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悌
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悌
道
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教
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信
証
﹄
の題号義||
どうも皆さん、ご苦労でございました。今日は、こ うした学びの機会をいただきましたことを、まずもつ て感謝いたすことでございます。もちろん十分なお話 は出来ませんけれども、提出しております講題の下で、 一点申し上げたいと思うことでございます。では、失 札 し ま す 。 ﹁悌土と偽道||﹁教行信証﹄ の題号義||﹂と提 出をいたしておることでございますが、親驚聖人によ って開顕されました﹁浄土真宗﹂なる仏道は、その名 の語るように、浄土を離れて成り立たない質のことで あります。それにも拘りませず、今日浄土が一番分か 岡朋大学名誉教授池
諦
出
勇
らないものになっておるんじゃないかと思われてなり ません。その点、この問題は現代と浄土という大きな 問題を抱えてはおることでございますけれども、身近 に申しました場合、私も日頃色々な研修会等に出させ ていただいておりますと、よく席上、ご住職方やら坊 守さん方からですね、﹁ご信心は分かるんですけれど も、浄土は分かりません﹂、そういうご発言をよく耳 にするわけであります。それで、浄土が分からずして 明らかになる信心とは一体どんな信心なのか、と考え 込まされてしまうようなことなんでございます。 それにつきましでも、私たちが体質的に引きずって偽土と悌道 お り ま す 、 アニミズムに基づく霊魂ゃあるいは他界 転生等の観念から解放されない浄土観。それは、私た ちにとって極めてプリミティブな宗教心に違いないわ けでありますけれども、そういう無明性を自覚的に突 き抜けて、その生涯をあげて親驚聖人が願生し続けら れた浄土というのは、 一体如何なる国土であるのか。 まったくこの浄土が行方不明になっている時代状況の 中でですね、私たちは改めて聞思す、べきではなかろう か、ということを日頃強く感じることでございます。 そんなことから、こうした題を提出させていただい たことでございますけれども、そこでまず、この﹃教 行信証﹂が何を課題とする書物であるのかということ につきましては、これは何と申しましでも、その題号 が端的に語るところであろうと思われます。その意味 で、私は今﹃顕浄土真実教行証文類﹂というこの十丈 字 を で す ね 、 どのように訓読するかという、その点に 手掛かりを求めて尋ねてみたいということでございま す 。 従来ですね、主とされてきておる読み方は、ご承知 四 の通り﹁浄土の真実の教行証を顕わす文類﹂と、その ように読まれてきておると言えると思います。これに 対しまして、近代親驚教学の流れの中から注目される 読み方として、次の読み方がございます。それは﹁浄 土を顕わす真実の教行証文類﹂であります。そうしま すと、この場合その丈言の上から申しますと、﹁浄土﹂ の解釈の異なりというものによるのかということがま ず思えるわけでございますけれども、その初めの読み 方でありますが、その場合でありますと、言、つまでも なくこれは聖道の教行証に対して﹁浄土の教行証を顕 わす﹂ということでありますから、浄土は聖道に対す る浄土という意味になっております。それでこの読み 方はですね、言うまでもございませんけれども、﹁後 序 ﹂ の 例 の 一 言 葉 で す ね 、 聖道の諸教は行証久しく廃れ、浄土の真宗は証道 い ま 盛 な り 。 ︵ ﹃ 聖 典 ﹄ 三 九 八 頁 ︶ このお言葉に照らしましでも、正鵠を得た読み方と言 わねばなりませんし、何よりも﹁教行信証﹂が思師法 然上人の﹁選択集﹄相承の書であるということを
