通俗絵入 : 続妖怪百談
著者名(日)
井上 円了
雑誌名
井上円了選集
巻
19
ページ
183-306
発行年
2000-03-20
URL
http://id.nii.ac.jp/1060/00004711/
Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja不思議庵圭井上園了輯
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通俗絵入続妖怪百談
1.サイズ(タテ×ヨコ) 184×127mm 2.ページ 総数:189 目録: 9 本文:180 3,刊行年月日 底本:初版 明治33年4月14日 再版以下略(版次については 「その他」の項を参照) 4.句読点 なし。総ルビ 5.その他 (1版について:初版ののち,毎 年2回ほども版を重ね,明治39 年11月15日には第12版(発行所 は哲学書院から田中菊雄・瀬山 順成堂にすでに変更になってい 蝋 る)が発行された。さらに大正 3年5月28日に岡村書店より改 版初版が発行され,大正6年12 月28日に第4版が発行された。 以上が確認できた発行状況であ る。 績妖怪麓擬 糊ご鰺 ベカ ぶ 不懸議⋮巌⋮霊 弁 上 圓⋮、丁紐︹鰐 搬籔訟。幕て劔灘数瑚で蹴那を鍵鰹賑記搬して娠麟︵驚撤Cん忘声窟惚 百灘五雛び克づレ篭絃忙噺簸の懲管ボぴ客くずに識ら蟹艇妄て娘儂酊 憾〆灘麟函蕎レて一吻挺≡若輸ぴ遮㌍撚で百限オなる獄を麟Lて雛罐壌﹃ 驚定鍵ぶ斑輻巻庖管搬に零叉難ρみ縦江轡し聯枇麩じて識竈管嚢じ携ぽ 繋議ぬ灘班畠“墓欝W轟詰轟せR当嚢 竪融霧の欝 ず鵜籔波熊ぶる㎜批ぜ越㌣殼●嘉慕鷲鍛麟の鋤灘法鶴舷ぜま聯一苦禽の鰍翻に 欝潟論璽欝嚢灘の贈鋸籍奮賠窪絹雛灘描霧の 戯にして桔ピ鰹る己宮肱ポ汀繋鍵学の磁購駕搭せo鵡艇鵜は離庭の離麟鱗鯉 (巻頭) 賛 行 溌. 哲 拳 書 院 驚京痢議坊舷漆烏穴丁目五鯵抱 柄繭田十ヨ鍛’鶴月十一9塚鋼 崩拍怠 。 ㍗巡 樽篇翼
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(2)書名について:何版からかは不 明であるが,『通俗絵入 妖怪談』 と書名が変更された。ただし,本 文は大正6年版のものまで全く変 更はなく,目録題・内題・尾題が 「妖怪談」に変わっているだけで ある。(版によっては目録題だけ 変えて,あとは初版のままのもの もある)本集では最初の書名を生 かすため初版を底本とした。 (3)表紙について:表紙の幽霊図は 初版と「妖怪談』に変更後とでは 構図はよく似ているが別図であ り,大正の改版からはそれが削除 され,かわりに口絵一葉が添付さ れた。また,本文の上に頁ごとに 細長のカットが置かれた。 6.発行所 哲学書院︹序 言︺ ぎかい しんかい 編者いう、﹁余、かつて妄雲を払って真月を見、偽怪を排して真怪をあらわさんと欲し、﹃妖怪百談﹄を編 述したりしも、いまだ民間の偽怪を払い尽くすに至らず。ここにおいて、さらに偽怪の種類を収集して、い ちいちその妄を弁じ、ようやく積んで百談となる。これを題して﹃続妖怪百談﹄という。これ、﹁真怪百談﹂ かいてい に達する階梯のみ。ゆえに、もし識者をしてこれを読ましめば、必ずその説の通俗卑近に過ぐるを笑わん も、余があえて辞せざるところなり﹂ 続妖怪百談 183
続妖怪百談
184 第一談霊夢の感応 古来、世に伝うる霊夢はなはだ多きも、余、いまだ真正の霊夢を発見せず。ただ、一事実の霊夢に近きものを あ き 得たり。これ、木原松桂氏の一代紀行なり。同氏は安芸国賀茂郡竹原村の産にして、今をさることおよそ百年 てんまつ 前、霊夢の感応に接せり。その顛末は同氏の自ら筆記せる紀行中に出ず。余、これを友人に借りて一読し、その 実に希代の不思議なるを感じ、これを複写して今なお秘蔵す。左にその要点を摘載すべし。 ヘ ヘ へ つちのとい わが母上の御名はおさな。わが家に嫁したまいて四男一女を生みたまう。安永八己亥、わが四歳のとき 御里へ帰りたまいて、再びわが家に帰りたまわず。われ十四、五歳に至りて、母上追慕の心いよいよ増さり て、御跡をたずね得んことを心に誓いけれども、家貧にして他行なりがたし。よって医とならんと思えり。 これ、諸国を周遊するに便なればなり。寛政五年、われ十八歳のとき医師の弟子となりぬ。享和二年、われ あ わ 年二十七歳、春正月、母のために周遊せんことを師父に請い、許しを得て出立す。その年十月十六日、阿波 さぬきこんび ら の国西林村という所に至り、夢中に母上を見奉る。円頭黒衣の姿なり。同三年正月三日、讃岐金毘羅にて、 母上わが家に帰ると夢む。四月六日、高松領歌野郡器土村に宿す。未明に、だれとも知らず母上を伴いきた ると夢む。この行、父上の病のため志を遂げずして家に帰る。文化元年三月、夜夢に、海辺にて長き松原の 続きたる波打ち際、白雪のごとき砂原にて、黒衣を着たる女僧五、六人連れにて、松原の中、ほりくぼみた続妖怪百談 る砂道あるを通り、向かいに禅院ありてその方へ急ぎゆきける。その中に、母上の御顔に見違うかたなき女 レら 僧あり。ただちに近寄りことばを掛けんとせしに、疾く走りてついにその影を失うと覚えて夢さめぬ。同三 年四月二十七日早天、一宇の禅院より母上の白骨を得てわが家に持ち帰ると夢む。同七年三月、夜夢に、前 れんい のごとく海辺長き松原続きたる砂原に、漣流︹さざなみ︺の打ち寄する気色の美なるをながむる所に、墨染め こつぜん なんじ の衣着たる女僧一人忽然と現出し、われに向かい、﹁汝が母なり﹂といいて禅院に至る。松崎の中、その影 を失うと見て夢はさめぬ。同八年正月二十九日早天、しきりに眠りを催す。夢に、かの広き海浜の雪のごと き砂原に、小松の列生したる所に至る。北と覚ゆる方は海にて景色よし。はるかに南をながむれば、その間 はとう とつこつ かた 数里にして、連山波濤のごとく東西に走る。中に一山、突兀として削り成せるごとき高峰あり。その左の方 かひよう ほうトつ に神社ありて、華表︹鳥居︺も見ゆ。はなはだ勝景なり。これをながむるうちに、母上に彷彿たる女僧染衣 を着し、われを顧み、かの高峰を指さし、﹁あの山こそ安芸の﹂というに、たちまちその影を失いければ、 すなわち夢さめぬ。文化十一年の三月、夢に、かの海辺並木のまばらなる、白雪のごとき砂浜を溝のごとく 掘りたる道を、女僧五、六人打ち連れ、松間に見ゆる禅院の方へ急ぎ走れり。その中に、またわが母上に彷 彿たる一僧あり。早くその道を追いて言わんとせしに、ついにその姿を見失う。 文政九年四月二十二日、暁の夢に、母上に逢い、﹁ウジミ坂﹂とただ一言仰せられたるように覚え、これ さい よりウジミ坂という所はなきやと諸人に問えども、知れる者なし。文政四年ふと思い出だせしは、昔、﹃西 ゆうき うずも 遊記﹄といえる書を読みし中に、薩摩潟に吹上の浜といえる所あり。その歌に、﹁吹上の浜は真砂に埋れて 85 おいき ユ 老木ながらも小松原かな﹂とあり。われ、これをつらつら考うるに、老木をうずむるほどの砂のありける土
