• 検索結果がありません。

長岡高等学校所蔵井上円了関係資料 利用統計を見る

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "長岡高等学校所蔵井上円了関係資料 利用統計を見る"

Copied!
33
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

長岡高等学校所蔵井上円了関係資料

著者名(日)

長谷川 潤治

雑誌名

井上円了センター年報

8

ページ

197-229

発行年

1999-07-20

URL

http://id.nii.ac.jp/1060/00002697/

(2)

︿資料紹介と

長岡高等学校所蔵井上円了関係資料

長谷川潤治

忘ぼ亀§さミ 長岡高校︽記念資料室︾について  長岡高校には百三十年余の長い校史を物語るゆかり の資料を収蔵する︽記念資料室︾が設置されている。 明治五年、北越戊辰戦争による荒廃、疲弊の中から窮 状を押して創設された長岡洋学校が同校の前身であ る。当時の長岡の人々の同校に寄せる思いには尋常な らざるものがあり、人材の育成こそが長岡を救う唯一 の道だ、との思いを込めて創設されたのが同校だっ た。  ︽記念資料室︾は、ωそうした開学の精神とその後 の発展の歩みを、伝存する貴重な資料によって今に伝 えること、②創立以来の伝統と校風を受け継ぎ、更に 発展させること、③幾多の卒業生・先学が残された 各々の業績を伝える資料の保存と紹介に努めること、 の三点をその設置の趣旨として掲げている。  資料室自体の歴史もまた長い。その淵源は大正四年 にまで遡る。同年三月の火災のために焼失、散逸した 資料を収集保管するためにく長岡中学文庫Vが設立さ れたのは同年秋のことである。更に昭和九年にはそれ が一層整備され︿長岡中学記念文庫﹀と改称された。 これが現在の︽記念資料室︾の発端であるとされてい る。戦後間もない昭和二十六年、同校創立八十周年の 折に、記念事業の一環として記念室も拡充され、独立 した一室を持つに至った。二十年後の百周年には全面 197 〈資料紹介〉一 長岡高等学校所蔵井上円了関係資料

(3)

的な校舎の改築があり、記念室の規模も収蔵品も拡充 され、本格的な展示備品と収納施設を持つ︽記念資料 室︾となって現在に至っている。  展示室と収蔵室を持つ同室には、校史や卒業生・旧 職員に関する資料は言うまでもないが、長岡藩時代か ら洋学校創立時代に至るまでの長岡の地の学問と思想 に関する展示品も収められている。  今に受け継がれる同校生徒会︽和同会︾の創立者で ある井上円了の資料や書幅も多く収蔵されている。円 了の﹃履歴書﹄﹃襲常詩稿﹄﹃舌耕筆掲田﹄︵いずれも 校本︶など、若き日の円了を知る貴重な資料も多い。 ﹃龍蚕軍義既禍﹄について  長岡高校の記念資料室には、井上円了が十五歳の時 に書いた漢詩集﹃襲常詩稿﹄が収蔵されている。﹃襲 常詩稿﹄は校本であるとはいえ、生涯に五冊の漢詩集 を有する円了の処女詩集である。少年期の円了の姿を 伝える数少ない貴重な資料であると言えよう。  書名に冠された︿襲常﹀とは、少年期の円了の字号 である。﹃襲常詩稿﹄には、明治五年︵一八七二︶円 了が数え年十五歳になった年の元旦から大晦日までの 一年間に書かれたおよそ八十五編の漢詩が収められて いる。  この年、円了は、元長岡藩士木村鈍婁が円了の生家 慈光寺で開いていた私塾に学んで三年になろうとして いた。これ以前の片貝の石黒忠恵の塾での十三カ月を 加えると、﹃襲常詩稿﹄は円了が漢学を学び始めてか ら五年になろうとしている頃の詩稿である。新潟学校 第一分校︵後の長岡中学︶に入る二年前のことである。 ﹃襲常詩稿﹄は謂わば私塾期における円了の漢学修養 の一到達点としての優れた成果を示すものであったと 言うことができよう。  詩稿に収められた全八十五編︵断編二編を含む︶の 構成は、初学者の常道通りに七言絶句が七十首と最も 多く、次いで五絶・七律各五首、五律三首というよう になっている。

(4)

 季節別に分類すると、﹁壬申元旦﹂詩の連作十五首 を含む春の詩三十二首を筆頭に、秋二十首、冬十八首 そして夏の詩十一首と続いている。  ﹃襲常詩稿﹄には、若き日の円了その人の言葉に寄 せる並み並みならぬ興味と関心があふれている。自然 や人事に触れながら円了の鋭い感性が見事に表現され た詩が多い。また後年の円了がしばしば見せてくれた 屈強な精神の原形にも触れることができよう。円了の 年譜上の問題に関する作品もあり、円了研究には欠か せぬ資料である。 ﹁和同会雑誌﹂について  長岡高校には、在校生であった井上円了が中心にな って設立した︽和同会︾という独特の組織が、今も連 綿として続いている。現在では生徒会の名称となって いるが、当初は生徒相互の親睦を深め、演説、討論の 訓練を目的とした生徒有志の結社的なものであった。 その機関誌が﹁和同会雑誌﹂である。今年二九九 九︶三月には通算第一三八号が発行されている。そし て雑誌の題字は、大正六年三月発行の第六十号からは 井上円了の揮毫のものになり、現在に至っている。こ のことは、明治九年十月に設立された︽和同会︾が、 今も脈々として創設者円了の基本理念を受け継こうと していることを意味しているといえるのではあるまい か。  最初の﹁和同会雑誌﹂が発行されたのは明治二十二 年十二月のことだった。特筆すべきことは、この雑誌 は、印刷されたものではなく、書写本であったという ことである。毛筆で書写して数部を発行、会員間で回 覧したものだという。和同会を盛り上げるために、生 徒に奮起を促す言辞に溢れた熱い雑誌であった。そこ に当時やや衰退気味だった和同会を再興しようとする 志のある生徒や教師の意気込みを読み取ることができ よう。  活版の印刷﹁和同会雑誌﹂第一号が刊行されるのは 明治二十八年の一月を待たねばならなかった。だが、 199 〈資料紹介〉一 長岡高等学校所蔵井上円了関係資料

(5)

第一号が敢行されるや、同年度中に立て続けに二、 三、四号が続刊されたのだった。そしてようやくここ に、これ以降継続される﹁和同会雑誌﹂の礎が固まっ たのであった。  井上円了も機会あるごとにこの雑誌に寄稿してい る。講演の筆記稿や漢詩なども見え、母校に対する円 了の思いや期待を窺い知ることができる。

(6)