つの立場とする読み方として従来尊重されてきておる ところでございます。それで、親驚聖人はよきひと法 然上人との出遇いにおいて、確かに聞き聞かれた﹁選 択本願念仏﹂をですね、改めて﹁浄土真実の教行証﹂ と表現されたということは、恩師法然上人の仰せの上 に末法の世における唯一の仏道を、親鷺聖人は確信し 得たからであったわけであります。 一方、﹁浄土を顕わす真実の教行証文類﹂と読みま した場合、浄土は械土に対する浄土ということになり ま し て 、 前 の 読 み 方 が 釈 迦 に う く 義 と = = 甲 え る の に 対 し まして、これは弥陀につく義と言わねばならないこと でございます。その点、存覚の ﹁ 六 要 紗 ﹄ に は で す ね ﹁ ﹁ 添 土 ﹂ ト 言 フ ハ 嫡 陀 ノ 報 土 ﹂ ︵ ﹁ 真 聖 全 ﹄ 一 了 二
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五 頁︶と解釈されております。しかし、その理由を述べ てですね、﹁浄土ノ言、十方三旦ルト難モ、意ハ西方 ニ在リ、諸悌ノ剃ニ超テ最モ精タルガ故ニ﹂︵同前︶ と解釈をされております。このことから致しますと、 存覚上人の場合のこの読み方というのは、 やはり聖浄 相対の立場に立つ、前の読み方﹁浄土の真実の教行証 偽土と働道 を顕わす丈類﹂という読み方であったと言わねばなら んのでないかと思います。ですから先学もですね、こ の ﹃ 六 要 紗 ﹄ の解釈を批判されまして、﹁この義通ず るに似たれども、今の文にあい難し。今は聖道門に対 す る 湧 土 な り 。 ﹂ ︵ 宣 明 ﹁ 聞 誌 ﹂ 上 ︶ と 一 一 百 わ れ て お り ま す 。 そ れ は ニ 一 日 う ま で も な く 、 聖 道 の 教 行 証 を 選 び 捨 て て、浄土の教行証を選びとられた ﹃ 教 行 信 証 ﹄ の 法 然 相承の歴史的意義というものが顕われないことからの ご批判であろうと思われます。 それで今、この後者の﹁浄土を顕わす真実の教行証 文類、この読み方に立ちます時、﹃教行信証﹂ 一 部 六 巻は、﹁顕浮土﹂の課題を担う書として、親驚聖人に よって選びとられた仏道が、浄土のはたらきそのもの であることを端的に語るものと了解されることであり ます。ところでこの読み方はですね、先ほど近代親驚 教学の流れの中からと申しましたけれども、実は﹃曾 我 量 深 選 集 ﹂ の第七巻﹁行信の道﹂に見る総序の科文 の抑え方に由来するものと窺われます。 つまり、総序 の 冒 頭 の 一 科 段 で あ り ま す 。 五偽土と悌道 縞かに以みれば、難思の弘誓は難度海を度する大 船、無磁の光明は無明の聞を破する恵日なり。 ︵ ﹃ 聖 典 ﹂ 一 四 九 頁 ︶ ﹂の第一科段をですね、﹁別して本願光明の二徳を 挙げて、総じて仏土の体相を述べる﹂︵﹃曾我量深選 集﹄七巻二一頁︶。そのように押さえておられます。 このような解釈は、まったく他に見ることが出来ない ものでありまして、これによればこの第一科段は﹁浄 士とは何か﹂﹁浄土は知何なる在り方をとっている仏 土なのか﹂ということを、端的に告げるものとする見 解と言わねばなりません。そ、ついたしますと、﹁難思 の弘誓﹂は浄土の体、すなわち浄土それ自体でありま す。﹁無碍の光明﹂は浄土の相、すがた。 つまり、形 としてのはたらきであります。それで真仏土巻の冒頭 謹んで真仏土を案ずれば、仏はすなわちこれ不可 思議光如来なり、土はまたこれ無量光明土なり。 ︵ ﹃ 聖 典 ﹂ 三
