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真宗研究24号 004藤井元了「高僧和讃二首の解釈――源空讃二首の歴史的意味について――」」

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Academic year: 2021

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高僧和讃二首の解釈

||源空讃二首の歴史的意味について|| 記者 ドコ

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ye'.[

(専修寺蔵) ③ 以下親筆本源空讃二首の解釈に就いて、歴史的背景を探り批判の資とし、親驚が何故此の二首を添加せざるを得な

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かったかその目的、意図を史実の上から探求して見たものである。 親驚は終生師源空を勢至弥陀の化仏と仰がれていた事は建仁元年︵一二

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一﹀正月五日及び同十二月廿八日 ﹁ 棄 雑 業坂本願﹂の文中や﹁恵信尼夢記﹂其他の文書で明かである。 ﹁上皇群臣﹂の上皇に就いて、後白河法皇崩御は親驚 の高僧和讃制作の頃から五・六十年も以前の事で親驚二十歳の頃だった。 従って此の上皇は後鳥羽上皇︵隠岐院︶御 一人を指して居られるのである。次に﹁承久の太上法皇﹂に就いては、御自筆で頭註に﹁後高倉院﹂とあるから問題 はない。後高倉院は後白河法皇の御孫﹁守貞﹂持明院行助法親王で後堀川帝の御父、隠岐院の御兄であられる。 ② 隠岐院御親翰について 後鳥羽院隠岐流遷間もない頃、持明院法皇に贈られた親書と考えられるが、当初に於ける後白河・隠岐・持明院各 法皇の御信仰を端的に示されている貴重な資料である。これを要約して、問題の前提としたい。 文面に﹁わが力にて世をしらせ給わん君﹂ とあるから持明院が太上法皇の尊号を贈られ、 後堀川帝帥︵歳︶の院政 の座に就かれた時の﹁君﹂即ち﹁持名院﹂を指して居られると思うからである。持明院の皇子後堀川帝は身体御不自 由で、怨霊退散祈祷の為仁慶大僧正御夫妻の許で育たれ、持明院も亦同じく中度の身体不自由だった。 君 が 太 上 法 皇 に な ら れ た の は 、 一に善根功徳を積まれ祈祷の験によったもので、我が力に他ならぬ。子孫が帝位を 継承する事は、法華経の教に従い仏道修業を積んだ、自らの徳の賜である。若し此の積善の身を悪道に使う様な事に なれば、身に留まった善根も消えていよいよ深く悪道に陥ち悲しい事である。そうなれば菩提を弔ってくれる人は誰 も居なくなるであろう。祖父後白河法皇は此の様に私に教えられた。万が一自分が世を怨み、人を憎む執情を抱えて 死ぬ様な事になれば、此の世に障をなす事もあろう。 ただ妄念を捨てて生死を出でんと、仏に誓われる様せめて遺言 高 僧 和 讃 二 首 の 解 釈

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高 僧 和 讃 二 首 の 解 釈 二 四 しておく。自分の積んだ善根、即ち東大寺大仏供養、 一切経供養、刷本の法華経、此の三つの功徳は、自分が隠岐島 流鼠の身となっても、永久に我が身に保ち続けるであろう。 こ れ を 縁 と し て 一 旦 魔 縁 ︵ 承 久 の 変 を 指 す ︶ に 沈 む と も 、 空しくはならないだろう。関白︵道家教実﹀以下の人々に私が崇りをなす等と言う事は、夢々思っては下さいますな。 と大要その様に書かれている。 ③ 源空が﹁選釈集﹂を著作された時、隠岐院は十九歳だった。その頃聖覚を招じて﹁一念義と多念義の意味﹂を尋ね られている。それは﹁法華経により生死を出ずるなり﹂と云う遺誠に対する疑問から、此の質問は出たのであろうが、 まだ御理解には若すぎる。その後間もなく栂尾の明恵を招かれ、他力と自力の問題を尋ねて居られる。政治的混迷と 宗教的闘誇のはげしい今、退位を迫られた十九歳、市も身の危険は日常の事、これ等は皆北条氏や藤原兼実の陰謀で あると考えられ、廿一歳の頃から追討の志を抱かれ、秘かに万剣の製作に専念されるのである。爾来廿年間念仏停止 の宣旨は度々下り、多くの念仏僧が流罪・死罪に葬られ、遂に承久の変となる。院四十二歳。院の二品皇子仁和寺の 道助法親王を戒師とされ落飾、法名を﹁良然﹂と云い罪名﹁左馬頭親定﹂となられ隠岐島へ流遷の身となられた。

