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空 の 思 想 に お い て ︑ な ぜ ﹁ 私 ﹂ は 現 れ る の か

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(1)

問題の所在と研究の目的   宗教の基本的組成である世界観は︑それぞれの宗教により異なっているが︑特に仏教の世界観は他の宗教と比べ

て︑すべてのものに実在を認めないことにおいて特異な世界観を呈していると言えよう︒

  この実在を認めない仏教は︑縁起によって全てのものは一時的に存在するという立場をとる︒この縁起説を空性 essentiaexistentia稿﹄﹁︑﹁vastu︑﹁︑﹁︑﹁ ︑﹃﹄﹁﹂︑vastu︶︑

空 の 思 想 に お い て ︑ な ぜ ﹁ 私 ﹂ は 現 れ る の か

││﹃菩薩地﹄﹁真実義品﹂における無著の空性理解を通して││

横   井   滋   子

(2)

という術語によって説きなおし︑空の思想を確立した龍樹Nāgārjuna の主著﹃中論﹄を根底と して般若空観 1を宣揚した中観派 2は︑すべてのものに実在を認めず︑無自性 3を標榜する︒このすべてのものは無自性であるという﹃中論﹄における龍樹の主張は︑あらゆるものは縁起によって生じ︑それ自体恒常不変の実体を持た

ないという意味であり︑縁起した世界は無ではないのである︒

  では︑実体を持たず︑縁起したものとしての﹁私﹂とはどのようなものとして捉えられるのであろうか︒この疑問に関して長尾は︑﹁龍樹によって︑essentia が否定せられつつも︑なおexistentia は十分に明らかにはなってい ない 4﹂と述べている︒つまり︑無自性であるゆえに︑他の何物にも依存せずその個体に固有な本質の存在は否定し

たが︑現実に立ち現れている存在についての明確な説明がなされていないということである︒この点に関して立川

は︑空の思想が否定したものは︑ことばが指し示すものの実在であり︑﹁縁起せるものとしての世界﹂を否定したのではないが︑その歴史的展開の中では否定の契機の方が強調されたために︑﹁縁起せるものとしての世界﹂に関

しては充分な考察がなされていないことを指摘している 5︒しかし︑実在を肯定する学派 6に対する批判の書として

﹃中論﹄を著した龍樹の目的 7に添えば︑当然否定し尽す作業のみが課せられるのである︒このような歴史的背景を背負う空の思想に関して︑現実に立ち現れた存在に対して注意を払うことが顧みられなかったことは当然の帰結と

いえる︒

  一方︑﹃小空経﹄における空性の相は︑有としても把捉されていることが向井によって指摘されている 8︒また︑空の思想を基盤として唯識思想を確立した無著Asan .ga が唯識思想成立以前に著した﹃菩薩地﹄

﹁真実義品 9﹂にも︑﹃小空経﹄は引用され︑空性の有的なあり方がことばとの関連において論じられている︒

(3)

  この﹃菩薩地﹄は︑瑜伽行派の基本典籍である﹃瑜伽師地論﹄の一部を構成する﹁本地分﹂に含まれる文献である︒この﹁本地分﹂を整備体系化した﹁摂決択分﹂においては︑﹃中論﹄で涅槃のアンチテーゼantithesisとして 用いられるプラパンチャp Arapañcaという重要な術語が執着abhiniveśaという語に置き換わっていることがシ ュミットハウゼンによって指摘されている B︒つまり︑﹃中論﹄で重要な術語として用いられたプラパンチャが︑同様に重要な術語として用いられた期間は﹁摂決択分﹂以前であり︑特に﹁真実義品﹂におけるプラパンチャの用例

は︑﹃中論﹄と同じく涅槃のアンチテーゼとして用いられていることから︑﹁真実義品﹂の思想的背景は﹃中論﹄に

あると考えられる︒また斎藤は︑﹃中論﹄と﹃菩薩地﹄﹁真実義品﹂は︑空理解において異なる認識を示していると

しながらも︑﹃菩薩地﹄が︑﹃中論﹄で論じられる空思想を掘り下げ︑特に重要な術語とともにその思想の基盤が

﹃中論﹄にあることを指摘している C︒   この﹁真実義品﹂は︑真実の内容という意味で︑空の思想を成り立たせる空性の正しい理解を示すという意図の もとに著され D︑その主張は︑﹁すべての法は言語表現し得ない本質を持っている﹂というもので︑この主張を様々な角度から論じている︒この論述のなかで特筆すべき点は︑真実として実在する真如の側面と︑﹁存在﹂を現成さ せる言語表現の基体としての側面を併せ持つヴァスツvastuという術語を用いて︑真如と﹁現実存在﹂の関係を

