Extensive Readingについて
著者
埋橋 勇三
雑誌名
白山英米文学 : 東洋大学文学部紀要 英米文学科篇
号
37
ページ
1-17
発行年
2012
URL
http://id.nii.ac.jp/1060/00003928/
Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止Extensive Reading について
埋 橋 勇 三
1 はじめに 日本の英語教育にはときどき面白い議論が出てきます。たとえば、読むこと と話すことはどちらが重要か。英語を読むことを学校で教える前に英語を話す ことをまず教えるべきだ。なぜなら、言葉は話すことが最初にあり、読むこと は後に続くものだからである。このように読むことと話すことを対立させた議 論が聞かれます。また、話すことと聞くことはどちらを優先すべきか。あるい はどちらがより重要かなどの議論が繰り返されています。読むことに関して も多読か精読かが問題になります。多読は extensive reading といいます。「多 読」は extensive reading の日本語として適当でしょうか。extensive は [ex-+tend] ですから、「外のほうに向かって広がる」が正確な意味です。一箇所に留まら ず、次第次第に外に読書の範囲を広げていく、これが「多読」の意味です。あ るテーマに関して本を読んでいるときに、当然、出てくる疑問があるわけで、 その疑問を考えるために類書を読み、読書の範囲を広げていきます。これが extensive reading です。いわゆる一般的に言われている「多読」とはすこし意 味合いが異なります。これに対して intensive reading は [in-+tend] ですから、「内 に向かって広がる」が正確な意味です。ある文章を繰り返し読み、その意味す ることを深く吟味することです。英語の extensive reading と intensive reading は よく対応していますが、日本語の「多読」と「精読」には英語ほどの対応関係 がないように思われます。なんとなく、「多読」と「精読」を口にして、両者 のうち、どちらを優先すべきか、どちらが重要かという話になると声高になり ます。英語を読むことが重要か、あるいは話すことが重要か、多読が重要か、 あるいは精読が重要かなどの議論には辟易させられます。必要に応じてやれば よいことであり、それ以上のことをとやかく言ってもはじまりません。どのよ うに英語と取り組むかは個人がどのような環境に置かれているかによって異な るのであり、画一的に定めることはできない。英語教育を小学校から始めると いうことに関していえば、たいへん馬鹿げた話だと思います。すべての小学生 が英語を学習する「環境」にあると判断していることになります。国際化というわけのわからぬ呪文が唯一の根拠になっています。これも実に奇妙な話です。 英語教育には奇妙奇天烈な話があまりにも多く、それらの 1 つ1つに反論する 余裕はありません。 本稿においてはすでに英語にある程度習熟していて、これからも英語を続け ていこうと思っている人々、特に大学生に対して、英語を読むときに出くわす 問題を考えてみたいと思います。intensive reading に多くの時間を割いてきた 人が、extensive reading を取り入れようとするときに参考になると思われる事 柄について経験的に述べてみたいと思います。広い範囲の英語を読むためには ある程度速く読まなければなりません。そのためにはどのようなことが必要で あり、どのようなことが問題になるかを考えてみたいと思います。ここに述べ ることは私の個人的な経験に基づくもので、なんの強制力もありません。意見 の1つとして読んでいただければそれで十分です。広い範囲の英語を速く読み たいのであれば、単純にそのように読めばよいのであってお題目を並べる必要 はない。このような思いが私のなかにあります。それでも書くのは、もしかし たら役立つこともあるかもしれないというささやかな思いが他方にあるからで す。 2 Intensive reading 英語の 1 語 1 語のなかへ入り込んで丹念に読む訓練をある時期に行なってお くことは重要なことです。主語、動詞、助動詞、接続詞、関係詞、前置詞、時制、 倒置など、文を作り上げるために関係する諸項目に注意を払いながら読みます。 できれば、語源についても考えます。ラテン系の語かゲルマン系の語かにも配 慮します。もちろん、類語やスラングやイディオムにも注意します。1 文が何 を伝えようとしているのか、そのために言葉をどのように使っているのか、こ れらのことも見逃さないようにします。そして、すべての検討が終わったとこ ろで、英文の意味をできるかぎり正確に読み取り、納得の行く自然な日本語に 直します。日本語にする段階で新たな問題が浮かびあがることがよくあります ので、そのときは再度検討したうえで、日本語を作り直します。 このような読み方をすると、微細な点も見逃さない正確な読みが期待できま す。正確な読みが期待できるということであり、期待通りにならないことも多 いです。同じ英語を読んでいるにもかかわらず、人によって恐ろしく異なる読 みをしていることが珍しくありません。むしろ、同じ読みをしていることなど ないと言ってもよいくらいです。人によって感じ方が違うので読み方が異なる などというレベルではなく、もっと、低いレベルでの読み違いが日常的に見ら
