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牛 窓 町 の 歴 史 と現 在

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(1)

社会 ‑般 f

・〆

河原音虐

33 : / .Ka

C

地 域 研 究 第 2 3 集

牛 窓 町 の 歴 史 と現 在

岡 山 県 牛 窓 町

21101170615

岡山大学附属園義仲

岡山大学教育学部社会科教室 内地域研究会

(2)
(3)
(4)

町 砂 場 庁 舎

木琴 寺か らの眺 め

牛 忍く央 小 学 校

(5)

町 民 体 rH'館

Jir 子 師

(

リ護持定軍曹矩形 文化財 )

総 合福 祉 セ ンタ ー

(6)

は し が き

地域研究第2 3桑 として r牛窓町の91

現 す

」を公刊する. これは ,岡山県 邑久郡牛窓町 を対 象地 とす る岡山大学教育学部地域研究会 (社会科鼻音お よび社会科専攻 ・せ捗の三年次学生43

名)

に よる縫合調査報告むであ る。

牛窓町は岡山県 の東南乳 阿山rFの中心部か ら粟へ約3 0kHに位 正 し,総 面杭 2 7.6 0k.,2, 町 の東部 お よび南部は瀬戸 内海 に面 し,西部お よび」ヒ部は塘砧 50‑ 10 0mの丘 陵 を もって,岡山 市 お よび邑久町 に接 してい る。町域の土地の人部分は 丘陵か ら成り,平坦地 は,一部干拓地,埋ill 地 ,塩田跡地 に見 られる樫皮 である。

地方 自治体 としての牛窓町の沿革は,庸浦 田鵬後の明治41 1月には ,鹿忍村,牛窓村 と大浦 新田が合併 した牛窓村,輿補村,小津村,千手村 .明治8年に輿輔村 と小沖村が合併 して良浜 村 と な り,明治2 2年 に千手村は上阿竹村 ,下阿知

TE毛村 ,慮井村 と合併 して大宮村 とな り,明治 2 9年 に牛窓村は牛窓町に ,大正13年 に鹿忍村 は鹿忍町 にな り,昭和2 9年 に牛窓町 ,鹿忍町 , 長涙村が合併 して牛窓町 とな り,里 30年 に大宮村千手地 区を輸 入 して,現 在にい た ってい る。

年番町の人 口は, 1 9 7 5年10月1日の包舞調査では,男4,468人,女5.001人,計9,469人, 世辞数2.6 1 4戸 であ るが, 198 0年1 0月1日の国勢調査 では ,男4,4 3 2人,女4.8 8 8人 計9,32 0人 ,世帯数2.68 0声 である.若干の人 口流出が

い ているが ,世相数 にお いては若 干 の増加がみ られる。

町 と近隣市町村 を結 ぶ交通条件は,東 偏西

有料退路 (ブルーハイ ウエイ )まで約6kJr,国道2 号線 まで約16kT,最寄 り鉄道 (赤軸線 邑久駅 )までは約10kJrである.海路輸送 は,牛窓港,鹿 忍港 はか8港 を もってい るが .'jiZ肋航路についていえば,昭和51年3月に ,牛 窓港‑ El生一小豆 島の定期 航路が廃止 されて以降は,瀬戸内海 をTll用 した舟運は ,不定期の貨物船 が入港 するに と

まっ ている。

牛窓は,万乗集 巻第十一に その名称がみ られ,古 くか らの港貼 藩であ り,近 世には朝鮮 通信使 の 上向 ・下向の 時の接待 ・宿泊地であ り,また,近年 まで瀬戸内海における海 上交通の要衝地 と して 正要な位芯を しめていf:O この よ うな古い文 化と伝銃 の歴史 を もつ牛 窓は .社 寺 ・民俗 ・年中行串

・名所 ・旧蹟な どの文化財 を多 く伝えて い る。 江戸時代にお ける寺子屋 や私亀の多い こと.大正期 の高等女学校 の設立な どの教 育‑ の要求 も,この よ うな文化的な伝統 と無関係 ではあ るまい。

牛窓の産業は,産某別就 業人 口が,第一 次産乗3 0 6%.節二次産業が3 28番,第三次産業が 36.6宙であ る(昭和50年)ことか ら見 られ るように

, B t

菜 ・瓶業 ,工票 ,高菜 の比重 が .それ ぞれ‡を占め る状況にあ るo これは,全国的蝕 的概 と比べ るな らば ,農 ・漁業の位 鑑が ・牛窓 で は比較的 に砿 い, といえる。

農家は, 196 0年1,108戸か ら197 5年78 2戸へ と3 0車の減少 (離農 )し,留美農家 は.65 5戸 か ら185戸 へ と減少 (7 2弟妹 )じlL,すなわち,離農 ・兼業化が急 激 に進展 したO その反G,良家‑戸当 り生産所掛 ま県下で鎚LLlt昭和5 2年 )であ り. I0 a当 り生産所得 は第2

(7)

位 にある。 畑作 が伝統的 に俊位 を しめ.戦前か らの伝統 品 目の バレイショ, ナンキン,戦後間 もな い時期 の白菜,筒旺成長期の キャベ ツ, ユ970年代 前半にお ける果菜類 .洋粟類 の導入 と,国民 の 食生活 の変化に対応 した多様な展開 をしている。 邑久郡牛窓町 を中心 とす る地域は ,岡山県酪幾 の 発祥地 であ り,明治以降 の歴史 を もって いる。 I 96 0年 か ら7 7年 にかけて ,乳用牛飼養出家 数 は, 1 54声 から8 5戸 へ 肉用牛飼盛 良家数は2 95戸 か ら2 0戸 へ と人巾に減少 し,経営 合理 化 ・機械 化の さびしさをノ」くしている。 頭数は ,乳用牛48 1頭か らl,95 4頭へ と増加 し,肉用 牛 は4 4 3鎖か ら4 I5頭へ と大 きい変 化はみ られな い.牛窓 の酪か ま畑作蘭良 として展開 し,一戸 当 り飼養頭数 は垢と下の以南水 準 とな ってい るO

漁業は,産業就業人 口の43藤を占め る地 位にあ るO経営体 は, 1 9 7 0年 16 7か ら,1977 年14 2へ と減少 して い る。噂菜は5 7 ( 4 0虜 ),兼業は83 ( 6 0多 )( 19 77 )であ り, 小型定 配網 を中心 とす る沿岸漁業 であ り,の りとか きの養殖 ,観光釣 りな どに よって,鹿茸の中で 璽要な地位 を占めてい る。

工業 は,弔某所数が 19 6 7年4 9, 1 9 7 7年 6iと増加 し,また従業 員数が ,同期

F

L‑J=JEこ 885 人か ら1,0 5 5人へ と1 92%増加 して い る. 全県的な従業員数のの ぴが,1.0 3別 こ比べて ,午 窓の工業の成長率は極 めて大 きいO これには,近年 にお ける 「一工場誘 致」による工業化 とい う要殿 が指摘され る。

古い文化的伝統に由来 す る文化財 や伝統行軌 自然条件を生か した オ リー ブやみかん,海 に面 し た地理的 米作 を生かした海水浴 ,也 モ狩.魚つ り,あ るいは キャンプな ど,観光 ・保養地 としての 町 とい う性格 も展開 しつ つある。

本調査は,このよ うな牛窓町の歴史 と現 在 を総 合的 に研究 す ることを課題 として,歴史.人口 ・ 輿落,交通,経済構造 ,社会構造 ,地方 自治 ,習俗 ・侶仰 .文化財,教 育の項 目を立て,学生がそ れ ぞれ分担 し,海外出張 中の苗穂達郎教官 を除 いて,全教官の指導の もとにお こな った もの であ る。

調査は ,昭和5 3年7月18日か ら2 2日まで ̀1泊5日の現地 合宿調査 を中心 として,事前

.

