D. H. ロレンスの裸体画『タンポポ』 (Dandelions ) における生の表象
―― さまざまな「放尿図」を通して見る ――
河 野 哲 二
松 山 大 学
言語文化研究 第32巻第1−2号(抜刷)
2012年9月 Matsuyama University Studies in Language and Literature
Vol.32No.1−2September2012
D. H. ロレンスの裸体画『タンポポ』 (Dandelions)
における生の表象
―― さまざまな「放尿図」を通して見る ――
河 野 哲 二
1.初 め に
東西を問わず古代より人間の抱いた種々のイメージの中には放尿場面が含ま れている。食することと排出する作用が人間の生命維持のための基本的な現象 であることは言うまでもない。呼吸をすることと同様に自然で当たり前の日常 的生理作用であるその放尿行為をなぜ多くの芸術家たちが文学や絵画の中に,
いわゆる「放尿図」として呈示してきたのか,そしてそれをインターテクスチュ アリティの側面から考察してみることは必ずしも不謹慎な検証ではなく,美学 上においても一定の評価を与えるべきではないか,というのが本稿を手掛ける 趣旨となっている。
筆者が思い浮かべることのできる「放尿図」をまず導入的に,ランダムに紹 介するとすれば,
!彫刻家ジェローム・デュケノワ(Jérôme Duquesnoy,1570?−1641?)が 1619年に制作し,1960年代に紛失したという,ベルギーのブリュッセル の街中にある,今はレプリカの小便小僧(ジュリアン坊や)と,デニス・
ドブリエ(Denis-Adrien Debouvrie)が1995年に制作した,屈んで放尿す る小便少女の像(ジャンネケ・ピス),
"徳島県の彫刻家,河崎良行が1968年に制作した祖谷地方の断崖絶壁から
200メートル下の渓谷を見下ろす小便小僧の像,
!ジェフリー・チョーサー(Geoffrey Chaucer,1340?−1400)の『カンタベ リー物 語』(The Canterbury Tales,1387−1400)に お い て,ク サ ン チ ッ ペ
(Xantippe)が夫ソクラテス(Socrates,c.470−399B. C.)の顔に小便 壺 を 投げ,ソクラテスが死んだようにじっと座ったまま「雷が止まないうちに,
雨が来たな」と言った逸話を含め, piss が7回, urynals, urinales, urine, uryne が各1回登場,1)
"ジェイムズ・ジョイス(James Joyce,1882−1941)の『ユリシーズ』(Ulysses,
1922)における挿話17 (「イタケ」)に現れる,登場人物スティーヴンと ブルームが彗星を観察するために,庭に出て星空を眺めながら並んで行う 放尿場面,
#フランソワ・ラ ブ レ ー(François Rabelais,c.1494−1553)の『第 一 之 書』
(Gargantua,1534)の第17章に現れるノートルダム寺院の天辺から行う 豪快奇抜なガルガンチュアの放尿場面とそれに連動するような,ジョナサ ン・ス ウ ィ フ ト(Jonathan Swift,1667−1745)の『ガ リ ヴ ァ ー 旅 行 記』
(Gulliver’s Travels,1726)の中で,ガリヴァーが矮人の国(リリパット)こ びと
の宮殿が火災に見舞われたときに,自分の放尿で消火する場面,
$ピーテル・ブリューゲル(Pieter Bruegel,1525/30−69)の『ネーデルラン トの(』(Netherlandish Proverbs,1559)に描かれた,二階の窓から三日月 の描かれた看板に向けて行う放尿と,火に向けて放尿している,これらの 二場面の放尿図と17世紀前後の「民衆(版画」など,
%ウィリアム・ホガース(William Hogarth,1697−1764)の『怒った音楽師』
(The Enraged Musician,1741)の中に描かれた,子供が建物の壁の下に作 られた穴に向けて小便する場面,
せんがい ぎ ぼん
&洒脱,飄逸な絵を多く手掛けた禅僧,仙)義梵(1750−1837)が描いた,
老 僧 と 若 者 の 二 人 の 男 が 放 尿 競 争 を し て い る『い ば り 合 戦 図』(1830 年?),
'村山槐多(1896−1919)の描いた全裸の若い僧が合掌しながら全身で祈り 50 言語文化研究 第32巻 第1−2号
いばり
ながら荒々しく下に置かれた托鉢の鉢に向けて放尿する『 尿する裸僧』
(1915年)
などが挙げられる。
本稿の趣旨は,このような思いつくさまざまな視覚化された放尿場面の様子 を検証しながら,&として,英国人作家D. H.ロレンス(D. H. Lawrence,1885−
1930)のタンポポに向けて放尿する全裸の男を描いた『タンポポ』(Dandelions,
1928)という裸体画を取り上げて,その描写における生の表象の現れ方を論じ ることにある。その前にまず上記の中で絵画表現されているものに焦点を当て ることにして,東西,時代を問わず上述した!"#$%について思いつくまま に紹介しておきたい。それらはいずれも一定の先行研究が行われているものな ので,新たな発見は望めないかもしれないが,本稿に先立って論じておくこと に一定の意義があるように思われるからである。
2.「放尿図」さまざま
先ず!フランソワ・ラブレー著『第一之書』(第17章)に現れる豪快奇抜な
「ガルガンチュアの放尿図」から。本書に現れる夥しいばかりの糞尿に関する 言説は作者特有のスカトロジー(scatology)として見ることができる。ここで 取り上げる「ガルガンチュアの放尿場面」を描いたチャールズ・トンプソン
(Charles Thompson)による木版画(挿画a)2)は,巨人ガルガンチュアがノー トルダム寺院の上(約69メートル)からパリ市民に向けて豪快な放尿をして いる図である。物語では放尿によって'れ死んだ者の数は,女子供を除いて二 万六千四百十八人だという。たとえば『第二之書』の第27章では,オナラに よって「大地は九里四方にわたって鳴動し,その臭い風のなかから,五万三千
こ びと こ びとおんな
人の不恰好な矮人が生まれ出,その透かし屁からは縮こまった矮人 女が生ま れ出た」という天地創造的な場面も見られ,その他にも途方も無い宇宙的な 数字が披露される。3)このような冗談めいた,現実にありえない描写は,文学理
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論上,いわゆるミハイル・バフチン(Mikhail Bakhtin,1895−1975)の言う〈民衆的で祝祭的 なカーニバル〉における陽気な笑いを生じさせ るものとしてとらえることが可能であろう。実 態からすれば,ラブレー自身,王や教皇とのい さかいにより作品のいくつかが発禁という憂き 目に!っていることからも,ストラテジーとし て登用させた糞尿言説が,明快に,権力の側に 向けて放出した意図的なものであったことが想 像できる。『第一之書』の読者はこの大団円の