認識との関連において論述していることである︒

  この﹁真実義品﹂が説くヴァスツに関する先行研究は多々あるが︑現時点において最も有益な研究は︑高橋の研 究 Eであると考えられる︒高橋は︑﹁真実義品﹂においては﹁迷いの世界と悟りの世界﹂の連続性がヴァスツという 語に集約されているのではないかと指摘している F︒しかし︑高橋の主眼は︑瑜伽行派の思想における﹃菩薩地﹄の

(4)

位置付けであり︑ヴァスツと﹁現実存在﹂の関連について詳細な考察を行なっているものではない︒また︑最新の 注目すべき論攷として岸上の研究 Gが挙げられる︒岸上は︑実在を主張する説一切有部によるヴァスツに関する議論をふまえて︑﹁真実義品﹂におけるヴァスツの概念を整理し︑初期唯識思想成立における問題意識を浮き彫りにし

ようと努めている︒そのなかでヴァスツという語を用いることによって認識の問題と存在のあり方の問題を同時に

論じる工夫がなされたのではないかと指摘しているが︑その意図はあくまで﹁真実義品﹂におけるヴァスツの概念と唯識思想の関係を明らかにすることである︒このように︑空である存在が現実に立ち現れてくるメカニズムとそ

の源をヴァスツという語に焦点を当て考察した研究は管見によればこれまでなされていない︒

  本稿は以上の視点を踏まえ︑すべてのものが空であると主張する空の思想において︑なぜ﹁私﹂という存在が現

実に立ち現れてくるのか︑その根拠とメカニズムを﹃菩薩地﹄﹁真実義品﹂に説かれるヴァスツと認識の関係に焦点を当て︑無著の空性理解を通して考察する︒

一  ﹁私﹂の現れ   ﹁真実義品﹂は︑﹁すべての有情・器世間﹂は三つのヴァスツが八種類の分別によって現れたものであることを以

下のように説いている︒

他ならぬこの真如がこのように正しく理解されていないので︑凡夫たちにはそれが原因となって︑三つのヴァスツを生み出すものであり︑すべての有情・器世間を作り出すものである八種の分別が起こる︒それはすなわ

ち︑自性についての分別︑差別についての分別︑集合体として把捉する分別︑私であるとの分別︑私のもので

(5)

あるとの分別︑好ましいものについての分別︑好ましくないものについての分別︑その両者を離れた分別である H︒⁝このように︑八種の分別はこの三種のヴァスツ︑すなわち分別の基体であり︑展開の︵基体としての︶

ヴァスツ︑︵有身︶見と我慢︑貪瞋癡が生じるための助けをなす︒このうち︑分別の展開の︵基体である︶ヴ

ァスツに依存して有身見と我慢があり︑有身見と我慢に依存して貪瞋癡がある︒これら三種の事物によってすべての世間の生起の側面が余すところ無く明らかにされたことになる I︒

  この記述から︑すべての有情・器世間︑つまり世界は︑﹁真如が正しく理解されない﹂ことが原因となって︑﹁八

種の分別﹂の助けによって﹁三種のヴァスツ﹂が生起することによるということである︒また︑世界は﹁分別の展

開の︵基体である︶ヴァスツ﹂が基盤となっていることが理解できる︒

  ﹁分別﹂とは︑心が対象に対してはたらきそれを思い計ること Jであり︑認識のはたらきといえる︒特に︑﹁私﹂が あるとする﹁有身見 K﹂は︑﹁分別の展開の︵基体である︶ヴァスツ﹂に依存して生起することが述べられている︒

この過程に八種の分別のうちの三つの分別が関わっていることが以下のように述べられている︒自性についての分別︑差別についての分別︑集合体として把捉する分別という︑これら三つの分別は︑事物の