額後 の調査 も適宜実施 し,報LE.Li吉にまとめた ものであ るo 調査時点か らは,すでに3年余 りを経 ,当初 の刊行 計画か らは若干遅 れ ることにはなった ものの ,町当局古の御協力 をいただ き,発 干1」の運 びに

,安坊の憩 いであ るO とはいえ,調査経験 の浅 い3年 次生 が調h‑・執罪の主体 であ る ことな どか ら,不備の点 も多 いと考 え られ る この点おゆ る Lをい†こだ さ, また,御批正 いただければさいわ いであ る。

この調査 には,広 砧修道大学 的孝 敏氏 ,岡山大学附属図斡館 中野美智子氏 に,資料調査 や学 生の指卦 こついて御援助 をいただ いたO また,現地調査 にお いては ,新地 勇町長 ,松尾光男助役 , 森降教ffJ良,高橋 富夫課長 ,松本幸男民俗文化資料 館長 をは じめ,関係機 関 ・団体 ,郷土史家 お よ び町民の多 くの方 々の御歯力 をい ただいTこ。心か ら厚 くお礼 を申 しあ げる次郡 であ るO

(8)

発 刊 に よ せ て

牛 窓 町 屋

新 地 勇

このたび岡山大学教育学部社会科教室の地域研究 会の教 官 および学生の万 々によって,わが∠卜窓 町の総合的調査研究 の成果が

,r

牛窓町の歴史 と現

Jと して刊行 され ることにな りました。

かえ りみれば ,昭和 52年馨 に,地域軒先会 か ら.調査対象地 として牛窓町 を選 んだので協力 を いただ けないか とのお巾.ltlがあ りま した。 その趣 旨は,教 育 学 部 社 会 科 3年 生 教 育 の 一 環 と し ての調査であ り,年番町 が どの J:うな歴史的通性 を総 て現在 に至 り,また現在 どの ように変貌 しつ つ あ るか.またそれに ど う対応 しLようとしているか を,歴史,地確 ,地方 自治 ,産業経軌 社 会, 文化,教育 の務分野か ら総合的に研究 し,ま†こ.その成果 は調査報告皆 にま とめたい .との ことで したO お話 を承 り,当町の歴史 と現状 を学術的忙qF究 していただ くこ とは,町 や町民に とって も意 義の あることであ り,協 力をお約 ・如 しT=次第 であ r)ます。

5 3年

,先生方,学生 さんが来町 され,炎暑の申,昼夜 をわかたす,訊査 にあた られ ま した。

その後 も,調査資料 の分析 とまとめが示 されてい ることを伺 ってい ま したが,今 臥 調査報 告世 と して発 刊の運 びにな りま した ことは ,同慶の念 を禁 じ得 ません。 大学的係者の方 々に敬意 と感謝 の 志 を表 します。同時 に ,調査 に際 して,快 くご協力 いた だ きました町民のみなさんに も厚 くお礼 を

申 しあげます。

t

(9)

調 査 参 加 者

宿 主lt 進 田 中 史 郎

平 田 公 夫 三 浦 道 三 郎

行 安 茂 米 村 昭 二

横 山 文 雄

秋 山 典 子 荒 木

岡 順 子 片 岡 恵 美

林 栄 一 他 山 由 美 子

木 庭 秀 子 細 田 を 子

年 腸 義 昭 佐 々 木 寛

杉 志 乃 如 陶 山 義 宣

竹 本 行 男

尾 健 夫

永 野 逸 実 名 越 俊 明

西 村 朋 子 蜂 谷 哲 人

根 岸 艮 重 福 EEl 共 司

藤 原 清 志 古

川 恭

三 垣 良 子

虫 上

美千子

弥 久 末 美 智 子 安 田 智 子

山 本 明 雄 横 山 文 朗

渡 辺 謙 治

中 野 栄 夫 山 内 蜂 行

池 田 佳 子

加 藤 裕 子

岸 田 明 久

小 島 勝 臣

末 本 三 枝 子

高 見 源 子

中 野 ひ ろ み 難 波 勢 津 子 平 松 三 枝 子 福 田 街 寓

松 谷 純 子

守 谷 静 香

山 崎 尚 子

野 智

参加 指 導教 官

参 加 卒 業 生

参 加 学 fl三

(10)

1草 歴 史 的 背 員 ・・・一日・

1節

古代 ・中Luの牛 窓 ‑ 1 地 物 追 跡 ‑‑‑

2 牛 窓 の 荘 園 ・ 3 港 としての

L I

こ窓 第2節 近 世 の 年 懲

1 領 主 の 系 評 1 2

支配

机織 と住民統制 3 相宿 と年賢徴収 ‑ 4 農業年産 と良民i仁清 ‑・‑

5 商 工 業

6 塩 英 独 某 一・‑A‑ 7 朝 鮮 池 1.ll;班

1

1

1

9

∫ 2

13

13

3 7

5 6

6 6

7 9

8 6

9 2

2i':.: 人 口 と 雛 啓 一 ‑103

1m

人 口描成 老令 化 とnt讃 化 耶 2m] 人 目移鋤 と過疎化 ・・・‑・・・‑・

郡 3節 轄 町 の 変 選 一‑・・・‑‑1‑‑・

第3

交 通 ・‑川.

第 1節 陸 上 交 通 第2節 悔 上 交 通

第4帯 経

折 肌

jii.

第 】節

菜 ・

1 耕地の抑移 と土地利月」の変避 ・・・・

139 139 151

(11)

2 兼男 化 と農業就業状

‑・‑・・・一・ 3 換金 作物 の展開 と虚業振興施策 第2I.nlJ 畜 産

1 和牛飼育 の変 遷 2 輸出 の現 況 と間傍点

第3

漁 業

第 4

節 海

業 ‑日日一・・ 1 塩 菜 の 歴 史 ‑ 2 抑海塩業株式会社 3 む す びに か えて 一

第 5節 = 業

1 二[二菜 の発達 と現況 2 主要 な 那 某 所

第6節 商 業

1 両某の推移 と現況 2 牛 窓 の 商 圏 ・

3 観 光

4 滴」二会 の 活 動

第5

社 会 構 造 一・

1節

牛窓師炎 区 の概 観 耶 2fVJ 家 族 と 同 族 ‑

1 族 ‑

2 同 族

第3節 年 中行串 と当座 制 1 当 屋 ‑・

2 年 中 行 恥

耶 4節 師楽 の 自治組織

167 172 195 195 201

‑ 215

229

‑ 229 236 24】

243

・‑I‑‑ ‑ ‑‑I,・‑ 243 25】

262

・ ・

・・ ・

・ ・・ ・ 一 3I6

‑・一 一・‑・‑・日‑‑1 329 329 330

3 30

3 3 4

337

337

34 6

3 51

(12)

第6三吉 近代地 方 白粉 の成立 と展開 第 1節 行政 の沿革 と区域 の変 遷

‥・・・‑ ‑‑ 一一一・・1‑日・‑‑一一 355 355 講 2節 地 方行 政 と財政 ‑ ‑‑ 中小 ・・・・・1‑‑・・一一 361 1 明 治 大 正 期 ・‑・・‑・・・・・・・‑‑・・‑ 〜‑一一 ・‑一一一・‑・・・.一・・・‑巾 .tT,一一・一一・‑・一一一一一一一一・一一‑‑361 2 昭和初期 か ら合 併 l泊の町 財 政 一・J・一一一一し‑A‑千‑ 一心・fl・・叶 ‑・・・=‑iJ・‑I‑ ・・・て‑‑ ・‑‑・.‑‑A‑ 364 3 合 併後 か ら現 在 まで ‑ ‑・・・・・‑‑ ・t一一一.一・Tt・‑ 〜‑'・‑・; . 371 那 3節 地 方政治の展開 ‑・・・.・・・・.I‑‑A‑一・・・‑‑‑ ‑‑・・‑‑‑I‑・.・‑,‑I+‑‑1叶‑一日一‑・‑ A・ 380 1 合併 区動 の高揚 ‑・.I‑・・‑・・・・・‑・・・一・・†‑‑1f‑ ‑一 ・一・一.‑‑‑‑ 380

7帝 習 俗 と イ吉 仰 ・・‑・・・‑・・・・・・・・・・・・・‑・・.‑I‑ I‑‑・・・・‑‑‑‑・・・・・・・・.l・.・l・一一・‑‑ ・・・・・・・一一 一 395 第1節 年 中 行 水

第2節 冠 婚 # 祭 第3節 社 寺 と 宗 教

1 年 窓 の 社 寺

2

3 神 祉

第8

文 化 財

・‑山一 405

‑ 405

第2節 彫 刻 423

第3節

絵 画

第4節 工 芸 考 古 ・・ 第5節 無形 民俗 文化財 ・・

第 6

節 有形民俗文 化財 第7節 未指定 重要文 化財 第8節 牛 窓 の 文 化 財 一一

l ■

‑・・一日 431

‑I 434

(13)

