• 検索結果がありません。

通俗講談言文一致 : 哲学早わかり 利用統計を見る

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "通俗講談言文一致 : 哲学早わかり 利用統計を見る"

Copied!
40
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

通俗講談言文一致 : 哲学早わかり

著者名(日)

井上 円了

雑誌名

井上円了選集

2

ページ

25-61

発行年

1987-10-26

URL

http://id.nii.ac.jp/1060/00002876/

Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja

(2)

惑鎌

(3)

嘉譲暫學早あかり

         宮亭館主井上薗、了講撹    当、

霧懸灘㍑譲欝㌘欝獲6・冤ま

嘉諭蓄蕎蓋話を致占ませグ余竺轟め幸か不幸灘ロ知   蕗︼、知涙葵菅ま嘉■       ﹂’ (巻頭) 4.fil行年月日   初版   底本:再版 5. 句li売点   読点あり 6.その他 明治32年2月18H 明治32年5月20日 付録「西洋哲学者年表」(19ぺ の 一 1.冊数

  1冊

2.サイズ(タテ×ヨコ)   187×127mm 3.ページ   総数:98   序文:1   目次:2   本文:95 畿慕 療揚纏 ・、繍灘灘

難辮擁綴べ

 蜜之τ黒竃、

 灘織彰蓄是馨慰醤 轟喉膨讐量轡竃、 璽捌所航鰻題鍍普及舎●葺翼・日新舎

(4)

 本書は余が府県巡回の際、その地方において特に有志者の依頼に応じ、一夕の茶話として口述したるものの筆 記にして、その目的は通俗の全く哲学のなんたるを解せざるものに対し、哲学の一端を知らしめんと欲するにあ れば、多少哲学を心得たるものよりこれをみれば、一読の価値なきものたるは明らかなり。しかれども余はかく のごとき平々凡々通俗もまた高きに昇るの階梯にして、仏教のいわゆる方便ならんと信ず。故に大方の君子その 卑近を笑うことなかれ。 明治三十一年十二月 講述者識 哲学早わかり 25 O

(5)

第一回発端︵哲学の名義︶

 余は近年哲学館拡張のために日本回国を始め、五、六年かかりてようやく一通り全国の行脚を終わりましたが、 その間おもしろいこともたびたびあり、苦しいこともときどきありて、その中にはずいぶん弥次喜多めきたる話 もありたれど、そのことは他日に譲り、ここに哲学という名義につき、世間が全く誤解しているために大いに困 却したる話を致しましょう。余は一身の幸か不幸かは知らざれども、世間より哲学の大家をもって目せられ、至 る所意外の優待を受け、四方より哲学の演説を頼まれたれば、己の好むところの学問のことなれば、不弁をも顧 みず毎度演壇に上り、下手の長談義を致しましたが、所によりては聴衆堂にあふれんとするがごとき非常の盛会 を見しこともあり、時によりては傍聴更になく空しく柱相手に演説せしこともありました。しかしてその群衆を なせしところは哲学とは耳慣れぬ学問の名目なればドンナにおもしろかろうと予想し、五里十里を遠しとせずし て来聴した故であり、その寂蓼たりしときは哲学とはサッパリ分からぬむずかしき学問にて、凡人輩の聴くもの にあらずと考えし故であります。とにかく余は巡回中各地とも聴衆の多寡にかかわらず、哲学について大いなる 誤解を抱きおることを発見致しました。その誤解の要点は一方の人は、哲学は禅学や仙人の学問の類にして、よ ほど意表に出でたるおもしろいことを説いたもので、奇々妙々の学問なりと考え、今度東京よりその専門の大家 が来て演説なさるそうだが、定めておもしろかろうと予想し、その上に哲学者は風骨自ら異容を呈し、髭長く体 軽く、仙客隠士のごときものなりと想像し、かかる人物を一見するもまた一興なりと心得、余のきたるを待ち構 え、その未だ着せざるに旅館の門前市をなすがごとき有様でありましたが、すでに着するや衆人なんとなく失望 26

(6)

哲学早わかり の体なれば、その由を尋ぬるに全く余が体貌の仙人らしくなき故、東京より偽者が余の名を偽わり、哲学者を装 うてきたに相違ないと考えたと申すことでありました。またある場所にては哲学に異名を与えて鍛冶屋の学問と 唱え、余を呼びて鍛冶屋の先生と申すからそのわけを尋ねしに、哲学と鉄学とは国音相通ずる上に、哲学はすこ ぶるむずかしい学問にして、尋常一様の者がその話を聞いても容易に噛み砕きができぬはあたかも鉄のごとしと いう点から、鍛冶屋の学問と称するようになりしと申しました。その他ある地方においては哲学者はあらゆる学 問に通じ、一切のことなに一つとして分からぬはずはないと考え、詩文、歌、俳譜の添削を請うものあり、書画 骨董の鑑定を望むものあり、はなはだしきに至りては茶の湯、生花の品評、人相、墨色の判断を頼むものさえあ りて、実に閉口したことがたびたびありました。これらの例に考えて哲学の誤解のはなはだしき一斑が分かりま しょう。しかしそのようなる誤解はなお許してよけれども、百人中九十九人までは哲学がおもしろいにもせよ、 むずかしいにもせよ、家を富まし国を強くするには更に関係なく、世間の実用に最も遠い無用の学問にして、畢 寛道楽か物好きの学ぶものに過ぎぬと考えています。この点はいやしくも哲学に従事する者の決して黙過するこ とのできない事柄なれば、必ず口を極めて弁護の労をとらなければなりませぬ。これ余がここに通俗に対して哲 学の大意を述ぶるの必要を感じたるゆえんであります。さて哲学の名称は原語のフィロソフィー︵勺≧o・・o喜く︶ を訳したるものにして、その訳字は先年西周氏の定められたるものなるを、その後一般に用うることになりまし た。故にもし哲学のいかなる学問なるかを知るには、原語のフィロソフィーの文字について考えなければなりま せぬ。この文字はギリシア語より起こり、知恵を愛求するの意を有すと申しますが、その意を直訳すれば愛知学、 あるいは単に知学と称する方適当ならんかと考うれども、今更変換することはできませぬ。しかして哲学の名義 27

(7)

については古来いろいろの解釈ありて、あるいは思想の学、あるいは道理の学、あるいは原理の学、あるいは絶 対の学等、いちいち並べ立てられぬほどたくさんあるも、西洋にては未だ一人の鍛冶屋の学と申したものはあり ませぬ。  さて哲学の解釈を与うるにはまず理学のなんたるを説きて、これと相異なる点を示すを最も便なりと考えます。 およそ学問の種類は実に数多きことなれども、これを大別すれば理学と哲学との二つに帰しましょう。すなわち 哲学にあらざるものは理学、理学にあらざるものは哲学、もしこの二つの中に入らざるものは学問とは申されま せぬ。いま、理学の名義を考うるに、英語にてこれをサイエンス︵o力6一〇go︶といい、訳して理学あるいは科学と 名付けます。すべて科学と申すは順序規律の立ちたる学問に与うる名称なれば、哲学もある意味においては科学、 科学もある意味においては哲学なるべきも、今日まで用いきたれるところにては、左の四段に区別することがで きると考えます︵以下余は科学の代わりに理学の語を用う︶。 第一は、 第二は、 第三は、 第四は、 第五は、 哲学は人間の学、 哲学は精神の学、 哲学は無形の学、 哲学は無象の学、 哲学は全体の学、 理学は万有の学。 理学は物質の学。 理学は有形の学。 理学は有象の学。 理学は部分の学。  哲学と理学との間にはこの五通りの区別があるから、そのいちいちを述べさえすれば哲学の解釈は自然に分か るはずである。もっとも哲学にも理学にも広意と狭意との二様ありて、右の第三条の区別のごときは広意をもっ 28