後高倉院持明院法皇・幼名守貞親王

平家が長門壇の浦で終荒を遂げた折、兄安徳天皇制は海底に崩ぜられたが、守貞親王仰は平知盛の妻治部郷局に抱 かれて軍船にあって済われた。戦後後白河法皇の御妹﹁上西門院﹂の養子となられ、治部郷局は従前通り乳母となり 知盛の邸で育たれた。皇子後堀川帝のお生れになった頃、親子共々栗田口十楽院の仁慶僧正の宅に移られ、ここで専 心物怪の退散と病気平癒の為の御修法を行ぜられた事もある。仁慶は隠岐院護持僧慈円の資だった。 建 暦 二 年 ︵ 一 二 一二﹀三月廿六日東大寺で仁慶を戒師として落飾﹁行助法親王帥と申上げた。 此の年の一月源空は遷化、此の頃親驚

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は流罪赦免報告の為一時版洛されている。従って此の間の事情は悉さに慈円・聖覚・東一条院・藤原信実・範光等か ら聞かれた筈である。又御孫四条帝も極めて御身体がお弱くて居られた。これ等は皆死霊怨念の崇りに結びつけられ、 祈祷によってのみ此不幸から逃れられると考えられて居たのである。然るに後堀川帝帥・四条帝同何れも御若くて世 を去られた。此の御不幸は打続く飢僅・天災地変・戦禍の影響に加えて近親婚の結果だったかも知れない。 四 持 明 院 法 皇 ・ 隠 岐 院 の 廻 心 隠岐院は前掲御親翰にもあった様に、法華経により生死を出で、子孫が帝位に就くのは我が力であると一広うお考え は消えず、流遷の衝撃は大きく、身の危険に怯えられ脱出の期をねらわれていた。勿論怨霊鎮魂の修法は欠かされな かった。然し石見・出雲・隠岐の国々には平家の残党が各所に散在し、近江豪族佐々木家が地頭職にあり、源空の念 仏門信奉者の多い地方であった。又宋と交流もあり文化の程度は高かった。庶民は念仏門を奉じ信仰篤く心優しい島 国である所から、次第に﹁白内所証智﹂の境に目覚められ、諦観の世界が見え始められた。御母七条院や北白河院の 御便りもあったからであろうか、現在の流鼠の苦は弥陀の善巧法便なりと、三心転生して阿弥陀仏を念ぜられる様に なった。都から賛字阿弥陀経が送られて来たのであろう。徒然に之を書写され後世を願われていた。 ③ 丁度其の頃持明院法皇の皇子﹁道深法親王﹂が高野山に寵られた。その折隠岐院から書写の党字阿弥陀経を托され、 四十八日の逆修法要を依頼されて来た。その時偶々聖覚が高野山へ参寵され、廿四座隠岐院の為に願文を読議された。 その三日目の会座で ﹁ 我 朝 に 、 至 っ て 果 報 目 出 度 き は 隠 岐 院 、 至って果報悪き人は持明院﹂ と読まれたので、参詣者は耳を疑った。その後の説法で 高僧和讃二首の解釈 二 五

