(毎月1固25日発行)ISSN 0919 4制3
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2004
こベる刊行会NO. 1
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インタビュー:私の存在証明=アイデンティティー一石原成子さんに聞く① 生き方を選ぶ 石原成子+藤田敬一 ある光景① 学級崩壊 高田嘉敬 ひろば⑩市民としての感覚から
石原英雄 四日市から①「楽しい子ども時代をありがとう
」
坂倉加代子
阻 園 田 園 私 の 存 在 証 明 H アイデンティティー石原牢さんに聞く①
生
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石原成子+藤田敬一
力があまってしまって 藤田敬一石原さんと出会ってもう何年になりますか。 石原成子ダンナが部落問題全国交流会の事務局に加わ ったのがきっかけでしたから。 藤田そうでしたね。まだ一O
年あまりということかな。 ずいぶん以前にお会いしたという印象だけど。あなたが たご夫婦と知り合い、あなたの話をじかに聞くにつけ、 ぜひインタビューをしたいと思っていたんです。それは、 いわゆる﹁部落出身者﹂のライフストーリーをたどりた いからではなくて。あなたという人の、人としての生き 方に関心をもったというか。去年の交流会にお招きした いとも考えたんですが、実現できませんでした。それな ら で ﹂ ぺ る ﹄ でということになったわけ。 石原さんはいまどんな仕事をしているんですか。 石原基本はタウン誌の編集です。 藤田あれ、何という名前でしたかね。 石 原 ﹁ 京 都 叶 宮 司E
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﹂ 0 創刊して約二O
年、隔月発 行で年六回出しています。私はその編集担当です。その こぺる ほかに、もともとコピーライターなのでパンフレットな どのコピl
ライティングをやっています。会社案内や料 1石原成子さん 亭のしおりなど。 藤田どんな経緯だったんですか 。 石原高校を出てすぐ京都府の外郭団体に就職。六年く らい働きました。 藤 田 八 木 町 で 。 右 原 いえ、京都駅の近くです。 一時間くらいかけて八 木から通っていました。収入は安定しているし、仕事は 楽なんですけど、自分の能力が磨かれないというか。信 用基金協会と言って、農業者が
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︵ 農 協 ︶ か ら 融 資 を 受ける時、債務保証をする機関です。融資金額に対して 保証料を徴収するのが業務ですからどこの誰がどれだけ の金額を何回分割で返済するかというような倒別の管理 カードをつくるのが仕事。データを入力すれば機械が勝 手に計算して表を作成してくれる。そのうち自分の能力 があまってしま、つんです。そうなると事務をコツコツや るのには飽きてしまって。だから邦文ライターをれちな がら、デl
タ入力をするようになりました。謀長が﹁あ ん た 、 オモロイことするなあ﹂と言うて。︵笑い︶入力 している聞に邦文ライター。倍速で仕事をするタチゃっ , − d 丹 、 、 ↑ φ’ 。
+/,J 守 也 、 専門技術をもって生きたい石
原 一一二歳くらいのとき、親は結婚をすすめた。何も 専門的な技術を持たないで結婚するのはしんどい。家事 と子育てだけで人生が終わるのはつらいなあと思ったん です。美術が好きで六年間、勤めている問に武蔵野美術 大学の通信教育で勉強をはじめたんですけど、ダメでし た。仕事とは両立しなくて。信用基金協会を退職し、アート関係の仕事をしたくて、 コピーライターの詩厳に 前 期 と 後 期 、 一年間行ったんです。その後、ある企副会 社の出向社員として働いていた友人のかわりに、高鳥居 の宣伝部にコピーライターとして入りました。雑用つぽ い出前コピーライターです。新聞広告や折込チラシの売 り出しのキャッチフレーズを撤回くんです。勉強になるか らと入れてもらい、そこで二年くらいいて、次に企画会 社に入り、着物づくりや販売などの企画を担当する仕事 とかして場所を変わりながらやっていました。 藤田自分は何をしたいのか探していたわけですな。 