『唯識二十論』における他心智の研究
那 須 円 照
1.序
本論攷では,世親(Vasubandhu)著『唯識二十論』(Viṃśatikāvṛtti以下VVと略記)の 最終部近くの,他心智に関する考察について,インド 述の諸 釈: 調伏天 (Vinītadeva)著『唯識二十論調伏天釈』(Prakaraṇaviṃśakaṭīkā以下PVT.と略記)と護法 (Dharmapāla)著『成唯識宝生論』(*Vijñaptimātratāsiddhiratnasaṃbhava以下VMSRSと略記) と現代の諸学者による翻訳・ 釈・解説研究を参考にして,世親が,他心智とは どういうものであり,仏陀の認識と仏陀以外の者の他心智を比較しながら,両者 は根本的にどのように違うと考えていたのかを明らかにしたい. 2
.世親本論のテクストと和訳の提示
VV: p. 10. ll. 19–28:「yadi vijñaptimātram evedaṃ paracittavidaḥ kiṃ paracittaṃ jānanty atha na / kiṃ cātaḥ / yadi na jānanti kathaṃ paracittavido bhavanti / atha jānanti /
paracittavidāṃ jñānam ayathārthaṃ kathaṃ yathā / svacittajñānaṃ
tad api katham ayathārthaṃ / ajñānād yathā buddhasya gocaraḥ //21//
yathā tannirabhilāpyenātmanā buddhānāṃ gocaraḥ / tathā tadajñānāt tadubhayaṃ na yathārthaṃ vitathapratibhāsatayā grāhyagrāhakavilkalpasyāprahīṇatvāt /」
「もし,これが唯識に過ぎないならば,他人の心を知る者たちは他人の心を知るのか,あ るいは他人の心を知らないのか.さて,どうなのか.この故に,もし,他人の心を知らな いのであれば,どうして,他人の心を知る者たちがあろうか.もし,他人の心を知るので あれば, 他人の心を知る者たちの知識がどうして如実でないのか.自分の心の知識が[如実でな い]ように. それ(自分の心の知識)もどうして如実でないのか. 仏陀の認識領域のような知識ではないからである.
それ(心)が不可言説なる本質として仏陀たちの認識領域であるように,そのようには それ(心)の知識はないから,その二つ(自心智と他心智)は如実ではない.虚妄なる顕 現という性質として,客観と主観の構想が,断じられていないからである」. 3
.外界実在論者による唯識学派の他心智に対する論難
外界実在論者は,VVで,一切が主観客観を離れた識のみ(心・心所)1)であると 説く唯識学派の世親に対して,唯識論者が他心智2)を主張する場合,唯識論者は 他人の心を知るのか,知らないのか,というディレンマを設定して,どちらでも 不合理であると,唯識論者に対して論難する. まず,他人の心を知らないなら,他心智というもの自体が成り立たないと論難 する. PVT. において,調伏天は,他人の心を知る作用が他心智という言葉の原因であ るとき,その作用がないとき,他心智という言葉の作用もなくなることになると 外界実在論者は言うと 釈する3).VMSRSには特に注目すべき 釈はない. 次に,他人の心を知るなら,PVT. において,調伏天によれば,客観と主観の形 相を認めるから,唯識(内識の主観のみ)という説が害されると 釈される.その 場合,この他心智は如実でない,と外界実在論者は論難する. 4.世親の反論
世親は,ここで,宇井(1953),兵藤(2006),(2010)によれば4),他心智が如実 でないからこそ,外界はないから,外界に忠実であることにならず,かえって唯 識無境であることが証明されているのだと考えていると説明される5).VMSRSで も,護法によって,同様の解釈がなされている6). 5.他心智も自心智も如実ではないという世親の主張
世親はVVにおいてさらに,自心智が如実でないように,他心智も如実でない と主張する. PVT. において,調伏天は,過去と未来の自分の心を知ることが如実でないよう に,ヨーギンたちが他人の心を知ることも客観の分を他人の心として構想して知 るからであると 釈する.これは,内識が,主観の分として自分の心を構想し, 客観の分として他人の心を構想し,主客二分の分別智が生じることが如実でない と言っているのであろう7).VMSRSにおいても,護法によって,特色ある 釈がなされている.それは以下のように解釈できる.内識が自分の心と他人の心を主 客として構想するが,自分の心と他人の心とは,心が場所の限定を持たないな ら,同一時に認識主体(自分の心)と認識対象(他人の心)の関係になり得ない. 過去・未来に他人の心があるときに,現在の自分の心の認識の対象となり得る. しかし,唯識学派も現在有体過未無体論を経量部から継承しているであろうか ら,過去・未来の心は本体がなく存在しない.よって,究極的には一つの自分の 心がその自分の心自体を自己認識することしかあり得ないのである.この場合 は,自己認識する自分の心は,構想された他人の心に相対的な自分の心ではな く,内識のみであると言えよう8). 6