へ   

﹃襲常詩稿﹄

      三 寒漏五更入首陽 新看嶺上彩雲長 忘老忘貧酔欲狂 蒼生共酌椒花酒 襲常詩稿       四 東峰日上曙霞紅 聴得春鶯噂好風 頻傾柏酒祝年豊 賀歳邨翁知幾許 釈円了字襲常 壬申元旦 我年在+五        *鮮 曙暉升処入春天 早已今朝物色新 喜迎四海是豊年       二 鶏声哩々曙光催 万国忽知淑気回 相伝台上椒花杯 万戸千門開盛宴 時和年豊太平日       五 堪喜今朝春色回 東風吹媛一時来 笑把屠蘇四五盃       六 鐘鼓相催入曙光 一声黄鳥報新陽 酒満芳樽客満堂 数十鶏声開曙暉   七 瑞雲升処彩霞飛 樽前不識身将老 可歓万国昇平日 詩朋酒友高台上 201 〈資料>r襲常詩稿」

(7)

共酌濁膠一酔帰       八 何幸今朝属令辰 渾家老輿賀春頻 自是池中転緑頻       九 亭上迎春日漸脩 東峰最愛彩霞浮 残雪半消草已稠          十 朝日瞳々上竹軒 満樽相対祝正元 未必黄鵬入柳園          十一 旭日三竿曙色明 春鶯先報両三声 已見庭前青艸生 乾坤忽有東風起 暁来忽変山川景 春遅簾落雪猶在 東風吹起消残雪          十二 春到人間先可歓 東峰麗日照林端 濁酒満樽堪禦寒          十三 今朝又値太平時 慈母堂前献寿厄 暖風解凍発漣潴 年光錐是似循環 未知梅樹独開顔  十四 *骸 猶驚今朝春色還          十五 一歳忽過又遇春 朝来暑色喜呈新 雛外寒梅已啓唇 人日 去冬残雪堆簾外 残雪忽消催撤色 已見庭前残雪尽 門前漱柳初開眼

(8)

草堂門外少人行 濁膠不酔句先成 残雪作堆菜未生 一笑一談同友興          立春 斗柄移寅春又来 日遅風軟北鴻回 未見楳唇柳眼開          二月 二月更無黄鳥噂 雪残抗有在園離 即是京城春老時          春寒 村南邨北雪抗在 林中林外花未開 樽前試酌両三盃        春日閑居 遅日媛風草満庭 梅花潔白柳条青 滴露研朱点周易 只愁郊外堆残雪 人伝越国花開日 転怯春来寒気盛 下帷閉戸書斎裡        春日山居 深山二月雪抗繁 雲満四隣昼自昏 常聞丘整水声喧        春日村居 家住信濃江水間 四隣樹密鳥声閑 東有銀山西米山          春昼 日長風媛草妻々 柳色花光望欲迷 唯聞枝上噛黄顧 終日柴門人不到 楼頭三月宜春望 門巷無人春昼静    春日送友人 友人名登岸郷名井柳 遥出柳郷到浦郷 春中共学慈光痒 堪驚今日分襟去 空送信濃江水傍 渓村尋花 203 〈資料> T襲常詩稿」

(9)

渓村深処昼粛々 山前看得早梅条 山裡春三月 緑暗渓間樹 三月中旬雪漸消  春日山行 雪消馬足軽 紅明嶺上桜 三月三日信川辺 風流抗憶永和年 三月三日  *不辞 終日柴門草鮭尽 天晴喧鳥語 地僻少人行 村家在何処 雲外暮鐘声 柳葉如眉花欲燃 亭上群賢膓詠興       二 今年又遇令辰回 楳杏桜桃燗漫開 誰家絞事小児来       ’ 浦里園中鶯已老  春暮 慈光篁裡筍初長 高会勝遊流水上 愁聞昨夜狂風起 花落今朝満路傍        暮春山行 間歩徐行入遠峰 樹栄艸競緑陰濃 日暮遥聞何処鐘       暮春晦夜作 無那晩来風雨頻 愁看樹下落花句 明日景光不是春 采薇采蕨深林下 誰憐三月今宵尽        初夏即事 地偏無客到茅堂 静捲疎簾望夏光 荷葉団々浮小沼 竹孫挺々出高培 幽庭樹密昼初永 深院人稀燕自忙 終日相托欄艦下 把毫護賦一詩章       二 紅花落尽緑陰濃 永日薫風長簿龍 山雲雨渇起奇峰 朧麦風来成細浪

(10)

      三 緑樹陰濃昼自幽 一眠不識夕陽収 碧麦却成碧浪流        初夏山居 山続竹林竹続家 家辺唯有鳥声謹 林裡花稀緑樹多          遊山 山続澗渓々続山 渓山共在白雲間 渓水渥々山自閑    遊須川 五月六日也 携児遥到須川涯 両岸柳楊払水垂 東西南北緑苗滋        夏日田家 五月田家農事急 小児餉食老姑炊 陛頭忽有晩風起 地偏漸覚春光去 山林欝々渓常暗 道半橋頭時一望 今年又渇溝渠水 村落挿秩十日遅          端午 五月五日端午時 家々角黍纏清糸 静読離騒独自悲        江亭避暑 日光如火暑如湯 雨不湿裳汗湿裳 心中恰似到天堂 樽中有酒難成酔 偶有江楼水風起        初秋即事 一陣西風吹起処 残炎忽退早涼通 数蝉応候鳴高樹 孤雁報時度遠空 庭際声悲新蜷蜂 林中葉墜老梧桐 莫言夏去景粛悲 池面芙蓉花正紅          其二 涼気忽生無暑気 夏光漸尽入秋光 不是愁人亦断腸 閑聞階下虫声切 205 〈資料> r襲常詩稿」

(11)

         池辺花発露口口 我言秋日勝春朝 其三 菌苔芙蓉両艶妖 人是逢悲秋寂莫        新秋書懐 春尽夏過秋色来 暖往暑退早涼催 一去千年又不回        新秋閑居 茅屋四隣老樹深 不聞人語只吟蝉 時椚風虫時鼓琴 年光恰似江流水 悠然坐臥閑窓下        客舎聞雁 夜深雲外雁哀鳴 一声一声又一声 空歌孤枕待天明 鶏犬驚秋夢 紅繭清香満    秋暁 起来椅短節 碧荷冷露濃 旅客無何帰思切 残蛍在深草 斜月掛疎松 山前雲霧散 朝日上東峰        信川淀舟 小艇淀来信濃川 信濃川上水連天 紅色青々林色鮮 漁歌発処斜陽夕        新秋客夜 客舎粛々早秋夕 更無知己与誰親 庭前露冷吟蟄切 天外月明鳴鳩頻 風動林中驚宿鳥 砧来枕上泣遊人 一眠不就孤灯下 空拭涙痕坐待農          山中 寂々蓼々山障中 唯無人屋有深叢 半帯葉青半帯紅    秋日郊行 分韻得雪字 園林八月中旬節 到処唯看紅樹列 中秋八月千林色 時有蕎花満野原

