テキスト
Horsman, P.J., Eric Ketelaar, and, T.H.P.M. Thomassen,“INTRODUCTION TO THE 2003 REISSUE”, in Muller, S.Fz., J.A. Feith, & R.Th.Az. Fruin, Arthur H. Leavitt, trans.,
, Chicago, The Society of American Archivists, 2003.
この論文はタイトルを換えて、つぎの雑誌に再掲載されている。Horsman, Peter, Eric Ketelaar, and Theo Thomassen,“New Respect for the Old Order: The Context of the Dutch Manual”,
, vol. 66, no. 2, Fall/Winter 2003, pp. 249−270.
〈http://archivists.metapress.com/content/452235k813568872/fulltext.pdf〉[accessed on 11−04−2012] なお、翻訳のために参照したダッチ・マニュアルは、上記 2003 年米語版である(ダッチ・ マニュアルは、1940 年の初版(First edition 1940, The H.W. Wilson Company)、1968 年の再版 (Reissued 1968, Arthur H. Leavitt)がある)。
訳者はしがき 約 110 年前、トリオのオランダ・アーキビストによって著されたダッチ・マニュアルは、 「アーキビストの聖書」と称されているように、アーカイブズ学の古典の中の、まさに最初のマ イル・ストーンである。 アーカイブ(フォンド)とは何か。アーカイブのオリジナルな秩序とは何か。なぜ、オリジナ ルな秩序を尊重しなければならないのか。どのようにして、アーカイブを構成するドキュメント を編成し、記述するのか。どうして、在庫品の目録、インベントリーに、これらのドキュメント を再現するのか。これらは、アーカイブズ学のもっとも基本の事柄であり、ダッチ・マニュアル が提唱している世界である。 しかし、われわれは、これを読み、理解し、考える機会に、必ずしも恵まれていない。 この論文は、現代のトリオのオランダ・アーキビストが、ダッチ・マニュアル成立の歴史背 景、その構成と内容、オランダ国内外のアーキビスト世界に与えた影響などを、紹介している。 われわれを、そこへいざない、この古典によって拓かれたものが、現代の電子環境下のアーカイ ブズを理解する上で、不可欠なものであることを、気づかせるであろう。
トリオのオランダ・アーキビスト、Dr. Peter Horsman、Dr. Eric Ketelaar、Dr. Theo Thomassen から、この翻訳に、数多くのアドバイス、示唆、コメントをいただいた。深く感謝を申し上げた い。
翻訳は、おおむねつぎのようにおこなった。
れており、翻訳ではマニュアルとしたが、訳注などでの表記はダッチ・マニュアルとした。 2.原文のイタリック体などは、その書体を再現した。 3.翻訳で補充した語句は、[ ]内に記載した。 4.訳注は*を付与した一連番号のもとに記載した。 5.レコードとアーカイブズに関係する用語は、おおむね訳語初出の際に原綴りを補記したが、原 文の文脈からして原綴りを表記した後に[ ]内に訳語などを補記した場合もある。ただし、 document(s)、record(s)、archives、archive は「ドキュメント」「レコード」「ア ー カ イ ブ ズ」 「アーカイブ」と原綴りの発音にもとづき表記した。というのは、ダッチ・マニュアル米語 版では document(s)、archives、archival collection(翻訳ではこの論文の指摘より archive とした) がもちいられ(ごくまれに record(s)が使用される)、この論文ではそれらが自在にもちいられ ているからである。なお、archives については、資料/機関/施設としての archives、または fonds[フォンド]としての archive の複数形、いずれかを翻訳者がその文脈と内容から判断し て表記した。また、この論文では archive repository と表記され、ダッチ・マニュアル米語版 では archives repository と表記されており、それぞれの表記をそのままもちいた。 6.読者の便のために冒頭に目次を付した。 目 次 マニュアル以前の編成と記述 1795年から 1873 年までの編成と記述 歴史レコードと国家:歴史への動機 時系列登録簿 1874年から 1898 年までの編成と記述 新世代 アーカイバル・フォンド Archival Fonds の定義 もちいられるべき編成標準 マニュアルの制作(以上、本号) マニュアルとその概念(以下、次号) 対象であるアーカイブの定義 編 成 フォンド尊重 有機的統一体 組織とアーカイブ 記 述 マニュアルの施行
オランダ国外におけるマニュアル ドイツ語版 イタリア語版とフランス語版 ブルガリア語版、ロシア語版、そしてエストニア語版 アメリカへ 中国語版とブラジル語版 「現代アーキビストの聖書」 結 論
マニュアル 以前の編成と記述
(1898)[ , Groningen,アーカイブズ編成・記述マニュアル(1898 年 刊)]は、通常アーカイブズの理論と方法の出発点、とみなされている。この著作のページに定 式化された概念と方法が、あたかも突然でてきたようにみえる。著者達自身が、反対のことを断 言している、という事実があるにもかかわらずに。このマニュアルと、これが出版される以前 の 1 世紀間におけるオランダのアーカイブズ編成と記述のやり方とは、どのような関連があるの であろうか。これを、実務の進化としてみると、学理上のマイル・ストーンなのであろうか。進 化の観点からすると、このマニュアルは、オランダの典型的な作品とみなすことができるので あろうか。1795 年から 1873 年までの編成と記述