地、いまだ聞き及ばず。わがこれまでの夢、いつもかわらぬ海辺、幾里ともはかられぬ長き小松原なり。よ 86 って今思うに、かの吹上の浜こそわが見し夢によく符合せり。いそぎ薩摩に至らんとしきりに思い立ちけ ー る。とかくするうち、今年もすでに霜月に至りぬれど、いまだその日を得ず。この月八日夜、九州行きの路 費、かつ留守中のことなど、また来し方母上の御事思い続け、暁鐘を報ずるまで寝につかざりしが、にわか もうろう れんい に心神朦朧として覚えず仮寝す。夢に、かの海浜に至りぬ。折から微風吹きそよぎて漣潴︹さざなみ︺、浜の よな 砂を淘げる。その前真向こうに見ゆる孤島ありて、島中みな平地にして松樹生い茂れり。光景極めて美な こつぜん なんじ り。これをながむるうち忽然と染衣の女僧きたり、﹁われは汝の母なり﹂と、わが手を取りて小児のごとく ていきゆう 背をなで、﹁汝、積年われを慕う心のうれしや﹂と涕泣したまう。あまりのうれしさに、しばしは言葉も出 でざりしがふと心づき、﹁今、母上のおわする所をばなんと申すそ﹂と問い参らすれば、﹁ヨナゴなり﹂と答 えたまう。また、﹁いかなる人の所におわするぞ﹂と問えば、﹁ヨネタヤモキチ﹂とのたまううちに、門前の 馬の鈴音、人の放歌の声に夢はさめぬ。 このとき、わが故郷の兄上、幸四郎といえるもわが家に来たりいませり。夜明けてこの夢を語る。朝飯を こつしや いず 喫するとき、門前にたまたま老人の乞者あり。内に呼び入れ食を与えて後、﹁何国の者﹂と問うに、﹁作州津 いつくしま 山の者なるが、今は回国の身となり、このたび厳島へ参らんと思いて来たれり。子供も多く田畑も持ちて、 ほうき 若きときは小間物商いして伯者の米子へ通いしこともありし﹂と語る。われこれを聞き、夜前の夢の虚実を 試みんと、﹁米子はいかなる所ぞ、宿はなんといいしそ﹂と問いければ、﹁片原町木屋仁左衛門と申して、前 は船着き松原あり、後ろも同じく松多くして風景よき所﹂という。われまた試みに偽り問いて、﹁われも先
続妖怪百談
年米子に遊びしことあり。米田屋茂吉という者ありて、この家にもと竹原生まれの婦人、かかり人となりて 88 おれり。これを知らずや﹂と問うに、﹁その人は知らざれども、その米田屋という家は知れり﹂という。よ ー しよう ってその地の風景、全く夢中に見たる所と異ならざるを聞き、これ必ず神霊のわが宿志を果たさしむる祥 ちよう 兆なりと思い、九州行きをやめ急ぎ伯州に赴かんとす。されどこのころは、備雲の間雪深くして二丈余も はつてい 積もることを聞き、春暖雪尽くるを限り発程せんと支度しぬ。 文政五年春に至りて、図らざりきわが身、病にかかりて急に発程することを得ず。八月の末に至り、わが かご ついたち 足痛すこしく減ぜしかば、われは嬌に乗り上下四人、九月朔日に発程す。米子に到着後、両三日ありて足痛 癒えければ、かの米田屋茂吉なるもの同所岩倉町にありと聞き、その家に至り聞き合わするに、主人夫婦壮 年の者にて、﹁古きことは一円知らず、近年旅人の寓居せることなし﹂という。これより米田屋と家号せる ものあれば、すなわちゆきてこれを問う。みな、﹁さることなし﹂という。米子の近郷はもちろん、南は雲 いなぱ 州、東は因幡街道までわれ自らゆきてさぐり、その間にはこのはなしを聞き、﹁志ある者、似寄りたること わたり 聞き出だせば告げきたりしが、みなわが母上にてはなかりき。伯州と雲州との国境は会見郡渡村といえり。 この渡を経て雲州縫浦に至る。米子より縫浦まで七里あり。この渡の船人市蔵という者その話を聞き、手を うって、﹁さても不思議のことなるかな。その婦人は当村にて死しけるが、今もその家存せり。この村にて 夫もありて子も男女あり﹂とて、生涯のことどもはなしける。よって明日、われ渡村へ行き宿を定めぬ。さ て、人あまた集まりてその見聞せることを語りけり。中にその所生の子も来たりおれり。その人、母の故郷 にありしときのことども、聞き覚えて語りけるをわれつらつら聞くに、全くわが母上の御事に疑いなし。さ
続妖怪百談 れども、なおもくわしく聞かんとせしが、夜すでに鶏鳴に至りければ、衆みな辞し帰れり。われも打ちふし ぬれど、まどろみもせず。 こよい 今宵この里人の物語を聞き、いとど来し方のなつかしく思い続けて、しののめ近くなりけり。たちまち一 睡するうち、夢に以前のごとき白砂の海浜、松樹列生せる所に至り風景を見るうち、黒衣の女僧きたるを見 めし れば母上にていませり。近よりてよくよく見るに、前の夢にかわり昔にあらぬ御事は、両眼ともに盲いたま いけるに、いと悲しくて御手を取り、﹁情なき御ありさま﹂と申しければ、わが手をしかととりたまい、な ていきゆう んの言もなく深く涕泣したまいぬ。このときわれいいけるは、﹁これまでいくたびもこの海浜にて行き逢い こし 参らすれど、はかなき夢にてついに御姿を見失いぬ。今はもはや放しまいらせじ。ただちにこの輿にめした まえ﹂と、われ米子にて乗りきたりし輿に乗せ、ただちに高野山の北なる雲州領の番所の前を通り、ここよ り南なる一人通りの細道、篠笹原の坂路を急がせ帰る折から、思いがけなき篠原おしわけてあらわれ出ずる ものあり。ふりかえり見るうちに、宿の主人﹁朝飯たべよ﹂と起こすに夢はさめぬ。朝飯終われば渡村の 人々また来たりて、かの生前のことを語るを聞くに、これ真の母上にてあるべしとは知りぬ。異父弟長七い う、﹁われ八歳のとき父源兵衛、汝に母の故郷を教えおかんとて、われを召し連れ御国もとへ至らんと、高 さみだれ の山のあなたまで参りしに、折節五月雨降り続いて行路はなはだ難儀に、その上、少し痛みはじまりて、つ いに御国へは至らずして帰りき﹂と。 いはい また、ここに一つの奇事あり。今年七月十四日、母の位牌に華の木三本花瓶に挿してそなえしに、生気盛 89 1 んにして花瓶の中にて新芽を出だし、枝葉繁茂し、はじめの下葉は枯落して、新葉盛んに生じけるゆえ、悪