くだり
布石として,ガルガンチュアの幼年時代の件 で,糞尿に関する場面が夥しく登場する。自分 の靴に引っかけたり,肌着の中にうんこをした
はな
り,スープの中に洟を垂らしたり,お天道様め がけておしっこをしたりのグロテスクな描写に民衆的読者がこぞってげらげら 腹を抱えて笑うように仕掛けられている。よくよく考察して見ると,この陽気 な底抜けの笑いは「緊張感」の解放をもたらすものであると同時に,作者が既 成のあらゆるヒエラルキーを消滅させ,王と民衆,男と女という差異を払拭す ることにより,万人がこぞって平等に小便をするというこの肉体的な生理現象 を浮上させることで,権力というものを笑いの渦の中に融解する効果を狙った ものと解釈されている。一方スカトロジーのもう一つの現象である性癖の点で 享楽を求める快楽主義的な要素はここでは前景化されていないと見るべきで,
むしろ生の表象を民衆的次元に立って共有することにより,人間とは何かとい う壮大なテーマを込めたかたちになっていると言えよう。ジョナサン・スウィ フトが『ガリヴァー旅行記』において,矮人の国で宮殿が火災に見舞われたと きに,自分の放尿で消火するというのも,この作品の影響が大であると考えら れている。「第一篇リリパット渡航記」の第5章。前の晩,利尿性の強いグリ
挿画a C. トンプソン画
『ガルガンチュアの放尿』
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ミグリムというワインを飲んでいたガリヴァーがそれまでチョロリとも排出し ておらず,「しかるべき場所に狙いを定めて一挙にジョビジョビと大量放出し たものだから,三分後には完全鎮火,その建造に幾星霜を要した立派な建物の 他の部分は燃えずに残った」4)次第。
次に!のブリューゲルの放尿図を見てみよう。ここで取り上げるのはピーテ ル・ブリューゲルが一枚の絵の中に85の"を描きこんだ『ネーデルラントの
"』(板・油彩,1559年,挿画b)である。この絵の中に描かれた場面から85
の"を抽出して解説したのは森洋子の『ブリューゲルの"の世界−民衆文化を
語る−』(白鳳社,1992年)で,本書を参考にして見ていくことにする。絵の 中央左斜め上の部分で,赤い帽子をかぶり,歯痛なのか顎にかけて包帯をした 男が,三日月の描かれた看板に向かって小便をしている。壁に溲瓶が掛かって いるにも関わらずそれを使用しないで窓から小便している。森氏によると「追 い求めているものを入手できない。私はいつも月に向かって小便する」という 意味合いで,「野心ばかり大きく成功しない」という"を示しているらしい。
森氏は民衆文化の視点から調査して徹底的に論じている。興味深いのは当時の 銅・木版画による「月に向かって放尿」する図像表現をいくつか例示していると ころである。もともとこの"の
意味に適しているように,空に 浮かんだ月に向かって今にも届 かんばかりの放尿図が数多く描 かれているにも関わらず,この 絵とはまた別にネーデルラント
の"を円形のテンペラ画で十二
枚を描いた『十二の"』(Twelve Proverbs, ca.1558−60?)の中の 右下部分に描かれた人物は,と もに下方の月に向かって放尿し
挿画b P. ブリューゲル作
『ネーデルラントの!』部分(1559)
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ている。それに対して,森氏は「ブリューゲルの絵ではその不自然さを避ける ために看板の月に変えている」と解釈している。ここでは専門家の意見を聞く しかあるまい。因みに,ラブレーの『第一之書』で言及した「お天道様めがけ ておしっこをしたり」という表現もこの"に類推しているだろう。
この『ネーデルラントの"』にはもう一つの放尿場面が描かれている。絵の 中央の少し右側で,串に刺された焼肉の前に立つ後ろ向きの男が,火に向かっ て放尿しているようであるが,とくに腎臓や膀胱の病気にかかったときに,火 は治療的効果があるという俗信があったようである。一方,「キリスト教の復 活祭では火は再生の儀式として尊ばれ,また民間では豊穣祈願をこめて火が焚 かれた」ことから,火に小便をかける行為は不敬になるという"もあったよう である。5)いずれにしても,ネーデルラントの人々にとって放尿は多義的なイメ ージを伴って日常生活に溶け込んでいたということができるだろう。
!のウィリアム・ホガースの『怒った音楽師』(挿画c)の中に描かれた小 便する子供について。ホガースはイギリスの画家・銅版画家で,いわゆる「物 語絵」( narrative painting )として,連作物の『放蕩一代記』(A Rake’s Progress,
1732−33)8点や『当世風の結婚』(Marriage A-La-Mode,1743−45)6点など,
当時の貴族や中産階級の道徳観や風俗の実態を風刺した絵を多く手掛けた。何 よりも自身の油絵 (1点もの)
をもとに銅版画によって複数制 作することによって安 価 に な り,より多くの人の手に届きや すいようにした。明らかに風刺 的な意味合いの濃いこの絵は,
ヴァイオリンの練習をしている 音楽師の家の窓から見下ろせる ところで,器物製造職人,くず 収集人,魚売り,ドラムを叩く 挿画c W. ホガース作『怒った音楽師』(1741)
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少年,金物研ぎ,アイルランドの労働者,泣叫ぶ赤子を抱いたバラッド売りの 女の甲高い声,ミルク売りの女,オーボエ吹き,オウム,吠えている犬,それ に遠景での煙突掃除人,屋根の上で金切り声をあげている二匹の猫,教会の鐘 など文字通り画面全体に渦巻いており,あらんかぎりの不協和音の雑騒音が皮 肉にもリアルなかたちで生き生きと視覚的に描かれている。音楽師が両耳を押 さえて怒るのも無理からぬことである。その中で一見対照的な静寂を感じさせ るのが小便をしている男の子とその様を見て驚いている女の子である。因み に,小便をしている姿はオランダ,ロッテルダムのボイマンス美術館にあるブ リューゲルの『放蕩息子』(The Pedlar,1485)に描かれた姿に酷似している ように思われる。ところが面白いのは,男の子はスレートを縛った紐で!がれ ており,先ほどまでガラガラと音を立てて引っぱっていたことを示している。