れます。正しい読み方をするためには語学的に英語を見る目を養っておく必要 があります。これが英語の基礎といわれるものです。文学と語学の境界線がま だはっきりしていなかった初期のころの学徒、少なくとも第 2 次世界大戦の前 の人々はこの英語の基礎がしっかりしていました。 強力な英語の基礎力をバックにして丁寧に読んで行くと時間がかかります。 一生、このような読みを続けるとしたなら、読める量に限りが出てきます。そ こで、どのくらいのページ数を読めばよいのかが気がかりになります。戦前に 英語を学び、後に日本の英語界で活躍した人々の話や、ドイツ人で英語やフラ ンス語を学んだ経験のある人々の話をまとめてみると、英語の基礎力をつける ための読みは 60 ページくらいに落ち着くのではないかと思います。もちろん、 それ以上であれば、なお結構です。60 ページのなかには主語、動詞、関係詞、 時制、語源、類語、イディオムなど英語の基礎を構成する諸要素がだいたい入 ってきます。語彙に関しても使用頻度ランキングの上位を占めるものが 60 ペ ージの間にほとんどすべて入ってきます。1 度読んだだけでは身につきません ので、60 ページを繰り返し読み、熟成させます。単に読むというだけでなく、 部分的に、できればそのすべてを暗誦できるまで、読み返すことが必要です。 これが正しく intensive reading です。intensive reading の手法で相当のページ数 を読んできましたが、核となる 60 ページの完成度が非常に重要であると思い ます。 3 目の動き intensive reading で英語の基礎を整えたなら、つぎにやることは身につけた 基礎力を運用することです。つまり、英語を読み続けることです。英語は左か ら右に向かって書かれます。左から右に向かって書かれるということは意識の 流れが言葉に則して左から右に向かって進むことです。英語を読むときの目の 動きも左から右に向かいます。日本語は、本来、上から下に向かって目が動き、 行は右から左へ進んでいきます。英語の場合には左から右に目が動き、行は上 から下へと進みます。日本語と英語では目の移動方向が異なります。日本語で も横書きの文書が増えていますので、英語的な目の動きに慣れてきていますが、 人によっては英語を書かれている通りに目で追い続けることに違和感を抱くこ とがあるかもしれません。最初は英語的な目の動きに慣れる訓練をするとよい かもしれません。そのためには、左から右へ、上から下へと目を動かし続けま す。内容がわからなくてもよいので、目の動きの訓練をしてみましょう。英語 を読むのではなく、目で英語を追い続けるだけにします。このときに気をつけ
ることは、目が止まらないことと、目が左に戻らないことです。後から述べる ことになると思いますが、このことは非常に重要な意味を持っています。 英語を目で追い続けることは日本語を追い続けることより簡単な面がありま す。ご存知の通り、英語は語と語の間にスペースがありますので、1 語 1 語が 明瞭に区分されています。日本語は語と語の間にスペースがないので、1 語が どこまでなのかを判断しづらい面があります。日本語においてある語をほかの 語と区別するには意味を知る必要があります。意味がわからなければいつまで も棒読みを続けることになります。日本語は目で追いにくい言語です。英語の 場合には意味がわからなくともスペースがあるので、目で追い易く、それゆえ に音声化も容易に行なえます。目で追うだけであれば、英語のほうがはるかに 簡単です。したがって、英語を左から右へと目で追い、上から下へと下ること は日本語に比べれば、やりやすいと思います。目で追い易いということは速く 読めることにもつながります。原理的にいえば、英語の構造のほうが日本語の 構造より速く読めるようにできていると言えます。ところが、英語を目で追う ことくらいは簡単に出来そうですが、これがなかなか上手くいきません。目で 追っていると勘違いをしていることが以外に多いです。ある行を目で追ってい るつもりでも、実際にはその上の行や下の行の語が目に入ってくることがあり ます。このようなことを避けるためには鉛筆かなにかで英語をなぞりながら目 で追うのがよいでしょう。私が尊敬するある英語学者は英語を読むときに、よ く小指でなぞりながら英語を読んでいました。まるで小指で英語を吸い取って いるような感じで、なぞり終えたときにはすべてを理解されていました。私は やったことがありませんが、行に下線を引いている人をよく見かけます。その 箇所が重要だということでしょうが、私流にいえば「目でなぞった」というこ とになります。 英語を読むときの目の動きは左から右へ、上から下へと述べましたが、実験 によって確かめたわけではなく、おそらくそうであろうと思ったまでです。ア メリカのある政府高官に部下が数百ページの報告書を提出したそうです。高官 が読む手間隙を考えると、部下は分厚い報告書が気になったのでしょう。報告 書の内容を話し始めたそうです。すると、高官は言下に言ったそうです、「君 の説明を聞くより、読んだ方が速いから、説明はいらない」と。高官の言葉に うそはなく、あっという間に読んでしまったとのことです。一体、この高官の 目の動きはどのようになっていたのでしょうか。どこかで読んだことのある笑 い話ですが、英語の 1 ページを真中で左右に縦に分割して、左半分を左目で、 右半分を右目で読み、そのまま上から下へ目を一気に走らせる。左目と右目が