藤回敬ーさん 石原働き、だしてから、これはおかしいと思うようにな りました。﹁大学に行ったら嫁にいけへん﹂と言われて ました。そうでなくても嫁に行きにくい性格しているの に。自分にしたら不完全燃焼で就職しているという感じ。 そのころね、雑誌 ﹃ クロワッサン﹄が創刊され、﹁未婚 の母﹂で知られる作家の桐島洋子とかが出てきた時代な んです。これからの女性は技術を持って牛・きていかなく っちゃ、自分もそうしなくっちゃと思っているのに、親 は﹁嫁に行け、嫁に行け﹂と 。 嫁に行ったら苦労するだ けじゃないですか。﹁自分の人生、好きにさせてくれへ ん か ﹂ と 。 ︵ 笑 い ︶ 藤田大学へ進むとか、自分のやりたいことをやろうと しでも親の壁があるわね。あなたはそれを突破しようと 石原突破できる力は持ってたんですけどね。 藤田何人きょうだいですか。
石
原 二人きょうだいの一番上です。壁は突破できるん こベる だけど、親がかわいそうだし、対外的なこともあるし、 変なことをしたら、まわりから何のかんのと言われそう 3だし。六年間働いたあとは何をやっても自由。それまで は 親 の 言 、 つ 通 り ﹁ ぶ り つ 子 ﹂ し て お こ う か な と 。 ︵ 笑 い ︶ それ以後は自分の好きなようにと自分で線を引いてたん で す 。 仕事はありませんか 藤 田 高島屋のコピーライトの仕事が転機ということに な り ま す か 。 石原養成講座に行ったのが転機ですね。 一 大 決 心 し て 。 河合玲デザイン研究所に養成講座があったんです。そこ に行ったというのがまた面白いんですよ。背伸びしたら 何でもできそうだと。︵笑い︶自分の能力に自信がもて た り し て 。 高島屋でコピーライターをしていたときはもう結婚し ていました。結婚して三年目くらいに上の子どもが生ま れました。子育てしながら働けるところはないかと思つ て。北山に企画デザイン事務所があり、そこで着物と帯 の企画デザインを手伝ってたんです。子どもが=一人にな ってやめましたが。次にまた近くの会社に売り込みにい っ て 就 職 し た ん で す 。 藤田募集もしてないところへ売り込むんですか。 石 原 ﹁私、着物の企画をしてました﹂と電話して、﹁話 だけでもいいですから聞いてもらえますか﹂ 0 コ ピ
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ラ イタ!というのはそういうものなんです。﹁仕事ありま せんか﹂と電話をかけるんです。デザイン事務所にも電 話したんですけど、仕事をくれるところはないので、企 業 が い い か な 、 近い方がいいなと。和菓子の包装紙、パ ツ ケl
ジをつくる会社なんです。小京都と呼ばれる松江 は松平不味ゆかりの茶湯の盛んなところです。和菓子に 添えるしおりをコピーライトして﹁昔はこういういわれ があって﹂と書いて﹁こんなすばらしい歴史がありま す﹂とか書いていったら喜ばれたんですよ。最初、営業 で入ったんですけど、﹁企画室のデザインが通らへんか ら一回やってくれへんか﹂と言われてやってあげたら、 営業担当から﹁通った﹂と。仕事がボンボン決まってい く。﹁どうしてそんな案がでてくるの﹂と聞かれて、﹁私 ならこんなデザインやったら買う気になるわ﹂と。買う人の側をイメージしてパッケージつくったりしてました。 バブルの崩壊後、お中元、お歳暮のギフトは高級なもの から和菓子に移行したので、和菓子の詰め合わせなど私 の仕事も増えたんです。それも不況が続くとだんだんだ め に な っ て 、 ついに給料が払えないと最初に首をきられ てしまいました。それからタウン誌をやっているんです。 藤田タウン誌も売り込みですか。 石原そうです。﹁コピーライターをやっていて、 ノT ツ ケージもやってますけど、何かやらしてください﹂と売 り 込 ん だ の で す 。 藤田ああ、このバイタリティ。︵笑い︶ 石原そのときは必死ゃったんですね。落ち込むときも あるけど、何とか収入をと。このままでは折角やってき たことが無駄になると思って。 藤田石原英雄さんと結婚して主婦として家にいたって 不思議ではないですよね。 石原賛沢しなければね。うちのダンナも﹁君、仕事や るべきやで。何のために勉強してきたんや﹂と言います から。言うばかりで努力するのは私で﹁子育てはどうす るの﹂というのはありましたけど。