OO
頁 と、この明らかなお言葉がございますことからもです ム ノ、 ね、私たちにとって浄土は、常に光として体験される 百 円 市 叫 、 Z 干 4 1 抗 つまり私たちをして﹁破闇満願﹂せしめるはた らきとしての真実であることを示しているものといた だ け ま す 。 それで、このような本願光明の二徳をもって、浄土 が如何なる国土であるのかを示すものと解することは、 ﹃教行信証﹄が顕明する浄土が如何なる仏土であるの かを明確に示教するものとして、深く留意すべきに思 われます。ここに、﹁教行信証﹂が開顕する浄土真宗 が、偏に弥陀の報土に基づく往生成仏道であり、まさ しく﹁顕浄土﹂の課題を自己とする書であることを顕 わしているものと言わねばならないと存じます。 先ほども今や浄土が行方不明になったと、そういう 時代状況ということに触れましたけれども、だからこ そ私たちには、改めてこの親鷲聖人によって開顕され た浄土の真実を、虚心に聞思していかねばならんので ないかということが強く思われることでございます。 さて、そこで浄土は﹁安楽﹂﹁安養﹂﹁極楽﹂等々、 色々な表現を持ちますけれども、真仏土巻の冒頭には、先ほど引きましたお言葉に続いてですね、 しかればすなわち大悲の誓願に酬報するがゆえに、 真の報仏土と目、つなり。すでにして願います、す なわち光明・寿命の願これなり。 ︵ 同 前 ︶ このように言われていることからすれば、﹁報土﹂を 基本語とするということに、特に注意させられます。 すでにその浄土が、誓願酬報の﹁報仏土﹂であるとい うことは、私たちの仏道を離れてどこかに想念される 仏土でない、ということを意味しておるものに違いあ り ま せ ん 。 その点、すでに﹃論﹄﹃論註﹂に明かされる﹁浄土 は本願荘厳の仏土、願心荘厳の土である﹂と言われま す が た か た ち か た ち か すことは、相・形を超えた本願の形化であり、衆生 の問題に応える本願の具体的な相が、それが荘厳であ ります。ならば、その荘厳の最も具体的表現とは何な のか。今﹁浄土を顕わす真実の教行証﹂と読むこの視 座から言いますならば、それこそ﹁浄土を顕わす﹂と は何なのか。その具体的事実は何かを問うことと重な りまして、それこそはまったく﹁真実の教行証﹂に他 悌土と偽道 ならんのではないか。ということは、浄土は真実の教 行証として、私たちを真実の仏道に立たしめる事実を もって自証する仏土であることを告げているのではな いか、そう言えるのでないかと思います。 それで、従来教巻の冒頭の周知のお言葉であります 1)'ミ 謹んで浄土真宗を案ずるに、二種の回向あり。 つには往相、二つには還相なり。往相の回向につ いて、真実の教行信証あり。 ︵ ﹃ 聖 典 ﹄ 一 五 二 頁 ︶ ﹂ の お 示 し か ら 申 し ま し で も 、 二 回 向 四 法 を も っ て 妻 、 宗の大綱と理解されてきております。 では、大綱が教 行信証の四法であるならば、真一仏土・化身土は如何に 考えられるのか。その点すでに﹁六要紗﹄の所説のよ うに、それは真実証におさまるという見解。また﹃相 伝 義 書 ﹄ や先学の上にも見る、今触れておりましたこ の大綱論の言葉ですね。﹁一つには往相、二つには還 相なり。云々﹂のこの視点から、還相回向の内容と受 け取る見解がございます。 いずれにしても、﹁教行信 証﹄の内容から導き出された貴重な見解として尊重さ 七