場所を分担して読み下る。この話が本当かどうかわかりませんが、英語を読む ときの目の動きがすべて一様であるとは思えません。 英語を左から右ではなく上から下へと、目を移動して読むことは通常はない のですが、まったくないわけではありません。イギリスの大きな書店に入った ときに経験したことです。書棚に並んでいる本は背表紙のみが見えます。当然 のことながら、読むときには上から下へと目が動きます。すると、顔が自然と 右に傾きます。しかも、目の動きが極めて遅くなります。日本語の書物を並べ ている書店では一目でどのようなジャンルの本が並んでいるかがわかります。 英語の書物を並べている店ではそういうわけにはいきません。気づいてみると、 日本の書店であれば近づくこともない育児コーナーの前に立っていて恥ずかし い思いをしたことがあります。そのおかげで「子供の名前の付け方」という本 を男子用、女子用と 2 冊買うことができました。人名の研究にしばらくのめり 込んだのは英語の縦読みのおかげです。 4 戻らないこと すでに述べたことですが、英語は左から右へ目を移動させます。単純な行為 ですがなかなかできることではありません。目が英語を左から右へと追ってい き、いつまでもその動きを続けます。右方に向かって目が一定の速度で動きま す。ところが実際には一定の速度ということはなく、動きが速まったり、ある いは遅くなったりします。これは不自然なことではなく、いつでも起こること です。だれでも上り坂は遅くなりますし、下り坂は歩みが速くなります。急な 坂ほど登るときはゆっくりになり、下るときには速くなります。目の動きはわ れわれの歩みと同じで緩急が出てきます。緩急の変化があるから飽きずに目で 追い続けることができます。退屈しないですみます。あまりにも急な下り坂で 速度が上がり過ぎて転倒することもあります。逆に急な上り坂では歩みが遅く 登るのをやめたくなることもあります。速度の変化はあってもよいのですが、 重要なことは決して目の動きをとめないで進むことです。目の前の道を一歩一 歩進むことです。やってはいけないことは目線が後に向くことです。あるいは、 まだ歩んでいないはるか先に視線が向き、足元から目が離れることです。 英語を目で追って読むのですが、左から右への目の動きを続けることはむず かしいことです。左から右へ動いたかと思うと、なぜか目が突然止まり、しば らくじっとしています。そして、何を思ったのか左方向に大きく逆行して走り 出します。過ちに気づいて、あわてて元の位置に戻ろうとするのですが、逆 行し過ぎて元の位置がわからない。気づけば、知らない行の途中を徘徊してい
て、行き場が見当たりません。迷っているうちに「今日の昼飯は何にするか」 などの思いが表にでてきます。さもなければ、しきりに爪を噛んでみたり、頭 に手をやったり、痒くもないところを掻いたりします。英語の場合にこのよう に目が迷走を始めがちなのは修飾語句があるときです。修飾語句が被修飾語の 前にあるときはよいのですが、後にあるときは迷走しやすくなります。その典 型的な例が関係詞節です。日本語には英語と同じような意味での関係詞節がな いので、目で追いづらくなります。特に長い関係詞節の場合は静かに左から右 に目が動かず、狂ったような速度で逆行を始めることがあります。逆行を始め るケースはほかにもたくさんあります。否定表現、比較表現、代用表現なども そうです。なかでも特質すべきは代名詞です。指示性のある表現は代名詞に限 らず、定冠詞などもそうですが、目の動きが前に戻りがちになります。また、 その戻り方が綺麗な戻りではなく、複雑雑多な戻りになりがちです。 私たちの目の動きを見ていると、一行の英語を何度も目で重ね追いして、追 っているうちに出口を失い息絶える状況に追い込まれる。このようなことが日 常的に起こっています。一行を読めばすむものをそれができず、塗り重ねるよ うな読みをします。そのためにすっきりと見えていた一行が汚れて、本当の姿 が見えなくなってしまいます。この段階に至ると、読む、目で英語を追うとい う世界ではなく、狂気の世界に入っていきます。このようなことを避けるため には、素直に、素朴に、着実に、左から右へと語を目で追い、読めても読めな くても、決して戻らないことです。目の迷走は読めないことより深刻な症状で す。速度の変化はあってよいのですが、戻ることだけはしないようにしましょ う。 5 読めてしまう 英語を左から右へ、上から下へと目で追い続けて、その歩みを決して止めな いこと、逆行しないことについて述べました。意味がわからなくてもこの営み を続けます。このような目の動きで英語の伝えようとする意味を理解すること ができるのでしょうか。結論的にいえば、目を動かすこと、それ事態が意味 を理解することにつながっています。英語の基礎力がある程度ある人が意味の 介入を許すことなく、英語を目で純粋に追い続けることは不可能です。目で追 いながら、すでに意味を読み取っています。読み取ることを拒否しようとして も、どうしても意味を読み取ってしまいます。人間の能力のうちでこれほどす ばらしい能力はないのではないかと思うほどです。文字を見たり、何かをしゃ べるのを聞くと、そこには必ず何かの意味があるに違いないと本能的に思うの
