25日(毎月1固25日発行)ISSN伺19-4制3 こべる刊行会
NO. 10
『特殊部落一千年史』の改題をめぐって⑦⑧ 「桶を桶といふ」こと 一高橋貞樹著 f特殊部落一千年史jの改題について一室
伏修司
それもそれ、これもこれ 梅沢利彦 マルク・シャガールと祖父 中島久恵 ひろば⑨ 人間性について 恩 智 理 第七回 『こペる』合評会から﹁ 特 殊 部 落 一 千 年 史 ﹂ の 改 題 を め ぐ っ て ⑦ 室伏修司︵親和女子大学附属図書館︶
﹁
桶
を
桶
と
い
ふ
﹂
| 上 回 同 橋 貞 樹 著 ﹃ 特 殊 部 落 一 千 年 史 ﹄ の 改 題 に つ い て | | 中野重治の著作を読み、感動した人がいて、その人が 中野の全集︵二十八巻︶を通し、著者との出会いの文章 を書いている。山本英子の﹁ささやかなくちなし思﹂ ︵百三十枚︶である。私の知り合いの高村三郎個人雑誌 ﹃ 境 涯 ﹂ 二 十 二 号 ︵ 一 九 九 三 年 七 月 ︶ に 掲 載 さ れ た 。 中野重治にほれこんだ、素直な中野論で、全体を十四 の章だてにして著者が中野から吸収したことを書いてい る 。 そ の う ち の 四 番 目 に 、 ﹁ 桶 は 桶 と い う ﹂ の 章 が あ る 。 これは中野の﹁ねちねちした進み方の必要﹂︵筑摩書房 の 新 版 全 集 第 十 一 巻 ︶ の な か に あ る 、 ﹁すべて文学は、文学者自身の言葉によって正確に研 い 年 か も の 究せられねばならぬ。研究者は、﹁私は田舎者であり、 桶 を 桶 と い ふ 。 ﹂ と い う 気 組 み を 持 ち 保 た ね ば な ら ぬ 。 ﹂こ
と
か ら 出 て い る 。 山 本 英 子 は 、 そ の 章 で 中 野 の ﹁ 梨 の 花 ﹄ ︵ 全 集 第 六 巻 ︶ 、 ﹁ 文 学 作 品 に 出 て く る 歴 史 的 呼 び 名 に つ い て ﹂ ︵ 第 十 巻 ︶ 、 ﹁ 北 朝 鮮 と 西 ド イ ツ ﹂ ︵ 第 二 十 四 巻 ︶ を な い ま ぜ に し て 、 中野重治の精神の健康さこそ中野の資質の最良のものと 日 っ て い る 。 ﹁裏日本が表日本と等価値であるように、田舎者が桶 を桶と呼ぶように、機多と呼ばれていた歴史的実在とし て呼ぶときは職多と呼ぶ。これが中野の健康な精神であ る 一般に蔑称とされるものを、中野重治は蔑称として 用 い な い 。 ﹂ ﹁いかなる人間も人間としての尊厳に満ちている主考 こベる える精神は、近頃流行の、目の不自由な人、耳の不自由 1な人、部落の人、朝鮮の人などと言い変える必要を認め ない、桶が桶であるように、かつて械多と呼ばれていた 実在を、歴史的実在としてそれを呼ぶときは械多と呼ぶ べ き だ と 中 野 重 治 は 考 え る 。 ﹂ ︵ 傍 点 、 山 本 ︶ 私は右の、これが中野の健康な精神であるの所で、思 わず微笑もし、﹁近頃流行﹂とは考えはしないが、山本 の 理 解 に は 納 得 で き た 。 前出、中野重治文章のうち、とりわけ﹁文学作品に出 てくる歴史的呼び名について﹂は、岩波書店が高橋貞樹 著﹃特殊部落一千年史﹄を校注者沖浦和光とともに﹃被 差別部落一千年史﹂と改題して出版したことを考える上 で大切である。︵山本英子が参考に用いたほかに﹁朝鮮 問 題 雑 感 ﹂ ﹁ 在 日 朝 鮮 人 と 全 国 水 平 社 の 人 び と ﹂ ︵ 第 十 五 巻 ︶ 、 ﹁ め く ら の 垣 の ぞ き ﹂ ︵ 第 十 三 巻 ︶ を 加 え て も よ い ︶ 中野重治は、島崎藤村作﹃破戒﹄で、藤村がのちに綴 多を部落民にしたことで、本庄栄治郎著﹃日本社会経済 史 ﹂ に 言 及 し な が ら 書 い た 。 ﹁明治維新は多くの改革の中で械多非人︹*印、中 野 ︺ を も 解 放 し て ︵ と い わ れ て い る 。 ︶ ﹁ 百 姓 町 人 と 均 し く平民の籍に編入﹂した。そして新時代が展開された。 しかし歴史本の﹁新時代の展開﹂という章のなかで、人 聞の一群を畜生あつかいするために数百年間最も感覚的 に生きてきた言葉が、改めて伏字されることでいっそう 感 覚 的 に 生 き て い る の で あ る 。 ﹂ ﹁伏字をしたのが著者その人か、出版屋か、国家の役 人かは私は知らないし知る必要もない。しかし||おま や や + φ ψ 命 中 申 也 市 γψmT えは穣多ではない。しかし械多である。しかし穣多は伏 * * * * 字にじた。おまえは械多だから。しかしおまえは械多呼 ばわりされたと考えることは許されない。伏字にしたの だから。ーーという悪質な偽善と挑発とが学問的著述の な か に 掲 げ ら れ て い る の で あ る 。 ﹂ ﹁社会的歴史的事実は、そのものとして抹殺されるこ とはできない。女郎屋、監獄署、不添役人、二等卒、帝 国主義を、貸座敷業、刑務所、刑務官吏、二等兵、王道 と呼びかえることで事柄自身少しでも変えるものではな 喝 町 、 φ 巾 ψ A T 也 A T ぃ。械多はどこまでも、しかし過去のものとして械多な の で あ る 。 ﹂ 中野重治は、﹃破戒﹄が日本文学史に長く残ると言い
