労働力とその商品性格
荒 木 廼 夫
1 .いわゆる「労働力ないし労働能力」なる用語は,つとに,W.ペティ(「faculty of labouring」), J. F.プレイ(「capability of labouring」)J. C. L. S. deシスモンディ (「puissance de travail」), J. K.ロードベルトゥス(「Arbeitskraft」)などにより使 ラ 用されており,特段にマルクスにより新造されたものとはいえないが,『資本 論』などでも格別に独自の概念として,今日にいたるも,その検討は多岐にわ たりかつ細目に及んでいる。マルクスにあっても,労働者がうけ、とる報酬(「労 賃」)は,早くより(1844年)その「生活の維持」と「家族の扶養」費であり, 古典派の正統な継承の一点は不変である。しかし,片や「死んだ」既「対象」 労働,片や「生きた」未「対象」労働とし,前者を価値(労賃に相当)に,後者 を使用価値にふりわけ,その統一体を商品としての「労働能力(労働力)」とす る独自の視点の事実上の確定は,やや遅れる(1847年)のである。そして,こ の観点が自覚的に明示されるのは,ようやく1850年代(58年)にはいってから のことであり,その表現は,始めて.「労働能力(Arbeitsverm6gen)」となり, 60年代半ばに「労働力(Arbeitskraft)」なる表記を生み,そして1867年の『資 本論」での壁頭併記にようやくたどりつくのである。しかしながら,ζの独特 の規定をめぐっては,侃々謂々の論議がなお間断なく続けられているのである が,果た、して十全の整合性をもつものであるかどうか,さらに立ちいった検討 1)この点については,平瀬巳之吉『古典派経済学の発展』日本評論社,1950年,蛯原 良一『古典派資本蓄積論の発展と労働者階級』法政大学出版局;1974年および鈴木和 雄「「労働の売買」と「労鋤力の売買」(1)」「文経論叢」第21巻第2号,1986年3月な どを参照。 」2 彦根論叢 第250号 を今いちど加える必要があろうかと考える。本稿は,その試みの一つである。 [ マルクスが,個々の具体的な資本の観察にもとづき,その個別の生産物にた いする貢献度に応ずる報酬としてその全労働に後払されるもの,すなわち現物 的には1/nの特定生産物を労働者の受取分の本質とする理解にたいし,根本 的な批判を試みる背景には,社会的資本の観点すなわち全産業を一部門にアグ リゲートする見地が控えている。いわば,個別資本の視点とは逆の,生産と異 なる消費,後払に代わる前払,個別生産物に対する一般的生産物(個人的消費分 の労働者用の全種別)等々の凹面鏡的倒置像の抽出こそ,その端的な表明である。 かくして,生産開始直前に,労働者の受取報酬を確定せんとすれば,すでに稼 動しおわれる労働にその理論的根拠を求めることはできない。改めて,非・対 象化の労働を素材に新たな検討を試みなければならないが,マルクスの,この 点に関する理論的道程は必ずしも平坦なものではない。 しかも,「Arbeitsver− mδgen」に始まり「Arbeitskraft」に終わる,その所説は,独創にあふれる新 見地ではあるが,なお十分に徹底したものとはみなしがたい。俗流的見解の基 本的誤りを指摘したことの意義は,極めて高いが,積極的な立論において再検 討の余地があるのである。ところで,労賃の経済学的検討は,早くには,いわ ゆる『経済学・哲学草稿』にみられる。 しかし,この草稿は,いまだ,A.ス ミスの影響下にあり,資本と労働との明確な関係の展示にはいたっていない。 「労賃」は「資本家と労働者とのあいだの敵対的競争」で決定され,その内実 は,「最低」かつ「必然的」な額として「労働期間中の労働者の生活維持」費 に「一家の養育」費を加えたものに等しいとするにすぎないし,「資本の利潤」 うにおいても,「労働とその生産物」への資本の「支配力」を指摘するのみである。 しかしながら,その約3年後,1847年末の『賃労働と資本』の講義原稿にい 2)K.マルクス,『経済学・哲学手稿』(「マルクス・エンゲルス全集」第40巻,390頁, 403頁)(「K.Marx・F. Engels Werke」Band 40, S.471, S.484)以下,次のように 略記,「全集」(40),Werke(40)。