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高 僧 和 讃 二 首 の 解 釈 一 一 六 世 乱 れ て 遠 国 に 移 さ れ 、 一旦は御歎共あれど、此の歎を普知識として機悔し、我が罪業苦患を恐れ、唯一筋に後 生の一大事を心にかけて逆修も念仏もあらば、往生浄土の素懐も確かと思われ目出度いことである。持明院法皇 行助は一期御心にまかせず、楽しき御思出もなくて空しく祈躍に明け暮れて居られる。此の不幸を仏縁として、 後世の御営みもあらばたのもしかるべきに、御位のことありて今生の一時の楽しみに溺れ、後世の御勤めもなく て二世共に御果報悪き事である。今生は一日一の栄耀、後世の御勤めなくんば何の強みがあろうか と、縁起論と他力本願念仏の真意を二十日余にわたって説法された。 聖覚が高野山へ参寵したのは持明院皇妃北白河院か御母七条院の要請で登山したのではあるまいか。或は又聖覚の 説法の内容から、持明院の病状悪化の為、道深法親王に報告を依頼されたのかも知れない。その後一年余を過ぎて持 明 院 帥 は 崩 ぜ ら れ た 。 ﹁類緊大補任巻五一﹂には五月十四日持明院法皇越後国妙高山獄崩、諸国大疫発﹂と記録され て い る 。 恐らく此の説法後幾許もなく叔父﹁後高野御室﹂道法法親王や其 親驚は此の時五十歳越後巡錫中である。 ⑤ 他の側近者と此の地に移られ、親驚や宜秋門院と落合われ、本願念仏開眼の法悦の中に御往生になったのではなかろ @ うか。隠岐院の皇子雅成親王は飯沼善性一房と云い、越後に居られ、元禅林寺住の同院皇子﹁覚誉﹂は飛騨鳩ケ谷の道 場に居られ嘉念房善俊と云い、何れも親驚の弟子となって巡錫して居られる。むしろ持明院法皇は親驚或はその弟子 を頼り、妙高山巌の庵に入られたのではなかろうか。後人の研究に待ち度い。 一 方 隠 岐 院 は 行 在 所 源 福 寺 に 居 ら れ て 、 御領百姓村上助九郎︵現存﹀或は周囲の庶民と親まれ 念仏三昧の御日常 で あ っ た 事 は 、 地 方 史 家 の 認 め る 所 で あ る 。 喜禎三年三二三七︶八月頃から毎月五日と廿日に源福寺の他にも会所 を設けて﹁無常講﹂を結ばれている。 此の講式文の冠頭に﹁拠第なく法則なく、只無常を念じ、弥陀の名を称せよ。日時なく道場なく、閑居の暁の天、

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旅 宿 の 草 の 枕 、 五道六道の苦を厭うて欣ぶべきは安養の浄利、前仏後仏の聞に生れて愚むべきは弥陀の悲願也。倦ミ 以れば我等衆生の身は朽宅の如し云々﹂と相当な長文である。最後に願くは離苦の眼を得て、安楽園に往生せんと結 んで居られる。最初に掲げた御親翰と比べ、院の信楽開発の跡を窺う事が出来る。即ち此の御二方は生身の源空に版 敬されたのではなく、三心相即三身寂光の浄土に居ます源空に服されたのである。 此の御二方の廻心転生は、親驚自らの転生を語るが如く、念仏の先達として、此の方々と共に源空を讃仰され、極 め て 自 然 に 二 首 の 和 讃 と な っ て 、 ほとばしり出た法悦の記録なのである。 五 釈 門 儒 林 共 に 真 宗 を 悟 っ た こ と 禅林寺静遍僧都は醍醐寺座主﹁勝憲﹂に師事し、後に仁和寺上乗院﹁仁隆﹂に学び、小野流・広沢流両道に精通し た 碩 学 で あ る 。 平頼盛の子で妹は藤原基家︵二三二|二ご四﹀の室となり、 持明院の乳母を勤めていた。 その子 ﹁北白河院﹂は持明院の皇妃となっている。源空の弟子善恵房証空は十四歳まで静遍の資となっていた。持明院は病 悩退散祈祷を修せしめる為宣旨を以って証空を禅林寺に住せしめた。隠岐院皇子覚誉も禅林寺に居た。静遍は源空の 専修念仏の隆盛を嫉み書を著はして源空を弾劾した。所が改めて撰釈集を披見してその高説に服した時源空は彼に撰 釈集を附属した。源空寂後師の墓前に憤悔し、 それより法名を自ら心円坊︵一説に心盟一﹀と称し、高野山明遍︵二 四一!二二三己を訪い蓮華谷聖となった。明遍は聖覚の舎弟である。此の時覚誉は師と行を共にし親驚の門に入られ た事は前にも述べた。静遍の去った跡の禅林寺へは証空︵二七七