つつ、横多を部落民に変えなければならなかった点で藤
f
f
、
・ 帯 、 ヵ ﹁個人的には全く征服されていたあの賎視観念に、そ の変り種としての﹁融和主義的精神﹂をとおして作者が か ら いつか絡みつかれていたことも見すごすことはできな と 書 い た 。 岩波書店と校注者沖浦和光が原題の特殊部落を被差別 部落に変えた理由は 1 1 前者が差別語で後者はそうでな ぃ。宣伝ないし書店に前者で出ると差別を再生産するが 後者はそうでない。ーーである。子どもだましの手が通 用するものと思っている。低級の滑稽レトリックの見本 で あ る 。 私は前に、岩波書店が各種出版予告で何の断りもなく 高橋貞樹著﹃被差別部落一千年史﹄と宣伝し出版したこ とを、﹁本の再刊について﹂文中で批判した。︵親和女子 大 学 附 属 図 書 館 報 ﹃ 一 ッ 鍬 山 ﹂ 十 六 号 、 一 九 九 三 年 三 月 ︶ そこではいろいろと書いたが、要は、高橋貞樹は、﹁全 固に散在する吾が特殊部落民よ園結せよ﹂にはじまる 賎 称 吉五 で は な く 石 波 書 店 と 沖 浦 和 光ょ
の る 一 改 点 題 で は の水平社宣言を根本に置い て﹃特殊部落一千年史﹄を書きあげているのであって、 当時においても、今日でも﹁特殊部落一千年史﹂の語は ﹁ 大 正 十 一 年 ﹂ ︵ 一 九 二 二 年 ︶ 水平社宣言を見えないように覆うことである、 あ る 。 宣 言 の な か の 、 ぎ せ い し や ら く い ん な か へ と さ き ﹁犠牲者がその熔印を投け返す時が来 たのだ。﹂の精神は、たとえば次のように継続されてい る 。 ﹁エイズの赤瀬です﹂と、生前、赤瀬文男さんはHI
V
感染を明らかにしてエイズそのものからの解放を語り 続けた。伊奈教勝さんは、﹁らい園﹂に強制隔離されて から四十年後に本名を名乗り、あえてハンセン病をライ ︵癒︶と言い、ライへの間違いを語り、患者撲滅の﹁ら い予防法﹂の廃止を訴えている。 師岡佑行の﹃こぺる﹄誌上での詳細な論に立った原題 復帰と、校注者によるきわめて不十分な﹁解説﹂の書き こぺる 直しの正当な要求に付け加えることはない。しかしテキ ストクリティl
ク ︵ 本 文 批 評 ︶ のことでは私なりに述べ 3て お き た い 。 ﹃ 特 殊 部 落 一 千 年 史 ﹂ 第 一 一 編 に お け る 部 落 の 歴 史 の 記 述で、喜田貞吉の論文からの﹁引き写し﹂が多く、それ が﹁地﹂の文章にも及んでいること。師岡佑行が、この 点を校注者沖浦に﹁解説﹂で明記することを求めている の は 、 き わ め て だ い じ な こ と と 思 っ た 。 渡 辺 俊 雄 は ﹃ 解 放 新 聞 ﹄ の ﹁ 中 央 版 ﹂ ︵ 第 二 ハ 一
O
号 、 一 九 九 三 年 三 月 一 日 ︶ で、﹁被差別部落一千年史﹄を改 題している問題には触れないまま紹介している。渡辺は 部 落 の 歴 史 で あ る ﹁ 第 一 編 ﹂ に つ い て は 、 ﹁そうした﹁特殊部落﹂の中心であるえたも長い前史 を持ち、しかも﹁大多数の起源は、遠く古代日本の奴隷 群にまで遡り得る﹂と高橋は考えていたから、﹁一千年 史 ﹂ と い う 題 に な る 。 ﹂ と書いて説明している。そうであるかなと思う。しかし 渡 辺 俊 雄 は 続 け て 、 ﹁江戸時代にえた身分とされた多くの人びとや村むら が、人口の入れ替わりもなしに中世や古代から、それこ そ万世一系のごとく連綿とつづいているとは考えられな と言う。これは原文と原著者の意図から離れていて、と て も ﹃ 特 殊 部 落 一 千 年 史 ﹄ の読みとは思えない。沖浦も 簡単に﹁特殊部落一千年史﹂とはいえ今日の部落が一千 年の歴史を有するものではないと言って解説している。 なぜこのように書くのかわからない。高橋貞樹をそっ ちのけに自分の利益のためにする弁解のようであって批 評 、 ﹁ 解 説 ﹂ と 言 う こ と は で き な い 。 ﹃ 特 殊 部 落 一 千 年 史 ﹄ 第 二 編 が 、 沖 浦 の 言 、 っ と お り に 、 水平運動の必然を説き、すごい迫力があり、読みごたえ のある﹁古典﹂にふさわしいのであれば、﹁第一編﹂も ︵十分な解説とともに読むことで︶なかなかに﹁古典﹂ で あ る 。 第 一 一 縮 、 第 二 編 を 通 し て 、 野 間 宏 が 言 う よ う に 、 部 落 き よ − つ U ん 史の開拓者労作であって、﹁論理構成力は強靭﹂だが、 文章も﹁イメージ喚起力というか、人間の自由を願う彼 の 熱 情 が そ の ま ま 文 章 に 乗 り 移 っ て ﹂ い る 。 ︵ ﹃ 日 本 の 聖 と 賎 H 近 代 篇 ﹄ 人 文 書 院 、 岩波書店と沖浦和光は、学術研究上で必要と認めたも 一 九 九 二 ︸のについては差別語も用いるが、岩波文庫のように広く 流布される場合は別であるといった素人、読者をばかに することはやめ、原題にもどすこと。そして、ありのま まの﹃特殊部落一千年史﹄を読めるように、現在の研究 ﹃ 特 殊 部 落 一 千 年 史 ﹄ の 改 題 を め ぐ っ て ③ 梅沢利彦︵日本工業大学︶
そ
れ
も
そ
れ
、
これもこれ
ぼくは沖浦さんへの年賀状に﹁﹃特殊部落一千年史﹄ の刊行期待しています﹂という意味のことを書きつけた 記憶がある。だから文庫本は原題で刊行されると思い込 んでいたわけだ。後日、都心部の大書店で実物を見つけ、 解説を走り読みして、﹁ああ、原題を避けたな﹂と思つ た。そして買うつもりで手にとったのだが、そのまま書 棚に戻してしまった。昭和四十三年の復刻本︵世界文庫 近代文芸資料復刻叢書第一巻︶を持っていることもある が、インパクトを失った書名になっていたので、モニユ メントとしての魅力も感じなかったのだ。 水準を取り入れた十分な﹁解説﹂にすべきだろう。 このままでは、﹁人間解放へり情熱あふれる一冊﹂と は言い条、読者が高橋貞樹と﹃特殊部落一千年史﹂ 冊 に出会うのをさまたげるばかりである。 ところでこの文章を書くために、岩波文庫本を探した。 ぼくの住む東京都葛飾区内には、六O
くらいの書店があ り、どこでも自転車で三O
分以内で行ける。ただし岩波 文庫をおいである店は、五店くらいである。そのどこに も﹁被差別部落一千年史﹄はなかった。だから今手元に おいであるのは、公立図書館で借りてきた本だ。 つまらないことをくだくだ書いたようだが、二つの推 論を引きだすためである。ひとつは原題を避けたことを 残念だと感じた人がかなりいるだろうこと。もうひとつ は、出版流通の問題である。街の書店への配本は東販・日 こぺる 5販といった流通システムが仕切っている。売れ筋の本し か配本しない。例外的に岩波文庫をおいている書店でも、 定番的なものしかない。書き出しのところで﹁都心部の 大書店﹂と振っておいたのは、ここに話しをつなげるた めであった。欲しい本を手に入れるためには、地方なら 県庁所在地に出なければならないだろう。流通資本が出 版文化を支配している不合理に腹が立つこと再々である。 だから文庫本であっても、﹃被差別部落一千年史﹂が 広く流布するとは思われず、﹁この言葉の差別性がひと り歩きしてしまう可能性﹂は、むしろ小さいとみてよい というのがぼくの考えだ。タテマエはともかく、﹁原題 で刊行して回収・絶版といった事態になったらかなわな い﹂というのがホンネ、というのは下司の勘ぐりか。 仮にそうだとしても、ぼくは今回の出版が無意味だと は考えない。復刻本を持っていなかったら、即座に購入 して読んだだろう。また広く読まれるべき本だと考える。 原題を変更するくらいなら、出版を断念すべきだとは考 えない。かつて転向論争があったが、転向より死を選ぶ べきだという主張を感じさせる。改題を﹁文化の破壊﹂ と 断 じ て 、 ふたたび﹁幻の書﹂にするよりも、衆目に触 れさせる方が意味がある。原題が﹃特殊部落一千年史﹄ であることは、解説にははっきり書かれている。 い ず れ 原題に復すことになろうという予感もする。 解説に注文をつけるとすると、沖浦さん得意の﹁閣の 豊能史﹂が影を潜めて、﹁暗黒悲惨史﹂の再生産になっ ていることである。理論の発展に沿って原著の限界を指 摘しでも、著者への礼を失するというものではない。む しろ現代の読者︵部落問題理解︶に対する責任としては、 こ こ が 重 要 な の で は あ る ま い か 。 正直言って﹁特殊部落﹂ということばについて論じる 用意はない。師岡・沖浦両氏が打打発止と繰り出す出典 を 追 い か け る に は 、 予定の仕事を脇におかねばならない が、そのつもりもない。及び腰ながら﹁幻の書﹂が日の 目を見た。師岡さんが問題点を衝いた、ということでよ い の で は な か ろ 、 っ か 。 表面的な印象批評で終るが、問題が逆のケ