一方女の子の手には玩具のガラガラが握られていて,小便の恰好を目撃したこ とで,間もなくガラガラの音を立てるはずである。この絵にはさらに深い意味 があるのだろうが,そこまで触れず,一つだけ,建物の下の部分で,男の子が 小便をしているところが丸く窪んでいる穴のようなものが描かれている。これ はトイレ壺などではないようで,どうやら,当時,家庭では石炭が主要燃料 で,石炭運びが家の中に入ることなく,地下室に直接石炭袋を投入する coal- hole であったらしい。6)因みに,ロンドンのストランド(Strand)地区に同名 の有名なパブもあるくらいであるが,直径30−35センチほどの穴だったようで ある。そうだとすれば,ホガースはなぜ男の子に coal-hole に向けて小便を させたのか,正しい答えは浮かばない。先の『ネーデルラントの"』をヒント にするとして,火を象徴する石炭に向けて小便をすることにより,治療的効果 とは考えられず,不敬な行為を意図したのか,あるいはいたずら行為としての 単なる可笑しみを加えたのか,詰る所〈決定不可能〉である限り,多義的にな らざるを得ず,鑑賞するものの解釈に任されなければなるまい。いずれにせ よ,ホガースの描く大衆的人物像にはそれぞれに風刺的なメッセージが付随し ているものの,非常に生き生きとした庶民生活そのものが表出されている。
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!の臨済宗の僧侶であった仙
"義梵が小便をする自画像とし て描いた『いばり合戦図』(紙 本墨絵掛幅装,44.4×33.3㎝,
1830年?,挿 画d)に つ い て 言及したい。中山喜一朗氏によ ると,右側の黒い僧衣を着た仙
"自身と左側の若い裸同然の男
が小便の掛け合いをしている状 況から分析し,仙"が80歳の
長寿の老人で,裸の男が50歳くらいだとしている。仙"の横に「"負けた負 けた」,裸の男の横に「龍門の瀧見ろ見ろ」と書かれていて,龍門とは見る側 に「登龍門」を想起させ,鯉の瀧登りのごとく,「中国黄河の龍門の瀧のよう に飛ばして見ろ」という若者の,どうだといわんばかりの意味合いになるとあ る。あるいは単に「龍門」という号を持っていた知人がいたという説も唱えて いる。筆者からすれば,仙"の小便は相手に比べて弱弱しく小便壺に,相手は 性器も反り上がり元気よく「タケノコ」に向けてかけられている。タケノコは 成長の速さから,生命のたくましい作用を象徴しているかのようである。一目 瞭然,勝負は豪語する若い男の側にある。当然のことながら80歳の老人に勢 いの良い小便など望めるはずもない。ユーモアのように受け止められながら,
その内側にある生の哀しみといった表象が,老いてもいまだ諦めずに挑戦する
仙"の姿に見て取れるようである。一方,中山氏は仙"が弱弱しくも仏の世界
(「小便壺」)の枠内に放尿する一方,元気が良すぎて仏の教えや世の中の枠か ら外れることへの若者に対する戒めを表しているとも解釈している。7)いかにも 説得力のある多義性に満ちた解釈が呈示されているということになろう。しか し,ここでも放尿自体を捉えて言えば,生の表象として描かれていることは事 実である。
挿画d 仙!義梵作『いばり合戦図』(1830?)
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!の村山槐多の『尿する裸僧』(油 彩,25号,挿画e)であるが,現在,
窪島誠一郎氏が館主を務める信濃デッ サン館に所蔵されている。言うまでも なく窪島氏は槐多研究の第一人者であ り,彼はこの絵について次のように評 している。
たくはつ
合掌する裸僧が托鉢する鉢にむ かってショウベンしている。裸僧 はもちろん槐多だ。一種の変身自 画像といってもいいだろう。仏教
しゅ み せん
の須弥山を思わせる遠景の山水 は,男根女陰のデフォルメともい
いばり
われるが,ほとばしる尿はまるで射精のようである。「おれはアニマリズ ムになった」(一九一四年山本二郎宛書簡)。アニマリズムとは「原始主義」
をあらわす槐多一流の造語だが,僧の全身からはなたれたる濁紅色のヒカ リがみずからの仏身化をあらわしてでもいるようで神々しい。8)
高村光太郎が「火だるま槐多」9)と呼んだ如く,数多くの衝撃的な詩と,激 しい絵画を残し22歳と5か月という若さで早世した槐多がこの『尿する裸僧』
を制作したのは1915(大正4)年3月,20歳のときである。因みに,この年 に槐多は他に少なくとも4枚の小便図を描いていて,放尿に関する特別なイメ ージを描いていたことを表明している。19歳で『カンナと少女』(水彩,1915)
が第二回美術院展で院賞を,21歳で『湖水と女』(油彩,1917)が美術院第三 回試作展で,奨励賞(賞金10円)を受けているから,槐多が詩作などの執筆 活動から絵画制作に転向していった初期の絵であることがわかる。1914年に
いばり
挿画e 村山槐多作『 尿する裸僧』(1915)
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パリの山本鼎のアトリエで槐多の絵葉書を見て,「この少年は悍馬だ。」と言っ て才能を看破した小杉放庵(未醒)はこの時期の槐多のことを「短命であった 彼は,それだけ精神の発展が速やかであった。彼は忽ち,少年より青年となり,
しかも又青年にして少年を兼ね,複雑にして且つ単純であった。」10)と評して いる。このような槐多の絵の傾向は,「オレはゴヤであらねばならぬ−/ピカ ソであらねばならぬ−/スパニエールの血と心よ!」と画家となる決意を記し た1915年1月12日の日記が示していよう。槐多について書こうとすると,ま さに血と心が躍り,理性が失われそうになる。槐多の表現する!間のないほど の「赤」と「血」の横暴に圧倒され,むせかえるような生の渦巻きに呑み込ま れてしまうからである。槐多に惹かれた者に共通する一種の恋愛体験かもしれ ず,詩,絵画に留まらず,彼自身の一挙手一投足に激しいときめきを覚えるこ とになる。高村光太郎の名づけた「火だるま槐多」とこの絵の裸僧は同一人物 に思える。そして「ためらふな,恥じるな/まっすぐにゆけ/汝のガランスの チューブをとって/汝のパレットに直角に突き出し/まっすぐにしぼれ/その
き
ガランスをまっすぐにしぼれ/生のみに活々と塗れ/一本のガランスをつくせ よ……」(「一本のガランス」)や「血の強いにほひが/草木から,星から,走
したた
る車から/どくどくと,ほとばしる/血は血に滴り/血は血に飛ぶ」(「ある日
はや じ
ぐれ」)のような詩行とこの絵が自然に重なりあってくる。まさに早死に槐多
ガ ラ ン ス
の凄まじい生きざまを表す「赤」と「血」であり,フランス語の garance は まさに血の色にふさわしい茜色の赤である。自ら全身「火だるま」になり合掌 しながら「チューブ」からしぼり出すように,どくどくと,ほとばしらせなが ら,赤き血尿を鉢に向けて放つ裸像は槐多以外の何者でもあるまい。槐多はま た数多くの性器をデッサン11)しており,彼の性欲の発露として,この血尿を 精液としてイメージすることも可能であろう。またこの自画像的裸僧は自ら「血 染めのラッパ」(「四月短章」)を吹き鳴らす「黄金の小僧」(「宮殿指示」)となっ て全景を燦然と輝かせている。すべて槐多自身に残された今の瞬間の生に対す る祈りのようであり,祈るためには全裸の黄金の小僧となり,一切を投げ放っ 58 言語文化研究 第32巻 第1−2号