アーカイバル・レコード archival records は、本来、法律上の論争の解決や行政管理機構を支え た。しかし、18 世紀の間に、オランダの行政管理者達は、レコード records を、それぞれの市の 歴史に関する知識資源、かれらの祖先の英雄的行為の知識資源、とみなしはじめた。かれらは、 証書 charters コレクションや市の歴史を出版することにいそしみ、それらには、間違いない証拠 として、真正なドキュメント documents がもちいられた。1795 年の政治動乱、それはバターフ 共和国がネーデルラント連邦共和国に入れ替わる時で*1、さらに、ドキュメントを、法律−尚古 物研究家の関心対象から、歴史−尚古物研究家の関心対象へと変貌させた。あたらしい政治状況 は、法律システムの実際の破壊を意味し、それ以前の体制のアーカイブズ archives は、本来の行 政−法律上の役割を失ったのである。アーカイブズは、第一義的に、歴史資源のコレクションと なり、その中の公式ドキュメントは、疑う余地のない歴史事実の証拠として、もっとも重要なも のである、と考えられた。 歴史レコードと国家:歴史への動機 自国の古いアーカイブズに対して、国家が努力する目 的は、愛国主義を鼓舞し、市民モラルを振興し、そして、オランダ国の特性を維持することにあった。1802 年に、最初の国立アーカイブズのアーキビスト、Hendrik van Wijn[ヘンデリッ キ・ファン・ウェイン]*2が任命された。さまざまな州と市にも、アーキビストが任命された。 とりわけ、1813 年のネーデルランド連合元首王国建国以降は。1795 年以前のアーカイブズ収集 では、アーキビストは、可能な限り一緒に付属しているものを一緒にした。証書2)はほかの証書 とともにおかれ、地図は地図とともにおかれるべきである、これは自明なことであった。管轄し ている地域のすべての財政経営管理[ドキュメント]を一緒にするのは、便利であった。そし て、そのアーカイブ archive に残ったほかのものが、歴史上の重要な主題に編成されれば、また は、1813 年以来稼働している行政機関の責任の範囲内に編成されれば、通覧するのに便利で あった。長い間アーキビストは、地方自治体のアーカイブズを州のアーカイブズと混合するこ と、また、州のアーカイブズを国のアーカイブズと混合することはなかったが、かれらがどのよ うに資料を編成するかは自由であった*3。 アーキビストは、収蔵庫にアーカイブズを集積し、一緒に付属しているものを一緒にし、つい で、レコードについてあらたに記述しなければならなかった。なぜならば、経営管理のためのオ リジナルなインベントリー inventory[収蔵目録]やリスト list が、使用できなくなったからであ る。収蔵庫全体の総インベントリー が好まれた。 インベントリーは、レコードについての体系的な概要で構成されており、行政管理者達の必要 にかなうものであった。かれら行政管理者達は、自分達の法律−行政上の脈絡で、ドキュメント を調べることができなければならなかった。個々のレコードの内容を知りたい歴史家の求めより も、一層上手に。すべての証書のテキストを刊行することは、歴史家や尚古物研究家に好まれた 方法であり、アーキビストは、そのような出版を準備することをつうじて、時系列登録簿 chronological register、つまり、すべての証書を時系列秩序に編成するカレンダー calendar[史料 編年目録]を、編集した*4。 時系列登録簿 時系列登録簿作成にあたり、もっとも困難な課題は、何が含まれるべきか、 を決めることであった。この選択は、関係しているアーカイブズの大きさ、構造、構成物に大き く依存した。もしそれが、証書とさほど多量でないバラバラなドキュメントであれば、その時の もっとも適切な選択は、一点毎のアイテム item の編成と記述であった。より大きなアーカイブ で、より大量に集積したレコードと大きな登録シリーズ series で構成されていればいるほど、完 全な一点毎のアイテム編成と記述の編集は、適切であるとは考えられなかった。 19世紀前半のアーキビストは、歴史に関する伝統と修業によって、自分自身がどの程度奮い 立たせられたのであろうか。かれらすべては、いわゆる証書本 charter books や、市の歴史にかか わる歴史ドキュメントを出版する、という法律−尚古物研究家の伝統に、何らかのルーツがあっ た。Isaac Nijhoff[イサック・ネイオフ]*5は、19 世紀前半のヘルダーランド州のアーキビスト で、オランダでディプロマテック学 diplomatics の見識を、アーカイブズの編成と記述に適用し た、最初のアーキビストであった。Nijhoff にとっておもに必要とされていたことは、レコード
を時系列秩序に編成することであった。さらに、カレンダーは、一連の定まった記述要素で構成 されるべきであり、形式 format にしたがって秩序立てられていた。 中世の大半のアーカイブズは、時系列登録簿によって、アクセスすることができた。証拠の一 点として作成されたドキュメントを探すのは可能か、という調べ方に限定する、そう望めばであ る。このようなアーカイブズは、とどのつまり、聖俗有力者が権力に対し自分達が要求したもの を証明するために、かれらによって作成された証書という兵器の集積であった。しかし、16 世 紀のアーカイブズは、問題を惹き起こした。公爵、貴族、そして市の経営管理活動が、その当時 拡大してきたために、証書とは別なもの、法律にもとづく記名捺印証書 legal deeds が、証拠と 記憶として欠くことのできないものとなってきた。今や、これら記名捺印証書の[カレンダーで なされる]細密な研究も、また時系列登録簿に含まれなければならないのか。もしそうならば、 17世紀および 18 世紀の同等の権力をもっている[州]行政機関のアーカイブズ、それらの登録 官 registrar の日誌帳 daybooks や、決定書登録簿 registers of resolution にも、証拠として真正な一 片が含まれていたのであるが、それらはどのように扱われるべきか。 カレンダーの限界を実際に変えたアーキビスト達がいた。時系列登録簿、これは元来証書の記 述のためのみに意図されていたのであるが、アーカイブを構成するほかのものへアクセスさせる ためにもちいられた。最初の事例は、もちろん、俗世界の登録された記名捺印証書であった。 19世紀のオランダのアーキビストは、コミュニティ(市、州、または国)がひとつのアーカ イブの作成者である、と最初考えていた。アーキビストの活動目的は、そのコミュニティの歴史 アーカイブ historical archive と、市、州、または国によって作成され、保存されている法律レ コード総体に、アクセスできるようにすることにあった。ひとつのコミュニティはひとつの歴史 アーカイブをもっており、その歴史アーカイブはそのコミュニティのアーカイブ収蔵庫に保存さ れ、ひとつのインベントリーに記述されるべきものであった。同じアーカイブ収蔵庫に保存され た、さまざまなコミュニティからのアーカイブは、原則として互いに混合されなかった。そこに は、ひとつのコミュニティのひとつのアーカイブ編成、という共通認識はなかった。一般には、 もっとも重要なドキュメント(証書や後代の記名捺印証書なども)は、時系列秩序で配列され、 記述された。それ以外のドキュメントについての編成のルールは、設定されていなかった。それ らは、アーカイブの特質と、アーカイブ化 archiving に携わる人によって、編成された。資料の 形式にもとづくか、アルファベット秩序か、もしくは、歴史的時期区分にしたがうか。つまり、 あるほかの人為分類配列にしたがうか。または、自然分類配列。すなわち、行政機関、それ自身 の組織から引き出された分類配列 classification にしたがうか。 19世紀後半に、先導しているアーキビスト達は、ある合意――それは少なくとも基本の考え 方についてであるが――に達することに成功した。アーカイブズがインベントリー化される方法 についてである。ひとつのコミュニティで保持されてきたアーカイブズは、とにかく、ほかのコ ミュニティのアーカイブズと混合されてはならない。そして、シリーズと、アーカイブを構成し