l
ス 原 題 での刊行が問題化ーなら、腰を据えて取り組むつもりで あ る こ と を 付 記 し て お く 。マルク・シャガ
l
ルと祖父
中島久恵︵精神薄弱者更生施設勤務︶ 一 九 九O
年二月より、およそ二年にわたり刊行された ﹃週刊グレート・アーティスト分冊百科・西洋絵画の巨 では、毎週、ひとりの画家がと 匠 た ち ﹂ ︵ 同 朋 舎 出 版 ︶ りあげられた。その画家の代表的な作品を図版で紹介す る ﹁ギャラリー﹂を中心に、﹁画家の生涯﹂﹁作風と活 動﹂﹁名画の背景﹂﹁生涯のこの一年﹂と、画家の作品と 活動をさまざまな角度からとらえることのできる構成と な っ て い る 。 マ ル ク ・ シ ャ ガl
ルは、このシリーズの八 号 に 登 場 し 、 ﹁ 名 画 の 背 景 ﹂ に は 、 ﹁ コ ロ ニ ー 、 ラ ・ リ ユ シユ﹂がとりあげられた。それは次のように始まってい る 。 ︵ ﹃ 週 刊 グ レ ー ト ・ ア ー テ ィ ス ト ﹄ の 原 本 は 、 一 九 八 五 年 か ら 八 六 年 に か け て イ ギ リ ス で 出 版 さ れ た 。 ︶ 今世紀初め、パリ十五区のヴォジラl
ル 地 区 は 、 悲惨な生活条件で暮らす人々の不潔で貧しい地域で あった。近くの屠殺場から漂ってくる血の臭いがよ 陥 ど れ み争
t
J:
は
量
Z
文理
の 口声
狂 以 乱 高 騒 1'.;_J宗主
絶 夜え は
間 近 な 隣 く を続恐
い 怖 た に まるで蜜蜂の巣箱のようないくつものアトリエからな る ﹁ ラ ・ リ ュi
シユ﹂︵蜜房︶は、ヴォジラl
ル 屠 場 の すぐ傍にあって、外国からやってきた貧しい芸術家たち のたまり場となっていた。スi
チ ン 、 キ ス リ ン グ 、 モデ ィ リ アl
ニ等を輩出した、貧しいが活気に満ちたラ・リ ュl
シユの存在を、パリで最も﹁貧L
﹂く﹁悲惨な﹂ヴ ォ ジ ラl
ルを描くことによって際立たせようとしたのだ ろうか。こんな陳腐な表現で語られる当時のヴォジラ l ル地区は、どのような環境にあったのだろう。 こベる 7.
メルシユの﹃タブロl
・ ド ・ パ リ ﹄ ︵ ﹃ 十 八 世 紀 パ リ 生 活 誌 ﹂ 岩 波 文 庫 ︶ に よ る と 、 一 七 八0
年 代 の パ リ で は 、 人々は日常的な悪臭に悩まされていたらしい。﹁腐った 空 気 ﹂ の 原 因 と な る の は 、 ﹁ 畜 殺 場 ﹂ ﹁ 魚 市 場 ﹂ ﹁ 溝 ﹂ ﹁ 墓 地﹂﹁獣脂の溶解所﹂などであった。特に増加しつつあ った獣脂の搭解所は、近隣の人々を悪臭で悩ませ、火事 を引き起こすものであり、人里離れた場所に移すことが 適当であるとメルシェは考えたようだ。当時のヴォジ ラl
ル に は 酒 場 が あ っ て 、 日曜日になるとサン・マルセ ル地区の﹁もっとも貧しく、もっとも不穏で、もっとも 手に負えないパリの下層民﹂たちが大、挙してやってきた という。また﹁畜殺場︵ブl
シュリl
︶ ﹂ に つ い て も 興 味深い報告が残っている。長くなるがしばらくおつきあ 、 二 日 目 、 : 、 4 0 U F 店 し ず ’ U 畜殺場は、市外や町はずれにあるのではなく、中 心部にある。血が街路を流れ、君の足元で固まり、 君の靴は朱に染まる。通りがかりにとつぜん、憐れ みを乞うような牛の鳴き声にどきりとする。若い牡 牛がひき倒され、角で固めた頭は綱で地面に縛りつ ニ ん ぼ う けられる。重い根棒が頭を打ち砕き、大万が喉笛を 深くえぐる。血煙を立てて、生命とともに血がどっ と流れ出る。苦痛のうめき声、恐るべき痘撃に、ふ るえ、動く筋肉。もがき、胞時し、もはや避けられ ぬ死から、何とか逃がれようとして行なう最後の努 力。そうしたすべてが断末魔の苦しみ、苦痛の激し さを物語っている。むき出しになった心臓が、むご たらしくびくびく動いているのを見るがよい。目が 曇り、力を失ってゆくのを見るがよい。ああ、誰が それを凝視できようか、誰が人間のために屠られる この被造物の苦痛の吐息に耳を傾けていることがで きょうか! 血まみれの腕が、血煙の立つはらわたの中に突っ 一本のふいごが、息絶えた動物の体をふ く ら まL