.仏陀の無分別智との対比にもとづく,自心智と他心智の虚妄性の証明
PVT. において,外界実在論者が,他心智も自心智も虚妄であるなら,何を正し い基準として,それらが虚妄であると判断するのかと問うのに対して,仏陀の無 分別智が真実智であることを相対的判断基準とすることを意図していることを調 伏天は説明する. 世親によれば,仏陀の無分別智としての認識は,自分の心と他人の心を不可言 説なる本性として獲得すると説かれる.ここでいう本性とは,時間空間を超え た,法性そのものであり,普通の認識で捉えられる認識対象を超越した存在であ ろう9). それでは,それに対して,仏陀以外の者たちの認識とはどのような構造をして いるのであろうか.VVにおいて世親によれば,それは,虚妄なる顕現という性 質として10)あるものであり,調伏天の 釈によれば,客観と主観の形相を有す るから誤っているとされる11). ここで,「客観と主観の形相」という訳語に対応する,チベット語訳は,gzungba dang dzin pa i rnam paである.これは,grāhyagrāhakākāraというサンスクリッ
ト語に還元できるであろう.これは,内容的に,『中辺分別論』に出て来る grāhyagrāhakabhāva「客観と主観の本質」に対応するであろう.この-bhāvaを「関 係」と訳すのは誤訳であることは言うまでもないことであるが,遍計所執性とし て単体として捉えられるこの概念には,内容的に「客観と主観の関係」が,訳語 上は直接的には現れないが,含意されていると理解すべきであろう.ここで,客 観・主観と訳された,grāhya・grāhakaは玄奘訳では「所取・能取」と訳されてい る.このことからも分かるように,主観と客観の間には,取る取られる,厳密に
は,執する・執されるという関係があることは確実であろう.内識が,まず,認 識対象として,主観・客観を二として執し分別することがまず虚妄であり,その 構想された主観と客観の間にも,能執・所執の関係があり,重層構造になってい ると考えるべきであろう.構想された主観・客観は,勝義としては存在しない, 構想された実我・実法であるが,それらの間には関係があることは否定できない であろう.若干コンテクストは異なるが,実我・実法は古典サーンキャ学派が解 脱状態として説くような,プルシャとプラクリティのkaivalya(独存)とは異なる であろう.
結果的に,grāhyagrāhakabhāvaḥは,grāhyagrāhakabhāvena saṃbandhaḥ(客観と主
観を本質とする関係)とパラフレーズして理解するべきであろう. 遍計所執性は,覚りを開いた仏陀の無分別智の状態では,「都無」(全くの非存在) であるが,われわれ煩悩にとらわれた凡夫にとっては厳然として存在するのであ り,われわれがそのとらわれの中で苦しんでいるという事実は否定することはで きないであろう.存在界の全体を考慮すると,依他起性を媒介とする迷いの遍計 所執性と覚りの円成実性で世界全体を説明するのが妥当であろう. PVT. において,調伏天は,遍計所執性の認識を譬喩例をあげて説明している. 自己の客観の分において,自分と他人の心を構想し,知る,とは,壺の色と似 た,ある布によって,壺を覆ったとき,見て,布を見るのであるけれども,人々 は壺を見ると考えるようなものであるとされる12).VMSRSでは,この箇所につ いては特色ある 釈は見られない. 7
.補足
では,仏の大悲の流れとしての,無分別智の後に生じる後得清浄世間智とは, どのような智なのであろうか.今回扱った他心智の後の,VVの末尾の部分で, 調伏天や慈恩大師基の 釈によれば,手のひらにアーマラカの実を握るように, 仏陀は,一切の自相・共相を知ると説かれる.これは,分別智ではあるが,有為 無漏であり執着を離れた衆生救済のための一切智であり,大悲の故に有為を捨て ないという立場と理解できるであろう.これは別の言い方をすれば,絶対的包括 的唯心論と名づけることができるであろう13). 1)PVT.: P. 230. a. 4.; D. 194. a. 4参照. 2)Lévi(1932: 59. 1)によれば,他心智は世俗智であり,仏陀は見道のすべての刹那における他心を加行なしに知ると 記される. 兵藤(2006: 248. ll. 14–16)によれば,他心智は神通力の一つであり,禅定における特 別な能力と捉えられると解説される. 3)PVT.: P. 230. a. 6–7; D. 194. a. 5参照. 4)宇井(1953: 224. ll. 9–10),兵藤(2006: 249. ll. 8–12),兵藤(2010: 184. ll. 6–18)参照. 5)Yamabe(1998: 29–30)によれば,如実でない(ayathārtham)という表現が,かえって,
他心としての外界の対象(artha)の存在を前提としていると解釈される.Kellner and