ている単独の要素は、そのままにしておかなければならない。
1874 年から 1898 年までの編成と記述
新世代 1874年という年は、オランダのアーカイブズ・マネジメントの新時代開始の年、と 考えることができる。[旧秩序]復活は、緩やかに進行した。とくに、はじめのころは。ほとん どのアーキビストは、1850 年代に仕事をはじめた世代であった。かれらは、Nijhoff とかれの同 僚によって試みられ、徐々にかれらに定着してきたやり方を、いまだにもちいていた。ほかの方 法についての根本的な議論は、あらたな世代によって導かれた。新世代は、歴史学、ディプロマ テック学、およびアーカイブズの編成と記述の研究について、より近代的な考え方をもってい た。1874 年に、Samuel Muller Fz.[サムエル・ムーラ]3),*6は、パリの で一学 期の講義を受講し、ユトレヒト市のシティ・アーキビストに任命された。かれと同年齢の Theodoor van Riemsdijk[テオドール・ファン・リィミズダーク]*7は、ユトレヒト市博物館[資 料の]組織化と編成のことで、少しの期間、かれを補助した。1875 年にズウォレ市のシティ・ アーキビストに任命される前のことであった。かれらそれぞれは、各自の収蔵庫のアーカイブズ を編成しなければならなかった。自分達の理論と経験を、多くの手紙で交換した。「われわれが この事柄を純粋に理論的に考えると、われわれは完全に合意する、とわたくしは信じる」、と 1880年に Van Riemsdijk は Muller に書いた。ちょうどその当時、Muller が、ユトレヒト市アーカ イブに関する年報に、アーカイブズ原則を掲載したところであった。Van Riemsdijk は、[ネーデ ルラント連邦共和国]連邦議会の登録簿について書いた 1885 年の著作において、アーカイブズ の体系的な構造は、旧分類配列 old classification に調和するにちがいない、と結論した。アーキビスト達は、さらに、ふたつの事柄に同意しなければならなかった。記述されるドキュ メントのより明確な境界を画定すること、そして、もちいられる編成基準である。コミュニティ 歴史アーカイブ communal historical archive は、ひとつの統一体として、インベントリー化される べき一体なものであるか、または、それは、別々のインベントリーに記述されなければならな い、さまざまなアーカイブによって構成されているものなのか。かれらがみいだしたようなアー カイブの物的構造は、適用されるべき編成基準になるのか。または、それらドキュメントは、 アーカイブを形成した組織に由来する自然分類配列にしたがって、編成されるべきか。 最初、編成基準についての議論が進行した。19 世紀前半のアーキビストにもちいられた強引 な編成流儀が、多くの損害を惹き起こしたのは、すでに明らかであった。かれらは、ドキュメン トを、それらの出所 provenance に関わりなく、時系列秩序においたことによって、アーカイブ ズの真正性を土台から壊したのである。より一般にいえば、アーカイブズのオリジナルな構造 original structureを、かれら自身が作り出したひとつの構造へ、入れ替えたことによってである。 その上、かれらの編成方法は、広汎に適用できなかった。一点毎の時系列編成は、あまりにも時 間がかかりすぎたし、個々に分離しているドキュメントで構成されているアーカイブにのみ適合
した。シリーズや綴られている登録簿すべてを、もし引き裂くのを望まなければ、であるが。時 系列秩序は、アーカイブの内容を概観する機会を提供しなかったし、日付のないドキュメントを 分類配列できなかった。 個々のアーカイブを扱うプロセスで、オリジナルな秩序 original order を尊重する傾向がでて きて、これは、より強力な理論支柱を徐々に獲得した。理論支柱の一部は、ディプロマテック学 からもたらされた。ディプロマテック学が継承してきた原則は、19 世紀後半に発展し、レコー ド形式と、そのレコード形式の発生と展開、これらの関係を一層注視した。これは、アーカイブ ズ保管史上、その実務に、強力な衝撃波を与えた。Van Riemsdijk、そして、連邦議会の登録簿 について書かれた 1885 年のかれの著作は、この衝撃波を発したもっとも重要なものであった。 Van Riemsdijkは、インベントリー[作成]プロセスの知的重力の中心にいた。そのプロセスは、 行政機関の組織化のレベルと、より個別の行政処理プロセスの組織化にあり、アーカイブ編成 は、これらを映しだすものと考えられた。 アーカイバル・フォンド Archival Fonds の定義 19世紀前半のアーキビスト達のアプローチ 「コミュニティ歴史アーカイブ」を維持するのは、徐々に、よりやっかいになってきたようだ。 これは、あるひとつの市のアーカイブズに対するアプローチとしては、原理として有効であっ た。旧体制(すなわち 1795 年以前のネーデルラント連邦共和国の同盟時代)の地方自治行政機 関は、わりあい大きな有機体的な結合を示しており、これと同じものが、地方自治行政機関が生 み出したアーカイブズに適用された。しかし、このアプローチは、州レベルについては有効性が 劣った。[旧体制の]分離独立していた州の法律上の前身者達は、結合がより相当弱く、類似性 が少ないことを示しており、そのために、州の前身者達の古いアーカイブズを、ひとくくりする ことが一層困難であった。さらに、誰が誰の法律上の前身であるか、これはつねに明確ではな かった。旧同盟州の主権者達は、あらたな州のみならず、あらたな単一国家の中央政府の法律上 の前身、とも考えられるべきものであった。「古いアーカイブ」“old archive”という用語*8は、 アーキビストにとって、州や中央レベルよりも、地方レベルで単純な意味をもっていた。このこ ととともに、ひとつのコミュニティ全体のアーカイブを編成し、組織化する、これは、非常に野 望なプロジェクトとみえてきた。アーキビストが、コミュニティの歴史アーカイブ全体を、その まま時系列登録簿または総インベントリーに記述することがたとえできたとしても、あらたな最 初の収集によって、時系列登録簿または総インベントリーは、ふたたび不完全なものとなった。 ますます多くのアーカイブ資料が収集され、それとともに 1813 年以降のレコードが増え、それ らには、バラバラなドキュメントと完全な裁判アーカイブズ両者が含まれていた。アーキビスト 達の間で、コミュニティのアーカイブ内にある、それぞれの機関のアーカイブを区分し、これら 機関アーカイブを、それぞれ分離独立したフォンド fonds として記述する傾向が、育ってきたの である。 オリジナルな秩序を尊重する傾向は、このように、徐々に理論基盤で支えられた。アーカイブ