︵笑い︶ 藤田子どもさんが三人。おばあちゃんがおられるわけ ゃないから大変だったでしょう。 石 原 ﹁今日、ちょっと遅くなるし、保育園に迎えに行 ってくれる﹂とダンナに連絡とろうとしてもうまくいか ないときは、園の管理人の方にあずかつてもらったこと もあります。﹁お父さんも、お母さんもお迎えにこない﹂ と泣いたりしてたらしいです。そこのお兄ちゃんとかお 姉ちゃんに遊んでもらって、晩ご飯まで御馳走になった りしてというのが何回かありましたね。 タウン誌の編集にかかわる 藤田タウン誌の編集をやるようになって何年ですか。 石原八年です。広告まわりからはじめて、取材して、 記事を書いて。今回、リニュ
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アルなので自分で一から ゃったんですけど。タウン誌はできあがったら、こんな もんかということですけど、デスクワ1
クはじめ膨大な こぺる 時 間 が か か り ま す 。 5藤 田 京都にはタウン誌がいろいろあるようですが、伏 見という土地柄を感じることはありませんか。 石原あります。伏見というのは京都の町とは違、つんで す。秀吉の城下町で、昭和初期、伏見市になって、それ から京都市と合併する。合併のときも、あとから合併し たので、行政的にはほっとかれるんですね。力があるか ら、ほっとかれてきたんだと思、つんですけど。京都の町 の人は伏見は京都ではない、洛外だと言います。観光 コースでも伏見稲荷から南は入らなかった。そういうマ マ子にされてきた。誇りを持っているのに、すばらしい 町だと思っているのに、京都の町の人は認めないという ︶とがあったので。それで立ち上げた人がいるんです。 そういう志を継げたらいいなと思っています。 藤田岐阜県にも飛騨の高山とか郡上八幡、大垣など、 そこがひとつの世界として残っているところがあります。 旦那衆だけではなくて、目に見えない力がいまでもある んやね。伏見もそうゃないですか。 石 原 ええ。今は高齢になられたり、亡くなられたりし てますけど、自分たちの町は自分たちの力でつくってい くんだという気構えを持った旦那衆がおられたようです。 藤 田 単なる店の紹介じゃなくて、町そのものの紹介と いう感じのタウン誌づくり。 石原そして町の歴史。皆さんが持っているプライドを 取材すると喜んでいただけるんですね。最初、私もわか らなかったんですけど、料理屋のご主人が伏見のご出身 であることを誇りにされる。自分の生まれた町で、プラ イドをもって商売をされているなとわかってくるわけで す。それがこの人たちが大事にしているものなんだなと。 藤田そのとき、あなたが伏見の出身でないということ はどうなんでしょ、問題になりませんか。 石原関係ないみたいです。というよりは、伏見生まれ だと思っている方もあるのでは:・。伏見の出身でないこ とは多分ネックにはなると思う。﹁あとから来たよそも んが﹂という。でも私、伏見の人より伏見のこと、
ょ
く 知ってるんです。そのことについては一目置かれるよう になりました。質問内容に対して、この件なら誰に開け ばいちばん詳しくて正確な情報なのかを知っている、わ かるようになったから。犬の名前とか猫の名前まで知つている人がおられるんです。︵笑い︶伏見の出身である とかないとかは関係なくなってくるんです。 藤 田 これからもタウン誌をやっていきたいと考えてい ま す か 。 石 原 ﹂れまで原稿を書いたりしてきたんですけど、ち ょっと離れてたとえば気楽に相談できる便利な人という 感じでやれたらいいなと思っているんです。 藤田あなたは、日々充実しているわけだ。 石 原 これまではしんどかったですから、これから楽し も う か な と 。 藤田タウン誌を含めて、これからどうやっていくか、 アイディアがありそうですね。 石 原 いろいろ面白い話もあって。ショップを持ってみ ないかとか。公称二万八千部と言ってるけど不況で広告 収入も激減して採算はとれていません。パンフレットづ くりなどの収入を補填してあの雑誌は出せている。 藤田あなたのほかにスタッフは。 石原外部スタッフでデザインする人がいたり、カメラ マ ン が い た り 、 コピーライターがいたり。広告営業で収 益を上げればギャラを払えるのでビジネスペースに持つ ていくようにしたいんです。これまでは発行するだけで 精一杯でしたが、もっときちっとしたものをつくりたい なと。どこもタウン誌は採算がとれず廃刊しているとこ ろが多いですね。でも、昨日も﹁私は伏見生まれです。 懐かしいので友だちからもらっていたけど、これからは 年間購読するわ﹂と電話がありました。 フ ァ ン ・ も い る ん で す 。 ︵ つ づ く ︶ こぺる 7