展開の基体であり︑分別の展開の拠り所である︑﹁色﹂などの名称を持つ事物を生じる L︒   まず︑自性についての分別とは︑﹁私﹂が固有の実体をもつものと認識することであり︑差別についての分別とは︑﹁私﹂を他とは異なる存在として認識することであり︑集合体として把捉する分別とは︑﹁私﹂をひとつの集ま

り︑つまり一人の人間として把捉する認識のことであると考えられる︒つまり﹁私﹂に対する実体視から︑﹁私﹂

は独自で他とは異なり︑名前を有した一人の人間として認識することである︒この三つの認識が︑﹁分別の展開の

(6)

︵基体である︶ヴァスツ﹂としての﹁私﹂が﹁生じるための助け﹂をなすと論じられている︒   つまり︑﹁私﹂が生じる原因は︑﹁真如﹂を正しく理解していないために生じる三種類の認識が︑ヴァスツとしての﹁私﹂を生じさせる誘因となっているということである︒この﹁真如﹂は﹁真実義品﹂において﹁単なる事物

︵ヴァスツマートラvastumātra︶すなわち単なる真如tathatāmātra﹂と言い換えられていることから︑真如はヴ ァスツマートラと同義であり︑結果としてわれわれがヴァスツマートラを正しく理解していないから︑世界としてのヴァスツが生起することになる︒仏教において世界とは︑﹁私﹂の﹁さまざまな生存態の総称 M﹂をさす︒この観

点から︑ヴァスツと認識の絡み合いの中で︑﹁私﹂の世界が立ち現れてくる過程が見出される︒

二  ヴァスツの概念について   まず︑言語表現の基体としてのヴァスツについて考察する︒空の思想を基盤にもつ唯識思想の完成者である世親

著の﹃唯識三十頌﹄第二十偈において︑﹁彼彼の分別によりて彼彼のものは分別せらる︒彼︵物︶

は實に遍計所執の自性なり︑彼︹物︺は無な︹ればな︺り N﹂と述べている︒この文言の中で︑﹁物﹂︵ヴァスツ︶が︑見られたものとしてある拡がりを持ち︑深く心に何らかの実在性を感じさせる O︑と説かれている︒このヴァスツの

側面が︑世俗においては物体として顕現することが理解できる︒そして︑この見られたものとは分別において見ら

れたもの Pなのである︒我々の世間的実用の根底としてのヴァスツは︑よりどころとしての事体 Qなのである︒対象とは︑分別 Rのひとつのあらわれに過ぎず︑この分別され現れたものは︑対象としての形相が実在であると誤認された ものであり︑ヴァスツは︑一切の事物vastuとして︑人間の識別作用などの起こるもとのものである構想思考の

(7)

はたらきによって︑対立のすがたを現わし出している虚妄なるものであるということが︑唯識説によって説かれている S︒この観点から︑ヴァスツが事物と訳される理由が頷けるのである︒

  一方︑岸上は︑ヴァスツの概念を︑アビダルマ以来の伝統及び﹃瑜伽論﹄の用例から検討し︑外界の実在のよう な固有の存在を想定する﹁事物﹂ではないことを指摘し︑﹁起こりうるあらゆる現象︑起こっている出来事︑というような流動的な概念と考え T﹂︑﹁事態﹂という訳語をあてている︒

  さらに高橋は︑ヴァスツが︑一般的に事物などと訳されるとしながら︑﹃毘達磨倶舎論﹄で自性︑対象︑繋縛︑

原因︑所有物︑﹃瑜伽師地論﹄では九種類︑﹃声聞地﹄では不浄︑慈︑縁起という意味で用いられ︑﹃菩薩地﹄では

上述のように︑﹁真如﹂と言語表現の基体としての二つの側面を併せ持つ概念として用いられるなど︑一概に一語 で表現できるような概念ではないことを指摘している U︒   また︑﹁真実義品﹂においては︑﹁言語表現しえない実在としてのヴァスツ﹂はヴァスツマートラ︵ヴァスツの

み︶と称されている︒このヴァスツマートラが何であるのかは︑﹁真実義品﹂の以下の箇所から解釈できる︒実に菩薩はこの深く入った法無我に関する知によって︑すべての法が言語表現し得ない本質を持っていること

