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Vol.66 , No.1(2017)078佐藤 智岳「『タットヴァサングラハ・パンジカー』最終章における無余の知(asesajnana)について」

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Academic year: 2021

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全文

(1)

『タットヴァサングラハ・パンジカー』

最終章における無余の知(

aśeṣajñāna

)について

佐 藤 智 岳

1.

 問題の所在

8世紀に活躍したカマラシーラによる『タットヴァサングラハ・パンジカー』 (Tattvasaṃgrahapañjikā, TSP), そ の 最 終 章 に, 次 の よ う な プ ラ マ ー ナ ブ ー タ

(pramāṇabhūta)と全知者(sarvajña)に関する記述がある.

TSP [1061, 22–1062, 12]: その教示によって,彼(善逝)に原因とともに取捨すべき真実に 関する,堅固な無余の認識があることが論証される.「他ならぬその認識と結びつくからこ そ1),彼(善逝)が全知者であり,かつプラマーナブータである」と,彼(善逝)によって説 かれたものの到達(pratipatti)を望む人々によって論証されることは適切である.しかし虫 の数などの認識に基づいて,[彼が全知者であり,かつプラマーナブータであると論証され ることは適切]ではない.しかしながら虫の数などに関しても,彼(善逝)に認識があり得 ることが論証される.一方で,真実・堅固・無余の認識は,直接的に[論証される]2) すなわち,正しい認識手段と合致する無我の教示によって,真実の認識が,ある者に証明さ れる.彼だけに,無我に関する[善逝のお言葉における]前後矛盾のない教示によって,堅 固な認識がある[ことが証明される].なぜなら,教示者のお言葉である3),九部教において も,三乗を扱う4)教示においても,苦などを特徴とする諦の教示は,一貫しているから5) また様々な手段によって,四諦を明示するから,彼(善逝)の無余の認識が推論される. [なぜなら彼は]残り(śeṣa)である,全ての形象の認識と[それらを]説明する能力がな いことを特徴とするものを断じるから.なぜなら,全ての形象の美質と過失を理解してい ない者であり,またそれ(四諦)を説明することが巧みでない者は,そのようには説明し ないから. 当該箇所では,善逝(sugata)に,原因とともに取捨すべき真実(tattva)に関す

る,堅固(sthira)な無余(aśeṣa)の認識(jñāna)があると述べられている.また, それらの特徴を備える認識と結びつくことで,善逝はプラマーナブータであり, かつ全知者でもあるとされる.さらに全知者であり,かつプラマーナブータであ るのは,虫の数などを知っているからではないとされつつも,善逝に虫の数など

(2)

の認識があり得ると述べられている.

当該箇所は,ダルマキールティのPramāṇavārttika第2章(PVII)31–33偈,141

偈,280偈6)を意識したものであることが予想される.

本稿はaśeṣajñānaという語に注目する.まずデーヴェーンドラブッディ著

Pra-māṇa vārttikapañjikā(PVP)・ジネーンドラブッディ著Pramāṇasamuccayaṭīkā(PSṬ)

の真実(tattva)・堅固(sthira)・無余(aśeṣa)に対する理解を押さえる.さらに,

PVP・PSṬ に見られるようなaśeṣa理解が,TSPの全知者理解と関係しているこ

とを示す.

以上の作業を通じて,ダルマキールティおよび彼の後継者達の全知者理解を考

察する際,aśeṣajñānaに関する理解が一つの となり得ることを提起する.

2.