労働力とその商品性格 3 たるや,様相は一変する。その一部は『新ライン新聞』(1849年4月,5,6,7, 8,11日の5日間)に掲載されるが,周知のごとく,エンゲルスによる校訂版が 3) 1891年に「唯一の変更」を加え,発刊される。その変更とは「労働」を「労働 力」とした一点である。この論文において,事実上「資本と労働」の明確な連 4) 関をはじめて示したといえようが,その核心は次の一文に集約される。 「労働者は,彼の労働(下線部分はエンゲルスにより次のごとく訂正一労働力)と 交換に生活資料を受け取るが,資本家は彼の生活資料と交換に労働を,労働 者の生産的活動(produktive Tatigkeit)を,創造力(schδpferische Kraft)を 受け取る。そして,労働者は,この力によって,彼の消費するものを補填す るだけでなく,蓄積された労働にたいして,それがまえにもつていたよりも 大きな価値を与えるのである。労働者は,資本家のもっている生活資料の一 部を受け取る。これらの生活資料は,労働者にとってなんの役にたつか?直 接の消費に,である。しかし,生活資料は,私が消費するとたんに,私の手 から失われて,もうかえってこない。ただ,私は,この生活資料が私を生か してくれる期間を利用して,新しい生活資料を生産する。すなわち,それら を消費しているあいだに,私の労働によって消費されてなくなる価値の代わ りに新しい価値をつくりだすのである。けれども,まさに労働者は,ほかな らぬこの貴重な再生産力(reproduktive Kraft)牽,受け取った生活資料と交 換に譲りわたしてしまうのである。だから,労働者は,この力そのものを失 3) 『賃労働と資本』においても,労働の潜在性を表示する用語は絶無ではない。 「では,商品の,交換価値の一総和は,どのようにして資本になるのか? それが,直接の生きている労働(下線部分はエンゲルスにより次のように訂正一匹 働力)との交換を通じて,独立の社会的な力として,すなわち社会の一部の者の力と して,それ自身を維持し,かつ,ふやすことによって,である。労働能力(Arbeits− fahigkeit)以外にはなにも所有しない一階級が存在していることが,資本の必要な前 提である。」(「全集」(6),404頁,Werke(6), S.409) 4)つとに,『哲学の貧困』(1846年12月末から47年4月初めにかけて執筆,47年7月公 刊。1885年にドイツ語訳で発刊)の原本の一つ(1921年,櫛田民蔵がドイツより持ち 帰り,現在,東北大学に齎蔵中のマルクス自用初版本の複写版)によると,「労働」 の次に「の印をつけfoot noteとして「La force de travairとの青鉛筆の書入れがあ る。(「マルクス・エンゲルス全集」㈲:大月書店,86頁,『哲学の貧困』一著者自用・ 書き入れ・初版本一(ファクシミリ版)田中菊次編注,青木書店,1982年,p.35)
4 三国論叢第250号 の 唯っ’てしまったわげである。」 との一文は,後半の「ich」を「er」に修正する余地を残しはするものの, マルクスの最終見解と基本的には全くi整合するものである。そして,エンゲル ズによる訂正も後のマルクスが,「労働」なる用語を大きく二分して生きた, 顕現した労働と胎生の,潜在化した労働(=労働能力ないし労働力)とする以前 の両者混用的「労働」内容を正しくとらえなおすものといえよう。そして,一 部になお校訂の徹底をかくうらみはあるが,このエンゲルスの校訂本は,民衆 版どしてのみならず,アカデミー版においてさえ,十分その正確さを誇称しう るものである。しかしまた,問題はそこから始まる。 皿 『賃労働と資本』の講義以来,約11年を経て,ようやくマルクスの本格的な 経済学研究の成果の公刊準備が始まるが,いわゆる『経済学批判。原初稿(1858 ・10∼12)』の「第3章 資本 A 資本の生産過程 1 貨幣の資本への転 化」冒頭10頁強の未完の原稿中において,始めて「労働」の明確な概念化が試 みられる。 {a} 「貨幣は,今では対象化された労働なのであって,この労働が貨幣の形 態をもっていようと,特殊的商品の形態をもっていようと,かまわないの である。労働の対象的定在様式は資本に萢立するものではなく,どんな対 象的定在様式も資本の可能的存在様式として現われる。資本は,単純な形 態変換によって,づまり貸幣の形態から商品の形態に移行してゆくことに よって,こうした存在様式をとることができる。対象化された労働にたい する唯一の対立物は,対象化されていない労働,客体化された労働に対立 している主体的労働である。あるいは時間的には過去のものだが空間的に .存在している労働に対立している,時間的に現存している生きた労働であ る。労働は,時間的に現存している非対象的な(したがってまたいまだ対象 5)K.マルクス,『賃労働と資本』(「全集」(6),405頁(Wefke(6). SS.409∼10))