には、行政機関の旧組織にもとづく、あるひとつの関係性と、あるひとつの秩序があった。その 関係性[と秩序]が維持されて、そして、より良好で、より体系的な分類配列が与えられる、そ れのみがドキュメントに必要であった。 もちいられるべき編成標準 編成のための標準の開発においても、発展があった。1880 年代 に、アーカイブそのものの構造は、アーカイブ編成の基準として考えられるべきである、という 考え方が、急速に、アーキビスト達の間に一般に受け入れられた。Muller は、「ますます支持を え て い る の は、ひ と つ の ア ー カ イ ブ を 編 成 す る 時、可 能 な 限 り、そ の 旧 分 類 配 列 old classificationは再構成されるべきである、という見方である。わたくしは、この観点を主張する 立場に、自分自身をすでにおいている」、と Sint Pieter 聖堂参事会フォンドに関するカタログ (1886 年刊)のまえがきは書き出されている*9。シリーズや単独なアイテム、それらの構造は 尊重されなければならず、コミュニティからのドキュメントと、コミュニティのおのおのの部門 のドキュメントもまた、ともに維持されなければならなかった。 しかし、オリジナルな構造は尊重されなければならない、というところにさしかかった時、意 見がくいちがった。Van Riemsdijk の観点では、登録簿の時系列シリーズと証書は、[インベント リー内で]分離されるべきであるとした。Muller の意見は、Van Riemsdijk のやり方では、調査 者を、インベントリー内のほかのセクションにある、同一主題のドキュメントの方へ進みなさ い、と導くようになるであろう、と指摘した。Muller によれば、編成の中身は、ドキュメントの 形式ではなく、アーカイブ内におけるドキュメントの位置を明確に示さなければならない、とい うことであった。これは、証書のみならず、地図にも適用された。かれは、Van Riemsdijk に、 何が旧秩序 old order を妨害すると考えるか、と質問した。すなわち、証書を、インベントリー の分類区分 taxonomy に含め、自然分類配列にしたがって編成することについて。
マニュアル の制作
オランダで、専門職の連帯感が育ってきていると自覚され、1891 年、世界で最初のアーキビ ス ト 専 門 職 協 会、オ ラ ン ダ・ア ー キ ビ ス ト 協 会 (VAN)が発足した*10。 VAN年次大会と、1892 年に協会によって創刊された機関誌 は、 ともに、編成と記述の技術面の議論をおこなう場、その方法を宣伝する公開討論会の場となっ た。さらに、Van Riemsdijk は、1887 年にステイト・アーキビスト総管理官になっていたが、ス テイト・アーキビストの年次会議において、国立アーカイブ各収蔵庫における分類配列につい て、合意をえようと試みていた*11。資料は、われわれがすでにみてきたように、あたらしいも のではなく、参加者にとっては用意のない議論ではなかった。 の創刊号に、国立ドレンテ州ステイト・アーキビスト Seerp Gratama[シーラ プ・ハルタマ]*12は、一連の基本原則を発表した。これらは、あたらしい理論の核となり、のちに、マニュアルの一部に、ほとんど一語一句をみることができる。Muller によって揃えられ た例示に続けて、かれは、「アーカイブ」概念の定義をした。それは、「有機的統一体」“organic whole”であり、アーカイブを生み出した実体の「諸活動の堆積物」“sediment of actions”である とした*13。かれは、はじめて比喩で表現し、ひとつのアーカイブの「骨格」“the skeleton”は、 「代表者達の諸活動 actions が書き留められている複数の議定書 protocols」によって構成されて いる、とした*14。また、インベントリーには、アーカイブの内容概要以上のものは必要ない、 すべてのレコードの内容について[カレンダーのような]細密な研究も不要である、とも、かれ は書いた。 Mullerにとって、いまだに棚上げになっている課題は、インベントリーのモデルを作成する必 要があるか、または、インベントリー作成方法という一般に適用可能な理論を開発する必要があ るか、にあった。このアーキビスト達の小さな団体が必要としていたものは、真っ先に、実務上 の教則、定式、そしてインベントリー作成の仕方など、そのあたりに焦点があてられていた。 Mullerは、最初、それと同じようなものを思いつき、そして、提案すらした。アーキビストのた めのマニュアルは、大多数メンバーのまとまった意見から開発しよう、というもので、理想とか けはなれたものであった。しかし、マニュアルは書かれなかった。それで、かれは、アーカイブ ズの方法を開発することを擁護し、モデルの定式化を弁護しなかった。おのおののアーカイブ は、ユニークなものである、しかし、それを扱う方法、原則、そして専門用語は同じであるべき である、とした。 VAN理事会は、その内容についての議論構築に努めた。Muller は、自分の考えを、アーカイ ブズの分類配列のための主要な原則に関する論文で明らかにしており、三つの簡明な所説に結論 したものである。Gratama は、Muller に大半同意しており、自分の仮説よりも、Muller の結論に ついて議論することを好んだ。1893 年の VAN 年次大会は、古典となっていた Muller の理論で すべて終始した。かれが、すでに、1879 年のユトレヒト市アーカイブに関するレポートにおい て基礎を築いたものである。若干の編集上の変更をみて、会員はその提案を受諾し、5 年後、マ ニュアルの第 1 節、第 15 節、第 16 節、第 50 節、第 66 節として現れた。 Mullerは、1893 年に VAN 会長にすでに選出されており、先導するのを放棄するわけにいかな かった。理事会は、口頭と書きもので議論されるべき論題について、一連のカテゴリーを作成し た。これらのカテゴリーが、のちに、マニュアルの各章にほとんど完全に調和したのは、もち ろん、偶然ではない。しかしながら、これらの論題は、年次大会で迅速に扱われなかった。国立 ゼーランド州ステイト・アーキビスト Robert Fruin[ロベルツ・フライン]*15は、Gratama によっ て提案された「骨格」と旧秩序を尊重するという定式に、完全に同意することができなかった。 1894年の年次大会で解決したのは、第一点のみであり、のちにマニュアル第 20 節になった。 第二点目、オリジナルな秩序については、その翌年に扱われることになった。Fruin は、自分が メンバーの大多数の支持を受けないであろうと理解していたが、自分の理論について、さらに弁
護しなければならない要点をほとんどわかっていなかった。その後、理事会は、これまでのやり 方を止め、三人のメンバーからなる委員会を任命した。かれらに、オランダのアーカイブズの編 成と記述に関するガイドラインの草案を作成する仕事が、委任されたのである。委員会メンバー が完全になるには時間がかかり、委員会が仕事をはじめたのは、ちょうど 1895 年秋であった。 三人委員会は、Muller と、Johan Feith[ヨハン・フェイツ]*16、かれは国立グローニンゲン州ス テイト・アーキビスト、そして、ちょっとした綱引きののち、Fruin が仕事に加わった。