です。たとえば、「彼は片手倒立をしたまま眠ります」という言葉を聞いたと きに、最初は「そんな、ばかな!」と思いますが、そのあと、「もしかしたら、 ありえるかも」などと思い直すこともありえます。起きているときでも片手倒 立などできないし、半年の訓練を積んでも、片手倒立ができるか疑わしいのに、 それを睡眠中にやる。常識の世界をはるかに逸脱しているにもかかわらず、そ れでもなんとかして意味を取ろうとします。彼はどのような人間なのか。彼は どこにいるのだろうか。宇宙空間にいる飛行士の睡眠の話なのだろうか。片手 倒立を実際にはしていないが、寝ている姿を見ると片手倒立をしているように 見えるのだろうか。「彼は片手倒立をしたまま眠ります」と発言した人の表情 に信憑性を感ずれば感ずるほど、真剣に意味を取ろうとします。人間はいかな る状況下でも意味を取ろうとします。いかに馬鹿げた話でも、馬鹿げていると 知りながらも、なお、意味を取ろうとします。いかなる人もこの能力を持って いて、この能力を封印することはできません。一見、押さえ込んだように思え ても、実際には心の奥底ではマグマのように動いています。本能的に意味をさ ぐり、読み取ろうとする能力は人間にとってたいへんありがたいもので、言葉 をまったく知らない国に行っても、案外、問題なくコミュニケーションがとれ るものです。これは身振りや表情などから意味を理解しようとする本能がある からです。また、この能力があるからこそ、人の言葉に悩み苦しむこともあり ます。よい、わるいではなく、人間には意味を取ろうとする、あるいは意味が 取れてしまう能力が備わっています。この能力は神が与えてくださった尊い贈 物、まさにギフトなのであります。 英語を左から右へ、上から下へと、目で追って行きます。そのときにも意味 を取ろうとする本能は眠っているわけではなく、活発に動いています。読み手 の側に意味を取っているつもりがなくても、読み手の知らないところで意味を 読み取っています。本人も気づかぬうちに意味が読み取れているのです。 6 読み取れない語 目で英語を追っていくと、無意識のうちに意味を読み取っている、読み取れ てしまうことについて述べました。あたかもすべての意味が読み取れてしまう ような印象を与えたかもしれませんが、実際には、読み取れない語、意味のわ からない語があります。語の意味がわかっても、文そのものが意味することが 何であるかわからないこともあります。いかなる人でも、すべてを理解するこ とは不可能です。すべてが理解できることもあるかもしれませんが、英語を読 んで、すべての意味がわかるということはそうあることではありません。読み
取れてしまうということからすれば、これは矛盾するように思われるかもしれ ませんが、そうではありません。読み取れない部分は常に残ることも真実なの です。 この原稿は主に一定の基礎力を身につけた大学生あたりを読者として想定し ているのですが、英語を読んでいて意味のわからない語が出てきたら、その都 度、辞書を引いて調べてみるべきかどうかという質問を受けることがあります。 これは質問のように見えますが、実際には質問の体を成していません。1 ペー ジ読んで意味の分からない語が1つ出てきたのであれば、辞書を引いてもよい かもしれません。1 個くらいであれば英語を左から右に目で追うという営みが 中断しても、それはわずかな時間の中断ですみます。しかし、1 ページに 10 個も意味不明の語が出てくるのであれば、中断ではすまなくなります。目で追 うと言えない状況が生じます。意味不明の語がたくさん出てくるときには英語 を目で左から右に追い、本能的に意味を理解する能力のみに頼ります。中断が 頻繁に起こると頼りの本能も機能しなくなります。わからない語が多いほど辞 書を引かないようにすることが重要です。そもそも辞書を引くと言うときには、 わからない語が少なくて、しかも、そのわからない語が辞書を引いて理解して ほしいと訴えているときにのみ辞書を引きます。自分から調べたいというより は語のほうから調べてほしいと訴えてくるときが辞書を引くときです。つまり、 こちらから英語を読んでいくのではなく英語がこちらに向かって読んで欲しい と訴えかけてくる力を利用します。英語と対立関係のポジションに身を置くの ではなく、英語の側に身を置き、英語と一緒になって進んで行きます。自分自 身が英語に成り代わるのです。もっと言えば、その英語を書いた人に成り代わ るのです。対立関係に身を置くと、こちらの好みや気性に合わないものを毛嫌 いしたり排除したりしがちになります。よく批判的に読むということが言われ ます。この「批判的」という表現は知性や個性を感じさせる恰好のよい言葉で すが、私は「批判」や「批評」という言葉を使うのをためらいます。また、頻 繁に「批判」や「批評」を使う人に対して本能的に危険なものを感じます。英 語を目で左から右に追い、その英語を書いた人の立場に身を置き、著者と自分 を重ね合わせて英語を見て行き、その過程で感ずる著者と自分との歪みを語る こと、これがいわゆる「批判」や「批評」の原点なのであります。ふたりの人 間が重なり合う努力もなく、まったく別々のところにいる限り、「批判」や「批 評」はありえません。ふたりの人間が重なり同化する「やさしさ」がなければ なりません。「批判」や「批評」の原点は「やさしさ」なのです。 英語を左から右に目で追うときにわからない語が出てくることがあります