PVP

PS

における

tattva, sthira, aśeṣa

PVII280偈に対する注釈中,PVPには以下のような記述がある. PVP [D120a3–120b1; P139b1–8]: 真実の認識とは,正しい認識手段と合致するものである. また堅固な7)認識とは,道の確定,あるいは前後の言明に破綻の無いものであり,[正し い認識手段による]否定がないことで不動なもの,[つまり]堅固なもの8)に基づいて推 論される.なぜなら,教示者の教えである,九部教と三乗を扱う教えは,苦などを特徴と する教えに関しても,一貫しているから9) 無余の認識,その(aśeṣajñānaという語)のうち,残り(śeṣa)とは,四諦理解の知であっ ても,如実に教示する手段に関して巧みでないことである.世尊は,それ(残り)を持た ない.なぜなら[世尊は]様々な手段で四諦をご教示なされたから.聖者達には, かば かりの巧みさがあり,それ(聖者達の巧みさ)も,彼(世尊)に従って学んだものである (*tadanuśikṣaṇa). [以上のような,]真実と堅固10)と無余という特別な(viśeṣa)認識ゆえに,[世尊は]外道 や有学・無学より[優れた者である].世尊は,正しい認識手段によって知覚する対象の 理解が特別であるから,外道の離欲者達より優れた者である.同様に彼ら(外道の離欲者 達)は正しい認識手段と合致する取捨[すべき真実]などの対象を知ることがない.堅固 な知の特別性11)によって,有学より[世尊は]優れた者である.なぜなら[有学は]倶生 するものである有身見を断じていないから.無学である,阿羅漢や独覚達より[世尊が] 優れた者であるというのは,無余という特別な認識によってである. PSṬ でも,同様の理解がなされているのが確認できる12).ここで,無余aśeṣa に対する理解に焦点を絞り,これまでに確認したPVP・PSṬ の記述を整理すると 次のようになる.

(3)

●無余(aśeṣa):「残り(śeṣa)」とは,四諦を理解しても,それを説明するのが巧みでないこ と.世尊には「残り」がないので,四諦を様々な手段で説明できる.世尊に学んだ声聞達に は, かばかりの巧みさがある.「残り」がない世尊は,四諦を様々な手段で巧みに説明で きるので,阿羅漢(無学)・独覚よりも優れている(PSṬ は,無学(阿羅漢)のみに言及13)). 以上のように,PVP・PSṬ は,四諦を理解していても,説明するのが巧みでな いことが「残り」であると説明する.また,「残り」の有無によって,説法の巧 みさ,および世尊と阿羅漢・独覚との違いを示そうとしていることが分かる.つ まり世尊は,単なる四諦知者・四諦教示者ではなく,阿羅漢・独覚と異なり, 様々な手段を用いて,巧みに四諦を教示できる者であるといえる.

3.

 その他の

śeṣa

理解

また,śeṣaに関する言及があるPVII141b–d句に対する注釈中,PVPでは次の ように述べられている. PVP [D59a3–4; P67b1–2]: なぜなら,長い時間,多種多様に,道[諦]の修習をしていな いので,その道[諦]とそれ(道諦)に敵対するもの(*tadvipakṣa)に関する,美質と過 失を特別に認識することがないから,[残りがある].あるいは理解した通りの道[諦]も, 分析して,解説することに関して,明瞭ではないことが,残りである. ここでは,〈道諦〉と〈道諦に敵対するもの〉に関する美質と過失の非認識に よる,道諦を分析して解説することに関しての不明瞭さが「残り」であるとされ ている.類似する記述は,PSṬ にも確認できる14)

4.

PVP

PS

aśeṣa/śeṣa

理解と

TSP

の全知者理解

本稿「問題の所在」で紹介したTSPでは,無余の認識に基づき,様々な手段 による四諦教示が行われる,とされていた.この点は,PVP・PSṬ の理解と一致 する. 一方でPVP・PSṬ は,残り(śeṣa)に関して,〈道諦〉と〈道諦に敵対するもの〉 に関するものとし,「全ての形象の美質と過失に関する理解」とするTSPとの間 に差異が見られる. さて既に指摘されているように,TSPは,残り(śeṣa)を所知障(jñeyāvaraṇa)と して理解する15) 大乗仏教では,声聞・独覚の二乗は煩悩障のみの除去を目的とし,菩 乗(大

(4)

乗)は煩悩障と所知障との二障の除去を目的としているとされ16),また二障のう ちの所知障の除去と全知が関係付けられた用例も既に指摘されている17) TSPでも,所知障除去と全知者とが関係付けられている.TSPは,煩悩障と所 知障を除去することで全知者になると述べる18).また一方で,声聞・独覚は, 所知障を除去しないので,全知者ではないとも述べている19) 所知障,つまり残り(śeṣa)を除去するか否かによって,声聞・独覚との差異 化を図るTSPの姿勢は,前に確認したPVP・PSṬ が,「残り」の有無によって, 世尊と阿羅漢・独覚との違いを示そうとしたことに沿うものである.

5.

