法然上人とその門流
早わかり法然上人門流各派 祖 師 方一覧年表ほか 法然上人の念仏と門下との出会い 法然上人の念仏 聖光 ・讃空 ・親鷺の生涯と師法然上人との出会い 法然上人門下の念仏 浄土宗(鋲両派)・浄土宗西山派 浄土真宗・時宗浄 土 宗総
合
研 究 所 編
総研叢書…………ー………・・…・…・………第
2
集法然上人とその門流
聖光 ・諸空 ・親驚・ 一遍 はじめに 序 章 早 わ か り 法 然 上 人 門 流 各 派 図 録 -干且師方フ。ロフイール -法然上人門流の系譜 .祖 師 方 一 覧 年 表 ・法然上人門流各派の寺院数 .一遍遊行回国図 第一章 法 然 上 人 の 念 仏 と 門 下 と の 出 会 い 法然上人の念仏 聖光・讃空 ・親驚の生涯と師法然上人との出会い 第二 章 法 然上人門下の念仏 浄土宗(鎮西派)/聖光上人の念仏 ・浄土宗の流れ 浄 土 宗 西 山 派/謹空上人の念仏・浄土宗西山派の 流れ 浄 土 真 宗/親驚聖人の念仏 ・浄土真宗の流れ 時 宗/一遍上人の念仏・時宗の流れ あとがき 浄土宗総合研究所編はじめに 本書は、浄土宗総合研究所において、平成十年から始まった研究プロジェクト﹁浄土宗 義と現代 ・ 浄土教比較論﹂の中の成果の一つである。 本プロジェクトの目的と意義は次のようなことであった 。 日本の浄土教は、 言 、つまでもなく法然上人(以下﹁上人﹂略)をもって晴矢とする。法 然以前の仏教界は盛大を極めてはいたが、それが庶民の隅々にまで浸透していたわけでは なかった 。 仏教の難解な教義と修行は、庶民の信仰とかけ離れたものであった 。 法然は、万人の救われる教えを求めて、二十五年にわたる求道の結果、阿弥陀仏の誓願 に遅遅し、南無阿弥陀仏と称えれば、すべてのものが極楽に往生できると説いた 。 そして これこそが釈尊出世の本懐であることを明らかにした。これは日本仏教を百八十度転回し、 日本仏教史を 二 分するものであ っ た 。 しかし法然の浄土教は、上人の在世中及び滅後に、種々の異議が起こり、やがてそれら は宗派として独立するに至 っ た 。 なぜこのように分派するようにな っ たのか、このことを 明らかにしようとしたのが、このプロジェクトであった 。
そのためには浄土宗の中からだけ見るのではなく、浄土宗西山派、浄土真宗本願寺派、 真宗大谷派、時宗の諸先生方に、ご協力を願わなければならないということになり、公的 に宗外に対して協力要請を行 っ た 。 教義の研究を宗派を越えて行うことを公的に依頼する ことは、きわめて珍しいことであり 、意義深 いことであ っ た 。 本 書 は、その研究の過程で、諸先生方にお書きいただいた各宗派の概要・変遷を簡潔に まとめて戴いたもので、日本浄土教を学ぶ手掛かりとなるだけではなく、各派の主張が、 それぞれの立場から端的に述べられているので、各派の比較研究をするには、類 書 の な い 最適な書物になったと確信する 。 なお本プロジェクト達成の過程で、何回か公開講座を行 っ たが、その模様については、 ﹁あとがき﹂に記しておいたので参考にしていただきたい 。 最後に本プロジェクトにご協力いただいた諸先生方、並びに事務局の方々に、 借りて厚く御礼を申し上げる次第である 。 この場を 平成十四年 二 月十 一 日 ﹁浄土教比較論﹂プロジェクト研究代表
梶
村
昇
はじめに 梶 村 昇
序章
早わかり法然上人門流各派図録
一 法 祖 法 祖 遍 然 師 然 師 遊 上 方 上 方 行 人 一 人 プ 回 門 覧 門 ロ 国 流 年 流 フ 図 各 表 の イ 派 系 │ の : 譜 ル 寺 院 数 15 13 11 7 2第
一
章
法然上人の念仏と門下との出会い
-法然上 人 の念仏 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 梶 村 ・ 聖光 ・ 詮 空 ・ 親驚の生涯と師法然上人との出会い : : : : : : : : : : : 林 田 昇 18 康 順 羽第二章
法然上人門下の念仏
。 浄土宗(鎮西派) . 聖光上人とその門下の念仏::・ : : : : : : : : : : : : : : j i -j i -: 庚 川 ・ 浄土宗(鎮西派)の台頭 : : j i -: : -j i -j i -j i -: j i -宇高 。 浄土宗西山派 ・ 誼空上人とその門下の念仏 : : : : : : -j i -: : : ・: j i -: : : ・ : : : 中 西 . 浄土宗西山派の流れ :-JJ ・-: : : : : : j i -: : : j i -j i -: 大塚O
浄土真宗 ・ 法然上人の念仏より親驚聖人の念仏へ : j i -: : : -J J ・ -: : : : 浅 井 成 海 間 ・ 浄 土 真 宗 の 流 れ : : : : : : : : : : : : : : ・ : : : : : : : : : : ・ : : : : : : 五 十 嵐 大 策 凶O
時宗 ・ 時宗宗祖 ・ 一 遍上人と 二 祖 ・ 他 阿 真 教 : : : : : : : : : : : : : : : : : 長 島 ・ 一 遍 上 人 、 真 教 上 人 以 後 の 時 衆 ( 時 宗 ) : : : ・ : : : : : : : : : : : : : 岡 本 執筆者 一 覧 あとがき 己 主 交 4 4 3 フ布呼 p h u 良 哲 剖 随 功 幻 霊雲 間 貞 向 男 道1
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浄土宗の祖。念仏の元祖 。長承二 年(一二三ニ)、美作国久米(岡山県久米 郡久米南町)に生まれる 。 九歳で父の非業の死に遭い出家 。 十三歳の時、比叡 山に登る。十八歳にして名利を離れ黒谷に隠遁し叡空を師とする 。 四 十 三歳の 時、善導大師の ﹃ 観経疏 ﹄ に出会い念仏に帰依 。 後、居を東山 吉 水に移し人々 に念仏を教 化 。 六 十 六 歳 の 時 、 ﹃ 選択集 ﹄ を撰述し浄土宗の教えを体系づける 。 南都北嶺の仏教教団による弾圧の末、七十五歳の時、四国に流罪 。 四年後、許 されて帰洛、建暦 二 年 ( 一 二 一 二 )、八十歳で往生を遂げる 。聖光上人/弁長上人(
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浄土宗鎮西派の派祖(浄土宗 二 祖 ) 。 応 保 二 年 ( 一 一 六 二 )、筑前回香月(福 岡県北九州市)に生まれる 。 九 歳 で 出 家 し 、 二 十 二 歳で比叡山に 登 り証 真 ら に 学 び、後帰郷 。 三 十六歳で上洛した際、法然上人(以下﹁ 上 人﹂略)に出会い 念仏の教えに帰依する 。 一 日 一 帰郷した後、再上洛し法然 の 下で六年余修 学。の ち帰郷し、念仏教化に尽力する 。善 導 寺 はじめ多くの寺院を聞く 。 ﹃ 徹選択 集 ﹄ や ﹃ 末代念仏授子印 ﹄ など著 書 多数 。 嘉 禎 四 年 ( 一 二 三 八)、七十七歳にて往 生を遂げる 。 3詮 空 上 人 / 西 山 上 人 ( 一 一 七 七 よ 二 四七) 4 浄土宗西山派の祖 。 治 承 元 年 ( 一 一 七七)、京洛に生まれる。十四歳で出家 し、法然上人(以下﹁上人﹂略)の室に入る 。 以 後 、 二 十三年間法然に師事し 浄土宗の教えを学ぶ 。 ﹃ 選択集 ﹄ 撰述にあたり勘文の役(出典を調べる役)を つ と め 、 一 部の執筆もした 。 後、慈円等に天台の教えも 学ぶ。建 保 年 間 ( 一 二 一 三 i 一 八)、西山の往生院(三鈷寺)に、また三十七歳の時、西山善峰寺に 移り念仏教化に尽力 。 ﹃ 観経疏自筆紗 ﹂ など著書多数。宝治元年( 一 二 四 七 ) 、 七 十 一 歳にて往生を遂げる 。
親驚聖人(
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浄 土 真 宗 の 祖 。 承安 三 年 ( 一 一 七 三 )、山科国日野に生まれる 。 九歳で出家 し、後、比叡山に 登 る 。 二 十九歳の時、京洛六角堂に 百 日 間 参 龍 し 、 夢告 に従 い法然上人(以下﹁上人﹂略)を訪ね、念仏の教えに帰依する 。三 十 五 歳 の 時 、 師法然等と共に流罪となり越後に流される 。 その地で恵信尼と結婚、四男 三 女 をもうけた 。 後、約 二 十年間、関東に留まり念仏教化に尽力 。 六十 二 歳頃、帰 洛した 。 ﹁ 教行信証 ﹂ など著 書 多数 。 弘 長 二 年 ( 一 二 六 二 )、九十歳にて往 生 を 遂 げ る 。 う一 遍 上 人 / 遊 行 上 人 ( 三 三 九