が、左から右に目で追う営みは常に続けなければなりません。意味の分からな いことをことさら意識せずに目で追い続けます。英語を書いた人の立場に身を 置こうという気持を持っていれば、意味の分からない語も自ずと光を放ち始 め、その意味するところがおぼろげながら分かってくるようになります。人に は癖があります。性向というようなものがあります。そのためによく使う語が あります。また、あるテーマについて述べるとするなら、そのテーマ固有の表 現が何度となく出てくるでしょう。ある小説を読むと draw という語が何度も 出てきます。「引く」とはまったく関係のない意味です。前後を見ると名詞です。 まったく知らなかった語ですが、読み終えるころにはそのあたりの辞書の 5 番 目に、6 番目に出てくるそっけない定義とは比べものにならないほど、ふくら みを持って、人の臭いを感じながら、登場人物の表情をからめながら、その意 味が理解できます。意味の分からない語が出てきても、目の動きを止めず、前 へ進みます。そして、語が自らその意味を語るのを待ちます。やさしい気持を 持って、忍耐強く待ち続ければ、意味の分からない語も少しずつこちらに近寄 ってきます。人は意味のわかる語が圧倒的に多いにもかかわらず、わずかに出 てくる意味の分からない語に過大に反応する傾向があります。こういう場合に は立ち位置、ポジションが悪いのです。味方のほうがはるかに多いことを忘れ ています。多くの味方に囲まれて、英語を目で追えば、意味のはっきりしない 語もこちらに近づいてきます。意味の分からない語などあっても気にとめない ことです。待つことです。 7 リズムを追う 英語を左から右に目で追います。これが基本です。しかし、目で追うと言っ てもどのように追うのでしょうか。この追い方を身につけるにはすこしばかり 努力が必要です。すべての語を目で追うのですが、同じテンポで追うのではあ りません。I am a student. という 4 語を目で追うときに、4 語に均等に目の力が 加わるわけではありません。am や a には力が加わることはあまりありません。 力の加わる 1 語を選べと言われれば、それは student になるでしょう。2 語を 選べと言われれば、student と I になるでしょう。目で追うときのテンポは [ I ] [ama] [student] の 3 つの塊になるのが普通でしょう。テンポは速度と関係しま すので、速く目が動くところと、ゆっくり目が動く箇所が出てきます。まった く同じ目の力で、同じ速度で追うとすぐに眠気がやってきます。眠気だけでな く、意味もわからなくなります。なぜなら、同じ目の力で同じ速度で追うこと は生きている英語を生きている状態でとらえているのではなく、死んだ状態で
とらえていることになるからです。生きているものにはすべてリズムがありま す。あるものが死んだというときにはリズムを失ったということです。英語も もちろん生きているのであり、リズムがあります。そのリズムを目で追うこと が読むということになります。リズムは音の強と弱、長と短などによる相互関 係で表現されます。音の強い語、長い語は自ずと文のなかでの時間の占有率が 高くなりますので、他の語に比べてより響くことになり、それだけ読み手の心 に訴えてきます。それゆえに、意味的にも重要になってきます。すぐにリズム を目で追うことはむずかしいですが、最初のうちはとりあえず英語を目で追い ます。そのうちに、リズムらしきものを感ずるようになります。リズムをつか む手っ取り早い方法は長い語を中心にして目で追うことです。1 行の英文のな かにある長い語をすこし意識して目で追います。長い語には必ず強く読む音節 が含まれているからです。そして、意味内容を持つ語だからです。訓練として、 試しに、長い語のみを追ってみるのもよいでしょう。長い語は名詞か動詞か形 容詞でしょうか。これらの語を追うだけでもある程度、意味がわかります。す ると、1 行を読むと言っても、そのなかに含まれる長い語を3つか4つ見れば、 大体の意味はわかってきます。BBC ニュースなどを聞くときにやっているこ とですが、長い語、強く読む語、よく響く語を中心に聞くことです。そうしな ければ、意味がわかりません。この手法をそのまま読むときにも取り入れます。 書いてある英語を音声化した状態にして、耳で聞くようにして目で追うという ことです。名詞、動詞、形容詞などが長い語になりがちですが、裏を返せば、 短い語は長い語の間のつなぎになっているということです。冠詞、前置詞、関 係詞、接続詞などの機能語は短くなりますので、目で追うときにはつなぎを意 識して速めに通り過ぎます。代名詞は強く読まれることはありませんので、追 う速度が速くなります。しかし、代名詞は意味を取る上で重要です。代名詞を 取り違えないようにしましょう。その都度、強く読んで取り違えをしないよう にするのではなく、英文の背景のなかに代名詞をうまく溶け込ませておきます。 何度も出てくると読者の了解済みの事項となり、英語というテキストの背景に 溶け込んだことになります。 リズムを目で追うためにはこのような意識的な訓練が必要かもしれません。 前置詞のみに関心を寄せて、目に力を加えて追うとするなら、ほとんど、意味 がとれなくなるでしょう。主語と動詞と目的語を意識して、目で追えば意味は 取り易くなるでしょう。これらの語には強く読む音節が含まれる傾向にありま すから。いろいろな角度から目で追う試みをしてみてはいかがでしょうか。そ して、最後には、語ではなく、語群を目で追うようにします。語群とは前置詞