続妖怪百談 あと いらく 事か善事のあるならんと近隣の者も見に来たり、少しも水を加えざるに、後の枝葉萎落し、また新芽を出だ し、日を追って枝葉繁茂すること、また前のごとし。後には瓶中水尽きぬれど、その木はもとの色なりと、 誠に奇談というべし。かくて、衆人の言えるところ誠に母上の御事と符合し、かつ、われたびたび見し夢中 の地形、この渡村より弓の浜の景色に違うことなければ、これ必ず母上の御事にてあるべしと決しぬ。 ぽだい ここにおいて、菩提寺の大祥寺に参り和尚白元に逢う。御墓は大祥寺門より一町半ばかり東、米子より出 雲松江の往来渡り口の道の北側にあり。明日、異父弟長七の家に至り御位牌を拝す。さて、御位牌に供えし 花の木を見れば、長七が言のごとく、瓶中に挿しながら生気盛んにして仏壇の天井に達す。しかれども、な おうしようげん おその真偽を試みんと欲し、たまたま唐の王少玄が事跡を思い出だし、血を死体にそそぎてもってわが疑 いを解かんと、このことを長七に説きければ、しかりとせり。よって長七を伴い寺に至り議しけるに、和尚 しんしつ 許諾し、﹁速やかに試みられよ﹂といえり。われ、ここにおいてまた考うるに、万一他人の骨にても滲湿し て透徹することあらば、このことまた益なし。古人よく自他の骨を試みしやいなやは知るべからずと思い て、これより米子に至り、官に訴えて刑人の枯骨を請い受け、わが血をそそぎ試み、もしこれに浸透すると きは、これまたやむにしかずと約して宿に帰りぬ。渡村の人、わが宿に来たり語りけるは、﹁ここは当春、 畑の底を掘ることありしに、たまたま全体そろいたる枯骨あり。これを大祥寺の墓地に埋めたり﹂と。わ れ、これを聞き幸いなりと思い、即時に寺へ行き墓に至り、事すまば供養して参らすべしといいて掘り出だ ろこつ し、願骨を寺へ持ち来たり、これを洗い、少時ありてわが右手を刺しけるに、おびただしく血出でぬ。ただ せんでき ちにかの願骨に受けること暫時、その骨上の血の乾くを待ちて洗糠し去れば、もとの白骨となりぬ。ここに 191
せんしん えこう おいて、他人の骨には染滲することなきを知れり。かの古骨はもとのごとくうずめ、回向を寺へ頼みて帰り しんとう ぬ。かくて、衆人と母上の墓所に至り拝礼して、﹁ただいま御墓所を掘り、わが血を御遺骨にそそぎ滲透せ かんぜい ざるときは、わが母上にてはあらざるべし﹂といいて御墓を掘らせけるに、この地もとより乾脆の粉砂なれ そんがい たいはい ば、ついに尊骸を掘り出だしぬ。謹んで拝し奉るに、全身の御骨そのまま存して頽敗せず、御顔と御胸板と まぶた には肉も存せり。ことに御両眼閉じたまいて、上下瞼胞の肉もありて、睡眠したまうごとくなり。御歯二枚 出でて、われ五歳のとき見奉りしごとくにて、両の御手は膝にもたれぬ。いずれの御骨にかそそがんと、右 ひこつ の御手をなでけるに、御腎骨たちまちわが手に落つ。これを清水にて洗いて後、わが左手を刺せば血またお びただしく出ず。ただちに御骨にそそぎければ、みなあけになりたり。また、新水をもって御骨の血を洗い 落とすに従い、赤雲の浮動するごとく浮き出で浮き出で、ただ一面の紅色となれり。われここにおいて、同 たが 血分身の理違うことなきを知れり。なお目を放たずこれを見るに、紅色の一辺のそのうちをきって、また一 条の白線色をひけり。その色しばらく変わらざりければ、御腎骨もとのごとく続き合わせ、御尊体をもとの ごとく埋葬し奉り、ただちに母上なること明白にして、積年の志願遂ぐることを得、うれしくもまたありが たく、落涙することを覚えざりき。この場に来たれる人々、御両眼の肉脱落せず閉じて眠りたまえるごと エこつ く、御胸板もまた痩のあるのみにして、御存生のごとくなるを見て、われこの村に来たるはじめの夜、盲目 となりたまいたる夢と、今日御遺骸のありさまと符合せるを奇異のことなりとせり。ここより、わが主従と しようせき 長七と海浜にそいて長七が家に至る。右の道筋は、みな母上の往来したまいぬる蹴跡なり。 わたり だいこんじま 渡村の南を望むに、この村と雲州領大根島の間、もと十町ばかりありける由。今は両国ともに新田を築 192
続妖怪百談 き出だし、その間わずかに一、二町ばかりに見ゆ。大根島は平地にて松樹列生し、はなはだ佳景なり。な お、この米子より四里ばかりの行程平地にして、田畑のほかみな白雲のごとき粉砂にして、わずかなる小石 もなし。この地、われたびたび夢に見し絶景に変わらず。また、米子より東浜口へ二里ばかりもあらんか。 よどぐち はだし 渡村より淀口までは六、七里の行程かの白砂にして、諸人跣足にて歩むこと自由なり。他国にはまたまれな はとう るべし。ここより御国領高野山ならびにカノウ峠を眺望すれば、山形波濤のごとく見ゆ。この地に至り見れ あ き ば、前年夢中に母上の﹁あれこそ安芸の山なり﹂と指したまいしは、このカノウ峠のことなりけん。今、そ ついたち の実なることを知れり。文政五年九月朔日発程して、同霜月十日、ついに積年の志願を遂げて家に帰りぬ。 以上は木原松桂氏が紀行の要略なり。氏がはじめてその母を夢にみしより、二十一年目にしてその目的を達せ れいむ り。これ実に奇夢中の奇夢、霊夢中の霊夢というべし。世に夢の符合せるもの多しといえども、いまだかくのご とき奇合あるを知らず。しかるに余は、なおこれをもって霊夢となすに足らずと考うるなり。まず、その符合せ ざる点を挙ぐれば、第一に、夢中にみしところは染衣の女僧なりしも、実際はその母決して女僧となりしにあら ず。これ、あに符合というを得んや。第二に、夢中に聞きし場所はヨナゴなりしも、実際その地は米子にてはあ らざりき。たといその近傍なりとするも、いまだもって符合というべからず。第三に、夢中に聞きしところは米 田屋茂吉なりしも、実際母の寄留せし家は全くこれに異なれり。その家の名は前に略せしも源兵衛と称せし由。 ゆえに、これまた符合せざること明らかなり。しかして、夢中に見し風景が符合せりというも、海岸の風景はい ずれの国にても大抵似たるものにして、砂原に松樹の列立せるがごときは、いずれの海浜にも見ることなれば、 93 うん ユ あえて奇とするに足らず。ただ不思議とすべきは、その母の住せし地は四国あるいは九州ならんと思いしに、雲
まく ぐうこう 伯地方なることを夢中によりて得たるの一事のみ。かくのごときは、予がいわゆる偶合に帰するも不可なること なし。その米子に米田屋茂吉と名つくる家ありしがごときは、かつて人の談話中に聞き、もしくは書籍中に見た るもの、無意識的観念となりて記憶中に存せしと解して可なり。また、同じき夢を数回続きて見たるがごとき は、その母を思うの一念によりてよび起こしたるものにして、かくのごときは吾人平常経験せることなれば、も とより異とするに足らず。その墓前に供えし樹木の繁茂したるがごとき、死体の朽ちざりしがごときは、夢と関 係なきことなれば、あえて奇とするまでにあらず。かつ、その死体が果たしてその母の死体なりやいなやは、余 大いに疑いなきにあらざれど、こは世人の判定に譲りてここに論ぜざるも、そのことたる、なおいまだ霊夢とす るに足らざるは明らかなり。けだし、世に霊夢中の霊夢として数十年来伝わりしものすら、なおかくのごとし。 いわんやその他をや。 194 第二談 夢の統計 世間たまたま夢と事実との暗合するあれば、たちまちその不思議を鳴らして、これを精神の感応もしくは神人 の感通に帰す。余案ずるに、人々毎夜多少の夢を見ざるはなし。そのうちには偶然事実と暗合するものあるべき は自然の数なり。今、日本一国につきて考うるに、国民の数を四千万とし、毎夜平均一回ずつ夢を結ぶと想像す るに、一力年の夢の総数は、 ︽POOP80×ω①朝11﹂三〇〇POOPO8 すなわち、百四十六億の多きに達すべし。もし、毎夜夢を結ばずとするも、九日、十日の間には必ず一、二回