、醜悪な形にする。四肢が肉切り包丁で切 り取られ、細片に分けられる。こうして動物は看板 こ ま れ る 。とも、売り物ともなる。 時に牡牛は、根棒の一撃で目をまわしながらも、 倒れずに、綱を切り、猛り狂って、死神の洞窟を脱 出する。死刑執行人の手を逃がれて、行く手に出会 うすべての人々に、まるで死神の手先か、片割れに 対するかのように、襲いかかる。牡牛は恐怖をまき 散らし、人々は、前日には従順でのろのろした足ど りで畜殺場にひかれてきた動物の前に、逃げまどう。 通りかかった女、子供は傷を負わされる。逃げ出し た犠牲者を追いかける肉屋どももまた、荒々しく駆 けつけるので、苦痛と激怒にかられる動物とおなじ く ら い 危 険 だ 。 ﹂れらの肉屋は、その顔に兇暴で残忍な刻印を帯 びており、腕をまくり、首はふくらみ、目は血走り、 足は汚れ、血だらけの前掛けをしている。ふしくれ だった、ずっしりと重い梶棒が、重量感のある、喧 嘩早くてしかも喧嘩に飢えている彼らの両手を武装 じている。人々は、粗暴な行ないを抑えるために、 他の職業にたずさわる者よりも、彼らのほうを厳し く 罰 す る 。 ヲ 匂 。 それが正しいことは、経験が証明してい ほ ふ 屠る人間よりも屠られる動物に、より感情移入したか のような過剰な表現で、屠場の日常が描かれている。 毒々しいほどの作業描写のみならず、当時屠場で働く 人々がどのような社会的位置に在ったのかがよく伝わっ て く る 。 メルシェ自身が﹁﹃私の足で﹂書いた﹂と語ってい Jる ように、彼はパリの各地域を大いなる好奇心をもって歩 いた。そして、そこに生きるあらゆる階層の男たちゃ女 たちの姿を活写した。彼は、若い外科医たちが解剖した 死体を便所の中に捨て、その﹁便所や下水溜めの悪臭の ために、汲取り人が倒れ、死ぬことがある。つまり、生 きている人間のほうが、もう死んでしまった人間よりも さらにもっと冒漬されているのである己と嘆き、 には乞食が驚くほど多く、﹁金持の圧制のために、もつ とも不幸な部分の人々はますます打ちひしがれるばかり だ。﹂と、憤る。まさに﹁この巨大な都の精神的特性を、 ノ1 1)
,
9 こぺる貧富の対比によっていっそう明らかにするため﹂に、 ﹁倣然たる富者の世界とはもっとも遠く隔たったものを もおろそかにはしなかった﹂のである。ところが肉屋は というと、このメルシェの筆にかかってさえも、兇暴で 残忍な存在としてしか描かれないのだろうか。あるいは メルシエだからこそ、肉屋もまた、ここに描写される機 会を与えられたと考丈るべきか。彼は﹁私の考察は、そ れがいかなるものであるにせよ、 やがて訪れる時代に ︵中略︶人々が行なう考察と結びつくに違いない﹂と念 じ、百年後にこの﹁タブロ
l
・ド・パリ﹂のことを人々 が思い出してくれることを信じた心 しかし、時代は隔てられシャガl
ル が ラ ・ リ ュl
シ ユ に 滞 在 し た 一 九 一0
年代においても、ヴォジラl
ル 地 区 にあった屠場の状況に大差はなかったのだろう。.
マルク・シャガl
ル は 、 一 八 八 七 年 、 ロシアのヴィテ ブスクの敬鹿なユダヤ人家庭に生まれた。ヴィテブスク の人口は、およそ六万五千人で、そのうち四万人近くが ユダヤ人であった。故郷、ヴイテブスクを限りなく愛した シ ャ ガl
ルは、十八世紀初頭、ポーランドやウクライナ のユダヤ人に広まったハシディスムの影響を受けたとい われ、幻想的な宇宙観にささえられた独特の作風をもっ て い る 。 恋人たちは手をとり合い、あるいは肩を寄せて、空中 を自由にとびまわる。誕生日に花束を持って訪れた婚約 者には、宙に浮かんだままのアクロバット級のキスもな んのその、シャガl
ルの魔術にかかれば自在に高揚の時 をつむぐ。恋人たち、故郷の村、そこで生きた人々、艦 馬、牛、羊、花束、天使、これらはシャガl
ルの作品に くりかえし登場するが、画家の詩的幻想の中でさまざま に姿を変えた。また、﹃聖書﹄の版画連作、シナゴl
グ のステンドグラスなど、聖書の主題をとりあげたものも 少なくない。シャガl
ルはユダヤの教えが示す生き方に 必ずしも忠実ではなかったが、﹁幼い頃から、私は聖書 の虜になってきた。私にはつねに聖書が古今を通じ詩想 の最大の源泉であると思われてきた。爾来、私は、人生と芸術の中にその反映を捜してきた。﹂︵国立マルク・シ ヤ ガ
l
ル聖書美術館カタログ巻頭言︶と語るように、聖 書は彼の人生と芸術活動の糧でもあった。 シ ャ ガl
ルは幼年期に特に大きな影響を与えられた母 方の祖父の姿を、﹃肉屋︵祖父︶﹄︵グアツシュ、紙、三 四×二四センチ︶という作品に残した。斧を手にし、包 丁をポケットに突っ込んで、仕事台に向かう祖父の、こ ちらに向けられた視線が印象的である。 リ到着直後に描かれたこの小さな作品は、日本で出版さ 一 九 一O
年 、 パ れているシャガl
