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幼児期における身体表現の芽生え

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Academic year: 2021

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(1)83. 幼児期における身体表現の芽生え 名須川知子* (平成7年9月20日受理). 1.問題と目的 幼児を対象とするものの中で,保育研究というものは, はっきりと保育実践研究として位置づける必要がある。 そのような問題意識をもちながら,研究方法を模索し, そのひとつとして,現象学的保育研究というものに出会 うことが出来た(1)それは1974年以前から行われてい るものであり,そのころからもう20年以上の年数を経る に至っている(2)一方, 1989年(平成元年)文部省か ら25年ぶりに幼稚園の新教育要領が告示され,その3年 後である1992年には,幼稚園教育指導資料第3集「幼児 理解と評価」が公刊された。そこには, 「表面に表われ た行動から内面を推し量る」という幼児の行動の「意味」 を読みとろうとする保育実践の在り方が示されてい る(3)すなわち, 20年前に保育研究方法として提言さ れたものが,現在の幼児教育の実践現場に取り入れられ ようとしている。果たして,この現象学的保育研究とい うものが,保育の実践の場と保育の理論研究をつなげら れるものであるのか。それははまだ十分検討されたもの ではないが,まずは,この方法に準拠して,幼児の行動 をとらえたいと考える。その理由としては,第1に幼児 の行動そのものは,いわゆる日に見える部分としては, たどたどしく,また,これから大人に妄る準備段階のよ うにしか受け取られかねないものであることによる。し かし,この行動の捉え方の背後には,年齢に従い上昇方 向に発達していくであろう,という発達可能性を確信す る旧い発達観が潜んでいると言えよう。 次に,第2の理由として保育内容の立場から, 「表現」 を考える際,幼児の行動に表われる表面的な事柄だけを 見るのではなく,行動の内面をも含めて捉えていく必要 があることによる。これは,幼児だけに限られたことで はなく,言葉,普,絵画,彫刻,動き等の様々な表現媒 体を用いてなされる活動も,あるいはその表現行為を受 け手が読みとる際にも必要とされる精神活動である。. その中での応答は,真剣なものであっても保育経験から の行動であり,また,子どもと共に過ごす時間を終えた とき残るものは,保育者自身の中でつかんだ印象,感じ られたものであろう。これら経験も含めて,きわめて主 観的であり,すなわち悪意的なものであるとして科学的 といわれる従来の研究からは排除されてきたものであ る(4)しかし,それら保育者がつかんだものは,現実 の保育の中心であり,そのとらえたものや,感じたこと によって保育が営まれていることを考え合わせると,研 究対象としての保育や子どもを複雑な日々の保育現象か ら切り離してとらえることが出来るのだろうか。以上の 理由から現象学的方法をとって保育研究を進めようと考 えた。次にその保育研究における現象学的方法について 概要を示そう。 2.保育研究における現象学的方法 この方法は,まず保育の事実から出発し,保育の実践 において得られる事実をもとにしてつくられる保育理論 というものが根底にあるとされている(5) その方法は,大きく3段階に分けられよう。すなわち, (1)行動現象をありのままに見ること(2)行動現 象の解釈(省察1), (3)弁証法的思考(省察2)であ る。 まず, (1)について,津守は, 「現象をあるがままに 見て記述し,その本質を明らかにしようとする」(6)こ とであるとし,そこでは,観察者であり,保育者でもあ る大人が事柄に注意を払ってみる,という志向性がまず もたれなければならないとしている。つまり,幼児の行 動を単に行動記録としてなぞって記述するのではなく, 目の前のその幼児の行動が「その存在の世界の表現であ ることを意識することによって,子どもの行為を意味を もってとらえることができる」(7)という立場をとるこ とである。また,解放性として,子どもを見る側の態度. 第3に,保育という教育現象を考えると,そこには, 生きた子どもがいて,その子どもと絶えずかかわりを もって,子どもと接していく大人である保育者の存在が ある。実際に,そのかかわりは子どもとの応答の中でな され,時間と共に流れていく実践である。いちいち子ど. が開かれているかということ,すなわちそこでおこって. もの様子を書き留めていくことは不可能なことである。. で起こっている現象は,見る者の目によって限定されて. *兵庫教育大学第1部(幼児教育講座). いることをできるだけそのまま感じられる心の状態をさ す。それは, 「自分が自由に感じることができるような, 解放された心の状態」ということ,すなわち「解放性」 が観察者の取るべき心構えとなる(8)さらに,今ここ.