労働力とその商品性格 5 化されていない)労働としては,能力(Verm6gen),可能性(M691ichkeit), 力量』(Fahigkeit)としてしか現存し.えない。自立してあくまでも自分に固 執する対象化された労働が資本であるが,この資本に対立することができ るものは,ただ生きた労働能力それ自体だけである。その意味で,貨幣が 資本になることのできる唯一の交換は,貨幣の占有者が生きた労働能力の ビ 占有者,すなわち労働者と行なう交換である。」 ㈲ 「貨幣が資本へ転化するための条件は,貨幣の所有者が貨幣を,商品で ある他人の労働能力と交換する.ことができることである。したがっ.て,流 通の内部で労働能力が商品として売り出されることであるひというのは, 単純流通の内部では,交換当事者たちは,ただ買い手と売り手として以外 には,対応しあうことがないからである。だから,この条件は,労働者が 彼の労働能力を利用し尽くされる(verntttzen)べき商品として売りに出す 7) こと,つまり,彼が自由な労働者であるということである。」 {c) 「似下の点をしb・かり.と堅持しておくことが,本質的に重要である。す なわち,ここで単純な流通関係として現われてくるような関係は一さしあ たりはまだ完全に単純流通に属しており,交換される商品の使用価値が特 有のものであるというただその一点で単純流通の限界を越え出ているにす ぎない一貨幣と商品との関係に.すぎないこと,つまり,単純流通において 現われるのとなんら変わるとごろのない,対立しあう両極という形態をと つた等価物と等価物との関係にすぎないということである。流通の内部に 属しているものは,〔一〕しかもそれ自身が単なる流通関係として定在して いるような,資本と労働とのあいだの交換ではなく,貨幣と生きた労働能 力とのあいだの交換なのである。使用価値としては労働能力は,労働活動 それ自体のなかでしか実現されることはない。とはいえ,このことは,一 6)K.マルクス,『資本論草稿集』(3),大月書店,188∼9頁(K.Marx−F. Engels Gesamtausgabe, zweite Abteilung Band 2, S.86。以下, MEGA(二)2のごとく 略記。 7)同書,193頁(ibd., ss.90∼1)
6 彦根論叢第250号
本のワインを購入したときに,その使用価値がワインを飲むことによって はじめて実現されることと,全く同じである。飲むという行為が単純な流 通過程のなかに含まれないのと同様に,労働それ自体もそれには含まれな い。葡萄酒も能力〔Verm6gen〕,可能態にあるものとしては,飲むことが できるものであり,葡萄酒を買う行為は,飲むことができる物を領有する ことである。これと同様に労働能力を買う行為も,労働を意のままに処分 しうる能力(Dispositionsfahigkeit ttber Arbeit)のことである。労働能力は 主体それ自身の生命のうちに存在しており,主体それ自身の生命の発現 (Lebensausserung)としてのみ表出されるものであるから,労働能力の購 入,労働能力を使用できる名義(Tite1)の領有によって,使用行為のあい だに,買い手と売り手とが,対象化された労働が対象として生産者の外部 に存在している場合に彼らがおかれるのとは異なった関係のなかにおかれ るのは,当然である。こうなったからといって単純な交換関係が侵害され るわけではない。貨幣と労働との交換がG−W−Gという特有な交換にな , るのは,なぜかといえば,それはひとえに貨幣によって購買される使用価 値のもつ特有な本性一すなわちそれの消費が労働能力の消費であり,つま り生産,対象化しつつある労働時間,交換価値を定立する消費であり一そ れの使用価値としての現実的存在が交換価値を創造することであるという 一特有な本性によることである。G−W−Gという特有な交換においては, 交換価値それ自身が交換の目的として定立されており,また購入された使 用価値は直接に交換価値のための使用価値,すなわち価値を定立する使用 き 価値なのである。」 これら三文を通して,マルクスが明示したのは,生産過程で機能しつくした 「労働」が商品対象となるのではなく,機能発動以前の「労働」が商品対象と なる,としたことである。これを一般商品と同じ価値に同定するならば,中古 品を除き,すべて未使用のものが,使用可能性,使用可能態,使用能力として 8) 同書,194∼5頁(ibd., sS.91∼2)労働力とその商品性格 7 市場に出現するのである。利用されつくした対象は一体に売却不能である。こ の商品鉄則にたつかぎり,「Vermδgen, M6glichkeit, Fahigkeit」として労働 の自由な所持者が,これを唯一の売却対象とする場合にかぎって,資本もまた 必ずこの取引に呼応するのである。しかし,一般商品との決定的な相違点は, その使用価値にある。その消費は,文字どおりの消費ではなく,生産であり, いわば生産的な消費である。交換を経由した個人的消費は,もはや経済学の射 程圏外にある。それにたいし,交換通過後の生産的消費は,経済学の最優先的 緊急の課題である。このことは,折角のマルクスによる「生きた」労働の規定 に影響なしとしないのである。すなわち「対象化されていない」「客体化され た労働に対立する」が「時間的に現存している」生きた労働とは,交換直前の 厳しい意味の潜在的な労働から,もはや活動しつつあるが完了直前までの労働 まで広く包括しうる内容となるのである。この点は,1861年8月に再開される 『経済学批判』の続稿に明白に表明される。すなわち,「第3章」を「資本一 般」に改め「1 資本の生産過程」「1 貨幣の資本への転化」「r労働との 交換 労働過程 価値増殖過程」とする冒頭「労働との交換」の記述中での次 の一一文である。 (a) 「対象化された労働にたいする唯一の対立物をなすのは,最象化されて いない労働,生きた労働である。一一方は空間のなかに存在する労働であり, 他方は時聞のなかに存在する労働である。一方は過去の労働であり,他方 は現在の労働である。一方は使用価値に体化されているが,他方は入間の 活動として過程を進みつつある(prozessierend)もの,また過程を進みつつ あるときにはじめて,自らを対象化できるものである。一方は価値であり, 他方は価値を創造するものである。既存の価値が価値創造的活動と対象化 された労働が生きた労働と,要するに貨幣が労働と交換されれば,この交 換過程を媒介にして既存の価値が維持され,あるいは増大する可能性があ 9) るようにみえる。」 9)K.マルクス,『資本論草稿集』(4),大E書店,49頁(MEGA(二)3・1,S.30)
8 彦根論叢 第250号 〔b) 「さらに,次のような対立がある。すなわち,対象化された労働として の貨幣(あるいは価値・一…般)に対立して,労働能力が生きた主体の能力とし て現われるのであり,一方は過去の,以前に行なわれた労働,他方は未来 の労働(zukUnftige(Arbeit))であって,この後者はまさ}ζただ,生きた活 動としてのみ,生きた主体そのものの,時間的に現存する活動としてのみ, 10) 存在しうるものである。」 みられ.るとおり,.例文㈲は,58年草稿の踏襲であるが,例文(b)は新出の見解 を含むのである。これら両者をくみあわせるならば「現在の(gegenwartig)」 労働および「未来の(zukttnftig)」労働が共に「時間的に現存する活動(zeitlich vorhandne Tatigkeit)」=「時間のなかに存在する労働(in der Zeit vorhandne ID Arbeit)」.にy対置されているわけである。このことは,たとい比喩にすぎない とはいえ,マルクス自身の動揺を如実にもの語るものといえよう。テキスト的 な表題とはいえ,「貨幣の資本への転化」が全体として「資本の生産過程」に 挿入されたことも「資本と労働の交換」が交換から生産へ勇み足する一つの契 機をなしたとも憶測されるのである。 rv 『賃金,価格,利潤』は,1865年5月末∼6,月27日にかけて英文で執筆さ れ,6月20日半27日に「国際労働協会(Internationale Arbeiterassoziation(lnter一 10)’同書,59頁(ibd. s,36) 11)より明白な一文を挙げるならば,『資本論』(原稿)の次の「節である。「……生産 手段にすでに含まれた労働は,新たに付加される労働と同じ労働である。それらは次 のことによづてのみ区別される。すなわち,前者は使用価値のなかに対象化されたも のであり,後者はこの対象化の過程中にあるものである。前者は過去であり,後者 は現在である。前者は死んだものであり,後者は生きたものである。前者は対象化 .が完了さ.れており,後:者は現在対象化されつつあるものである。(Die in den Pro− ductionsmitteln bereits enthaltne Arbeit ist dieselbe wie die neu zugesetzte. Sie unterscheiden sich nur dadurch dass die eine vergegenstandlicht ist in Gebrau− chswerthen und die andre im Prozess dieser Vergegenstandlichung begriffen, die eine vergangen, die andre genenwartig, die eine todt, die andre lebendig, die eine vergegenstandlicht im Perfectum, die andre sich vergegenstandlichend im Prasens ist.)」(『資本論綱要』岩波書店,146頁, MEGA(二)4・1,S・68)
労働力とその商品性格 9 national Workingmen’s Association))(1864∼76)」の「中央評議会(Zentralrat)」 で講演されたものである。こ.の出版の手始めは,マルクスの娘エリーナにより 1898年に行なわれる。そのさい「まえおき」と「1∼6」までの見出しは,エ ノープリングにより付されるが,「7」の「労働力」からは,マルクス.自身によ り予め付されている。独訳は,同年『ノイエ・ツァイト』誌(第16巻第12号) にベルンシュタインの訳文で紹介されるが,この講演原稿は,終始一貫この力 13) を同一語で統一している。しかし,『経済学批判』草稿のその後の道行は,必 ずしも平坦ではない。