をありのままに理解し︑如何なる法をも如何様にも分別しない︒︵彼は︶単なる事物︵ヴァスツマートラva-stumātra︶すなわち単なる真如tathatāmātraを把捉する他ない︒⁝︵菩薩︶は︑すべての法をこの真如とまったく等しいものと︑ありのままに智恵によって見る V︒

  菩薩は︑ヴァスツが真実には名称と区別され︑ヴァスツマートラであることを探究して︑﹁私﹂などと言語表現

するための基体となるヴァスツが真実には言語表現から離れ︑言語表現され得ないものであるというように︑ヴァ

(8)

スツが有する二つの面を知るのである︒そして︑名称と結合しないヴァスツということが︑言語表現され得ない本

質をもつものとして真実としての真如であるヴァスツの側面を表現している︒続いて︑ヴァスツマートラと言語表現の関係の在り様が以下のように述べられている︒

諸法の自性は言語表現されたように︑そのように存在するのではない︒しかし︑まったく存在しないのではな

い︒それでは︑それはそのように︵言語表現されたように︶存在せず︑しかし︑まったく存在しないのではないのであれば︑どのように存在するのか︒非実在のものを実在として想定する︵増益︶という誤った把捉を離

れたものであり︑かつ実在のものを非実在として想定する︵損減︶という誤った把捉を離れたものとして存在

する︒そして︑それがすべての諸法の勝義的自性であり︑他ならぬ無分別知の対象領域であると理解すべきで

ある W︒

  この論述から︑究極の真実であるヴァスツマートラは︑有るとか無いとかなど︑実体視を伴う言語表現可能な存

在としてとらえられるものでなく︑仏の無分別知の領域のものであり︑﹁言語表現し得ないものとして存在してい

る X﹂ことが理解できる︒ 三  認識について

1  認識と言語表現   この言語表現と世界の関係に関して龍樹は﹃宝行王正論﹄において︑﹁世界はことばの虚構︵戯論︶から生じて いる Y﹂と述べている︒戯論とはプラパンチャの漢訳である︒また︑プラパンチャとは︑﹁ことばによる表現の全構

(9)

造を語って Z﹂おり︑山口他は︑プラパンチャという語によって﹁概念的な分別の態が言葉において表されている﹂ということを言おうとしていると指摘している a︒この指摘から︑﹁概念的な分別の態が言葉において表され﹂たも

のが世界であると龍樹が理解していたと解釈できる︒

  また︑﹃中論﹄第一八章五偈に︑プラパンチャが概念的な分別の根底に存在することが以下のように説かれている︒

煩悩と業とは︑誤った認識vikalpaから起こる︒誤った認識は言語的展開prapañcaから起こる b︒   ﹃中論﹄ではプラパンチャは言語と関連づけて解釈されており︑立川は︑﹁ことばを働かせることが︑有・無・ 能・所・一・異等へと﹁ひろがる﹂ことであり︑その﹁ひろがり﹂がすがたを取ったとき世界となるのである﹂と述べている c︒

  つまり︑言語を用いた我々の認識は︑分別を引き起こすものであり︑個々の事物に対する実体視を生み出す︒言 語の指示物は実体と乖離しており︑一つのものから多様で多義的な虚偽のものを生み出すはたらきがプラパンチャのはたらきといえる︒このようにプラパンチャは︑言語により﹁世界のひろがり d﹂が展開していくはたらきを持つ

ものと解釈できる︒

  この認識とプラパンチャの関係について筆者は︑﹁言語活動によってなされる認識が生起する限り我々の世界はプラパンチャといえる e﹂と考えている︒

2  言語表現に含まれる認識のはたらき   このプラパンチャは上述したように涅槃のアンチテーゼとして用いられていることから︑プラパンチャを正しく

(10)

理解することは輪廻の消滅に繋がると考えられる︒実際︑﹁真実義品﹂においては︑認識を正しく理解しないこと

によって輪廻︑つまり﹁私﹂が生起してくることが以下のように説かれている︒凡夫達には三つの事物を生み出すものであり︑世間を作り出すものであるこの八種の誤った分別があるが︑⁝