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一 二 四 七 ︶ を 住 持 さ せ 、 専 ら 念 仏 の 道 場 と 変 っ た 。 証空は久我内大臣源通親の猶子となり、母の反対をおし切って静遍を師とさせた。所が静遍が念仏門糾弾の先降と なったので、東大寺落慶供養が終った後の四月、証空を静遍の許から、源空の吉水の呑楽寺へ入室させた。証空の父 高 僧 和 讃 二 首 の 解 釈 二 七

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高僧和讃二首の解釈 二 八 は藤原親季入道で法名を証玄と云った。そこで父の法名の証をとり源空の空をもらって﹁証空﹂と言った。証空の諮問 導教学は誠に深い。又禅林寺系譜第十一世に﹁源空﹂と記録されている。此の時源空は既に寂している為、これは静 遍が添加したもので、自らは第十二世に、証空は第十三世となっている。此の事は静遍の源空に対する篤い遺徳顕彰 讃 仰 の 現 わ れ で あ ろ う 。 . 』− J

承明門院と北白河院の場合 承明門院源在子は内大臣久我通親の女で、隠岐院准コ一后にあがった才援である。 ﹁五代帝王物語﹂は院の御本性に ついて﹁土御門帝の御母にて、極めて御心はやくて聖覚法印説教をば、そらにて聞き覚え給う程の上根の人にておわ しませば云々﹂とあり、源空の教学にも通じた頭脳明噺を以てうたわれた方である。父通親も前章の通り当時摂政を しのぐ有力者で財的にも豊かであった。此の時に帝位にあられた四条帝は、後堀川帝と藻壁門院の御子で、持明院法 皇 の 御 孫 に 当 ら れ る 。 四条帝も御父後堀川帝と閉じ様に御身体は一鳳弱で、十七歳で崩御になるのだが、その頃の事で あろう。承明門院は﹁もしゃなど様々にお祈りし給う﹂と増鏡コ二神の山﹂で述べている。これは若しゃ四条帝崩に なれば御孫﹁邦仁親王﹂が帝位に選ばれる様にと、早くから各所の神仏に祈願をこめられていた事を述べたものであ る。処がその通り四条帝は仁治三年︵一二四二︶正月九日に崩でられた。 邦 仁 親 王 は 十 九 日 践 件 、 廿三歳で後嵯峨天 皇となられ盛大な大嘗会が行われた。 承明門院はこれぞ全く神仏の加持力、祈祷の功能と悦ばれ、すっかりこの事に心を奪われ、聖覚の説法等忘れられ た。頭脳明敏な理智にたけた院は、父能円の血を享け、自分が皇妃に昇り得たのも父の加持修法の功力と、深く信じ たのである。尼となった四十一歳までの念仏信仰は何であったのだろう。爾来三十年数々の信仰体験を味われ七十一

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歳の今日、御孫の帝位獲得の執情にひかれ遂に翻信された。 正嘉元年三二五七﹀八十七嘉までひたすら修法祈祷に 専念されたのである。親驚は此の時八十五歳在京中で著述に専念されていた。そして四条帝・御父後堀川帝崩御藻壁 門院嘉去の模様も悉に御承知の筈である。 北白河院平陳子は先の通り平頼盛の女で、親子共に持明院宰相乳母であった。院は衆望を担って持明院の皇妃にあ がり後堀川帝を儲けたのである。御孫は四条帝。前章の静遍は母の弟である。その柔軟な慈悲深い御一生は古風な日 本女性の典型とも云える。勿論境遇の関係もあろう。持明院崩帥の時院は五十一歳、御子後堀川帝崩帥の時は六十二 歳 だ っ た 。 或 時 或 女 房 が 、 ﹁持明院を送られて十年余、今又御子を送り終られて、 ホッと重荷はおりましたね。心安 まる日とではなく﹂と悔みともつかぬ挨拶を受けた時、院は自分にとって御二方は善知識であった。噴勅以来弥陀コ一 尊を悩ませて来た我が姿であった事を陶々と語り、御孫後堀川帝の迷いのままの往生の為、菩提の念仏に明け暮れて おられ、御歳六十六歳で亮ぜられた。曽孫四条帝葬送に遭われなかった事はせめてもの御慰めである。 持明院との聞に産れられた式乾門院は藻壁門院嘉後四条帝の准母になられた。善導教学の深奥を極められた実践面 に高く評価される著書が残っている。又北白河院が証空を招じて五種増上縁及観経の三心、往生の業と撰釈本願念仏 に関する質疑応答の丈は、何れも﹁女院御記上・下巻﹂に納められている。此の頃の宮廷内女性の教学的研究は、命 にかけて求めんとする信仰体験から求められたものだけに、貴重な資料である。同時に親驚や法然其他碩学の書も同 様 な 事 が 言 え る で あ ろ う 。