『資本論』(ee一一部)初版に最も近い草稿の残部『第7章 直接的生産過程の諸結果』,(第二部)第一稿や第二稿,(第三部)諸草稿など においては,〔(第二部)の第二稿や(第三部)の諸稿は,現行エンゲルス編集 版を参照するほかないが,〕(第二部)第一稿は,専ら「Arbeitsvermδgen」 14) を使用し,(第一部)『第7章』は数回の「Arbeitskraft」表記を除けば概ね 「Arbeitsverm6gen」でおしとおし,(第二部)第二稿(∼第八稿)や(第三 部)草稿群は,一体に「Arbeitskraft」の表現を採択しているのである。 ちなみに『資本論』(第一部)〔初版〕の唯一の残存原稿『第7章 直接的生 産過程の結果』においては,「Arbeitskraft」の使用は,「die zweckmtissig 15) 16) ausserunde A.」 「die der sich Werkthtitig・2usserunden A.」 「von der 17) 18) Abntttzuhg seiner A.」「als blos subjektive A.」および「diese Production l9) der A. selbst」など散発的な数か所に限られ,他はすべて「Arbeitsverm6gen」 12)英文の原語は,「the labouring power」(MEGA(二)4・1, S.411)である。と ころで,『資本論』の数種の英語版は,「Arbeitsverm6gen」を「capacity for labour」, 「Arbeitskraft」を「labour−power」と訳している。なお「labouring P.」は「Arbeits− kraftdと独訳される。 1 13)Kマルクス『賃金,価格,利潤1(「全集」⑯99∼154頁,Werke⑯, SS.103∼152) 参照。ちなみに,英語原稿の表題は『Value, price and profit』である。(MEGA (二)4・1,SS.385∼432.参照) 14)K.マルクス,『資本の流通過程』,大月書店(MEGA(二)4・1,SS.139∼381) 参照。 15)K.マルクス,『資本論綱要』,岩波書店,128頁(MEGA(二)4・1,S.56) 16) 同書,134頁(ibd., S.60) 17)同書,235頁(ibd., s.125) 1 18)同書,235頁(ibd., s.125) 19)同書,237頁(ibd., S.136)
10 彦根論叢 第250号 20) を使用し,その過渡的な執筆時期を暗示せしめている。 これらにたいし,『資本論』(第一部)〔初版〕(∼現行版)「貨幣の資本への 転化」の当該部分においては,「対象化された」対「生きた」の比較を廃し, 「Arbeitskraft」と「Arbeitsverm6gen」を並立し,「Fahigkeit」の用語も副 次的に利用しつつ,「潜在力」の狭義の用法に注意を集中しているのである。 そして,以降の全叙述は,「Arbeitskraft」一本に徹し,従前の草稿にまつわる 不整合を払拭せんかのごとくである。以下,現行版の叙述を列挙しておこう。 (a) 「ある商品の消費から価値を引き出すためには,われわれの貨幣所持者 は,価値の源泉であるという独特な性質をその使用価値そのものがもって いるような一商品を,つまりその現実の消費そのものが労働の対象化であ り,したがって価値創造であるような一商品を,うんよく流通部面のなか で,市場で,見つけ出さなければならないであろう。そして,貨幣所持者 は市場でこのような独自な商品に出会うのである。一労働能力または労働 ハ 力に。」 (b) 「われわれが,労働力または労働能力というのは,一人の人間の肉体す なわち生きている人格のうちに存在していて,彼がなんらかの使用価値を 生産するときにそのつど運動させる肉体的および精神的諸能力(Fahigkei一 ten)の総体のことである。」 〔c) 「しかし,貨幣所持者が市場で商品としての労働力に出会うためには, いろいろな条件がみたされていなければならない。商品交換は,それ自体 としては,それ自身の性質から生ずるもののほかにはどんな従属関係も含 んでいない。この前提の下で労働力が商品として市場に現れるごとができ るのは,ただ,それがそれ自身の所持者によって,それを自分の労働力と してもっている入によって,商品として売りに出されるかぎりでのことで 20) 同書,121∼308頁(ibd., SS.24∼130)参照。 21)K.マルクス,『資本論』第一部「資本の生産過程」第二編「貨幣の資本への転化」 第四章「貨幣の資本への転化」第三節「労働力の売買」(「全集』(23・1),219頁) (Werke, pmS.219) 22)同書,(219頁)(ibd., S.181)