(8)

て哲学を解し、狭意をもって理学を解し、第四条のごときは狭意をもって哲学を解し、 ることを知らなければなりませぬ。これよりその一条一条について説明致しましょう。 広意をもって理学を解す

第二回 哲学は人間の学および精神の学なること

哲学早わかり  哲学は人間の学、理学は万有の学ということはあまり人のいわぬところなれども、余はこの点をもって両学の 異同の一つと思います。すでに英国の哲学者ベーコン氏は世界を分かちて神と人間と万有との三種にしましたが、 これは実に世界の三大元と申してよろしい。そのうち万有の研究は理学の受け持ち、人間の研究は哲学の受け持 ちと考えます。第三の神は学問として研究するときは哲学の部類に入るも、通例は宗教の受け持ちであります。 さすれば研究の目的とする物柄の方は人間と万有と神との三体となり、これを講究する教学の方は哲学、理学、 宗教の三種となります。しかして宗教が神を目的とすることは別に説明するには及ぼざれども、理学が万有を目 的とすることは一言しておかなければなりませぬ。さて万有とは宇宙間に成立せる日月星辰、山川草木、鳥獣魚 虫、人類までを総称する語にして、その種類を無機有機、植物動物、人類に分け、これを研究する学問を物理学、 化学、天文学、地質学、植物学、動物学、生理学等に分け、これらの学問を総称するときに理学と申します。こ れに反して哲学の方は人間の目的、性質、知識、道徳等を研究し、その学科は心理学、論理学、倫理学、社会学 等に分けますが、いずれも人間に関係したる学問なれば、余は哲学を解して人間の学と申します。ただ理学の中 で生理学は人身の機関、構造等を研究するものなれば、人間の学のようなれども、理学の方にては人間を万有の 一とみて、形体の方すなわち肉体の方から研究し、哲学は宇宙万有の中にて人間の人間たる特性、すなわち精神 29

(9)

の方から研究するものなれば、多くの学科中ことに人間の学と称すべきものは哲学に限ると申してよい。そこで 局外者の目にはわが田に水を引くように見ゆるかは知らざれども、世間万有中最も尊きものは人間であると同時 に、その人間を専門に研究する学問は諸学の中で最も尊き学といわなければなりませぬ。たとえ世間がこの尊称 を許さぬにしても、これを要求する権利はあるに相違ない。なぜなれば誰人も人間は万物の霊長と申すも、その 霊長の霊長たるゆえんを示さなければ霊長の吹聴はできませぬ。しかしてこれを示すものは諸学中ひとり哲学の 任ずるところであります。また理学にて天文地理を始めとし万物万類を研究する本意は、帰するところ人間社会 の便益を計りてその需用に応ずるより外はありますまい。しかして人間社会そのものを研究するのが哲学である から、哲学こそ学問中の王様と申してよい。これに対すれば理学などは飛車か角ぐらいのものに過ぎませぬ。し かるに世間ではその王様より飛車の方を大切に思うものがあるが、これは諺にいわゆる﹁王より飛車を大事がる﹂ の類にして、ヘボ将棋連でありましょう。かく申すものの理学は人間の需用に応じ、哲学の材料を与うるには最 も必要なる学問なれば、その社会を益する点においては哲学と同様に功労あるものと信じます。これを要するに 学問と人間との関係は、理学は人間の用を弁じ、哲学は人間の性を明らかにする学にして、内外の相違があると 考えて差し支えない。すなわち理学は外部の学、哲学は内部の学であります。しかしてその内部は精神にして外 部は物質なれば、理学と哲学との別はさきに示せる第ニカ条の物質の学と精神の学とに分かれます。これにおい てまず物質と精神との解釈を下さなければなりませぬ。  古来哲学上の解釈にてはすべて目に触れ手に感じ、色あり形あるものを物質と名付け、これに反して色もなく 形もなくして、しかもよく形色を知り物質をしたため、かつ種々の想像工夫をめぐらす作用あるものを精神と名 30

(10)

哲学早わかり 付けます。故にこれを術語をもって釈すれば広延を有するものを物質とし、思想を有するものを精神とし、前者 は思想を有せず、後者は広延を有せずと申します。広延とは俗にいわゆる﹁広がり﹂のことにして、大小広狭等 の形体を具するもののことであり、思想とはいろいろ思うたり考えたりすることにして、われわれのいわゆる心 の作用であります。もし言葉を換えていえば、物質とは目を開きて外に見るものにして、精神とは目を閉じて内 に浮かぶものであります。物質は広延を有するから寸尺を測ることもでき、目方に掛けることもできるが、精神 は世間にて大きいとか軽いとか申すも、これただ形容までにてその実大小軽量を定むることはできませぬ。この 通りに物質と精神とはその性質大いに異なるをもって、これを研究する学問の方も理学と哲学との二種に分かれ、 理学は物質の学、哲学は精神の学となりました。これと同時に宇宙の三大原たる万有、人間、神の三者は物心神 の三種となります。これ近世哲学の初祖と呼ばるるデカルト氏の分類であります。しかしてわれわれの身体は肉 体と精神との両面よりなるものなれば、理学と哲学との両者の研究を要します。すなわち肉体は物質なれば、理 学中の生理学がその研究の受け持ちであり、精神はこれに知情意の別あるをもって、哲学中にいろいろの分科が でき、おのおのその専門の受け持ちがあります。あるいはまた理学を解して客観の学、哲学を釈して主観の学と 名付けても差し支えない。そのいわゆる客観とはわが心にて観察すべき相手の物柄を意味するものなれば物質の 方を指し、主観とはこれを観察する精神の方を指す言葉であります。かつこの客観はわが精神以外の境遇に名付 けたるものなれば、あるいはこれを外界と称し、これに対して主観の方を内界と申します。しかして精神はある いは心性あるいは心意と呼ぶものあれども、その意味は一つであります。かくして理学は物質の学、哲学は精神 の学たるを知らば、前者は有形の学、後者は無形の学となりて前述のいわゆる第三力条の解釈と合します。 31

(11)

第三回 哲学は無形の学なること

 およそ有形とは我人の感覚に触るるものをいい、無形とは感覚に触れざるものをいいますが、感覚は視覚、聴 覚、嗅覚、味覚、触覚の五種に分かれ、眼耳鼻舌身の五官の作用であります。この作用によりて感ずるところの 物柄は、色と声と香と味と形質との五境にて、これをそなうるものを有形と申します。しかして形質とは大小の 形、軟硬の質を義とし、わが身面の皮膚の感覚すなわち触覚に属する性質にして、五境中・王にこの形質を有する ものを有形と名付けます。今物質はこの形質を有するをもって有形に属し、精神はこれを有せざるをもって無形 に属します。故に理学を解して有形学、哲学を釈して無形学と称して差し支えない。しかるに無形に属するもの は精神のみならず神も無形なれば、哲学を無形学と称するときは心および神を研究する学となる。すなわち神の 問題は学科の上にては哲学の受け持ちなれば、哲学の部類中に神学あるいは宗教学を入るるも決して不可なるこ とはありませぬ。ここに至って哲学はややその範囲すなわち領分が広くなりて、心および神の二者を研究する学 となります。  宇宙の三大源は物心神の三種なるも、我人の直接に知るものは物心の二者にして、神は間接に知るところなれ ば、あるいは神ありと唱うる有神論者もあり、あるいは神なしと唱うる無神論者もありますが、神にもいろいろ の神ありて、大工が家を建てるようにして世界を造りし神もあり、花火が開きて景色を現すように自体が開きて 世界を現ぜし神もあります。それ故にただ一口に神はないと断言することはできませぬ。しかしこの二つの考え は大層違っているから、前の大工神の方を神といいて、後の花火神の方を理もしくは理体といいます。そのうち 32