1
一 二 八 九) 6 時宗の祖 。 延 応 元 年 ( 一 二 三 九)、伊予国に生まれる 。 十歳で縁教を師とし て出家する 。 十三歳の時、九州に渡り、誰空上人の弟子聖達に師事し浄土教を 学ぶ。一時帰国し、信濃善光寺に参龍するなどして、 三 十六歳の時、天王寺か ら高野山を経て熊野本宮に参龍し一遍と名のる 。 以後、念仏札をくばりつつ、 踊り念仏を修し全国を遊行した 。 正 応 二 年 ( 一 二 八 九 ) 、 著 書などをすべて焼 き捨てた後、五十 一 歳にて往生を遂げる 。浄土宗系譜略図
-聖光(鎮西義) │良忠l
下 謹空(西 山 義 ) ﹁隆寛 ( 多 念 義 ) ー 慈 心 ( 木 幡派 ) 下道光 ( 三 条 派 ) ﹁ 然 空 ( 一 条 派 ) 源 空 ー ーlTl
良 尊 性 暁 観 心 白 名 藤 幡 越 田 派 派 派iT寸
親 長 幸 驚 西 西 真 諸 一 宗 行 念 義 本 義 ) 願 ) 義 ( 本山伝 ) 定慧 │ │ 聖満 1 祐崇 o i l o -牛 秀││幡随意 -源智 ﹁信空 蓮勝 1 l 了実l
聖問 │ │ 聖聴 1 1 4 4 貞 把 │ 1 存 貞 │ │ 存応 ( 末 山 伝 ) 一 ﹁ 虎 角 ││霊巌 7 * i i l は 直接の子弟ではな い 。西山六流系譜略図
8 法然│誼空l
と ・ つ ぎ ん1
観鏡誼入 ( 東 山義 ) 下道観誼 鶴 一品 ( 嵯 峨 義 ) 一 せ い こ く ﹁ 法 輿 童 日 ( 西 谷 義 ) │1観智││行観│﹂││西山浄 土宗(総本山光明寺) 一 ﹁ │ 浄 土 宗 西 山 禅 林 寺 派 ( 総 本 山 禅 林 寺 ) ﹁ 了 音(六角義) 「寸一寸 聖 円 遊 道 空 観 .1L 信 深 草 義 ほ ん ざ ん 康空示導(本山義) 1
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仁空実導 浄土宗西山深革派 ( 総 本 山 誓 願寺 ) 一 遍(時宗) *現在法灯が現存するもの 西谷義 深草義 ( 光 明 寺 、 禅 林 寺 ) ( 誓 願 寺 )浄土真宗十派の系図
親 驚 驚 ーー如 信 ﹂ 一1
乗 専 出 雲 路 派 一 一1
教如 ; 1 1 大 谷 派 覚信尼 │ │ 覚 恵 ト │ 覚如│十 l 従 覚 1 1 善如 1 蓮如 ( 中 堅 │ 顕 知 土 一 ﹁ 准如 I l l i -本願寺派 ﹁ 存 覚 ー ー ー 慈 観 信 ー ー 願 性 │ │ 善明 1 1 1 慈空L
善 l t 木 辺 派 性 真真
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仏光 寺派 興 正 派 高 田 派 山 元 派 誠照寺派 三 門徒派「
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* なお、普鷺は、出雲路派第 二 世、山元派第 二 世 。 如信は、本願 寺(のちの本願寺派 ・ 大 谷 派 ) 第 二 世、木辺派第 二 世 。 覚如は、本願寺第 三 世、木辺派第 三 世 。 存覚は、木辺派第四世である 。 9時
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藤 寺 城 、、..-' 、、.-' 都 、-..-' 沢 原 *これに 一 向上人門下の 一 向派と 天童派を 加えて時 宗 十 二 派といわれる 。祖 師 方 一 覧 年 表
酉 暦 1133 1 141 1145 1150 1162 1173 1 1ア5 1177 1 181 1183 1186 1190 1 191 1193 1197 1198 1 1 9 9 1201 1204 1205 1207 1210 121 1 1212 1213 1 2 1 4 1 2 2フ 1229 1232 1236 1238 1239 1247 1248 1251 1256 1257 1258 1262 1263 1271 1 2 7 4 1 2 7ア 1279 1281 1282 1289 1299 年 号 畏 承 二 永 治 元 久 安 元 久 安 六 応 保 二 承 安 三 安 元 元 治 承 元 獲 和 元 寿 永 二 文 治 二 撞 久 元 理 久 二 撞 久 四 建 久 八 撞 久 九 正 治 元 理 仁 元 元 久 元 元 久 二 承 元 元 京 元 四 撞 暦 元 理 暦 二 理 保 元 理 保 二 安 貞 元 寛 膏 元 貞 永 元 嘉 禎 二 暦イ二一 豆!;.r;t;王王 室 治 元 宝 治 二 建 畏 三 康 元 元 正 憲 元 正嘉二二 弘 畏 二 弘 畏 三 文 永 八 文 永 十 一 建 泊 三 弘 安 二 弘 安 田 弘 安 五 五三E芯二二 正 安 元 法 然 上 人 . 聖 光 上 人 誼 空 上 人 美 作 国 稲 岡 に 誕 生 父時国書寸~(9) 比 甑 山 ・ 源 光 に 師 事(13) 西 塔 黒 苔 叡 空 に 師 事 法 然 房 源 空 と 名 集 る(18) 一一一一・ーーーーーーーーーーーーー一一一一ー一一ー一一一---I 筑 前 園 香 月 にE生 一 向 専 修 に 帰 入 吉 水 に 住 す(43) 一 ー 一 一 一 一 一 一 ー ・ ー ー 一 一 ー 一 一 一 一 一 一 一 -- - 一 一 一 ー 一 一 一 一 - ・ 京 洛 に 匝 生 比 置 山 、 観 眠 、 匝 真 に 師 事(22) 大 原 踏 襲(54)( 文 治 五 年 観 も 〉 東 大 寺 で 浄 土 三 部 経 を 講 す (58)一 一 一 一 一-
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一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一l
法 然 の 室 に 入 る (14)自 ら の 意 志 が 強 か っ た 。 一ーーーーーーーーーーーーー一一一ー l油 山 の 学 頭 と 怒 る(30) ーー'一一一一一ーーーーー一一ーーーーーーーーーーーーーー l異 母 弟 三 明 房 の 悶 絶 、 明 星 寺 五 軍 埋 ま の 勧 進 に ー一一一一一ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー一一ーーー l五 重 塔 瞳 工 、 上 洛 し 法 然 に あ う(36) 『選 択 集』を 撰 述(66) - - - 一 一 一 一 一 一 ー ト 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 Ir選 択 集』勘 文 の 役 、 助 箪 を 動 む(22) 一ーー一一一ーーーーーーーー一一一一ー一一ー・一一---I 法 然 の 許 に 、 『選 択 集』を 付 与 さ れ る(38) I兼 実 邸 で 法 黙 の 代 わ り に『選 択 集』を 請 す(23) 『七 箇 条 起 謂 文』門 弟190人i亘 書 (72) 法 然 の 許 し を 得 郷 里 に 帰 る(43) 二 月 土 佐 配 流 決 定 、 十 二 月 勅 免 宣 旨 下 る(75) I一 千 日 別 時 を 開 始(46)一 一 一 一 一 一 一 一 一 一--t-一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 ー ト 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 l天 台 止 観 を 学 ぶ(33) 入 洛 し 東 山 大 谷 に 住 す ( ア9) 入 混(80) 西 山 警 峰 寺 北 尾 往 生 院 に 住 す 扇 樟 の 法 難 