ある光景①
学級崩壊
高田嘉敬︵福祉施設職員︶ 下の息子が小学校六年になった四年前の四月。 い き や し 、 あ か ん わ 。 ﹂ ﹁今度のセンセな、説教が長いねん。それにえこひ ﹁まあ、そういわんと。ええとこあるかもしれへんょ 。 ﹂
彼が担任の悪口をいうのは珍しいので、これはと思っ た 。 ど ん な 子 ど も も 、 い か を 見 抜 く も の だ 。 秋 に な っ て 、 一瞬で魅力のある大人かそうでな ね ん 。 ﹁もう僕切れたわ。センセのいうこときいたらへん いうこと聞きそうな子だけ、当てるんやもん。 み ん な 聞 い て へ ん の に 。 ﹂ ﹁ う ー ん 。 セ ン セ は ピ ン ト が ず れ て る ん や な あ 。 ﹂ ずんずん悪くなっている学級の雰囲気は伝わってきた が、まあ、あと半年のしんぼうやし、と軽く考えていた。 一O
月、緊急クラス会の通知が届く。 いつもなら連れ 合いが出席するのだが、その日はあいにく夜勤。指定さ れた夕方、初めて息子のクラスに入る。私と校長以外は 全部女性。お母さんたちの集団の中でよけいに緊張する。 しかし、息子のクラスが正真正銘の学級崩壊の真っ只中 にあることは、すぐに理解できた。どうしてここまで放 っ て お か れ た の か 。 司 会 のPTA
役員の挨拶で始まった。 ﹁皆さんご存じだと思いますが、今この学級は落ち 着いて授業ができない状態です。本日お集まりいた だいたのは、現状をご理解いただき、卒業まで残り わずかですが、よりよい学校生活が送れるようにい っ し ょ に 話 し 合 う 場 を 持 ち た い と 考 え ま し た 。 : ・ ﹂よく見ると、担任は痛々しいほど沈んだ表情で、 ベスの治療に専念しなければならなかったほど追い詰め られた五
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代中ごろのベテラン教員。オドオドして、親 たちの質問にまともに答えられない。教室のカーテンが 破れていることも、天井に穴があいていることも︵実態 を親にみてもらうためにわざと放置してあったのだそう A _ jレ な︶、授業が成り立たないこともすべて個性的なこども のせい。私は一所懸命教えているのに、応えてくれない ﹁わがままな﹂子どもたち。自己弁護ばかりがむなしく 響き、説得力はない。なんといっても、自分の力不足を 認めない。何年も今までどおりの同じやり方でうまくや ってこれたのにという戸惑いばかりが、口に出る。子ど もたちとすれ違っている実感が持てない。クラスの子ど もたちと心が通わなくなった原因を自分の中に求めない。 一所懸命さだけを強調して、結果について責任をとろう としない。私は、聞いた口がふさがらなかった。 緊張したやりとりは続いたものの、責める親たちと言 い訳に終始する学校関係者の対立は深まるばかりで、出 口がいっこうに見えてこない。あまりじれったくなって、 発 言 し た 。 ﹁今日はじめて教室に入りました。お話を聞いてい て驚いています。しかし、ここまで来ちゃったんで すから、前に進むことだけを考えてはどうでしょう。 担任の先生にも学校にも不満や申し上げたいことは 本当にいっぱいありますが、今は、子どもたちが元 気になることが一番大切です。楽しい思い出を残せ みんなで元気 るように。そこで、まあ突然ですが、 が出るように、おむすびパーティーしませんか。 番困っているのは子どもたちなんだから、親がみん な集まって心配していることを伝えましょう。誰か を責めるのではなくて、元気が出ることならなんで もあり、です。限られた時間の中で私たちができる ﹂ と を 一 緒 に 探 し ま せ ん か 。 ﹂ 私の提案は、どうどう巡りの議論に飽いたお母さんた ちに支持されて、実現した。 おむすびパーティーのルl
ルは、①食材︵ご飯とのり などなんでも︶は持ち寄り、②子どもが作る、③親は見 ている、④みんなで食べる!というもの。 おまけに、﹃はせがわくんきらいや﹄︵K
.