(12)

哲学早わかり 余は理体の存在を唱うる論者の一人であるから、格別有神論ともうしてよい。畢寛するに物心二者の外に神もし くは理を立つるは、物心だけにては世界の事物およびその変化を説明することがむずかしいからであります。例 えば世界の本源を探るに広延性の物質より思想性の精神を産み出す理なく、思想性の精神より広延性の物質を造 り出すはずなく、二者中いずれを根元とするも不都合が出てくるから、その大元は広延性でも思想性でもない別 種の本体がありて、その体より物も心も流れ出でたであろうとの想像が起こります。また今一つには物質と精神 とが最初より全く別体のものならば、決して一致和合のできる道理はない。しかるに実際上この二者は常に一致 和合して、心は物を離れず物は心を離れざる関係あるを見れば、その大元は一つの体より分かれたるに相違ない との考えが起こります。この二通りの道理によりて物心二者の本源実体ありとの説が出て、哲学上その体を神あ るいは理と名付くることになりました。しかしてこの理体は目にも見えず手にも触れざるものなれば、無形に属 するはいうまでもなく、したがってこれを研究するは哲学の受け持ちであります。このときには哲学は広意をも って解することになり、理学は狭意をもって解することになります。  すでに理体も無形、精神も無形にして同一なるに似たるも、その間に有象と無象との別があります。すなわち 精神は性質を有せざるも、その言語動作の上に現るる作用はもちろん、その他己の心に浮かびきたる感情、想像、 思慮等をわれわれが直接に知ることができるから、これを有象あるいは有現象と名付け、これに対して理想の方 はその存在も状況も挙動も直接に知ることあたわざる故、これを無象あるいは無現象と名付けます。すべて何物 にてもその形状あるいは作用がわが心の上に現れきたるものを現象と申します。よって、   物質は有形にしてかつ有象 33

(13)

  精神は無形にしてしかも有象   理体は無形にしてかつ無象なり と心得てよい。このように同じ無形の中に有象無象の別ある以上は、これを研究する哲学の方にも実験哲学、形 而上哲学の二通りがあります。しかるに余は実験哲学は有象の方を研究するものなるをもってこれを有象哲学と 名付け、形而上哲学は無象の方を研究するものなるをもってこれを無象哲学と名付けます。  かくのごとく無形中の有象も無象も共に哲学の受け持ちとするときはその領分すこぶる広く、世界の問題の三 分の二以上を占むる割合なるも、もし理学の広意をもって解すれば、有象はすべて理学の受け持ちにして、無象 ばかりが哲学の領分であることになります。換言すれば理学は有象の学、哲学は無象の学となります。これがす なわち第四力条の解釈に当たるけれども、その理由はやや長ければ別に述ぶることに致しましょう。

第四回 哲学は無象の学および絶対の学なること

 さて有象の受け持ちについては理学と哲学とのあいだに自然に領分争いが起こりて、一大訴訟にもなりそうに 考えます。畢寛理学の意味の取りよう一つにてきまるわけである。すなわち理学を解して有形学とすれば、有象 哲学までを己の領分にすることはできず、もしこれを解して有象学とすれば、物質も精神も共に有象なれば、理 学の版図に帰することになります。しかるに前に述べきたりたるところにては理学を有形学の意味にとりたれば、 そのうちに有象哲学まで入るることはできませぬ。しかし理学の意味を広げて申せば、ただに有形学を義とする のみならず、一部分の事実現象を観察実験してこれに順序系統を立つるものを理学と名付くる義があります。も 34

(14)

哲学早わかり しこの義によれば理学は有形学にあらずして実験学ということになるをもって、実験哲学すなわち有象哲学は理 学の領分に入れてよい。このときには理学の方を更に分かちて有形的理学、無形的理学の二種にせなければなり ませぬ。要するに理学に広狭の二意ありて、狭意の解によれば有形学を義とし、広意の解によれば実験学すなわ ち有象学を義とすることになり、これに対して哲学にも広狭の二意ありて、広意にては有象哲学、無象哲学の二 種を含み、狭意にては無象哲学のみを指すことになります。しかして無象哲学は多くこれを純正哲学と称し、そ の異名を哲学中の哲学、諸学中の王学と申します。  かくのごとく理学、哲学共に広狭二意あることについては、歴史上の沿革を一口話さなければなりますまい。 古代にありては理学、哲学の別なくみなことごとく哲学と称し、哲学は学問の総名のごとくに考えられしも、近 世になりては新たに実験上事実を観察して学理を考定する研究法が起こり、その方法を有形の事物の上に当ては めたるところ大いに好結果を得たりしをもって、哲学の外に別に理学の起こるに至りました。かくして最初の間 は有形の事物のみを実験せるをもって理学を有形学と見なせしも、近来その研究法ようやく哲学の領分へ蚕食し、 最初哲学たりし心理学や倫理学が理学の旗印を着けるようになり、ついに有象哲学はすべて理学なりと唱うるよ うになりました。元来理学は実験法により哲学は論理法によりて研究したりしをもって、最初のうちは心理学や 倫理学は実験法にて研究すべからざるように考えしも、近来ようやく実験学流行の時代に会したれば、心理倫理 のごときもみな精神現象について実験風に研究することとなり、ついに理学の蚕食が哲学の半身を奪い去るに至 りました。しかし心理や倫理のごとき精神現象は理学的実験法ばかりにては研究すること難・\必ず哲学的論理 法をもってその及ばざるところを補わざるを得ざれば、両学の配下にあるものとみるがよい。故に精神現象のこ 35

(15)

ときは有象哲学、ならびに無形的理学の研究に属するものと致しておきましょう。  つぎに無象哲学、すなわち純正哲学は無形かつ無象なる理体のことばかりを研究するにあらずして、物質の本 体、精神の本体までも研究しています。これについては物質および精神におのおの体と象との二通りあることを 説明せなければなりませぬ。今われわれが目前に見るところの物質は色声香味形質よりなり、全くわが感覚の上 に現れたるものなれば、これを物質の現象すなわち物象と名付け、その現象の本体は見ることも探ることもでき ざるも、現象あれば必ず本体あるべきものとしてその実在を想定し、これを物体と名付けます。これと同じく精 神の方もわれわれがしたためて心となすものは、精神の海面に浮かびたる波のごときものなれば、これを心象と 名付け、その本体の方はこれを心体と名付けます。しかして心体も物体も共に不可見不可触の無形無象の体なれ ば、これを研究するは純正哲学すなわち無象哲学の受け持ちに帰します。左に物心理三者の受け持ちを示しまし ょう。

亘励實一一一≡㌶学

精神震﹁一一﹁ ≡㌶学お、び有象哲学

  理体⋮・⋮⋮⋮⋮⋮・・⋮無象哲学  もしこれを広意の哲学と狭意の理学とに分かたば、   理学⋮⋮・⋮⋮⋮⋮・・⋮物象 36

(16)

哲学早わかり   哲学⋮⋮・・⋮⋮:⋮・:−心象、物体、心体、理体  もしこれを広意の理学と狭意の哲学とに分かたば、   理学⋮⋮⋮⋮⋮・⋮・⋮・物象、心象   哲学::⋮⋮⋮⋮⋮・⋮・物体、心体、理体  右の相違になります。しかるにまた有象の方を差別あるいは相対と名付け、無象の方を平等あるいは絶対と名 付くることがあります。しかして差別とは千差万別の状態を示すものをいい、平等とはその反対をいい、相対と は右あれば左あり、昼あれば夜あり、大あれば小あるがごとく二者相対して成立するものをいい、絶対とはその 反対をいいます。これをもって広意の理学の方をあるいは相対の学と名付け、狭意の哲学の方を絶対の学と名付 くることもあります。