荊 9177LL 教

1

近 世 の 教 育 第2跳 近現 代 の 学 校 第3節 q:‑音数市史資料

] 学校組 合の聯 敵 と新校 舎増改築 2 小学校授苫料 細則 (RJl治26年 ) 3 教 n糸r

滞l 坪 将i

の眺千1

WE :

4 牛窓舶 小学校焼 失 と再建 一一 5 就学 児亜成約 調禿細則 6 年軌 盲等女学 校学 則 . 7 旧年窓町数百門の変遷 8 牛窓1if年学校 沿革

(14)

第 1 章 歴 史 的 背 景

第 1節 古代 ・中世 の牛 窓 1

1. 過物 ・過跡 ̀

(1) 原始か ら古代へ U) 哉島 ・柴島貝塚

責Ll誌と県鳥 は牛窓町 の沖合 に浮 かぶ小砧 であ さO武島 と県鳥 との距離 は約5knrであ る。 その両 島 に縄 文早期 の大規模(f塘 跡が存在す るo

青 島貝塚 の中か ら,経 文式土器 (押型文土 鈴 と呼 ばれてい る) が多良に発見 され たo これ は尖 底 の土船 で,その豪 rtnこ.楕 円形 の粒 や1日lF?,を連絞 した文様 のつい た ものであ る。 そして,丸 い 棒 に種 々の文様 をつけ,据 曲のやわ らか い噂 ,縛を

痛にあてが ってId転 し,刻みの型 が解面に 付‑召 した もの であ る.

卦 こ,南島貝塚 の下層 には,淡 水産の ヤマ トシ> 号が貼申 して出土 してい る。 ところが.淡水 産 のヤマ トシジ ミを中心 とす る則 E'fZLか ら⊥Jfqに/fるに従 い,悔産 の ‑イガイの増加す る傾向が明 らかに されてい る。 これは,黄白 貝塚が作 られ的めてか ら,貝塚 の形成が終了す るまでの長 い期 間 ,岡山県の肺戸内掛 こ両す る一帯 の地域 の海繭が,徐 々に上昇 していった ことを間接的 に示 し てい るのであ る。 そ して この掛 よ,堤

(tFIの軸面 より 10・一1577痛Jい ところまで上昇 した と思わ れ る。

また黒 鳥 と責島の両見儀 の関係が ,研qT4 5年 8月の調査 に よ り明 らか にきれ た。県鳥出土 の 押型文士掛 ま,上 .下桝 で・租速があ る. つ ま り.

ILt7の土掛 ま貝塚 Jをともなってい/Jい し,厚手 の ものが多 い。 そして次 に,両月塚 の只の種額 と量 とを比較 すれば次の よ うにな るO黒鳥貝塚 は,

シジ ミが9 0%以上 で,‑ イガイが5‑ 6%にす

′rいのに対 して,青 島月額 では,‑イガイが 8 0%で,シジ ミが約10% とい う比率 であることがわかっ七。 その結果 ,黒鳥 ・葺島両 月傍 の 成立時 は,黒鳥が先 で,苛 由が後iUJる。 いいかえれ ば,半時 まず柴島に人 が住みつ き.その後 萌 由へ移 り,更に黒白へ と移動 があった ことか矧 られ るのであ る。 そ して,その直後 に両 島が島

にな ったのである

やがて海軒の上昇 とと もに.陸地が放出化 し.鹿 や猪 の獲得が しだいに困難 とlLり,また塩分 の相加に よ り,/、イカイ も減少 しは じめ .ついにはn映 内Fこおける植物 資源 の限定 を起 こしたO 人 々は,食投 を獲得す るために,児島 の

l

LJ塊 をオ'け入 り,あるいは海上に渡 り,児島山塊北斜面 な どに移動 していった。 これが .縄文梅iLLとよはれ る梅軒上昇 で, 2万/準前 の地形 は,今 や阿川J 平野 の下に健 れてい る。

(ロ) 節菜週 跡

節食式土掛 1,故水原岩太郎氏 によって.牛港町師饗追跡 を名祖 として名 づけ られた ものであ る. その土器 は淡褐色 ・灰褐 色 ・鼎褐 色 な ど色It々で.土 師器 よ りも堅 く焼 かれ てい るO 器形 は停 めて単純 で,通常 は深鉢形又 は野 形で ,府 を もつ もの も, もた11い もの もある。底 は丸底 が

I

(15)

一般 であ るが ,ある時期 の ものは さかづ さを逆コにしたよ うな台 をつけてい る.特 に大形の もの は見

い。 口径 ,高 さ共 に10cm ‑

17, 8m揮 夜が哲通 であるが, 5 cm前後 の小型薄手 の もの もあ る.文 様 とい うべ き ものは これ とい って無 いが,焼 く酌の整形 の際に,粘土 を しめつける1こめに†こ1こきあげた時の 跡が残 ってお り,文様効果 をあげて い る この痕 は引 っか き痕 のよ うに 見 え るが,明 らか に押型 で ,中には

図 11 1‑ 1

香川

軌 昏JB町膏兵衛島出土 の師壌 式土器

格 子 目状 その他の型 があ る。 (図 1‑ 1‑ 1

r

歴 史評

粛J

7 2号か らの転職 に よる)

その過跡 は内海 の岸や島の涙 に移 しい破片 (完形相 は稀 に しか発 見 されい) の包含屈 とい う 形 で見出され るo牛窓町 では,現在埋 め たて られ ている錦瓶湾 の浜 に数多 く残 され ている。

19 56年 に出 され た鞍兵衛 曲調稚拙仲 こよ り,師壌式土掛 ま製塩 に班われT:もの であ ること が明 らかに された。 その方法 は ,海水を直倭に ,或 は藤 を塩J=Elの砂 と同 じ原理 で乾燥利鞘 して鵬 水 を得 .それを小型 の土掛 こ入れて煮沸 す るのであ るo今 日,土鯨製塩 と呼 ばれ ,古語 にい う「

藻塩焼 く」に あた るものであ る。

この土器製塩 の成立 の背景 には ,弥生 時代の鹿耕 の発展 が考え られ る。 食生活を米 をよ とす る 穀 物中心に きりかえ ,/if坪的 に塩分の摂 取 を必要 とした であ ろう この弥Jl=.時代におけ る師壌 式 土賠製塩 は,そこに使用 された製塩土幣 の廃棄故 や屯跡 全体 のあ り方か ら見 て非倍 に小規模 に行 Ilわれていたと思 われ る。 その土冊は立 ち上が りの急 FL小型 探鉢 形 で,小 さな倒杯形 の台がつ く 形式 であった。

ところが,古 項時代前期末 か ら後朋初頭 にかけて,僻讃 漸戸 を中心に掩め て蒋 F小型 で平底風 の丸底 を もつ師繋式製塩土韓が前者に とって変 わ るO そして, 6世紀 中集 か ら

7

他紀 にかけて,

よ り大 きく厚 い丸底鉢形の形式 に とってかわ られ ,土舘製塩の出盛 朋が到釆 す る。

しか し,この製塩 の方法 は虚実の片 T‑1間にできるとい う簡Tji/1ものではIA,かっT=O 牛窓 にはBi・ 男の で きる土地 は見あた ら11い.彼 らは製塩 を中農 とす る媒団 では1.1‑か ったTfろ・')か。 それは, 彼 らが良に古 くか ら住 みついて漸進的 な進少 を し,感胤 を迎 え,やがて段 々と哀退 してい ったの ではな く.現象的 には突然島に現 われ ,忽然 として偽か ら‑i‑ってい ったことと考 えあわせ る必要 があ るO彼 らの宿曜 した欄間は, 6LLr紀 中葉 前後 李下 ら1,1・い崎朋か ら, 7牡紀後菓 及葦 7, 8世 紀 の交までであ るとl) 塩生産 とい う臼:会的 分男 の発射 こは社会的舶要 が伴 っていなければな ら'L

い。塩 の用途 は,食用以外 に保存貯威 恥 祭礼札 に選別 と広範 閲 にわ たった。 この磁 こそが 部類式製塩土掛 こよって突 如 として魁塩 を行 わせ1=もので は/Jか ろ うか。

ところが ,奈良時代 にな ると,鉄姦 ・上蓋或 は石釜 とい う新 しい技術が ,士

製塩 にかわ って 帝人 され るよ うにな るO‑方採軸 面についていえは ,奈良 時代掛 こ,原初的塩涙が出現 してい るO

この技術革新に よって.土糖製塩 はまず ,板戸内紛 地域 IJど西 日本の各地 において消滅 してい く

‑ 2 ‑

(16)