七後堀川帝と皇妃藻壁門院

藻壁門院は関白藤原道家︵峰殿︶の愛娘である。後堀川帝廿一歳、 院は廿二歳で中宮にあがった。道家は後堀川帝 高 僧 和 讃 二 首 の 解 釈 二 九

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高僧和讃二首の解釈

の御身の不幸は流震の隠岐院の崇りであり、平家死霊の致すところ、如何なる犠牲も鎮魂の為に惜しむべきではない と考えた。実母橘厳子は陰陽宿躍を司る橘家、澄清の娘であり、 又参議菅原為長卿は宿曜ト盆の家系で、士御門、順 徳・後堀川・四条・後嵯峨五代の待読を勤めている。道家がひどく宿曜方位を気にし、祭祈ト占・修法を重んじたの も、此の方々の影響だったのだろう。気弱な御本性であった様である。 で当時最も美人才媛と詠われた娘の増子が卜 占によって中宮に選ばれた。藻壁門院乃び樽子の御名前も厳密な占によって決した。帝は仁慶によって真剣な祈轄を 続けたが、平癒は考えられなかった。続く一二年ばかりの天災飢僅、宗教戦争は何時果てるとも知れない。 ﹁ 天 の 戒 ﹂ だと陰陽師は宮廷内に強く謹慎を命じた。藻壁門院は精神的苦悩に加え、病床勝となり物怪に怯える日が多くなった。 帝も皇妃がいとほしく、晴れやかな日も少い。御子四条帝が三歳、院は二人目懐妊。此度こそ御健康な皇子誕生を願 い、山々寺々鰐側ぃ等目出度く世間は騒いだ。元号も卜盆により﹁天福﹂と改まった。 ︿ す し 九月中旬残暑厳しい清涼殿内で突如産気付かれた。取り敢えず畳を昇風で囲い、祈轄師、陰陽師、薬師を招かれた。 産婦の苦悩は昼夜を分たず遂に悶死された。御年廿五歳。苦悶の叫びに加え狂的な祈龍師の読経、道家の外聞も樟ら ない号泣、女房等の叫びの中で混乱した。院の御命日について明月記には九月廿目、増鏡・皇胤録では十八日、他の 資料では廿三日とまちまちなのは院の苦悶と宿曜師の卜占判断等により決せられたものであろう。後堀川院は﹁御修 法もこちたくて﹂と御食事も採られる日が少く、遂に翌年八月五日皇妃藻壁門院の一周忌を待たずして跡を追われた。 定家の娘﹁民部郷典侍﹂は父の諌も聞かず落飾、前項の承明門院はどの様に考えた事であろう。それより七ヶ月後仲 恭廃帝伺も跡を追われた。廃帝の御母東一条院は草深い九条の里邸に居住、専ら専修念仏行者として噂敬されて居ら れたが、道家は再三再四仲恭の為の祈轄を奨めたが決してお聞き入れにならなかった。 藤原教雅入道﹁弥阿﹂は藻壁門院の御臨終を悉に知って、祈祷僧や神官を暴言罵倒し、その後宮廷内の女房を多数