句、副詞句、名詞句、動詞句などのように 2 語以上で1つの意味を持つもので す。1 行に含まれる語数が12語であったとしても、語群は3つか4つくらい になります。3 語、4 語を目で追うような感じで語群を目で追います。語の小 さなリズムが響き合って、語句のリズムになり、そして、文のリズムになりま す。目で追うときには耳でリズムを聞きながら追うようにしましょう。 8 目の力を抜く 目で英語を追うのですが、真剣に追い続けると疲れが出てきます。緊張は長 く続かないものです。そこで、英語を目で追うときに目の力を抜きます。目の 力を抜くということは文字をあまり真剣に見ないということです。真剣に語を 見ると、語そのものに意識が集中しすぎて、こわばりや不自然さが出てきます。 弓を引くときのことが参考になります。射手は的を真剣に見て引いているよう に傍目には見えますが、実はそうではありません。真剣に見ている人がほとん どでしょうが、達人と言われる人はぼんやりと的を見ています。目を見開かな いで、目の緊張を緩めて、なかば半開きの状態にしています。矢を放すときの 目つきを見れば、的中するか否か、およその見当がつきます。的ははっきりと 見えていません。ぼんやりと見えています。そのかわり、自分の心を確かめて、 自分の精神を確かめて、己自身を見ています。語を追うときも同じです。真剣 に語という名の的を見るのではなく、自分の精神を見つめます。目は入口であ り、単なるセンサーに過ぎません。情報の取り入れ口が目になっているだけで す。本当の活動は情報が脳に入り映像を作ることで始まります。もっとも活発 に動いているのは脳や精神です。一言でいえば、センサーで取り込んだ情報が 作り出す映像です。この映像を見て何を感じ、何を考えるかということです。 この部分を活性化するためには取り入れ口の目の緊張を解いてやる必要があり ます。そのためにはあまり真剣に文字を見ないことです。疲れているときには 視力が落ちて、文字が見えづらくなりますが、このような状態のときに英語が よく読めることがあります。文字があまりよく見えないにもかかわらず、見え づらい感じがあるにもかかわらず、かなり鮮明な映像が見えることがあります。 一方、文字がはっきり見えているにもかかわらず、映像ができないこともあり ます。目に与える緊張感が強すぎるのだと思います。半眼で英語を追い、心が 鮮明で、力強い映像を描ければ、それが一番楽しいことです。 映像のことを話しましたが、文字を目で追うということは心のスクリーンに その映像を映し出すことです。目で文字を見ていますが、そこを過ぎると心は 映像を見ているのです。取り入れ口にある目と心の目があり、読んだものが深
い内容を持つとか、美しい景色だとか、笑えるとか思うのはすべて心の目が心 に映った映像を見るときです。語を目で追い、リズムをつかみ、書かれている 内容を読み取って行く。これはすべて心に映像を作るために必要な作業なので す。英語が読めているかどうかの判断は人に判断してもらわなくても、自分で 判断できます。映像を心の目ではっきり見ることができれば、そのときは読め ていることになります。映像が見えているかどうかはどのように判断したらよ いのでしょうか。それには自分を映像化する人間の立場においてみればよいで しょう。すぐに思い浮かぶのは映画監督です。映画監督は役者やいろいろな小 道具を使って、すべてを映像にまとめるプロです。自分が読んだ英語を映画監 督になったつもりで映像化できるかどうか、これが読めているかどうかを決め ます。自分の好みにしたがって映像化するのではなく、自分の気持ちをむなし くして、目から入って来た情報をそのまま映像化することが読むことなのであ ります。批判や批評をしたければ、その後にやればよいのです。 すぐれた射手のように半眼で緊張感を持たずに文字を追い、得られた情報を 正確に映像化し、その映像を心の目で見つめます。半眼で、緊張感を持たずに 目で追うことによって、よい映像が出てきます。読書はくつろいだ目と活性化 された心からつくりだされた映像の連続だと言えます。 9 楽しむ 文字を目で追うときに、日頃、感じていることを書きました。すでに触れる ところがありましたが、ここに述べたことは私の感じ方であって、このように 読まなければならないということではありません。それぞれが読みたいように 読めばよいのであって、講釈するような性質のものではないかもしれません。 それでも参考になることが1つでもあればという思いがあり、私の経験を述べ ました。 人にはそれぞれの読み方があり、とやかく言うべきことではありませんが、 よい読み方か否かの判断はあってよいはずです。非常に効率の悪い不自然な読 み方を続けることは益よりも害をもたらすことがあるからです。読書はすべて 益になるなどということはありません。読まないほうがよいということもあり ます。それゆえに、自身の読書が悪い方向に向かっていないかを判断する必要 があります。判断基準は読んでいて楽しいかどうかということです。時間の過 ぎるのを忘れるくらい書かれていることのなかに入り込んでいるかどうかとい うことです。人間の営みには楽しい、楽しくない、そのどちらでもないの3つ の感情のいずれかを伴います。できれば、読書も楽しいほうがよい。文字を目