ルの数多ある画集においては、あまり お馴染みとはいえないようだが、 一九八九年十月から翌 一 九 九O
年三月にかけて、東京・茨城・名古屋において 開催されたシャガl
ル展に出品され、同展の図録に掲載 されている。シャガ1
ルは、ヴイテブスクから数キロ離 れたリョズノで肉屋をしていた祖父の思い出を、﹃わが 回 想 ﹄ ︵ 朝 日 選 書 ︶ の中で次のように語っている。 その頃祖父は日々をユダヤ教教会とストーブの傍 で過ごしていたのだ。新年も近づく、月のある夜、 ,/ 臆罪の日のお祭りの後で、ある素晴らしい魂を持つ た 人 は 死 ん だ 。 なつかしく若々しい老人よ! あの乾いた牛の皮の匂いのするリヨズノのあなた の部屋にいたとき、どれほどあなたが好きだったこ とか。あなたの羊の皮も好きだった。着るものは何 で も 、 いつも玄関の入り口のところに掛けであって、 外套掛けの服や帽子、鞭やその他のものが灰色の壁 の地に、私がまだ充分に描いたことのない影︵シル エット︶をつくっていた。それはみんなおじいさん の だ っ た 。 祖父の牛小屋に大きなお腹の牝牛がいて、じっと 院 ん で い る 。 祖父は近づいて、牛にこんなふうに話す、﹁さあ、 いいかね、両方の足を出して。おまえを縛らにゃな らん。品物が必要なんだ。肉が欲しいのさ。わかつ た か ね ? ﹂ こぺる 牝牛は溜息をつきながら倒れる。 私は腕を伸ばして鼻面をさすりて心配しないでお 11くれ、私は肉なんか食べゃしないよ、とささやいて やる。だって、それ以上に何ができるだろう? 牝牛は、裸麦がそよそよとなびくのを聞き、垣根 の 向 こ う の 青 い 空 を 見 る 。 けれども屠殺人は、白と黒の服を着て、庖丁を手 にして、袖をまくる。お祈りが聞こえると同時に、 牝牛の頚を起こし、喉に刃物を打ちおろす。 波 う つ 血 。 そんなことは意にも介さず、まわりの犬や鶏たち は、血のしずくや、ひょっとすると地面にとんで来 る肉のかけらを待っている。 さ わ そいつらのなき声と喋ぐ音、祖父のつく溜息が血 と脂の流れの中に聞こえるばかりである。 そして、おまえ、裸で十字架に掛けられた牝牛よ、 おまえは天国でいろいろと夢を見るんだね。ぴかぴ か光る庖丁がおまえを昇天させたのだ。 静 寂 。 臓物はひっくり返され、肉の塊は切り離される。 皮 は 落 ち る 。 パラ色の肉塊が血にまみれて現われる。湯気が立 て コ
。
何という手さばきだろう! 私は肉を食べたくなった。 こ う し て 、 毎 日 、 a Z 二 一 頭 の 牝 牛 が 殺 さ れ 、 新 鮮 な肉が地主や他の住人たちに供給される。 ユダヤの人々は、聖書︵いわゆる旧約聖書︶と、その 解釈書である﹁タルムl
ド﹂が示すものに従って、日々 生活している。タルムl
ドでは人聞の行動の規範となる 公正は人類だけではなく動物にも向けられる。聖書に し ん げ ん ﹁ 正 し い 人 は そ の 家 畜 の 命 を 顧 み る ﹂ ︵ 蔵 言 十 二 章 十 節 ︶ とあるように、家畜への配慮はその人の公正さの徴と 考えられてきた。人が動物に食事を与える前に自分の食 事をとったり、食事についての適切な用意をすることな く動物を購入することを禁じたように、生き物の苦しみ に注意がはらわれた。食用のため家畜や鳥類を屠殺する 場合は、その苦痛を最小限にとどめるために処置がこう じられた。屠畜は、ショ lヘ
l トとよばれる専門の者によって、決められた手順で行われる。正しく屠殺し、病 に犯されていないかを確認し、塩漬けしてよく洗い、聖 書が禁じている血が取り除かれた。︵﹃ユダヤ思想の発展 と 系 譜 ﹄ 紀 伊 国 屋 書 店 ︶ ユダヤでは屠畜者は特別な存在 であった。しばしば祖父の仕事場を訪ねたシャガ
l
ル は 、 ﹁祖父の家は、私にとって芸術のひびきと香りに満たさ れていた﹂と述懐した。こうした人間と動物の営みに向 け ら れ た 眼 差 し は 、 ﹃ 皮 を 剥 が れ た 牛 ﹄ ﹃ 家 畜 商 ﹄ と い っ た作品の中にもうかがうことができる。パリ滞在中の一 九一三!一四年には、﹃屠殺場﹂という作品も残した。 そL
てシャガ!ルは、ラ・リュl
シユの一室で感じた ヴォジラl
ル の 印 象 を 次 の よ う に 語 っ て い る 。 朝の二時か三時。空が青い。日が昇る。下の方、 ずっと遠くで家畜が締め殺される。牝牛がなき、私 は そ れ ら を 描 い た 。 ︵ ﹁ わ が 回 想 ﹄ ︶ 少なくともシャガl
ルにとっては、屠殺も、屠場で働 く人々も、﹃週刊グレート・アーティスト﹄ の執筆者が 描いたような単に唾棄されるべき存在ではなかった。.