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 → ー 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 ・ 当 麻 寺 に 鯵 脂 、 不 断 念 仏 供 料 田 を 寄 進 関 東 奥 州 遊 化 一 週 上 人 │ 伊 予 国 で 誕 生 出 家 、 随 掃 と 名 乗 る(10) 筑 紫 の 聖 達 を 訪 ね る (13) 良 忠 入 室 入 滅 ( フ フ ) 父 遷 化 し 故 郷 へ 、 半 僧 半 俗 の 生 活 に(24) 再 度 出 家 す 、 普 光 寺 参 簡 二 河 の 本 尊 を 描 く(33) 同 行 三 人 と 伊 予 国 を 出 立 遊 行 の 旅 に 、 熊 野 の 本 宮 ! i E1成 殿 に(36) 他 問 弥 陀 仏 真 教 入 門 〈 憲 初 の 弟 子 )(38) 曹 、 上 京 夏 、 普 光 寺 に 赴 き 偶 濃 園 佐 久 の 市 庭 で 踊 り 念 仏 を 修 す(41) 奥 州 江 刺 か ら 常 陸 園 、 武 蔵 国 へ (43) 鎌 倉 に 入 れ ず 片 瀬 へ 御 堂 や 地 蔵 堂 に 止 住(44) 所 持 の ・ 舗 を『阿 弥 陀 経』を 醗 み な が ら 焼 く 、 入 混(51) 『一 週 聖 絵』成 る 道 覚 親 王 に『鏑 勧 用 心』を 述i:)l,入源(71) ※ ( ) 内 は 年 齢 親 鴬 聖 人 山 科 国 日 野 に 醒 生 青 蓮 院 に て 制 髪(9) 六 角 堂 多 値 後 、 源 空 ( 法 然 ) を 訪 ね 意 仏 門 に 入 る(29) 『選 択 集』を 附 属 さ れ る(33) 念 仏 停 止 で 越 後 へ 流 罪 恵 慣 尼 と 結 婚 か(38) 関 東 に 移 住 、 上 野 国 佐 賀 で 三 部 経 観 踊 発 願 ま も 忽 く 中 止 と の 頃 帰 洛 か(62) 『教行慣IiEJ完 成 ( フ5 ) 息 男 曽 鴫 輯 絶(84) 『西 方 指 南 抄 』 集 録 (85) 『正 像 末 和 掴』を 著 す(86) 入 湯(90)法然上人門流各派の寺院数
浄土宗西山系
七 、 O 七八か寺・教会二 O 西山浄土宗 浄土宗西山禅林寺派 浄土宗西山深草派 五九四か寺・教会八・出張所 二 六 一 か寺・教会 一 三 ・出張所 二 四九か寺・教会六・出張所五 一 二 O 四か寺・教会四五・出張所八 参 考 ︺ 合計 ︹ 文 化 庁 偏 ﹁ 宗教年鑑 ﹄ 平成十三年度版 13浄土真宗 時 ,三.,. 刀言 本願寺派 大 谷 派 高 田 派 輿 正 派 仏光寺派 木 辺 派 誠照寺派 二 門徒派 山 元 派 出雲路派 そ の 14 ( 京 都 市 ・西本願寺 ) : : ・ 一
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、四O
三 ( 京 都 市 ・東本願寺 ) : : : : 入 、 七 一 一 一 一 ( 三 重 県 ・ 専 修 寺)
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・ -六 四 四 ( 京 都 市 ・ 輿 正 寺 ) ・ : j i -: 四八九 ( 京 都 市 ・仏光 寺) : : : : : : : 三 六 五 ( 滋 賀 県 ・ 錦 織 寺 ) ・ : : j i -一 八 六 (福井県・誠照寺):・:::: : : : 五 二 ( 福 井 県 ・ 専照寺):::::・:: 三 八 ( 福 井 県 ・ 証 誠 寺 ) -j i -j i -一 -一 -一 ( 福 井 県 ・ 豪 摂 寺 ) : : : : : ・ : ・ : ・ 六 他 約 五 四 一 一 一 一 か寺・教会一
遍遊行回国図
①伊予道後(愛媛県松山市道後湯月町宝厳寺) ② 筑 前 太 宰 府 ( 福 岡 県 筑 紫 郡 太 宰 府 町 大 字 原 ) ③肥前清水寺(福岡県鞍手郡若宮町消水) ④筑前大宰府(②に問じ) ⑤伊予道後(①に同じ) ⑥筑前太宰府(②に同じ) ⑦ 信 濃普光寺(長野県長野市 一 冗 善 町 ) ⑧ 伊予窪寺(愛媛県松山市窪野町丹波) ⑨伊予菅生山岩屋寺(愛媛以仁浮火郁夫川村 大字七烏) ⑩天王寺(大阪府天 γ よ れ 寸 区 バ 町 ) ⑪ 一 一 向 野 山 ( 和 歌 山 県 伊 都 郡 川 野 山 ) ⑫熊野本宮証誠殿(和歌 山県東牟嬰 郡本宮町 本 宮 ) ⑬熊野新宮(和歌山県新宮市新宮) ⑭京都(京都市内) ⑬ 伊 予 道 後 ( ① に 同 じ ) ⑬筑前太宰府(②に同じ) ⑪ 大 限 八 幡 宮 円 ( 鹿 児 川 崎 以 同 分 市 年 人 ) ⑬伊予道後(①に阿じ} ⑬ 厳島神社(広島県佐伯郡富山町) ⑫備前藤井(岡 山県西 大寺市雌井) ⑫ 福岡の市(附山県色久郡長船 ) ⑫ 京 都 因 幡 盆 ( 山 小 阿 川 市 五 条 h M 九 点 ) ⑫ 信 浪善光 寺 ( ⑦ に 同 じ ) ⑫ 信 濃佐久郡小田切の里(長野県南佐久郡 臼 田 町 小 田 切 ) ③ 信濃伴野(長野県佐久市伴野) ⑫ 下野国小野寺(栃木県下都賀榔符船町小野 寺 ) ⑫ 白 河 関 ( 偏 向 山 市 白 川 山 肌 前 下 関 森 ) ⑫ 江 刺抑制父通信の興基(行手州 市 北七市稲 瀬 町 水 魁 ) ⑫ 松 山 川 ( V H 城県 ' 品 城 山 附 松 山 町 ) ⑩平泉(岩手県西磐列郡平泉町) ⑪常陸国(茨械県内) ⑫武蔵国石浜(東京郷台東区山川川) ⑮ ながさご(神奈川県横浜市尚区永 世 什 町 ま た は 藤 沢 市 長 後 ) ⑩ 鎌 合 ( 仲 介 前 川 県 鎌 合 市 ) ⑮ 片瀬 ( 神奈川県勝沢市片瀬) ⑮ 伊 豆 三 島大社(静岡県 三 島 市 大 社 町 ) ⑪ 尾 猿 凶甚目寺(愛知県海部部品け 4 町 ) ⑧ 萱 津(愛知県海部仰広け寺町位沖 ) ⑮ 近江草m (
滋賀県市沖山 ) ⑩ 削 闘 志 苛 ( 滋 賀 川 附 大 津 市 開 寺 町 ) ⑪ 京 都四条京極釈迦堂(京都市中京区新点 極通四条) ⑫ 京 都因幡堂( ⑫ ) に同じ) ⑬ 三 条悲閉院(京都市) ⑩蓮光院(京都市) ⑮雲居寺(京都市東 山 区 高 台 与 ) ⑬六波間粧蜜寺(京都市東 山 区 松 原 通 大 和 大 路 ) ⑪市野道場(京都市下京区六条通河原町) ⑬ 油 田 西 桂 ( 京 都 市 西 京 区 桂 ) ⑮篠村(京都府亀岡市篠町) ⑩ 穴 生 ( 京 阿 川 府 他 岡 市 曲 u 技 郎 町 ・ 一 八 木 ) ⑪ 丹後久美浜 ( L 以 都 府 熊 野 山 久 夫 浜 町 ) ⑫ 采作 一 宮 ( 岡 山 県 応 出 郡 一 の 日 ) ⑬天王寺(⑩に 阿じ) ⑧ 住吉大社(大阪市住吉区住吉町) ⑮ 河内磯長聖徳太子廟(大阪市南河内郡太 子 町 ) ⑮ 大 和当麻 寺 ( 奈 良 県 北 何 回 城 郎 当 麻 町 ) ② 石 清水八幡宮 ( a 爪 都 府 総 点H m
八 幡 町 ) ⑮ 淀の上野(以都府久川仰淀町 ) ⑮天王寺(⑩ に 同 じ ) ⑩ 印南野教信寺(兵庫県加古川市野川) ⑪ 幅削熔必写山門教寺( 兵 庫 川 m 姫路市内ち ) 15念仏札
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7. ZJ 2・
・ ・15 ⑫船原八幡(兵賄以姫路市飾際医) ⑬軽部(岡 山 県 郡 箆 部 抑 制 抗 日 村 幹 部 ) ⑩備後一の宮(広島県芦品郡新市町宮内) ⑬安芸級品(広島県佐 伯 郡 宮島町) ⑮ 伊予菅生山新屋寺( ⑨ に 同じ) ⑪ 伊予繁多寺(愛媛県松山市畑 寺 ) ⑬ 大 三 島神社(愛媛県越智郎大 三 島町宮浦) ⑮讃岐善通寺(香 川 以 醤通寺市普通与) ⑮ 品 買 陀羅寺(香川県 普 通与市占原町 ) ⑪ 淡 路福良の泊(兵庫県 三 原 郎 耐 淡 町 一 制 良 ) ⑫ 淡 路 二 の 符 ( 兵 庫 県 三 原郷 三 原町柿守) ⑬ 志 筑 北 野 犬 神 ( 兵 郎 県 凶 作 名 榔 津 名 町 志 筑 ) ⑬ 明石の浦(兵間以明石市 ) ⑮ 兵 庫 観 背 堂 { 兵 席 以 伸 一ド市兵庫区須佐野通 真光寺) 16 註 I 、 ﹁ 一 遍聖絵 ﹂ か ら 作 成 。 2 、 順 路 に 若 干 矛盾するところもあるがそ の ま ま と し た 。⑨第一章