の夢を結ぶは明らかなり。もし、十日一夢の割合をもって算すれば、一力年の総数十四億六千万となるべし。し かして、世間のいわゆる霊夢は一年中にいくたありや。仮に毎年十回ありとするも、総数の一億四千六百万分の 一に過ぎざるなり。かく推算しきたらば、世の霊夢はいまだ霊夢とするに足らざるを知るに至らん。 続妖怪百談 第三談 占夢の力 あんししゆんじゆう せい けいこう ﹃曇子春秋﹄に、斉の景公の病を占夢者の言をもって療せし一話を掲ぐ。これ、精神作用の治病に効ある一 端を知るに足る。よって、左にこれを録す。 ふ 景公、水を病みて臥すること十数日。夜夢に、二日と闘いて勝たざるを見る。曇子、朝に登る。公曰く、 ﹁昨夕、夢に二日と闘いて寡人勝たず。われ、それ死せんか﹂と。曇子こたえて曰く、﹁請う、夢を占うも のを召さん﹂と。閨を出でて、人をして車をもって占夢者を迎えしむ。占者至る。曰く、﹁なんすれぞ、召 さる﹂と。嬰子曰く、﹁昨夜、公、夢に二日と闘いて勝たざるを見る。公いえらく、﹃寡人死せんか﹄と。ゆ えに、君に請いて夢を占わしむ﹂と。かつ曇子、占者に教えて曰く、﹁公の病むところのものは陰なり、日 は陽なり。一陰二陽に勝たず。ゆえに病まさに癒えんとす。これをもってこたえよ﹂と。占者入る。公曰 く、﹁寡人、夢に二日と闘いて勝たざるを見る。寡人死せんか﹂と。占者こたえて曰く、﹁公の病むところは 陰なり、日は陽なり。一陰二陽に勝たず。公の病まさに癒えんとす﹂と。おること三日、公の病大いに癒 ゆ。公、よって金を占夢者に賜う。占者曰く、﹁臣の力にあらず、曇子の臣に教うるところなり﹂と。公、 95 1 曇子を召してこれに賜う。曇子曰く、﹁占夢者、占の言をもってこたう。ゆえに益あり。もし臣をしてこれ
を言わしむれば、すなわち信ぜず。これ占夢の力なり。臣、効なし﹂と。公、ふたつながらこれに賜いて日 96 く、﹁曇子は人の効を奪わざるをもってこれを賞し、占夢者は人の能をおおわざるをもってこれを賞す﹂と。 1 これ、余が心理療法の必要を唱うるゆえんなり。 第四談 海鯛の頭も信心から ことわざぐさ いわし ふうそくつう 貝原︹好古︺の﹃諺草﹄に、﹁海鯛の頭も信心から﹂といえる諺を解するに、﹃風俗通﹄の一話を引きて説明せ り。その原文を和訳すること左のごとし。 じよなんちゆうよう きん 汝南鯛陽に、田において磨を得るものあり。その主いまだゆきて取らざるなり。商車十余乗、沢中を経 ほうぎよ て行く行く望むに、この磨の縄につくを見る。よって持ち去りてその不事なるをおもい、一飽魚を持してそ の所に置く。しばらくありてその主ゆきて、得るところの磨を見ず、ただ飽魚を見る。沢中は人の道路にあ らずして、そのかくのごときを怪しみ、大いにもって神となす。転々相告語して、病を治し福を求むるに、 ししや しゆうふ いちようしようこ とう 多く効験ありという。よって、ために祀社を起こす。衆巫数十、帷帳鐘鼓、方数百里、みなきたりて薦 し ほうくん 祀し、号して飽君の神となす。その後数年、鮒魚の主きたりて祀の下をへて、そのゆえを尋問して曰く、 こぼ ﹁これわが魚なり。まさになんの神あるべき﹂と。堂にのぼりてこれを取り、ついにこれを壊つ。伝に日 ほしうお く、﹁物の集まる所、ここに神ありというは、ともにこれを奨成するのみ﹂と。右の意は、醗魚を神なりと いわし 信仰して、病を治し福を得しとなり。﹁鰯の頭も信心から﹂というも、これと同意なり。 と記せり。これによりてこれをみるに、精神作用の治病に効験あるは、決して疑うべからず。
第五談 幽霊をきる りんしようめいだん ﹃森宵茗談﹄に、ある僧が幽霊をきりたる話を掲ぐ。 らくよう 去るころ洛陽にありしとき、ある人の語りしは、﹁いにしえ、西の京辺りに真言宗の寺ありしが、この住 僧もとより顕密の奥義を究め、ことに九字護身の行法に達せられけるが、ある年の夏、昼の間は極暑の時分 なればとて夜学を勤められ、広き書院の戸障子をあけて、宵より夜いたく更くるまで勤学しておられしに、 夜も深更に及んであまりに心気疲れしかば、しばらく休らいて庭の方を仰ぎて見られけるに、折しも宵月夜 のこうなれば、月も入りて暗かりけるが、縁の端にだれとも知らず、白き物を着たる人立ちいたりければ、 この僧これを見るより怪しくも怖くも思われければ、白装束なるもの少し動きて歩み行くようにも見えしか ば、ハッと思いてそのまま口伝の九字を唱えて九重にきりかけられしかば、かの白装束の人もそのまま倒れ て失いたり。さてはと思いて、それより勤学をもやめて寝られけるが、さて夜明けて昨夜の縁に出でて見れ ゆかた ば、湯衣を九つにきりて落としおきたり。これは昼のうち行水して湯衣を竿に掛けてほしおきたるを、夜更 けて風に当たるを見て怖しと思う遍計の妄情より、たちまち動き歩むように見えたるなり。 これ、石を見て虎と誤り、縄を見て蛇と認むるの類にして、われわれの幻覚より生ずる幽霊の一例なり。 続妖怪百談 第六談 心の鬼、自ら心を悩ます りんしようめいだん また同書︹﹃森宵茗談﹄︺に、幽霊の妄覚をいやしたるおもしろき話あり。 左に抜記す。 これ、余が心理療法の好材料なれば、 97 1