さて、屠畜・解体といった仕事、あるいはそれに携わ る人々の存在は、しばしば特殊な視線にさらされる。屠 畜・肉食についての一定の評価をもっ宗教・文化もあれ ば、肉食が習慣化されながらも、屠畜・解体が隠微な真 綿でくるまれた社会もある。価値観が異なれば、シヤ ガールが芸術的な感銘を受けたユダヤの屠畜方法も、 ﹁ グ ロ テ ス ク ﹂ と 評 さ れ る こ と も あ る 。 一 九 八 六 年 イ ギ リスでベストセラーの上位にランクされたというイギリ ス・ベジタリアン協会ピl
タl
・コックス著﹃ぼくが肉 を 食 べ な い わ け ﹄ ︵ 築 地 書 館 ︶ は 、 人 一 間 の 健 康 ・ 飽 食 と 飢餓・動物愛護の観点から肉食忌避を訴えている。この 中の﹁地獄をのぞく﹂という章では、現代イギリスの食 肉処理過程の問題をとりあげ、イスラムとユダヤの屠畜 こぺる 方法にも言及している。屠殺に際してあらじめ家畜を気 絶させることなく行い、屠殺後血抜きを施すというもの 13である。シャガ
l
ルの幼年時代とは異なり、屠殺の近代 化によりもたらされた弊害もあるのかもしれないが、 ツクスはこうした方法が動物の恐怖と苦痛を増大してい ると指摘する。そしてユダヤの場合は対象が牛であり、 人聞が押さえきれないほど大型であるため、 い っ そ う グ ロテスクだというのである。 十九世紀フランスでは食生活に大きな変化がおこって くるが、その特徴のひとつとして、都市における肉消費 量の増大があげられる。︵北山晴 ﹃美食の社会史﹄朝 日選書︶年に一、二度自宅で飼育した家畜が屠られ、食 卓に提供された農村での食生活とは異なり、牛・羊肉の 大量消費はきわめて都市的なことであった。こうした変 化が都市の屠場や、そこで働く人々にもたらした影響は どのようなものであったろうか。しかも一方で、当時 般的におこなわれていた猫殺しの遊戯をはじめとする動 物虐待ゃ、科学や医学の発展にともなって盛んとなった 動物の生体解剖に対する批判もたかまりつつある時代で あった。すでに十人世紀末、メル、ンエも﹃タブロl
ド ・ パ リ ﹄ の中で犬の生体解剖への疑問を呈している。 一八三三年、パリで見世物として動物を闘わせることがコ
禁 止 さ れ 、 一八四六年にはパリに動物愛護協会が設立さ れた。肉消費量の増大、都市の階層格差の拡大、動物愛 護思想の普及、屠殺をとりまく状況の変化が、新しい価 値観を形成したであろうことは想像に難くない。 屠畜・肉食へのあからさまな、あるいは淀んだ意識は、 時に、屠畜に携わる人々を脅かすような表現を生む。し かし、私はもう惑わされたくはないと思う。生きること の意味を問うことなく、生命への畏敬をもたないなにび との言葉にも、私は脅かされないと思いたい。大切なこ とは、人間の営みの中で、私たちがどのような生き方に 価値を見いだすことができるかということなのだから。 そのために、考えなければならないことはたくさんある のだ。そして、ただ自分が知らないでいるだけであるの に、そうした事実が存在しないかのように錯覚し続ける こ と を 恐 れ る 。 今回この小稿に引用し、思索にきっかけを与えてくれ た全ての出版社に感謝する。ひろば⑨ d
恩
智
理 ︵ 高 校 教 員 ︶人間性について
﹁人間性を大事にする教育﹂という言葉はよく耳にす る が 、 いったい何を意味するのだろう、と考えてみた。 普通言われるところでは、これは弱者に対する思いや りを意味しているようだ。これはこれで結構なのだが、 なお不分明なところがある。 弱者に対して思いやる気持ちは、その弱者本人が好感 の持てる人間でないと起こってこない。本人がわがまま だったり、非常識だったりL
た場合は、思いやる気持ち もなくなってしまう。しかも本人が﹁これは私の自由 だ﹂などと言い出したらどうするのか。本人の意志を尊 重して、そのままほおっておけばよいのだろうか。この ように考えると、単に思いやりの気持ちを持つだけでは、 足 り な い こ と が わ か る 。 では何が足りないのだろう。簡単なことで、厳しさだ。 厳L
い訓練を経てはじめて人間性が陶冶されると言うの も真実ではないか。本人が嫌がろうと、 やらせなければ ならないときもあるものだ。また、自分の好感・嫌悪感 に動かされて人に接することも、裏を返せば自分を甘や か し た 結 果 で し か な い 。 弱者に思いやりを寄せるだけではなく、自分や他人を 厳しく律して行くというのも、﹁人間教育﹂なのではな い だ ろ う か 。 つまり人聞の弱さをはっきりと認識L
な が らも、同時に理想を追求していこうとする立場だ。事実、 ﹁人間性﹂という言葉は歴史的に見ても、ここに書いた ような多義的な意味合いを持っているのである。 もともとこの語は、﹁ヒューマニズム﹂という語の翻 訳語だ。﹁ヒューマニズム﹂という言葉が入ってくるま では、この語は日本語にはなかった。では﹁ヒュl
マ ニ こぺる 15ズム﹂とはいったい何を表したか。 田中美知太郎の説明によると、この語はロ
l