たまさに命がけの苦行としての放尿であるように思えてくる。
槐多がいかに「放尿」場面に関心を寄せていたかを付け加えておこう。一つ は,寄寓していた小杉放庵の家の台所の壁に〈天照大神立小便の図〉を描いて いたということ,いま一つは童話『五つの夢』の一つ目に書いた「天の尿」で,
その描写は一種ガルガンチュアの放尿を想起させる空想的かつ宇宙的規模のも のである。歩いていて小便をしたくなった主人公の〈私〉が「空へ飛びあがり ました。私は五千尺も上へ上がりました。そして青い空をとび乍ら一思ひに小 便をいたしました。私の股ぐらから小便で出来たまつすぐな長い金の杖がキラ キラと下界をさして落ちていくのを見て私は涙の出る程よろこんで居ました。
……下では五千人程の大勢の人が上を見て皆一せいに笑って居るのが見えまし
くだり
たので……」12)という件である。
3.ロレンスの裸体画『タンポポ』
!として挙げたロレンス作『タンポポ』(挿画 f)は,1929年6月14日にロンドンのマドッ クス通りにあるウォーレン画廊で開催された個 展13)における出品から外され,個展の直前に 出 版 さ れ た『D. H.ロ レ ン ス 絵 画 集』(The Paintings of D. H. Lawrence,The Mandrake Press,London,1929)からも除外されている。
「放尿場面」がロレンスを理解していた画廊主 や出版者14)にも受け入れられなかったことが すべてである。ロレンスの手紙の中で,「G.オ リ オ リ 氏 が20ポ ン ド で 購 入 し た が っ て い る。」15)と書いてはいるが,実はこの絵は数奇 な経路を経て,筆者の友人のキース・セイガー
挿画f D. H. ロレンス作
『タンポポ』(1928)
D. H.ロレンスの裸体画『タンポポ』(Dandelions)における生の表象 59
(Keith Sagar,1934−)氏が妻のメリッサ・パートリッジ(Melissa Partridge)さ んに長女アーシュラ(Ursula)さんが誕生した1985年に購入してプレゼントし
ひとしお
たもので,その絵に対する思い入れも一入なのである。セイガー氏はロレンス 研究の第一人者として名高い人であるが,雑誌Words International(November 1987)の中で,この絵を初めてカラー版で紹介することになった。彼はまた詩 人でもあり,この絵に対して次のような詩( Dandelions )を掲載している。
Naked, unselfconscious, insouciant, the sun on his shoulder
Piero the contadino
pisses into a bed of dandelions under a Tuscan pine.
The little suns are not extinguished−
they reach to receive the blessing of his grace−
they proffer in return their yellow wealth−
they shine.16)
「素っ裸の,自意識をもたない,無頓着な/肩に太陽の光線を浴びた/農 夫ピエロは/トスカーナ松のもとタンポポの花床に放尿をする。 その かわいい太陽たちは光輝を失うことはない−/かれらはその身を差し伸べ かれの栄光を受ける−/かれらはそのお返しに自分たちの黄色い富を差し 出す−/かれらは生き生きと光輝を放つ。」(拙訳)
絵をこの詩と並べて見れば大方は理解できるはずである。ロレンスは1926 年5月から1928年6月までイタリア,フィレンツェ郊外のスキャンディッチ
(Scandicci)にあるミレンダ荘(Villa Mirenda)を借りて生活していた。この 絵はそこで1928年3月に仕上げている。言うまでもなくそこで『チャタレー 60 言語文化研究 第32巻 第1−2号
夫人の恋人』三部作を執筆しているし,ウォーレン画廊に出品することになる いわゆる「裸体画」の25点のほとんどをここで描いている。セイガー氏の詩 にある農夫ピエロはミレンダ荘の近くに住んでいたピエトロ・ピーニ(Pietro Pini)を モ デ ル17)に し て い る と 考 え ら れ,『ボ ッ カ ッ チ ョ 物 語』(Boccaccio Story,1926)や全裸の男を描いた『農夫』(Contadini,1928)や『牛を引いて 仕事に出るピエトロ・ピーニ』(Pietro Pini Leading his Oxen to Work)がそれ に当たる。『タンポポ』を見ると,絵の中の境界の壁の向こうにある二股の樹 木と男の背後にある緑緑しい若枝はこの地つまりトスカーナの松ということに なるだろう。文字通り解釈すれば,農夫は文明化されておらず,太陽の恩寵を 受けているということになる。その全裸の農夫の放尿はタンポポという小太陽 群に向けて放たれ,そのタンポポの群れは黄色い光輝を返礼として放ち,両者 の生命の交感が成就されるということだろう。因みに,セイガー氏の「かれの
栄光」( his grace )という詩句は,『ボッカッチョ物語』にも見られるイメー
ジである。それはボッカッチョ(Giovanni Boccaccio,1313−75)の『デカメロ ン』(Decameron,1353)の第三日第一話を題材にしたもので,樹の下で下半 身をむき出しにして寝たふりをしている農夫の性器を見ている尼僧たちを描い た絵であるが,ロレンスが「ある暑い日の午後,尼僧たちは庭で園丁が眠って いるのに気づきます。彼はシャツをはだけて,普通の人ならヤツの恥部(his pudenda)だと悦に入って呼ぶモノを出して眠っていたのです。ところが尼僧 たちは,それを《かれの栄光》(hisglorietta)だと呼んだのです。」18)と説明し た部分と一致している。ロレンスにとって性器官が文字通りの「恥部」ではな く「栄光」であると言説することが主要なストラテジーだったことをセイガー 氏は支持すると同時に共感している。タンポポと小便という不可思議な組み合
ピ サ ン リ
わせも,フランス語の pissenlit を呈示すればすぐに解決するだろう。小便 とタンポポの両方の意味を持つ単語である。タンポポの根には利尿剤の効果が あり,乾燥して生薬として使用されていることは言うまでもない。詩集『三色 すみれ』(Pansies,1929)の序文で, pansy の語源に つ い て フ ラ ン ス 語 の
D. H.ロレンスの裸体画『タンポポ』(Dandelions)における生の表象 61
panser を引き合いに出し,「思想」と「傷口を繃帯する,痛みを鎮める」の 意味があることを指摘していることなどからも,ロレンス自身に当然このよう な語彙の連想があったと思われる。そしてセイガー氏の詩の最後の they shine.