の であ る。

しか し, もし「釜 」だけの技術改良 な ら,す ぐにせ 跡地 が見捨 て られ , その後 の地点 に人 の住 ん T二形 跡 が ほ とん どfJL、ことの巌 明が つか lJLのでは71いf:'ろ うか.推測 であ るが

,

「釜

」を持

ちえ7=国衝 な どの強力 な支配

I

aと土 器 製駐従 甘着 を支配 していた土 牽層 との間で何 らかの格闘 が あ ったこ とを前提 としてい るの ではないの ffろうか。

(2)

古代

V) 巨大 fJ前方後 門頃 の出現

牛窓湾 の後背軌 出は赤松 だけがはえ る丘陵 が就 き.近 tit干拓 の塩 田比が わずか に平地 をみせて い るが ,それ以前 は平地 な どなか った とい って よい。 書 僻 東南部 の穀倉地 邑久平野 か ら山陵 でさ え ぎられ ,農某生産 を背景 に した大型 古qfが形 碇され るよ うな地形 には恵 まれ てい

7

1いに もかか わ らず .牛窓昭 を とりま く丘陵 に五兆 の前方 縁円墳 が知 られ てい る。

表1‑ 1‑ 1 前方後 門卿 とつ いて

名 称

躍如 主

体 副 萎 晶 築 成

奇石

埴倫 屈位 置 付 け年 的 天神 山古墳 90

曝穴式石室

地 形利刷 有 有 4‑ 5世紀初

鹿 歩 山古墳 60 ′′ 5胎紀 申

児 島 古 墳 70

竪穴式石室

古式須厨器 ノ′ 5出忠 後

政歌 Lll古墳 50 ′′ 須恐#鉄鉱 .金鋼 製品 (部付属 品)馬具の 一 不明 6世紀初

双 塚 古 墳 55

横穴式石室

′′ 6放た

これ ら牛窓湾 をめ くって,眼 下 に海 面 を Eaおろす位 掛 こあ る五盛 の前方後門掛 こ葬 られ た首長 は, 5惟紀 を中心 とし

6

fLL'紀 にいた る問 に桶野 した と,班.われ る。 い ったい これ らの 首長基 の意味 す る もの何 であろ うか。

まず, 4位紀頃 におけ る吉備両部 の7才艮刷 れ 朝鮮 ・中国 に止 しる瀬戸 内海 航路 に進 出 して く るの は当然考 え られ るだ ろ うO とす る と,この 首長 は吉井川東岸 平野 の部族 共同体 の外港 管理 の 任 にあた る者 として山発 して .瀬戸内海 におけ る海部 の生持

劫 の発掛 こ伴 って ,首長層 が その

統制

と甲 部的甫 成 にの りだ して.海辺 に拠点 を形成 した のではfJいだろ うか. やが て .これが吉 備政権 の経済的 ・軍事的基礎 として'fLrJ柁渦 を占め るほいた ったのである.

( I

) 沿岸拠点 の終末

瀬戸 内海 沿岸 の 首昆監は,牛忽湾 をめ くる将等古墳 /JL'どの例外 を除けば, 6仕掛 こ至 るころに は見 られ IJく/jり.古均 の築 造 はあ って もCく一般的 ret・群 小古墳 的性格 とな って しま う この首 爺 の消滅 はあま りに も明瞭 であ り,内海航路 の様相 に変化 が現 われた ことを示 す と思われ る。

‑ 3‑

(17)

すなわ ち,大 和政権 が国内支配捧制 を強化 し,海路 に対す る地域努力 を排 除 してい っfこのではfl い7ごろ うか。

しか し,牛窓 の古頃群 が6匝紀 に下 ることの確実 Il横穴 式 石室 を採用 した

(

】TJ方後門項双壕 を築 造 した ことは ,吉備政権 が大和政権 に対 して長 く対抗 する力 を持 ってい1こ とを象徴 す ると思 わ れ る. 吉備上道氏 や書 備 下道氏の反乱が

.r

日本 古紀.Iに沓 かれている。 また55 5年 に吉備 の 5郡に白猪屯倉 がおかれTここれ らによって,吉備政権 が事実上大和政柿に屈服 した ことが示 さ れてい る。 ま さにその時期か ら首長宅 は姿 を消すの であるo

或 いは,吉備政権 とは独 自の首長佃 が牛窓 に割拠 していて,それ ら首長屑が大和政権 と結 合 し て吉備内部の分裂 とい う形 で,苦節よ配が進 め られ た紺 准,牛窓 古頃 がやや新 しい時期 まで残存

した とす る説 もある。

( ,

) 海辺 の後期 古墳

地 方首長農的古堺 が築出 され な くな って も,数多 く内海沿岸群塊頃 は築造 されてい る。 これ ら が半良 半漁的姓帯 を背景 に した ものか ,す でに専業的漁農的災啓 を形 成 した ものかを判断す るこ とは閑雅 である。 た1='そ うした海浜It;港 の多 くか.土器製塩 に も従事 し,これ を背界 に して群娘 均が成立 した ことは,浜辺やB のLII丘 にあ る後期有印が しば しば土黙せ跡 にむか って開 口す る横 穴 式石室 を採用 してい ることか らも明 らか である。

牛窓阿弥 陀蜂 o)群般項 もその例 に数え られ るだろ う。

(=) 寒風古窯祉群

古坊時代にな ると,土 軌 ま新 しい大陸 の技術 によ って須怨掛 こかわ る。須放線 も弥 /t式土群 と 同 じよ うに模様は直線文か波状文程度 の もの で,ほかにはほ と,'L,どつけ られ ていTJいが, pクロ 技術 も進歩 し,高い温度 で焼かれ るか ら

,

&面 は灰 色 となってい る. 牛窓町寒風 古慧祉群 は須想 糖生産 のための邑久古窯 Jlt群 の中で も椴 も著 名 TJもの である。

牛窓町長涙在住の時実黙水翁 によって,寒風古窯J止群の史跡の指'k と保存の措定を講 じるよう に,す でに 30数年以前 か ら脱 かれてきたO ところが ,岡山坑と政 の地域開発言個 の一つ として, 乗板戸内を中心 とした大規模 な東瀬戸内海 レク リエー シ ョノ

都 I l

j計虐lが示 され たQ これほ よ り, 寒風

i

B跡に緊急の調査を行 うことにな り,調充は19 78年 1月か ら3月までのRU,進 め られ た。

そ して,史跡指定の資料 として報告 されたの である。

寒風 の無では須思婚とともに,時突然水虫採集の,動物倒 ・独居qJ,の模型 な どのはか,切妥塾 の恥棺 (寒風一 号古窯虻の灰原 のはずれに,類似の陶棺 を埋納 した石宅項が発 見 され たO ), 巨 大な蛾 尾,土書を ども焼かれている。小職 の容器類 を もっぱ ら製作 して きた須原器t人が,前の時 期か ら陶棺 とい う大型の, しか もろ くろ技術 と全 く鞄なる,粘土板の組立てを基本とす る別系故 の技術 をも取 り入れだしたことは注 目され るo

古墳時代 のこの他 の実弟は ,部民制に組 み入れ られ て俵政権 の支配 下にあ ったとして も,基本 的には この手工業 をこの地 に導入 した在地 の首長JIY7が面接に掌握 していた と思 われ る。 しか し, 7位妃後半 あた りか ら律令的支配が強 ま り,須怒涛 工人袋臥 ま.この時恥 こ中央権 力の末端機構 である備前国衝 の統制 下に組 み入 れ られ ていったと推定 され る。 しか し

,

「養老令 」 (賦役)那 , 調の品 目の中に須恵鰐 を加 えていTLい ことか らも察 せ られ るが .初期律令 制 下にあっては.rf.央

‑ 4‑

(18)

牲族層の須恵器の帝要は,おそらく主要産地の国衛を通しての頁約によってまかrlわれf=ものであろう。しかし,国衝も在地の土賓の力を完全に排 除することはできlJかっf=に違いなく,彼らのこの繋実地に対する伝統的Tl権益を容詔せざるをえなかったのではなかろうか。 やがて

,

「延夢式」(主計)に示されるように,須恵器を詞として指定しうる程,須恐舘工人は自立化し.支配は強化したものと考えられるだろう。 襲1‑1‑2牛窓古器枇分布一男表 名称所在地時代地目立地唱跡簡況出土品 土橋長浜飛鳥〜奈良丘陵斜面かrllj広範岡に土器散布須想臥平聖片 流

′′′′

′′土橋の西方山頂′′ 平田′′′′′′

′′f丘陵二f7fT 寒風1′′2凄確認,陶棺

.