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法然上人の念仏
18 梶 村 昇 念仏の元祖・法然 元祖上人といえば法然上人( 一二二三│一二三 了 以 下 ﹁ 上 人 ﹂ 略)のことをいう 。 何 の元祖かといえば念仏の元祖である 。 しかし念仏は、法然よりはるか昔、インドの原始仏 教の時代からあ っ た 。 手元の仏教辞典を見ても、 ねんぶつ 念 仏 仏 を 念 ず る こ と 。 念仏は 一 般に仏道修行の基本的行法の 一 とされる が、これには理法としての仏を念ずる法身の念仏と、仏の功徳や仏の相を心に思い浮か く し よ 司 づ べる観念の念仏と、仏の名を口に称える称名の念仏(口称念仏)とがある 。 党語では ブ ッ ダ ・ アヌスムリティ(
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包 ( 豆 町 山 口5
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)
と い う ( ﹃ 総合仏教大辞典 ﹂ 法蔵館肝) 。 念仏は仏道修行の基本的行法の一つであると述べられている 。基 本的行法なら とあ っ て 、ば、仏教創唱の初めからあったのは当然であろう。 われるのであろうか。 それなのになぜ法然が念仏の元祖とい それは辞典にも記されているように、念 仏 は、同じ念仏の名で呼ばれても﹁法身の念 仏 ﹂ ﹁ 観 念 の 念 仏 ﹂ ﹁口称の念仏 ﹂ というように内容が同じでない。法然はこの中の ﹁ 口 称 念仏 ﹂ の元祖である。口称念仏とは口に南無阿弥陀仏と称えることである。そう 言 われる と今日私たちは、それ以外に念仏というものがあるのかと不審に思うほど、日本中津々 浦々、念仏といえば口称念仏ということになっている 。 その創唱者が法然なので、法然を 念仏の元祖という。それではなぜ口称念仏がこれほど広まり、他の念仏が広まらなか っ た の か 。 この過程を明かにすることが、法然仏教を知る手掛かりになる 。 法然の精神的遍歴 (ー) 比叡山へ 法然も最初から口称念仏を唱導したのではない 。 そこに到達するまでには、幾多の精神 的遍歴を重ねてきた 。 法然はその遍歴を回想してこう語 っ ている 。 19一一一 一第一章 法 然 上 人の念仏と1"1ドとのLP.会い
﹁自分は幼い時に比叡山に登った。十七歳の時、﹁法華三大部 ﹄ 六十巻を求め勉学した。 十八歳で暇を戴いて遁世した。これは名利の望みを絶ち、仏法を学ぴたかったからである。 けんぎよ う みつきょう :・それ以後、顕教・密教いろいろな教えを学び、先学を訪ねて教えを受け、わが国に来 た聖教など見ないものはないほど勉学した。それでも迷いの世界を離れることができず、 身心の安らぐことはなかった。 ロ よ く せ 恵 心僧都源 信 は ﹃ 往生要集 ﹄ を著して、濁世末代の人々に勧めた。私はこれについて出 離の趣きを尋ねようと願った﹂(醍醐本﹃法然上人伝記﹄第 一 話拙訳 ・ ﹃ 法伝全 ﹂ 七 七 三 ) 。 と。自分は幼い時、比叡山に登って天台教学を学び、その後、他の顕教・密教などいろい ろな教えを学んだが、身 心 の安らぎを得ることができなかった 。 そこで恵心の ﹁ 往生要 集 ﹂ ( 以 下 ﹃ 要集 ﹄ )の念仏に道を求めたというのである 。 こ の 後 、 ﹃ 要集 ﹄ の 序 ・ 本 文 に 触 れ 、 ﹃ 要 集 ﹄ は念仏を勧めた 書 であることは明らかであ ると述べている 。 しかしその後には、 ﹃ 往生要集 ﹄ には、念仏をすれば、百人が百人、極楽に往生できるという点について どう し ゃ く は、道紳・善導の釈に譲って詳しく述べられていない 。 そこで私は ﹁ 往生要集 ﹄ を先 達として浄土門に入った 20 ( 全 上 ) 。
と 言 い 、 ﹃ 要 集 ﹄ の念仏で終わらずに、善導の教えへと進んだと 言 っ ている 。 すなわち法 然は、天台教学から ﹃ 要集 ﹄ の 念 仏 へ 、 ﹃ 要 集 ﹄ から善導へと進んだと 言 っ ているのであ る 。 このように遍歴をしたのは、 言 うまでもなく、身心の安らぎを得られなか っ たからで ゐ め ヲ h v
。
(斗 天台教学との決 別 天台教 学 は華厳教 学 と並んで、大乗仏教最高の教学といわれてきた 。 そ の 天 台 教 学 が 、 なぜ身心の安らぎを与えることができなかったのであろうか 。 それについて ﹁ 選択本願念 仏 集 ﹄ ( 以 下 ﹃ 選択集 ﹄ )はこう述べている 。 しよう E う だ い し よ う よ う お ん 聖道の一種は今の時、証 し難し 。 一 には大聖を去ること遥遠なるに由る 。 二 には理 げ み は深く解は微なるに由る( ﹃ 選択本願念仏集 ﹄ 第 一 章 ・ ﹃ 法全 ﹄ 一 二 一 一 )。 と 。天 台教 学 を初め聖道の教えは、精鍛な論理で構築されてはいるが、末法である﹁今の 時 、証 し難い﹂と 言 っ ているのである 。 簡単にいえば、立派なことを説いてはいるが、 実 際の役には立たないということである 。 実に痛烈な批判と 言 わざるを得ない 。 大乗仏教最高の教 学 といわれるほどの教えが、なぜ役にたたないのか 。 その詮索に深入 21一一一一一第一章 法然上人の念仏と門下とのIl',会いりすることは、主題から逸れるのでここでは避けたいが、法然の 言 葉を換 言 すれば、それ は現実を遊離した観念論に陥 っ ているからだということになる 。 なぜそうな っ てしまった か と い え ば 、 一 つ には、教学というものの陥りやすい性格に起因し、加えて、日本の宗教 界の構造に原因があ っ たといえる。 教学というものは論理の体系であるから、研究者は当然論理を追う。ところが論理とい うものは、現実と関わりなく展開することができるので、研究者は論理にとらわれている うちに、知らず知らずに現実遊離の観念論に迷いこむことになる。仮にそれに気づいても、 論理の展開には抗することができず、ひたすら論理体系の構築に励むことになる。教学は こういう性格がある 。 天台教学が大乗仏教最高の教学といわれるようにな っ たのもこの性 格によ っ て轍密に論理体系が築きあげられたからであり、同時にそれは﹁今の時、証し難 い﹂現実遊離の観念論にな っ てもいった 。 加えて日本の 宗 教界の構造とい っ たのは、日本の宗教界は、変なたとえようだが、階段 のない二階建家屋のようなもので 、 二階に は仏教界が陣取り、 一 階には庶民が住み、しか も 一 ・ 二 階を結ぶ階段がない 。 そこで双方とも勝手に展開してきたという構造である 。 具 体的にいえば、 奈良 仏教は仏教国家といわれるほど盛んであり、平安仏教もそれを 受 22
けて、南都北嶺を中心に盛業をみせた。これが二階の仏教界の状況であった 。言っ てみれ ば、仏教界という社会内社会を形成し、その中だけで回転していたということである。し かも階段がないので、 二 階の仏教は 一 階の庶民の生活に届かず、 一 階は、祖先霊だ、怨霊 だ、呪術だなどといって、民族の三つ子の魂ともいえる昔ながらの宗教観に基づいた生活 をしている。これが 一 階の状況である。 ただ奈良 ・ 平安時代と長い時が経つにつれて、二階から一階へ仏教説話などが徐々にこ ぼれ落ちてくるのは自然の成り行きである。すると 一 階は、それを巧みに受けと っ て、自 分の身丈に合うように裁断して着用するが、実体は昔ながらの宗教観に異ならない 。 そ こ で 一 階は、外見は仏教のようにみえるが、内実は昔ながらの信仰に基づいているというこ とになる。民族の三つ子の魂が、異文 化を自分 の 居 心 地 のよいように変容したということ である 。 それでは二階は仏教信仰が溢れていたかというと、これがまたそうではない。研究者た ちは社会内社会の中にあって、ひたすら教学の研究に従事はするが、教学の性格が前述の 通りなので、研究者の 主 体とは関わりなく教学の研究は展開していく 。 仏教を身に試み、 論理の展開を追及していけば 事 足りるということにな 心に体して求めようとしなくとも、 23一一一一一第一章 法 然l二人の念仏と門下との出会い