第五回 哲学は統合の学なること

 かくのごとく哲学は物体、心体、理体の三者を研究するをもってこれを無象の学、あるいは絶対の学と名付く るも、哲学中に一派ありて物体、心体、理体のごときは全く人の空想より描きあらわしたるものなれば、その体 実に存するにあらず。よしこれを存すと仮定するも、全く不可知的にして到底人知の知るべきものにあらざれば、 なにほどその研究に力を尽くすも、つまり骨折り損のくたびれもうけであると唱え、哲学を現象学として理学の 領分へ引き付けようと企てるものがあります。余輩よりこれをみればこの企ては哲学の謀反、あるいは国事犯と みて放逐してもよいように考うれども、ずいぶんその方に賛成者があるから、やむをえずその一説もここになら 37

(17)

べることになりました。もしその説によれば哲学も理学も共に宇宙間の現象を研究する学にして、ただ二者の相 異なるは理学は部分の学、哲学は全体の学なるの別ありと申します。まず部分の学とは、宇宙間の現象にはいろ いろさまざまの種類ありて、活物もあり死物もあり、天に懸かるものもあり、水に泳ぐものもあり、野に長ずる ものもあり、山に住するものもあれば、とても一つや二つの学問にてことごとく研究することはむずかしい。よ って分業法にて一部分ずつ研究することが必要になり、天文学、地質学、植物学、動物学等の学科が並び起こり、 天文学は天体の現象のみを研究し、地質学は地質の現象のみを研究するがごとく、諸学科みな一部分だけを受け 持つことになりました。かく学問がみな分業になるときは、別にこの諸科を統轄する学問が入用になります。例 えば一国を治むるに一政府にて隅から隅まで監督することはできないから、必ず県庁や郡役所のごとき地方政府 を諸方に置いて、おのおの分業にて一部分だけを支配するようになる。そのときは必ず中央政府ありてこの諸部 を統轄する必要を感ずると同じ道理であります。故に理学は宇宙現象の一部分ずつを分担するものとし、これを 統轄総合して宇宙全体の真理を考定する任は哲学であると申します。この説によれば理学は地方政府、哲学は中 央政府に当たるべき道理なれば、いわゆる哲学は諸学の王学なりとの意を証明するものと考えてよい。これを軍 隊に例うれば、理学は大隊長とか連隊長に当たり、哲学は司令長官か師団長に当たるわけなれば、いたって鼻の 高くなる話なれども、余輩はこの配当をもって満足することはできませぬ。なぜなればもし哲学が理学の結果を 総合する外に仕事のないものならば、理学にて材料を与えぬ間は徒然として手を空しくしているより外なく、こ れを理学の総裁といえば大層栄誉のようなれども、その実独立の資産なくして理学の支給を待つがごとき有様な れば、哲学にとりてはあまり有り難くない役割であります。 38

(18)

哲学早わかり  古今の哲学諸家中におよそ二派ありて、その一は独断派、その一は経験派と名付けますも、余は先天派、後天 派の名目をこれに配して、その二派の所見を述べましょう。まず後天派は経験主義にして、すべて事実現象に照 して確実なるものでなければ真理にあらずといい、先天派はまさしくその反対にして、真理は経験によりて得る ものにあらず、我人生まれながら有する先天の知識によりて得るものであるというの相違があります。この後天 派の説にては、無象の物体、心体、理体を空想として、哲学の問題の中に入れないから、その勢い哲学を理学の 舞台へ持ち出して、全体を総合するの役目を与うるようになりましたれども、先天派の説にては、理学にて研究 し得べからざる究寛の原理を研究することが哲学の役目なりと解するをもって、物体、心体、理体のごとき無象 の研究は実に哲学の本分と致します。もしこれを約言すれば後天派にては哲学を解して統合の学、あるいは全体 の学といい、先天派にては原理の学、あるいは絶対の学というの別があります。余をもってこれをみるに、先天 派の説のごとく理学にて知るべからざる実験以外の問題を論理の力によりて研究するのが哲学の本分なれば、物 体、心体、理体のことももとよりその学の受け持ちなることは疑いなけれども、またもろもろの理学を統合総轄 するも、哲学の職務と考えてよい。すでに実験以外の無象の本体を研究するには、ひとり論理のみの案内にてこ れに達することはむずかしい。必ずもろもろの理学の結果を参照するを要します。しかしてみれば無象の本体を 研究するに、自然の勢い、理学の統合が必要なるわけなれば、先天後天両派の説は、つまり相合して一つとなり ます。故に余は狭意の哲学を解して、﹁絶対の学にしてかつ統合の学なり﹂と定めます。もし広意の哲学は単に無 形の学と解すれば足るようなれども、多少統合の意を含んでいます。例えば心理学にても倫理学にてもその研究 の物柄が無形であるから、有形学の結果を統合しきたりて考察を下すことが必要であります。よって余は更に左 39

(19)

の通りの定義を作りました。   哲学︵広意︶は無形の学にして多少統合の学なり   哲学︵狭意︶は絶対の学にして全体統合の学なり  哲学の義解はこれだけにて略し、つぎに学科の分類を話しましょう。 40

第六回 哲学に理論学と応用学との別あること

 理学︵狭意︶にて物理学、化学、天文学、地質学、植物学、動物学等あるがごとく、哲学︵広意︶にも心理学、 論理学、倫理学、美学、教育学、社会学、政治学、純正哲学、宗教学等の諸科が分かれていますが、これを大別 して有象哲学と無象哲学との二つに収めます。しかして有象哲学の下に心理学、論理学、倫理学等をおき、無象 哲学の下には純正哲学ばかりをおき、更に有象哲学を理論と応用とに分かちて、心理学および社会学を理論の部 に入れ、倫理、論理、美学、教育、政治の諸科を応用に入れ、無象哲学の方は純正哲学を理論とし、宗教学を応 用とするのが、余がとるところの分類であります。左に表を掲げて示しましょう。  すべて理論学は事物の道理を研究証明するまでにて、実際の応用いかんを問わず、応用学はその道理を世間人 事の上、あるいはわれわれの心の上に当てはめて、かくなすべしと指示するものであります。これを研究の上に 考うれば、物理学、化学、天文学等はその受け持ちの区域において道理を研究するのみなれば理論学にして、器 械学、製造学、航海学等はその道理を実地に応用して人間社会の実益を計るものなれば応用学であります。これ と同じく心理学、社会学は精神作用の道理あるいは社会現象の規則を考定するまでなれば理論学に属し、論理、

(20)

哲学早わかり 哲学 倫理、教育、 個人と国体との別ありて、 じたる心理的現象を研究するものとみてよい。 す。まず心理学は人の精神現象を知情意の三種に分かちて、 の道理を応用するものは論理学、 あります。 学にて思想知識の本源を論ずるがごとき、 標準を論ずるがごときは、          心理学

無葦︷鐘竃学

 政治等は実際の適用を主とするものなれば応用学に属します。しかして心理学と社会学との相違は        心理学の方は一人一人の心理を研究するものにして、社会学の方は衆人団体の上に生       この心理学を応用して論理学、倫理学、美学、教育学が起こりま       その各種の性質規則を考究するものなるが、その知       その情の道理を応用するものは美学、その意の道理を応用するものは倫理学で しかし論理学、美学、倫理学は決して心理学の応用のみにあらずして、その根本の問題、例えば論理       美学にて美の原理を論ずるがごとき、倫理学にて人間の目的、善悪の        純正哲学に入りて研究すべきものであります。つぎに教育学にて説くところの体育、 41

(21)