(12)

却疑昨夜飛新雪          中秋 月色研々夜色鮮 三千里外散秋天 一落西山又隔年          秋夜 灯下把書任几几坐 粛疎簾月影沈々 風起林中万葉吟        初秋野望 村南碕杖望郊原 秋浅園林猶未痩 雨収禾稼離々秀          秋暮 荷枯菊老秋光暮 葉満寒叢霜満家 紅於二月杏桃花 今宵宣不尽歓楽 夜深隣屋春声敵 姻散山峰畳々明 九月林中楓柿葉    暮秋山行 独上山頭望山下 山菊已看経雨花 干時九月十日也乗晴天携↓瓢飲一箪食遊於深 沢山一詠而帰 山南山北白雲遮 山楓未有染霜葉          九日 抄秋九月重陽日 酒満玉樽菊満簾 抗憶龍山落帽辰        暮秋晦日 一身不覚四時移 今日又逢秋尽時 菊残猶有傲霜枝 已過授衣月 辞国寓江隈    初冬 又遇着裏時  客中初冬 回頭一望開 侃萸携友登高処 莫道園林倶寂莫 遮莫新寒盛 炉辺傾酒厄 柿紅識秋去 山白覚冬来 207 〈資P>憤常詩稿」

(13)

木落千林痩 風寒孤雁哀 年々為異客 双涙易相催   送友人帰故郷 倣臥酩日学郷日桂去家遊学干浦邨経一両年 昨朝共学浦邨痒 今日送君帰桂郷 水色蒼 山色白 北風吹涙湿衣裳   同 友人名日明曜郷日片貝北遊於浦村痒与我為親友奏 双隔双飛集江浦 飛来飛去自覇翔 冬来一鳩向南去 一贋失群哀叫長          初雪 昨夜怪聞竹折声 今朝驚見雪花明 二十八言忽自成       二 北風颯々雪翻々 忽見江山白皓然 共傾濁膠話豊年 寒窓呵筆尋詩句 好是田家火炉下       三 昨宵階下滴声悟 衣被稜々寒意厳 瞠然更不見山尖 天寒氷結袖 雨雪舞還来 篤学居顔巷    冬日 風勤冷侵肌    冬夜 朔風止又起  冬日読書 潜心下董帷 早起今朝開箔望 炉下成何事 只傾濁酒危 ︹以下欠︺ 莫憂油価貴 白雪満前簾          寒夜 冬夜無人到門外 雪風唯有撲疎窓 臥聴遥鐘已曉撞 江楼晩望 寒威徹骨眠難就

(14)

晩来椅楼上 雪舞朔風停 仰望銀山白 傭看信水青          雪夜 冷透衣会夢不成 堂南夜折已三更 蒼滴無声竹有声 臓月中旬節   ︵ 欠  ︶ 風動口口口    苦寒 家貧衣尚単          気厳口口口 起来試向窓前坐 堅氷封沼水 積雪擁林轡 我身若無酒 何処禦冬寒          冬夜 衣被稜々夢不成 擁炉独坐已三更 深夜抗聞播嵩声          除夜 堪驚日月護忽々 三百六旬又成空 吟渋一篇抗未終 農家相力索絢事 今宵我欲饒残膿          偶成 年少不能勤学早 老来方悔読書遅 白髪復無帰黒時 ︹欄外︺ 年少方不可為年少不能 曽生俗塵外    有感 常住俗塵中 黄河猶有逢清節 世俗塵中事 不如塵外風     癸酉之春遊浦村南原 南郊雪尽馬蹄軽 日暖風柔草已生 金峰山上百花明 信濃川辺垂柳緑    同年之秋採葺詩 擬山陽詩賦之 男児荷食出村関 籠若不満晩不還 採章宣唯深沢地 両人到処有秋山 皆我与幾平子共遊深沢山故称両人 ︹欄外︺ 満字盈之誤也 夏日到高山洋校作 209 〈資料>f襲常詩稿」

(15)

一笠一簑一布衣 我立講堂唱恵微 負書朝暮共往帰 人言終日成何事 群児共学慈光貴 使能頑魯趣文明 二十有余五六名 日日慶公与徳子   詠中元之夜盆躍 在八幡堂前 八幡堂地中元節 大鼓盆歌横笛声 今宵遮莫到天明 歓楽難逢人易老   訪親沢山之孤家 枇細躍訟猷襯沢山深入山中尋孤家休焉名 探松深入親山裡 尋到渡辺巳七芦 我説終年楽何事 翁言常愛俗塵疎        慈費雑吟 浦里開費集小児 読書終日勒孜々 午前共調支那語 午後相伝英米詞 新施罰刑懲惰慢 常窮道理教愚痴 早成内外国家学 要立文明開化基 同+二月学校終業之日作此詩以贈慶次郎公徳太郎両教師 今朝竹箔起来開 随風乱点擁崔蒐 老萸止憂寒徹骨       日月口駒過戸隙 吟渋未成窓已白  初雪 満眼鎧然雪作堆 枝々成架却疑柳 火炉温酒只傾杯 除夜 帯雨静瓢埋道路 樹々着花恰似梅 一年風景窮今夕 賦詩我欲贈残冬 題襲常詩稿後 生学問之要非詩然詩以暢達学之才大也由是観之詩又不 得不学焉襲常幼能賦詩其句々繁燗其律典正然実賦情外 之情今其見幼年之稿勢所趣直追盛唐余感服之余巻末附 一言云爾

(16)

︹裏表紙見返し︺ 明治五年歳在壬申   井上襲常      齢在十五歳 ︹裏表紙︺ 大岩山 釈円了 ︻注︼  活字に改めるにあたっては、できるだけ通行字体 にした。  編者の注記は︹︺内に記した。  欠けている部分は口で示し︵欠︶と傍記した。ま た判読できないものは口で示し推定できる文字を ︵︶内に傍記した。  原文中に併記されている漢字は、*をつけて示し た。 211 〈資料> r襲常詩稿1

(17)

︿資料﹀

﹃和同会雑誌﹄所載井上円了関係資料

﹃和同会雑誌﹄第三八号︵明治三九年一二月一﹂日︶ ︹講演︺   博士井上円了氏の講演 只今御紹介になりました通り、是から何か御話を致さ うと云ふのですが、此頃風気の処に、数日間演説を重 ねた為め、発声に困難で、大声の人に御聞き取りの事 は、むつかしい事と思はれますが、これは致しかたが ないとして、⋮⋮⋮⋮ 人は、自分の郷里程、懐しい所はありません、若い中 はさほどでもないが、どうしても年を取るに従つて、 一年増しに、故郷が恋しくなつて来る、之は人情何人 も同じ事と存じます。 私は明治十年西南戦争、即ち彼の西郷の乱の時、父母 の下を去つた、即ち此長岡校を辞して他郷に遊学致し たのである、其れ迄は此の学校に教育を受けたのであ るから、長岡は私の故里、此校は私の揺藍である、其 れ故此の郷が何となく懐しく、殊更、貴方がたの顔を 見ると、古が忍ばれるのであります。 只今此地に来て見ると、昔交はりし友は、多くは黄泉 の客となつて、見ることか出来ない、たまに二三人生   ゆってシ き殊に居ても、昨日は紅顔の少年、今日は白髪を戴く 老人となつて、最早昨日の人ではない、私も御覧の通 り、今は霜を戴く此の有様であります。誠に古人の言 の如く﹁年々歳々人は同じからず﹂で、人は昔の人で