備土と悌道 れてきておるところでございます。 し か し 今 は 、 ﹁横超﹂は、すなわち願成就一実円満の真教、真 宗 こ れ な り 。 ︵ ﹃ 聖 典 ﹄ 二 四 三 頁 ︶ のこのお示しから、本願成就に立脚する ﹁ 教 行 信 証 ﹂ の教学的立場を思います時、本願成就の視点からの意 味確認が最も基本的に思われます。すなわち、その視 座から言えますことは、﹁教行信証﹄は本願成就のこ の 一 事 実 を 、 二つの方面から明らかにしているという こ と で あ り ま す 。 一つは﹁回向成就﹂であり、今一つ は ﹁ 誓 願 酬 報 ﹂ で あ り ま す 。 行・信・証については﹁出於﹂、﹁より出でたり﹂ ︵ ﹃ 聖 典 ﹄ 一 五 七 、 一二一、二八
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頁︶と言われ、真・ 化 二 土 に つ き ま し て は 、 ﹁ す で に し て 願 い ま す ﹂ ︵ ﹃ 同 ﹂ 三O
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頁 ︶ あ る い は ﹁ す で に し て 悲 願 い ま す ﹂ ︵ ﹃ 同 ﹂ 一二二六頁︶と言われております。この﹁より出でた り﹂という﹁出於﹂は、私たちの仏道についてであり ま し て それ真宗の教行信証を案ずれば、如来の大悲回向 入 の利益なり。かるがゆえに、もしは因もしは果、 一事として阿弥陀如来の清浄願心の回向成就した まえるところにあら、ざることあることなし。因浄 なるがゆえに、果また浄なり。知るべしとなり。 ︵ ﹃ 聖 典 ﹂ 二 八 四 頁 ︶ この明らかなお言葉からいたしまして、真実の教行信 証、この四法のすべてが如来の本願の回向成就である ことを表明されておるわけであります。 それで一方、﹁すでにして願います﹂。これは、如来 の本願が私たちを摂取して自利利他成就する仏土とし て荘厳成就する。つまり、教行信証の四法としてはた らく根本の法﹁南無阿弥陀仏﹂が、仏道の根底にすで に仏土として応えられていることへの驚き・感動が ﹁すでにして願います﹂﹁すでにして悲願います﹂と、 この表現をとらせているものと窺われます。従いまし て、それはどこまでも、本願が本願自身を成就する意 味において私達を摂して成ったもの。すなわち、酬報 の仏土、報仏報土であることを顕わしている所以であ ハ ノ 半 ま し ょ 、 つ 。それで、ここの酬報ということの意味に留意させら れることでありますけれども、今ほど酬報を﹁成った もの﹂と申しましたけれども、それは本願が限りなく 歩みをもって自己を成就することを意味しているもの と言えましょう。ということは、それだけに真仏土は、 方便化身土として私たちの現実に応同し、真実に導き 入れるはたらきとしてはたらく仏土であります。です か ら 真 仏 土 の 終 わ り に 、 しかるに願海について、真あり仮あり。ここをも ってまた仏土について、真あり、仮あり。 ︵ ﹃ 聖 典 ﹄ 三 二 三 頁 ︶ さ ら に 続 き ま し て 、 仮の仏土とは、下にありて知るべし。すでにもつ て真仮みなこれ大悲の願海に酬報せり。かるがゆ えに知りぬ、報仏土なりということを。︵乃至︶ 真仮を知らざるに由って、知来広大の思徳を迷失 す 。 ︵ ﹃ 同 ﹂ 二 三 四 頁 ︶ と、明らかに指摘されておることでございますが。そ うしますと、真仏土が化身土を離れて真仏土の意義を 悌土と例道 全うすることは出来ないことを、ここに顕わされてい る と 三 口 、 ぇ 土 品 し ょ 、 っ 。 それで、この化身土ということでありますけども、 この﹁化﹂は変化の化。その変化の化は、もう一つ申 せば教化の化であります。ですから、そうなりますと 方便化身土というのは、機土を、この世をですね、方 便化身土と転ずる報身如来のはたらきとしての変化身 つまり、教化身の土であるということです。と の 土 。 いうことは、﹁よきひとの仰せ﹂に遇うところに、こ の世が私にとって如来の教化を受ける唯一の国土とし ての意義を明らかにする。それが、方便化身土でござ い 中 ま 1 ︶ よ 、 っ 。 それで元に返しますけれども、従来、真仏土巻の題 号が前の四巻の場合と異なりまして、﹁真実仏土﹂で はなく単に﹁真仏土﹂であるというのは何故なのか、 という疑問もですね、すでに行巻に引く﹃論註﹄、﹁真 実 功 徳 ﹂ ︵ ﹃ 聖 典 ﹄ 一 七