K
ブツキン こぺる 9グ︶を私が読んだ。家庭科室で土曜のお昼ご飯を一緒に という次第に相成ったのだが、親同土が出会う場がもて たことと、学級を見守る人たちのメッセージがそれなり に伝わったことが、収穫でした。 おむすびパーティーの後すぐ、私は親の一人として、 学校側︵対応したのは校長と教頭︶に四つの提案をした。 ①隔週土曜日の午前中︵つまり私の勤務の空き時間 に︶、なんでもありの時間をつくる。弟妹も一緒に 来ていい。宿題も塾の勉強も質問もなんでもあり。 その後でお楽しみ ︵パソコン使いたい放題、イン タ イ ム あ り 。 ︵ あ と で 、 ﹁ キ ツ タ
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ネ ッ ト で 探 検 も ︶ ズステーション﹂と名付けた。︶学校に親が運営す る楽しい居場所ができることが目的。 ②みんなで見守り参観をする。親が仕事の合聞にそっ と授業参観などの学校探検をする。授業を監視する た め で は な く て 、 メッセージを送ることが目的。 ③教育委員会に問題提起。指導主事に授業を見てもら って教育委員会から現状を説明してもらう。何が問 題なのか、どこが足りないのか、すれ違っている原 因は何なのか、具体的に説明してもらう。 ④担任をいまさら責めるつもりはないが、責任の所在 と信頼を取り戻す自助努力とを、具体的にわかるよ う に 示 し て ほ し い 。 校 長 は 、O
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教室などの使用を即座に承知してくれた。 担任をすぐに代えろ!という親の怒声が日々出てくる ほどの事態に、なんとか現状を打開したいという願いは、 共有できたのだと思う。 二、三人でもいいかと思つてはじめた﹃キッズ﹄だっ たが、好奇心剥き出しの子どもたちが、ゾロゾロ来てく れ た 。 ﹁ お っ ち ゃ ん 、 ほんまに終わったらパソコンさして く れ る ん や ろ な ! ﹂ ﹁ え え よ 。 でもせっかくゃから、 やりたいことなん で も え え か ら 持 つ と い で 。 ﹂ クラスの三分の一弱の子どもたちが参加してく れた。スーパーのレジ打ちのパl
トの合間を縫って駆け つけてくれたお母さんもいた。地球ゴマをまわしたり、 結 局 、絵本を紹介したりしたが、空振りはもちろん多かった。 なにせ、﹃キツズ﹄はなんでもありだったから。ただ、 親が学校で私塾まがいのことをするのだから、子どもた ちにもくすぐったい体験だったようだつた。 発見はいくつかある。 まず、親たちがしょっちゅう学校に出入りすると、新 しい風が吹くようで、子どもにとっても心地よいし、教 員たちにとっても教職の原点を見つめなおすきっかけに な っ た と 思 う 。 しかし、教育のプロと呼ばれる人たちの立ち振る舞い ︵責任のとり方︶は、申し訳ないけれども、絶望的だ。 まず、対人サービス業をしているという自覚に乏しい。 なにより知的感性のしなやかさが全くといってよいほど 感じられない。この人たちは基礎的な素養に欠けるので はないかと疑わずにはおれなかった。教員自身が知的探 求を怠っていて、子どもたちにそれを求めるのは、道義 にもとるというもの。 やはりというべきか、最後まで、担任は子どもたちと 心が通わず、信頼関係のなくなった原因が理解できなか った様子だった。しかし、それはそんなにむつかしいこ とだろうか。子どもたちに学習課題を強いる前に、担任 自身が仕事の本質︵知的探求のプロセスの楽しさを伝え つ ま ず る仕事 H 教職︶を実感できていなかったことが、蹟きの 石だったはず。教師の権威とカタチさえあれば、子ども たちがしぶしぶついてきた時代ではなくなっただけのこ と で あ る 。 真剣勝負の緊張感の中で、人の心は動かされる。これ には大人も子どもも違いはない。 息子が﹁いややなあ﹂と言いながら、何かと気にかけ て﹃キツズステーション﹂に付き合ってくれたのには、 こればかりは親ぱかだが、 や は り う れ し か っ た 。 こベる 11
ひろば⑩
市民としての感覚から
石原英雄︵京都市在住︶ 部落問題全国交流会は昨年で二O