 おわりに

今回,TSP最終章におけるaśeṣajñānaという語に注目し,その語と全知者との 関係を,関連するPVIIやPVP・PSṬ の記述を踏まえて考察した.その結果,以 下のことが明らかになった. 1) PVP・PSṬ に見られるようなśeṣa/aśeṣa理解をTSPも行っている.一方でśeṣa 理解に関して,PVP・PSṬ とTSPとの間に語句レヴェルでの若干の相違も確 認できる. 2) PVP・PSṬ・TSPでは,無余(aśeṣa)であることで,様々な手段で巧みに四諦 を教示することが可能になると考えられている.さらに無余の認識を備えて いるか否かによって,世尊と声聞・独覚との違いが示されている. 3) PVP・PSṬ・TSPでは,ブッダが単なる四諦知者・四諦教示者だと考えられて いない. 4) TSPは,śeṣa=所知障とし,それを断じなければ全知者になれないとする.つ まりśeṣaを除去した無余(aśeṣa)を全知と関係づける. 今回確認した記述に基づけば,ダルマキールティ以降の全知者観・ブッダ観を 検討する上で,aśeṣajñānaに関する理解は無視できないといえる.

1) tajjñānayogād em. Cf. ye shes de dang ldan pa i phyir TSPT[D301a6–7; P367b1].

2) Cf. TSP [1044, 15–17].

3) śāstuḥ pravacane em. 写本に基づいて訂正.

4) triyānaviṣayāyām em. Cf. Moriyama 2004: 191, n. 26.

5) 下線部は,PVP [D120a4–5; P139b3]とパラレルである.PVP当該箇所は,本稿注3, 4

で示した訂正を支持する.

6) Cf. Moriyama 2004: 190. 7) brtan pa P (brten pa D).

(5)

8)  brtan pa P (brten ba D).

9) こ の 箇 所 は, 次 のaśeṣaに 関 す る 理 由 とし て 読 め る.た だ し,PVṬ[D150b2–3; P186a2–3], PSṬ[18, 1–3], TSP [1062, 6–9]を基に,sthiraに関する理由と判断した.

10)  brtan pa D (bstan pa P).

11)  brtan pa shes pa i khyad par nyid D (brtan pa dang ma lus pa i khyad par nyid P). PSṬ[18, 9–10] の支持があるDの読みを採用した. 12)  Cf. PSṬ[17, 15–18, 11]. 13) もちろん,世尊が独覚よりも優れていることを示す記述もある.Cf. PSṬ[12, 7–11]. 14)  Cf. PSṬ[13, 12–14]. 15)  Cf. TSP [1052, 22–24].; Moriyama 2004: 191–192. 16)  Cf. 小川1988: 33. 17)  Cf. 川崎1992: 151. 18)  Cf. TSP [1052, 21–22]. 19)  Cf. TSP [1060, 20–22]. 〈略号〉

TSP: Tattvasaṃgrahapañjikā. Tattvasaṅgraha of Ācārya Shāntarakṣita with the Commentary `Pañjikā of Shrī Kamalashīla. Ed. Swami Dwarikadas Shastri. 2 vols. Buddha Bharati Series 1, 2. Varanasi: Bauddha Bharati, 1968.   TSPT: Tattvasaṃgrahapañjikā. Tibetan trans. D no. 4267, P no. 5765.   

PVII: Pramāṇavārttika, Chapter II. See Vetter 1984.   PVṬ: Pramāṇavārttikaṭīkā. D no. 4220, P no. 5718.   PVP: Pramāṇavārttikapañjikā. D no. 4217, P no. 5717.   PSṬ: Pramāṇ asamuc-caya ṭīkā. Jinendrabuddhi s Viśālāmalavatī Pramāṇasamuccayaṭīkā, Chapter 1. Ed. Ernst Steinkellner, Helmut Krasser, and Horst Lasic. Beijing: China Tibetology Publishing House; Vienna: Austrian Academy of Sciences Press, 2005.

〈参考文献〉

川崎信定 1992 『一切智思想の研究』春秋社. 小川一乗 1988 『空性思想の研究II』文栄堂書店.

Moriyama, Shinya. 2004. Is the Proof of the Omniscient Buddha Possible? Hōrin 11: 183–197. Vetter, Tilmann. 1984. Der Buddha und seine Lehre in Dharmakīrtis Pramāṇavārttika. Wiener Studien

zur Tibetologie und Buddhismuskunde 12. Vienna: Arbeitskreis für Tibetologie und Buddhistische Studien Universität, Wien.

(本研究はJSPS科研費16J06691の助成を受けたものである.) 〈キーワード〉 sarvajña,Tattvasaṃgrahapañjikā,所知障

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