さらにまたこの誤った分別から汚れが︵起こり︶︑汚れから輪廻の流転が︵起こり︶︑輪廻の流転から輪廻に随

伴する生老病死などの苦が起こる f︒   さらに︑この八種の﹁誤った分別から汚れが︵起こ⁝︶﹂る原因が︑言語表現に含まれる認識のはたらきである

ことが以下のように述べられている︒

事物に依存して︑名前︑名称︑言語表現に包摂されており︑名前︑名称︑言語表現に含まれているその分別が

展開している場合︑まさにその事物に対して多種の︑多くの多様な様態を持つ︵分別が︶働きかける g︒   前半の﹁事物に依存して︑名前︑名称︑言語表現に包摂されており︑名前︑名称︑言語表現に含まれているその

分別﹂に対する解釈として︑例えば︑﹁私﹂という事物をよりどころにして﹁私﹂という名称がほどこされ︑その

﹁私﹂という言語表現に︑﹁私﹂という固有の存在という概念がすでに確立されているのである︒

  続く︑﹁その分別が展開している場合︑まさにその事物に対して多種の︑多様な様態を持つ︵分別が︶働きかけ

る﹂の論述の内容は︑﹁私﹂と言う存在を私が認識する時︑﹁私﹂にまつわる多種の認識︑つまり︑ある時は﹁やせ

た﹂︑またある時は﹁太った﹂︑ある時は﹁きれい﹂︑ある時は﹁きれいでない﹂︑ある時は﹁調子がいい﹂︑ある時は﹁調子がよくない﹂等々の多種の認識が生起する可能性を指していると考えられる︒さらに︑﹁私﹂は調子がよ

くないという認識の生起に伴って︑この状態は﹁好ましくない﹂ことが意識され︑調子のよい状態が﹁好ましい﹂

(11)

ものとされ︑﹁好ましい﹂状態への渇望が生起する︒この好悪︑あるいは無関心などの認識のはたらきにともなってさらに︑様々なものへの執着が生じ︑得られないことによって﹁貪・瞋・癡﹂等の業が生じる過程を表現してい

るものと考えられる︒以上︑認識するものと認識される対象としてのヴァスツの一連の過程によって︑﹁すべての

世間の生起の側面﹂が生起すると述べられる h︒ 3  認識するものと認識されるものの関係   この認識するものである﹁私﹂と認識される対象であるヴァスツ︵私︶の関係について龍樹は﹃ヴァイダルヤ

論﹄において以下のように語っている︒

認識方法と認識対象との二つは混じり合っていて︵区別できない︶︒ここで︑認識方法とその対象との二つは混淆していることが認められる︒というのは︑対象があるときにはじめて認識方法は認識方法となるのである

し︑逆に認識方法があってこそ認識対象は対象となるのである︒⁝しかるに︑︵相互に︶依存して存在すると

いうことは相互に成立させ合うという意味であって︑それは自立的存在ではないのである i︒   つまり︑ヴァスツとしての﹁私﹂という存在は自立的存在ではないということである︒   このヴァスツとしての﹁私﹂と認識の関係の始まりについて︑﹁真実義品﹂においては以下のように説かれてい

る︒この両者は始まりのないはるか昔からのものであり︑お互いを原因とするものと理解すべきである︒過去の分

別は分別の拠り所である現在の事物が生起するための︵原因であり︶︑さらにすでに生起した︑分別の拠り所

である現在の事物は︑それを拠り所としている現在の分別が生起するための原因である︒ここで今現在︑分別

(12)

について正しく理解していないことが未来にそれ︵分別︶の拠り所である事物が生じるための︵原因である︶︒

さらにまた︑それ︵事物︶が生じるので︑必ずそれ︵事物︶を基体とし︑それ︵事物︶に依存している分別も生じることになる j︒

  このように認識とヴァスツはお互いを原因とするものであると説かれ︑単体での始まりを確定することは出来な

い︒つまり︑プラパンチャである認識の結果として︑対象としてのヴァスツが生じ︑そのヴァスツを原因として認識が生じる︒このように︑どのヴァスツも結果であると同時に原因となり︑ここに縁起の根本原理が見出されるの