(18)

ない、校舎は昔の建物でない。然し此の山を見ると、 ︵東の方を指し︶昔と少しも変てない、彼の川を見て も、やはり昔のま﹀である。金倉山や、信濃川など は、少しも昔と変て居ない。一方に於て、かく迄昔と 異た所を見、一方には依然として昔のま﹀である所を 見ると、実に、云ふに云はれぬ感、所謂今昔の感に堪 へぬのである。此の度長岡に来て、校長と日頃懇意の 所から、わざく御紹介を得て、喜びに堪へない次第 であるから、何か御話致したいが、毎日演説を重ね て、発声が此の通嗅れて居ります上、何分急の事で別 に腹案もないのですから、只、昔を顧ふて、何となく 懐しく思ふ、昔感をのべて、あなたがたへの贈物の代 にしやうと思ひます。 私が此校に這入たのは、洋学をする為め、乃ち英語を 学ばうと云ふのであつた。然し其頃は、今日の如く完 全ではない、辞書と云ふても緑なものはなく、長岡に は求めたくも勿論ない、東京なり、横浜なりへ、これ くの本があるかと問ひ合せ、其れでもまだく決定 する事は出来ない、何部あるか、と云ふ様の所まで知 つて、漸く其れで、教科書に用ふると云ふ有様で、実 に書物を得るにしても容易のことではないのです。 又、教育法も実に奇怪のもので、私の這入つた当時は ⋮⋮⋮⋮エイ当校の歴史を見ますと、もと藤野なる人 が、当校か創立された時に来たが、私はつく事が出来 なかつた、其後藤井と云ふ人が来た、其時私は這入り ました、其頃は先づ歴史で云ふと神代にあたる⋮⋮神 代と云ふても、天神、地神と色々ありますが、私など は地神の代と云ふべき頃で、まー神代の古物と云ふて 宜しいのです。 私の這入た時、﹁パーレー﹂の万国史をやつて居つた 組があつたので、先づ其の組に這入れと云ふ訳であつ た。 其頃、一般に、始めに文典、﹁スペルリング﹂、最後に ﹁リードル﹂と云ふ風であつたが、私はそうでなく、 直ぐ﹁パーレー﹂の万国史からやり出した。尤も其後 一年程、東京から或る西洋人が、漫遊に来たのを先生 214

(19)

に頼んで、二三ケ月﹁リードル﹂を学んだ、﹁パーレ ー﹂の万国史がすむと﹁ミユート﹂の﹁ウヰルソン﹂ の万国史、﹁ギゾウ﹂の文明史、など盛に読んで、之 か読めれば英語は先づ卒業と云ふ有様であつた。此の 年迄、私は文典を知らぬ、﹁リードル﹂も知らぬ、︵記 者想ふに﹁リードル﹂とは﹁スペルリング﹂の誤ならむ∀ 突かけから﹁パーレー﹂の万国史をやつたから、今で も中学の文典の試験を受けると落第である。 其に又実に奇怪極まるのは、読方を知らぬで、訳をや つて居る、﹁イツト事の其れは﹂で、﹁ナイト﹂︵夜︶ を読むに、いらぬ字まで読んで、﹁ニグフト﹂とやる、 ﹁デーアンドニグフト﹂と云ふ有様であつたが、兎に 角意味は取れる、然し読は少しも分らぬだから人の云 ふ事も分からぬです。 其れから東京に出て、予備門を受ける事になつた、是 が私が此の地を去つた時なのです。 其の頃予備門では、教師は日本人が二人位交つて居 て、他は皆な西洋人、試験も皆な西洋風でやつたもの で、教場で話すも西洋語で、掲示も西洋文字、日本人 迄英語で話をするのであつた。此の学校の出来たの は、全国に英語学校があつた、新潟には新潟の英語学 校、東京には東京の英語学校があつたが、之を止め て、予備門として立てたのである。其れ故、西洋人は かりで、何でも西洋風にやる、日本から、はるぐ西 洋に行くのは、中々の事である、又強いてさうしなく も、日本に洋学校を建て﹀、全く西洋風にやれば、其 れで洋行したと同じであると云ふのであつた。 処が長岡に居て﹁デーアンドニグフト﹂と読んだ連中 なれば、さー困つた。其所で人に聞くと、正則をやり 給へと云ふ事で、直に始めたが古いくせが中々直ら ぬ、一生懸命で苦んで、さー愈々試験を受ける事とな つた。 教師は西洋人で、西洋語をべらくくしやべる、少 しも分らぬ、しかし問題はとにかく﹁イツト事のその 事は﹂くの調子で綴つた、然し答案は英語で書くの であるが、文章は書いた事がないので、是又大に困つ

(20)

たが、幸にも登第が出来た。其時の点の取り方は、全 課目を平均して、六十点に達すると上られるのであつ た。其結果はと云ふと、丁度彼の地に知つた人があつ たので、其人から写してもらつて見たら、私ながらあ きれた。如何かと云ふと、文典が十九、作文が二十 五、それで如何して登第が出来たかと云ふと、教学が 幸に満点であつたから、登第が出来たのだ。入学して からも、西洋人許りで、薩張分らんで困つたが、其中 に学校の方針が変つた。日本人が日本に居て勉強する に、何も西洋の言葉でやる必要がないと、大学の方 針、即ち文部省の方針が変つたのだ。私が予備門の一 年になつた頃には、西洋人は皆追払ふたが、西洋人も ひどいです。アメリカあたりに居た時分には、金掘り をして居つた様なのが、日本が大部開けたそうだ、一 つ金儲けでもしやうと云ふ様な工合に日本に来る。直 ぐに教師に雇れるのであつたが、今度は西洋人を追払 つて、日本人になつたので、教場の事も日本語でたく さんになつた。 此の頃では学制が大に改まり、教師も書物もそろつ て、私等の当時から見ると誠に幸である。 私等の四分の一の労力で、勉強が出来ます。是れは皆 あなた方の幸福でありますが、兎角困難の時に比べる と、便利に安んずると云ふ事の出で来ると云ふのは、 どう云ふ訳か。と云ふに、昔の人の二年も三年もか﹀ つた所は、一年位でやれるからだ。それなら昔に比べ て偉い人が出るかと云ふに、そうでない。勿論今は英 語もやる、数学もやる、漢学もやる、昔の様に、漢学 は漢学ばかりで、他に何もない。只そればかり一生懸 命になつて居ればよいのとは違ふが、昔の人が、二三 年か﹀つた所は僅の時間で出来るのに、偉い人の出な いと云ふのは、つまり便利に安んずるからで、人の心 の持ち方一つである。 昔は困難して勉強したのを、今は僅かの労力で出来る から、我は一つ昔の人の二倍三倍の勉強をしやうと心 がけて、勤めればよい。 総て学問するには、立志といふ事がなくてはならぬ。 216