知育、徳育の三種中、体育は理学の道理を応用するものとみてよいが、知育、徳育は全く心理学の応用でありま す。つぎに政治学は社会学と同じく個人の学問にあらずして、団体上の学問すなわち国家の団体上における応用 学にして、社会学や倫理学に関係を有します。もし政治の原理にさかのぼりて人間の目的権利の起源等を論ずる に至らば、これまた純正哲学の研究を要する次第であります。  すでに有象哲学の各科を指示してここに至れば、無象哲学につきて二言せざるを得ざるように考えます。さて 無象哲学すなわち純正哲学は哲学の最上に位し、諸学の王学となり、実に学問中の大問屋にしてまた中央政府で あります。故に理学および有象哲学が仮定して自ら説明することあたわざる事柄は、みなこの純正哲学において 討究論定し、すべて諸学の根拠とするところの原理と究極するところの問題とはみな純正哲学の受け持ちであり ます。世間にてはかかる高尚の研究は実際に遠い話なれば、純正哲学のごときは有れども無きがごとく畢寛無用 なりと評するものあるべきも、決して実際に遠き問題にあらず、むしろ近き問題といってよい。よしこれを遠し として廃せんとするも、われわれの思想が自然にその問題を提出し、しきりに答弁を求めてやまざるをいかんし てよろしきや。人間は思想的あるいは理想的動物である。換言すれば哲学的動物もしくは純正哲学的動物であり て、その禽獣と異なるゆえんもまたこの占⋮に有りて存すと考えます。故に田夫野人のごときも多少哲学的思想を 有し、人間は何者にして世界は何物なるやの疑念を抱きています。生前死後のことなどは実際に関係なきことと するも、これを究めこれを知らんとするは人間生まれつきの持ち前であります。それ故に純正哲学の方からかか る問題をわれわれに与えてくれたのでなくして、われわれの方から注文してその説明を純正哲学に頼んだのであ ります。しかしてみれば人間が理想的動物たる以上は純正哲学は人間必須の学問たるに相違ない。もしこれを欠 42

(22)

, 哲学早わかり きては人間の希望を満たすことができず、あたかも衣食住が人間の肉体を保存するに必要なるがごとく、純正哲 学は人間特有の理想の生存を保存するに欠くべからざるものであります。ついてはこれよりその学科の状態を話 しましょう。

第七回 純正哲学の範囲および関係の大なること

 純正哲学の問題はさきに述べたるがごとく、無形無象に属する物体、心体、理体の存否および性質作用を研究 するにあれば、これを分かちて物体哲学︵あるいは万有哲学または宇宙哲学︶、心体哲学︵あるいは精神哲学︶、 理体哲学︵あるいは理想哲学︶の三種となすことができます。これ無形無象の体についての分類なるが、この外 にその相すなわち性徳についての分類があります。すなわち真善美の三種にして、その真は論理学あるいは知識 論の基づくところ、その善は倫理学および政治学の基づくところ、その美は美学の基づくところにして、共に純 正哲学中の問題であります。故にもし高等論理、高等倫理、高等美学に至っては、純正哲学中の一科とみてよい。 これに対して無形無象の体について論ずるところの物体哲学は理学の根拠を論じ、心体哲学は心理学の根拠を論 じ、理体哲学は宗教学の根拠を論ずるものなれども、余はこの三者の直接の応用は宗教哲学なりとの一説を主唱 するものであります。今日のところにては理体哲学だけが宗教の上に応用せらるるようなれども、心体にても物 体にても同じくこれを宗教に応用することができると考えます。かくして後には理体宗、心体宗、物体宗などが 起こるに相違ありませぬ。故に余は純正哲学の応用は宗教学なりと申します。しかしもしその相についての応用 を挙ぐれば、論理、倫理、美学、その外、政治法律までもこれに加わることなれば、純正哲学の応用はすこぶる 43

(23)

広くかつ大なりと申してよい。いま理学︵狭意︶と哲学︵広意︶とを比較して理学より進んで純正哲学に及ぼす 順序を示さば、理学中の中心となるものは物理学にして、他の理学はみなこれより派生したる有様である。すな わち物理学は理学の本家にして、他はみなその分家に過ぎませぬ。これと同じく有象哲学の中心は心理学にして、 他はこれに接続しているものと考えて差し支えない。また理学研究法の骨目は数学にして、哲学研究法の骨目は 論理学であります。すなわち理学は数理に基づき、哲学は論理に基づきて研究しています。しかして理学の究極 するところの問題は哲学の研究を待ち、有象哲学の究極するところの問題は純正哲学の研究を待つことになりま す。

理学働理㌢子旦霧︸純正哲学

 かくのごとき関係ありて理学より進んで純正哲学に至るように考えます。しかしこれは余の考案であることを 断りておかなければなりませぬ。とにかく純正哲学は諸学の帰結するところにして、あたかも学問の大海のごと く、諸学流れてその中に入るほどの広大なる学問であります。世間これを評して哲学は鉄学なりというも、余は 決して不当とは思いませぬ。ただ哲学は非常にむずかしくして一通りの人知では噛み砕きのできぬことあたかも 鉄のごとしとの意にとらずして、その万般の学問に関係してその功用の大なること、なお鉄の功用の大なるがご とくみるときは、哲学はすなわち鉄学なりと申しても差し支えはありますまい。  すでに純正哲学の関係の広大なることを述べたれば、その学問上における学派の主義および名目を示すの必要 を感じました。通常唱うるところの名目に独断派、懐疑派、経験派、合理派、唯物論、唯心論、一元論、二元論、 44

(24)

哲学早わかり 実体論、理想論などの語を用うるも、これは局外の者には解し難いかも知れぬから、一応の弁解を述べましょう。 まず独断派は己の思想にて確実と信ずることは別に疑いを起こさずして、これに相違ないと断定するものを意味 し、宗教家中にはことにこの風が行われています。これに反して懐疑派は決して思想の独断に任せず、なにごと にも疑いを起こして決して事物の実在および真理の原則等を信ぜざるものを意味し、哲学中には往々この極端に 陥るものがあります。経験派は人の知識、思想、その他すべての真理は、みな生まれて後の経験より得るものと なす学派にして、前に述べたるがごとくあるいはこれを後天派と申します。合理派はすなわち道理派のことなれ ば、すべてなにごとも道理に考えてこれに合するものを真理と立つる学派にして、この派は多く経験論に反対致 します。しかして経験論の反対はこれを先天派と申します。唯物論は経験論の極端に走りたるものにして、物質 の外に精神なく、精神作用は神経物質より生ずと立つる論であります。これに反して心の外に物なしと唱うる論 を唯心論と名付けます。=兀論は物と心との二者につき、その本体は なりと立つる論にして、唯物論も唯心論 もみな=兀論の一種であります。これに反して物心二者両存を唱うるものを二元論と名付けます。実体論とは世 界万有の本体が目前の現象を離れて別に存することを唱うる論にして、いわゆる物体の実在を主唱する論であり ます。これに反して唯心論より]歩進み、思想の本体すなわち理想ありて物も心もみなその中よりあらわれ出で たることを唱うる論を理想論と申します。その他なお普通の人知に基づきて真理を立つるものを常識論といい、 仮定憶断を破り批評的に知識の能力を吟味するものを批判学というの類は、いちいち挙ぐることはできませぬ。 これを要するに、哲学は決して鬼でもなければモンスターでもないから、少しも恐るるには及ばぬ。もしその専 門の書について読まば、意外に解しやすいのにかえって驚くことがありましょう。 45

(25)