トリオは、一連の命題を定式化し、マニュアルを各章に区分することからはじめた。それぞれ の章に対し、Muller が導入節を書いた。それから、Muller と Feith および Fruin それぞれは、一 連の注釈を書き、命題(Fruin の提案で「節」と変更したのはちょうど 1897 年 7 月)を交換する ことを考えつき、互いにほかのひとの仕事についてのコメントを提供した。この終わりに、かれ らはユトレヒトで一連の打合せをした。議論の大半は書いて処理された。かれらそれぞれは、自 分のコメントを手稿にして、三人の間で回した。時として、合意が困難な場合があった。Fruin は、第 7 節についての Muller との議論を、つぎのように結末をつけた。「私は師匠の決定を遺憾 に思う。しかし、まったく面倒なことについては、沈黙したほうが賢明と考える。それで、これ は削除する」。いくつかの事例については、同僚のアドバイスがもとめられた。
Fruinは第 6 章の大半と第 1 章および第 5 章の半分を書き、Muller と Feith は第 2 章と第 4 章 を、Muller と Fruin は第 3 章を書いた。100 節(注釈とともに)の内、43 節は Fruin の草稿にも とづいた。Feith は 26 節のテキストを用意し、Muller は 30 節を書き、Muller と Feith は一緒に第 65節を書いた。序は Muller によって書かれた。おそらく、かれは最終編集もしたであろう。こ の仕事のやり方によって、テキストには多くの繰り返しがあり、むしろ、異例なスタイルになっ た。Fruin は感じていた。Feith の簡潔な表現は、ほかの詳細な注釈、それは冗漫ではないとして も、まったく対照的であるため、だれもが Feith の書いたものと理解するのは容易なことだろ う、と。かれは、より一層の統一を行うために、再作業することをもとめた。
Mullerと Feith および Fruin は、主要な原則について 合 意 し た。顛 末 に つ い て、Muller は、 1907年に、つぎのように回顧している。「この本を編集し、われわれひとりひとりは、次々に、 ほとんど自動的に、あたらしい要素について、活発な議論をし、徐々に、そして苦労することな く、先に進んだ。あっという間に、本は成長し、形をなし、鮮明となった。このように、この無 味乾燥な仕事は、われわれにとって、少しも楽しみがないということはない、「刺激的な」活動 であり、われわれすべてに、もっとも懐かしい記憶をもたらしてくれた」。 三人の著者それぞれは、注釈でもちいられた事例に貢献した。事例の半数以上は、ユトレヒト のアーカイブズから引用されており、それらに Muller と Fruin は非常に慣れ親しんでいた。研究 文献は散発的に参照され、印刷されたインベントリーがより多く参照された。ドイツの Bresslau [ブレスロウ]や、フランスの Giry[ジャリィ]による、ディプロマテック学マニュアルが参照 された*17。Muller と Feith および Fruin は、ほかのドイツやフランスの著者達にも慣れ親しんで
いたように思われるが、実際には、その著者達の名前をいつもあげなかった。第 16 節に、イタ リア・トスカーナ地方の著者 Lupi[ルーピ]*18と Galeotti[ガレオッティ]*19を参照した箇所が ひとつある。第 36 節の説明では、イングランドの保管所 custody の考え方が紹介されている*20。 幾度も明示して参照しているのは、1897 年の大臣公布規則である*21。マニュアル刊行の前、内 務大臣は国立アーカイブズ[の編成と記述]に関する規則を公布していた。これらの規則は、 1880年以来おこなわれてきた国立アーカイブ各収蔵庫の組織化計画についての議論を、決着さ せることが意図されていた。ステイト・アーキビストの Muller と Feith および Fruin は、これら の規則に拘束されていた。それゆえに、VAN のメンバーとしてのかれらは、かれらのマニュア ル草稿の第 1 節、第 53 節、第 70 節を大臣公布規則に一致させた。ステイト・アーキビスト達 が自分達の会合で議論していたことが、自然に引用され、また参照されていた。 三執政官は、1897 年 7 月 2 日にユトレヒトで打合せをした。Fruin は、一致させる手稿を持ち 込み、最終番号が付与された 100 節を提出した。Feith と Muller は、束ねられていない手稿を 綴った。7 月半ばに、手稿はほとんど完了した。10 月初旬に、レイアウトの最終決定がなされ、 印刷業者が活字を組みはじめた。しかし、多くの訂正の結果、この本は、ちょうど 1898 年 5 月 に最終準備が調った。VAN の全メンバーは 1 冊を受け取った。かれらは、理論の討論で、すで に明らかにくたくたに疲れていたために、年次大会で議論されていない提案を同意し、むしろ、 どのような批判も雑誌 に掲載されるべきであるとした。あらたな版が必要とされ たならば、その版は提案されたコメントに一致させられるべきであり、そして、必要に応じて見 直され、票決されるべきであるとされた。 すべてのあたらしい協会メンバーは、マニュアル 1冊を購入することが義務とされた。さら に、国内外のアーカイブズ機関や図書館がこの本を購入した。1910 年には、310 冊の初版本の 内、たった 18 冊の在庫しか出版業者の手許になかった。Muller と Fruin は、改版に着手したが (Feith は 1913 年に死去)、二人の間に意見の相違が生じていたので、理事会は、たんに、初版 の再刷を決定した。ふたたび活字が組まれ、初版の誤植が訂正され、限られた索引が付加され た。注目すべきことは、Muller と Feith および Fruin によって、1905 年のドイツ語版でなされた 修正と改善(後者の方が多い)が、1920 年版には含まれていない点である。みたところ、15 年 後の Muller と Fruin との間で、改版についての意見が相違しており、そのため、かれらは、たっ たひとつの修正すら許容できなくなっていたのである。これは、1920 年のオランダ語版が、そ れ以前のドイツ語版、イタリア語版、フランス語版のマニュアルよりも改善されていないこと を意味している! 1940 年の米語版は、1920 年のオランダ語版に大きく依拠しているのである。 1938年までに第 2 版が完売した。しかし、新版は現れなかった。さまざまな委員会による試 みは、無駄であった。マニュアルは、ほとんど注目されなくなり、そしてまた、舞台から徐々 に消えたのである。 (未完)
原 注
1)この論文は、1998 年のマニュアル発刊 100 年記念の折に書かれたつぎの論文(105 頁)を、マニュアル[2003 年米語版]再版の序文として要約したものである。Horsman, P.J., F.C.J. Ketelaar, and T.H.P.M. Thomassen,
, Hilversum, Verloren, 1998.