(21)

立志の中には、何か格段なものに感じて立志するもの もある。又時代の潮流に感じて立志するのもある。例 へば、雨滴石を穿つを見て立志するのは、格段なもの を見て立志するのである。又維新の当時は偉い人が出 た。それも多く青年である。此れは何かと云ふと、当 時の潮流に奮励せられたのである。徳川三百年間の圧 迫に対して反動したのだが、又一つには外国の黒船が 来たので、人心騒然として騒いだ。青年が是等に遇つ て立志した。維新は此等の人に頼つて形成せられたの であるが撰夷論も畢寛是の潮流の反動である。孔子も 憤せざれば啓せずといつた。 日露戦争は如何である乎。歴史あつて以来空前の事で ある。此目出度戦勝を見てはだまつて居れぬ。大に国 家将来の為に奮励せねばならぬ。日露戦争に於て勝つ たのを見ると、丁度家の出来るのに讐へる事が出来 る。新日本が、徳川といふ旧い家に代つて、新築を起 したのである。今上棟式がすむだのである。是れから 内部の造作が必要であるが、未だ今は造作が出来ぬの である。此内部の造作が大に面倒である。あなたがた は、兵士の出入を歓送迎なさつたでしようが、未だ何 も功を建てられぬのである。将来の任重し。任重しで あるから大に立志奮励せなければならぬ。 私は此学校が生れた場所である。学校の名は変つた が、此処で御話をして居るのは、永く逢はぬ兄弟に逢 つた様な心地がして、嬉しい。嬉しいと同時に、大に 望む所があるのである。青年は手を空くして居つては いかぬ。必ず自己の責任の重きを知つて、常に奮励し て新日本の内部の造作を為なくてはならぬ。 今日は是れから、汽車で郷里に帰るのであります。数 日来の演説につかれて居るので、何もまとまつた考も なく、長く話せば、只何遍となく同じ事を繰り返すに 過ぎないから、今日は是れで御免を蒙るが、私の御話 をした事を御忘れなく、将来に於て此事が何か諸君の 御為のなる事があれば、私の幸甚とする所でありま す。で1本日はこれで御免を蒙ります。︵M.H、Y. 0生記︶

(22)

﹃和同会雑誌﹄第四五号︵明治四二年七月二〇旦 ︹詩苑︺

    偶成数首   井上博士

世海波難静、人生是戦場、勤君須奮闘、任重路途長。 倹薬医貧病、忍刀断惰魔、少時若荒怠、老後悔如何。 我生非夢幻、事々悉皆真、請見成功士、積年瞥苦辛。 惰眠人不覚、歳月夢中過、君独揮心剣、払来胸底魔。 貧眼無不賊、油断亦皆仇、自省若相怠、吾心何日休。 面皮堅於鉄、人情薄似紗、聖言及時弊、就実去浮華。 雲行山独臥、風定鳥争翔、動裏猶留静、閑中亦有忙。

故人多作黄泉客

老来却喜多楽事

物換星移三十五

半千会員気何壮

世道由来有窮達

戦後経営是誰任

少時能送銀難夕

信川悠々彦嶽葺

贈君一語無別意

塊我無功保此身

更見和同会運新

後凋不変似松鍔

日就月将渡学津

人間何敢論屈伸

只待青年有為人

老後必迎歎楽農

四時最好養精神

終生須与至誠親

     ︵以 上︶ 218 ﹃和同会雑誌﹄第四六号︵明治四二年﹂二月一九日︶ ︹詩苑︺  祝和同会創立三十五年紀念祭         本会創立者文学博士 井上円了

緑々消光五十春  

草葬深処守清貧

想昔長城求学日  

蛍雪嘗尽幾苦辛

悠久之花長生月  

如夢心頭隠見頻

﹃和同会雑誌﹄第五五号︵大正﹂二年七月二二日︶ ︹講演︺    海外に雄飛せよ       文学博士 井上円了講演 私は此長岡中学校の前身の一人と言つてよい。私の居 つた当時は長岡洋学校と称して新潟学校の分校となつ て居つた。今長岡に来て昔の学校の跡を探さうと思つ

(23)

ても解らん。全く浦島太郎と同様の感がするのであ る。今日の中学校は万事制度が完備してゐるので。各 学科とも専門の教師が附いてゐるけれども私の時代は 初からバレーの万国史を読んだ様な極めて偏屈な教育 であつたから。従つて発音や綴などはまるで無茶苦茶 であつた。私が初めて洋行した時に失敗したのは英語 であつた。英国倫敦に居つた時であつたが。ビクトリ ヤステーシヨンに行かうと思つて。一英人を捕へてホ         イヤイズゼビクトリヤステノシヨンと遣つたところ が、先方は解らん不審に堪ないので公使館に行つて訪 ねた。公使館員等は大いに笑つて、それは君の英語に はアクセントが無いからだ。英語には所謂日本の英語 と英国の英語とがある。英国に来たらば英国の英語を 話さねばならんと言つて色々アクセントの事を注意し        に  て下された。成程と今更の様に感服して。既うステ イシヨンは知つてゐるけれども果して然るか否かを試         す為めに公使館員等から習つた様に。ホイヤイズトリ        つた  ヤスステーシヨンと遣たつ。遣つて見ると先方は能く 解つたと見えて丁寧に教へて呉れた。一寸一例を挙く        ロ   れば這座な始末の教育を亨けて居つたのだ。然るに諸 君は此文明の御代に生れて立派な教育をうけてゐるの だから。私等より五倍十倍勉強して聖代の恩沢に報ゆ る所あらねばならぬ。 一昨年私は南半球漫遊の際六十余りの英国の一老人と 同棲したことがあつた。其英人の娘は濠洲のシドニー に、兄は露国のセントピータースブルグに。枠は南米 に居るのである。其人はこれから親類廻りをするのだ といつてゐたが。実際英国人は自分一身の親類まはり をしても五大洲を一週することが出来る訳である。 仲々勇壮な話である。彼等は英国に日の没する時なし と傲語してゐるだけあつて。海外に出ることを恰度隣 へでも行く様に考へてゐる。如何も日本の国民は海外 に出ることを厭ふ傾向があつていかぬ。日本の土地と 人口とを平均すると一里四方三百五十人である。然る に濠洲の南部は一里四方一人半。日本に比すると甚し く勘ないのである。狭い土地に多くの植物が繁茂せぬ