という詩句には,農夫とタンポポの両者が放尿という!がりによって一つの虹 が完成し,絵画全体が太陽と生命に包まれ,槐多の合掌する黄金の小僧さなが らに黄金に輝いている様を謳っている。
ロレンスはジュリエット・ハクスリー(Juliette Huxley,1896−1994)19)に宛 てた手紙で『タンポポ』を描いたことを報告しているが,そこで,「聖書にも あるように,壁に向かって小便をしている裸体の男を水彩で描いた」,と言っ ている。そして「優しさのこもった,感動的な絵」であるとして,個展に出品 したいとも述べている。( I just did a water-colour of a naked man pissing against a wall, as the Bible says. It’s most tender and touching, and I shall exhibit it in
London. March27,1928)ここでロレンスの言う「聖書にもあるように」と
いうのは『聖書』(King James Version)の中の「サムエル記・上」(I Samuel−
25:22,34)に見られる2か所と「列王記・上/下」(I Kings−14:10,16:11,
21:21II Kings−9:8)に見られる4か所の計6か所を指していると考えられ
る。「サムエル記・上」の一つはサムエルの死について述べた部分の一節で,
So and more also do God unto the enemies of David, if leave of all that pertain to him[Nabal]by the morning light any that pisseth against the wall. (22)で「明 日の朝の光が射すまでに,ナバルに属する男を一人でも残しておくなら,神が このダビデを幾重にも罰してくださるように。」と訳され,もう一つ For, in very deed, as the Lord God of Israel liveth, which has kept me back from hurting thee, except thou hadst hasted and come to meet me, surely there had not been left unto Nabal by the morning light any that pisseth against the wall. (34)「主は,わ たしを引き止め,あなたを災いから守られた。あなたが急いで私に会いに来て いなければ,明日の朝の光が射すころには,ナバルに一人の男も残されていな かっただろう。」(『聖書』新共同訳)と訳されており,「列王記・上/下」にお 62 言語文化研究 第32巻 第1−2号
いてもそれぞれいずれも「男」と訳されているが,ともにロレンスの言う「壁 に向かって小便をする」の部分が訳されていない。そればかりか,King James
Version以外の聖書にはこの下線部が削除されていると思われる。ただ,『聖書』
(新共同訳)から判断すると,「壁に向かって小便をする」というのは成人の「男 子」(males or grown men)を指していることが考えられる。それに引用内の「ナ バル」(nabal)というのはヘブライ語で今日では「無神論者/不信心者」(atheist)
を連想するものの,ヘブライ人たちの聖書時代においては stupid, foolish,
wicked, selfish, worthless などを意味しており,それらの意味を含めた
かたちで,「サムエル記」では人物名として登場していると考えられる。従っ てナバル(Nabal)という人物は「愚かな価値のない男」という意味を背負っ ていることになろう。ロレンス自身がそう言ったことを知っていたという前提 で考えねばなるまい。そう考えることにより,ロレンスが『タンポポ』の絵を なぜ描いたのかという点でKing James Versionに残された「壁に向かって小便 をする」という言説が鑑賞者に前景化されることになるからである。ただロレ ンスは『タンポポ』を描く際に,実際には「壁に向かって小便をする」構図を 取らずに「タンポポの群れ」に向かって放尿することで,一層の輝かしい生の 表象が可能になると感じていたはずである。もちろん絵の中に壁を描くことは 忘れなかった。それがロレンスの確たるストラテジーとなっているのだろう。
ロレンスが手紙で「聖書にもあるように」と言及していることから,そのナ バルという男が『タンポポ』を描くきっかけになったと想像することは実に楽 しいことであり,この絵に対する筆者の行った新解釈にもなる。筆者の持論で あるが,ロレンスは決して画家であったわけではない。あくまでも作家なので ある。ただ特異であったのは,純粋に活字の世界に留まれず,とくに『チャタ レー夫人の恋人』(Lady Chatterley’s Lover,1928)執筆の頃から,自身の言語 の絵画(色彩)化ないし色彩の言語化の作業が著しくなったということであろ う。他の裸体画制作の状況から見ても,明らかに彼は『チャタレー夫人の恋人』
を中心に自分の著作を執拗にイメージ化させようとして,時には初期の小説の
D. H.ロレンスの裸体画『タンポポ』(Dandelions)における生の表象 63
一場面などを含め,さながら画家のように〈絵を作る〉ことに向かっていった。
それらのすべての表現の中にも当然このナバルのイメージは含まれているはず である。その意味で『タンポポ』には,言うまでもなく『チャタレー夫人の恋 人』に注入した全エネルギーが込められていると考えられる。しかるに直接そ のきっかけとなったのは明快にニュー・メキシコで執筆した「ヤマアラシの死 をめぐっての随想」( Reflections on the Death of a Porcupine ,1925)という エッセイに登場するタンポポに関する記述からであったと言えよう。このエッ セイはロッキー山脈内で醜悪なヤマアラシを殺害するという文脈において,適 者生存という生命の原理を前景化させることにより,タンポポの生命を位置づ けようと意図したものである。タンポポに関する言説の中からいくつかを抽出 して見よう。
! The dandelion in full flower, a little sun bristling with sun-rays on the green earth. (358)
「咲き誇るタンポポ,それは緑の大地で太陽の光線が充満している小 さな太陽」
" The ultimate source of all vitality... is where the dandelion blooms.