Taber(2014: 746–747)もその考えに同意している.しかし,山部氏は『成唯識論』を援 用して,外界は究極的にアーラヤ識に還元されるとも述べているから,その対象は正確 には外界とは言えないであろう. 6)VMSRS:大正31. p. 96. b. ll. 1–13参照. 7)PVT.: P. 230. b. 2–7; D. 194. a. 7–b. 3参照. 8)VMSRS: 大正31. p. 96. b. 13–17参照. 9)PVT.: P. 230. b. 7–8; D. 194. b. 3–4参照. 10)山部氏は,『中辺分別論』にパラレルな表現があることを指摘している.Yamabe (1998: 29. 29)参照. 11)PVT.: P. 231. a. 5–6; D: 194. b. 7–195. a. 1参照. 12)兵藤氏は,この喩えを,『成唯識論』的に,「親所縁」は認識できるが,「疎所縁」は認 識できないという喩えと見るが,私は,内識の構想は認識できるが,時間空間を超えた 仏陀の認識対象としての離言の法性は認識できないと言うことであると理解したい.兵 藤(2006: 252–253.〈補足〉),兵藤(2010: 200–201. (37))参照. 13)詳しくは,那須(2011),Nasu(2013)参照. Anacker(1984: 179. 25)によれば,覚った者たちの無二智と,他心における同情的洞 察は,対象をつかむ感覚における智ではなく,寧ろ,慈悲の自由な流れを顕す,と説か れている. 〈略号〉
VV: Viṃsātikāvṛtti, Ed. Sylvain Levi. Vijñaptimātratāsiddhi: deux traités de Vasubandhu: Viṃsatikā
(La vingtaine) accompagnée d'une explication en prose et Triṃsikā (La trentaine) avec le commen-taire de Sthiramati. Paris: Librairie Ancienne Honoré Champion, 1925.
PVṬ: Prakaraṇaviṃśakaṭīkā, P. No. 5566, D. No. 4065.
VMSRS: *Vijñaptimātratāsiddhiratnasaṃbhava(『成唯識宝生論』),大正31. No. 1591. 〈参考文献〉 宇井伯壽1953『四訳対照・唯識二十論研究』大乗仏教研究4,岩波書店. ―1963「成唯識宝生論研究」『大乗仏典の研究』大乗仏教研究1,岩波書店,607–811. 那須円照2011「仏陀の唯識と世親の唯識」『宗教研究』84巻4輯,315–317. 梶山雄一1978「二十詩 の唯識論(唯識二十論)」『大乗仏典』中公バックス・世界の名著 2, 中央公論社,427–445. 兵藤一夫2006『唯識ということ』春秋社. ―2010『初期唯識思想の研究―唯識無境と三性説―』文英堂. 山口益1953「唯識二十論の原典解釈」『世親唯識の原典解明』法蔵館,1–131.
Anacker, S. 1984. Seven Works of Vasubandhu: The Buddhist Psychological Doctor. Delhi: Motilal Banarsidass.
with English Translation].Bhadaini. Varanasi: Kishor Vidya Niketan.
Frauwallner, Erich. 2010. The Philosophy of Buddhism (Die Philosophie des Buddhismus). Translated
by Gelong Lodrö Sangpo with the Assistance of Jigme Sheldrön under the Supervision of Professor Ernst Steinkellner. Delhi: Motilal Banarsidass.
Kellner, Birgit and Taber, John. 2014. Studies in Yogācāra-Vijñānavāda idealism 1: The interpreta-tion of Vasubandhu's Viṃśatikā. Asiatische Studien, Études Asiatiques 68-3, Zeitschrift der Sch-weizerischen Asiengesellschaft, Revue de la Société Suisse-Asie: 709–756 .
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叢 上,15–41. Kyoto: Nagatabunshodō.
Frauwallner, Erich. 1969. Die Philosophie des Buddhismus von Erich Frauwallner 3. durchgesehene
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Lévi, Sylvain. 1932. Matériaux pour L'Étude du Système Vijñaptimātra par Sylvain Lévi. Paris: Librai-rie Ancienne Honoré Champion.
〈キーワード〉 自心智,主観,客観,世親,仏陀