(2) 84. いるという認識,すなわち「現実性」がある。これにつ いては,子どもの行動の背後には,その子どもの内的世. -身体の感受性とは「とりわけ情緒的で主観的な効果を もつもの」(18)であるとしている。それは,概念として. 界があるという認識と同時に, 「また,自分自身の世界 をもったおとなが,子どもの行動をとらえる」(9)とい う事実にも顧慮しなくてはならない。 一方,これらの行動については,すべてを記述するの. は「非常にあいまいな概念で,いわゆる内臓感覚, (中略) 内受容的感覚と呼ぶ感覚と,自己受容的,ないし姿勢的 と呼ぶ感覚の両方」(19)を含むとされている。そして, 「(後半の)自己受容的感覚の末梢は関節や筋肉にあっ. ではなく,その幼児とかかわる中で印象的に感じとった ことを記述として残すことになる。その理由として, M.J.ランゲフェルト等は,意味確保的,志向的に確実 であることを求められているものであるとし,内容的に. て,姿勢や動作がこの感覚を引き起こす刺激になる」(20) としている。ワロンはこの論文の中で身体的なものとし ても特に姿勢,情動といったことを論じている。確かに, 心に感じることがらがあって,動きを用いて表現するこ. 確実性を要求するものではない(10)と述べている。つ まり,行動の意味を読みとろうとし,その幼児の行動の 背後に向かって意志的に見る目が働くことがこの方法に おいて重要なことであり,行動の内容が必ずしも確実で あるものを要求していない,ということを示している。. とがある一方で,身体の動きが刺激となって,そこに何 かを感じる作用も働くことが予測できよう。ここでは, むしろその「自ら身体を動かすことによって,何か感じ ること」を示していると考えられる。これは,動きを「見 る」ことによって感じるということとは異なるものであ る。このことについて,津守は, 「子どもと一緒に走り,. そこでは,観察者の印象に残ったり,感じとられたもの が優先される。この記述することに関しては,若干の問 題が残されており,それについては後述する。 次に, (2)の段階の行動現象を解釈することについ て述べる。ここでは行動を理解するための「意味了解,. 手を動かし,体を動かすことにより,子どもと体験を共 有することが,子どもの世界をとらえるのに役に立つ(21) と述べているが,共に動くことで「世界を感じる」こと が可能であることを示唆している。さらに,具体的にそ. 意味解明的」(ll)な作業をおこなうことである。 H.ダン ナ-も「解釈学の中心概念は『理解』である」(12)と述 べているように,解釈することによって,理解に近づけ ようとするものである。これは保育と関連させ, 「体感 によってとらえられた表現としての行為から,新たな意. の感覚を「触運動感覚」という用語によって,保育論を 展開している。すなわち, 「保育は,ことばによって組 立てられたものではない。保育は,身体を動かし,心を 通わせ,全身の感覚をはたらかせてなすわざである。視 覚や聴覚はもちろん,もっとそれ以上に,触運動感覚が. 味を建設する作業は解釈学とよんでいいだろう」(13)と 述べられている。すなわち,その行動の背後にある幼児. 主となって成り立っている」(22)のように,前述のワロ ンで言うと,感覚器官ももちろんであるが,それ以上に 自己受容的感覚である体感の効果の高さを主張している と言えよう。さらに,保育の場面で, 「子どもと共に走 るとき,運動感覚で,子どもと同様の体験をする。そこ では,見ているだけの場合とは異なったものが伝わって くる。また,子どもが泣いているとき,見て知るだけで. の内面世界を感じようとし,その行動ひとつひとつの場 面で,その幼児の行動が表現であると確信を持って接す ることでもあろう。つまり, 「子どもの現象を通して, その奥にあるものをとらえ,それは何であるか考えるこ と」(14)である。そのように行動を見ることによって, 何気ない日常的な行動であってもそこに兄いだされる意 味は異なってくる。このことを津守は, 「子どもがほと んど無意識のうちにとらえている意味を,おとなの理解 しうる意識の中に持ち込む作業である」(15)としている。 さらに,解釈することとは, 「体感の記憶をもって, もう一度あの何とも言い表わしがたい実践のさ中の体感 に立ち戻ること」(16)をも含んでいる。つまり,実際の 保育後の解釈をする際には,体感の水準にひきもどすこ とによって省察可能となるとされている。このように, 保育後の様子をただ言葉に書き表わすだけではなく, 「体感」をもって思い起こすことが要求される。 では,この「体感」とは,どのようなものをさすので あろうか。 H.ワロンも体感について, 「身体の感受性は, 体感(cenesthsie)と名づけられ,感覚器官の感受性と 対立するものrと述べている。感覚器官の感受性とは, 外界のものを感覚を通して感じとるものに対して,体感. なく,そばにゆき身を寄せるとき,身体の接触を通して 子どもの中に何ものかが伝わってくる」(23)と説明し, 観察者や保育者が, 「そばに行く」こと,そして「身体 の接触」によるという身体の動きを実際にとることで, その幼児の行動を眺めて観察するものとは違ったものを 感じ得るものであるとしている。 このような非言語的であるが,感情伝達の機能を「直 感」という言葉であらわされる。ワロンはこれを「意識 下のサインの交換」とし,そのサインは, 「単なる姿勢, 時には微妙な姿勢であって,それが顔や手やからだ全体 の表情の変化としてあらわれる」(24)と説明している。 このことを保育の場面についてみると, 「保育者自身, 子どもと同じ地面に立って,相互にかかわりあい,子ど もが変化するとともに,自分も変化してゆく。子どもは もはや保育者にとって知的に知る対象ではなく,共に身 体を動かし,相互に言葉をかわし,感情を交流し,共に.