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頁︶の釈意に照らすならば、 真実なる法が真実とされるのは、﹁衆生を摂して畢克 浄 に 入 る が ゆ え な り ﹂ ︵ 同 前 ︶ であります。これを丈 九例土と側道 字に則して言えば、﹁真﹂は真理、﹁実﹂は現実、真理 が私たちの現実にまでなった歩み。それが方便に他な らないのです。それで、その意味で真仏土は言葉通り ﹁真仏の土﹂、真仏の土として浄土の本質、真理性を現 わして﹁真︵まこととであり、同時に化身士、すな わち﹁化仏の土﹂を展開するところに﹁実﹂と言われ る意味がございます。ならば、真仏土より化身土を開 く教相において、今は真仏土なのであります。 それで本来、本願成就が、衆生を摂して如来為らん とする如来の大悲心の成就であります限り、言、つまで もなく本願成就は如来の成就であると同時に、衆生の 成就であります。そのことが、真仏土の根拠としての 光・寿無量の二願について、親驚聖人にとっては単に ﹁摂法身の願﹂ではなくて、そのまま﹁摂衆生の願﹂ であったことが、その意義を如実に語るものと言える と思います。ならば光・寿無量の願心とは、﹁身土﹂ つまりそれは突き詰めれば﹁国土﹂、国土を喪失して 生きる私たちに、真実の国土となろうと、自己を国土 として表現し、如来と衆生の同時成就を果たさんとす 四 0 る大悲心に他ならないのです。従いまして、空間的に ﹁どこでも﹂照らすという無限の智慧は、﹁ここ﹂に極 まります。時間的にいつでも寄り添うという無限の慈 悲 は 、 ﹁ 今 ﹂ を 離 れ ま せ ん 。 ある篤信な人の詩ですけれど、 今が一番いい時。今が一番大事な時。 ここが一番いい所。ここが一番大事な所。 ︵ 中 道 忠 博 の 色 紙 ︶ この﹁今﹂﹁ここ﹂こそが、真実の﹁今﹂﹁ここ﹂でし ょう。この真実の﹁今﹂﹁こ、ことの出遇いこそが、 本願が私たちの上に仏道の回向成就として、真の国土 を聞く本願酬報の現在的意義と一言えるのではないでし よ 、 っ か 。 こ こ に 、 超世無上に摂取し 選択五劫思惟して 光明寿命の誓願を 大悲の本としたまえり ︵ ﹃ 聖 典 ﹂ 五 O 二 頁 ︶ と詠われてございますが、まったく如来の自利利他成 就の身土を聞かんとする光・寿無量の誓願こそ大悲の
根本であり、その大悲心が名号となって私たちの真実 の教行証、仏道を回向成就するのであります。 それで、その意味から﹁仏道の回向成就﹂と﹁仏土 の 誓 願 酬 報 ﹂ は 、 ﹁ 教 行 信 証 ﹄ の 順 観 、 つまり私たち の仏道の視座からは、﹁仏道の回向成就に聞かれる仏 土の誓願酬報﹂であり、同じく逆観の如来摂化の視座 から言えば、﹁仏土の誓願酬報に成り立つ仏道の回向 成 就 ﹂ と 一 五 位置の課題と直結して注意すべきことだと思うのであ りますが、真仏土は、真実教行証の仏道によって帰入 せしめられる仏土であります。 つまり、真実証から開 かれる真仏土であります。 それと同時に、それはまた真実教行証の依って来る 本源としての真仏土であることを意味しています。現 に、真仏土は方便化身土として、自らを私たちの地平 に具体化して、私たちの現実に応同する、それが方便 の教行証であり、それをもって真実の教行証を成り立 たしめるはたらきであるからであります。この点、後 序 に で す ね 、 悌土と悌道 信楽を願力に彰し、妙果を安養に顕さんと。 ︵ ﹁ 聖 典 ﹄ 四