る。主体と研究対象とが事離しているのである。 法然は、このような状況下の比叡山に登ってきて道を求めた 。 あくまでも自己自身を凝 視し、その線上に仏教の救いを求めようとした法然にとって、叡山の教学は全く観念の遊 戯に過ぎないものと写ったと思われる。法然が凝視した自己の姿とは、 ﹃ 四十八巻伝 ﹄ の 表現を借りれば、 かかわ およそ仏教は多いといっても、所詮戒定慧の三学に過ぎない 。 それにも拘らず、私は 戒は 一 戒も保てないし、禅定では、猿が枝から枝にったわるように心は散乱し静まるこ とはない 。 煩悩を断じたような智慧など起こりょうもない(巻六 ・ ﹃ 法伝全 ﹄二 五 ) 。 というものであ っ た 。 仏教はいずれも戒定慧の 三学 を 保 っ て成仏を願えとい っ て い る が 、 自分は戒の 一 戒も保てないようなもので、とても三学を守れるような器ではないというの である 。 もちろんこれは己れをみつめてのことであり、 他人 のことまで言うこともないが 、 実際 に は 三学 を保って修行できる者など一人としていない 。 にも拘わらず 三学 を前提とした教 学 をいかに研究し、組み立ててみたところで、それは画餅に 等 しいことではないか 。法然 が天台教学と決別した所以はここにあ っ たといえる 。 24
(弓 ﹃ 往生要集 ﹂ の 念 仏 へ 法然は天台教学から ﹁ 要集 ﹄ の念仏へと進んだ。念仏は、冒頭に述べたように、仏教創 ち ぎ 唱の当初からあった。もちろん天台教学の中にも存在していた。天台宗は智顕(陪 ・ 五 三 八│九七)が創設したが、知日顕の教学の特色の一つは、学理の仏教の上に実践の行法を並 行させ、教 ・ 観 二 門をたてたことにあった。その観の中心ともいうべきものが﹁止観﹂す なわち諸法実相の観入の方法であった 。 その方法として四種三昧が説かれ、その中の 一 つ に常行 三 昧がある 。 そ れ は 、 九十日間、身は常に行じて休息はなく、九十日間、口は常に阿弥陀仏の名を唱えて休 息はなく、九十日間、心は常に阿弥陀仏を念じて休息はない( ﹁ 摩 詞止観 ﹄第二上 )。 というものであ っ た 。 ここに口称念仏・観念念仏が登場する 。 この行法を通して、止観の 境地に到達しようというのである 。 念仏は、ミこでは明らかに天台の教えの 一 環として住 置づけられている。 えんにん 延暦寺の第 三 代座 主 円仁(七九四 │ 八六四)は、この行法を実践するために、比叡山東 塔に常行 三 昧堂を建立した 。 それが﹁山の念仏﹂といわれ、叡山の重要な行法となってい 2う一一一一一第一章 法然と人の念仏と門下との出会い
った。さすがの 比叡山も 長年にわたる観念 的な教 学 研究に空虚なものを感じていたからで あろうか、念仏の行法は、天台古来の法華三昧に代わるほど支配的にな っ て い っ た。とく よ か わ に横川の恵心僧都源信(九四 二 一
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一 七)を中心とする念仏運動は、平安仏教を象徴す るほどにもてはやされた。恵心の主著 ﹃ 往生要集 ﹄ ( 九 八 四 成 立)は、同信同行の念 仏 実 践運動のための指南書であったといえる。法然が天台教 学 に身心の安らぎを得ず、信仰的 実践 的な ﹃ 要集 ﹄ の 念仏へと進んでいったのは当然の帰結であ っ たといえる 。 しかし率直に 言 っ て 、 ﹃ 要集 ﹄ の念仏といっても、それはあくまで天台教学の 一 環とし ての念仏であ っ たことは間違いない 。 叡山は周知のように、五法門(天台・禅・戒 ・ 密 ・ 浄土)兼 学の道 場であ っ た 。 しかしその五法門は、それぞれ独立した存在というわけでは なく、天台以外の四法門は、最後には天台の法華円教に帰 一 しなければ成仏できないとい うものであ っ た 。 こ の意味で﹃要集﹄の念 仏もまた 天台教学の居候であり、寓宗であった。 それがいかに信仰的 実 践的であ っ たとしても、最後には天台教学に 戻らな ければならない の で 、 三学 非器の者のよく従うことのできるものではない 。 事実﹃要集﹄の念 仏は、﹁万術を以て観念を助け、往 生の大事を成ぜよ ﹂ といい、大菩 提 心 、 戒 法 、 至 誠心、深心、随願の五種の補助を得て、最後に止観に到達す べきもの とき 26れていた(第五助念方法)。また ﹁十声念 ﹂ といい、称と念とが常に車の両輪のように不 即不離 のものでな ければならないとしている 。 ﹃ 要集 ﹄ の後に著わされたと思われる ﹃ 観心略要集 ﹄ (九八七成立か)は、﹁観心﹂とい う書名が示すように観念の念が 一 段 と 強 調 さ れ 、 仏の相好や浄土の姿を念ずる事観﹁観念 の念仏﹂は初歩の入門であって、本来は空とか真如という抽象的な理法を観念する理法 ﹁ 法身の念仏﹂こそ習わなければならないものとしている 。 これは明らかに天台教学の 一 環としての念仏であ っ て、とても三学非器の及ぶ行ではなかったのである 。 (四) 観念念仏から口称念仏へ 法然は天台の教学から ﹃ 要集 ﹄の 念仏へと進んだが、 ﹃ 要集 ﹄ の念仏が天台教学の枠を 出るも のでない以上、理論的にも、三学非器の法然が、それによって救われることはない のである 。 しかし先の回想を読んでみても、 ﹃ 要集 ﹂ の念仏が、法然の遍歴の転機になっ たことは間違いない 。要 するに念仏によ っ て、今までに得られなか っ た身心の安らぎを党 える己証を得た、すなわち救いの実感を感得したとい っ てもよいのだと思う 。 これはどう それは同じ念仏とはいっても、念仏の内容が違 っ ていたと考えるほ ぃ 、 つ こ と で あ ろ 、 7 か 。 27一一一一一第一章 法然l人の 念仏と門Fとの出会い
かあるまい 。 法然は ﹃ 要集 ﹄ に導かれて念仏に進みながら、 実 際 に は ﹃ 要集 ﹄ の説く観念 の念仏によ っ てではなく、口称念仏によって身心の安らぐ実感を得たということであ っ た のであろう 。 ﹃ 要 集 ﹄ が先達の役割を果たしたという点では変わりはない。 このことを物語る文献は乏しいが、たとえばよく知られている黒谷時代の叡空と法然と の﹁観称優劣論争﹂は、法然が﹁称名は本願の行であるから優れている﹂と 主 張し、師の 叡空が﹁先師良忍上人も観仏が優れていると仰せられた﹂と 言 っ て 争 っ たというのである が、法然はここで明 ら かに良忍 の 念 仏 に も 、 ﹃ 要集 ﹄ の念仏にも反して、口称念仏 の 優位 を 主 張している( ﹃ 四十八巻伝 ﹄ 巻 六 ・ ﹃ 法伝全 ﹄ 二 四 ) 。 こ れ は 黒 谷時代の話であるから、 浄 土 宗 開宗(承安五年 ・ 一 一 七五)以前のことである 。 法然は黒谷時代にすでに口称念仏 に よ っ て身心の安らぎを得ていたことを物語るものであろう 。 L C ゆ その時期をいつ頃と考えるかは難しい問題であるが、 ﹃ 私緊百因縁集 ﹄ ( 一 二 五 七 ・ 法然 没後四十五年成立)という 書 物がある 。 この書物は説話集なので 学 界はあまり 注 目しない が、ここには他に見 ら れない初出の特異記事があり、しかもそれがすこ ぶ る正確と思われ る の で、私は 信 活 性 の 高 い 書 と考えている 。 そ こ に 、 三 十 三 歳の永満元年より始めて浄土教門に入り( ﹃ 法伝全 ﹂ 九八五) 。 28
と記されている。四十 三 歳の浄土宗開宗より十年も前のことである 。 このようなことから 法 然 は 、 三 十 三 歳頃、すでに口称念仏によって何らかの己証を得ていたのではないかと思 われる(拙稿﹁ ﹃ 私束百因縁集 ﹄ 研 究 ﹂ ・ ﹁ 法然仏教の研究 ﹄ 所収・知恩院浄土宗 学 研究所 刊・昭和印) 。 国 善導教 学 へ ここで法然の遍歴は次の課題に移る 。 それは口称念仏によ っ て身心の安らぐ己証を得た としても、その教 学 的裏づけは何かということである 。 法然が比叡山で 学 んだことの 一 つ は、仏教は教学と実践との二門によって成立するということであった 。 それが日本天台宗 の骨格であ っ たからである 。 となれば法然は何としてでも口称念仏によ っ て救われること の教学的裏づけを示さなければ、独断と偏狭の誘りを免れないことになる 。 それが法然に 課せられた次の課題であ っ た 。 これは容易なことではない 。 先にも引用したように﹁およそ仏教は多いとい っ ても、所 詮戒定慧の三学に過ぎない﹂というように、 三 学を保つことが仏教の基本であるというの に、その同じ仏教の中で、 三学 を保てない者が救われることを立証しようというのである 29一一一一一第一章 法然上人の念仏と門下との出会い