第八回 哲学の歴史上の発達

 だんだん哲学の名義および学科を一通り話しましたから、これより哲学の発達せし歴史上の分類を述ぶるつも りであります。近来西洋にても哲学は西洋ばかりでなく東洋にもあることが分かり、東洋哲学という名称ができ、 インドの仏教やシナの儒教も哲学のうちへ数え込めるようになり、わが帝国大学中にも先年来東洋哲学の学科を おき儒仏二教を講ぜらるるようになりました。よって哲学、歴史は第一に東洋哲学、西洋哲学の二つに分かち、 東洋哲学をインド哲学、シナ哲学の二つに分かち、インド哲学を仏教哲学、婆羅門哲学に分かち、シナ哲学を孔 孟哲学、老荘哲学に分かちます。つぎに西洋哲学を古代哲学と近世哲学との二つに分かち、古代哲学をギリシア 哲学およびローマ哲学に分かち、近世哲学を大陸哲学と大英哲学とに分かち、大陸哲学をフランス哲学、ドイツ 哲学に分かち、大英哲学をイギリス哲学、スコットランド哲学に分かたなければなりませぬ。左にその表を示し ましょう。  このうち東洋哲学の方は説明するに及ばぬけれども、西洋哲学の方は多少の説明が入ります。まず古代哲学は 西暦紀元前六〇〇年代より中世の終わり、すなわち紀元後↓二〇〇∼=二〇〇年代までをいい、そのうち紀元前 はギリシア哲学の時代にして、その哲学はタレス氏より始まり、これを西洋における哲学の元祖と致します。 紀元後はローマおよび中世の哲学なれども、ギリシア哲学の余波の中ヘヤソ教の泥を混じたる有様にて、哲学と するだけの価値なきものであります。近世哲学はギリシア文字再興の時代より始まるとするも、まさしく近世の 新基礎の上に組織せられたるは、イギリスのベーコン氏、フランスのデカルト氏にして、この二氏は実に近世哲 46

(26)

哲学早わかり 哲学        スコットランド哲学 学の開祖であります。されば西洋哲学は紀元前六百年代より今日までその年歴二千五百年間の発達なれども、中 間千四、五百年間は有れども無きがごとくほとんど中絶の有様なれば、差し引き上およそ千年間の進歩とみなけ ればなりませぬ。しかして今日なお勇ましく進む勢いなれば実に盛んなることではありませぬか。しかるに東洋 はインドにてもシナにても古代↓時はすこぶる隆盛を極め、はるかに西洋の上に超出せしことあるも、その後今 日に至るまで更になんらの進歩なく、そのままに捨て置いてだれも顧みざる有様なれば、大いに衰微をきたせし ももっともの次第であります。今よりわれわれが大奮発して千年以上の後れを取り返さなければなりませぬ。  西洋の哲学は哲学の性質上、古代を三段に分けます。すなわち万有哲学時代、人間哲学時代、宗教哲学時代の 47

(27)

三段にして、ギリシア哲学の初祖たるタレスよりソクラテス以前までは、主に世界万有の起源を論じおりしをも って、これを万有哲学の時代とし、ソクラテス氏より懐疑学に至るまでの間は、人間の知識および道徳を哲学問 題の中心として論じたりしをもって、人間哲学の時代とし、懐疑学以後より中世の終わりまでは、宗教臭味の哲 学のみ行われしをもって、宗教哲学の時代として分けます。実にソクラテスは古代哲学の中興にして、あたかも 日の中天に達したるときのごとく、懐疑学はギリシア哲学の晩景を告ぐる赤鴉に比すべきものであります。つぎ に近世哲学は余の考案にては再興時代と新設時代と完備時代との三段に分かち、再興時代はギリシア文学再興よ りベーコン、デカルトニ氏出世の前に至る。その間はギリシア哲学が復興せしまでにて、別に新哲学の起こりた るにあらざれば、近世哲学の準備期と申してよかろうと考えます。新設時代はベーコン、デカルトニ氏よりカン ト氏の前までにして、その間はギリシア哲学を継述するのではなく、別に新主義を立ていわゆる近世哲学の基礎 を開きたるものなれば、これを新設時代と申します。しかしてベーコン氏は経験主義をとりて英国経験派の開祖 となり、デカルト氏は独断風の哲学を起こして大陸先天学派の開祖となりしより、そののち西洋の哲学は経験、 独断の二派に分かれ、経験派はヒューム氏の懐疑論に陥り、独断派はライプニッツ氏の合理論となり、おのおの 極端に偏するに至りたれば、カント氏出でてこれを統合し、別に批判学を起こして従来の哲学の仮定独断を看破 し、一大完全の組織を開きしより以後は、西洋の哲学大いに完備するを得ました。よってカント氏以後、今日に 至るまでを近世哲学の完備時代と名付けます。これを完備と名付くるはカント以前の不完備なるに比較していう までにて、哲学が真に完備を得るは将来幾千万年の後を待たなければなりませぬ。とにかく古代哲学にありては 紀元前四〇〇年代に世に出でたるソクラテス氏を中興とし、近世哲学にては今日より百年前のカント氏を中興と 48

(28)

哲学早わかり する故に、余は先年、東西哲学界の四聖を選び、東洋にて釈迦、孔子を得、西洋にてソクラテス、カントを得、 あわせてこれを四大聖人として祭ることに致しました。日本むしろ東洋にて哲学の祭を行うものは余をもって始 めとし、かつ今でも余の外にはありますまいが、従来大工職人は聖徳太子を祭り、寺小屋にては菅公︹菅原道真︺ を祭るの例にならい、余は哲学を専門にするものなれば、四大聖人を祭る先例を開きました。もし人間は哲学的 動物である以上は、日本国中の人がこの祭りを挙行せられんことを望みます。

第九回 哲学諸家の学説

 哲学の歴史上の段取りばかり話ししても、皮ばかりにて実がないと同様なればおもしろくなかろうと思います から、これより古今の間にあらわれたる名高い哲学者を読み上げましょう。まずギリシアにてはタレス氏の学派 をイオニア学派と唱え、物理上の観察によりて世界万有の根元を論じたるものなるが、タレス氏は万有の根元は 水であると申しました。その後ピュタゴラス氏起こり世界の成立を数理に帰して、万物みな数よりなるという説 を唱え、つぎにエレア学派は世界は単一を本とすといい、これに反してヘラクレイトス氏は火元変化説を唱え、 エンペドクレス氏は地水火風四元説を唱え、デモクリトス氏は分子成物説を唱え、甲論乙駁なかなかやかましい ことでありましたが、その極、誰弁学と名付くる]種の懐疑派が起こりて、ギリシア前世紀すなわち万有哲学時 代は終わりを告げ、更にソクラテス氏出でて誰弁学を排斥し、かつ前世紀の万有哲学を一転して、哲学の問題を 人間の上に移し、もっぱら倫理および教育の道理を講ずることになり、哲学界の形勢が一変するようになりまし た。氏の門下より出で、青は藍より出でて藍より青きの勢いをもって、哲学の舞台に名をとどろかせしものはプ 49

(29)

ラトン氏であります。その学ソクラテス氏の哲学を継述せるも、更に前世紀の万有哲学を参考して、倫理も物理 も論理もみなことごとく網羅して一大組織を開き、もって理想哲学を唱えました。つぎにプラトン氏の門下より 出でて、同じく出藍の勢いをもって哲学界を震動せしものはアリストテレス氏であります。氏はプラトン氏の理 想論の空想に過ぐるを見てその論を事物の上に移し、別に新哲学を組織するに至り、その博覧達識においては古 代哲学者中の泰斗と呼ばれています。要するにこの二大家がギリシア哲学の両大関にして、哲学の深遠なること はプラトンを第一とし、哲学の正確なることはアリストテレスを第一とし、共にその流れが近世に伝わりて、プ ラトンの哲学はドイツ哲学の源となり、アリストテレスの哲学はイギリス哲学の基となりしに相違ない。当時ま たストアの哲学、エピクロスの哲学並び行われ、前者は万有の規律に基づきて道徳上厳粛教を唱え、後者は分子 成物論をとりて快楽教を唱え、互いに相争いたるは実に近世の倫理学上における二大主義の根基となりました。 以上四大学派の結果は懐疑学となりて、真理の規則を否定し道徳の標準を抹殺し、哲学ここに至って大いに衰え、 爾来べーコン、デカルト両氏の出つるまでは、格別講ずべきほどの学説世に起こらざりし有様でありました。  ベーコン氏ひとたび出でて経験主義を唱えてより、ホッブス氏は道徳上自利教を唱え、ロック氏は心理上感覚 論を唱え、イギリスにおいては経験学派大いに勃興するに至りました。しかしてロックの論は相伝えて、一方に ありてはバークリー氏の唯心論となり、ヒューム氏の懐疑学となり、他方にありてはハートリー氏の心理学とな り、更に相伝えてミル父子の論、べーン、スペンサー諸氏の学を起こすに至りました。またホッブス氏の自利教 が誘因となりてスコットランドにハチソン氏の良心論起こり、相伝えてリード氏に至れば、氏はバークリー、ヒ ューム諸氏に反対して常識論を唱え、スコットランド学派の系統を開き、スチュアート、ブラウンを経てハミル 50