である︒つまり︑認識とヴァスツのどちらが先に始まったのかは確定できないということである︒なぜなら︑﹁始

まる﹂という思想は︑縁起においては承認されず︑始まりにおける基体を規定することは縁起の思想に背くからで

ある︒縁起の思想においては︑すべてのあり方は︑無始時来的であり︑無始とは︑実体を持たず︑空である k︑ということである︒

4  認識と﹁知﹂   この無始時来の認識の源にプラバンチャが存在するということは︑人間の思惟は︑実在とは無関係であるということである︒言葉を用いた思惟の段階においては︑我々は実在とは異なる次元に存在し︑言語表現自体が物質化を

促す力を持ち︑﹁私﹂と言う存在を創り上げると考えられる︒認識に関して︑空の思想の原典と言われる﹃八千頌

般若経﹄は以下のように説いている︒菩薩大士たちは︑無上にして完全なさとりに向かって︵多くの生きものを︶出発させ︑教示し︑⁝たとえ彼ら

がこの生を変えたとしても︑無認識と相応し︑空性と相応し︑六種の完成と相応している l︒

(13)

  ここに説かれるように︑菩薩は﹁無認識と相応し﹂ており︑認識は否定されるべきものとして説かれている︒それは︑言語表現に必然的に付随する実体視が縁起を遮蔽するからだと考えられる︒

  この観点から︑﹁言語表現しえない実在としてのヴァスツ﹂に対して言語表現を施せば︑その時点ですでに﹁言

語表現しえない実在としてのヴァスツ﹂ではなくなるので言語表現が不可能とされるのである︒この言語表現と認識は表裏の関係にあり︑言語表現しえないものは認識しえないものである︒ここに菩薩の無認識が要請されるので

ある︒

  実際︑﹁真実義品﹂において︑﹁菩薩達と諸仏世尊たちの︑法無我の悟入に入った︑極めて清浄な︑⁝無分別であ

り平等な知により︑︵理解される︶活動領域としての対象﹂が﹁最高︑無上の真如﹂であると説かれている︒このように真如は﹁無分別の知﹂︑つまり認識を離れた﹁知﹂によって理解されるのである︒一方︑﹁すべての有情・器

世間﹂に属する﹁私﹂は︑﹁分別について正しく理解していないこと﹂によって作り出されると説かれている m︒   つまり︑真如は認識を離れた﹁知﹂により知られ︑﹁私﹂は言語表現によって固有の実在として切り出されたものを認識することによって知られるのである︒この点において真理としてのヴァスツマートラは認識できないもの

であり︑﹁真実義品﹂の地平において認識というものは排斥されるべきものなのである︒

  このように﹁真実義品﹂は︑認識を明確に否定し︑空の思想の原点となる﹃八千頌般若経﹄において説かれる︑

﹁認識とは有毒なもの n﹂であることを論証したものであるとも言えよう︒

(14)

四  ヴァスツと﹁私﹂の関係   一方︑認識を離れた﹁言語表現し得ないものとして存在している﹂ヴァスツマートラの一切の言語表現とは関わ

らない領域とは如何なる在り様をさしているのであろうか︒まず︑名称はことばによって成立する︒近代言語学の

父と呼ばれるソシュールSaussure は︑ことばの本質は差異化である oと述べている︒一方︑認識も差異化によって成立する︒つまり︑差異化を施すためにそれぞれの事物︵ヴァスツ︶は︑言葉によって命名さ

れ︑またその名称を存立させる認識によって︑世界としての﹁私﹂が現れるのである︒この認識によって生み出さ

れた対象物と︑さらにそれを認識し︑それに執着することによって生み出されるこの世界は︑真如としての側面で

ある単なるヴァスツ︵ヴァスツマートラ︶とは相いれない世界なのである︒

  しかし︑この世界は︑一方においてヴァスツマートラそのものとも言えるのである︒この在り様を無著は﹁真実

義品﹂において以下のように論述する︒

﹁色﹂などの名称を持つ事物は︑すべての言語表現を離れた︑言語表現し得ないものであると見る︒これが事物の考察に基づく︑第二のありのままの理解である p︒

  この﹁﹁色﹂などの名称を持つ事物﹂とは︑﹁私﹂などと名付けられる言語表現の基体となっているヴァスツのこ

とである︒しかし︑﹁私﹂などと名付けられるヴァスツは︑真実には言語表現され得ない本質をもつものとして存在していると説かれているのである︒この言語表現の基体となったヴァスツに︑名称で指示される通りの自性は存