(3) 幼児期における身体表現の芽生え. 信頼しあう,共に生活を作り上げてゆく相手である」(25) とされ,その子どもとの共同体としての保育者の姿がう かび上がってくる。 また,津守は,触運動感覚に関連して, 「動きのイメー ジ」を提言している。これは,想像することをさすイメー ジや,象徴的な意味でのイメージとは異なる。すなわち, 「物質のイメージは,触覚,運動感覚等,身体の感覚に もとづくものである」(26)としている。つまり,砂を思 いうかべる際に,サラサラしたや,ザラザラした感じと いった,触れた感覚を思い浮かべることをさす。これら の感覚は, 「おとなも,子どもと同様に,自らの身体感 覚によって体験し,身体感覚の水準で共感することが理 解の出発点となる」(27)と述べられているように,忘れ てしまった感覚を体験することで理解の糸口になり得る のである。すなわち, 「保育者は,子どもの活動に参与し, 子どもがふれるのと同じ物質に直接ふれることにより, 物質のイメージを体感することができる」(28)のである。 このように,身体の動きを通して観察することを「参 与観察」とよぶ(29)以上のことから,この観察法をと る妥当性が明らかとなったと言えよう。. 85. 新たなる実践であることを示している。いずれにせよ, 長期的な視野で,継続的に個々の現象,解釈を思索しつ づけることで,弁証法的な思考も可能となるのである。 また,実践の後に,何度も立ち返って省察することも要 求される。 さて,このような解釈の前提になるものとして,前述 したように「観察記述」の問題がある。これは,体感で 獲得したものを言葉によってあらわす,という作業であ るということから, 「言語以前の身体感覚に伴うものな ので,文字で記述することが困難」(33)であると指摘さ れていることである。また,津守はM.ボンティを引用 して, 「ことばは,すでに2次的知覚であって, (中略) ことばになる以前のもとの体験にもどって見直さなけれ ば,すべてのことは表面的理解にとどまる34)のような, ことばで記述する際の警戒を促している。ここでの「も. さて,次に(3)の弁証法的思考についてみると,そ れは, (2)での省察をさらに深めた段階であると言える。 撹.ダンナ-は,人間科学的弁証法として,弁証法的思. との体験」とは,前述した「体感」の記憶をもって,そ の事象を思い起こすことである。さらに,ここでの記述 は,単に目に見える行動を記録することにとどまらない。 つまり, 「触運動感覚によって,たちまち知ることので きることがある。これは客観的な行動記録ではとらえら れない内面の過程である。しかも,単に,内面だけのこ とではなくて,外在する物質との接触によって,外に形. 考として説明している。そこでは, 「理解のための弁証 法は,憶測と事実のあいだに生じる矛盾を教育的現実に. を表出してゆく過程である。」(35)と述べられているよ うに,内面の経過説明ではなく,新たなる形を示してい. とって生産的なもの-と止揚するための,省察の手段と なりうる(30)としている。複雑な保育現象にあって,各々 の場面での個人としての幼児の内面世界の解釈には,時 として相互に矛盾が生じる場合も多々起きてくる。或い は,どうしてもわからない現象も起こる。しかし保育者. くことでもある。すなわち,弁証法的思考により生み出 された事柄は,理解のなかでも「創造的理解」(36)とし て位置づけられるものであろう。. は,その矛盾や疑問を抱きつづけながらも,目の前の行 動はその幼児の表現のあらわれであるという観点で見続 け,その幼児の行動の背後にある牡界を感じとろうとす る時,新たなる理解に導かれることがある。もともとは その行動の意味解釈に依存していても,ここでは「意味 付与」という用語によって, (2)で解釈した事柄につ いて,さらに新たなる意味を思索によって見出すことを さしている。いや,むしろ「ある事柄が有する前もって 与えられた意味を越えざるをえない」(31)ものであり, 現存している意味に依存し,その限界でとらえられてい るものの,そこから自由になり,踏み越えることの出来 るものとなるのである。それは,換言すれば,事柄の所. 以上,現象学的保育研究の方法について,その概要を 述べたが,次に,この研究方法をもちいて,ある保育現 象を解釈,省察することにより,一人の幼児の内面世界 をとらえ,その成長を垣間みることを試みたいと思う。 