マ 時 代 か ら 使 わ れ て い て 、 二つの意味があったという︵﹁ヒュ l マ ニ ズ ム の 意 味 ﹂ ︶ 。 一 つ は 、 ﹁ 如 才 な さ ﹂ と か ﹁ 親 切 気 ﹂ 、 簡単に言うなら、弱者に対する思いやりだろう。もう一 つ は ﹁ 教 養 ﹂ 、 つまり﹁職業人をつくるための学芸では なくて、全人的な完成をめざす場合に求められる学芸﹂ を意味する。ローマ時代の人たちにとって、これは具体 的には、ギリシャ以来の古典を学ぶことを意味していた。 彼らはそこに自分たちの理想を見出そうとした。 もちろん今日、そんな教育をそのまま復活させること は出来まい。古典をギリシャに限ってよかった時代はと うに過ぎ去った。わたしたちはインドの古典も、中国の 古典も持っている。また、近世・近代の作品にしても、 いや、現代の作品にしても、もう古典としての評価が固 まったものが数多くある。ただ、そんな古典的作品の中 に優れた人聞を見出し、それに倣って自分自身優れた人 間になろうと努めることは、今日でも決して馬鹿にはで きぬことではないか。わたしたちが愚劣なことに固まれ ているときでも、それはわたしたちに希望を与えてくれ は し な い か 。 最後に、理想を持つことの危険さについても語ってお きたい。それは理想にひかれるあまり、現実を忘れてし まうことだ。自分の力を過信して、もう自分には弱点な どない、と勘違いしてしまう。勘違いしたところで弱点 は 残 る J 例えば人間は生きている限り、様々会欲望から 逃れられない。ここで多寡をくくって、もう自分は欲望 を断ち切ったと考える人は、恐らく最後にそれまで自分 が押えつけてきた欲望によって復讐されて終わる。 そうするとわたしたちは、弱点も理想も抱えるという、 極めて矛盾したことをしていかなければならなくなる。 これが気に入らない人むいるかも知れない。しかし、ど うしょうもないのだ、と答えよう。わたしたちの肉体自 体が色んなものを苧み、矛盾したものである時、それ以 外にどうかしようがあろうか。矛盾を解消するためには、 最終的には死ぬしかない。もしかしたら、この矛盾を受 入れ、それに耐えていくことこそが、生きるということ な の か も 知 れ な い 。第 七 回 ﹃ こ ぺ る ﹄ 合 評 会 か ら 高橋貞樹著﹃特殊部落一千年史﹄ の改題をめぐって、本誌は今号分を ふくめると都合十二篇の文章を掲載 したことになります。聞くところに よれば、集中的にこんな議論をして いるところは他にないとか。 たしかに世間には、特殊部落は差 別語だから改題するのは当然という 人や、なぜ改題が問題になるのかわ からないという人も結構おられるよ うです。先日出会ったある部落史研 究者も、特殊部落が書名に入れば差 別を拡大助長するといって聞かない のです。改題を批判する人たちは無 責任な評論家だといわんばかりの怒 りょうでした。そのとき、ふと感じ たのですが、この人は善意から差別 語なるものの追放を願っている。け れどもその善意がどんな文化状況を 生んでいるかについてはほとんど気 づいていない。自らの善意を信じ、 無知蒙昧の人々を指導せずにはおか いたけだか ないといった風の居丈高な啓蒙主義 に酔っているだけに、よけいに始末 が悪いともいえます。 岩波文庫版の処置が、一人の校注 者と一つの出版社の、差別をなくそ う、差別を広めてはならないとの善 意から出たことまで疑う必要はあり ますまい。ただ、その善意なるもの には、良からぬ言葉、表現は世のた め人のために一掃するとの、清潔症 候群的衛生思想がうかがえて、なん う さ ん と も 胡 散 臭 い 。 ﹁足を踏まれている者の痛さは、 踏まれている者にしかわからない﹂ という痛み論、﹁踏まれている人が 痛いというかもしれない以上、そん なことはやめた方がよい﹂という気 づかい論、﹁主観的な意図にかかわ らず差別を拡大助長する可能性があ る﹂という拡大助長論などが大手を 振って罷り通っているうちに、丈化 わ い し よ う の倭小化がいよいよ進行している ように、わたしには見えます。自主 規制と検閲まがいの事前チェックが 制度化されたところでは、清く正し も ろ い人間像、脆くてやわい人間像しか 生まれはしない。文化の楼小化とは、 そういうことを指すのでしょう。 合評会︵十一月二七日︶でのみな さんの意見を聞きながら、わたしは こんなことを考えていました。 なお、これまでに寄せられた原稿 は一応掲載し終りましたので、次回 の合評会︵十二月二五日︶は総括的 な議論をする予定です。ぜひお出か け 下 さ い 。 ︵ 藤 田 敬 一 ︶ ﹃ こ ぺ る ﹄ 合 評 会 の お 知 ら せ 一 月 二 九 日 ︵ 土 ︶ 午 後 二 時 よ り 京都府部落解放センター 4 、 方 第 二 会 議 室 m O 七 五 四 一 五 一 O 三 O 編集・発行者 こぺる刊行会(編集責任藤田敬一) 発行所京都市上京区寺町通今出川上ル四丁目鶴山町14阿件社 Tel. 075 '256 1364 Fax 075 211 4870 定価300円(税込)・年間購読料4000円 郵 便 振 替 京 都 16141 第10号 1994年1月25日発行
乙
べ
ご
ち
者 か ら H それは差別ではないか“と か H 差 別の拡大・助長につ ながる H と指摘されても平然とし、 H 差 別 と はなにか 、 なぜこ れが 差 別に なるのか H と議論をたたかわせ ら れる人はめったに いない。まして H ある言動が差別にあたるかどうかは、その痛 み を 知 っている被差別者にしかわからない 勺 差 別する側に立 っ ている 者 に 、 被差別者の思いなどわかるはずがない H といわれ て 、 なおかつ 対 話を試みようとする人はめずらしい﹂。 ︵ 本文よ り ︶ このような立場 ・ 資 格 が 、 差 別 ・被差 別の 双 方 か ら 固 定 化 ・ 絶 対 化 さ れ て いると しか いいようがな い現実は 、 実 は 、 差 別 | 被差別の隔絶さ れた 関係の反映ともいえる 。 いま、大きく変貌を遂げつつある被差別部落 の 現実を直視し、 既成の 理 論や思想の枠組みそのものの検討を、自由な対話をと おして積み重ねられてこそ 、 この隔絶された関係 の 蘇 生 へ の 道 が開かれるのではないだろうか。