回を数え、僕は、そ の半分以上に出席した。それによって僕の得たものは大 きい。部落問題全国交流会は、僕にとって何であるのだ ろう。出席しはじめた頃、交流会が散会し、夜を徹して 論議した後の疲れきった体で、乾いた夏の日の暑い真昼 の太陽が照りつける七条通りをひとりで京都駅に向かっ て歩いたときの充実感が忘れられない。そしてまた、会 場となった本願寺門徒会館の前を通るとき、また今年も 懐かしい再会、新しい出会いがあるにちがいないという 期待で心を踊らせていた。その思いとは何だったのだろ 、 っ か 。 名の通った指導者がいた。各地の活動家がいた。本で しか知らない研究者がいた。目を見開くような理論を展 開する人がいた。その人達と直接に話をすることができ た。そして、僕の考えを、僕の言葉で話すことができた。 一人ひとりが、素直に背伸びをせずに出会うことができ る雰囲気であった。誰もが、互いを今の姿で認め合うと いう場ができていた。その場の中で僕は、各地のたくさ んの人と出会うことができた。大切な友人ができた。ま た、この場でしかお会いできない人もいる。でもそれで 良い。なぜなら、この場でしか得られない、一言葉では表 現できない希望と心の広がりをもつことができたからで あ る 。 横井清さんの﹁誕生から葬送へ﹂という講演が﹃部落 史を読む﹂︵阿昨社、一九九八年刊︶に収録されている。 この講演は、部落問題についてこんなにしなやかな論議 ができるのだということを教えてくれた。一五年も前の 講演であるが、今読み返しても新鮮な感動を覚える。そ の爽やかさはどこから来るのだろうか。例えば、講演の 中で﹁赤ん坊は、なぜ赤ん坊か﹂についての説明がある。 その前に﹁だから、赤ん坊は異界から来る﹂とある。こ の﹁だから﹂で、論理が跳躍したと僕は思う。こうした 跳躍こそが素晴らしく僕を感動させるのではなかろうか。 こうした自由さと爽やかさこそが、部落問題についての 論議の閉塞感を撃ち続けてきたのではなかろうか。失礼 を省みずに、ひとつの事例にさせてもらった。収録に当 たっての﹁補説﹂に﹁講演当日の交流会に参集された皆様が私に、胸をひろげて話しやすい環境を作って下さっ た﹂とある。僕はその言葉をそのまま信じている。そし て、その会場の片隅に僕がいたのである。 いま、部落問題を自由に爽やかに論議することができ るだろうか。同和対策事業が私たちの心に何を残したの かを論議することができるだろうか。 部落解放運動の主要な課題として行政闘争があり、一 九六九年の同和対策事業特別措置法の制定から、国の責 務として同和対策事業が実施されてきた。事業を受ける 者としては、改良住宅に入居するときや奨学金を受ける ときなどに、なぜ自分たちだけが特別の者として扱われ るのかと論議をしてきた。初めは、部落解放のためなの だとお互いに確認し合ってきたはずである。でも、その 論議は続かなかった。圧倒的な物量と金の力で押し流さ れ、施策を受けることの理由など考えることはできなか った。あえて同和施策の意義を問うようなことを言うと、 解放運動への敵対者であると見なされて、非難を浴びせ かけられる状況が続いた。その結果として、同和対策の 特別措置法が終了した今になっても疑問として残り続け ている。これについてひとつの言説があった。﹁世間や 社会がこれまで差別してきたツケを払ったということに 過ぎないわけですよ。ツケを払って、これでチャラにし て や 、 と い う こ と に し た ﹂ ︵ ﹃ ﹁ 同 和 利 権 の 真 相 ﹂ の 深 層 ﹄ 一
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頁︶というのである。分かりゃすい説明である。で も僕はここに多くの問題があると考える。 国の責務として実施された同和対策事業が、部落差別 の被害者に対する国家賠償であるとはだれも考えてこな かった。部落差別の﹁ツケ﹂だとは到底考えられなかっ た。それは、身近な事柄であった。たとえば、同和教育 事業の一環として部落の児童に特別の教育をするセン ター学習は、同和対策事業の当初から実施されてきた。 放課後、センター学習に通う中学生に対して、部落外の 友達が﹁なぜあなただけ行くのか﹂と尋ねたとき、なん と答えたらよいのか。﹁ツケを払ってもらっている﹂と 答えるのか。少なくともこのようには答えてこなかった。 答えることは容易ではなかった。あ h え て − 一 の友達に対して答、えることは不可能だつた。これは、中 学生でなくとも耐えられないほど重苦しい問答である。 自分がなぜ特別扱いを受けるのか。自分はなぜ部落民で あるのか。部落民であるとはどういうことなのか。これ こそ部落問題そのものにおいて最も重要な、避けること こべる 13ができない聞いであった。そして、この間いを置き去り にしてきたことによって、多くの弊害が生まれたのでは な か ろ う か 。 部落差別の﹁ツケ﹂を受け取る権利を持つ者は、ツケ を払う義務がある者の前で、どのような態度をとるだろ うか。借金は返せば済むものだが、﹁これまで差別して きたツケ﹂は、そうはいかない。﹁ツケ﹂の大きさは、 求める者が決めるのだから、恋意的でしかも無限なので ある。