で追っていて、楽しいと思うほうがよいに決まっています。「楽しい」とか、「楽 しむ」とかいう言葉は誤解を受け易いのですが、簡単にいえば感情や理性が十 分目覚めていて、ダイナミックに活動している状態です。死んでいる状態では なく快く生きている状態です。生きていると感ずるときが楽しいと感じるとき です。すべての人が生きているのですが、生きている感覚がないのが普通です。 毎日、生きていることがあまりにも当然過ぎて、生きていることを感じること ができないのがわれわれ人間です。そんな平凡な生を平凡でないものと感ずる 瞬間が楽しいと感ずるときです。文字を半眼で追いながら、そこから作り出さ れる映像を見て、自分が快く生きていると感ずることができれば、それが楽し いということです。楽しいということは快感であり、快感があればどのような 読み方をしていようが、それがその人にとって一番よい読み方であると言える のではないでしょうか。 10 そのほかのこと ここではこれまでに書かなかったことに簡単に触れておきます。項目を立て て述べるほどではないけれど、それでも一言触れておきたいような些事を順不 同で書いておきます。 語学的に考えない 語学的な基礎がないと確かな読みはできません。そのために、名詞、動詞、 複数、時制などたくさんある文法現象を身につけようと努めます。これは非常 に重要なことです。しかし、長い間このような訓練を続けていると、どんな英 語を見ても語学的な見方が支配的になります。英語の文章に反応するのではな く、英語の語学的現象に反応してしまいます。これは経験した人でないとわか らないことですが、英語学的なセンサーが敏感に働かないようにしようと思っ ていても、貴重な例が出てくると印をつけたくなります。たとえば、scads of などが出てくると、読み飛ばしてしまえばよいのに、lots of が想起されて、果 して2つの複数はまったく同じ意味合いなのだろうか、「多数」を意味する複 数はすべて同一の基準で分類できるのだろうか。こんなことが一瞬でも頭をよ ぎると、その時点で目の動きが止まり、リズムが狂ってきます。語学的な視点 に立って、論理的に詰めて英語を読む習慣はどうしても必要ですが、英語を 楽しんで読もうとするときには楽しく読むモードにスイッチを切り替えなけれ ばなりません。語学的訓練を長く積み、それが習慣化すると、語学の呪縛から 逃れられなくなります。これは避けがたいことですが、出きる限り語学の呪縛
から開放された状態で英語に触れてみましょう。そのためには自分自身が語学 をやっているというスタンスではなく、どこにも縛られないひとりの人間であ ることを思い起こすとよいでしょう。すべてとは言いませんが、ほとんどの人 が語学や文学や経済や政治などの呪縛に支配されて開放されることがありませ ん。そんなときはひとりの人間にすぎないことを噛み締めてみるとよいでしょ う。 時間 集中して英語を読む訓練をするのも有効です。数ページの短いものを選び、 時間を区切って読みます。時間を 15 分と設定して、その枠内で読みます。こ の読み方は時間が短いので、どんなジャンルのものでも毛嫌いすることなく読 めます。読書に垣根を感ずることなく、簡単に取り組めるメリットもあります。 時間は 30 分では長過ぎます。15 分か 20 分くらいがよいのではないでしょうか。 行末ターン 左か右に目で文字を追います。行末で次の行に移るときに目の動きにロスが 出ることがあります。正しく次の行に移ることは以外にむずかしく、同じ行に 目が移ったり、1 行飛ばしてしまったりします。すると、集中できなくなり、 リズムが狂います。とくに 1 行が長いときに、このようなことが起こります。 そういうときには目印として行の左端に指を置いておくのも有効です。流れる ようにターンするためには、行末で次の行の先頭にくる語を予測できている必 要があります。行末に限らず読書には予測が付き物で、これができてくれば、 目で追うだけでなく、目が引かれていきます。追う力と引く力が合わされば、 目の動きに快い楽しさが出てきます。 最初の 50 ページはゆっくり読む どんな本でも初対面ですぐに親しみを覚えることは少ないです。稀にですが、 読み始めた途端に、自分と同じ考え方、同じ感じ方だと思うことがあります。 というより、他人が書いた文章ではなく、自分で書いたものではないかと思う ほど似ている本に出合うこともあります。このような本は楽しいという感情と 楽しくないという感情が同時に起こります。しかし、このようなことはまず起 こりません。初対面の本を読むときには最初の 50 ページは相手の顔色をうか がいながら、ややゆっくり目に読みます。50 ページまで行かないものは相手 がよくないと判断して、すぐに別れましょう。50 ページまで行ければ、友達