3. A男にとっての「車」の意味 研究方法:兵庫県内M保育園の男児1名(A男, 1991 年9月19日生まれ)について,行動観察し,その記録を もとに,現象学的方法によって,整理した。なお,観察 は,参与観察とした。観察期間は, 1993年4月21日から 1995年9月6日でありA男の年齢は, 1歳7ケ月2日か ら3歳11ケ月17日の間である。観察は,原則的に1週間 に1回保育園を訪問して行った。観察時間は,自発的な. 与性の意味解釈から新しく導かれる本質的な意味をさ す。 このことを保育現象と重ねあわせると, 「行為の意味 は保育者が子どもに応じ,場面によって応じて新たに発 見されるのであって,同様の行為も一回ごとに違った意. 行動場面の多い平日の午前中,主に, 9時半から11時半 の間に行った。総観察回数は, 53回,総時間数は74時間 35分であり, 1回当たりの観察時間は平均84分であった。. 味をもつ」(32)ことと言えよう。そこでは,保育は日々. 自分も乗れるトラック,プラスチック車,三輪車,積み. 結果及び考察: A男に関する53回の観察中,手押し車,.

(4) 86. 木で車を見立てたもの,ミニカーなど乗り物である「車」 に関する記録は, 37回であった。その割合は,約70%で. [事例3] 1993年7月14日観察(1歳9ヶ月) うろうろしながら三輪車をみつけ,それに乗る。「ピッ. あった。 A男の2年4ヶ月間の記録として,この事に関. ピーピー」とリズミカルな音で,歌うように声を出す。. 係する事柄は特徴的なものであると言える。すなわち,. 自分の行く方向を人差し指で指し示す。. 他の事柄に対して,車に関する記録が多いのである。そ こで, A男の生活事象の中での「車」の意味を省察する. この事の意味は,今までと若干異なるようである。つ. ことにより,彼の内面世界の形成をたどることを以下に. まり,その事を「車」として,それに自分が乗って,運. 試みた。ここでは,年齢における「車」の持つ意味を明. 転しているという「見立て」のようなものが働いている. らかにしたい。. ようにみられる。また,行き先を指さすという行為は, 自分がそちらの方へ行きたいという志向性のあらわれで. (1)所有から支配へー1歳代にとっての車. もある(37). 1歳7ケ月2日から2歳直前の2歳11ヶ月20日の4ケ月 の間, 9回の観察を行ったが, A男はそのいずれも「車」 を用いて行動していた。その事例は次の通りである。. [事例4] 1993年7月21日観察(1歳10ヶ月) 車をとりにいって,車を押していく。滑り台の反対か ら上がろうとする。車を押し上がろうとする。. [事例1] 1993年4月21日観察(1歳7ヶ月) A男は,手押し車を押しながら,他の幼児の様子を見て. これは,滑り台に関心を持ち始めた頃の記録である。. いる。他児がA男の車を横から押すがA男は押されるま. A男は滑り降りる前に,まず車を滑り降りる方から押し. まになっている。しばらくして,車からはなれ,ジャン. 上げようとした。その後,自分自身が近くの保育者に頼. グル・ジム-いく。車はその近くにおく。再び,車に戻. んで上にあげてもらい,何度も滑り台の反対方向から滑. り,押し始める。. り降りることを試みた。ここでは, A男の滑り台に対す る関心の強さを見ることが出来る。そのことは,自分の. このように,車を使いながら,他の活動-移動する際 はその周囲に自分の車をおいておく,という行動が他に. 気持ちの代弁者でもある車を滑り台へ持っていって昇ら せようとしていることが窺われよう。. もみられた。これは,一応他の活動-移るにしても,と りあえず自分の領域内のまるで見えない糸でもその車に つけているかのような取扱いをしているのだろう,と推. [事例5] 1993年9月8日観察(1歳11ケ月) A男は車を手で押し,くるくるとその場を回りながら,. 測された。例えば,なにか周囲で気になることがあって. 何かつぶやいている。遊戯室にあるフープにわざと車を. も,片手で車を確保し,その気になる方をみている行動. ぶつけ,次にマットの方-行き,車を押して,ひもをひっ. もあった。これは,次の事例でも見受けられる。. ぼる。