OO
頁 ︶ というお言葉が見えておりますけれども、まさしく今 のこの意味合いを端的に語って下さっておるお言葉と 読み取れます c つまり、﹁妙果﹂は﹁真実証﹂であり ま す 。 ﹁ 安 養 ﹂ は ﹁ 妻 、 仏 土 ﹂ で あ り ま す 。 ﹁ 真 実 証 を 真 仏 土 に 顕 す ﹂ と は 、 大 浬 般 市 を 証 す る こ と は 、 願 力 の 回 向 に 籍 り て な り 。 ︵ ﹁ 聖 典 ﹂ 二 九 八 頁 ︶ と言われますように、真実証が真仏土による浄土の真 証であることを示しております。 もし証が、私たちの修善の彼方に思い描かれ求めら れるものとするならば、私心のゆえに真に聞かれた ﹁共に﹂の証は、限りなく覆われていく他ありません。 しかし、その疎外態とでも言いますか、それを自覚的 に突き抜けて真の普遍的な真実証、それはそのまま真 実の教行証といってよろしいわけでありますが、真実 証為らしめるものこそ真仏土、光・寿無量の報土のは たらきであります。その意味で、真仏土を聞く真実証 四偽土と側道 は、同時に真仏土が聞く真実証であります。ここに真 仏土が、弥陀の本国四十八願であり、真実教行証とし て国土の名事仏事を為す、現にこの身にはたらく仏土 で あ る こ と を 示 し て い ま す 。 従いまして、私たちにとって真仏士は真実教行証、 その核心たる真実の行信﹁その名号を聞きて、信心歓 喜 ﹂ ︵ ﹃ 聖 典 ﹂ 四 四 貰 ︶ す る 。 そ の こ と の 他 に 、 出 遇 、 っ 方途はありません。すでに善導大師も、その著﹃般舟 讃 ﹄ に 、 ﹁ 白 ラ 今 身 ニ 潜 土 ヲ 聞 ク コ ト ヲ 慶 ブ ﹂ ︵ ﹃ 聖 全 ﹄ 六九一頁︶と、﹁間﹂によってこの身にはたらく真仏 土との出遇いの慶喜を詠われています。 このように辿らせていただいてまいりますと、次の よ う に 一 言 う こ と が で き る か と 思 い ま す 。 ﹁ 真 実 教 行 証 ﹂ つまり﹁回向成就の仏道﹂と切り離した浄土の沙汰は 親驚聖人の願生し続けられた﹁誓願酬報の浄土﹂では ないということであります。この一事を私たちは、 深く心に刻むべきではないかということを思うことで ご ざ い ま す 。 それで、こうして尋ねてまいりますと、そこで 四 二、確かめをさせていただきたいことでありますけれ ども、今ほど申してまいりましたこの﹁回向成就の仏 道﹂﹁真実の教行証﹂。これは、言葉を換えれば往生浄 土の大道に立たしめられることであります、私たちに とりまして。今往生浄土の歩みを賜っていく、その歩 みの極まりとして親驚聖人は﹁信巻﹂に、 臨 終 一 念 の 夕 、 大 般 浬 般 市 を 超 証 す 。 ︵ ﹁ 聖 典 ﹄ 二 五
O
頁 ︶ と、こう言われてございます。私は、近年この﹁臨終 一 念 の 夕 、 大 般 浬 般 市 を 超 証 す ﹂ と い う こ の お 言 葉 に 大 変拘らせていただいておることでございます。と申し ますことは、このお言葉を聞きますと、私たちは、と もすると﹁ああ、死んだら証大浬繋なんですね﹂とか ﹁死んで仏になるんですね﹂とか、そんなふうに受け 取ってしまうのではないでしょうか。もしもそのよう に受け取るならば、﹁超証す﹂﹁臨終一念の夕、大般浬 般 市 を 超 証 す ﹂ と 、 ﹁ 超 ﹂ え て ﹁ 証 ﹂ る と 、 ﹁ 超 ﹂ の 字 を 用いておられる音山味は、まったく失われてしまうので はないでしょうか。