租尾,i+ 寒風2′′′′1基確認′′′′ 寒風3′′′′山林.朗′′林道怪面に窯祉騒.LP.1塵′′

(19)

表1‑1‑3出土須恵器分類 分類̲形状

0

10C7n

J

l年代 杯蓋

A

類口径10‑llcm.器荷3‑4(初を基準とするO天井部は丸味がTlくロ経端部が内湾又は垂直に下り,端部を7世紀初頭 丸くおきC)ているO?前半7虻紀

杯身

A

類口径9C7W,受部径11C7W,壬.EjI3ml前後を標準とする○受部の立上りは35和樫と短い○口緑都立上りが安部より下方 のもの,受部の退化したものも認められる○ 杯養B野杯身に法泣葦が現われるが,一般的/1鰐形は口径10llC7T,かえり径9‑10C7W,怒高3(初前後を埼準とする.天井前半 謂中央.'t擬rLf珠様のつまみを付し,内面端部に内債するかえりを施している○?中葉 杯身B塀法姐の差が現われる○小形の器形はやや平底を里し,口授端 部でゆるく外反するo 杯蓑C類B類と同様法塁の差が認められるo天井部中央に属平TJつま7世紀後半みを有し,ロ扱端部は屈曲するo

(20)

帥 牛窓伝森

牛窓港 か らす ぐ目前の前島 まで約3 00mo現 在50tフェ リーが往復 してい る。この水道 の 潮 の流 れは早 く,その船 が潮 に流 されているような感 じでゆっく りと港 に入 って くるこの急fJ 潮 の流 れにのって,舌代 の人 々は この漸戸内海 を往来 したのである。

「‑=韓征伐 」の時 ,仲哀天皇 ら一行が この水道 を通過 す る際 ,解 を休 めたO その時 ,盛輪 鬼 と い う牛鬼が住んでいて災 をなすので ,天皇が退治 され た ところ,首 と胴 の二 つに分 かれて死んだO

しか し,天皇 も矢 を射 られて前御 され たとい う題が

,r

邑久 郡

臥B

に見 える。

討伐 の帰 りに再び一行 が通 りかか っr二時 ,牛鬼が瀞 を非 うO風土 記逸 文に よる と

,

「神功皇后 舟 過備 前瓶上時 有大牛 仕歓 擢 舟 件吉明神 化老翁以井向投倒之 故名共成牛樽 今云牛 窓靴也」(2)これによると,牛窓 (うしまと) 紘,牛転 (うしまろぴ)が靴 った もの‑ごあるo

r

牛窓浦

鑑.

Jには 「今 ,牛窓の字 を古 くことは,宗鮭 技師 の帝 国修行 の噂 ,当所 の旅館 にて, 旅 は重 し窓 で月見 る今宵 かfj. とい う発句 を申 し出 しよ り,俗人多 く窓 の字 を市 き伝 え1こり」と 番 かれ ている。

牛窓 とい う地名の確実 Tl文献土 の初見は .r万葉韻 J葎十一 に見 える次の一首 であ る。

牛窓之 浪之塩在猪 蛸 所依之君 納 特有3)

肺葉 について も次 の ことが

,r

邑久耶誌

J

IIこぶかれ てい る。 「牛窓町 の一字に して一に志菜 と ul己す。現在戸数凡五十 , シラク

t

.まシラ半の特化 な るぺ けん.聖武紀 に新羅浦 とあ り新罪人多 く居 住 しけ るよ し古

に見 えた り,一説 に神助皇后凱 旋 きれ る時 ,従 ひ米 た りし新罪 人 をこ こに住 は せ給 ひ しもの とも云 へ り」

古代 を通 じて,牛窓 は大陸 の文化 を摂収 していた とい えるだろ うO

(西村 朋 子) (江)(1) 事実 ,辛‑‑畠において も.また他 の しらく式18跡 (こおいて も,図1‑ 11 2の よ

うTlLらく式土糖包含J糾 よ,覇怒帯 を伴 ってお りその須恵特 も著 しく年代 の下 った もの を見

い。

( 2 )

日本古典 史学大系2 風土記 よ り引岡 二 へ

(3) 日木 古典文学大系 6 柘粟災≡ i:り引FEl

‑ 7‑

(21)

‑8‑

(22)

参 考 資 料

日本文教 出版株式会社 :岡山県 r岡山県の歴 史

J

角川杏店 :近藤義 郎 ・上 田正昭編 r舌 代 の日本 l第4番 中国 ・四国 河tLJ,野房 :民主主義科学 者協会鋼 娘 r足 史評粛J I9 5 6年1月号7 2 学 生社 :西川宏 r古代の国 /L‑5 舌僻 の固 J

岡山県教 育蚕艮会 :岡 山県埋蔵 文化財発掘詞庶報告27 寒風古窯LiL群 197 8, 3 平文社 ・'小林久磨雄編 r邑久郡誌 j (殻刻版 )

牛窓民俗 文化 資料館 :牛窓 町民俗資料韻額 l姑 「牛溶幡鑑

岡山県教育香 艮会 :WIJJ傾 唱跡地図

2. 牛窓の荘園

(1) 檀原荘内 千手帯紙

亀原萩 は,上阿知 .下阿知 .西片岡 ,東町岡 .LI儀 ,藤井 .千手 .福 山.川 口,新地 .射越 , 上寿 ,門札 北地 ,向山,大富

,人t

ll.久護良 .大建 ,百軌 宗 三,福光 ,長沼 ,五明 .顔 ,節 , 乙子,神崎 ,邑久郷 ,久久井 ,宿 毛の31村によって形成 されていた。

特 に邑久郷 にある千手寺 は監原荘 の祈帝所 として,その寺跡 ま「殺生禁断 」であ った.

制禁 千手寺領 rL佃こ寄

右寺院之除 ,以有山林為宗

,

而 千手寺老足為 当御庄御所帝所 也 ,尤可邦降乎 ,然別 .限 東虎 村 山大道 ,南盟 石山尾 .西執 山 北永蔚 山之峯 .11今 巴後庄民等不可伐之 .若於皆此旨之堪 著 . 速可行罪科之伏如件 ,

寛元二 年二月 日 豊原 御庄官

沙弥 藤原 沙弥

原所御代官抄弥(1)

ところが13 23 (元# 3)年,荘卵 が乱入 し.独 酌 働 き,本堂 や三蛸 等が焼失 し7:(02) そのため祈蔚所 の務 めを行 な うこ とがで きな くIA・ったので .輪 旨 と,それ を受 けて国宝が出 され た

当国邑久郷 内千手 山弘法寺 ,可為 御祈宿所 乱 按㈹食畢 ,天 下安全 旨可祈 中之由 .可令下知 給者 ,天気如比 .仇執運 如件 ,

(某暦二年) 九月五 日 箆上 備前守&(3)

肋解 由次官冬長

節約国邑久細内千手山弘法寺 ,可為御節田 所乳 輪 旨如比 ,可被存知之由 ,国宜所 慎也 . 仇執蓮 如件 ,

(斉暦二年)

一9‑

(23)

九 月六 日 院 t御d 4)

前伊 勢 守邦 兼

また 千手 寺 の免田 畠 は 10町1段4 0代 で あ った。 その内訳 をみ る と次 の よ うに な る。

所 在 名 癌

6 1

' 指 溝

会 免 鳴 岡里胡野 里大 石里池 田里槻 木 里′′"/ 3 5362333015坪13421坪3坪

坪坪 近

安友永束成末 時末時場富国

i

3

名名名薪名名名 ′′1段′′′′′′′′

御 燈 油 料 石町 里 17坪 元 名 2町 46段葦 性 原荘 御 田 方

法 華 免 椀槻 木里粟柄 里外 家里滋 井里 里 301412坪289坪3坪坪坪

藤行藤恒十 ,乃光光弘'g 名名名名名名 1段1ノノ段2520代代 I 鹿 忍荘′′′′′′′′′′′′′′′′

完 伏里 3坪 安 元 名 10代

// 13坪

外 10坪

穐肩甲

1坪

住万 名E. 1′/

. F ̲ J

l

t

2 0代 榎 津里 18坪 十

: A

名 1段

如 法 経 免 姻浜邑久浦熱価 里塩 疾 里′′田 22

3坪

1坪 太

郎光

安弘光貞丸 名名名名名名.F. 8121段1′′/′段段段段do代lO代 鹿//′/・′

L

) . 班

((良)良)