(358)
「あらゆる活力の究極的な根源は……タンポポの開花しているところ にある。」
# No creature is fully itself till it is, like dandelion, opened in the bloom of pure relationship to the sun, the entire living cosmos. (359)
「タンポポのように,太陽との,はち切れんばかりに生きている全宇 宙との合一という関係を満喫し開花するまで,どの生き物も全き自己に はなれない。」
$ Lo ! I am yellow ! I believe the sun has lent me his body ! Lo ! I am sappy with golden bitter blood ! (360)
64 言語文化研究 第32巻 第1−2号
「ほら,わたしは黄色に輝いている。太陽が自分の肉体をわたしに貸 してくれている。見てくれ,わたしは渋みの強い黄金色の樹液で満ちあ ふれている。」
タンポポに触れたこれらの四つの言説から見るだけでも『タンポポ』の絵に 表象されているものが満ち足りたかたちで受け止められるだろう。つまり,タ ンポポは太陽と大地の関係の調和によって生き生きと開花しているというこ と,そして生命力とい う 点 で「人 間 は タ ン ポ ポ の 半 分 に も 達 し て い な い」
( Man, as yet, is less than half grown. )(471)ということこそロレンスが本音 として言いたいところなのである。そしてその先に「開花に向かおうとする人 や生き物や民族は,いずれも自分より下位にある人や生き物から,莫大な量の 活力や熱っぽい生の力を吸い取らなくてはならない。そして万有のすべてのも のとの完璧なる関係を樹立しなくてはならない。」20)( Any man, creature, or race moving towards blossoming will have to draw immense supplies of vitality from men, or creature below, passionate strength. And he will have to accomplish a perfect relation with all things. )(472)というロレンス哲学が発露し,まさに このタンポポと人間の「完璧なる関係」がこの絵の主題となっていることが理 解できよう。
この『タンポポ』と小説「チャタレー」の三稿はほぼ同時期の作品であるが,
他の30点以上に及ぶ裸体画と同様に,作家としての言説との関係が色濃く見 られることは言うまでもあるまい。したがって,小説と絵画21)との関係を検証 することにより,ロレンスがどのような想像力の源泉を持っていたかを見てい くことができるだろうし,それを無視することはできない。小説の中で見ると,
初稿『第一チャタレー夫人』(The First Lady Chatterley,1944)の中では見ら れないが,第二稿の『ジョン・トマスとレイディ・ジェイン』(John Thomas
And Lady Jane,1972)においてタンポポが次のようなかたちで登場している
場面に遭遇する。
D. H.ロレンスの裸体画『タンポポ』(Dandelions)における生の表象 65
He[Clifford]felt that, in the universe, he was a thing apart, and that all the other things in the universe were probably taking away a portion of life he himself might have had. The expansive yellow face of the dandelion irritated him, with its crude yellowness and its exposed foolishness.(246)
ここから,聖書に登場するナバルの持つ意味とロレンスの用いたタンポポに対 する「無骨さ」( crude )や「むき出しの愚かさ」( exposed foolishnes )とい う表現が無縁ではなくなる。そして,このすぐ後の「森番パーキンの生き生き とした,戸外で働く者の健康さと孤独な快活さ」( Parkin’s fresh, out-of-door healthiness and solitary perkiness,... )(246)がタンポポと一体になり,一方,
機械を崇拝する文明人クリフォード(Clifford)は,タンポポに対して「いら いら」( irritate )させられ,パーキン(Parkin)に対して「不快」( exasperate ) にさせられる。ロレンスはこのような巧みな言語操作により,読者の前で,タ ンポポと森番を聖書のナバルに重ね合わせ,他方では,キリスト教精神を代表 させ,「自分より劣ったものたち」( all inferior to himself )と決めつけ,階級 に固執したコニー(Connie)の夫クリフォードに対峙させるという構図を作り 上げている。つまりナバルとタンポポと森番パーキンの三者がここで!がり「小 便」の意味が重なる。ここには,キリスト教からきたイギリス社会の精神とモ ラル中心の生活に対するロレンスの批判があることは言うまでもなく,それを ナバルという人物のイメージを登用させることにより,読者に伝えようとした のだと考えてみたい。
最終稿の『チャタレー夫人の恋人』の場合は,第12章の冒頭部分での,コ ニーが森に入り,タンポポ,キンポウゲ,デイジー,サクラソウ,ヒヤシンス,
勿忘草,オダマキ,ラッパズイセン,キンポウゲなどの咲き乱れる草花に接し て「生命の躍動」( the leap of life )に歓喜する場面である。「早咲きのタンポ ポの太陽のような群れ」( the first dandelions making suns )という描写に出会 う。そして中でもタンポポとキンポウゲの黄色が一面に広がり,「一面黄色で,
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初夏の勝ち誇ったたくましい黄色の世界」( It was the yellow, the triumphant powerful yellow of early summer,... )(248)と強調される。まさに「ヤマアラ シの死をめぐっての随想」の再現である。
さらにメラーズ(Mellors)と改名された森番がコニーに対して,「おめえが ウンコやオシッコをすれば,わしは嬉しい。オシッコもウンコもできんような 女は要らねえ」と,スカトロジーに関わる,方言丸出しのしゃべり方で語る場 面がある。
An’ if tha shits an’ if tha pisses, I’m glad. I don’t want a woman as couldna shit nor piss. Connie could not help a sudden snirt of astonished laughter, but he went on unmoved. Thar’t real, tha art ! Tha’rt real, even a bit of a bitch. Here tha shits an’ here tha pisses : an’ I lay my hand on ’em both, an’