(24)

と同じい道理で。小さい国に多くの人民が住んでも到 底完全な発達は出来ない。目下の日本は恰度か﹀る状 態に陥つてゐるのである。ですから諸君等青年は宜し く海外に発展しなければならない。 外国移民といふことに就いて。御隣りの支那と我国と を比較すると。支那人は我国人よりも遥か大に成功し てゐるのである。一体日本の人民は気根がなくて少し 成功するとすぐ鼻を高めるのである。満洲に於ける日 本人を見給へ。彼等は満洲にゆくと八の髪を生して紳 士を気取り。豆腐商を営むにしても先づ豆腐桶をば支 那人に担がせ。日本人は鈴を振つて後から歩いて行く のである。這麿な具合だから甘い汁を外国人に吸はれ て終うのである。誠に南米及び南濠に於ける外国の移 民の実況を視察すれば。日本の移民の振はないことが 知れて冷汗を流さざるを得ないのである。 私が一昨年外遊した時には、横浜から出帆して上海に          行き台湾海狭を通過して香港に着いた。それからマニ ラ、シンガポールを過ぎて愈々赤道を越えることにな つたのである。赤道を越える時には、何日何時何分に 赤道を通るといふ掲示が出る。掲示が出ると皆は今か 今かと待つてゐる。合図の汽笛がなるというばかりに て船底に居る者までも周章て﹀甲板上に出でx恰も地 図に見る赤い筋でもあつて海面を画して居る様に見廻 すのである。けれども何もない。唯万里の波濤が限な く連つてゐるばかりである。此赤道地方は無風帯と称 して昔帆掛船が航行する時には大変困つたのである。       ネツプチュウ で。今でも赤道を通過するといふ時には赤道祭を挙 行するのである。又此辺は昼夜平均で。内地では太陽 の出入に約三四十分間を要するが、赤道地方は十分で ある。故に太陽が落ちたと思へば直ぐ真暗になるので ある。 此赤道地方を越ゆれば南半球で。太陽や月は北天に かxり物の影は南にうつる私か南半球で失敗したのは 濠洲メルボルンの宿屋であつた。南向の室に好んで案 内して貰つた。所が日も当らず風も寒い内地とは全く 反対だからである。斯る異様の感に打たれながら木曜 220

(25)

島。タウンスビール。︵クソンスランド︶、ブリスベー ン。シドニー。メルボルンを経てタスマンヤ島のオバ ートに上陸した。此処の博物館に手帳を忘れたが。彼 の国人の親切で再び手に入ることを得た。    ト  オバーからは二十日間の印度洋航海。乗客は凡て三百 人。その中で東洋人は私一人他は西洋人。毎日雲と波 との他。何物も見えないので人々は皆無柳に苦んでゐ る。西洋人は日本が大きな露国に勝つを得たは技術に は柔術、精神には大和魂があるからだと考へてゐる。 彼等は其船中に東洋人の居るのを幸ひにして柔術を習 ふことに決め。委員二人を挙げて、私にその教授を頼 んだ。私は心得がないのだから知らんと言つて拒絶し た。然し彼等は承知せぬ。日本は男女を問はず小学へ 入ると柔術を正課として習うといふことであるから。 貴方知らないことはないだらう。是非聞して下さいと 云つて請求したが。何と云つても私は知らんのだから 飽く迄知らんと云ひ通した。 兎角してゐる中に。汽船はアフリカの喜望岬に到着し た。実は此処から直航の汽船に乗じて南米へ行く筈で あるが恰度善い便船がないので英国へ行くことにし た。先づナポレオンの流されたセントヘレナに寄航 し。フランス。ドイツ。ノルウエーを経て英国倫敦に 入港した。此処で南米行きの汽船に乗じ。ボルドー。 リスボン。カナリヤ島。ケイプタウンを経て南米ブラ ジルの首府リオネジヤネイロに到着し。近傍の日本殖 民地を視察してウルガヒの首府モニテビデオ、パラグ ワイ、アルヘンチナを見物した。チレーに行くには此 処から大陸横断鉄道に因るのであるが。私は大陸の南         端が見たいから。マガレエンス海狭を通過することに し英国最南端殖民地のホークラン良に乗り込んだ。ホ ークランドには一年に一回の航海しかないから。島人 の歓迎は仲々盛んなものである。此島は非常に風雨の 激しい島で。一日に何十回となく雨風がある立木など は一本もない。フタクホールといふ港の如きは天然の 地形が袋状なるが上に。築港工事も完備してゐるので ある。けれども尚上陸する迄は浪をかぶらねはならぬ

(26)

のである。英国人は斯る険悪なる所に迄殖民地を開い てゐるのである。上陸して市街を歩くと貴方何処の人 だ何所の人だと五月蝿程集つて来る。日本人だと云ふ と日露戦争で勝つたことを大いに賞讃してくれた。島 民の業は牧畜で主として羊の飼育をして居る。       ほ  島を去りマゼラン海狭を通り智利に行く。マゼラン海  ほ  狭は世界第一の荒海で夜は通れない。然しニユージラ ンドから英国へ往復するには是非とも通らねばならな いのだ。︵時計を見る︶日本の玄海灘が荒いなど﹀云つ ても連も比較にならない。 智利は南米の中部で熱帯から寒帯に渡つてゐる。細長 い国である。其南部は年中雨降りで。一年は三百六十 五日しかないのに智利では四百日以上も雨が降る。 ︵笑声起る︶之れに反して北智利地方は開闘以来雨が         降らない。生れて雨と電とは知らないで死ぬのであ る。家には平の日蔽が有るけれども屋根はない壁は實 の上に泥を塗つたのである。植物は公園にあるのみで 山野には青物一本もない。誠に殺風景な景色である。 公園の樹木に水を与へるには水撒自電車と云ふものが ある。これは智利独特で外国の何処にも無い。飲料水 はアンデスの山中から流出する河水を蒸溜して用ゐ る。 斯くの如く雨が少ないから。観光隊とも名附くべき観 雨団が募集される。南智利に居る一英人の記事に﹁北 部人士の観雨団来る。雨降り出でしに彼等野外に走り 出で雨なら雨ならと言ひビシヨ濡になつて興じたり﹂ といふことがある︵笑声︶ 這歴な無雨の土地に人が住み。而も町を作つてゐるの に就いては奇異の念を抱く人もありませう。然し此処 は世界第一の智利硝石の産地である。日本人が田に水 を引く様に智利の国人は河水を畑に引き入れて盛に智 利硝石を採つて居る。 中部智利は一年に乾期と雨期とがある。雨期が冬三ケ 月で他は皆乾期である。 私の此漫遊は航程約五万七十六浬。最近の大旅行であ る。私は遊歴中に海外の発展といふことを熟々感じ 222