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集め、今回の修法の非を述べ出産の自然を説き不安感を去る様説得した。その廉で仲恭帝葬儀の後七月十日流罪追放。 定家は﹁明月記﹂に教雅の流罪の事に触れ ﹁是又傾城等之所為敗﹂と男女醜聞関係によって流刑された様に記して いる。娘民部郷典侍の出家に反対した事も、彼が念仏僧を感情的にきらって居た証左である。

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四条帝崩御の模様 四条帝崩伺は仁治三年ハ一二四二︶正月九日である。実、気は厳しく六日御不例と伝えられた。当時最高の碩学良尊・ 一房能・清厳等が祈龍僧として侍った。父後堀川帝は九年前、母藻壁門院は十年前に、祖父持明院も、祖母北白河院も 世を去ってしまわれた。九条家で残っているものは道家と東一条院只二人となった。二十二社に奉幣の使が立てられ、 良尊・道家を初め昼夜を分たず祈蕗修法を続けた。然しその甲斐もなく遂に九日午後四時御往生遊ばされた。 十九日御入棺・廿九日葬送、その間中十九日間も遺骸を安置したまま、死後も引続いて怨霊退散鎮魂の為、祈一瞬修 法が続けられた。気の狂う女官も出て来たであろう。 ﹁四条帝葬送記﹂や﹁古今著聞集﹂に詳しい。従って葬列の行 程、時間、人の行動等、総て宿曜師の占によって規制され、東に或は南に北にと面倒な廻り道を選んで月輪までおい でになった。その事は又占師の示す通り行動しなければ、自身にふりかかる物怪死霊も恐しい。それだけではない、 自ら蓄蔵し又蓄蔵すべき功徳が、修法を疎かにする心と行動によって、消滅してしまうと信じられていたからである。 此の葬送の記録こそ当時の聖道自力の典型的行事と言えるだろう。 明けて翌寛元元年佐渡院第一皇女明義門院仰は佐渡で、士御門帝皇妃陰明門院側は共に阿弥陀仏の御手にかかる五 色の紐を手に握り、念仏の声に送られて御往生になった。此の時親驚は七十一歳、高僧和讃草稿を完成された時であ る。之等宮廷或は庶民の信仰の迷妄を見るに耐えず﹁悲歎述懐和讃﹂をものされたのではなかろうか。 高僧和讃二首の解釈

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高僧和讃二首の解釈

結 び 源空が遷化されて約三十年、此の間漸く和讃の草稿が出来、完成まで尚五ヶ年の推稿を重ねられている。これ等官 廷内外及一般社会に頻発した宗教信仰にまつわる多くの悲劇や惨事を、親驚は刻明に見て来た。そしてこれ等の事件 を契機として、多くの碩学が命にかけて教学研究に打ち込んだ最も重要な三十年だった。源空・親驚等傘下の学生達 によって真宗教学の基礎を実践の上に確立し、念仏信仰が定着したのは此の時ではなかろうか。 親驚は源空の導きによって此の法悦を得た様に、隠岐院・持明院も念仏転生の悦びを得られた。此の悦びを御二方 と共に悦び、後世に残さねば居れない親鷺の大慈悲が、此の二首の和讃であると受取らねばならぬと思うのである。 ① 註 昭 和 二 年 七 月 一 日 ﹁ 一 一 一 帖 和 讃 講 義 ﹂ 大 谷 派 教 学 会 編 昭和四十一年十月コニ帖和讃の意釈と解説﹂高木昭良 昭 和 五 十 年 五 月 ﹁ 親 驚 全 集 ﹂ 五 巻 一 一 一 一 一 頁 ﹁ 扶 桑 拾 葉 集 ﹂ ﹁ 後 鳥 羽 上 皇 と 隠 岐 島 ﹂ 隠 岐 上 皇 顕 彰 会 ﹁ 古 今 著 聞 集 ﹂ ⑤ ④ ﹁ 沙 石 集 ﹂ 拙稿﹁印度学仏教学研究﹂四五巻 四七巻三六九頁 ﹁ 飛 塑 角 山 史 ﹂ 史 跡 編 纂 会 仁和寺蔵建長元年七月十二日於雲林院書写畢 一 七 八 頁 ③ ② ⑦ ⑥

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