声 免 大 石里 3坪

崎 名 30代 鹿 忍 荘

‑ 10

(24)

所 在 名 面 相 備 考

免 完 伏 里栗栖 里 14坪12坪 藤 光 名 1段2 5代 鹿 忍 荘

常 行 堂 仏 伽 免 堀 田 2段

阿 弥 陀 供 蕃 法 常 行笠行 法

u J

武 光 名 1段 鹿 忍荘

彼 岸 田 葛 井 里 8坪 9段 ′′

il: 集 会EI 免 椀 里 4坪 行 久 名 l段

馬 上 免 完伏 里 3坪

名 1段

供 養 免 3段 金岡 東

仏 名 免 鋼 [口 5段

免 完伏 里 5坪 鹿 北 名 1段 鹿 忍 荘

そ の 他

別音 大般 若免公 田 外 家里浦

並 小嶋本 小沢里

里 28坪 末 弘 ‑名 61段段ユdo代10lO代o代代 牛性 原荘 御 田 方

忽畑

鹿 忍荘作 国街 方

弘 法 寺 免 Et]晶注 文 (応 安 七 年) よ り作 成

その後 も寄進 ,開発 にtよって寺前 が拡 け られ てい った。

寄 進 に つ い ては永徳 2年 (13 82)に個 性 乱 平 岩 が盛 者 に よ って1段 ,応永 29年 (14 22)に 出雲 守 於将 が 1段 ,宝徳2年 (145 0)に住侶 阿問梨 顕 舜 が1段 ,文 明9年 (14 7 7) に宇 宙多 架 日 が 1段 ,火 永6年 (15 2 6)

宇 宙多 ≡ 郎 左衛 門尉 が2段 ,享線 3年 (15 30) に大京 次郎 左帯 門 が 1段 ,天文9年 (154 0)に芋 哲多 但馬 守 が 免料 と して3 0 0文 , 天文 18年 (1 549)に西光 妨 秀好 が1段25代 .天

1

E3/cF‑ (15 7 5)に鹿 忍 片 山 の太 郎 左 即 勺肘 が1段 10度文 ,天 正13年 (I5 8 5)に万代 郷兵 衛 駿 秀 が30代 ,文殊 3年 (15 9

4) 文緑 4年 (159 5)に は ,宇 宙 多秀 家 が 合せ て14 0石 を寄進 して い るこ とが ,弘 法 等 文 題 lこよ って知 られ る。

また新 田開 発 につ いては ,天 文7年 (1 538)の弘 法寺 策 新 開 田島 横 江帳 に よ る と,朗 臥 山林 あわせ て3町 8段36代5少 が開 発 され ,寺 に米 19升 ,代 14 3 5文 が上納 され てい るo

(2) 封 茂別雷 杜 領 山EH荘

賀 茂 馴雷 祉蘭 で あっT:‥旧雌 は ,今 の 上LLJm .下 山 田 を荘 域 と してい た。

院姫 下 船酌国在JF官 人等

可甲撫寄 煩 令 道上 ,賀 茂 別苗 祉領 巾 Fn ・竹 術 等 庄 年 貢米 部 ,

,6,彼庄 庄 'q米者 ,軽 症用途 也 ,云 粘 定之

云 水車 之催 ,不准他 所 ,早停 件等 之 課役 .止路

‑ II.‑

(25)

次之狼籍 ,合期可令遜 上之状 ,所仰 如件 ,在蝶百人等,宜 承知 ,不 可避突 ,故下

野永二年十一月四 日 (署名略)(5)

この記串か ら,lLJlu荘 が恕茂別笛社 に年貢 を納 め るため,他 の課役が免除 されていた ことや.

迎上 中の安全が国衛 によって守 られていた ことが知 られ る。

(吹) また寿永3年 (1 184)の頼朝公諸国 下史には 「任 院串御下文 ,停止方 々狼 籍武士等帯 国 如元 可僻進神都川・途 ,若不忠神威 ,不別院定着 ,億 鹿茸科之状 ,如件 .以下 」す と石Iiじ られてお

り,その中に も「備 前回 lJ」田荘 」の名がみ られ るO (3) 石満水八幡宮 寺領牛窓 別官

牛窓 町の東端 の R:陵 ,八幡 山に町 の氏神 である牛窓八柿宮 がある. r節陽 国誌

には,その由 来が次の よ うに記 され ている。

八幡宮 牛窓 村 社領二十 石 ,山城男山よ り御節 ,創造時代不詳 .古へ社頭十二字 有 り,社散 千石計 有 し由 ,永疎 の頃 .芸 州兵 乱 の時 ,海賊 多 く民衆 を椋 め とり,比社頭 を も焼 き亡 す ,棉 功 皇后の御太刀 ,御鍵 ,当社 にあ りLを,艶文年中,五番 官‑移 し納 む

この記事の中の杜領 千石 とい う言薬 には ,い くらかの誇張 がある(こして も,石屑水八幡宮 との 関係 は,相当古 くか らあっfこもの と思 われ る。

石田水文rLr・EこJ:ると,保元3年 (1158)十二 月三 日の官宣旨 ,お よび元 暦2iF‑ (1 185) 正 月九 日の源頼朝 下文 に,「備前国牛窓 別宵 」とい う記が見 られ る。こ 0)牛窓 別宮 は,後に「従 三位牛窓 神社 」と言 われ るものであ り,今 日ある牛窓 八怖宮 であ る。

この牛架 別宮 は保元3/,rL(1158)の官宜旨1こおいて 「庄園別宮 」とい うよ うに ,荘園 と並 び称 せ られ たり,元暦 2年 (1185)正月九 日の源頼 朝下文に 「牛窓 別富 雄息別宮 片岡別 官 肥土庄 御封全米二百石 」とい うよ うに諸国の石絹水筒 の荘 関や保 と弛び しるして

,

「件庄 々老八幡宮等之往 古神箭也 ,而近年之間 ,依平家追討 .守鰹武士等 ,成果抑留御年貢 ,或宛催兵 根米云 々.田立往代之仏神笹 岡途併陵遅 ,遥 々不別離也 」と述 べ られ ,他荘園 と同等の扱 いを受 けていることか ら,牛窓 別宮 は,別官 といわれて も,単 なる石沼水八肺宮の末社 を指すのみでは

く,石棺水八幡宮 の荘 園に準ず る, あ る一定 の編成 を持 つ もの としてあ った と言 えJ:う。

3 港 として0)牛窓

牛窓 は古代か ら神功 皇后の伝説 に もあるJ:うに ,瀬戸TJjHJj路 の泊所 であ った。個 所行 も牛忍 に 立 ち寄 り,歌 を よんでい る.

「汎海紀行

には

播肺往而備府来 ,柁大多 札 木骨泊筏洲油 島,而釆牛

門 ,此一大油断 也 とい う記醇が見 え,鎌倉時代 に牛恩 が内海 o)「‑大泊所」であ ったこ とがわか る。

またr鹿苑院殿厳 島詣記.

J

(1背) は足利義満の成仏参詣 に随従 し‑I=今川貞 世o)紀行文 である 那 ,その康応元年 (1389)三 月六 日の粂fこr六 日,御舟 いでて , うしまど,ま井のすtlどに 至 りぬ 」とい う記事が見 え ,その中に

,

「牛転 」の伝脱 が述 へ られ てい る.