から不可能に近い 。 考えられる最も容易な道は、 ﹃ 要集 ﹄ がそれを説いていると立証することである 。 それ ができれば天台教学の傘の中に入るわけであるから問題はない 。 法然が盛んに ﹁ 要集 ﹂ に 言 及し、数少ない著作の中で ﹃ 詮 要 ﹄ ﹃ 料 簡 ﹄ ﹃ 略料簡 ﹄ ﹃ 釈 ﹂ という四部の 書 ま で 作 り 、 多少強引に教 学 的裏 づけを試みているのも、そのためであったといえないだろうか。たと えば﹃詮要 ﹂ に 、 ﹃ 往生要集 ﹄ の 意は、称名念仏を以て往生の至要としている( ﹃ 法 全 ﹄ 九 ) 。 と述べたり、先の回想においても、 ﹃ 要集 ﹄ の 序 文 を 引 用 し 、 序とはその書の奥旨を述べるものであり、これを見ると、この 書 が念仏に依るという ことははっきりしている( ﹁ 法伝全 ﹄ 七七 三 )。 と述べたりしている 。 しかしどう説いても、それは無理というものである 。 恵心における念仏は、本来、空と しんによ か真如とい、ァ抽象的な理法を観念する念仏であ っ たからである。結果、法然は先にも引用 し た よ う に 、 ﹃ 往生要集 ﹄ に は 、 念 仏 を す れ ば 、 百人が百人、極楽に往生できるという点について 30
は、道縛 ・ 善導の釈に譲って詳 しく述べられていない 。 と言い、また ﹃ 往生要集釈 ﹄ で も 、 恵 心 は理を尽くして述べてはいるが、往生の得否を定めるに当た っ て は 、 をもって指南としている( ﹃ 法 全 ﹄ 二 六 ) 。 と 言 わざるを得なかった 。 道紳 ・ 善導 こうして法然は ﹃ 要集 ﹄ から善導へと進んだ 。 といえば結果的に、 ﹁ 要集 ﹄ から善導へ と一つのステップを進めただけのように思えるが、善導といっても、当時、叡山でさえ 人々の口に のぼっていたわけではない。その善導に注目し、そこに教学の根拠を見いだそ うということだ け でも画期的なことと 言 わざるを得ない 。 困難な道が続いたようで、法然 は先の回想の中でこう述べている 。 こ の 宗の奥 旨を窺 っ て、善導の釈を二度もみたが、往生は難しいと思 っ た 。三 度目に 乱想の凡夫は称名の行によ っ て、往生することのできる道理を得た 。 と 。 ﹁ 乱 想の九夫﹂とは 三学 非器の者のことである 。三学 非器の者が、称名の行によ っ て 往生することのできる教学上の ﹁ 道理 ﹂ を得たというのである。それも善導の釈を 二 度 も みたが往生は難しいと思い、 三 度目に漸く道理に達することができたと回想しているので 31一一一一一第一章 法然上人の念仏と門下との出会い
ふ め フ Q 。 いかに心を労したかが分かる。 それではその﹁道理﹂とは何か。 ﹃醍醐本﹄にこういう話が載 っ ている 。 ある時(法然上人が)こう 言 われた 。 源空が九条兼実公を訪ねた時、比叡山の者が一 人来ていた(いささか惜りがあるのでその名は載せない) 。その者がこう尋ねた。 ﹁ 浄 土宗を立てられたというのは本当で す か ﹂ 32 ﹁ そ う で す ﹂ ﹁ 何 の文によって立てられたのですか ﹂ ﹁ 善導の﹃観経疏﹂ 付属 の 釈 に よ っ て で す﹂(第十八話 ﹃ 法伝全 ﹄ 七七九) 。 と 。 この話はこの後、﹁宗義を立てるのにただ 一 文によったのですか﹂と尋ねられ、法然 は微笑して何も答えなか っ た 。 彼は山に帰って法地房法印にこの話をし﹁ 言う ほどもない 人﹂のような態度をみせた 。 すると法地房は﹁法然という人は、知恵甚深で普通の人では ない。ゆめゆめ僻見をもってはいけない ﹂とさとした、と 続 い て い く 。 後半の話はともかくとして、法然はここではっきりと ﹁ 善導の﹃観経疏﹄付属の釈によ っ て浄土宗を立てた﹂と述べている 。 ﹃ 観経疏 ﹂ 付 属 の 釈 と は 、 こ こ ろ 上来定散両門の益を説くと雌も、仏の本願に望むれば、意衆生をして 一 向に専ら弥
陀の仏名を称せしむるにあり(﹁浄全﹄二 ・ 二 一 一 ) という文である。法然はこの一文によって、 ﹁ 乱 想の凡夫が称名の行によって往生するこ とのできる道理を得た﹂というのである。遍歴の終着点に到達したということである。 それではなぜこれが教学的根拠になり得たのか。これを敷桁すると、まず法然は、天台 教学が所依の経典として ﹃ 法華経 ﹄ をあげたように、浄土教の所依の経典して ﹁ 浄土三部 経 ﹄ をあげた。その中の﹃無量寿経﹂に、阿弥陀仏が衆生を救うために四十八の誓願をた て、それが成就されたということが記されている。その第十八願に、 し し ん し ん ぎ よ う もし我れ仏を得たらんに、十方の衆生、至心に信楽して我が国に生ぜんと欲し、乃 し し よ う が ︿ 至十念せんに 、もし 生ぜずば正覚を取らじ。 とある 。 すなわちすべての人が心をこめて少なくとも十念すれば極楽浄土に生まれること ができるというのである。 そしてその十念とは、十たび南無阿弥陀 仏と称えるこ とだという。なぜかといえば﹃選 択集 ﹄第三章 段にこう述べている 。 げ ぽ ん げ し よ う ﹃ 観無量寿経 ﹄ の 下品下生に﹁声を続けて十たび念じて南無阿弥陀仏と称えよ 。 仏の み名を称える功徳によ っ て 、 一 念 一 念の中に八十億劫もの長い聞の犯したまよいの罪業 33~一一一一第一章法然上人の念仏と門下との出会い
を除くことができる﹂と説かれているからである 。 これによると声は念であり、 念は声 であることは明からである( ﹃ 法全 ﹄三二 二 。 すなわち念と声は 一 つであるから、口に南無阿弥陀仏と称えることによ っ て、極楽浄土 に往生することができるというのである。しかも釈尊は、この念仏を後世に伝えるように 阿難に付属されたとして ﹃ 選択集 ﹂ 第十 二 章 段 に 、 釈尊定散の諸行を付属したまはず、唯念仏をも っ て阿難に付属したまふの文 。 という章を設け、 冒 頭 に 、 た も 観無 量寿 経に 云 はく、仏阿難に告げたまはく、汝よくこの語を持て、この 語 を持てと は、即ちこれ無 量寿 経仏 の 名を持てとなり 。 r うきょうのしょ 同 経 疏 に 云 は く 。 仏阿難に 告 げたまはく、汝よくこの語を持てより以下は、正しく か だ い じ よ う ら い 口 ょ う さ ん や ︿ 弥陀 の 名 号 を付属して、退代に流通することを明す 。 上 来 定 散 両 門 の 益 を説 く と 雄 も 、 の ぞ こ こ ろ し ゅ じ よ う 仏 の 本願に 望 むれば、意衆 生 をして 一 向に 専ら 弥陀 の 仏名を称せしむるにあり( ﹃ 法 全﹄三三 八 ) 。 たも ( ﹁ 観無 量寿 経 ﹂ には﹁釈尊は阿難にお告げにな っ て、汝よくこの 言 葉を持ち後の世ま で伝えよ 。 こ の 言 葉を伝えよとは、阿弥陀仏の名を伝えよということであ る ﹂とある 。 34
善導大師はこの一節を﹃観経疏 ﹄ で解釈してこう述べている 。 経典に ﹁ 釈尊は阿難に たも お告げになって、汝よくこの 言 葉を持て﹂とあるが、これより以下の一節は、正しく釈 尊が、阿弥陀仏の名号を授けて、遠く後の世まで伝えるように託されたということを明 らかにしているのである。 こ の ﹃ 観無量寿経 ﹄ には、心を静め仏や浄土を観ずる法(定)と、日常心のままつと める法(散)とのこ種の善根の利益を説いているけれども、もし阿弥陀仏の本願に照ら しあわせでみると、釈尊のご本意は、衆生にひたすら阿弥陀仏の名を称えさせることに あるのである。) とある 。 換 言 すれば、釈尊出世の本懐は ﹁衆生にひたすら阿弥陀仏の名を称えさせること にあるのだ﹂ということになる。これに基づいて法然は、浄土宗の正行として、 ﹃ 選択集 ﹂ 第 二章 に 、 ぎ よ う C ゅ う ぎ が ︿ ご ん 一 心に専ら弥陀の名号を念じ、行住坐臥に時節の久近を問わず 、 念々に捨てざるも し よ う 口 ょ う ご う の、これを正定の業と名づく 。 彼の仏の願に順ずるが故に( ﹃ 法 全 ﹄ コ 二 四 ) 。 ( 一 心に専ら阿弥陀仏のみ名を称え、歩んでいるときも、止ま っ ているときも、起 きているときも、寝ているときも、時間の長い短いを問わず、念々片時も称名を止め 35一一一一一第一章 法然上人の念仏と1"1ドとのm会い