(27)

た。幾度も繰り返す様だが英国の今日あるは全く彼等 が殖民事業に早く着眼した故である。殖民が盛んにな れば其同胞に需要物を供給するから貿易が繁しくなつ て国の富を増すことが出来る。近頃独乙が移民を奨励 してゐる為め彼の地の商工業は著しく発展して来た。 現在の日本は人口が多いために仕度とも仕事がないと いふ有様である。こんな風では将来の日本が危まれ る。宜しく万里の波濤を越えて海外に雄飛すべきであ る。朝鮮あり満洲あり濠洲あり南米あり。発展すべき 余地は世界至る所にある。諸君。大いに海外に出で給 へ。それに就いて諸君に御土産にしたい詩がある。そ れは半分私が作つて半分は人が作つたのである。他で もない﹁男子立志出郷関。功若不成死不帰。埋骨何只 墳墓地。人間到処有青山﹂といふ詩である。之は昔の 日本人には適して居つたけれども。目下の日本人には 望ましからぬことである。埃及や。ペルシヤや。海上 には青山がない。海外に発展すべき現今の日本国民 は。千尋の海底にも 々たる沙漠にも。骨を埋むる考 がなければならん。それで。私は作り変へと第三句と 第四句とを海底原頭皆我墓。埋骸何必限青山﹂とし た。今の日本国民は。将に此気象を持して。海外に発 展し東洋の英国を実現せねばならない云々。 ﹃和同会雑誌﹄第一一一号︵昭和四七年二月二五日︶ ︹特別寄稿︺   円了博士の想い出    井上円了先生 和同会創立者 明治七年入学       明治九年、十年教師       御子息 井上玄一  父は、その後半生に於て哲学の正道を離れて独断に 陥った。そして哲学堂は単に物数奇の好奇心をそそる のみだと批評するものがある。しかし彼は最高の理想 を抱いて、その向上実現につとめたことを先ず知って 置いてもらわねばならぬ。  彼は人間の本質上、公共的社会的要素を最高度に発 揚し、個人性を最少限にすべきであると考えていた。

(28)

そして中産階級の人でも家族を路頭に迷わさぬ用意だ けは必要であるが、それ以上の余裕金は、そのよって 生じた公衆に還元すべきであると主張していた。此の 信念を具体的に表現したのが哲学堂である。  彼はたとえ哲学者としては、批判されるにしても民 間指導者としては高く評価されねばならぬ。東洋哲学 には、哲学者と言うことばの外に、哲人及び博士のこ とばを用いれば哲学実行者と言うことばがある。この 第二の意義が考えらるる時に始めて、哲学堂は正当に 認められるのである。それ故に余は哲学堂の使命を哲 学実行者の育成にあると主張する。  父の著書中に、その青年時代の所見を語り、之が彼 の後半生を支配するに至った鋭い一文がある。即ち、  ︵前略︶伝教・弘法大師は、前後殆んど其の時を同じ うして世にあり、且つ共に非凡の豪傑なりと錐も伝教 大師は廟堂の高きに在りて民間に下らず、弘法大師は 天下を周遊して専ら下民の教化に力を尽せり。故を以 って伝教の徳は、人之を知らず、弘法の恩は今日に至 り忘るるものなし。今余の如きは其の才学と言い性行 と言い此両大師の百分の一にも及ばずと錐も余が願う 所は伝教よりも弘法を学ばんと欲す。云々。  此の所見に基づく感激が、父の一生を通じて流れて いる。よって本堂の参観者は父が民間の一処士を以っ て終始し一平民の立場から力を国家の根本に致さんと した、その活きた民主的精神を汲んでいただきたい。  父は英国哲学者ハーバート・スペンサーに敬意を表 して私淑していた。明治四十四年二九一一年︶第三 回の外遊を行ない南米を周遊して、英国に立寄った 際、ロンドン市北部ハイゲートの公共墓地に眠るこの 哲学者の墳墓に参拝した。墓石は簡素で自然に翁の風 格を示し、称号や位階を軽うんじた平民的学者にふさ わしいのを見て深く感激した。そして地方行脚を終れ ば、哲学堂に引籠りスペンサーのように自己の哲学を 完成するつもりであったが、不慮の死によりこの計画 が実現されなかったことは遺憾である。  父は明治二十年二八八七年︶に﹁護国愛理﹂を旗 224

(29)

じるしとして、哲学館を創立し、国家主義、日本主義 を唱えた。然し彼の民主自由思想についてはその門下 生と錐も知らぬ者が多い。彼は明治三十五年二九〇 二年︶十一月より第二回の外遊をした折、英国各地を 二ヵ月にわたり具に視察した結果、英国人の個人主 義、自由主義の長所を認めた。元来彼は、日本人には 珍らしい程胆汁質で、神経質なところは微塵もなく、 意志が強くて自己の信ずる道を黙々として実行して行 くところ、英国人の性格と似通っているので短期間と は言え、英国の生活は気に入ったようである。その言 論の自由、人格の尊重、社会道徳の発達など特に羨ん でいた。その帰朝後の発表に﹁日本は封建性の結果、 気位が高く、あいつが、おれがと互に排悟し独りよが りの井の中の蛙となり、お山の大将になりたがる。実 業教育をしても学問をすると御役人風となり、実業が 嫌いになる。学問の出来ないものは仕方なしに鍬や鎌 を持つが、結果として実業壮士になり勝である。なお         危急存亡でもない泰平無事、万国平和の時に楠正成気 取りが出る。忠孝の解釈を再検討せねばならぬ﹂と。 これが学校教育から社会教育に移り、哲学堂事業への 導火線となったのである。  父はその第二の使命たる哲学実行化に専心してか ら、かれこれ七、八年を経過した頃、彼は﹁言志﹂と 題する漢詩に当時の生活の楽しみと処世感を述べてい る。即ち地方巡講に多忙を極むる間にも時々簡素な哲 学堂に於ける生活を楽しみ終生一介の無位無官の市民 として活動する決意を示したもので、彼の超世俗的処 世観が明らかに表明されている。即ち、     言 志   草鮭竹杖席難レ温    浮浪身猶浴二聖恩一   沐雨椀風知二世態一   食疏飲水味二天尊一   曲肱枕上眠能熟    容レ膝盧中楽却存   無位無官吾事足    終生不三敢伺二権門・  父の哲学は既に過去の啓蒙時代においてその使命を 果した。然し和田山即ち哲学堂の哲人としての使命 は、なおこれからも引続き果されるのである。生きて

(30)

