- 247 -
近世商家における心学の受容過程とその展開
ー阿波藩半田村大久保家を事例としてー 教科・領域教育専攻
社会系コース 伊 丹 啓 人
はじめに
本研究の目的は、近世商家における心学の受 容過程とその展開について解明することにある。
阿波藩美馬郡半田村の商家である大久保家を事 例として、実際の地域では、どのように思想が 受容され展開されるのかを『半田町誌』、「大久 保家文書(徳島県立文書館所蔵)Jを使用しなが
ら分析する。
第 一 章 心学の伝来過程と心学を受け入れた 人々
第一節では、半田村に心学が伝来し、根付い てし、く過程を見た。心学は、寛政6年 (1794) に篠原長久郎によって半田村に伝えられるので あるが、その後も和歌山・撫養・貞光・岡山と 様々な方向から心学者が来村することによって 興隆してし、く。また、その背景にある、心学を 学ぶ門人同士の広範なつながりについても検討
Lt
こ。第二節では、半田村の心学活動を支えた中心 的な家である、敷地屋一統に焦点を当て、その 実態を考察した。敷地屋中興の祖、弥三右衛門 (元禄7年<1694>'"'‑'明和6年く1769>)には七 人の息子がおり、彼はそれぞれに開拓した土地 を分け与え、そこで塗物、造酒、質屋などの様々 な商売を行わせた。そして、このことが功をな し、半田村における大きな財力をもつようにな る。敷地屋の経営は、親族との強固なつながり によって保たれており、これは近世の商家にお いてはしばしばありえた形態であった。
指 導 教 員 町 田 哲
第三節では、敷地屋一統の親族同士の結びつき の基盤には何があったのかを検討した。弥三右 衛門は、存生中に親族との会合を開いており、
その中で、一族の和合を常々説いていた。この ことを契機として、敷地屋一統の結びつきは強 固になってし、く。また、天保 14年 (1843)に はこの会合が「睦講j と呼ばれ、年三回聞かれ るようになっている。敷地屋は、親族との和合 によって家を存続させようとしており、ここに 彼らの家意識の存在を見ることができた。
第二章家訓にみる心学の影響と思想、
ここでは、半田村において興隆した心学の思 想が、一つの家においては、どのように表れる
のか、また、どのように思想を受け継いでいる のかについて考察した。
第一節では、大久保家において初めて心学と 関わった人物である、敷地屋(大久保)太兵衛
(安永 3年く1774>'"'‑'文政3年く1820>)の実態 を考察した。太兵衛は、半田村の商人・村役人 として活躍している。また、心学講舎造立の際 には、多くの資金を出資するなど、半田村の心 学活動を裏から支えていたことも指摘した。
第二節では、心学伝来前の五郎兵衛の家訓(弥 三右衛門の教え)と心学伝来後の太兵衛の家訓 の内容を比較・分析し、その結果から心学の影 響を読み取った。太兵衛の家訓には、商人の心 の在り方や、道徳と経済が一致させられて記さ れていることなど、心学の要素がみられ、確実
にその影響を受けていることが分かつた。
- 248 -
- 247 -
第三節では、弥三右衛門・太兵衛はそれぞれ どのように思想を受容しているのかについて検 討した。弥三右衛門は、御高札の内容を重視し た教えを説いており、太兵衛は、鎌田柳拡とい う心学者の文書を参考に家訓を作成していた。
また、太兵衛においては、先祖の教えと心学の 思想を重層的に受容しており、その内容も書き 写すだけではなく、自身の解釈を書き加えた形 となっている。ここに、思想、を主体的に選択す る民衆の姿を指摘することができた。
第 三 章 大久保熊三郎の心学受容過程と心学 活動の展開
大 久 保 家 三 代 目 当 主 熊 三 郎 ( 文 化 10年
く1813>"‑'慶応 1年<1865>)に焦点を当て、そ の家訓や手記の内容を分析することによって、
家の心学受容過程や思想、展開の意味に迫る。
第一節では、本章の中心人物である大久保熊 三郎の実態を考察した。熊三郎も父太兵衛と同 じく、半田村の商人・役人として活躍しており、
天保4年 (1833)には困窮人の御救いを行うな ど、村内における大きな財力を所持していた。
また、 15歳の時(文政後期)に木ノ内の三宅熊 三郎から心学を教わっている。このことより、
当時の半田村では、村内で心学の伝授がなされ ていることが分かり、その思想、が村に定着しつ つあったことが指摘できる。
第二節では、熊三郎の家訓には先祖の教えが 反映されているのか、心学の影響はみられるの かについて検討した。第一に、御高札の内容を よく守ること、親族との和合をはかることとい う点において、弥三右衛門の教えが反映されて いた。第二に、記述の違いはあるが、太兵衛の 家訓を自分なりに解釈し直している笛所があり、
こちらも反映されているといえる。また、熊三 郎の家計│には、
i
道徳と経済の一致、証倹約・分限の思想、出家を修める者の在り方という心 学の特徴が確認でき、その影響を確実に受けて いた。さらに、弥三右衛門・太兵衛の家奇iIを比 較することを通して、熊三郎の家訓では主人と
しての具体的な実践的な面が重視されているこ とが明らかになった。
第三節では、熊三郎における心学の受容過程 とその展開について考察した。熊三郎は、先祖 の教えを受容すると同時に、心学関係の書物
( W
斉家論』など)からも思想、を受容して家訓を 作成している。書物から引用する際には、一宇 一句書き写すのではなく、自分の理解を表して おり、ここに熊三郎の主体性をみることができる。
また、熊三郎は、家訓以外にも心学の思想、を 展開しており、それは手記(1必要教文J) と記 録 (1勘定場帳目録J)から読み取ることができ る。このように、家の至る所(心を修める記録・
経営の記録など)に心学の思想、を展開していっ た。熊三郎は、家訓・手記・諸記録に心学の思 想、を展開することによって、自分自身が心と家 を修めてきたように、子孫に対してもその思想 により家(家業)を修めさせようとしたのであ る。
おわりに
阿波藩美馬郡半田村において、心学の思想は 多方向から伝来し、それは当時の商家の家意識 と合致することによって受容され、親から子へ と、一方では村内の関係において継承・展開さ れていった。その過程の中で、思想は各人の状 況において変化し、先祖の教えと共に重層的に 展開されていくといえる。心学の思想、は、半田 村の各商家にとっても、現実の困難を解決する ための手段として受容され、家(家業)と心を 修める方法として家に根付いていったのである。