ま た同郡の同 月二十四 日の条 に,

今夜 は , うしま どに,御 とどま りな り,赤松右馬助 まゐ りて,ある じつか うまつ るIJるべ し,

‑ 12

(26)

夜 にな りて ,また .かみfJり ・あ られふ り,大雨風にな る樫 に,舟 のいか りを と りて,此の泊 の少 ・しひんが しのわ きに痛 をI,1・は しき

, 見

得 のさわ ざ,の ゝしる船,こど もの声 々,/ll)〜

わ ぐに もお とらず ,ま うちぎみはか りは.寺の侍 りLに うつ らせ給 ひけ り,

とい う記事があ り,義満の一行が参詣 の帰 りに

,

再び牛窓 に寄港 してい ることがわか る。 この文 中の赤松右馬助 は,備 前国の守護 赤松氏 の鉄人 として,将軍義満 のために饗応 接待 に窄 めた様子 が うかがわれ ,また,義 満が嵐 を避 け るために上陸 し,寺院 に仮泊 した ことが知 られ る. この こ とか ら,当時 (こあって も牛鬼 の港が内海航路 の待避牡 としての機能 を果 していた畔実が知 られ る。

牛窓 は待避港 としてあ るばか り

/ 1

く,また蹄桝 貿易 の きかんな港 であっ1こ。 r海束諸国記

J

(1巻 ,朝鮮の申叔舟の著, 14 71年刊) には応亡元 年 (I4 67)の頃 ,兵庫草津 を初め と LTこ,瀬戸内海 の港津の・%族運が朝鮮 に櫨 を送 1ことが記 されてお り,その昔族 の名が列 挙 さ れてい るが ,その中に ,

丁亥年 ,避使 ,釆'il'観音現像 ,古称節 点iJ卯由津代官藤原 貞吉

とあるO 凍原 貞書 とい う人物 についての詳細

は 別

lJかでは/Jいが ,おそ らく,卯島津 (牛窓) に おけ る地頭 か有力武士 であ って,いわゆ る海取 水 の一人 であった と思 われ る

また r戊 千人 明記

J

(策彦 周艮乳 1 5 4 7匂入明記) によると,応仁元 年 (14 67) oL)過 明使に従 った政唐船 の中に ,牛窓 のFrl原丸 とい う船 があったことが知れ る. この記事か ら,当時 の牛窓 は朝鮮 と交易 したばか りでな く,中国 との貿易に も一役買 っていた ことが明 らかであ る.

( 杉 志乃婦)

(EE)(1) 弘法寺文

t E

F l 術前国Q項 々官等連署禁制状'Jヲ

(2) 10 弘法 専衆徒等 車代 (3) 11 後醍醐 天皇編ET'

(4) 12 帆 滑国 々五Ti (5) 餌茂注進雑記 微白河院庁下文

第 2 節 近 世 の 牛 窓

L

1. 領 主の系譜 (1) 中世か ら近 Firへ

軟国時代 の争乱 の さfLか ,各地 では近隣 詰責 の勢力争 いがrj4閲 きれ ていたが

, 備

前地方 も決 し てその例外 では/,rか っTこ。備IjTJfこおける守評 軸JJ

L , t

,松田‑赤松‑山名‑ 赤松氏へ と絶 え ざる闘争 争 o)過梓 を搾 て変転 し,赤松氏 の家臣浦 上氏 ,まfLその家臣宇宙多氏へ と漸次に実柵 は下降 し, 遂 に宇宙多LEl家 にいた って統一 が成 り,近 LLr大審

力 の確立 をみ るにい1=ったO この間 ,権力の 中心地 は播肺国境 の三 石城 よ り西漸 して.遂 に吉肺沃野 の中心 であ り,かつ海陸交通 の結節点 で ある岡 LJlに定着 するにいTこり,氏家 ・秀家父+ にJ:る岡山城の大改築 をは じめ とLTこ城下町 の建 設が進 め られてい く。 しか し,宇宙多秀家 は鵬 ケ原 の合掛 こは,かねて家康 と不和であ ったため 石EH三成に同心 して西甲 に くみ し,敗北 に帰 すC ここに ,備前 ・美 作両 国お よび播磨 ・備 中の各 一部 で約50万石を領 し7こ宇 宙多氏 は滅 んだ。 その居城は押収 きれ ,城下町 は焼 かれ,残党 は所

‑ 13「【

(27)

緑 を求 めて分散 ・隠遁 して土着帰虚 したO彼 らの うちある著は,宇博多氏 のIE堵 臣 で旗 本 に取 り 立 て られ た戸川氏 Ilどに召 し抱 え られ た し,ある若干の者は後年池田氏 の下級武士団 (こ編 入 され ,

あるいは村役人

こ取 り立 て られ たのであ る。一方 ,敗 北の秀家 は島津氏 をT:よって薩摩 に薪 ち たが,段長 や 4月八丈E;.i,へ遠流 され ,明暦元年 同島 で卒去 した。 8 4歳 であ った。 もっとも, 宇宙多氏 は秀家 の頗膏 と長船紀伊守の国政担 当以来 ,家 中の分立 抗争 は激化 して長船 は奄殺 され . 老 中戸川 ・花房 等の過‑1=をみ るにいた って もはや関 ケ原 の合歓以l抑 こおいて宇宙多氏 の褒亡 の兆

しはみ えていた とい ってJ:か ろ う. こ うして享 有多氏 による僻糾 こおけ る速 此化政策 は,その緒 において破綻 をみたわけであ る。

慶長5年 10月.

前 ・美作両 国5 1万石は ,関 ケ原 の合概 で東野 に樫遭 った筑前 国名応城主 の中納言小甲Hl秀秋 に'LT賜 され た。 秀秋は ,名将小早川隆祭 の頚 子で亀臣秀吉 の夫人郡台院 の甥 にあたることか ら秀吉 の深い髄愛 を うけていたが,秀吉 の死後石 門三成 との間 に不和が生 じ,こ れが関 ケ原の合戦中の徳 川方への寝返 T)の原因にljった ともいわれ てい る。 しか し,秀秋は晩年 の宇宙多秀家 に似 て放鷹殺生のみを好み,入閣径 は どな く国政が莱乱 し家中袋劫 を惹 き起 こした。

狂気の沙汰 はい っこうに とどまる様相をみせず

,

「老 臣其夕日)戒 は殺 され ,或 は退 去 し,残 りし 者 もljか71か諌 71ど言出すべ き様 もなければ

,た

lf其駿Lこて過行 きい よい よみ だれが ましさ所行 月日をか さねて相増 」(1)す とい う乱rJの うちに ,慶 長7年10月. 2 3歳 で卒 よ し,嗣

( ‑

/jきた めに断絶 の非運 をみた。 こ うして小早川氏 も花成わずか2年 で断絶 LT=のであ る。

小早川秀秋の死後 .船ulJ・美(/I:両 国の支配的係 は大 きく変 わ り,慶長8年 (16 0 3) 2月, 備前国 28万石 には池田輝政o)次男忠継 が ,美作国 18万6 50 0石には森忠政 が封 じられ, と

もに外様大名に よる藩政 が これ よ l)始 ま るのである。

地Fq氏 の遠祖 については

,

昭和源氏 の流 れをむ もので,平安末順頃 には突放固池田郡地川#‑

に居住 し池田右馬允 と名の り,子孫代 々池田 を氏 とした といわれ ,おそ らくは地顕的 小土,Z であ っT二とい う説が有力視 されてい る.

教止 より五代 の子孫短利 は江州一字野城 主穂川美作守伴 貞勝 の男 ときれ,の ち政秀の婿養 子 と 71り,将弔議暗に仕えて従五位下紀伊守に進み ,享敢元年京都の乱を避 けて尾州 に移 った。燕父 政秀の女 (恒利の室) はいわゆ る尊徳院 で ,滝川左庶将監‑鴇 と森寺藤左衝門尉秀勝 との計 らい で,天文5年I.:首長 の乳母 となって)I,1過 された。

恒利 の

7・ l

l7輝 は天文5

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橘掛 こ/i‑まれ ,幼少 か ら織P

l

家 に仕 え.I.7長の乳 兄弟 であ るところか らL,]!堤 と陀近 に71る。天文14年10歳の時,

l

lf秀 の茶取 りとfJ

†,i‑長の遊 び相手 とされ た。伯 軌 ま天文17年同列 の児小姓 と口諭 して斬 り,森寺藤左即 可の許 に身 を隠 したが,同20年海辞 合戦 で功 をT=てて(言長の勘気 も鰍 ナ,以来 ,帝左衝門 は[‑i輝 の後見 と71り,の ちにそ̲の鞄 臣 と

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った。 か くして,将軍義輝 と信尾 との辞字 を得て短期 を信輝 と攻 めたo永緑9年尾州木岡城に移 って,荒尾谷3,000日 ,元 他元年 正月同大ELト城 10,0

0

0月 を領 し,同年6月姉川 合戦 の時 , 地m氏 は滅亡せん としたが森寺父 十の忠勤 で免れた。次 いで天Lt 6年摂津の荒木摂津守村 重を う ち,翌年花 暇城 を陥 れ た功 で有馬 ・尼崎 ・花暇等 の

臥 約10万石を加賜 され て大阪在蝿 ,天 正10年明智光秀追討後 .柴u]勝家 ・羽柴秀吉 ・丹波妓秀 らと織 u]氏 の四宿宅 の一人 とIJり,盟

I L4‑

(28)

11年秀吉に加地 して柴田勝家 .織田何章 を滅 ぼ してか ら美濃大垣在城 (約 13万石) .Fp‑J12 年秀吉 が北副 再糠 を討 たん とLl:時 ,秀吉 に味 わす べ きか撒 田方 に付 くべ きか二途 を迷 った とき, 伊木精兵衛 の建言 と秀吉 の三国 (尾張 ・長波 ・三河)逓物 を もってす る勧誘 とによって,遂 に織 田家 を離 れ ていったO そして同年 の良久 手の倣 いC・12.0 0 0人を率 いて一番手 とfJり,信仰 ・ 之助父 子は敬死す る.