(30)

哲学早わかり トン氏に達し、更に一段の進歩を見るに至りました。以上は大英哲学の状況であります。  つぎに大陸哲学はフランスのデカルト氏ひとたび独断の学風を開き、思想を起点として哲学を講ぜしより、オ ランダのスピノザ氏これを継ぎて一元論を唱え、一転してドイツに入り、ライプニッツ氏の合理論を呼び起こし、 氏は元子開発の理をもって知識の先天なるゆえんを唱え、もってイギリスのロック氏に反対し、その説ヴォルフ 氏を経て相伝えてカント氏に至れば、ヒュームの懐疑論を破り、かつ経験独断の両主義を統合して批判哲学を起 こし、唯心論より進んで物体実在論を唱え、もって新たに哲学上の大問題を提出するに至り、その学派また相伝 えてフィヒテ氏の主我論となり、シェリング氏の絶対論となり、へーゲル氏の理想論となりて理想の極端に達し ました。その系統に反対して起こりたるものは前にヤコービ氏の直覚論、シュライエルマッハー氏の感情論あり、 後にヘルバルト氏の多元論、ショーペンハウアー氏の意志論、ロッツェ氏の元子論等めぐりて、互いに理を練り 論を闘わすはあたかも戦国の時、英雄四方に割拠して雄雌を争うの有様に等しい。ただその異なるは野蛮的腕力 競争と哲学的道理競争との別であります。その論はいずれも高尚なるにかかわらず、よく社会の上に応用の道を 開き、カントの学は道徳の上に、フィヒテの説は人権の上に、シェリングは美術の上に、へーゲルは論理の上に、 シュライエルマッハーは宗教の上に、ヘルバルトは教育の上に、大いに影響を与えました。その後ハルトマン氏 はへーゲル、ショーペンハウアーとの両説を統合して一家の学説を唱え、ヴント氏は生理、物理の道理に基づき て実験心理を唱うる等、いちいち述べ尽くすことはできませぬ。実にドイツはカント以後哲学界に百花燗漫の光 景を呈し、この道に遊ぶものの眼には、向島や嵐山の花見に千倍万倍する興味があります。  フランスにてもデカルト氏ひとたび独断学を起こして以来、その門弟独断・王義を継述するにもかかわらず、そ 51

(31)

の反対たる唯物論大いに盛んなるの勢いを示し、前にガッサンディ氏ありてギリシア時代の唯物論を再興し、後 にコンディヤク氏出でて、ロックの感覚論を継述し、あるいはエルヴェシウス氏の自利説、カバニー氏の唯物論 等続々世に出つるに至りました。しかるにここにまたクーザン派の折衷説起こり、後にコント氏の実験学出でて、 共に哲学上に一大影響を与え、なかんずくコントの学は近年における哲学上の一大革命にして、その実験主義よ り大いに哲学の形勢を一変し、爾来哲学を理学風に講究する有様となりました。よって余はカントおよびコント は近世哲学史上の二大豪傑と考えます。このコントの実験主義がイギリスに入り、スペンサー等の学に大いなる 影響を与えしは疑いありませぬ。当時スペンサー氏の哲学は実験主義に進化論を加えたるものにして、進化哲学 と申してよろしい。また道徳上にありてはベンサム氏、ミル氏等の功利教あるいは実利主義、大いに世間に歓迎 せらるる勢いなるが、これまた道徳上における実験主義と申してよろしい。元来ドイツには独断主義行われ、イ ギリスには経験主義行われ、両国の学風おのおの特色を有せしが、近来かえってドイツにスペンサー風の実験哲 学行われ、イギリスにへーゲル風の理想哲学行わるると申しますが、これは実に不思議ではありませぬか。衣服、 装飾品ばかりでなく、哲学にもその時々の流行あるものと見えます。  以上は哲学史上の名高き学者ばかりを拾いきたりてならべたるものなれば、哲学者の小博覧会とみてよろしい。 そのいちいちの詳しき話は哲学史について読まなければなりませぬ。

第十回 哲学の社会上に与うる利益

かくのごとくイギリスにもフランスにもドイツにもたくさんに哲学者が輩出して、道理上の戦争を交えてやま 52

(32)

哲学早わかり ざるはなんぞやと考うるに、つまり哲学が人間に必要なるによるというより外はありませぬ。しからば哲学はな にを目的としてそのように必要なるやと尋ぬるに、すでに前にも述べたる通り、理学の研究のできないところへ 立入り、実験の力のとどかぬところへ踏み込み、われわれの知識、思想の及ぶ限り宇宙の真理を窮めて、理想的 動物たる人間の理想を満足せしめ、もって我人に安心を与うるに至るものであります。その他、理学の諸科が世 界の一部分にありて研究したる結果を結びつけて、宇宙全体の真理を論定するものであります。すでに古来の哲 学者が一心に哲学を研究するときは、知らず知らず食を忘れ眠を忘れ、老いのまさに至らんとするを忘れ、死の まさに近づかんとするを忘れ、ほとんどわれわれを忘るるの妙所に至るは、全く快楽その心にあふれその身に余 るによることは申すまでもありませぬ。世間の人が哲学などはなんの楽があるかと評するは、全くその楽を知ら ざる故にして、諺にいわゆる﹁食わず嫌い﹂と申すことでありましょう。よって誰人もひとたび哲学の真味を味 わえて後に評するように願います。すべて快楽を得るにはなかなか費用のかかるものなれども、哲学を研究する にはなんにも費用はいらず、このくらい安上がりの楽はありませぬ。よし楽はないにしても、人間と生まれたる 以上は、人間の目的を知らずして世を渡ることは最も不都合と考えます。孔子も朝に道を聞いて夕に死すとも可 なりとまで申され、その道とは人間の目的のことであります。しかしてその目的を研究することは物理学でもで きず、天文学でもできず、ぜひ哲学によらなければなりませぬ。何日間顕微鏡をのぞいていても、そのうちより 決して人の道の現れてくる道理なく、また何カ月間望遠鏡をうかがっていても、決してそのうちに人の目的が分 かるはずはありませぬ。そうしてみれば快楽の有無にかかわらず、いやしくも人間に生まれたる以上は、哲学を 修むるは必然の義務と心得てよろしい。いわんやこれを修むるにおいては身にも心にもあふるるほどの快楽を感 53

(33)