ということは、﹁死んだら﹂とか﹁死んで﹂とか、そういう私たちの分別が入る限り、 そこで﹁浬繋﹂と言ってみたところで、﹁成仏﹂と言 ってみたところで、それはすでに概念化された観念で し か な い は ず で す 。 ということは、こう一つ言えるのだろうと思うので すね。親驚聖人におけるご関心というものは、﹁死ん だらどうなるか﹂というそういう質のものではなかっ たのではないかと。﹁死後観﹂ではなくて、﹁死観﹂ 0 親驚にとって﹁死﹂とは何かという、このご態度。そ れは、遡りますとお釈迦様の上に実は求められること でありまして、日頃指摘せられておる通りであります けれども、釈尊に﹁死んだらどうなるんですか﹂とこ う質問をすると、釈尊はその時ノーコメントであった と 一 一 = 口 わ れ て お り ま す 。 私 は 、 こ の ノ ー コ メ ン ト で あ っ たというところが、大変注意すべき一点でないかとい うことを思わせられることですが。もしもです、もし も敢えて言わせていただくとするならば、﹁死んだら どうなるんですか﹂とお釈迦様に問うた時、仏陀が ﹁ああ、人間死んだら終いですね、終わりですね﹂と 備土と偽道 こうお返事になったとしたら、言、つまでもなくそれは 断見、虚無の深測に沈んでいくほかありません。反対 に、﹁人間死んだら、霊魂なるものは存続して云々﹂ とこう言われたとするとどうでしょうか。今度はその 霊魂に呪縛されていくという、これまた閣に呑み込ま れていくしかないのでないでしょうか。 ですから、そ の何れでもないということが、後に開顕されてきたこ の大乗仏教の上から言えば、所謂﹁中道﹂であります。 断常二見を自覚的に突き破るという、その中道という ことはどういうことかと考えてみますと、先ほど申し 上げたように、﹁死んだらどうなる﹂という関心でな くて、﹁私にとって死とは何か﹂という関心なんです。 現に皆さん方、如何でしょうか。死後が恐ろしいの か、死が恐ろしいのか。だから親鷲聖人は、 い つ 死 が 訪れようとも、死は私にとって﹁大般浬繋を超証﹂す る時であります、仏に成る時であります。これじゃな い で し ょ 、 っ か 。 それでは何故そんなことが言えるのか、何に基づい てそんなことが言えるのか。それは言うまでもなく、 四
悌土と側道 現在只今、往生浄土の大道を歩ませられているからで あります。それこそ﹁現生不退﹂という、この歩みを 賜っていく。だからこそ、この歩みの終わり、極まる ところ。そこが﹁大般浬繋を超証す﹂、仏に成る時で あります。こういうご了解でなかったんでしょうか。 それで実は、もう一つその補足的に申すんですけど も、この今私どものこの大谷派の宗門は、五十年前の 七
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回の御遠忌を機縁として、現代に真宗を回復す るという願いの下で、﹁真宗同朋会運動﹂という聞法 運動を繰り広げてきております。明年は、丸五十年と いう記念すべき年を迎えるわけでありますけれども、 そうした同朋会運動のこの間法の歩みの上において、 では何が強調されてきたか。 一口で言うことをお許し いただくならば、現在只今の救いなんだと。本願名号 の救いということは、現在只今の救いなんだと。それ こそ現生不退、この一点を共有しようと願ってきたの ではないか c そう思うわけであります。 ところがですね、その願いでもって歩んでまいりま したことも、私たちの分別、頭の体操でいつのまにか 四 四 歪曲されるというか、正しく受け止められなくなって しまうということが現実にあるわけです。