2)証書はドキュメントで、通常シールが付され、特別な権利を認め、目的と原則を記載し、公式の同意、個別の 特権ないし免責が表されている。Walne, Peter(ed.), , München, K.G. Saur, 1984, nr. 75.
3)Frederik[フリィーデリッキ]の息子という意味で、かれのいとこ達から区分する。
訳 注
*11588年以来のネーデルラント連邦共和国 Republiek der Zeven Verenigde Nederlanden は、1795 年にバターフ共和 国 Bataafse Republiek に交代した。バターフ共和国はフランス共和国同盟国であり、1801 年にバターフ連邦 Bataafs Gemenebestとなったが、1806 年にルイ・ボナパルトを国王とするホラント王国 Koninkrijk Holland とさ れ、1810 年から 1813 年にかけてフランス第一帝政に併合された(フランス時代 French Period、1795−1813 年)。 1813年にネーデルランド連合元首王国 Soeverein Vorstendom der Verenigde Nederlanden が建国され、1815 年に、 ウ イ ー ン 会 議 に も と づ き、ベ ル ギ ー 地 域 も 管 轄 し た ネ ー デ ル ラ ン ド 連 邦 王 国 Verenigd Koninkrijk der Nederlandenとなったが、1830 年にベルギー王国 Royaume de Belgique が分離独立し、1839 年にオランダ王国 Koninkrijk der Nederlandenとなった。
*2Hendrik van Wijn[ヘンデリッキ・ファン・ウェイン]は、1740 年 6 月 21 日にハーグ市で生まれた。1802 年 7 月 5 日にアーキビスト Archivarius に 5 年契約で任命され、また同時に、ホラント県(1814 年以降州となる)アー キビストにも任命された。1806 年 5 月 28 日にホラント王国政府命令書でアーキビストに就任し、委員会を立 ち上げることなどが命令されたが、フランス第一帝政下の 1812 年 8 月に解雇された。1814 年 3 月 8 日の新国 王の命令で再び就任し、1831 年 9 月 27 日にハーグ市で死去するまで、その職に在任。中世史を専門とし、 ネーデルラント連邦共和国の独立が承認され、国境が確定したウェストファリア条約締結の 1648 年以前のアー カイブズを調査し、それらの暫定記述をした。Molhuysen, P.C. & P.J. Blok,“Wijn, Henrik van”, in Molhuysen, P. C. & P.J. Blok ed., , Leiden, A.W. Sijthoff, 1918.
〈http://www.dbnl.org/tekst/molh003nieu04_01/molh003nieu04_01_2120.php〉[accessed on 04−05−2012]; Ketelaar, Eric, , Hilversum, Verloren, 1997, pp. 94−95.
*319世紀前半の州と大きな市では、それぞれの行政経営者の権限で、アーキビストが任命された。しかし、11 州すべてのアーカイブズ機関が、1877 年から 1890 年にかけて、国立州アーカイブズとされ(但し、南ホラン ト州は当初から国立州アーカイブズとして発足していた)、あらたに配置された国のアーキビスト職――ステイ ト・アーキビスト State archivist[Rijksarchivaris]――が、それぞれの機関を経営した。
この改正は、オランダの統治システムの歴史が導いた。1795 年以前の旧体制では、中央政府のドキュメント は、連邦議会 Staten-Generaal とその執行機関の国務評議会 Raad van State などの諸機関で作成され、保存され て い た。し か し、こ れ ら は 真 の 主 権 者 で は な か っ た。真 の 主 権 者 の ド キ ュ メ ン ト は、州 の 執 行 評 議 会 Gecommitteerde Radenや財政監査院 Rekenkamers などの諸機関によって作成され、保存されていた。「フランス 時代」、前者のドキュメントは中央政府に、後者はあらたに設置された県におかれた。1814 年の新憲法のもと では、県のかわりに 10 州が設置され、それらに後者は引き継がれた(1840 年にホランド州は南・北ホラント 州に分離)。この結果、本来の旧体制主権者のアーカイブズが分離保存された。たとえば、その痕跡を残してい る外交ドキュメントでみると、ハーグの国立中央アーカイブズのほかに、ヘルダーランド州、ゼーランド州、
ユトレヒト州、フリースラント州、オーバーライセル州、グローニンゲン州、ドレンテ州の国立アーカイブズ、 そ し て ア ム ス テ ル ダ ム 市 ア ー カ イ ブ ズ に 収 蔵 さ れ て い る。Gaswinckel, D.P.M., and W.A. Fletcher,“The Netherlands”, in Thomas, Daniel H. and Lynn M. Case ed., , Philadelphia, University of Pennsylvania Press, 1959, pp. 158−178.
これらを統合し、アーカイブズを国有とするために、国立アーカイブズを所轄していた内務大臣は、上記に 述べられたように、州アーカイブズ機関を国立州アーカイブズとした。さらに 1813 年以降、州と地方自治体 アーカイブズ機関は、自分たちの祖先のアーカイブズだけでなく、法律、法令、行政規則により、ほかの行政 組織からのさまざまなアーカイブが移管されるようになった。Leavitt trans., , section 4−7, pp. 20−33;マ リー・アー・ペー・メイリンク=ルーロフス、金井圓訳「オランダの国立文書館の機構について」、東京大学史 料編纂所編『フランスにおける史料研究/ミシェル・フランソワ、遅塚忠躬訳、オランダの国立文書館の機構 について/マリー・アー・ペー・メイリンク=ルーロフス、金井圓訳』、1965 年、5 頁(この文献の入手には冨 善一敏氏の協力をえた。記して感謝 を 表 す);Ketelaar, Eric,“Netherlands: Archives”, in Huysmans, Frank Eric Ketelaar, & Peter van Mensch,“ Netherlands : Archives, Libraries and Museums ”,
, Third Edition, London, Taylor & Francis,(Published online 2010),pp. 3874−3900, 〈http://www.tandfonline.com/doi/book/10.1081/E−ELIS3〉[有料]なお、後掲訳注*8も参照。
*4 カレンダーは、「(1)通常時系列で編んだリストで、同じシリーズ内の個々のドキュメント、またはさまざま な資源から引き出した特殊な種類の個々のドキュメントの要約を記載し、利用者にすべての内容や資料に関す る必須な情報を提供する」。Walne, Peter(ed.), , München, K.G. Saur, 1984, nr. 56.