在しない︒

(15)

  つまり︑﹁私﹂などの名称をもつヴァスツは︑本来一切の言語表現から離れているのであって︑ヴァスツマートラのマートラmātraは︑一切の言語表現の排斥を要請していることを示唆する用語であると考えられる︒

  この一切何もなくヴァスツのみ︵ヴァスツマートラ︶であったものが︑認識を通して言語表現された﹁私﹂に転

成し︑意識は現象としての﹁私﹂を捉えるのみであっても︑﹁私﹂は︑本来﹁言語表現し得ない本質﹂としての

﹁真如﹂ということである︒これは︑﹁如来が或る自性である︑その自性がこの世間である q﹂と説く﹃中論﹄二二章

十六偈前半の内容と一致する︒つまり︑如来の自性は︑﹁私﹂の自性に他ならないのである︒

  また﹁縁起をみること﹂は﹁法をみること﹂であり︑この﹁法﹂は後世もの︵ヴァスツ︶と呼ばれるような性質 をもつ概念とみてもよいことが中村によって指摘されている r︒ここからヴァスツとは縁起としても考えられる︒そ して︑縁起の如実相が真如であることが宇井によって指摘されている s︒また︑﹁真実義品﹂においてヴァスツが真

如とも言い換えられていることから︑真如であるヴァスツは縁起の如実相ということに帰着する︒

  以上の観点から︑﹁真実義品﹂におけるヴァスツは︑縁起を体現する事象・事態と同時に法を体現する事物という側面もあると考えられる︒この縁起と法は通底するものであり︑この縁起と法の関係をヴァスツと言語表現の関

係において説き表そうとしたものが﹁真実義品﹂の主題と考えられる︒つまり︑縁起を体現している事物である法

としての﹁私﹂は︑縁起としての真如の流れの中に存在しているということである︒この真如と﹁私﹂に断絶はないという解釈は︑﹁真実義品﹂において﹁最高︑無上の真如﹂が認識された対象︵﹁私﹂︶の究極に位置する tと説か

れていることからも支持される︒

  そして︑このヴァスツに集約された在り様が一如という語に通底すると思われる︒この一如は真如でもあり︑真

(16)

如は縁起であることから︑究極的にはヴァスツは縁起そのものと言える︒   つまり︑﹁私﹂としての現れは︑縁起︵ヴァスツマートラ︶において現象した因としてのヴァスツ︵真如︶の側面と︑その真如であるヴァスツを名称によって差異化した果としてのヴァスツ︵事物として顕現した真如︶である

﹁私﹂の側面をもつ︒

  そして︑このヴァスツは無始以来のもので︑本来﹁すべての法は言語表現し得ない自性を持っている﹂ものであり︑完全な無ではないということが無著の空性理解なのである︒この﹁言語表現され得ない自性﹂とは︑﹁仮説の

基体である単なる事物︵バスツマートラ︶﹂なのである︒﹁仮説﹂とは︑本来言語表現不可能なものを我々の了解範

囲内に引きいれるために仮の名をつけて言語化することである︒

  このように︑ヴァスツマートラとは︑縁起そのものと考えられ︑その縁起そのものを無始時来の過去のプラパンチャの影響に染められた三つの認識において捉えることを通して言語表現し得るヴァスツが生起して︑一時的に現

象し︑事物として顕現した真如としての﹁私﹂が現れ出ていると考えられる︒このように︑ヴァスツマートラと

﹁私﹂は非一非異の関係にあると言える︒

結論

  本稿は︑空の思想を確立した龍樹が︑本質essentiaは否定したが︑実存existentiaについては明確に説明していないという指摘を受けて︑空としての﹁私﹂の存在がなぜ現実に現れているのかを検討した︒その際︑正しい

空性理解を提示する意図のもとに無著が著した﹃菩薩地﹄﹁真実義品﹂に説かれる︑真実の存在としての真如の側

(17)

面と︑﹁私﹂を現出させる言語表現の基体としての側面の二つの側面をもつヴァスツという術語に焦点を当て︑ヴァスツと認識の関係を検討し︑現実に立ち現れてくる﹁私﹂の根拠を考察した︒