続妖怪百談 いにしえ、梅津の里辺りの百姓の妻、あるとき産の上にて命終わりしかば、︹夫は︺嘆きの上にもひとし ふびん とむら お、産の上にて死したることを悲しみて、後の世のことまでも不懲︹便︺に思いやりて、寺に送り葬いして ふ 後も、過ぎ去りし妻がことのみ、とやかくとかねて言いしことなど、夜臥してもつやつや寝もやられず、来 かんかん し方行く末をおもいやりて、魚目鰍鰹として目も合わせずしてありけるが、折しも夏のころなりしが、蚊帳 の外へ死したる女房来たりて、しおしおとしていたりしゆえ、夫これを見ておそれて、いよいよ寝もやられ ず、息をもせずしていたりけるが、明け方になりて、かの亡妻出でて行きけり。それよりは毎夜来たりては 明け方に帰りければ、夫は怖さたえ難く夜の目も寝ざれば、色青く痩せ衰え、心気疲れてただうかうかとな れり。一族ども笑止に思いて、﹁なんと気色にてもあしきにや、とにかく顔色も衰えたれば、薬にても用い たまえかし﹂といえば、﹁いや、別に気色もかわることなし﹂とて子細をも言わずしてありしが、毎夜亡妻 来たるゆえなんとも怖く、日暮れになれば、はや来たらんかと苦になりければ、次第に気も衰えけるまま、 ぼだい なんともすべきようもなくて、菩提寺へ行きてひそかに和尚に対面して、はじめよりの様子を語りて、﹁そ ふびん そうろう れがし、亡妻がことを不慾︹便︺に存じて、朝暮絶えずおもいやり候ところに、ある夜より亡妻来たりて蚊 ニこつら 帳の外にいて、明け方まで帰り申さず。毎夜のことにて候えば、おそろしさのあまりなかなかうるさく、 しようすい 日暮るればまた来たらんことの苦になりて、思わず心気衰え疲れて、かように顔色憔悼いたし候。定めて 悪趣にもや迷い候わんまま、和尚の御慈悲にて亡者の迷いを転じて、再び来たらざるようになしてたまわり 候え﹂と、涙とともに始終を語りければ、この趣を和尚とくと聞きて、﹁なるほど、亡者の迷いを転じて再 99 いりまめ なんじ ユ び来たらざるようにして得さすべし﹂とて、かたわらの菓子盆にありし煎豆をつかんでこの男に与え、﹁汝
ふ たなごころ が手のうちにしかと握りて開くことなかれ。今夜臥しても、しかと掌に握りて臥すべし。さて、亡妻来 たらばおそれずして、この握りたる手を出だして、亡妻に﹃これはなんぞ﹄と問うべし。そのとき、亡妻定 めて﹃煎豆なり﹄と答うべし。また、﹃数はなにほどありや﹄と問うべし。そのとき、亡妻定めて答うこと あるべからずして去るべし﹂と教えられければ、この男、なんとも心得ずとは思いけれども、和尚の教えな れば、かの煎豆を握って宿に帰り、さて夜に入りてもしかと握りつめて臥しけるが、案のごとく亥の刻過ぐ るころと思うとき、また亡妻来たりていつものごとく蚊帳のかたわらにおりければ、この男おそろしくは思 うけれども、握りたる手を出だして、﹁これはなんぞ﹂と問いければ、亡妻案のごとく﹁煎豆なり﹂と答う。 また、﹁数はなにほどありや﹂と問いければ、亡妻答うことなくして立ち去りて見えず。それより明夜も来 たらず、なにごとなく五七︹三十五︺日になれども来たることなし。 この男、不思議に思いて、また寺へ行きて和尚に対面して始終を語り、﹁さてさておかげゆえ、亡妻この そうら そうろう 間は来たらず、心安く寝候いて、少し心地も快くなりて、ありがたく存じ候なり﹂と数々御礼をいいて、 ﹁さて、いかようのことなれば、煎豆にて亡妻の幽霊再び来たらず候やとて、ものごとに子細を仰せ聞かせ られたまわりたし﹂と申し候えば、和尚笑いて、﹁なるほど、これにて今よりは再び来たるまじ。別にほか の子細とてはなし。それはみな、はじめより汝が心より起こる迷いなり。全く亡妻の来たるにあらず。はじ ふびん め汝、亡妻がことを明け暮れ心のうちに思いて不懲︹便︺に存じ、後世は定めて迷いぬらんと、よしなきこと を案じける心の鬼が亡妻となりて、毎夜来たりしなり。この亡妻と思いしは全く汝が迷いの心なり。それゆ えにわれ、これを考えて煎豆を汝に握らせて亡妻に問わせければ、もとより汝が心に煎豆と知るゆえ、亡妻 200
もまた煎豆なりと答う。数を問わせければ、もと汝が心にも数を知らぬゆえ、また亡妻も答うることなし。 これ、汝が心に心を問わせたるなり。あさましき愚夫の妄情より、心の鬼に心を悩ませるなり。今よりは再 び来たるまじ﹂と教訓せられければ、この男も得心して涙をながし和尚に礼して帰りけるが、それより再び りようけん 来たることなし。誠に至極せる和尚の当意即妙なる了簡なり。 な す その他、いにしえの話に、茄子を踏みつぶして蛙かと疑いければ、そののち多くの蛙きたりて己を苦しめたる を見しも、この例に同じ。古人曰く、﹁妖由レ人興﹂︵妖は人によりて興る︶と。余曰く、﹁妖由レ心興﹂︵妖は心に よりて興る︶と。 続妖怪百談 第七談 疑心病を生ず ことわざ かいようこ じだん ほく 諺に﹁疑心暗鬼を生ず﹂というがごとく、疑心病を生ずることあり。その例は﹃怪妖故事談﹄に出ず。﹃北 むさげん やまい 夢墳言﹄には、﹁一婦人、誤りて小虫を食す。爾来これを疑いて疾を発す。名医、その病の疑心より生じたるを としゃ が ま 知り、ことさらに薬を与えて吐潟せしめ、看病婦に教えて、吐潟物の中に一小蝦墓ありて飛び出でたりと言わし めい いるいあん めければ、病者これを聞きて安心し、病とみに癒えたり﹂という。また﹃名医類案﹄に、﹁人あり、姻家に招か れて大酔し、夜半酒渇にたえず、石槽にたくわうるところの水を傾く。翌朝これを見れば、槽中の残水に小紅虫 うつうつ そぶつ ごきゆう 充満す。爾来、欝々として楽しまず。腹中常に蛆物あるがごとく覚え、ついに病を発す。名医呉球と名つくる もの、この病は疑心より生じたるを知り、紅色の結線、その状小虫のごときものを取り、これを薬品に加えて数 01 十丸となし、もって病人をして暗室中にありて服せしめ、しばらくありて盆中に水を入れてこの内に激瞳.せし 2
うじ むるに、薬中の結線あたかも蛆のごとし。 う。 以上はみな疑心より生じたる病なれば、 足れりとす。 病人をしてこれを見せしめたれば、その病たちどころに全治せりとい これを医するの法も、ただその疑いを解くべき処方を用いるをもって 202 第八談 陰陽家は鬼のために嫉まる おんみよう 世に陰陽を判ずるもの、およびこれを信ずるもの、多くは貧窮にして、その家災害多し。これ、なにをもっ がんしかくん ねた てしかるや。﹃顔氏家訓﹄には、﹁陰陽を解する者は鬼のために嫉まれ、貧窮の者多し。近古以来、その術に精妙 けいぼう かんう かくはく なる者は、ただ京房、管轄、郭撲のみ。しかしてみな官位なく、その多くは災いにかかれり﹂という︵以上 ことわざぐさ ﹃諺草﹄︶。果たしてしからば、陰陽家は鬼のために嫉まるるか。笑うべきの至りなり。 第九談 家造心得 家相、方位は付会の妄談なることは、余ひとりこれを唱うるにあらず、古今の随筆中にもこれを非とするもの いちごんしゆう すくなからず。今その一例として、﹃一言集﹄の一節を抜記すべし。 家居を造るはたやすからざることゆえ、はじめによく考えあるべし。まず建地を設くるとき、南東をひら き、また北を少し開けて、夏目のしのぎをいたし、空地もあらば、追って建て足しのできるようなる設けも あるべし。もっとも、丈夫をおもにし飾りをはぶき、分限よりは手軽なるがよし。後年、修補のためにも利