そのご発言 というのは、私は今でも何か引きずられておるように 感じられてならんのでありますけれども。ということ は、率直に申しますとこういうことなんですね。﹁こ の頃、死んでからの救いということを言わなくなった じゃないか﹂と。﹁現在只今の救いだと、そればかり 言って、未来往生ということを言わなくなったじゃな いか﹂と。﹁それで浄土真宗か﹂と。まあ、大変厳し いかたちでご発言になる、そういうことがあるわけで ございます。それで私はそういうご発言を聞きますと、 いつも今ほど申し上げた﹁臨終一念の夕、大般浬繋を 超証す﹂、この親鷲聖人の信巻のお言葉に立ち返らせ られることでありまして、したがってそのご発言とい うのは勘違いをなさっているんじゃないかなと、そん なことが思えてならんわけでございます。申し上げま した通り、真の﹁いま﹂﹁ここ﹂を賜る救いです。だ からこそそれは往生浄土の歩みを賜ること。毎H
毎日 の生活が、往生の一歩一歩の歩みを賜っていくこと。ですから当然、必然的にその歩みの極まるところ、終 局 の と こ ろ 、 ﹁ 臨 終 一 念 の 夕 、 大 般 浬 般 市 を 超 証 す ﹂ と 、 こう仰っているのであって、﹁死んでからのことを言 わなくなった﹂とか、﹁未来往生を言わなくなった﹂ とか仰るのは、それはちょっと何か勘違いをなさって おるんじゃないかなと、そんなことが思えてならない こ と で ご ざ い ま す 。 そ う し た こ と を 、 日 頃 色 々 な ご 発 言 を 通 し て 学 、 は せ られることでありますけれども、最後に、私が日頃憶 念しております次の言葉をお聞きいただいて、終わら せていただこうと思うのですが。これは、﹁加賀の三 羽烏﹂と言われておりますお一人である、藤原鉄乗師 の言葉ですけれども、これは ﹃ 藤 原 鉄 乗 選 集 ﹄ の 信 用 一 巻に述べられておるものであります。そこはこの、 ﹁現世利益和讃﹂についての講話のところです。そこ のところに、このように言ってらっしゃるんですね。 ﹁現世利益和讃﹂は他の御和讃とは全然別なもの であるように思われやすいのでありますが、しか し、それはわれわれの勘ちがいであります。この 偽土と備道 さい、親鷲聖人の御和讃は現世においてもなどと いう講釈はやめましょう。 ︵ ﹃ 藤 原 鉄 乗 選 集 第 一 巻 ﹄ 三 五 九 頁 ︶ この﹁現世においても﹂ご利益があるんですよ、と いうようなそういう講釈はやめましょうと。﹁も﹂が 付く了解、そのことを批判なさっているわけですね。 そ し て 続 き ま し て 、 お念仏には、過去、未来、現在の人生問題が係わ っているのであります。これを抜きにしますと、 せっかくのお名号がばらばらになってしまうので あります。すなわち過去の念仏、現在の念仏、未 来の念仏といったような別々の世界を造り、勝手 な受け取り方をするようになります。さようなこ とからいろいろ意義を申し立てる人︵連中︶もあ ると思いますが、それこそ大きな間違いでないで しようか。御本願のお約束から申し上げるなら過 去も現在も未来も全く一つでないでしょうか。こ れを下手な解釈をいたしますと、過去とか現在と かあるいは未来とかを区別して、そのいずれに重 三 四 五
悌土と悌道 きを置くかといったような議論をもち出すことに なります。しかしさような議論は全くわれわれ凡 夫の計らいであって御本願のお約束にはないこと であり、無意義な戯論と申さねばならぬと思われ ることであります。時間的に説明いたしますなら、 われわれの過去も現在もまた未来も同一念仏なの であります。それをいずれに重きを置くかなどと いう問題をもち出すのはいわゆる閑人の寝言とい わねばなりません。 ︵ ﹃ 同 ﹄ 三 六