他児のトラックに自分の車をぶつける。. [事例2] 1993年6月2日観察(1歳8ヶ月). ここでは,車を使って, A男が自分の意志を成し遂げ. 手押し車が,うまく前に進まず,途中で何度もひっか. ようとしていることがわかる。何か物に向かって,ぶつ. かりながら動かしている。近くの他児のサラ砂づくりの. け合いたいのだが,それを自分の前の車を使うことに. 方へ行く。観察者(私)が,その車の不調を調べようと. よって可能になるのである。ここでの車はA児の思いを. してA男が車を離れたあと,その車にさわると, A男は. 成し遂げられ,思い通りにな.る存在であると言えよう。. あわてて車-戻ってきて, 「アカン」と言う。. さて,このように1歳代のA児にとって,車の意味は, この時,まだA男は十分言葉が話せず,語嚢も非常に. 明確な自己所有,そして,その車-の支配,さらにその. 乏しい頃であった。しかし,自分のものをとられてしま. 車を使用しての自己の意志の達成を窺い知ることが出来. うかもしれない,という危機感をもって「アカン」と言っ. たと言えよう。次に2歳代のA男について,検討する。. た。車に対する自分の所有権をはっきりと示しているよ うに思えた。このはっきりした所有の意識は他の玩具に. (2)拡がる起点として-2歳代の車. 対してはみられない。しかし,車は1種類とは限らず, 他の種類の車でも同様なことが起こった。. [事例6] 1993年10月6日観察(2歳0ヶ月). このような「車」への所有が明確になった後,車を使っ. A男はトラックの車に乗って,滑り台へ行き,次いで,. て,音声を出したり,車を様々な物に使い始めるように. スコップで砂をすくう。そのまま車に乗ったまま,滑り. なる。. 台の下をくぐって移動する。観察者の声に振り向き,そ.

(5) 幼児期における身体表現の芽生え. の車の上に立ち,飛び降りる。観察者が「すごい!」と 声をかけると,もう一度やってみせる。 ここで, A男は初めて,トラックの車の上に立ちそこ から飛び降りる行動を示した。これは,その行動に挑戦 するというよりも,見ている私に対して,その"技"が 出来るところを示したものであったと言えよう。つまり, はっきりと他者を意識し,また「飛び降りる」ことを「す ごい技」として, A男が認識していることを示している。 ここでは,はっきりした他者に対する示威を感じさせ, それは一方でA男が外側に内面を自ら開いた瞬間でも あったと言えよう。 [事例7] 1993年10月26日観察(2歳1ケ月) A男は,玩具箱から小さい車をみつけ,さらに,その 箱の中を何かさがしている。側にいた2人の保育者が何 をさがしているのかたづねたが, A男の返事からはよく わからない。 A男は,隣の部屋に行き,引き出しの中を 見ようとする。しかし,みつからない。部屋の中から保 育者を呼び,何か訴える。その保育者は, 「なあに?こ れ?」と言って,ポケットからミニカーを取り出す。 A 男は,差し出されたミニカーを手にとって,走り去る。 ここでは, A男はとにかく自分から何かを探し求めよ うという姿勢が見受けられる。それもかなり積極的な行 動である。自分の周辺だけではなく,隣の部屋に言って, たづねる様子をすることからも窺われる。この時はまだ, 言葉が十分通じる程ではなく,保育者にもA男の伝えた いことがよくわからないこともあった。保育者の示した ミニカーは, A男の欲求に一致し,彼は,大変満足気に その車を受け取っていた。 [事例1993年12月8日観察(2歳2ヶ月) A男がトラックに乗っている。 B男が「Aちゃん, ちょっと,まっとき」と言って, Aの乗っているトラッ クの荷台に砂を入れる。 (中略)その後しばらくして, 砂場でA男がB男と木片を立て, 「クレーン,クレーン」 と言って,クレーン車に見立てている。 A男は, 「クレー ン,きたで」とか, 「クレーン・カー」と言って,木片 をうごかしている。木片を積み重ねてクレーン車に見立 てている。 (写真3) ここでは, A男が, B男と2人で車を媒介にして活動 している。このような,他児とのかかわりがいままでも みられたが,この事例の後半で見られるように, 2著聞 のイメージの共有によって,活動が展開していった初め ての事例である。ここでは,木片をクレーン車に見立て る活動が行われ,このイメージの共有が同年齢の幼児間. 87.