ふすまど あり。また、壁の腰張り、襖戸、障子、畳などは、いつにても取り替えのなるものゆえ、ずいぶん手軽に しておくべし。また、世間に家相を正すといいて、ここかしこ禁戒を定め、これに習えば勝手便利の間取 り、屋根の水取りなどよからぬようになり、しなじな差し支えあり。これ、すなわち家相のあしきなり、用 うるにたらず。家相を正すというは、夏すずしく冬暖かに、奥より勝手向きの便利をよくし、盗賊、火災の 防ぎ方を設け、地低の所は出水の手当ていたし、小破れを繕い、常に火の用心大切にして住む家を、すなわ ち吉相の家というべし。ただ、その家の主人の心相をよく吟味あるべし。 東京には家相の迷信家すこぶる多ければ、すべからく右の一節を熟読すべし。 続妖怪百談 第一〇談 方角、生剋の弁 きつあんまんぴつ せいこく ﹃橘庵漫筆﹄に方角、生剋の妄を弁ずる一節、また引証するに足る。すなわち左のごとし。 むかし かつし 方角、時日を選ぶ説、往古はなかりしとそ。周の代にようやく﹁甲子の日、君子楽せず﹂といえるは、 ちゆうおう りくとう ふげき さ た 紺王甲子の日ほろびしゆえなり。しかしながら、﹃六鱈﹄に巫蜆を禁ずる旨あれば、方位、時日の沙汰も民 どん 間にありしと見えたり。その後、戦国のときに至りてもっぱら方角、時日の説あるは、貧をつかい愚をはげ りゆう おうもうにち ます術に設けたり。李祐が往亡日のごときは、すなわちそれなり。往亡日はゆきてほろぶる日なりとて士卒 ひつ 進まざりしに、李祐がいわく、﹁われゆきて彼をほろぽす日なり﹂とて、軍を出だして勝利を得たり。畢 きよう 寛、士卒を進退せしむる術に設けたるのみ。吉事を行えばいつも吉日なり、悪事を行えば悪日なり。臨ん 03 ぼく 2 で時に日をトすに及ぶまじ。
そうしようそうこく もうろう 五行の相生相剋をもって事を定むるに、相生を吉とし相剋を凶とすること、理において当たらず。孟浪 こうはん たる俗説にして、事物の費え多し。それ﹃洪範﹄に曰く、﹁相生せざれば通達せず、相剋せざれば裁制なし﹂ ふてい しよしよう とて、さらに相生相剋に吉凶あるべからず。いわば火、金を剋すればこそ釜鼎、刀剣、金銭、鉗鍬となり、 らいし しゆうしゆう とくかん ちん 金、木を剋して来組、舟揖、圓函、家宅となる。かくのごとく相剋して、万民用をなし利を得るなり。陳 となん ちんたん しんそうぜんべん せいぎ 図南︹陳搏︺の﹃神相全編︹正義︺﹄にも、﹁寒金微火を帯びて剋用をなす﹂といえり。相剋を凶とのみするは ようがく 庸学のわざのみ。 右のごとく、古来学者をもって目せらるる人にして、方位、生剋の説を信ずるものなし。しかるに、明治の昭 代に生まれて、なおかかる妄説に迷うものあるは、実に嘆ずべきの至りなり。 第一一談 九星の迷信 過日、﹃読売新聞﹄はがき集の中に迷信生の投書あり。すなわち左のごとし。 とり いつばく とら こおう 近ごろ結婚したる二十六の男と二十一の女とあり。仲むつまじかりしに、男は酉の一白、女は寅の五黄と きゆうせい て、九星上、将来大凶なりとの迷信より、飽きも飽かれもせぬなかを離縁話が持ち上がりおれり。世には 同じ年回りにて、無事幸福に暮らしおる人いくらもあるべければ、その例を知らせやりて、この哀れなる迷 信の犠牲を救いたまえや。 これまた、九星家の妄を解くに足る。 204
続妖怪百談 第一二談 厄年のこと ようしよまん わが国、民間一般に男女の厄年を妄信する風あり。これ、古代より伝うるところにして、そのことは﹃擁書漫 ぴつ きつあんまんびつ 筆﹄につまびらかなり。しかして、そのよって起こる原因に至りては明らかならず。﹃橘庵漫筆﹄には、男子は 四十二を厄年とし、女子は三十三を厄年とする理由につき、左のごとく記せり。 しに さんざん やくどし あるいはいう、﹁四十二は死という訓にて、三十三は散々という音なり。ゆえに疫年として忌めり﹂とい じようやく えり。いずれより出でし説やしらず。なんぞ四十二、三十三にかぎるべけんや。一生涯を常疫とし、平素 ひと ふげき その独りを慎まば、鬼神、巫硯を頼むにまさらん。 し し また、俗間に四十二歳の二つ子と称することあり。これ、四十二に二を加うれば四十四になり、国音死に死を わかんがつぺきや わ 重ぬる意に通ずるゆえに、これを大不吉とし、 度は必ずその子をすつるを例とす。﹃和漢合壁夜話﹄には左の ごとく記せり。 うし 世にいい伝うるは、四十二の二つ子は他の姓をつがするものなりとて、かり親を頼む。丑年の子は兄にた コつま たるといい、つちにあたる子はそだたぬといい、ひのえ午の女は夫にたたるというの類、世の俗説多くある ことなり。 わかんさんさいず え ﹃和漢三才図会﹄にも左のごとく記せり。 まえやく はねやく 男四十二を大厄となす。前年を前厄といい、翌年を跳厄といいて、前後三年を忌む。あるいは四十一歳、 子を生めば、すなわちこれを四十二の二歳子といいてこれを忌み、他姓を称してもって他人の子となすの 猫 類、また惑えるのはなはだしきものなり。
ほんちようりげん ばく また、﹃本朝便諺﹄には、世間四十四の二つ子を忌むゆえんを示し、かつ、これを駁して曰く、 06 世俗、男の四十二歳を厄という。四十二を略すれば四二なり。これ死に通ずといい、四十二歳にて二歳の 2 子あれば、父子の歳をあわせて四十四、略すれば四々なり。これ死に通ずといいて、子を捨つるものなり。 もうまい このこと和漢の書にかつてなし。蒙昧の所為といいながら、その罪悪なげくに余りあり。これらの俗習をか たく禁ずべし。 また、﹃和漢三才図会﹄に、除厄の方法につきて弁明して曰く、 ついな い まめ ふるふんどし およそ厄に当たる前年節分の夜、追灘の妙り豆は年数を用い、銭を添えてこれをすつ。あるいは古積鼻揮 どうく たたり いむ を取り、これを道衡に捨つれば、すなわち崇なし。これらはみな、その心を慰め禍を避くるなり。忌の字 どんよく はら はすなわち己の心なり。小人といえども、倉欲度を守り、飲食、色欲節を守るは、厄を祓い災いを除く上策 おうか なり。太公曰く、﹁刀剣よしといえども無罪の人をきらず、横禍は慎家の門に入らず﹂と。 これ、実に卓見というべし。しかるに、世に愚民の多き、この理を知らざるは慨嘆の至りなり。ただ、古来経 験上の結果として、男子は四十二歳、女子は三十三歳前後に、疾病にかかるもの多き事情ありしによりて、かか る俗説の起こるに至りしならん。しかれども、これ必ずしも四十二歳、三十三歳に限るの理あらんや。 第=二談 シナの捨て子 わが国にて四十二歳の二つ子を捨つるがごとく、 引証せん。 シナには五月五日に生まれたる子を捨つという。左にこれを