I like thee for it. I like thee for it. Tha’s got a proper, woman’s arse, proud of itself. It’s none ashamed of itself, this isna. (223)
本書の特徴は方言の使用と猥褻と言われている,いわゆる四文字語(four-letter-
words)を使用していることである。筆者が調査したところでは, fuck と
fucking を30回以上, cunt を14回, ball を13回, cock を4回, shit と arse を各6回, piss を3回使用している。つまり,その中で piss を 使用しているのはこの引用文だけということになる。調査したところ,他のす べての著作にも使用されていない。イタリアのフィレンツェで私家版を出すこ とになるが,ちょうどこの『タンポポ』を描いた1928年3月頃,イギリスに おける出版をめぐって,小説内のかなりの四文字語を削除/修正を強いられる ことになるものの,ロレンスは英国の状況を鑑みて,精神生活に偏りすぎた弊 害として,肉体を隠蔽し,性に対する恐怖の観念が蔓延していると判断し,こ れらの四文字語の使用に関して次のような弁明を発している。
D. H.ロレンスの裸体画『タンポポ』(Dandelions)における生の表象 67
If I use the taboo words, there is a reason. We shall never free from the phallic reality from the uplift taint till we give it its own phallic language, and use the obscene words. The greatest blasphemy of all against the phallic reality is this lifting it to a higher plane. (334)
ロレンスは小説に対する〈猥褻〉攻撃を受ける中で,この小説が「繊細で,傷 つきやすい,男根崇拝の小説」( a delicate and tender phallic novel )であり,
英国人の精神的意識の偏重に対する勧告する「爆弾」( It’s a bomb. )である と反撃している。ロレンスのような生命論者の立場からすれば,精神的になり すぎ性に対する恐怖観念に満ちた英国の社会を,救出するには性に関する小説 によって行動する以外に方法はなかったと察するものの,この爆弾は発禁・裁 判という返り討ちに!う憂き目を見ることになる。22)性に対するロレンスの本 質的な捉え方は,まさにこの delicate で tender なものであり,そこには 暴力的な要素はない。畢竟ロレンスにとって「男根崇拝」というのは「生の根 源」と同義である。この小説の原題が『優しさ』(Tenderness)であったこと がその証左となろう。にもかかわらず〈猥褻〉という大衆の精神的波がこの小 説に対する襲撃をかけたのである。四文字語に関する修正を求められるとい う,それらのまさに生命と肉体を表象する言語の使用に刃を向けられたこと で,さまざまな苦悶を強いられるが,とりわけロレンスが『ジョン・トマスと レイディ・ジェイン』の中で The penis is a mere member of the physiological body. But the phallus, in the old sense, has roots, the deepest roots of all, in the soul and the greater consciousness of man, and it is through the phallic roots that inspiration enters the soul. (440)と二語の相違を述べていることに注目して読 むべきだろう。因みに,英語の俗語で,〈ジョン・トマス〉は penis を意味 し,〈レイディ・ジェイン〉が cunt を意味することを考えれば,この題名も
「爆弾」の一つになっていたと思われる。『チャタレー夫人の恋人』は John Thomas says good-night to lady Jane, a little droopingly, but with a hopeful 68 言語文化研究 第32巻 第1−2号
heart− (302)という衝撃的な一文で終わっていて,まさに『タンポポ』には これらの言説がすべて絵画化されていると見るべきであろう。
4.ま と め
本稿で「放尿図」のさまざまについて取り上げて述べてみたが,改めて,イ ンターテクスチュアリティの手法で見ていくと非常に興味深いことが分かって くることを指摘しておきたい。それぞれの絵について相互における直接の影響 関係について論じることは困難であるものの,!のガルガンチュアの放尿場面 は,ガリヴァーの放尿にその系譜を見ることができるし,槐多の「天の尿」に もその系譜を類推して見ることもできる。"のブリューゲルの『ネーデルラン
トの&』に描かれた図は16−17世紀の《民衆&版画》などに必ず描かれている
文化事象であることが分かる。#の coal-hole に向けて小便する子供の姿は ブリューゲルの『放蕩息子』の絵の中に描かれた姿と構図の面で酷似している。
$の仙'義梵の『いばり合戦図』と%の槐多の『 尿する裸僧』はともに僧侶いばり
であること,托鉢の鉢と小便壺の違いはあるものの,#の coal-hole なども 含めて,インターテクスチュアリティの視点から捉えて見ると何とも言えない 興味が湧いてくる。ふと詩人,金子光晴の「洗面器」という詩を思い出す。普 段は顔を洗うと思われている洗面器が,カレー汁用や,女たちの小便用に併用 されるというものである。金子は小便のイメージを呈示することで女性たちの 哀しみを孕ませた「洗面器のなかの/さびしい音よ」という見事な一連で始ま る詩を作ったと筆者は感じている。さらに鉢に向けてではないものの,槐多の 場合とロレンスのタンポポに向けて放尿する全裸の男とは当然比較対象にな る。筆者は,これらの時代と場所を超える中で,なぜ放尿図が数多く見られ,
画家や作家や詩人の中でイメージ化され具現化されてきたかということを考察 した。それらの絵を鑑賞する者にとって,猥褻・笑い・カーニバル・スカトロ
いと
ジーなどが浮上すると同時に,放尿という,生の激しさ,哀しさ,愛おしさと
D. H.ロレンスの裸体画『タンポポ』(Dandelions)における生の表象 69
いったものの表象を読み取ることも可能ではないか,ということを提言する。
本稿の趣旨は,それらの思いつくさまざまな絵画化された放尿場面の様子を 検証しながら,D. H.ロレンスのタンポポに向けて放尿する全裸の男を描いた
『タンポポ』における生の表象という視点から論じて見ることにあった。生の 表象という意味においては,槐多の場合東洋的なイメージが強く,生の横暴性 が圧倒的に感じられ,抑えきれない欲望からくる「射精のイメージ」と欲望を 抑えようとする「消火のイメージ」とが相重なっているように思える。一方,
ロレンスの場合,キリスト教との関係が強く感じられ,肉体と精神性との結合 を前景化させていて,〈静なるダイナミズム〉というか,どこかストイックな 静謐性を感じさせるところがある。端的に言えば,槐多の場合には激しい性欲 の発動と消火の相克が感じられるものの,ロレンスの場合にはそれがない。譬 えが良くないかもしれないが,あの仙!の『いばり合戦図』の老僧と若者を比 べる際に,生の引き潮にあったロレンスと上げ潮にあった槐多との二人を重ね て見ると一つの見方になるのではと思う。