労働力とその商品性格 11 あり,またそうされるからである。労働力の所持者が労働力を商品として 売るためには,彼は,労働力を自由に処分することができなければなら ず,したがって彼の労働能力(Arbeitsverm6gens),彼の一身(Person)の 自由な所有者(Eigentttmer)でなければならない。労働力の所持者と貨幣 所持者とは,市場で出会って互いに対等な商品所持者として関係を結ぶの であり,彼らの違いは,ただ,一方は買い手で他方は売り手だということ だけであって,両方とも法律上では平等な人(Personen)である。この関 係の持続は,労働力の所有者(Eigentumer)がつねにただ一定の時間を限 ってのみ労働力を売るということを必要とする。なぜならば,もし彼が それをひとまとめにして一度に売ってしまうならば,彼は自分自身(sich selbst)を売ることになり,彼は自由人から奴隷に,商品所持者(Warenbe・ sitzer)から商品になってしまうからである。彼が人(Person)として彼の 労働力にたいしてもつ関係は,つねに彼の所有物にたいする,したがって 彼自身の商品にたいする関係でなければならない。そして,そうでありう るのは,ただ,彼がいつでもただ一時的に,下定の期間を限って,彼の労 働力を買い手に用立て,その消費にまかせるだけで,したがって,ただ, 労働力を手放してもそれにたいする自分の所有権(Eigentum)は放棄しな いというかぎりでのことである。」 (d} 「貨幣所持者が労働力を市場で商品として見いだすための第二の本質的 な条件は,労働カ所持者(Besitzer)が自分の労働の対象化されている商品 を売ることができないで,ただ自分の生きている肉体(Leiblichkeit)のう ちにだけ存在する自分の労働力そのものを商品として売り出さなければな め らないということである。」 (e} 1「労働力の価値は,他のどの商品の価値とも同じに,この独自な商品の 生産に,したがってまた再生産に必要な労働時間によって規定されている。 それが価値であるかぎりでは,労働力そのものは,ただそれに対象化され 23)同書,219∼220頁(ibd., ss.181∼2) 24)同書,221頁(ibd., s.183)
12 彦根論叢第250号 、∫ている二定量の社会的平均労働を表わしているだけである。労働力は,た だ生きている個人(lndividuum)の素質として存在するだけである。した がって,労働力の生産は,この個人の存在を前提する。この個人の存在が 与えられていれば,労働力の生産は彼自身の再生産または維持である。自 分を維持するためには,この生きている個人はいくらかの量の生活手段を 必要とするdそこで,労働力の生産に必要な労働時間は,この生活手段の 、生産に必要な労働時間にな「ってしまう。言いかえれば,労働力の価値は, 労働力の所持者.(Besitzer)の維持のために必要な.生活手段の価値である。 だが,労働力は,ただ,その発揮によってのみ実現され,ただ労働におい てのみ実証さ、れる。しかし,その実証である労働によっては,人間の筋肉 や神経や脳などの一定量が支出されるのであって,それは再び補充されな 25) 、 ければならない。この支出の増加は収入の増加を条件.とする。」 ’{f}、「この(労働カー引用者)価値と引き換えに貨幣所持者のほうが受取る使 用価値は,現実の使用で(im wirklichen Verbrauch),すなわち,労働力の 、消費過程で(im K:onsumtionsprozess),はじめて現われる。」 かくのごとく,資本と労働力の交換は,取引市場に限定し,労働は「未来 の」労働として潜在的に凍結保存したうえで,その出現をあくまで資本の生産 過程での「現実の使用」に求めんとする処理は,これまでの不分明かつ不整合 な理論的難点を一挙に雲散霧消するものである。さらに併せて,その留別構成 も,’当核部分を実質的な「資本の生産過程」から切離し「第2章 貨幣の資本 への転化」として独立せしめ,理論的再編と平灰を合わせている。そのかぎり では,労働者が販売すべき唯一の商品が,かかる使用価値としての「能力」をも ち,さらに価値としての独自性を兼備するとしたマルクスのユニーク性は,高 く評価されるべきであろう。しかし,この解決は果たして読者への理論的最後 通告となるであろうか。マルクスには,使用’価値なる表現で,時に商品(使用 価値と価値の総合体)そのも、のを指すこともあるが,労働力は,商品体そのもの 25)同書,223∼4頁(ibd., SS.184∼5) 26)同書,230頁(ibd., S,189)