  このヴァスツという術語は︑仏の領域においては究極の真実としての真如であるが︑ヴァスツが認識によって捉

えられた時︑世界原因としての﹁私﹂が現れるのである︒さらにヴァスツから世界を集起させる﹁私﹂が現成する過程には︑言語活動全般と指摘されるプラパンチャのはたらきが密接に関わっていることが見出された︒つまり︑

本来言語表現されえない空性である﹁言語表現され得ない自性﹂が︑我々の世界において認識可能なものとなるた

めに︑仮の名をつけて言語化され︑その結果﹁仮説された自性﹂となり︑世界としての﹁私﹂が現れるという構造

であると考えられる︒

  また︑認識は言語により成立しており︑言語は実体視を措定することから︑認識というものが縁起を遮蔽するこ

とが理解できる︒この縁起を遮蔽する点において︑認識では真実のすがたを捉えられないというのが空の思想の主

張である︒この観点から︑龍樹が﹃中論﹄において執拗にことばを否定した経緯が理解できるのである︒

  つまり︑恒常不変なる﹁私﹂は存在し得ないが︑縁起によって絶えず変化し続ける﹁私﹂は真如そのものであ

る︒この真如は一方︑言葉による法の分節化によって過去・現在・未来のすべての時空において縁起のゆえに刻々

と変化しながら存在するこの世界としての﹁私﹂なのである︒その意味において︑我々にとって真実というものは︑現時点のこの﹁私﹂において現れているものの外はないのである︒

  この﹁私﹂が真如であるという存在の真実は︑空の思想の原典と言われる﹃八千頌般若経﹄に﹁心の本性は清く 輝い︵てすべての汚れを離れ︶ているのです u﹂との文言によって支持される︒その本来言語表現され得ない清く輝

(18)

く﹁聖なるもの﹂としての真如と﹁私﹂はどちらも空性なのである︒そしてこの空性とは︑存在するすべてのも

のを成り立たせている縁起であり︑﹁私﹂と仏は︑同じ縁起により現成しているのである︒つまり︑現成している

﹁私﹂は︑縁起の如実相である真如であり︑それゆえ空性そのものなのである︒ここに︑空の思想の中心思想であ

る二諦無差別の境地が現れてくるのである︒

  結論として︑﹃菩薩地﹄﹁真実義品﹂の地平においてこの﹁私﹂は︑存在するすべてのものを成り立たせている究極の真実である真如としての空性に他ならず︑この空性は縁起そのものであり︑また縁起は後世ヴァスツとも呼ば

れたことから︑﹁私﹂はヴァスツマートラといえる︒つまり︑﹁私﹂とヴァスツマートラは不即不離の関係にあると

考えられる︒この観点から︑本来一如としてすべてのものとつながっていた﹁私﹂は︑真如から名称によって呼び

出され︑他から切り離されて固有に存在すると実体視され認識された一時的に現象している存在に他ならないのである︒

  このように︑仏教の根本的教説である縁起を空性という言葉で説きなおした空の思想は﹁私﹂の源に︑有として

の決定的な存在である神や無としての偶然性ではなく︑中道としての縁起を見いだすのである︒そして﹁真実義品﹂の地平においては︑現象としての﹁私﹂に永遠不滅のヴァスツマートラが息づいているのである︒

︶︒ GnostiquesGnosis prajñā1

(19)

Mādhyamika2

︒﹃ 3

4

5 6

3

7

8﹁﹃﹂︵︶︑

︶︒ p. 239vastu Scholars on India, ed. by the Cultural Department, Embassy of the Federal Republic of Germany, Vol. 2, Bombay, 1976, Schmithausen, On the Problem of the Relation of Spiritual Practice and Philosophical Theory in Buddhism, in German Lambert ︶︒ .Yogācārāh﹂﹃ 9︑﹃

稿︑﹁使 ﹂﹃︶︑ prapañca﹄﹃ prapañca ﹂﹃︶︒ 10 ︑﹁ 11 Lambert Schmithausen, Ālayavijñāna: On the Origin and the Early Development of a Central Concept of Yogācāra

参照

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