になれますので、そのあとは勢いがついて、すいすいと進みます。経験的にい えば、500 ページの本も 100 ページごろまでは読んでいるという感覚がありま すが、そのあとの 400 ページはほとんど読んでいるという意識はなく、楽しん でいるという感覚のみが残ることが多いです。 読めないことを気にしない 本を読むと、その本が読めているかどうかが気になります。読書を楽しみと するためには読めているかどうかをいっさい気にしないようにしましょう。こ のようなことを気にすると、読めていない部分のほうがより気になります。読 めているところのほうがはるかに多いのに、読めていないことのみが意識化さ れます。よい部分に目をつむり、わるい部分のみを取り上げて自分を責めます。 これは非常に芳しくない傾向です。全部、読めるはずもないのですから、読め ないことを気にしても仕方ありません。読めるところだけを読めば、それでよ い。このくらいゆったりと構えます。楽しいはずの読書が難行苦行になっては 本も子もありません。小説などを読んでいるときに筋書きが途中からわからな くなることがあります。まったくあわてることはありません。わからなくても そのまま読み続けます。そうしているうちに、また本筋に戻ることが多いです。 厚い本を読む 厚い本に挑戦することをお勧めします。短いものばかり読んでいると、短さ に慣れてしまい、ページ数の多い厚い本を見ると、内容よりも分量の多さに圧 倒されてしまいます。初めのうちにこれを克服しておくと、あとは短いものば かりですから、気が楽です。ジャンルはなんでもよいですから、500 ページ以 上の本をいくつか読んでおきましょう。18 歳のときに翻訳でトルストイの「ア ンナ・カレーニナ」を読んだことが、英語を読む場合にも役立ちました。 ジャンル 1つのジャンルだけでなくいろいろなジャンルのものを読みましょう。好き なものだけを読むのも結構ですが、それだけですと脳の同じ箇所のみが刺激を 受けます。恐竜の身体構造、ダイエットに成功した人の話、家具の宣伝、熱帯 多雨林の話、天体の話、数学の問題集、等等、世間の評判に関係なく、自分の 倫理観を越えたようなものでもなんでも手当たり次第、読んでみるのもよいで す。脳が異なる刺激を受けます。身が軽くなるような経験もできます。いろい ろなジャンルのものを読むときには長いものは避けましょう。数学の英語本を
100 ページも読む根気もなければ、時間もありません。数ページずつで十分で す。短いから印象に残らないかというとそうではなく、短いから印象に残ると いうこともよくあります。それぞれが好き勝手にコピーしてきたものを5、6 人の仲間で回し読みするのも結構楽しいものです。 同じ作家のものを読む 同じ作家の書いたものを読みましょう。作家には、当然、癖がありますから、 読めば読むほどにその癖に慣れるので読みやすくなります。作家が設定して舞 台がアメリカ西部であるとするなら、この作家のものを読み続けることによっ て、英語に慣れるだけでなく、西部の風俗習慣や地形などにも通じてきます。 雰囲気や環境に慣れてきますので、既知情報の量が増し、緊張感が解けてきま す。そのためにくつろいだ気持で楽しく読むことができます。ゴールズワージ ーの書いたものをすべて読み、ゴールズワージーの研究家よりゴールズワージ ーを語れるのに、そのことをおくびにも出さない英語学者を知っていますが、 恰好いいと思いました。ディケンズの全集を全部読んだと吹聴する英文学者を 知っていますが、「ああ、そう?」という感じになりました。読書は楽しむも ので、吹聴するものではありません。静かにするものです。 後になってみないとわからない 一冊の本を読めば、理解できるところもあれば理解できないところもありま す。しかし、本当に理解できているかどうかは後になってみないとわかりませ ん。読めていないと思っていたことが、かなりの時をおいて読めていたと感ず ることもあります。読書は読書することそのものにも意義がありますが、読書 が人に与える影響がどんなものであったかも重要です。読んだものがすべて、 一旦、記憶から消えて、人の体のどこかに入り込み、その人の一部となって、 その人自身のものとなって、再び、外に出ていきます。有名な作家の有名な言 葉を引用して喋るのをよく聞きます。アリストテレスや、シェイクスピアや、 アインシュタインの言葉を引用して、何かを喋ります。純粋な引用であれば問 題はないのですが、隠れ蓑として使うのはよくありません。相手からなにか言 われないために、また、自分の知識の深さを吹聴するために、引用するのはよ くありません。これらの人の読書は保身のための読書なのです。保身のための 学習としての読書なのです。読んだものは本の著者、内容を含めて、すべてを 一旦忘れるのがよいと思います。忘れようと思ってもすぐに忘れられるもので はありません。忘れるためには時間が必要です。体に取り込まれて、刻まれて、
解けて、入用なものとそうでないものに分別されていく時間が必要です。これ らの過程は無意識の世界で起こっています。そして、やがて、自分のものとな って外へ出てくるものがあり、どこかに消えて再び姿を現わさないものもあり ます。食事と同じで、食べたものがどのように肉体の糧になっているかは意識 できません。でも、食べれば何かになっていることを感じます。エネルギーに なっているのを感じます。食事の場合には効果が現れる時間が比較的短いので すが、読書の場合には非常に長くなることが珍しくありません。読書をして、 その成果をすぐに求めるのではなく、読んだものをどんどん忘れていき、読書 の影響や効果が出てくるのをいつまでも待ちます。待つ気持ちを持たずに待っ ています。読んでいるときに楽しければよいのであり、見返りを求めてはいけ ません。文字を目で追い、リズムに乗って楽しめれば、それでよいのです。そ れで終りです。あれこれ言う必要もありません。読んだことがどういうことだ ったのかは後になってみないとわかりません。