教育するよりも、その亡き今日、なお生きている作 品、及び哲学堂によって教育する方が遥かに有意義で はあるまいか。父逝去の前々夜当時の満洲の営口にお いて、その数日前万里長城で作った詩を書き、図らず もこれが絶筆の一つとなったがこの詩は極めて暗示的 で父の尊き生涯を表現している。即ち   暁発草亭日未レ生    渓間石路跨レ駿行   秦皇覇業猶留レ跡    千古依然万里城  この詩のことばに先憂後楽の哲人の一生が躍動して いる。今暫らく生きていたらばなお一段と活躍したで あろうとの世間並の欲も出ないではないが、既にこの 堂あり、精神の現存する以上また何をか憾まんやと言 いたい。余は一見時代錯誤の感ある此の堂の中から常 に生々澄刺たる社会改造の精神を汲み出し得べきこと 確く信じて疑わぬのである。 井上円了さんの思い出 川上四郎        明治四十一年卒  頂いた長岡中学校︵今の高等学校︶の百年史を拝見 いたしました。見た事もない兄の写真、友人の写真、 さては唱歌の植村クニ先生の写真等に接し感慨無量で した。和同会の創設の記事に井上円了さんの事が記さ れて御座いまして、なつかしく存じました。何度か御 目にかかってますのでその事を少々書いて見ようかと 思います。       いとこ  実は私の父が円了さんの従兄にあたりますのです。 私には井上さんなどというより円了さんと申しあげる 方が親しみがあるので円了さんと申し上げる事に致し ます。  円了さんは中学生の頃は時折私の実家に来て昼寝な どして行かれたものだそうです。私の実家の婆さんが 円了さんのおばです。円了さんが和同会の創設者であ られる事は百年史にも記されてありますが、私の次兄 等もこの和同会の副会頭をつとめ後京都大学を出て慶 応病院に勤務してました。︵注 漸博士︶ 226

(31)

 円了さんは浦村の慈光寺の長男に生れた方なのです が寺の方は次男に托して学者として立たれ、哲学を専 攻されたのでしょうが妖怪学なんてものがあるかどう か存じませんけれども、兎に角妖怪という事について 考察された事があるらしいのです。後日東京の和田山 に建てられた哲学堂の門は妖怪門と言うので、一方に 幽霊、一方に天狗がかざってあります。世間では円了      ばけ さんの事を化物博士などとも言ってました。私の母が 幽霊を見た事実があるのでそんな事を円了さんに話し てられた事を覚えてます。  円了さんは後、文学博士となられた。学位記を見ま すと十何番目かですが当時としては名誉この上もなか った事でしょう。世間でも評判であったものらしいで す。その頃父が東京へ出まして上野の駅前に宿をとり そこへ円了さんが訪ねて来られた。父は田舎の百姓親 爺ですから宿でもあまりいい御客でも無いと見てまこ とにむさ苦しい部屋に案内したそうです。かねて連絡 してあった事でしょう。その宿に井上さんが訪ねて来 られた。私は井上円了ですがとでも言われたものか、 宿の者は驚いて父の処に来て部屋が空きましたからど うぞと良い部屋の方へ移したと言う話もありました。 その円了さんが洋行された事がありまして帰朝後母校 に招ぜられ在学生に一席洋行の土産話しをされた事が あります。今日では外国へ行くと言ってもさして驚く 程の事は無いのですが六十幾年前では事情が大分違っ て来てると思います。その時の土産話のなかで記憶に 残って居るものがあります。その頃外国の街には既に 地下道などがあり電車があり電灯があったものでしょ う。円了さんは地下道を通ってビクトリア駅に行こう とされたのだそうです。処が地下から地上に出て見る とどこが駅だか見当がつかない。そこで円了さんは道 行く人に尋ねられた、﹁ホイヤイズ ビクトリアステ イション﹂、処が相手の人にはそれがどうも通じない、 円了さんは又も同じ事をくり返してたずねたが先方に は通じない、そこで仕方が無いから地図を開いて指を さしてホイヤイズを繰返し、相手は初めて解った。

(32)

﹁アア、トオリアステーション、ジス﹂と指さして教 えて呉れたとの事、実は駅の前に立って居られたので あったとの事、教科書読みと実際ではこのような相違 のある事はうかがわれます。父がその後東京に出られ た時、円了さんに遇いたいから案内せえと言われるの で和田山の哲学堂へ御伺いした事があります。円了さ んはよろこんで迎えて呉れられた。いろいろの話が出 た。この土地は一万坪あるのだと言ってられた。一面 の麦畑なので土地は自分のものだが農家の前の所有者 には哲学堂の敷地以外は無償で使用を許して置かれた ものとの事です。父との話を私はわきで聞いて居たの ですが当時坪十円とかで買いとられたものだそうで す。今だったら大変なものでしょう。昨今は開放され て哲学堂の敷地以外はテニスコートか何かになって居 るようでした。  円了さんと父との対話の間に食事が用意された。簡 素な食卓の上にはビール其他の近代的御馳走が並んで 居た。円了さんが父にビールをすすめられたが父は渋 い顔をして受けようとはしなかった、円了さんがお前 さんは酒はやらんかね。その時父は酒ならいいがこれ はビールってんだろうと辞退したのだ。父は天保生 れ、円了さんは田舎爺のようでも外国へも行って来ら れた方だ、洋食はなれて御座るに違いない。困ったな あ、ここは酒屋が遠くてなあと言ってられた。その頃 新井の薬師さんから哲学堂迄は家は無かった。  円了さんが亡くなられて、その頃の知人がこの哲学 堂に集って追悼会を開かれ、私も通知を貰って参会さ せて貰った。学者としての知人は皆有名人で記憶に残 ってる方では井上哲次郎さんや高楠順次郎さんその他 が居られ、井上哲次郎さんが円了君は私より若かった んだがねえなど言ってられた。  哲学堂も今日ではすっかり荒れてしまった。円了さ んも地下で苦笑して御座る事でしょう。 ︻注︼ 翻刻にあたっては、できるだけ通行字体にし、仮 228

(33)

名つかい、句読点は原文のままとした。

 編者の注記は︹︺内に記した。また、変体仮名

は現用の仮名に改め、明らかな誤記・誤植は訂正す

参照

関連したドキュメント

Utoki not only has important information about the Jodo Shin sect of Buddhism in the Edo period but also various stories that Shuko recorded that should capture the interest

チ   モ   一   ル 三並 三六・七% 一〇丹ゑヅ蹄合殉一︑=一九一︑三二四入五・二%三五 パ ラ ジ ト 一  〃

[r]

また、「収益認識に関する会計基準」(企業会計基準第29号

〔追記〕  校正の段階で、山﨑俊恵「刑事訴訟法判例研究」

東京都公文書館所蔵「地方官会議々決書並筆記  

The Tokyo Electric Power Company, Inc... The Tokyo Electric Power

[r]