このようにして、ツケを受け取る者、ツケを払う 者の二項対立は固定化してしまう。すなわち、問答無用 なのである。﹃同和はこわい考﹄の往復書簡で前川む一 さんが書いたように﹁肩をいからせて、世間を歩く﹂こ とになるだろう。そのことは、いくら反省してもしきれ ないし、一旦その態度を身につけた者は、やめることが 容易ではないことも実証済みなのである。ツケを受け取 る者、ツケを払う者を一一分することは、この上もなく重 苦しい人と人との関係を創り出す。 部落解放運動は社会運動として多くの人を引きつけて きた。しかし、一旦その中に入ってみると、何とも重苦 しい関係に縛られる。その重苦しさの原因は、容易に解 き明かせないものであるが、ひとつの契機は、このツケ を受け取る権利を持つ者、払う義務を負う者という固定 化した二分割である。この重苦しさの中で多くの人が苦 しみ抜き、挫折した。僕は一九八七年に藤田敬一さんの ﹃同和はこわい考﹄を読んで、この問題が凝縮されてい ることを感じ取った。そして部落問題全国交流会では、 この二項対立の呪縛からは自由に部落問題を論議するこ と が で き た 。 今年二月に部落解放研究京都市集会があった。僕は毎 年参加している。今年は、﹁だれもが、安心して住み続 けられる、福祉と人権のまちづくり﹂の分科会に行った。 分科会の討議の柱によると、社会福祉法に基づいて今年 度から策定されることになっている地域福祉計画に関し て討議されるようであり、これに関心を持ったからであ る。法に基づく地域福祉計画は市町村単位で策定される。 その中に市の人口の一%程度の被差別部落を位置づける ことができるのかどうかは大きな疑問である。また、高 齢者世帯を支える社会福祉事業に部落解放運動が関与す る事が何をもたらすか等が論議されることを期待して参 加 し た 。 パネラ
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の ひ と り で 、 部落解放同盟中央執行委員をしている人から﹁部落解放運動と地域福祉運動の課題﹂と い う テ
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マの報告があった。地域福祉計画策定の指針と なる厚生労働省の通知をよく読み込めば利用できること が多いという。保健、福祉、医療、教育、就労、住宅、 交通、環境、まちづくりに関して住民の意見を取り入れ て地域福祉計画が策定されると解釈される。だから、今 後、部落解放同盟が地域福祉計画の策定に積極的に加わ るとのことである。一方で、この人の、個人講演会のよ うな報告の大半は部落差別にかかわることであった。そ して、部落問題解決への条件として、﹁問題解決への第 一義的責任は行政的責任である﹂としている。加えて ﹁当事者責任・市民責任︵住民・企業・宗教・各種団体︶ の明確化﹂をしなければならないという。これを合わせ ればどうなるか。地域福祉計画で部落問題の解決を図る、 そしてその実施の責任は行政機関にあるということにな る。これでは市全域にわたる地域福祉計画が同和対策事 業にすり替えられてしまう。同和対策の特別措置法が終 了しても、一般施策に引き継がれるとはこのことだろ う か 。 部落差別の﹁責任﹂という言葉が重くのしかかる。 ﹁責任﹂を追及する人は鏡舌で、僕には、尊大に過ぎる とさえ感じる。そして﹁責任﹂を負わされた人達は沈み 込み黙ってしまう。﹁責任﹂という言葉に縛り付けられ、 身動きができなくなっている。二項対立の呪縛はこのよ う に 生 き て い る 。 しかし、このようにして同和対策事業を再編成しよう とする試みは、多くの部落の人達の生活実態からかけ離 れている、と僕には思えてならない。部落民とされる人 達の中で、もう同和対策事業を必要としない人達や、敢 えて同和施策を求めない人達が増えてきている。同和対 策事業から派生するさまざまな問題の中で苦しみ抜いた 人達の、もう同和対策事業をやめてもらいたいという切 実な願いがある。部落の中にこうした人達がいる。すな わち、部落差別問題をめぐって特権的立場にみずからを 置くことの居心地の悪さ、息苦しきにもう耐えられなく なっているのである。この気持ちこそ市民としての普通 の感覚ではなかろうか。これこそが同和対策事業の結果 であろうし、呪縛を解き放つ契機は部落の人達の生活実 態にあるのではなかろうか。そして、部落問題を自由に 爽やかに論議する契機は、市民としての普通の感覚の中 に あ る の で は な か ろ う か 。 こぺる 15四日市から①