ずる次第であります。畢寛世間が哲学を無用視するは、哲学そのものを知らぬばかりでなく、哲学が世を益し人 を利するゆえんを知らぬからでありましょう。よってここに哲学の社会および人心上に与うる利益を述ぶるつも りであります。  哲学の利益についてはこれを二段に分けて、第一に社会上に与うる利益、第二に人心上に与うる利益として説 かなければなりませぬ。まず社会上の利益を挙ぐれば、理学が有形上より器械、製造、運搬、土木等を進めて、 社会上に利益を与うるがごとく、哲学は無形上より教育、宗教、政治、道徳、美術を進めて、社会上に利益を与 うることは明らかな事実であると考えます。しかし理学は有形であるから人の目に触れやすく、哲学は無形であ るから人の目に見えぬために、世間はひとり理学の恩恵を認めて、哲学の賜物を知りませぬ。これは哲学の不幸 というものでありましょう。有形上では昔は草軽をうがち、数日間かかりて山坂を歩いたのに、ただいまは汽車 や汽船ができたために、↓時間か半日のうちに懐手で眠りている間に旅行ができるから、だれもこのぐらい有り 難いことはないと思いますが、昔は政治上で暴威をもって人民を圧制し、一人罪を犯せば三族を平らげるなど、 実に残酷を極めたるに、今日は哲学上人間の目的および権利や自由の道理が分かり、ために三族を平らぐるがご とき苛刑はなくなりたれども、そのことにはさほど有り難味を感じませぬ。その他、教育にせよ宗教にせよ、昔 と今日とは大層変わりて大いに改良も進歩もできたのに、これまたさほど人の喜ばぬのは、奇怪の次第でありま す。畢寛するに世間の人は半盲半目明きの状態にて、有形を見る眼ばかりありて、無形を見る眼を持たぬといわ なければなりませぬ。たとえなにほど器械や製造や運搬等が進んでも教育、宗教、政治、道徳が昔日の状態にと どまりおらば、決して社会が理学の恩恵を楽しむことはできず、その上に教育道徳が進まざれば理学上の色々の 54

(34)

哲学早わかり 発明もできないに相違ありませぬ。しかるに近世いろいろの発明のできたのは、全く教育道徳の進歩したる結果 なることは明らかであります。例えば器械と知識との二つについて器械より知識を産み出すか、知識より器械を 産み出すかというに、無論知識が進んで始めて器械の発明ができるのであります。しかしてその知識を進めるは 教育の力にして、哲学の受け持ちなることはいうまでもありませぬ。すでに西洋近世の文明をみるに、いろいろ の器械が発明になりたるは第十八世紀より第十九世紀の今日にありて、その前に三百年も四百年も哲学思想の進 歩によりてまず政治や宗教や教育が一大改良を受け、最後にこの器械文明の結果をみるに至りました。換言すれ ば哲学が根となり幹となりて器械の花を開くに至れりと申してよろしい。とにかく哲学思想の進歩は人知の進歩 を意味することなれば、今日の文明は哲学の進歩によりて現れたというても差し支えはありませぬ。よしこの文 明は哲学の進歩にあらずして理学の進歩とするも、理学そのものの進歩は哲学の進歩によるものなれば、哲学に よりて文明を産み出したといっても不都合はありますまい。その例はギリシアの文明に照らせばたやすく分かり ます。すなわちタレス氏がひとたび哲学を唱えて以来諸派の哲学陸続として起こり、これに伴いて百般の文明が 栄ゆるようになりました。かく申すはあまり哲学びいきのように思う人もあるべきも、哲学の方面よりみるとき はかくのごとく思わざるを得ざれば、その自ら信ずるところを述べたる次第であります。

第十一回 純正哲学の人の精神上に与うる利益

 以上論ずるところの哲学が、社会上に与うる利益は有象哲学か無象哲学かというに、余は双方を合して広意の 哲学の考えにて申したのであります。現今わが国にて理学というときは狭意の理学すなわち有形的理学を意味し、 55

(35)

哲学というときは広意の哲学を意味しています。その例はわが帝国大学の理学科または哲学科の名称について分 かります。しかしこれを狭意の哲学の上に論ずるも同じことである。ただ無象哲学すなわち純正哲学は有象哲学 にて証明のできざる道徳、宗教、政治等の根本的原理を論明せるものなれば、やや間接にわたるだけであります。 つぎに哲学が各自の精神上に与うる利益を考うるに、狭意の哲学すなわち純正哲学だけについてその利益の要点 を挙示すれば左の通りであります。   第一に知力を練磨すること   第二に思想を遠大にすること   第三に情操を高尚にすること   第四に人心を安定すること  諸学のうちで直接に人の知力思想を練磨してその発達を助くるものは、数学と論理学と純正哲学との三つであ ります。すでに数学のごときは実用上に必要なるに相違なきも、今日普通学において代数幾何までを学ぶも普通 の商業や農業には別にその必要なきはずである。たとえ商法に数学が入ると申しても、加減乗除、利息算ぐらい にて足るべく、代数幾何までを煩わすには及びますまい。しからば普通学に代数幾何までを授くるは、全く知力 を練磨するためと心得てよろしい。これと同じく論理学は申すに及ぼず、純正哲学のごときは直接に商業や農業 に関係なきも、無形無象の事柄を研究するものなれば、特別に知力の働きを要することにて、かくしてひとたび 練磨したる知力は、これを実業上に用いてその功あるべきは幾何代数と同様であります。例えば商業にしても来 年は一層大仕掛けに拡張しようと思うときは、二年も三年も向こうのことを想像にて推し測らなければなりませ 56

(36)

哲学早わかり ぬ。つまりその問題は純正哲学と同じく無形無象の事柄であります。故に平素、純正哲学にて無形無象のことま でを研究して鍛えたる知力をこれらの実業上にあてはめれば、いくぶんか正確なる想像を得らるるに相違ない。 これ純正哲学の人心上に与うる利益の一つであります。  つぎに人間の弊はとかく卑屈に流れ小事にあくせくするものなるに、わが国民はなおもって性質急速にして、 なにごとも規模の小に過ぐるの傾きがあります。この弊を矯め直すには純正哲学のごとき宇宙の広大なること、 時間の無限なることばかり研究する学問を修むればよろしいに相違ありませぬ。これまでの人の気風を大ならし むるには、老荘学や禅学がよろしいと申しきたりたる例に考えても、純正哲学が人の思想を遠大ならしむる功あ ることは明らかであります。  つぎに人間は情欲の奴隷になり、酒色にふけりやすきものなれば、これを制する工夫を考えておかなければな りませぬ。もし人が理学の目的物たる有形の事物にばかり意を注ぎておるときには、有形上の考えばかり浮かび 出でて、かえって酒色の欲を強くするように傾き到底これを制することはむずかしけれども、もし無形ことに無 象の事柄に意を注ぎ、その方に興味を有するようになれば、有形上の情欲を無形上に移すことができます。よし 一歩を譲りて移すことができぬにしても、有形の一方に嗜好を有するものと、有形と無形と両方に嗜好を有する ものとは、その 方だけにおける嗜好の度の強弱において大いに異なることあるは疑いありませぬ。これひとり 道理上のみならず、実際上純正哲学的趣味を有するものは、体欲を制するにやすき例は古来たくさんあります。 とにかく純正哲学を研究するときは人の情操を高くし、人の品位を進むるの益あることは、わが国維新前の儒者 学者に考えても分かります。従来の儒者はその学ぶところは別段純正哲学というほどでないにせよ、孔孟の道に 57

参照

関連したドキュメント

このような情念の側面を取り扱わないことには それなりの理由がある。しかし、リードもまた

在させていないような孤立的個人では決してない。もし、そのような存在で

関西学院大学手話言語研究センターの研究員をしております松岡と申します。よろ

<第二部:海と街のくらしを学ぶお話>.

人間は科学技術を発達させ、より大きな力を獲得してきました。しかし、現代の科学技術によっても、自然の世界は人間にとって未知なことが

哲学(philosophy の原意は「愛知」)は知が到 達するすべてに関心を持つ総合学であり、総合政

学側からより、たくさんの情報 提供してほしいなあと感じて います。講議 まま に関して、うるさ すぎる学生、講議 まま

 みなさんは、授業を受け専門知識の修得に励んだり、留学、クラブ活動や語学力の向上などに取り組ん