さらにロレンスと槐多の放尿図から「血のイメージ」を引き合いにして見れ ば,いたるところで共通点が見つかる。たとえば槐多の「吾詩篇」の第四など では,
一,切にわが希ふは血。かの赤きいのちの液体。…… 四,天平のわれ らは嘗て亜米利加印度人の如く赤色なりき。しかもいま痛ましくもわれら 頽廃したるかな。…… 十九,汝等の真にかへれ。日輪の真紅にかへれ。
…… 二十一,白き女を殺戮せよ血のただ中に。……23)
と激しく唱えられているものの,ロレンスの読者は忽ちこの言説はロレンス自 身のものだと思うこと必定である。ロレンスの抱いた「血意識」の哲学,アメ リカ・レッド・インディアンへの共感,「白」で象徴される,自意識化した女 性に向けての勧告などを連想すれば十分に事足りる。また筆者はどうしても 70 言語文化研究 第32巻 第1−2号
フィレンツェのアカデミア美術館で見たベルナルド・ダディ(Bernard Daddy,
1320−48)が描いた『キリスト磔刑図』(Crucifix)を思い出してしまう。キリ ストの右胸から勢いよく迸る血を天使が受け皿で受けている図像である。イコ ノグラフィとしてよく用いられる描写であるが,筆者にはなぜか,このキリス トの血流が命の水そのものに思え,どうしてもロレンスと槐多の放尿に"がっ てしまうのである。とくに槐多の言説には強烈な血と放尿の同一性が感じられ る。事実確認はできていないものの,インターネット上で,《新約聖書・ヨハネ の黙示録21:6》に記されている「事は成就した。わたしはアルファであり,
オメガである。初めであり,終わりである。渇いている者には,命の水の泉か ら価なしに飲ませよう」の部分の〈命の水〉は,〈神の水〉のことであるが,
その正体は〈小便〉のことである,と主張している文に出会った。もしそのよ うな解釈が証明できるとすれば,この『タンポポ』を解釈する上でいっそう興 味を深めることができるだろう。
※D. H.ロレンスのテクストの引用部分に付した括弧内の数字はすべてCambridge University
Pressの頁数である。なお,英文に付した下線はすべて筆者による。
注
1)The Canterbury Talesのコーパスを参照した。Wife of Bath’s Prologue 121,134,534,
729, The Canon Yeoman’s Tale 792,807, Introduction to the Pardoner’s Tale 305, The Parson’s Tale 859, The Millers Tale 3798, The Reeve’s Tale 4215に使用されている。
なお,ソクラテスの件は Wife of Bath’s Prologue 729に出てくる。[この件に関しては,
大阪商業大学の笹本長敬氏から情報を寄せていただいた。]
2)John Buchanan-Brown, Early Victorian Illustrated Books : Britain, France and Germany 1820−1860(The British Library and Oak Knoll Press,2005), p.23.
3)ラブレー著,渡辺一夫訳「ラブレー 第一之書ガルガンチュワ物語 第二之書パンタグ リュエル物語」『世界文学大系8チョーサー・ラブレー』(筑摩書房,昭和36年),208頁,
342頁。
4)ジョナサン・スウィフト著,富山太佳夫訳『ユートピア旅行記叢書第6巻−18世紀イギ リス!,ガリヴァー旅行記』(岩波書店,2002年),55−56頁。
D. H.ロレンスの裸体画『タンポポ』(Dandelions)における生の表象 71
5)森洋子著『ブリューゲルの!の世界−民衆文化を語る−』(白鳳社,1992年)。一連の引 用については,本書の149−151,340−341,437−444の各頁による。
6)インターネット記事で Some telling details in Hogarth’s The Enraged Musician, (British Art Journal, The Free Library, June22,2010)から参照した。
7)中山喜一朗著『仙"の○△□−無法の禅画を楽しむ法−』(弦書房,2003年)。一連の言 及については,本書の8−21頁による。
8)窪島誠一郎執筆『村山槐多』(新潮日本美術文庫42,新潮社,平成9年)。『尿する裸僧』
解説より。※当該部分に頁数の記載なし。
9)高村光太郎が村山槐多の死を惜しみ,槐多の没後16年(昭和10年)に「強くて悲しい 火だるま槐多」を含む「村山槐多」という詩を作った。光太郎の詩と同時に,井田康子著
『高村光太郎の生と死』(明治書院,昭和54年)の64−66頁を読んでほしい。
10)山本太郎編『村山槐多詩集』(世界の詩70)(彌生書房,昭和49年),137頁。
11)伊藤匡ほか編『生誕100年村山槐多展図録』(福島県立美術館・三重県立美術館発行,
1997年)によると性器をデッサンしたものには,「坐せる男性裸像」(1914,鉛筆)「尿す る裸僧」(1915,鉛筆)「尿する男」(1915,木版画)「[スケッチブックA]無題」(1915,
ペン)「[スケッチブックA]しゃがんだ男」(1915,ペン)「[スケッチブックA]男」(1915,
イ ン ク)「踊 り「[エ ス キ ー ユ]」(1917,ペ ン)「男」(1917−18,油 彩)「座 っ た 裸 の 男」
(1918,ペン)「坐った裸の男」(1918,ペン)がある。また詩「一本のガランス」「電車と 静物(抄)」には〈魔羅[ペニスを指す隠語]〉を示す部分を□□で伏字にして出版されて いる。
12)『村山槐多詩集』前掲書,116−117頁。
13)1929年6月14日に開幕(入場料1シリング)。連日満員で,最初の一週間で3,500人訪 れている。9月までを開催期間としていたが,約13,000人を記録した後,7月5日に官 憲が入り25点の裸体画のうち13点が撤去押収される。特に『ボッカッチョ物語』は官憲 の警棒により園丁の男根の部分が破かれた(現在は修復されて残っている)。絵をめぐっ ての公聴会の末,二度と英国で展示しないという約束で返却された。個展そのものは,初 期の水彩画などを代替に展示することにより8月末まで続行された。
14)画廊主はドロシー・ウォーレン(Dorothy Warren,1896−1954)で,出版者はパーシー・
スティーブンセン(Percy Reginald Stephensen,1901−65)。ロレンスはスティーブンセンに 宛てた手紙で,「画集から外しても気にしないよ」( Are you sure you want to printLedaand Dandelions? I don’t mind if you leave them out. 14January1929)と書いている。
15)スティーブンセン宛て(1929年7月1日),ドロシー宛て(1929年7月14日),エニッ ド・ヒルトン宛て(1929年9月3日)に同じ文で書いていて,この絵に対して親しい人た ちからも理解されない,ある意味の無念さも込められているような気がする。
16)キース・セイガー氏は『タンポポ』のほかにも,ロレンスの裸体画についての詩を5編 作っている。先ず,氏の詩集The Reef and Other Poems, Poem Pamphlets(The Festival Office, 72 言語文化研究 第32巻 第1−2号