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てるおか ﹃豊かさの条件﹄︵岩波新書︶の中に、著者である輝峻 淑子さんのベルリンに住む友人が、息子から十人才にな った誕生日に﹁楽しい子ども時代を過ごさせてもらって ありがとう﹂と言われた話が紹介されている。 グ楽しい子ども時代々の中身は書かれていないので、 この本の全体から想像するしかないが、私たち大人の一 人ひとりが自分自身の子ども時代を振り返ってみればわ かることなのかもしれない。 ところで、子ども時代を思い出す瞬間が人間にとって 一 番 の 4 辛せの瞬間。であるらしい。翻訳家の清水真砂 子さんから聴いた話だが、ある女子短大生が思い出した 4 辛せの瞬間 μ は﹁祖母が入院している病院へ祖父と一一 人、電車に乗って見舞に行った時のこと、祖父は並んで 座席にすわっている私の膝の上に手を乗せて、電車が駅 に着くまでずっとトントントンとやさしく膝を叩いてく れた。その光景だ﹂と語り、もう一人、四十八才の男性 は﹁小学生の頃、家の金を盗んだ。一回目は見逃してく れた母が、二回目に見つかった時にはか今度盗んだら、 母さんはお前を殺して死ぬからね。と言った。その母の 言葉を思い出すたび、なんとも一言えない幸せを感じる﹂ と話してくれたそうだ。 私は私のグ幸せの瞬間 d を思い出してみる。すると川 口さんのおばさんの声が聞こえてきた。私はカギッ子だ った。学校から帰っても家には誰もいない。いつも迎え てくれたのが近所の川口さんのおばさん。﹁あら加代ち ゃん!お帰りなさい﹂おばさんの声はト l ン が 高 め 。 ランドセルを家に置くや遊びに出かける私に﹁あら加代 ちゃん!遊びにお出かけ?気をつけて行きなさい な﹂とおばさんの声が追っかけてくる。このおばさんの 声が、友だちと身ぶるいする程、野山で遊んだ記憶を引 き出し、私の心を包む。 また、仕事を終えて急ぎ足で帰ってくる母の靴音も耳 に蘇る。私へのあふれる愛情を、靴音が伝えてくれる。 疎開先の紀州の海のにおい、波の音、砂の感触、いろ んな形の貝、海ほうずきなど次々に頭に浮かぶと、たち まち私は五才になって浜辺で遊ぶ。 ベルリンの青年と同じように私も﹁楽しい子ども時代 をありがとう﹂と大人たちゃ自然に感謝したい。ひるが えって、私の娘や孫たち、そしてまちの子どもたちは楽 しい子ども時代を送っているのだろうかと不安に思う。向 日 d υ v 内 ﹃ A U 旧 い J A − 一 = 口 マ最近、仕事とはいったい何だろうと 考えこんでしまう場面に出くわすこと が 多 く て 慨 然 と し て い ま す 。 例一。ある企業の受付で手続きをす ませ、守衛氏から立ち入り許可の札を もらった。そこへ現われた別の守衛氏 から﹁札は?﹂と聞かれたくだんの男 性 い わ く ﹁ い ま 渡 し て や っ た 。 ﹂ ﹁ ﹁ ゃ った﹄はないでしょ!﹂と間髪を入れ ず抗議すると、あわてて謝まった。こ こは﹁お客さま第二を歌い文句にし ている企業の中間管理部門だ。彼はお そらく人材派遣会社から来ている職員 だろう。しかし、その横柄な言葉づか いには管理部門という位置、立場、自 負が影を落としているにちがいない。 胸にぶら下がる﹁お客さま﹂と書かれ た札がやけに重くてしかたがなかった。 例二。ある大学の人事課で﹁今日の 講師の藤田ですが﹂と案内を乞うた。 近 く に 座 っ て い た 一 一 人 の 男 性 職 員 は 、 ちらつとわたしを眺めただけで、すぐ 目を机上の書類に戻した。遠くから様 子を見ていたらしい女性職員が飛んで きて﹁どういうご用件でしょうか﹂と 尋ねてくれたので話がつながったけれ ど、この大学、独立法人化後の前途は 多 難 と お 見 受 け し た 。 マ﹁満六五歳になった実家の父の国民 年金の受給手続きに先日、母と三重県 河芸町役場の年金課へ行った。窓口の 女性は﹁係の者が夏休み中なので、手 続きができません。明後日以降に来て 下 さ い ﹄ と 言 、 っ 。 手 続 き で き る 人 が な ぜ一人だけなのか。事前に分かってい るのになぜ、業務停止の告知がないの か。︵略︶納得できない私は、女性職 員に説明を求めた。若い職員はどうし ていいか分からず、泣き始めた。私は 自分が理不尽なことを言っているつも りはなく、彼女を泣かせるつもりもな かった。手続きが出来ないことも理解 できなかったが、私が彼女に説明を求 めている問、他の職員は誰一人彼女を 助けようとせず、顔一つ上げなかった ことも不思議だった。最後に上司を呼 んでもらったが、返事は女性職員と同 じだった。どうしてこんなお粗末な事 務とお粗末な役職が、存在するのだろ う。後日無事に手続きを終えたが、釈 然 と し な い 思 い が 残 っ た 。 ﹂ ︵ 愛 知 県 知 立 市 主 婦