ないものを往生することに決定した行、すなわち正定業と名づける 。 なぜかといえ ば、それが阿弥陀仏の本願に添うものであるからである) 。 と述べている 。 口称念仏は阿弥陀仏の本願であるから極楽往生のための正定業であるとい う 。 長い長い遍歴の結果、ついに法然は、乱想の九夫が口称念仏によ っ て極楽に往生でき る実践と教 学 とを得たのである 。 悪人が救われるなどという考えられもしないことを、法然は、何人も否定できない経典 を 原 理 と し 、 三 昧発得の人善導を先導として、 一 分の隙もなく救いの論理を構築してい っ たのである 。当 時の碩 学 もこれに対し一指も染めることができなか っ た 。 そ の 一 人である げ だ っ ぽ う U ょ う け い 解 脱 房 貞 慶 ( 一 一 五五 l 一 二 二 二 ) は 、 ﹁ 興福寺奏状 ﹄ ( 一 二
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五成立)を起 草 して、専 修念仏の停止を訴えでたが、そこには旧仏教の権威を笠に着た物 言 いはみられるが、法然 教 学 の誤りを指摘した箇所は 一 つもない 。 できなか っ たのであろう 。 先 の 二 階建家屋のたとえでいえば、法然は階段のない 二 階建に初めて階段を設けた人と い え る 。 一 階に住む庶民を含めたすべての人々が、誰にでもできる、口に南無阿弥陀仏と 称えるという易行によ っ て、誰もが願 っ ていた、後世の救いを極楽往 生 に よ っ て叶え、し かもそれが二階の仏教の心髄であるというのであるから、まさに一・ 二 階はつなが っ たの 36で あ る 。 法然の念仏 せ ん 口 ゆ 法然は、専修念仏が往生法として独立の法門であることを仏教の教学とし裏づけ、浄土 教を天台宗の寓宗から独立させた。しかもそれは釈尊の出世の本懐であると述べた 。 こ れ は仏教全体の中に、浄土教を住置づけることが主眼であって、浄土教そのものの事細かな 教学を確立するということではなかった。法然は、こと浄土教に関しては、教学の確立と いうより、実際に人々が報土に往生できることを実感して欲しか っ たものと思われる 。 そ れは法然が生涯かけて求めてきたことだからである 。 もちろん教学をなおざりにしたというのではない 。 ﹃ 選択集 ﹂ には、聖道・浄土 二 門の し よ う ぎ よ う ぞ う ぎ よ う さ ん じ ん し し ゅ 教判を初め、正行と雑行、弥陀の念願、 三 心四修 等々、今日の浄土教学の骨格となるも のが述べられ ている 。 しかしこれも 一 般仏教に対して、最低限の浄土教の骨組みを示すも のであって 、天台教 学のように精織に組み立てられた浄土教学を樹立しようというもので はなかったと思う 。 ﹃ 一 枚起請文 ﹄ に 、 たず往生極楽のためには、南無阿弥陀仏と申して、疑ひなく往生するぞとおもひとり 37一一一一一第一広 法 然│人的 念仏と門ドとの出会い
て、申すほかには別の仔細候はず 。 たずし 三 心四修なんとと申す 事の候は、みな決定し て、南無阿弥陀仏にて往生するぞとおもふうちにこもり候なり( ﹃ 法全 ﹂ 四 二 ハ ) 。 とあるように、後の浄土教学が、かまびすしく論じる三心四修などということは、法然に と っ ては﹁南無阿弥陀仏にて往生する﹂と思ううちにこめられているということになる 。 煩噴な教 学 に執らわれて、信仰の生命を損なうことのないよう戒めたものと思う 。 後に門下を 二 分したと概括される安心と起行の問題にしても、 信をば一念にむまると信じ、行をば 一 形にはげむべし 。 ということに尽きる 。 いけらば念仏の功つもり、死なば浄土へまいりなん 。 とてもかくても此身には、思ひ わづらふ事ぞなきと思ひぬれば死生ともにわづらひなし 。 これが法然の念仏であ っ た 。 それを身に心に受け止めること 。 それがすべてである 。 そ れ 以 上 論 じ る と 、 がくしよう 学 生 骨になりて、念仏ゃうしなはんずらむ (以上﹁つねに仰せられける御詞﹂ ﹃ 法 全﹄四九二五)。 ということになる 。学 者顔して、あれこれ論議していると、念仏のいのちを失 っ てしまう 38
というのである。まさに信仰の本質を突いたものというべきであろう。 門下の異義というニと しかし﹁信仰とは稀有の謂い﹂といわれるように、南無阿弥陀仏と称えれば極楽に往生 できると教えられても、それを身に心に感得することは容易なことではなか っ た 。 聖光上人(以下 ﹁ 上 人﹂略)が ﹁ 末代念仏授子印 ﹄ の﹁裏 書 ﹂ に 、 その義を知らず、その文を知らざるとも、ただ称名の行に依りて、尤も往生を得べし。 弟子(聖光自身)上人拝面の時、かくの知くこれを学び、これを習ふ。然るに近代の人 か ず 人 、 学文を先となし、その称名を物の員ともなさず。これすなはち邪義なり、無道 心 の 人なり、後世の心無きなり( ﹁ 浄 全 ﹄ 十 │ 一
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。 と記しているのも、乱暴な 言 い方をすれば、なぜ救われるか、義も知らず、文も知らない が、法然上人が念仏を申せといわれたから申すだけだ 。 それを今時の人は、理屈ばかり 言 っ て、念仏を申そうとしないのは間違いだと 言 っ ているのであろう 。 そしてみずから久留 こ う ら さ ん ︿ り や で ら 米の高良山の麓の厨寺で、 一 千日の別時念仏をしている 。 一 千日とはほぼ 三 年である 。 聖光が凡入報土の感得にいかに苦闘したかを物語っているといえよう 。 39 第一章 法 然1二人の念仏と門下との出会い親驚聖人(以下﹁聖人﹂略)は ﹃ 歎異抄 ﹄ の 回 目 頭 に 、 弥陀の 誓 願不思議にたすけられまひらせて往生をばとぐるなりと信じて、念仏まふき んとおもひたっこ、ろのおこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり 40 五 々 。 と述べている 。 弥陀の 誓 願は不思議だという 。 不思議とは人聞の思議では考えられないと いうことである 。 これは誰でもない親驚自身が不思議に思 っ ていたということである 。 そ の不思議が信じられて、念仏を申そうと思い立つ心が起こったとき、その人は救われるの だという 。 これは裏返せば、そう 信じる ことが、いかに難しいかということである 。 続く 第 二章 では、も っ とは っ き り と 、 念仏は、まことに浄土にむまる、種にてやはんべるらん、また地獄におつべき業にて やはんべるらん。惣じてもて存知せざるなり 。 と 言 っ ている 。 念仏申せば、本当に浄土に生まれられるのか、地獄に落ちるのか、全然分 からない 。 ただ﹁よきひと﹂法然上人の﹁仰せをこうむ っ て信ずるほかに、何の理由もな これらはすべて念仏往生感得のための苦闘といえよう 。 不可思議の信へ いのだ﹂という 。 の苦闘とい っ てもよい 。
聖光、親驚の 二 師についてだけ述べたが、こうした苦闘は何も両師に限ったことではな い 。 僧侶も武士も庶民もみんなそれぞれにあったものと思う 。 それも昔だけのことではな く、今もまたそうである 。 突然話を変えるが、昭和四十一年八月、知恩院浄土宗学研究所から、藤吉慈海編 ﹁ 往生 浄土の理解と表現 ﹄ という書物が刊行された。これは編者が ﹁ はしがき ﹂ に述べているよ うに﹁広い意味で浄土宗の布教伝道に従事していられる百 二 十五名の方々 ﹂ に﹁私は往生 浄土をどのように理解しているか ﹂ を中心に執筆していただき、それを取りまとめたもの である 。 その結果について編者は、 往生浄土という 一 宗の基本的な教義が、現代人に受けとられるために、 理解され、解釈され、説かれているのかと、その 実 態に驚くとともに、 体験と信仰に基づく表現の妙味にもまた心から動かされた次第である。 と述べている。 かくも多義に それぞれ念仏の 往生浄土という 一 宗 の 基 本 的 な 教 義 が 、 こ う も 多 義 に 理 解され、解釈され、説かれていることに驚いたというのである 。 結局この本には、﹁伝統 的な理解と表現に近いと思われるもの﹂として九篇、﹁伝統的な理解と表現への反省を示 一 宗を代表するような人々に 41一一一一第ーな iU~L 人の念仏と1"1FとのtH会い