﹃風俗通﹄に曰く、﹁俗説、五月五日子を生めば、男は父を害し、女は母を害す﹂と。 でんえい せんしよう ぷん ﹃史記﹄に曰く、﹁田嬰、子四十余人あり。その賎妾子あり、文と名つく。文、五月五日をもって生まる。 嬰、その母に告げて曰く、﹃あぐることなかれ﹄と。その母ひそかにあげてこれを生む。長ずるに及び、そ なんじ の母、兄弟によってその子文を田嬰にまみえしむ。田嬰、その母に怒って曰く、﹃われ、汝をしてこの子を とんしゆ 去らしむ。しかして、あえてこれを生むはなんぞや﹄と。文、頓首す。︹よって︺曰く、﹃あげざるゆえんは、 五月の子、その長戸とひとし。まさにその父母に利あらざらんとす﹄と。文曰く、﹃人生まれて、命を天に 受くるか、はた命を戸に受くるか﹄と。嬰、黙然たり。文曰く、﹃必ず命を天に受く。君、なんぞ憂えん。 必ず命を戸に受くれば、すなわちその戸を高くせんのみ。だれかよく至らん﹄と。嬰曰く、﹃子休せよ﹄﹂ と。 かく子の生日を忌むは、なんの理にもとつくを知らずといえども、古今東西、愚民の迷信、たいてい相似たる ものなり。 続妖怪百談 第一四談 運と非運 みやけ せつれい 友人三宅︹雪嶺︺氏、先年﹃日本人﹄雑誌に、﹁運と非運﹂と題して左のごとく記せり。 今上天皇陛下と誕生の日を同じくする者、おおよそ一千人なるべく、一千人のうちには時刻を同じくする 者、少なくも十人あるべし。この十人の者、みな大幸というべきか。しかるに、みな今いずくにかある。市 07 ききん きかん たんかつ たんせき 2 役所、郡役所にて討査せば、あるいはいわゆる鱗饅流隷、道路に鮭寒し、短褐の襲、憺石の蓄えあらんこと
こうがく を思い、願うところは一金に過ぎず。まさに溝墾に転死して終わらんとするあらん。運命といえども、ま 08 た、むしろあはれむべきにあらずや。天長節に際し、特にこれらに物を賜るは、また、けだし朝礼を美に 2 し、民情を厚くするゆえんなりと恐察す。 余、かつてこれを聞く、﹁およそ世界の人類は、一秒時に六十人ずつ生まれ出ずる割合なり﹂と。果たしてし からば、釈迦、孔子、家康もしくはナポレオンと同日同刻に生まれたるもの、必ず五、六十人あるべし。もし、 しやか 人の運、非運はその生まれたる時日によりて定まるものならば、これらの人はみな、釈迦、孔子、ないしナポレ オンと同一の運命に際会すべき理なり。しかるに実際上、貧富、禍福、各大いに異なるところあるはいかん。こ れ、生年月をもって人の運命を鑑定するの非なるを知るに足る。 第一五談 帽子、山中に入りて見せ物となる 余、先年、夏帽を新調して会津山中に遊びしことあり。そのとき、ある茶店に小憩してまさに去らんとする に、たちまち帽子の所在を失う。左右を捜索するも見当たらず、かかる山中なれば、だれありて盗むものあるべ いたずら からず、また人の悪戯とも想像し難く、自らその意を解するに苦しむ。少時にして家婦、帽子を携えて帰り来た り、余に謝して曰く、﹁御前様の帽子があまり珍しき形して不思議の帽子であるから、近所近辺へ持ち回りて ことわざ すずめ はまぐり 人々に見せてきました﹂と。余が帽子、図らずも村内の見せ物となれり。 諺に﹁雀海中に入りて蛤となる﹂ というがごとく、﹁帽子、山中に入りて見せ物となる﹂かかる山間の人には、なにを見せても奇怪に思い、した へきち がって種々の怪談を生ずるに至るべし。古来、僻地愚民の間に怪物多きも、あえて怪しむに足らざるなり。
第一六談 天狗祭り てんぐ 去るころ、﹃岐阜日日新聞﹄に﹁愚民の妄信﹂と題して天狗祭りの状態を記せり。すなわち左のごとし。 ひだ おこり ひがしと 飛騨国大野郡辺りにてこのごろ流行する天狗祭りの起由を聞くに、今を去ること三十年前、越中国東礪 なみ あるひ 波郡の増太郎といえるもの、一日天狗にさらわれたりしが、このほどふと帰村していえるよう、﹁︹明治︺二 十七、八年の日清戦争にわが国が首尾よく勝利を得しは、ひとえに天狗の助けなり。さるを国民は少しも天 狗を祭りて謝意を表せざるにより、非常に憤怒し、現に昨年のごときは、種々の害虫を下してこれを罰した かげん まえり。本年も再び、同様害虫を下したまうべし﹂といいたりとの誰言、飛騨一円に伝わり、同国各町村は かぐら 競いて天狗祭りを執行し、神楽をかつぎだして踊り回りおるよし。目下、大野郡清見村小鳥地方にては、例 きつね の天狗祭りに狂いおるありさま、狐つきならで天狗つきとはこれらのことならん。 愚民の迷信は大抵この類なり。 続妖怪百談 第一七談 不知火 つくし しらぬい 筑紫の不知火といえばたれびとも知らざるなく、わが国にて最も名高き妖怪なり。先年、熊本高等中学校の教 しらぬいこう 員は、これ海中の虫ならんとて、その試験を施したることあり。しかるに余、近日﹃不知火考﹄と題する書を読 むに、別に一説を掲ぐるを見る。 ある人いう、﹁不知火といえるは、かたもなきいつわりごとにて、昔よりその名たかく見る人多かれど、 ㎜ みないつわりに欺かれたるにて、その実を知らざるなり。これ、実は八代郡の海辺鏡村などいえるあたりよ
ついたち り出ずる漁火にて、あくるあした八月朔のもうけの魚をとるなり。その夜は、かの村人もこれを竜灯とい いて、いざ竜灯に出でんとてものするなり。それを遠くより見る人、不知火といえるは、いとおこ︹痴︺のわ ざなり。こは、はやくその郡のこと知れる某が、村民のまさしくいうを聞いてたずねたるに、漁火なること うたがうべくもあらず。かかれば、かのいにしえ、天皇のみそなわして岸につきたまいしも、漁火にやあり けん。古人のおおらかなる心にて、里人の主しらぬ火といえりしを、くわしくもたずねず、語り伝えたるま まに史にも記せしなるべし。今、くわしくその村民につきてただしたることなれば、うたがうべきにあら ず。世人、昔よりあらぬいつわりごとに欺かれおるは、いとおこ︹痴︺なるわざなりといえり﹂と。 この説たやすく信許すべからずといえども、わが国にて海浜往々、竜灯あるいは神火と称して、海上に火を見 ることあり。このうちには、漁火を誤り認めたるものなきにあらず。ゆえに、竜灯、神火の怪のごときも、深く 探見するにあらざれば、その実を知るべからず。 210 第一八談 狐の玉 きつね しなの 世間往々、狐の玉を秘蔵するものあり。なかんずく信州の山間にこれを拾い得たるもの多し。すでに﹃信濃 きだん 奇談﹄には、﹁狐の玉﹂と題して左のごとく記せり。 わが藩士に岡田の某という人あり。秋の末つかた、網もて三峰川の辺りを行けるに、白き狐のあこがれ て、右に左に飛んで戯るるを見て、ためねらいて網打ちかければ、おどろきあわてて逃げ失せぬ。後を見れ ござつそ ば光ある玉あり。拾いて見れば、白き毛もて作れるようの玉なり。今にその家にひめ置きぬ。﹃五雑姐﹄に