労働力「とその商品牲格 13 とは解しがたい。 いったいに,商品とは,まず,外的対象であり,物理学的・化学的属性の総 体であり,次いで,その諸属性のうち人間欲望と関係するもののみが有用性を もつものとして使用価値となる。そして,交換対象でもあるかぎり,価値とし ての社会的属性をも備えるであろう。,この総合体が商品なのである。このこと は,マルクス自身,説くところである。とすれば,わが労働者が売りさばく商 品も「使用価値と価値」の統一体プラスα(認商品総合体)としてのなにかで なければならないであろう。労働力は,このなにかの使用価値であらて,,この なにかそのものではない。しかし,このなにかを問いつめた暁には,ついには 人間生命体の壁につきあたるは必定である。マルクスが,その間の理論的断層 に無頓着であったとは思われないが,ありうべき蓋然的な理由の一つを強いて コ 挙げるなら,恐らく奴隷や隷農との区分に苦慮したからではないか。.かくて, 狭義の使用価値にそのまま広義の使用価値が代替・輸入され,労働力なる表現 で,使用価値と価値の総合体としての意義と単にその一面,使用価値としてめ 意味を二重写しとし,両者の関連を明確に区分しえなかった。しかし,それは 問題め真の解決ではなく,解明の単なる先送りにすぎな’い。噛
V
さて,一般に商品は,その本体の全属性の有用化と一体化するものではない。 その一部の属性(複数のことが多いが)のみが有用効果をもつことで十分その本 性を発揮するのである。残余の不用属性は中性化する。もちろん,不用属性は 27)マルクスは,賃労働者とそれ以前の生産者(奴隷,職人・徒弟,自営農民など)『乏 の相違を「支配・服従」の「形式」にあると考え,その形式の自由化の程度(「形式 は自由になる。(Die Form wird freier,)」)を区別のメルクマールとしている。かく して,その「生存(Existenz)」の自由皆無の「奴i隷」から手生存」の保証はえるも のの,なお複数の人間的(「政治」や広く「社会」にかかわる)能力に「制約」をう ける中聞段階をへて,ついに唯一の入間能力,労働機能の売りの強制のみを残す賃労 働者にいたるのである。(『資本論綱要』。岩波書店,195∼203頁,MEGA(二)4・ 1,SS.99∼104)かかる構想にたつならば,労働者の売却体は,自ずとその肉体の 一部に限定されざるをえない。 ・ 一 . ,114 彦根論叢第250号 技術の許すかぎり,原則的に,0を除く最小限に抑えられる。しかし,無機物 を除く生物などの有機体は,一意的に0カットである。そもそも,一全体とし ての生命に省略法は通用しないからである。そして,人間もその有機体の一種 なのである。かくして,人間が自己の生命体を全体としていかに処遇するかの 差異をもって,奴隷,隷農,賃労働者の区分を講ずるのほか,てだてはないと いってよい。つまり,奴隷は,その意思ともども生命体をまるごと他人の専制 下に一生涯任せるものであり,隷農は,生殺与奪の権利は留保しつつ,その意 思の半ばの自由を盾に生命体を他人の抑制下におくものである。それにたいし, わが賃労働者は,全面的な自由意思の確保のもと,時間ぎめでその生命体を用 途特定のうえ他人の占無下におくものである。 かくのごとく,労働者が売却すべき唯一の商品を労働機能以外の人間諸能 力の封印体すなわち「労働(生命)体」とするならば,まず,その使用価値 は,既にみたごとく,通常商晶と同列の全くの未使用と考えてよい。したがっ て,改めて可能性なる表現を特記する必要はないであろう。なぜなら,もとも と,資本と労働との交換そく生産終結直前までとの独特の理解が生みおとした 「Verm6gen」であったであろうからである。とはいえ,「Kraft」なる語は, 「Gegenstand」に対応する新規の対語と解するならば,その使用の不当をな らすは全くの筋違いである。次に,その価値である。マルクスのいう「一人の 人間の肉体」「生きている人格」こそが,正に売却本体そのものなのであるか ら,その生命体の一部の再生ではなく,その全体の再生が,価値をなす。労働 力が「飲み食い」して生命を維持するのではなく,人間が「飲み食い」して労 働力をも再生保持するのであって,むしろ「個人」の「生産」が「労働力」の 「存在」を「前提」するのである。「労働力の所持者の維持」は,「労働力」の みではなく他の人間諸機能の維持でもある。労働は,人間生命体の総合力の基 本ではあるが,その一つの特殊な表出にすぎない。人間は,生産的労働機能以 外,芸術創作,公務執行,研究教育,家事育児等々の行使体でもある。すなわ ち,一個人が,直接的な生産的労働表出体なるときは,その他の不:生産的労働 の隠匿体でもあるのである。わが賃労働者は,その自由裁量の下,労働の期限
労働力とその商品性格 15 つき占有使用を資本家に許諾するものであり,しかもその一種利用に限ること を確約するものである。労働生命体は,生きた生産手段である。「すべての生 きているものの生産」と同じくこの生命体の「再生産」はその「維持」である。 労役用動物も飼料をあてがわれ,その生命を維持持続する。それにたいし,人 間は,理性をもって,自ら自然との間の物質交代を通じて得た生産物の個入的 消費により生命の確保保全にあたる。労働者用の生活手段の価値が労働者の肉 体と別箇に労働生命体の価値をなすのではない。むしろ,その生活手段が消費 生活を介して労働者の血肉と化し,しかも,売却対象体として,かの生活手段 の価値を温存同化しているのである。自営業や資本家の購入する生活手段は, 転売なきかぎり,その購買直後に商品価値を失うが,労働者の購買する生活手 段は,文字どおりの物質交代を介しても商品価値を失わない。