(6) 88. で活動の中心としてあらわれていることが注目される。 [事例9] 1994年1月12日観察(2歳4ヶ月). 「忍者レインボー」と言って,手をまわしながら走る。 3人の男児で積み木に乗る。それを電車に見立て,その 積み木に乗ったり降りたりしている。. A男は,トラックに乗り,保育者にトラックの先につ いているひもをひっぼってもらって,移動している。口 を大きく開けて,ニコニコして動かしてもらっている。. ここでは, 3人男児で忍者の振りをしている様子で あった。そして,横に並べられた積み木を電車に見立て,. 次に,年長組の幼児が保育者の代わりにひぼってくれる。. 3人で並んで乗ったり,降りたりしている。忍者の活動. (中略) A男は次に三輪車にひもをつけ,観察者(私). の中での様子だが,車でないものを「電車」に見立てた. にひもの先を持ってひっぼる様にと振る舞う。そして,. 活動である。これは,事例8にもあったような木片のク. 今度は,他児がその三輪車に乗り,私が三輪車の先のひ. レーン車にも同様なことであるが, 1歳の頃からの慣れ. もをひっぼり, A男は後方から三輪車を押す。. 親しんだ車について,そのものがなくても代用すること が出来るようになったと言えよう。. ここでは,自分が車にのり,それを大人にひっぼって もらうことが嬉しくてたまらないという表情であった。. 以上, 2歳代のA男の記録であるが,ここでは,車と. 次に,三輪車にひもをつけることを考え出し,そのひも. いう物を媒介としてA男自身が周囲に開示していく様子. を私にひっぼるように,とでも言うような動作でひもの 先を手渡そうとした。言葉はなかったが,その要求は私. を窺い知ることが出来た。つまり,飛び降りる「技」を 他者に見せようとすること,自分の求めている車を積極. にもわかった。そして,その楽しさを他児にも味わわせ. 的に探し,たずね求めること,見立てによる他児とのイ. てあげよう,とでもいうように,自分は後方から押す役. メージの共有,活動の転化,である。これらは,周囲の. を始めた。ひもをつけるという応用的な行動だけではな. 仲間,人-と範囲を拡げ, 1歳代の車への自己意識の確. く,自分と代わって他児をのせてあげて喜ぶ様子が見ら. 立を,さらに車が自己の存在であるかのようにますます. れた。. 確かなものとしながら,そこを起点として,外側に向かっ て働きかけて行く姿勢が見られた。. [事例10] 1994年4月28日観察.(2歳7ケ月) 女児が大きなスコップで,地面に線をつけている。他 児は,その線を高速道路や道に見立てて,その上を車に. 次に, 3歳代のA男と車について,考察しよう。 (3)属性を離れた使用-3歳代の車. 乗って走っているが, A男はそれらの線とは関係なく, 三輪車に乗って走っている。 A男が三輪車を少し離れた 途端, 5歳女児がその車に手をかけ,乗ろうとする。 A 男は,急いでその三輪車のところに戻り,取り戻そうと する。. [事例13] 1994年10月19日観察(3歳1ヶ月) 大型積み木を横に並べ, 5人の幼児がまたがって並ん で乗っている。先頭の部分には積み木が縦におかれてい る。保育者が近くにいるA男に「Aちゃんものりよ-」 と声をかける。 A男はその声に答えるかのように,みん. ここでのA男は,三輪車に乗っていることが,自分ら. なの中に入って積み木にまたがる。. しくあることのできるところであり,乗っていることで 自分にとっての「中心性」をしっかりもっているような. これは,事例12と同じような活動である。ここでは,. ところがある。つまり,この線に従わず,自分自身で行. 多くの人数の子どもたちとのイメージの共有がなされ,. きたい方向に車を走らせている様子を見ても,それは地. A男もこれらの活動を電車かバスに乗るようなものとイ. 面の線を無視しているというのではなく,その線を知っ. メージしているらしい様子がわかった。その証拠に保育. ていながらも自分が敢えて,自分の道を行っているとい. 者から声をかけられるとすぐに,他の幼児の間に入って. う,自信のようなものを感じさせるものであった。自分. 乗り込んだ。そして,その後A男は「ちょっと,まっと. より年長の子どもたちの中にいて,自分の思いを全うさ. いて」と言って車をまっててもらうような行動を示した。. せるようなこのような行動は,三輪車が彼にとっての行 動の支えであり,それが自分という存在と重ねあわされ ているようにも見られた。. [事例14] 1994年11月8日観察(3歳1ケ月) 砂場で車を動かす。 B男が,砂を車に入れながら「お もちのお米」と言う。 A男が「ちがうわ,かきごおり」. [事例11] 1994年7月20日観察(2歳10ヶ月) 大型積み木が横1列に並べられている。 A男は,他児 の言葉をききながら,自分も「忍者,ヒショード-」. と言う。 B男は「ごはんや,やっぱり」と言いかえすが, A男は「まだ出来てない」 「トラクターじゃないよ」と 答え,さらに車に砂を入れて, 「できたよ-」と年長児.