く も むかで は、蜘蛛、娯訟、蛇の類にも玉あることをいえり。また、吉田氏にも狐の玉あり。その玉を得しようは岡田 氏と同じ。なお、他州にもこれに類することありと聞きぬ。 余、先年、信州にありてこれを実視せるものに聞くに、肉の↓端が毛の付きたるままにて縮みたるものにし うさぎ て、決して玉にあらず。もし、これを試みんとすれば、狐が兎を捕らえて、毛の深き所の肉の一小部を切り取 れば、即時に玉の形をなす。よってこれ、あえて奇とするに足らずという。余、いまだこれを実験せずといえど も、﹃信濃奇談﹄に出ずるところによりて想するに、狐が網をくぐりて逃るる際、その尾の一端が自然に切れた るにはあらざるか。他日、よろしく実験して知るべし。 続妖怪百談 第一九談 生き上人の木像 ある地方新聞の雑報に、某村の寺院に安置せる木像の額より流汗せしことありとて、左のごとく記述せり。 しようにん 某寺開基上人の木像は、当寺第一の宝物にて、かねて生き上人とて諸人の信仰するところなれば、いち りんり 早く担ぎだし参られ、とある門前の民家に安置せしところ、不時の火災に、この生き上人の額より流汗淋滴 かくぜん たるありさま尊しとていいだせしものありしを、なにがさて信心に凝り固まりし善男善女、その赫然たるあ りさまを拝せんとて、集いきたる者引きも切らず。一時なにごとならんとまでの騒ぎなりしが、警官出張し て取り調べしところによれば、火中より背負い出だすとき、灯台の油の木像に掛かりしものと知れたるよ り、ようやく鎮静するを得たりしという。 別 かくのごとき誤怪は地方にありがちのことなれば、今後よく注意してその原因を探究するをよしとす。
第二〇談 神仏を偽りて私欲をたくましくす 世に神仏の名をかりて私欲をはかるもの、いくたあるを知らず。これ、罪悪中の最も重きものなり。今、その お み き 一例を挙ぐれば、民家にて井戸屋に命じて井の底をさらわしむるに、井の神様に御神酒を献ぜんとて酒を請求 す。よってこれに酒を与うれば、井戸屋自らこれを酌み尽くす。また、余かつて舟にて越後上田川を下るに、小 千谷町をさる一里以南に、信濃川と合流する場所ありて、従来相伝えてこれを難場と称す。もし舟ここに至れ み きりよう ば、船頭、客に請いて水神に献ずる御酒料を徴集す。しかして、その金はみな舟子の一夕の酔いを買うの資と なるのみ。かくのごときは、神仏を偽りて私欲をほしいままにするものというべし。 212 第一一一談 ヤソ教師の偽怪 余かつて、これを某氏に聞く。ヤソ宣教師、アフリカ内地に入り土人を集めて説教する際、ひそかに鳩を養い おき、会堂の壇上より縄を引けば、たちまち鳩の聴集の前に飛び下りるように仕掛け、やがて説教を終わり、ま ベヒ とシつ さに祈薦を行わんとするときに、聴衆に告げて曰く、﹁鳩は神の使いなれば、余が祈濤よく神に通ずるを得ば、 必ず鳩のくだりきたるあらん﹂と。一心に祈念しながらしきりに縄を引くも、さらに鳩の出でてきたることな しもべ し。すでにして黒奴の僕、内より走り出でて告げて曰く、﹁ただいま猫が鳩を捕らえ去れり﹂と。聴衆はじめ まんちやく て、宣教師の詐術にくむべきを知れりという。この一話は、ヤソ宣教師の愚民を購着する手段の一端を見るに 足る。
続妖怪百談 談 一 第
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213第二二談 杯中の蛇 わかんがつべきやわ しんじよ 14 ﹃和漢合壁夜話﹄に、﹃晋書﹄を引きて幻視の一例を出だせり。 2 がくこう あざな げんぽ いくよう いん きゆうかつ ﹃晋書﹄に、﹁楽広、字は彦輔、南陽清陽の人なり。河南サにうつる。かつて親客あり。久闊にしてまた ざ きたらず。広、そのゆえを問う。答えて曰く、﹃さきに、座にありて酒を賜うことをこうむる。飲むにあた や りて、杯中蛇あるを見る。意にはなはだこれをにくむ。すでに飲みおわりて疾む。ときに、河南庁事の壁上 かくきゆう に角弓あり。漆画蛇を作る﹄と。広、思えらく、杯中の蛇はすなわち角弓の影なりと。また酒を前所に置 き、客にいいて曰く、﹃杯中また見るところありやいなや﹄と。答えて曰く、﹃見るところはじめのごとし﹄ かつぜん ちんあ と。広、すなわちそのゆえを告ぐ。客、裕然として意解け、沈痢にわかに癒ゆ﹂ めいげん これ、本邦の八幡太郎鳴弦の故事と相同じ。 第二一一一談 生霊、死霊の崇 いきりよう しりよう たたり えんこん 愚俗には、生霊、死霊の崇あることを信ずるもの多し。ある人これを評して、﹁おのれ怨恨ありとて、生き みなもとのよしつね てはつき、死してはつきて、そのうらみをさほど自由に報ゆべきことならんには、大義にかかる。 源義経、 かじわら かげとき 武蔵坊弁慶などは、早速に梶原︹景時︺をとり殺し大義の本意を達すべきに、さもせざりしは、さてさて無思案な たいへいき くすのきまさしげ れ。このほかこの類のことども、なにほどもあり。たまたま﹃太平記﹄に、﹃楠正成が亡霊、一条の戻り橋に て、女に化けて大森彦七をおどしたり﹄と見えたり。さてもさても、正成も存生のときと違い、死ぬればさほど まで鈍にはなりしものかな。正成が恨むべき者は、北朝方の大将より始めてなにほどもあるべきに、それをさし
おきて彦七をおどしかけしは、なんぞ内証にうらむべきわけこそありつらん﹂ 愚俗、もしこの評を一読し去らば、迷信のいくぶんを減ずるを得ん。 といえり。 続妖怪百談 第二四談 好物、豪商を欺く かいだんべんもうろく ある書︵﹃怪談弁妄録﹄︶に、偽怪の好適例を示せり。左にその全文を掲ぐ。 とおり 京都三条街に鍋釜商あり。豪富をもって名あり。その家あらたに妻をうしないければ、たちまち一人の やまぶし 道士来たり告げていわく、﹁貧道、このごろ道を修行のため羽黒山に上りしに、途中にて一人の婦人われに うかむこと いいて曰く、﹃都へ上りたまうならば、ことづけ申すべし。われ罪業ふかく度脱を得がたし。願わくは、家 がつばい ふせ こないしよう 人に告げて月牌の資を高野山へあげ、わが冥福をいのりくれよ﹄といいしまま、その所を問えば、尊替な こそで るよし。﹃もし家人信ぜずば、これをもってしるしとなしくれよ﹄と、練吊一懐をいたせるゆえ、今、持ち ぜんぐ うやまい きたり申す﹂といいすてて去らんとするを、家人いそぎあわててひきとどめ、膳具を供えて敬礼し、また きんす 金子をつつみ、﹁とてものことに、高野山へおくり下されよ﹂と頼みしまま、道士も辞することを得ず許諾 す。主人大いによろこび、別れに金子若干を封じて道士に布施す。道士これを懐中して、いとまをつげ去 でつち る。一小廟あり、年十七、八ばかり。もとより道士のいいしことをあやしく思いて、あとより道士のゆくと ころにしたがいゆくに、三条より東へ、京極をすぐに伏見路へ向かう。にわかにして西へふりかえり、朱雀 つくりしおんな 街を北へ上り、北野七本松へいたり一草舎へ入れり。小廟もしたがい入るに、 冶婦あり。小廟をみてお 15 と どうき、にげかくる。これ、釜屋さきにおくところの下碑なり。妻の病みしとききたり訪いしが、そのとき
ののし は 練吊を盗みしものならん。小廟そのわるだくみを近隣へつげしらせ、大いに罵り塊じしめてかえる。家人、