侶栃 の子坤政 は永緑 7年尾州蛸

にLEまれ ,

丸T :

8年尼崎在域 ,同1 1年英独 池尻在城 ,同1 2年秀吉の稔で父 の迎 節 を相続 して人垣尾坂 とJL'る。 次いで大垣 J:り岐阜 (10万 石)に転 じて 侍従 とな り,天正1 5年秀吉 の命によ

てLtを羽柴 と改 y)て羽柴三左衝門尉 と名 の り,更に同1 6年姓 を捜臣 に改 めた。同18年 小Frl原攻 めの撒 .東三河四部 15 2,0 0 0石 を簡 し,青 田 (隻 疏) に在城 して吉FTl侍従 と号し,産屋 5年 6月官帝の上杉景勝征伐の時 には.時政 も味方 して奥 州 に出陣 し,岐長城攻落 (こも忠 勤 を

ん でいるO か くて池同氏 は,先

F.T::坪時代 に織 田方か ら亀 臣方に転 じ,今 またはっきりと徳川氏

( こ

加氾す る江嶋 を明 らかに している。 されば慶長5年 12 月には舶 ケ原軍功 の'n'として播磨5 2 0

,

n 0OLTを賜 わ って姫路在城 と71り,羽 柴氏 ・豊臣姓 を 去 って原姓

池m

氏 に復す ることとffった.,

さて,慶 長8年2月嘩政 の次男忠継 は帆珊 2 8 O.0 0 0石を賜 わ ったが,これ は忠継 が家康 の 外孫 であるがゆえO‑)亀遇 であった。 しか し患掛 土当時幼 少5歳 であったので,実際 には兄利隆が 備前の国政 を監 す ることに[‑EっT=O ここ(こ地TIl氏によ る岡山帝政 の発端 があ る。慶長15年 2月, 輝政 の三男忠 雄 は淡路60,0 0 0石を嶋 わ ったが .忠継 ・忠雄 が ともに幼少 であ ったため ,両対 地 とも称政 の領地 に等 しく,か くて坤故 は.甘 JL:上86 0,0 0 0石の大大名 であ った といえ る。

腰良 17年8月坪政は

1

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‥三位参議 に任 せ られ ,扱乎姓 を賜 わ

たが発 18年 正月姫路城 で逝去 し た。 そこで同軍 6

は家康 の台針 e'軒政 のIB紀は次の如 く分場 きれた.すなわ ち,利隆 には宍 粟 ・赤穂 .佐伺三郡を除 く播僻国 (13耶)的 t20,0 0 0,忠継 には備前一 国および上 記の播 磨 三郡合計約3 8 0,O 0O石 ,忠 雄は従前)止り淡路 国 を慣有 したO ところが元 和元年忠継が17 歳 で卒 し,嗣 丁が7,Lかっ[:た♂),忠

が忠雛のlV筒 の うら

前一国 を,播磨=̲郡は輝澄 ・政綱 . 坪興の三第に各 々分与 きれ [=D この際 ,忠姓Iif椛前 ‑国2 8 0,0 0 0のはかに

,

母良 正院 の化粧 田 ごあ った備中の内約4 0,0 0 0石を合せ て社有す7L,こととな り,ここに岡山育領地南 3 2 0,0

00石が催正 したわけである。

一方 ,姫路藩主利隆 は元卸 2年 6月, 3 3或 E・逝去 し,利降 の予光政が一旦聴領 を継 いだが,

3年6月,播磨 は中国の要地 ごあるがゆえは節王幼 少 ほては叶 うペか らす, との轡由か ら,因 伯 両国に転 せ られ ることと[,t・っ[=0か くて ,兜水 9年の剛 11拷封 まで光政 は鳥取 に在城す ること

にな り,元和9年 .光政 は元服 して従Pg位

F 侍

従に叔任 せ られ ,家光 の韓字 を賜 わ って宰俵 を光 政 と改 めたのである。

その後 ,岡山藩主忠椎 は寛永9年 4月卒去 し,子勝太 郎 (光仲) はわずか3歳 であったがゆえ に .備前は手先 の国なれば幼少 にては叶 うペか らず との押由 で,備前 と酬 自両国 との国番 えが行 lJわれ ,寛 永9年8月に家 中残 らず鳥取 よ り岡山‑移 り,ここに他出光政 および その継嗣 による 庵帯 まで‑賞す る岡山藩政 が発足 した0‑3であ る。

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(2) 近 世の牛窓

以上 のよ うな過程 を経 て近 鮎の牛窓 は地飢民 の支配下にはい り,明治4年の魔 帯 芯県まで首帽

‑尽 して岡山藩池田氏の統治 を うけ ることになっ たのであ るO

近 肱の牛窓 は .図1‑ 2‑ 2に示す よ うに5つの村 々によって構成 され .何回かの併 合 ・改称 を経 て現在 にいたる.

明治4年11月 区制制定

千手村 第14扶:)区5番/ト区

藤井村 4番 小区

鹿忍村 6帯小区

牛窓村 7番小区

l 大浦 新EEI N

奥浦村 〝 5

中区

小津村 第 15(人)区3番小区

明治 8年 明治22年 明治29年 昭和31年 併合 ・改称 市町村制実

第 1次町村 萌 2次町村

合併 合併

図 1‑ 2‑ 2 牛窓町'(‑)政変愚図

(荏) 「剛 日県郡治託 」上巻 (昭和13年発 行)萌 7帝町 村廃 置分 合お よび

「怖仙 県市町村合併

」 (昭和3 5年発行) に よって作成

剛 日赤の地Jj‑丈侃制健の特徴 の一つは.魚水 9年 (1632) 8月池田光政が鳥取 か ら岡山に 入封 した直後に,前和田民時代 の前例 を粍襲 していわゆ る地 方知行制度 を採用 し.江戸時代 を通

じて城下に居住 させ .在地 性 を もたない家 臣馴 こ地 方知行 を与 えたことであ る.

邑久郡におけ る歳 入地 と知行地 の分布 伏憩は哀 1‑ 2‑ 1に示 しTことお りで,歳入地 と知 行地 はほほ3 :2の割 合で分布 してい る。 ここで特 に注 目すべ きは.知行地2 6,3 7 6,7 05石の う

ち虫明に陣屋 を もつ家宅伊木氏の知行地 が12.3 14.4 86石で4 6,7%とはば半数近 くに逮 し てい ることであ り.こに家老 の在所 の所 在す る郡 としての特色 が明解 にあ らわれ てい るといえ

る。

虫明伊木氏 の系譜 は戎 1‑ 2‑ 2に′示す とお りであ る。伊木氏 はその先 を性後守忠 次 といい, は じめ香川艮兵衛 と称 し,また清兵衛 と号す。天文12年尾張 国将洲 にFEまれ ,初 め織 LIl氏に , 後池m信坪 に仕え,渡州伊木山の城 を抜 去た か こよ り伊 木氏 と改 め る。天止 18年金河 田原城に, 慶長6年播磨姫路に移 り,同 8年37.0 0077を鏑 し三木城主 とな った。 ‑f長門守忠繁父 につ

‑ L9

表 11 2‑ 18 千 手村 良民階層構成 (蛋永 5 年 千 手村 田方畝高名等帳に よる ) 持 高 戸 数 一 戸数比寧 持 高 持 高比率 10 869 57 石 ‑ 10‑‑‑‑以9 876 上 0014 (1 (1)1) ト 4 ̲8 ヲ g 2197 .700石

参照

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