すもの﹂として 三 十 一 篇が掲載された 。 法然没後七百五十年余も経過し、伝統宗乗も確立し、これを 学 び、教え、説く立場にあ る方々がこの状況である 。 私はこれを非難しようというのではない 。 これが 信 仰の常態だ 42 と 言 いたいのである 。 私はかつて鈴木大拙師から﹁念仏とは公案だ﹂と 言 われたことがあ っ た 。 その時はまこ とに臨済禅らしいとらえ方だと拝聴したが、(念仏を含めた)往生浄土という 一 宗 の基本 的教義が、こうも多義に理解されているということは、まさに公案の体得に似ていると思 わせられる 。 一人ひとりがそれぞれに体得しているからである 。 信 仰の論理からすれば、これが 当然のことだといえる。信 仰はそれぞれ個性によ っ て 受 け取られ、育くまれていく 。 とすれば土台となる 三 つ子の魂が違えば、 一 人ひとり異なる のは当たり前のことであろう 。 クローン人間ではないのであるから、全く同じ信仰などあ り得ない 。 極 言 すれば、信仰は本来 一 人 一 党なのかも知れない 。 ただその人々が、大きな む ね 方向において宗とするところを同じくしているので、互いに 一 宗 を保 っ ている 。 ということになれば、法然の弟子たちが、法然の教えをそれぞれの仕方で感得したから それは異義とはいえまい 。 公案の体得が 一 人ひとり違 っ ても異義といわないの と い っ て 、
と同じである 。 専修念仏による凡入報土ということを、人々はそれぞれ、 一 念に、多念に、 信に、行に重きをおいて受けとめたということである。いずれも法然浄土教の大きな傘の 下にあるものといえる。もしこれが異義であるというのであれば、往生浄土という 一 宗の 基本的な教義を、こうも多義に理解しているということは、みんな異義であり、分派せざ るを得ないということになろう。 そこで分派とは、こうした内的要因によるものではなく、多くは外的な、 言 っ てみれば 政治的、社会的、感情的要因などによるものと思わざるを得なくなる 。 そうした外的要素 がまず分派に走らせ、後に教 学 の相違を尤もらしく跡づける 。 そして教えの受けとり方が 違ったので分派もやむを得なかったように振る舞う 。 しかもそれが長い歴史によ っ て権威 づけられてくる 。宗 教教団の分派活動は、多くこの状況がみられる 。 宗教と宗教教団とを混同してはならない 。 両者の関係はちょうど同心円のようなもので、 中心の芯
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、すなわち創唱者の教え、たとえば釈尊の悟りであり、ここでは法然の 念仏である 。 それが宗教である 。 それを広めようと弟子たちは、教 学 を樹立し、行儀を整 え、行 事 を 確 立 し 、 寺 院を整備したりする。それが教団である 。 それらが中心の円を囲む 同心円となる 。 本来教団は宗教そのものの展開を目的としているのであるが、時の経過と 43一一一一一第一 章 法然上人の念仏と門下との出会いともに教団自身独り歩きを始め、同心円がかえって芯に到達することを妨げる壁となるこ とが多い 。 44 こうした 一 般論が、法然門下の分派についても考えられなくてはなるまい 。 そして宗教 教団が、本来の目的に純粋に向か っ ていけるようにと願わざるを得ない 。
聖
光 ・
詮空
・ 親
驚
の
生涯
と師法然
上
人との出
会
い
林 田 康 ) 1頂 聖光上人の生涯と師との出会い 我 大 師 釈 尊 は 、 ただ法然上人なり。(﹃法然上人行状絵図 ﹄ 四十六 ・ ﹃ 法 伝全 ﹄ 二 九六 頁 ) ち ん ぜ い は ペ ん な ぺ ん ち ょ う し よ う こ う 浄土宗鎮西派の祖、弁阿弁長聖光上人が法然上人 た 言葉で ある 。 聖光は、応保二年(一二ハ二)五月六日、筑前国遠賀郡香月荘楠橋邑古川館に生まれた。 父は古川禅正左衛門則茂入道順乗、母は聖養(法号)という 。 七歳にして菩提寺に入り妙 法法師に従う。九歳にして剃髪、十四歳にして宝地房証真の門人、白岩寺の唯心法師、後、 明星寺の常寂法師について天台を学ぶ。二十二歳で比叡山延暦寺東塔南谷の観叡法橋の室 (以下、﹁上人﹂略)を仰ぎ尊ばれ 4う一一一一 ー 第一 章 法 然 上 人 の 念 仏 と 門 下 と の 出 会 いに入り、後、宝地房証真法印の門に入り、天台の奥義を究めた 。 あ ぶ ら や ま 建 久 元 年 ( 一 一 九
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、 二 十 九歳の時、帰郷し、翌年には福岡の油山の 学頭 となる 。建 久 四 年 ( 一 一 九 三 )、舎弟であった三明阿闇梨が病死して、世の無常を感じたという 。 後、明星寺の 三重塔の再建 を子がけ、建久八年( 一 一 九七)に塔に奉加する本尊造立の ために上京し、仏師のもとに逗留した 。 ここで聖光は、師証真が讃じていた法然を尋ねた の で あ る 。 建久八年吉水の禅室に参ず。時に(法然)上人六十五、弁阿(聖光) 三 十六なり。ひ そかにおもはく、上人の智弁ふかしといふともなむぞわが所解にすぎむやと、こもろ みに浄土門の枢健をた、く。(同前) 天台の奥義を学び、若くして油山の学頭へと上りつめた聖光には、いささか慢心な面が あり、﹁法然の学徳など、わが師が讃え巷に流布されているほどのものではなかろう﹂と 侮 っていたようである。と ころがそうした聖光に対して法然は次のように答えた 。 上人答へての給はく、なんぢは天台の学者なれば、すべからく 三重の 念仏を分別して きかしめむ。一には摩詞止観にあかす念仏、こには往生要集にす、むる念仏、 三 に は 善導の立給へる念 仏なりとて、くはしくこれを のべ給ふ。文義広博にして、知日解深遠 46なり。昆掃のいた U きをあふぐがごとし 。 蓬誠のそこをのぞむに、たり 。 ひ つ じ よ り 、 ねの時にいたるまで、演説数魁にをよぶ。(同前) このように法然は、天台の学者であ っ た聖光に摩詞止観の念仏、往生要集の念仏、善導 の念仏と順を追 っ て懇切丁寧に浄土宗の念仏のなんたるかを伝えたのである 。 これをきくに、高峯の心やみ、渇仰の思ふかし 。 まことに九夫解脱の直路は、浄土の 一 門、念仏の要行にしかぎりけりと信解して、ながく上人に、師事て、暫も座下をさ らず 。 ひさしく 一 宗を習学して、つぶさに庭訓をうけられけり 。 ( 同 前 ) こうして聖光は法然に帰依することとな っ た 。 後、仏像の開眼供養のためにい っ たん帰国し、翌建久九年( 一 一 九八)には伊予にて念 仏を勧め、続く十年には再び上浩し法然の教えを受ける 。 そして聖光の非凡な器を見抜い た法然は、畢生の書 ﹃ 選択集 ﹄ を授けられる 。 その感激を聖光は次のように語っている 。 ここに、弟子某甲、低頭挙手し合掌恭敬して脆いて以てこれを賜わり畢んぬ 。 歓 喜 身 に余り、随喜心に留まる 。 伏して以れば報じ難く、仰いで以れば謝し難し。( ﹃ 徹選択 集 ﹄ 上巻 ・ ﹃ 浄土宗聖典 ﹄三 巻 二 八六頁) 本項回目頭に掲げた聖光の 言 葉は正にこの ﹃ 選択集 ﹄ を授けられた時に 言 われた 言 葉であ 47一一一一一第一立 法 然 上 人 の 念仏と門ドとの出会い
る。( ﹃ 法然聖人絵(弘願本) ﹂ には﹁釈尊の御説法を聴聞するがごとし﹂( ﹃ 法伝全 ﹄ 五三 一 頁)とあるが、他の諸伝にはこれに該当する言葉は見当たらないようである。ただ、そ の 言 葉の真偽よりも ﹁ 徹選択集 ﹄ に述べられた心持ちで師法然に接していたであろうこと を察することが何よりも大切であろう。) この後、聖光は元久元年( 一 二