*5 Isaac Nijhoff[イサック・ネイオフ]は、1795 年 7 月 26 日にアーネム市に生まれ、家業の印刷・出版業とその 販売業を引き継ぎ、歴史研究に従事し、1817 年に州アーキビストとしてオランダではじめて任命され、アーネ ム市所在のヘルダーランド州アーカイブズに在職し、1863 年 6 月 20 日にアーネム市で死去。Janssen, A.E.M.,
“Isaac Anne Nijhoff”,in .
〈http:// www.biografischwoordenboekgelderland.nl/bio/2_Isaac_Anne_Nijhoff〉[accessed on 04−05−2012]
*6 Samuel Muller Fz.[サムエル・ムーラ]は、1848 年 1 月 22 日アムステルダム市で、尚古物研究家・文献学者 Frederick Muller[フリィーデリッキ・ムーラ]の子供として生まれ、1864 年から Amsterdamse Atheneum(のち 1877年にアムステルダムの大学となる)などで勉強し、法制史を研究し、1869 年 4 月に学位(博士)を取得し た。その後、1873 年夏以降 に一学期在籍し、1874 年 2 月 2 日に 26 歳でユトレヒト市のシ ティ・アーキビストに任命された(1918 年まで)。1879 年 1 月 1 日に国立ユトレヒト州アーカイブズのステイ ト・アーキビストを併任した(1920 年まで)。1893 年から 1910 年、および 1913 年から 1920 年まで、オラン ダ・アーキビスト協会長を歴任し、1922 年 12 月 5 日ユトレヒト市で死去。Graafhuis, A.,“Muller Fzn., Samuel
(1848−1922)”,in .
〈http://www.historici.nl/Onderzoek/Projecten/BWN/lemmata/bwn1/mullerfzn〉[accessed on 11−04−2012]; Ketelaar, Eric, , pp. 45, 51.
*7 原文では Theodoor H. F. van Riemsdijk と下線部を英語で表記しているが、原名は Theodorus Helenus Franciscus van Riemsdijk[テォドーロス・ヘレヌース・フランシスカス・ファン・リィミズダーク]。1848 年 8 月 16 日 マースリスト市に生まれ、1866 年にユトレヒトの大学へ入り、法制史を研究し、1875 年にズウォレ市のシ ティ・アーキビストに就任した。その直前に、Muller の補助者として無給で短期間働いた。その後、1877 年に 最初の国立州アーカイブズのステイト・アーキビストに任命され、国立ヘルダーランド州アーカイブズに就任 し、1882 年にハーグの国立アーカイブズの主任アーキビスト Deputy Archivist[Adjunct-archivaris]、1887 年か ら 1911 年まで初代のステイト・アーキビスト総管理官 General State Archivist[Algemeen Rijksarchivaris]を歴 任。1923 年 3 月 2 日ハーグ市で死去。代表著作のひとつが、
, ’s-Gravenhage, 1885. Fox, J., “Riemsdijk, jhr. Theodorus Helenus Franciscus van(1848−1923)”, in . 〈http://www.historici.nl/Onderzoek/Projecten/BWN/lemmata/bwn1/riemsdijk〉[accessed on 11−04−2012]
*8「古いアーカイブ」“old archive”という用語に関し、ダッチ・マニュアル第 7 節の注釈では、「1813 年は今日、 州アーカイブズの古い old ものと現代 modern のものを区分する線として受け取られている」と説明している。 「ただし、1813 年以降州アーカイブとなったもので政府収蔵庫に移譲されたもの(北ブラバント州の事例)も、 この「古いアーカイブ」と同等な扱いとする」と記載されている。Leavitt trans., , p. 31.この北ブラバン ト州は旧体制下の直轄領で、1814 年にあらたに設置された州である。 なお、この「古いアーカイブ」について、現代のオランダ・アーキビストのトリオのひとりは、つぎのよう にコメントしている。「用語「古いアーカイブ」は非現用レコードの意味ではなく、「コミュニティ歴史アーカ イブ」の意味において使用されており、19 世紀前半のコミュニティ・アーカイブ概念に関係するもので、マ ニュアルの著者によって拒否された」。
*9Muller, S., , ’s-Gravenhage, Van Weelden en Mingelen, 1886.
*10オランダ・アーキビスト協会は、1890 年ステイト・アーキビスト第一回年次会議の数か月前、ベルギーのアン トワープでの図書館員大会の折に、数名の市と州のアーキビストが会合したことが契機となり、1891 年 6 月 17 日ハーレム市に、オランダの 48 名のシティ・アーキビストとステイト・アーキビストの内、40 名が参加し、 アーカイブズの諸課題を研究するために設立され、1892 年 7 月 9 日第一回年次大会が開催された。Leavitt trans., , p.13, footnote 2; Ketelaar, Eric, , p. 46.
*111890年に第一回が開催された。Ketelaar, Eric, , p. 45.
*12Seerp Gratama[シーラプ・ハルタマ]は、1858 年 12 月 14 日グローニンゲン市に生まれ、1882 年からグロー ニンゲンなどの大学で法律学と法制史を学び、1887 年にアッセン市所在の国立ドレンテ州アーカイブズのステ イト・アーキビストとなり、オランダ・アーキビスト協会の創立者のひとりである。1896 年にステイト・アー キビストから判事に就任し(ロッテルダム市)、1904 年には最高裁判所の判事、1918 年には最高裁判所の副長 官 と な る。1923 年 5 月 22 日 ハ ー グ 市 で 死 去。Van Holk, L.E.,“Gratama, Seerp(1858−1923)”, in
.