(7) 幼児期における身体表現の芽生え. の男児に言う。 この事例は,車をかきごおりづくりの機械に見立てて いる様子である。この後,車をひっくり返して,輪のと. 89. というような活動の中でも様々な役割りを担っているの を見ることが出来た。また,自分にとって大切なもので ある車をとられることに共感していると思われる姿を垣 間みることも出来た。. ころに砂をかけ,その輪をまわし,かきごおりをつくっ ている行動もみられた。いずれにせよ,ままごとの中で の車の使用として,はじめて「乗る」行為以外に使われ た例である。. 'jmm冒. A男の1歳7ケ月から4歳直前までの活動を整理した 結果,車という物との記述が全体の7割に見られ,彼の 精神発達にとって,この車の果たす役割の大きさを窺い. [事例15] 1995年2月24日観察(3歳5ヶ月) A男は,やっとみつけた三輪車に乗ろうとするが,他. 知ることが出来た。その内容は,車とA男という関係か ら成り立っているものだが,まず,車を支配することを. 児にとられる。しばらくして,アスレティックの方-行. 通して,車と一体化することで自己を確立し,その後,. き,上の方から「カクレンジャーごっこ,している」と. その事を介在して周囲の仲間,事柄-と行動範囲を拡げ. 観察者(私)に言う。 C男が上から「犯人はあいつだ」. ている様子が見出された。さらに, 3歳になると,「乗る」. と言った言葉を受けて, A男も「あいつか-,犯人は」. 車から,その属性を離れた物として登場するようになる。. と答え,片目をつぶる。そして, A男は三輪車の持ち主. このように見ると, A男にとって,車を十分使うこと. のところ-走っていく。しかし,車はうまく取り戻せな. は, 1歳代での安定感を強めるものであったし,そこを. い。A男はもとの所に戻ってきて, 「ぼくの三輪車,とっ. 起点とした拡がりも2歳代で可能になったと思われる。. てる,いけ-」と言う。 D子が「いけ一,と言わず,早. そして, A男と車の間の距離も3歳代になると一体化か. く降りていらっしゃい」とA男に答える。しかし, A男. ら別の物として働く事が可能となるのである。この間に. は上から「やっつけろ-」 「ひかりをくれ-」と大声で. は,その活動と並行して, 2歳0ヶ月のA男のテレビの. 繰り返し叫ぶ。そして,両手を上にあげて, 「早くとっ. 模倣のような,カゴからの出入りや,形のある紙粘土を. てこい」と言う。. わざわざバラバラにして,またひととところに集めると いう行為(2歳4ヶ月),砂でつくった山の中へ木片を. せっかくみつけた車を取り上げられて,随分悔しい思. 出し入れする行為(2歳4ヶ月)や,彼自身が片付けの. いをしていたのだろう。その思いをカクレンジャーごっ. 箱の中-入っていくという行為(2歳4ヶ月)など,. この中にうまく転化している様子がわかる。三輪車の犯 人として活動の中に取り入れているのである。しかし,. 「出す-入れる」 「開く一閉じる」という繰り返しが見 られた。この2歳0ヶ月から4ケ月の時期は,木片をク. 実際には取り返すことが出来ない。いくらカクレン. レーン車に見立てることや,身体による振り行為も多く. ジャーの力をかりてもA男にはむずかしいようである。. 見られるようになる時期である。. ここでは,三輪車も活動の重要な一部分としてストー リーを構成していることがわかった。. このように考えると,幼児期の身体表現の芽生えは, 実は周囲の大人が目にする以前に,このような<集一離 >や<出一入>といった外面と内面の行き来が遊びの中. [事例16] 1995年9月6日観察.(3歳11ケ月) A男から少し離れた所で2歳のE男が三輪車をとられ. に見出され,それとやや同時期に彼の身体表現も「表現」. そうになって泣いている。それを見たA男は,その場に. さて,このような目にはっきり見える振り等の身体表. 走って行き,三輪車をとったF児を蹴ろうとする。しか. 現以前の表現は,見逃しやすいものである。しかし,そ. し, F児は三輪車を奪って逃げる。 A男はその後を追い. れは,前述した「体感」による保育の営みの中での記述. かけるが,つかまえることが出来ない。. を振り返る,すなわち省察することで,その表現の芽生. として外-向けてあらわれてくるのではないだろうか。. えを見出す事が可能となるのではないだろうか。そして, 結局,三輪車を取り返すことは出来なかったが, A男. "幼児の無意識の中の表現である行動を,周囲の大人が「内. が,自分より年下の子どもをかばって,助けにいく姿を. 面世界の表現」として受けとめることによって,それは,. みることが出来た。 A男にとっても大変重要な物であっ た三輪車であるからこそ,取られそうになって必死なE. 単なる行動から「表現」に変わり得るものであろう。今 回は,その記述を現象学的な方法によって整理すること. 男の気持ちがわかるのだろう。 A男の行動は, F児を追. を試みた。 「現象学の人々の思索にも学ぶものが多いが,. いかけるところまで徹底したものであった。. 実践があまりにも少ない」(38)という指摘もあるように,. 以上のように, 3歳代のA男の車をめぐる活動は,積 み木による見立て,かきごおり,カクレンジャーの犯人,. 今後の課題としては,より実践に近づき得る方法として, この現象学的な方法が保育研究や内面にかかわる表現研.