労働者が資本家 に労働市場で売りさばくのは,血色も新たな更生人体であり,生活手段の価値 29) の移植体である。狭義の生産手段が,人工的な変形変質こそすれ,外観上の再 生産であるのにたいし,独自な生産手段としての労働生命体は,同形・同質の 保持を公約とする,外観上の再生産(ただし,老廃は除く)を行うものである。 かくして,「労働生命体」は,商品本体そのものであり,一定の期間極めの, 特定使途「労働」に限局した特殊商品となる。「絵を画き,彫りものをする」 能力を備えた「人間生命体」を時間指定で売買するのでもなく,「税金とりた ての」専門知識に豊かな「人材」を生涯まるがかえするのでもないが,「人間 生命体」の自由意思にもとつく他人の支配下でのその一「機能」ないし一つの 「力」を内存した本体そのものの切売買をその本質とする。要するに,「古典 学派」の面々は,「労働」の潜在・顕化の二面の区別をせず,両者を混用した 28) 「労働能力の生産は,それがひとたび所与のものとして前提されれば,すべての生 きているものの生産がそうであるように,再生産,維持に帰着する。(Die Production des Arbeitsverm6gens, sobald es einmal als gegeben vorausgesetzt ist, lbst sich wie die Production alles Lebendigen in Reproduction auf, in Erhaltung.」(『資 本論草稿集』(4),大,月書店,61頁(MEGA(二)3・1,S.37)) 29)宇野弘蔵氏は,労働力商品は転売できない点に,その特殊性があるとされる(『経 済原論』青林書院新社,70頁)が,むしろその生活手段の消費を通しての労働生命体 の再生は,いわば変質せる生活手段としての労働生命体の転売とも解しえよう。売り そのものが「転売」なのである。
116 彦根論叢 第250号 が,マルクスは,「労働」機能とこれを内存する「本体」との区別を抹消し, 事実上の本体たる「労働生命体」を当該商品にとって「外的」なものとした点 で,「力ないし機能」と「本体」との混同を残している。したがって,例えば, 間接的ながら,「労働力商品」の「価値」とされる「生活手段」としての「商 品」の「価値」も,改めて労働者が購買すべき「商品」に含まれるものなのか それとも,すでに労働者が消費し,彼の血肉と化した商品に含まれている価値 なめか,判然としないのである。 結局のところ,賃労働者は,その自由な意思決定にもとづき,資本家との間 にその生命体の用途の一つを限定し,かつ特定の期間の占用のみを約定したう えで,その特殊な売却にふみきるのである。その点こそ,奴隷などとの明白な 境界をなすであろう。その価値は,かれの消費した生活手段の肉化のなかに内 存堆積しており,その使用価値は,「未来」の価値として生命本体に潜在し, かくて,・「現在」の価値としての進行形の労働を予告しているのである。 せんずるに,人間の一能力ないし一機能が,.たとい,その自由な処分を許容 3g) しうるどしても,その対象の五感的認識や肉体からの空間的分離は,なんとし ても至難である。また,そもそも複数の能力の総体としての人間は,霊長類と しての生物の頂点に位するとしても,最:狭義め生産,すなわち自らを含む生命 そのものの発生を人工化することはできない。せいぜい,その生命維持のため にする手段の人為化の行程を「生産」の名の借用で自足するしかないのである。 かくて,生命維持と生産とはいちおう区別され,人間はおろかその一機能とて も,もはや生産の名の又借は,門前払いとなるかにみえる。したがって,労働 者の生命体をその売却対象とすることは,労働力の実体性における争論からは t 30)労働力の対象化説は,実体概念としてであれ,関係概念としてであれ,そしてまた 真の実体としてにせよ,擬制の実体としてにせよ,一般的に公認ずみのようである。 . これらの諸見については,例えば,荒又重雄(『賃労働の展開』,お茶水書房,1978), 高橋洋児(共著『ブックレビュウ・批判精神』(2>,批評社,1986),平野厚生(『労働 力商品の基本問題』,高文堂,1984)などをみよ。
労働力とその商晶性格 17 一気に免訴されるとしても,その価値性格についての内容にはなお一考の余地 がある。この解決の緒口は,これまでの行論において示したごとく,労働生命 体の自由意思からの対象的事物化に求めることができる。この事物的生産手段 は,その個人的消費により,生命保持という目的を達成するのではなく,人間 と自然との物質交代としての労働過程実現の手段として,原料や物的労働手段 と同役の役柄を演じているのである。いわば,物的生産手段は,人間労働にも とづき,再生されるが,人的生産手段としての人聞生命体は,人間労働不在の まま,再生する。特殊歴史的な母斑を帯びた個人的消費は,その同じ生産的消 費と連結し,同化しているのである。