〈http://www.historici.nl/Onderzoek/Projecten/BWN/lemmata/bwn1/gratama〉[accessed on 04−05−2012] *13マニュアル第 2 節に明記される。後出「有機的統一体」を参照。
*14マニュアル第 20 節に明記される。後出「組織とアーカイブ」を参照。
*15Robert[Th. Azn]Fruin[ロベルツ・フライン、Th. Azn: Thomas Anthony[トーマス・アントニィ]の息子とい う意味]は、1857 年 11 月 22 日ドルドレヒト市に生まれ、1877 年からレイデンの大学で法律学を学び、1886 年に学位(博士)を取得した。1888 年 5 月 1 日に Muller が勤めていた国立ユトレヒト州アーカイブズのアーキ ビストとなり、1894 年 11 月 1 日に国立ゼーランド州アーカイブズのステイト・アーキビストに就任した。 1912年 5 月 1 日から 1933 年 1 月 1 日まで第二代目のステイト・アーキビスト総管理官となる。また、1910 年 7月 1 日から同年 12 月 22 日まで VAN 会長、1913 年から 1920 年まで VAN 副会長、1920 年から 1932 年 9 月 24日まで VAN 会長を歴任。この間、ステイト・アーキビスト総管理官として、1918 年のアーカイブズ法制定 に尽力した。この法律は、VAN のアーカイブズ法草案を基礎としたもので、草案は 1907 年に起草委員会委員 のかれによって手がけられたものであった。また、1919 年には国立中央アーカイブズでアーカイブズ学校が開 校することとなり、1920 年から、管理職となる上級アーキビスト養成の第一級クラスをおもに教えた(中級 アーキビスト養成は第二級クラス)。財政問題で 1924 年にこの学校は廃止されたが、アーキビストの資格試験 は継続し、資格試験運営委員会の委員長として 1935 年まで務めた。1935 年 10 月 26 日ハーグ市にて死去。 Ketelaar, F.C.J.,“Fruin[Th.Azn],Robert(1857−1935)”,in . 〈http://www.historici.nl/Onderzoek/Projecten/BWN/lemmata/bwn2/fruin〉[accessed on 15−07−2011]
*16Johan Adriaan Feith[ヨハン・アドリアン・フェイツ]は、1858 年 11 月 25 日グローニンゲン市に生まれ、1877 年からグローニンゲンの大学で学び、1885 年に法律学で学位(博士)を取得した。1884 年に、ステイト・アー キビストである父親 Henry Octavius Feith[エンリ・オクタビアス・フェイツ]の勤務先、国立グローニンゲン 州アーカイブズに関わりはじめ、1887 年に臨時のアーキビストとして雇用され、1892 年にステイト・アーキビ ストの跡を継いだ。オランダ・アーキビスト協会創立メンバーのひとりであった。1894 年に、所轄のアーカイ
ブズをオリジナルな構成に戻すこととし、父親達の時系列やアルファベット順のインベントリーを索引として 維持しながら、着手した。1910 年には Fruin から VAN 会長を引継いだ。しかし、1905 年以降病にさいなまさ れ、在職のまま、1913 年 1 月 28 日グローニンゲン市にて死去。Zilverberg, S.B.J.,“Feith, Johan Adriaan(1858−
1913)”,in .
〈http://www.historici.nl/Onderzoek/Projecten/BWN/lemmata/bwn2/feith〉[accessed on 04−05−2012]; Ketelaar, Eric, , pp. 49, 51.
*17Bresslau, Harry, , Leipzig, 1889; Giry, Arthur, , Paris, 1894.たとえば、後掲訳注*76 参照。
*18Clemente Lupi[クレメンテ・ルーピ]は、1840 年 7 月 7 日フィレンツェで生まれ、1865 年からピサのアーキ ビスト。古書体学者。1919 年 2 月 23 日フィレンツェで死去。Leavitt trans., , p. 59;“Lupi Clemente”, 〈http://siusa.archivi.beniculturali.it/cgi−bin/pagina.pl?TipoPag=prodpersona&Chiave=458&RicProgetto=personalita〉 [accessed on 11−05−2012]つぎも参照されたい。Horsman, Peter,“Accidental parallels? Toscana and the Utrecht
‘Archival School’”,in ’ ’
.
〈http://www.archiviodistato.firenze.it/nuovosito/fileadmin/template/allegati_media/materiali_studio/convegni/europa/ convegni_europa_horsman.pdf〉[accessed on 11−05−2012]後掲訳注*36参照。
*19Leopoldo Galeotti[レオポルド・ガレオッティ]は、1813 年 8 月 13 日ペーシャで生まれ、法律家、政治家、イ タリア王国アーカイブズ館長。1884 年 8 月 28 日フィレンツェで死去。Leavitt trans., , p.59; Assereto, Giovanni,“GALEOTTI, Leopoldo”, Volume 51, 1998.
〈http://www.treccani.it/enciclopedia/leopoldo−galeotti_%28Dizionario_Biografico%29/〉[accessed on 02−08−2012]後 掲訳注*36参照。 *20第 36 節規則は、アーカイブから離脱したドキュメントをもとのアーカイブに編入することを規定しているが、 その注釈で、このルールと反対の考え方が実施されているイングランド保管所の説明がなされている。すなわ ち、規則では「ドキュメントが、アーカイブからかつて消えたのちに、ふたたび寄贈または購入で戻ってきた 時、それらドキュメントは、そのアーカイブで発生したことが完全に明らかな場合は、それらの場所に戻され てもよい」。この注釈で、「イングランドでは、[中略]私的所有に一度帰したドキュメントを、アーカイブに 戻すことはまったく許されない。それらは図書館に移管される。この取り決めの理由は、ある時収蔵庫からで てしまい、あらゆる種類の私人の手に入った公務ドキュメント an official document は、もはや損なわれている、 勝手に変更されている、という危険にさらされている。結果として、そのドキュメントは、彷徨している間に、 証拠としてドキュメント化した多くの価値を失い[中略]それゆえに、このようなドキュメントをアーカイブ に含むのは、アーカイブから真正性の性質を喪失させることとなるであろう」、と説明されている。そして、そ れぞれの歴史背景を、つぎのように記載している。「[前略]イングランドにおいては、古いアーカイブズが革 命によって現代アーカイブズから分離されることがなかったし、結果として、そこでは古いアーカイブズは、 われわれの国より一層活用的なものとして保存されており[中略]それとは反対に、われわれにおいては、フ ランス体制下で価値のないものとして売られたのは間違いないことで、それゆえに、それらドキュメントは、 アーカイブから逃げ出している間に変造されたと推察する特別ないわれはないのである」。Leavitt trans., , pp. 98−99. この点について、ダッチ・マニュアルのフランス語版の訳注は、「長い期間、パリの国立アーカイブズでは、 寄贈、購入、または法律による回収で取り戻されたドキュメントは、それらが付属していたアーカイブから動 かされていないとしても、それらが必然なこととして占める自然な位置に再置されることは決してない。特別 な部屋または特別なシリーズがそれらのために用意される」。Leavitt trans., , p. 98, footnote 22.
なお、イングランドの保管所についてはつぎも参照されたい。Jenkinson, Hilary, , Oxford, The Clarendon Press, 1922, pp. 9−11.
〈http://www.archive.org/details/manualofarchivea00jenkuoft〉[accessed on 21−08−2011] *21内務大臣の規則は 1897 年 6 月 10 日発令。Leavitt trans., , pp. 13−14.