(8) 90. 究に寄与するものであるか,さらに吟味することが肝要 である。そして,幼児が語っている世界に目をむけ,耳 を傾けることによって,個々人の幼児の内面世界の表現 を感じとっていきたいと考える。 註 (1)津守真: 『人間現象としての保育研究1』光生館 1974年 (2)津守真: 『人間現象としての保育研究』として1974 年から1977年にかけて光生館から3巻のシリーズが出版 されているが,現在は絶版である。 また, 1968年の教育心理学年報(第8集)にシンポジウ ムとして, VTR記録,筆記記録,意味記録の相違につ いて報告がされている。 (3)文部省編: 「幼児理解と評価」 『幼稚園教育指導資料 第3集』 1992年 4)H.ダンナ-/浜口順子訳: 『教育学的解釈学入門』 玉川大学出版部1988年p.18 (5)津守真: 『保育の一日とその周辺』フレーベル館 1989年p.84 (6 )前掲書p.237 (7)前掲書1) p.19 (8)津守真: 『子ども学のはじまり』フレーベル館 1979年, p.108 (9)同上p.15 (lO)M.J.ランゲフェルト, H.ダンナ- : F意味への教育』 玉川大学出版部1989年p.199 ここでは「フッサールの場合, 『現象学』という表現は 二重の意味で使われている。 (中略)われわれは,この 表現をもっぱら方法に限って使い,フッサールの現象学 的哲学の展開には全く関与しないことにする」 (p.193) とされ,教育学的方法論として,取り上げることが明示 されている。 (ll)同上p.313 (12)前掲書4) p.54 (13)前掲書5) p.80 (14)前掲書8) p.100 (15)前掲書p.80 (16)同上p.79 (17)(18)H.ワロン/浜田寿美男訳編: 「子どもにおける自 己身体の運動感覚と視覚像」 『ヮロン/身体・自我・ 社会』ミネルヴァ書房1983年p.183 (19)(20)同上p.184 (21)津守真: 『人間現象としての保育研究3』光生館 1974年p.174 (22)前掲書i) p.72 (23)同上p.102 (24)H.ワロン/浜田寿美男訳編: 「人間における器質的な ものと社会的なもの」 rワロン/身体・自我・社会J ミネルヴァ書房1983年p.134 (25)前掲書8) p.84 (26)前掲書5) p.71 (27)(28)同上p.70 (29)このことについては,名須川知子,池田裕恵「幼児の身 体表現のF意味」についての研究」の中でふれている。 r兵庫教育大学研究紀要』第14巻第1分冊1994年, pp.16ト164(30)前掲書(4) p. 5 (31)前掲書(10) p.314 (32)前掲書(5) p.81. (33)同上p.71 (34)同上p.48 (35)同上p.71 (36)前掲書(4) p.25 (37)指差しの志向性について,浜田はワロンの解説の中で, 「指差し行為の本質は,その運動的な形態や様式それ自 体にあるのではありません。つまり,それは他者-の表 現行為としてrあるもの-の方向性』を示すものだと相 互に確認されていなければ,心的現象としての意味をな さないのです」 (前掲書(17) p.212)と述べている。 (38)前掲書(5) p.84.

(9) 幼児期における身体表現の芽生え. 91. A BUDDING OF BODY EXPRESSIONS IN CHILDHOOD. TOMOKO NASUKAWA. The paper is an attempt to clarify the meaning of expressive activity of a child. The method of this research is an observing a child (- from one-year to three-year old boy) once a week for 2 years and 5 months. And I try to approach of phenomenalistic methods of understanding for a child which kept inner experience. So that, it is made up of connection acar with a boy. That is, on the first stage, a boy controls his toy's car, so he is stab1ished. On the second stage, a boy establishs himself, on the third stage, he enlarges the relation and knowledge between he and his friends on behavior. At the age of three, he handles the car by not driving. Above mentioned in this paper, a car is an important part for his psycho-development. The budding of his body expressions are interactive. SO, it shows "m-out" and "enter-exist" in his play. But it is dif丘cult to watch the symbolic behavior, we have to reconsider about their body expressions with their inner world..

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参照

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