補因子生︑挙明経︒累遷梁太学博士︒

とあ るの がそ れで ある

︒ま た︑ 陳書 博臣 容之 敬伝 に︑ 山今 之敬 につ いて

︑ 年十六︑策春秋左氏制旨孝経義︒揮為高第︒御史奏目︑皇朝多士︑例止明経︒若顔閲之流︑乃応高第︒梁武帝省其

策日︑何妨我復有顔閲邪︒因召入面試︑令之敬昇講座0

・:左右英不嵯服︒乃除童子奉車郎︒賞賜優厚︒十八︑預重

雲殿法会0

・:

即日

除太

学限

内博

士︒

とある︒中大通六年太学博士に任ぜられたことからヰ之敬は次円であったとすべきであるが︑それだけに梁時代にあ っても︑右で﹁皇朝多士﹂と称されている次門の士人は一般に因子生として明経となりえたのに過ぎなかったのが知 られ よう

︒こ の大 勢は 恐ら く陳 時代 にあ って も変 りは なか った であ ろう

︒と ころ で︑ 陳筈 坤一 一一 王元 規伝 に︑ 元規少好学︒従呉興出文阿受業︒十八通春秋左氏孝経論語喪服︒梁中大通元年︑詔策春秋︑挙高第︒時名川成称武 之︒ 起家 湘束 王国 左常 侍︒ とある︒王元規が出文阿について業を受けたというのは︑恐らく因子助教としての出文阿について学んだということ であろう︒さきの与之敬伝の記事には﹁皇朝多士︑例止明経︒﹂とあるが︑この次円王元規の高第は例外的なもので あろ う︒ しか しそ の起 家は 次門 とし ての それ であ る︒ また

︑陳 書博 一一 一戚 変伝 に︑

恐らく国子生に準じた選挙に関する

もの

とし

て︑

日公 少聴 慧︒ 遊学 京師

︑受 三礼 於国 子助 教劉 文相

大義

略備

年十

九︑

梁武

帝救

策孔

子正

一一

一回

芥周

礼礼

記 議︒奈対高第︒の除揚州祭酒従事史︒

とあ る︒ 戚変 が高 第と され たの は梁 大同 三年

︵中 大通 一見 年か ら八 年後

﹀の 乙と であ る︒ これ は次 門が

︵悶 子生 のそ れに 準 じた︶高第とされたが次門としての起家をした例となろう︒ただし︑陳書世周弘正伝に︑周弘正について︑

十五召補因子生︒の於国学︑講周易︒諸生伝習其義︒以季春入学︑孟冬応挙︒学司以其日浅︑弗之許︒博士到治議

参照

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